『歴史学研究』No213号

1957年11月

印刷用ページはこちら



歴史学の成果と課題3 現代 日本


表紙

古屋 哲夫

1


 いつも感じていることであるが、日本近代史の研究には、まだ方々に大きな空白が残されている。例えば大正史の貧困が時々色々な人から指摘されるが、比較的進んでいると言える明治史についてみても、20年代以後の研究は全く貧困だと言う他はない。そして特に政治史の分野でその貧困さが目立っているのは一体どういう訳なのか。それが研究の若さとか、資料の未整理等といった事情だけによるものならば、研究者の奮發を求めればすむことかもしれない 。しかし特に今ここで、こんなことを言い出したのは、その原因が、もっと深く「方法」の問題にかかわっていると考えたからである。即ち、問題は戦後の日本近代史学を指導して来たマルクス主義歴史学が、政治史分析の方法としては貧弱なものしか持合せていなかったという点にある。そしてこの点に関する批判が昭和史論争などで大きな反響をよびおこしたこと、そしてマルクス主義の側からも、井上清「現代史研究方法の問題点―史的唯物論者の反省」(思想57年5月)の様な鋭い自己批判が出されたことは、この年の大きな成果ということが出来よう。

  いわゆる昭和史論争の経過については、今更繰返す必要もあるまい。ここでは、その中から、歴史学の発展のために有効な2・3の論点をとり出してみたい。まず論争を提起した亀井勝一郎氏は、遠山茂樹・今井清一・藤原彰共著「昭和史」をとりあげ、それは、国民・指導者、或いは戦死者等の「人間」不在の歴史であると批判した(「現代歴史学への疑問」文藝春秋56.3)。そして氏は、 最近の史書に於て、人間の描写力・時代の雰囲気や国民感情の造型力等の貧困、「統計的意味での実證力だけが発達して、人間性についての実證力は衰弱している」と指摘している。これに対して遠山茂樹氏は、歴史の客観的批判的認識の立場=「あるべき前衛」の立場からの批判的認識を提示した(「現代史研究の問題点」中央公論56.6」)。しかし、ここでは氏が問題をどれ程「方法」の面でうけとめたか明らかではない。例えば公式主義的であるという批判に対して、氏は「現代史研究の困難さの前に、もっと謙虚であり、したがって史料の選択と批判、史実の確定にもっと慎重でなければならぬことを教示してくださったことをうけとりたい」と述べられている。つまり遠山氏は、 問題の重点を歴史学の方法よりもむしろ、歴史家の心構えの点に置かれていたようにみえる。 だが亀井氏の出された「人間」の問題は、他面で、政治学の側からの問題提起につらなっていく。即ち、意識や人格構造が具体的な歴史のなかで果した役割を、どう評価するかということである。そしてそれは、当然に人間の非合理的側面にふれてくる問題でもある。例えば松下圭一氏が指摘される様に「資本主義的社会関係から惹起される経済的・政治的失望感は、むしろ体制の内部に非合理的エネルギーとして蓄積されるにいたる」(「マルクス主義理論の二十世紀的繍換」中央公論57.3)とすれば、それは決して歴史の分析と無縁ではない筈である。「革命的傳統を探りあてる」ということは、戦後のマルクス主義史学が掲げた重要な問題意識の一つであった。それは勿論大切である。だがその反面で、天皇制が大衆の意識を把握した動態的過程が明らかにされないならば、歴史の実体は依然として闇の中につつまれているということになろう。そして、遠山氏の言われる反体制的前衛 の立場が、大衆の進歩的側面だけ把えるという缺点から免れるためには、 この様な問題が方法的に自覺されてれていなければならないのではないか。例えば太平洋戦争下の抵抗の個々の例を掘りおこそうとした藤谷俊雄氏が、戦争末期の状況について次の様に書かれているのはどうだろう。「支配階級が軍部の唱える本土決戦を極端に恐れたことは、それにもとづく民衆の蜂起を最も心配したのである。かれらはそれによって必ず革命が起るものと確信していた。わたくしはかれらの恐怖は真実だったと思う。日本の国民が武力抵抗に立ち上らなかったのは武力が支配者に独占されていたからである。決して日本の国民が腰ぬけであったからとは信じられない。(中略)このことは戦後展開された人民運動のしめしたエネルギ−がそのことを証明する」(「国民の抵抗」歴史学研究會・日本史研究會編「日本歴史講座」所收)ここには、前衛の立場からする国民への期待と、意識を把える方法の缺除とが無雑作に結びつけられている。尚、同様な抵抗の事例を掘り出したものに、家永三郎「太乎洋戦争下の思想的抵抗」(日本歴史56.2)があるが、そうした抵抗が、全体のファシズム化過程の中で占めた位置は、明確になっていない。 そしてそのことは、例えば丸山眞男氏 の次の様な問題提起が、歴史学の側で正しく受けとめられていないことを示しているのではないか。即ち「ファシズムに対する抵抗を困難にする要因はその暴力と残虐さにあるばかりでなく、むしろその強制的セメント化をまさに大衆の非理性的な激情の動員によって民主的擬装 の下に遂行し、『合意による支配』という近代的原理をいつしか『劃一性の支配』にすりかえる点にあるのである」。「大衆が自己の自由と權利の喪失を歓呼することはありえないという単純なオプティミズムは、ファシズム による『マスの制度化』の魔術の前にはもろくも崩壊するという事実こそ、われわれが最近の歴史から学んだ最大の教訓といえよう」(「ナショナリズム・軍国主義・ファシズム」『現代政治の思想と行動』下巻所收)




