自由民権おこって国家(くに)ほろぶ

1962年3月

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征韓論と民権論のくされ縁


 

古屋哲夫

声なき声
反政府運動
欧米化……
一冊の本が……
輸入された民権
自由は死せず
権力の道具

自由の思想
敗戦まで
強国日本への道
馬上の自由
五ヵ条の戒律
征韓論と民権論
国家の必要


 現在の自由民主党の源を歴史的にたどってゆくと、明治前半期の自由民権運動にぶつかる、もっとわかりやすい例をとれば、占領時代の首相吉田茂のおじいさんにあたる竹内綱は民権運動の歴史のなかに名をとどめている、というような関係である。つまり、今の自民党のおじさんが民権運動だと考えて頂けばよい。しかし、なんだ、明治の保守党のことか、と早合点されては困る。おじさんと孫とはやはり大変ちがう。現在の自民党が治安立法をつくって労働運動を弾圧しようとしたり、民衆よりも、大資本の利益のためを第一としているのにくらべると、民権運動はちょうど反対の立場にあった。




声なき声

 
明治政府の主流が岩倉、木戸、大久保、 伊藤、山県などの政治家によってうけつがれ、その中心の政策が「富国強兵」のスロ ーガンのもとに、民衆(その大部分は当時まだ農民であったが)から重い税金をとり立てて、近代的な軍隊をつくりあげる基礎 となる工業をこしらえることに一生けんめいであったのに対して、民衆の利益を政治に反映させるよう、国会をつくって民衆の声をあつめ、政府に勝手なまねをさせないようにしようという目的で始められたのが自由民権運動であった。

  だから民権運動は新聞紙条例、集会条例、保安条例などの治安立法によって弾圧される側であった。自由民権運動とは「人民の自由と人民の権利を主張する運動」という意味である。本当にそうだとすれば、それは欧米のブルジョア革命と同じような性質をもっていたということになるわけだ。しかし、よく考えてみると、封建時代が政治の機構としては解体したといっても、まだ社会全体としてみれば封建的な名残りがいたるところに残っているこの時代になぜそのような近代的な運動がおこったのか、という疑問がおこってくるのは当然だろう。だから今の自民党のロにする民主主義が、中味を十分吟味してみないとどんなものだかわからないのと同じように、民権運動の場合も「自由」だとか「民権」だとかという言葉で一体何を主張しようとしていたのかをみないと、本当の所はわからない。



反政府運動

 例えば戦前の右翼の大御所として知られた黒竜会の頭山満も、民権運動がはじまったころはその一員として活路していたことに象徴されるように、初期の民権運動には国粋主義的な、今の言葉でいえば右翼的な分子が多かった。だから一時民権運動の指導部のなかにいた内藤魯一がのちに回顧して次のようにいっているのも、たしかに運動のもつ一面をついているにちがいない。 「その頃の自由民権というのは、幕末の尊王攘夷の浪人気分に、佐倉宗五郎の百姓一揆の直訴気分を加味した反政府の運動であって、自由民権を旗印としていても、その言葉の内容はホントウに理解されていなかったし、またドウデモよかったのである。ただ権威に反抗して悲憤慷慨し、大言壮語して反政府の気勢をあおるのを快とする、剣舞でもするようなツモリの政治運動であったのだ」

  もちろん、すでに民権運動のころの情熱をなくし、そのころの思想から脱してしまった内藤が、若気のいたりであったといわんばかりに思い出しているのであるから、 この言葉をそのままに信ずるわけにはゆかない。単にこれだけのものにすぎなかったならば、歴史のなかに書きとどめられるほどの大きな運動になるわけがない。



欧米化……

 内藤は民権運動のなかに多くの青年の真剣な政治的情熱がそそぎ込まれていたことをすっかり忘れてしまっている。しかしさすがに運動の幹部であっただけに、民権運動が幕末の尊王攘夷の流れのなかから始まり、それが百姓一揆の流れと交わりながら発展したこと、したがって運動に参加した人々が、今の言葉でいえば「市民」という言葉であらわされるような人たちでなく、英雄豪けつを尊敬し、自ら英雄になろうという人々が中心になっていた、という点については本当のところをついている。民権運動のはじまりのころに、その後の右翼になる人々がはいっているのも、この尊王攘夷の伝統をうけついだ点からみれば当然で あった。