2


 ところで、昭和史論争にあらわれた公式主義批判は、 遠山氏の受けとられたのとは異なった側面を持っていた。即ちそれは、経済構造の分析が「無媒介的に、直線的に政治の世界の説明にもちこまれること」(篠原一「現代史の深さと重さ」世界56.12)、つまり丸山真男氏が「基底体制還元主義」「歴史的単線主義」と名づけたものへの批判であった(丸山真男「『スターリン批判』における政治の論理」前掲書所收)。まず「昭和史」と井上清・ 鈴木正四 「日本近代史」をとりあげた篠原氏は、そこに「政治過程」がえがかれていないことを指摘する。そして氏の言われる政治過程を次の様に説明される。「歴史の動きは一握りの政治家の恣意的決定によって起るものでもなければ、また下部構造の単なる反映でもない。 社会の深みから政治社会の頂点に向って働きかける諸勢力の葛藤の結果として、ある一定の『政策決定』が行われ、この政策はまた社会の深みにまで浸透し、その反応として新たな『政策決定』への動きが起るという、立体的な 螺旋的な循環の過程として現実の政治及び歴史は描かれる」。そして、「歴史の動きを直接的に決定する要因が『政策決定』にあり」、そして、この『政策決定』に対する直接的な影響力の強弱によって政治家の『権力』の多寡が決定されるが、このような政治家の持つ力、歴史における個人の役割は大衆の台頭した現代においても決して少くはない」と述べられている。この様な問題が、歴史認識の中でどの様に位置づけらるべきかは、今後に残された課題であるが、しかし少くともそれが、現在のマルクス主義史学の弱点をついていることだけは確かであろう。
勿論、今では、「政治過程」という用語自体は、マルクス主義史学にとっても、決して目新しいものではなくなっている。この年のものの中からも、岩井忠熊「日清戦争後の政治過程」(日本史研究32)、上杉重二郎「帝国主義成立期の政治過程」(「日本歴史講座」所收)をあげることが出来る。前者は、労働者・農民・地主・ブルジョアジー・天皇制官僚をとりあげ、又、後者はいわゆる桂園時代の絶対主義勢力と政党との政権をめぐる争いを中心に記述を進めている。そして両者とも、諸階級と絶対主義勢力及び政党との「関係」を追求してゆく。そして、その様な方法は、井上・鈴木『日本近代史』や、藤井松一「帝国主義の成立と日露戦争」(歴研大会報告「時代区分上の理論的諸問題」所収)にも共通している。しかしこの方法の共通にも拘らず、それぞれの分析結果がかなりの差異を示しているのはどういうわけか。それは、特に政党の問題を扱う際に著るしい。ここでは、井上・ 藤井氏等によって、絶対主義的天皇制から地主ブルジョア的天皇制への転換を示すものとして把えられた、政友会成立前後の問題をみよう。  