  しかし尊王攘夷の流れをくむ人々が、それとは全く水と油のような自由民権の主張を考え出したということはどう考えても理屈に合う話ではない。実際に、自由だの民権だのという主張は、その当時の人たちが自分の頭で考え出したことではなかった。つまり欧米から輸入された思想を、そのころの人々が自分なりに理解出来る範囲で利用することから民権運動は始まったのである。幕末維新の過程のなかで欧米の強力な力の基礎になっているのが近代文明であることがわかってく ると、日本もそれをとりいれなければ、独立を保ち発展してゆけなくなるという考えがすべての識者の頭を支配した。

  だから政府は次々と有為な青年を海外に派遣し、また外国から各分野の専門家を招いて顧問としたし、民間には西洋のことを紹介した本や、翻訳書が続々と出版された。

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 例えば明治3年には中村敬宇が訳したジョン・スチュアート・ミルの「自由之理」 が刊行されているし、その他西洋の政治の仕組をのべた加藤弘之の「立憲政体略」(慶応4年)「真政大意」(明治3年)あるいは西洋文化についての福沢諭吉の「西洋事情」(慶応2年)などが多くの人にむさぼり読まれた。

  これらの海外の先進国から輸入した思想のなかから「自由民権」の主張がつくりあげられるわけである。しかし、これらの本をよむ人たちは当時の基本的な教養として儒教思想を大切にしていた人たちなのだから、理解といっても限られたものになるのは当然たった。

  例えば、そのような士族出身者の多い民権運動の指導者のなかから、福島の豪商の息子で、比較的農民に近い立場にあった、河野広中という一人の人物の場合をとってみよう。彼は嘉永2年、つまりペリーが黒船をひきいてやって来る4年前に生れた。 そのころ彼の生家は落ち目になっていたとはいえ、呉服業、魚問屋、酒屋などを営む大きな商家だった。彼にちゃんとした先生をつけ、儒学を勉強させるだけの余裕はあった。だから戊辰戦争の際に彼の属する三春藩(いまの福島)が東北諸藩と共に官軍に抵抗した時には一かどの尊王家として、征討軍参謀の板垣退助との間に、自藩を降伏させるための交渉を行なったりしている。その後廃藩置県によって彼の郷里は磐前県となるのであるが、明治6年2月には彼は副戸長の職についた。若輩25識である。その時は県の下に区をおき、その下に町村があるという制度であり、区の長が戸長、 町村の長を御用掛と称した。彼が自由民権の思想に接したのは、ちょうど、この地方制度のなかの職についた時であった。



一冊の本が……

明治6年3月のある日、彼はウマにのって三春町の県の支庁に出かけたついでに、 前にあげた中村敬宇訳の「自由之理」を買い求めた。おそらく役人になった機会に新 しい知識を求める気になったのであろう。彼は早速、帰りの馬上でよみはじめると、それはこれまで漢学と国学の知識しかなかった彼に、大きな思想的なショックをあたえた。この一冊の本は若い河野の情熱をかきたたせた。「これまで漢学、国学で養われ、ややもすれば攘夷をも唱えた従来の思想が、一朝にして大革命を起 し、忠孝の道位を除いただけで、従来もっていた思想が木葉微塵の如く打くだかれ「人の自由」「人の権利」の重んずべきを知り、また広く民意に基いて政治を行わねばならぬと覚り、心に深い感銘をおぼえ、胸中深く自由民権の信条をえがく」に至った。

  河野がミルの翻訳書のどの部分にどのように感激したのかはわからない。とにかくその思想上の大革命も「忠孝の道」だけは破らなかったというのだから、彼がミルの自由論を忠孝と矛盾しないような形で理解したことは間違いない。しかし、ともかく彼はこの「思想革命」の結果として民会を開いた。



輸入された民権


 当時、制度化されたものではなかったが地方行政についての意見をきくために開かれる住民の代表の集会を民会とよんでおり、明治8年の地方官会議での議長木戸孝允の報告によると何らかの形の民会は20以上の府県で開かれていた。しかしその実体は地方「議会」ではなく、行政上の諮問機関にすぎなかった。つまり、その会の議決によって行政が行なわれるのではなく、行政官が意見を求める会、つまりその会の意見に従うかどうかは全く行政官の判断にゆだねられていた。また住民の代表といっても、そのえらび方は熊本で案として公選が考えられた以外には、行政の末端を担っている者(例えば村長のような地位のもの)を集めていたのが実際の姿であった。

  ミルの自由論で一大革命をおこしたという河野の場合にも、その民会は、区内の各町村御用係と町村総代を議員とし、大きな問題について協賛を得ようとする程度のものだった。とすれば、それは実際には「民の声は天の声」という儒教が教えている治者のあるべき態度についての考え方とたいして離れていないことがわかる。

  つまり欧米の政治思想がとなえている民の決めたことを行なうのが政府の役割だという考え方を、「人民の意見をききながら行なうのがよい政治だ」というように理解しているわけである。前の場合には政治のあり方をきめるのは人民だ、というのだが後の場合には、政治についての決定を行なうのはあくまでも権力者だと最初から決めあとは人民の意見をきくことが民権を尊重することだ、ということにおきかえられてしまっている。困ったことに、この場合には、民権の主張は忠孝の道と妥協了ることが出来るように彼は考えてうたがわなかっ た。

  しかしこのような弱点をもつにしろ、欧米の議会主義の思想を輸入したことによって、「民の声」を制度化しなければならない。そうしなければ常にそれを参考にするわけにはゆかないではないか、という考え方がめばえて来たことは大きな進歩であった。ここが民権運動の出発点だった。このように、民会が数多くもたれたことは、明治初期の数年間にすでにこのような動きが全国至るところにめばえ始めて来たことのあらわれで民権運動が育ってくる条件が出来つつあったということがいえる。河野の場合はその一つの例にすぎなかった。そして、民権論が忠孝の道と矛盾しない範囲で輸入されたということも、河野ばかりでなくこの時代の民権論全体の大きな特長でも あった。

  だがなぜ民権論が輸入されただけでなく、ゆがめられた形にせよ、その実現が問題となったのだろうか?

  先の内藤魯一の引用にみえているように、尊王の志士の流れをくむ人々が、十分理解しえなかったにもかかわらず、民権論の問題をとりあげ、チャンバラ的な活動の仕方しか出来なかったにもせよ、真剣にその実現を叫んだのは、どのような必要があったからなのであろうか?

  河野はこの点については何も語ってはい ない。



自由は死せず

 板垣退助といえば、自由党総理として全国を遊説中、岐阜で刺客におそわれ、傷つきながら「板垣死すとも自由は死せず」と叫んだという伝説で有名であるが、彼は自由民権運動をおこす最初の動機をつぎのように興味深く語っている。私たちは、しばらく、板垣のあとについて彼の行動を見守ってみよう。

  明治元年9月、板垣は五千の軍を従えた東北征討軍の参謀として会津に向かった。すでに4日には江戸明け渡しがおわり、5月には上野の山に(今の上野公園)たてこもった彰義隊の抵抗をやっと打破った官軍は、幕府のために最後の一戦を試みようとする東北諸藩連合との戦いに向かった敵の中心は雄藩として、また幕府の精鋭部隊としてきこえた会津藩であった。会津城を目の前にして板垣はこう考えた。会津の藩をあげての抵抗を考えれば、この城を攻め落すことは容易ではあるまい、しかも、寒さが来れば戦いは困難になるばかりだ、ひとつここは総力をあげ、急戦をいどむほかあるまい。

  だがいざ戦ってみると、思ったより容易に勝利を得ることが出来た。板垣は自分の目算のはずれたのは、ここでは藩をあげての抵抗がされると覚悟していたのに、武士以外の農工商民は、武士の戦いをたすけることなく、逃げ去ってしまったからだと考えた。

  もし本当に会津の民衆が力をあつめて武士をたすけたなら、こうたやすく勝つことは出来なかっただろう。彼は、民衆の支持のない武士の弱さをしみじみと身にしみて感じたのだった。この経験から彼は、武士だけにたよる政治ではとうてい国を強くすることは出来ないという厳しい教訓を得た。凱旋してきた彼は、明治5年の土佐藩の藩政改革に積極的に協力して、藩主の命をうけ、福岡孝弟と共に藩政改革の方向を示す布告文をつくり、そのなかでこの教訓を生かすことになった。それは、「人間が万物の霊長といわれるのは、他の生物にくらべて、すぐれた天性をもち、知識技能をもっているからであり、決して土農工商の身分制度があるためではない」という文章で書きはじめる。そしてその認識を前提として、これまで武士が独占して来た文武の責任を庶民にまで広げ、庶民、にも人間の貴重さを知らせ、その知識技能を伸ばすために、自主自由の権利をあたえねばならないと結んだ。