  まず両氏は、(1)この時期にみられた社会民主党の結成と治安警察法の制定を以て、階級関係の変化の表現とみる。(2)そして、政友会の成立と選挙法改正は、ブルジョアジーとプロレタリア一トの対立が、基本的階級対立になったという新しい段階に対応した、絶対主義勢力とブルジョア・地主との同盟関係の成立を意味するものとされた。更に、(3)この(1)と(2)との結びつきは次の様に説明されている。「プロレタリアートが歴史的必然性をもってブルジョアジーをおびやかしはじめたので、ブルジョアジーはこれをおさえつけ、奴隷的状態にしばりつけておくために、天皇制の専制に依存しないわけにはいかなかった」(「日本近代史」上)。(4)この様な分析の上で、相対的な独自性を持つ絶対主義勢力を中核とした、労働者・農民のブロックに対立する反動ブロックの支配体制の確立を結論され、それを地主・ブルジョア的天皇制と把握されている。これに封して岩井氏は、(1) の点を肯定しながら、当時のプロレタリア運動はまた明治国家を直接に脅威していないとのべ、(3)の論点は支持されていない。そして「日本近代史」が絶対主義勢力の指導を強調するのに対して、岩井氏はブルジョアジーのヘゲモニーを主張されている。即ち、氏によれば、日清戦後、直接に政治にタッチし始めたブルジョアジーは、政局の安定による強力な経済政策をめざして「藩閥官僚と政党を媒介」した。そして全体の見透しは次の様に記されている。「天皇制官僚は、かくて行政面での指導権を彼れの手にのこしえた。然し天皇制官僚は誰のために彼の指導権を行使していたのか。それはブルジョアジーのためであった。すくなくとも日清戦争後。第四次伊藤内閣までは、ブロック政權の中でのヘゲモニーは舞台の表に立たぬブルジョアジーにあった。然しブルジョアジーのヘゲモニーは、彼自身が政治の表舞台に立たぬことによる制限を免れなかったし、その限りでひ弱なものであった。だから桂内閣がたん生して強力に日露戦争を遂行すると、その過程で軍部の比重が高まり、ふたたび天皇制官僚のヘゲモニーが復活する。その時ブルジョアジーはもはやかげの演出者たるにとどまりえず表舞台に出て天皇制官僚と争う。明治四十年代から大正の政変にいたる政局がそれである」。しかしこの見透しに対しては,藤井氏の「絶対主義勢力とブルジョア地主との同盟を、帝国主義のためにより強く進めたものは桂太郎である(前掲論文)とする反対がある。そして更に、「日本近代史」の論点を全面的に否定して、ここでの問題を「単なる絶対主義的再編成」と把える藤村道生氏の発言(「時代区分上の理論的諸問題」近代の部討論)を加えると、これらの論稿から与えられる歴史像は、益々混乱の度を深める他はない。それは一体どういうことなのであろうか。




3


 従来のマルクス主義の側からの政治史の把握は、体制支配者と反体制的運動、特にその前衛との対抗に重点を置いた。従って研究の主たる努力は、両者の階級構成と具体的な対抗、特に反体制的な闘争の解明に向けられていた。この年の労作もこの様な下からの闘争を究明したものが最も多い。主なものとしては、庄司吉之助「米騒動の研究」(未来社)、松尾尊~「京都地方の米騒動」(人文学報6)、同「城南争議ノオト―大正末期における農民運動の激化の一事例―」(日本史研究27)、高田正規「寄生地主制と農民運動―興除農民運動の史的分析―」(歴史学研究194)、渡邊菊雄「明治四十四‐五年東京市電労働者の闘争」(歴史評論82)、上村恂夫「松本平における普通選挙運動成立の背景」(歴史評論 77‐8)、川村善二郎「初期社会主義」(前掲「日本歴史講座」5)、中塚明「労働者・農民運動の発展」(同上)等を挙げることが出来る。これに対して、体制支配者の動向を中心とするものは、前項にあげた上杉氏のものの他に、岡義武「原敬」(世界56.1),原田勝正「『政党政治』の崩壊―満州事変前後の政治過程を中心として―」、石井金一郎「日本ファシズム」(いずれも「日本歴史講座」6)等にとどまっている。そしてこの様な、いわば上からと下からの研究を総合して得られる政治史のイメージは、対制支配者と反体制運動とが弾圧と反抗によって描き出す平行線であり、それはそのまま、「日本近代史」とか、前島省三「日本ファシズムと議会」(法律文化社)といった概説書の構成をつくり上げていた。阿部真琴「普通選挙方と治安維持法」(「日本歴史講座」6) などもその一例と言えよう。そして昭和史論争その他にあらわれた批判は、主として、この平行線的政治史に向けられていたと言って過言ではない。では問題は何処にあるのか,端的に言えば、そこではまだ支配の実態とそれが貫徹される過程とが、全体として明らかにされていないということであろう。  

  勿論、従来の研究は、権力の側の弾圧と威嚇の歴史を実証して来た。しかしこれだけでは充分でない。何故なら、支配者の地位は常に被支配者の服従の自発性をよびおこし、吸收することによってしか安定しえないからであり、天皇制もこの例外ではなかったからである。

  そして、さきに一寸触れた議会や政党に対する分析の弱さも、この点と関係がある様に思われる。  

  例えば上杉氏は、明治30年代の政党について「政友会はプルジョア地主政党といわれるが、むしろその基盤、実体は地主層にあった」(前掲論文)と述べられているが、この様な政党の階級性の解明は、従来の研究の主眼であったと言えよう。これに対して「日本近代史」は、政友会成立後の政党について「政党は天皇制と地主・ブルジョアの同盟の一つのしくみとなった」としている。 これは先の「基盤・実体的把握に対して、機能を問題にしている点で確かに新しいと言える。しかし、「無産政党をも含めたわが国の政党」は、「天皇制体制の統合手段として、中間の補助手段にすぎなかった」とし、更に大正期以後、政党政治が大きく問題とされる事情について、「大胆に言えば、限定された機能であるにせよ『議会政治』の構造を必要としたことは、体制の危機に対する過渡的な反応とも考えられる。すなわち矛盾の深化、反体制的エネルギーの増大を、議会主議の機講を通じて体制にすいあげることが、この際の支配篭制の課題であったからに外ならない」とされている様な石田雄「いわゆる『政党政治』の構造」、(「近代日本政治構造の研究」所收・未来社)の問題提起は、従来のマルクス主義史学にみられなかった新しい視角を示している。そして、氏の論文集「近代日本政治構造の研究」は、従来の平行線的政治史を美事に克服していると言えよう。  

  まず石田氏は、政治の独自な構造を次の様に指摘する。「いわゆる階級的対抗が截然と行われているのではなく、支配体制の側と反体制の側との政治的組織化が交錯し、互に浸透しあっているというのが、まさに政治の世界の現実である」。そしてその政治の世界の法則性を追求するためには、「階級的対抗をも考慮しつつ体制の統合と、反体制の(乃至、体制になじまない、あるいはそれから逃避する)エネルギーとその組織力(それに対する政治的指導)とのダイナミックスを明らかにすることが必要」であるとされる。第一次護憲運動から普選運動を経て、ファシズム形成期に至る時期を、この様な方法によって解明した「いわゆる『政党政治』の構造」は、新しい政治史の試みとして高く評価されるべきであらう。そこにはサブ・リーダーとか、下からのエネルギーが政治化する過程の問題。或は、無産政党が、既成政党と区別した独自の存在理由を主張しようとすれば、大衆の欲求挫折をファシズム的方向に誘導する以外にはありえなかったという指摘等、今後検討さるべき問題が数多く出されている。尚、関連した問題では、前島省三氏が、従来の日本ファシズム研究は、社会ファシズムと「挙国一致」体制の意義を軽視しでいるという問題を出されている。しかし「わが国においては、挙国一致内閣は、ファシズムへのたんなる過渡的政権というよりは、より多くファッショ的政権として成立したところに意義があった」という指摘は、どうもよくわからない。  

  石田氏の他の論文は、主として上からの統合を解明することに力点が置かれた。特に天皇制の基底を共同体的秩序に見出した氏が、官僚制と共同体との接合剤として、天皇制的中間層の役割を分析されている点は注目に値する。そしてこの問題は、「公権力と村落共同体」(「日本の農村」第1部第2章・大島太郎執筆)という形で研究が進められている。今では、マルクス主義史学がつかって来た天皇制の社会的基礎とか、階級的基盤といった用語の意味も、もう一度再検討される必要があるのではないか。




4


 ところで、これまでに指摘した様な歴史学の混乱は、1956年の歴史学研究会大会に、最も集中的に見出された。ここでは「帝国主義の成立と日露戦争」をテーマとした藤井松一氏の報告に対して、問題は大体二つの点から出された。即ち、一は、日本帝国主義の成立は何時であり、又そのメルクマールは何かということ、一は日露戦争の性格をどう把えるかということである。まず藤井氏は(氏が執筆者の一人になっている)「日本近代史」の立場に立って、1900年を日本帝国主義成立の劃期とみる。即ち氏は「帝国主義そのものをただ経済的要因だけで規定することはできない」(前掲「大会報告」)とされ、独占の早熟な形成を指摘されつつも、主要な力点を国際的契機の問題に置かれた。つまり、義和団事件から日英同盟の成立の過程で、日本が「極東の憲兵」「世界最大の帝国主義国家の忠実な助手」の地位をかちえたことは、日本帝国主義の成立を意味するとされる。そして、それは次の様に要約できるだろう。「この時期には日本はイギリス帝国主義に従属して、独占資本主義の成立以前に帝国主義国となり、日露戦争を遂行し、そののち独占資本主義の段階には入る」(「日本近代史」下)。そして、先にあげた地主・ブルジョア的天皇制への移行は、ここでは、帝国主義的体制の確立と規定された。この様な問題提起に対して、藤村道生氏は多方面にわたった批判を出され、独自の見解を発表された(「大会報告」近代の部討論)。氏は先ず、国際的契機を重視する藤井氏に対して、国際情勢への対応の仕方を決定するのは、国内資本主義の発展段階と階級矛盾の性格であり、特に後者が重要であるとされ、そこから帝国主義の成立をとらえるメルクマールとして「階級闘争の激化」をあげる。従って、藤井氏等の1900年説は否定され、日露戦争が帝国主義成立の時点と評価された。そして氏はそこでのメルクマールとして、(1)戦争による超過利潤をブルジョアジーが非常に吸收した。(2)階級闘争の質的転換が起った。(3)明治42年の日糖事件において、ブルジョアジーの腐朽頽廃が明らかになった、という点を指摘している。  

  大会は藤井氏の報告と藤村氏の批判を軸として進行しているが、そこで特徴的なのは、従来多くみられた、帝国主義イコール独占資本主義という把握を克服することが、両氏の側から企てられたことである。しかし、そこでの政治と経済との綜合的把握はまだ充分に成功していない。即ち、藤井氏があげた早熟な独占形成と帝国主義的政治体制の確立は、国際的契機に対応した大陸侵略とどの様に結びついているのか、という問題は何ら説明されていない。 又、藤村氏のあげた三つのメルクマールの内的な関係も明らかではない。そして、そのことは帝国主義を独占資本主義と一応切りはなし、 その政治的側面を強調した時、逆に帝国主義の概念内容があいまいなものになってしまったことを示しているのではないか。他方ではすでに、「帝国主義をもっばら資本主義の特定段階と結合すること」に反対し、帝国主義や戦争を経済体制の必然的結果ではなく、むしろ経済外から経済の中に もちこまれた傾向、ないし現象として把えるべきだと言う主張もあるのであり(大野信三「現代史の課題としての帝国主義」歴史教育31.2)、帝国主義を歴史学にとって有効な概念とする仕事は、当面の課題になっていると言えるであろう。ここで当然考えられることは、帝国主義は対外侵略を除外して考えることは出来ないのであり、従って、対中国朝鮮政策の具体的解明が、これらの問題を前進させるために大きく役立つであろうことは疑をいれない。私もその点に若干触れておいたが(古屋哲夫「日本帝国主義の成立をめぐって」歴史学研究202)、 対大陸政策の時期区分さえ出来ていない現状は、この様な課題に対して著るしく立ちおくれているという外はない。

  次に日露戦争の性格の問題であるが、この点に関しても帝国主義戦争とみる藤井氏等の見解に対する批判が出された。即ち、下村富士男「日露戦争と滿州市場」(名古屋大学文学部研究論集14)、同「日露戦争について―満州市場―」歴史教育31.1)、藤村道生「日露戦争の性格によせて」(歴史学研究195)がそれである。まず下村氏は、当時の日本資本主義が満洲市場の独占を欲して戦争を起したのではないこと、即ち、当時の緊急の課題は韓国支配にあり、そのためにツァーリズムの満洲占領を排除するという軍事的要請が,戦争に導いたと主張される。続いて藤村氏は、この点をふまえながら、更に開戦前後にブルジョアジーが戦争を欲していなかった点を指摘して、次の様に戦争の性格を規定される。「日露戦争は日清戦争と同様、天皇制が主導性をもった絶対主義の戦争であった。それが当時の国際瓊境の下で帝国主義戦争の性格を強くもたされ」た、としている。これらの論稿が、日露戦争の際のブルジョアジーの興論に照明をあてたことは、従来の研究の空白を埋めるものと評価出来よう。しかしその場合、東洋経済新報のみを以てブルジョアジーの対外意見を代表させることには多くの難点があろう。叉、藤村氏の戦争の性格の二重把握には、権力の面、資本の面を機械的に切りはなしている点がありはしないか。この問題については、他に林茂編「現代史」(上)(毎日新聞) が、この戦争が防衛的な面を持ったことを指摘されている。しかしこれらの論稿を通じて言えることは、当時の対露政策が、切迫した可能性としての列強の中国分割への対応であったという、国際情勢の全体的文脈の中で把えられていないことであろう。この点に関する研究の深化なしには、日本の帝国主義化の問題点は具体的になって来ないのではないか。  

  日本の帝国主義政策に関する個別研究としては、他に荒井信一「第一次世界大戦と日本帝国主義―二十一箇條要求をめぐる日米関係(「日本歴史講座」6」、石井金一郎「『西原借款』の背景」(史学雑誌65の10)、石塚裕道「辛亥革命をめぐる板倉中の対華方針」(歴史評論75)等がある。この様な個別研究の必要なことは言うまでもないが、ここで一寸問題があるのは、石井氏が西原借款は、当時の過剰資本の輸出という面からでは把えられないことを指摘しながら、結局、それは日本帝国主義の要求であったと結論されている。しかし具体的な政策を離れて、日本帝国主義なる実体が存在するというのだろうか。この点、歴史認識の方法にかかわる問題があるのではなかろうか。  

  一体この「成果と課題」はどの様に書けばよいのか、私にはまだ充分の結論がない。しかし少くとも、文献目録のひきのばしの様なことをやってもあまり意味がない様に思われたので、この様に問題を識引にしぼってみた。勿論その反面、非常に多くの問題に触れることが出来なかったことをお詫びしなくてはならない。この年は、ここでとりあげた問題の他に、思想史の分野で多くの労作が出されている。その点をここでは全くとりあげることが出来なかったが、すでに松本三之介「思想史研究の動向」(思想57.9)、鈴木正「思想史研究の方法について」(歴史学研究209)等の整理が行われていることをお知らせしておきたい。現在、隣接科学、特に政治学や社会学の成果を大幅に摂取することが、歴史学、特に近代史学の前進のための緊急の課題になっているのではないだろうか。