権力の道具

 ではその目的は「民の富強は即ち政府の富強、民の貧弱は即ち政府の貧弱」という言葉にはっきりあらわれているように、民衆の力を強め、政府に協力させることによって、政府より強力なものにしようということである。この板垣の考えた藩政改革によって、土佐には上下二院の藩議院が設けられた。といっても、布告文にみられるような人間の平等が制度化されたわけではない。

  上院は武士、下院は村役人のなかから議員をえらび、すでに経済的に没落しつつあった武士の政権を、民衆の力によって支えようとするものにほかならなかった。議会主義は、ここでも、民衆の要求によってではなく、権力を強めるための道具として考えられていることに注意しなければならない。

  だがこのような考え方は決して板垣だけのものではなかった。藩政改革が彼一人の力で出来るわけはない、という点から考えても当然、藩全体にそのような方向がみなぎっていたことが想像される。これと、同じような藩政改革への方向が多くの藩で準備されていた。それが単に土佐藩だけのものではなく、さらに全国的な、というよりは中央政府での必要にせまられた考え方であったということが出来る。

  ここで、日本が第二次大戦に敗れ、ポツダム宣言を受諾したころのことを思い出して欲しい。軍国主義の体制を解体して民主主義的な秩序を確立することを要求された、 日本政府の当局者たち、いやもっと広く新聞人、財界人、知識人など、革命をさけようとするあらゆる人々は、ロをそろえて近代日本は本来民主的であった、それが一時軍国主義によっておおわれただけだ、それが証拠には明治維新の際の「五ケ条の御誓文」を見よ、といかにしつようにくり返えしたことだったか。彼らの意図が戦争指導の直接の責任者だけを罰しさえすれぱ軍国主 義はなくなると強調し、自分たちの利益と古い体制を温存しようとする点にあったことは、もはやくり返すまでもあるまい。



自由の思想

 しかし同時にまた注意深く考えておかなくてはならないのは、民主主義を議会という形式的な制度の問題に限ってしまえば、 彼らの言い分に一理あることをみとめなければならないことだ。民主主義は制度の外形の問題ではなく、その果たしている役割の問題なのだということを見落してしまうと、彼らにいつのまにか同意しなければならないはめになってしまう。「五ヶ条の御誓文」というのは、明治元年3月14日、天皇が文武百官をひきいて天地神明に誓うという形で発表された5項目からなる政府の基本方針のことである。

 

一、

広く会議を興し、万機公論に決すべし

 

一、

上下心を一にして、盛に経綸を行ふべし

 

一、

官武一途、庶民に至る迄、各其志を遂げ、人心をして倦まざらしめんことを要す

 

一、

旧来の陋習を破り、天地の公道に基くべし

 

一、

知識を世界に求め、大に皇基を振起すべし


  つまり、第一条であげられているように会議制度ですべてのことを世論によって決めてゆくということを基本方針の第一にあげたのであった。しかもそれは単に言葉だけに終わったのではなかった。翌4月に出された政治機構を具体化した政体書では、太政官の下に立法、行政、司法の三権を分けるという三権分立の考え方をとり入れると共に「各府、各藩、各県、皆貢士を出し、議員とす。議事の制を立つるは、与論公議を執る所以なり」として議会制度をつくることを明らかにした。しかもその上「諸官4年を以て交代す、公選入札の法を用ふべし」との項目があり、ここでは公選入札―つまり選挙によって官吏をえらぶという考え方が示されたのであった。そして実際に12月には公議所がつくられ、翌2年3月には各藩1人の代表たちによる会議が開かれているし、5月には、実際に輔相、議定、参与などの高官の公選が行われた。今の制度とくらべるのは無理であるが、おおよその見当としては輔相は総理大臣、議定は大局に立って方針を立てる大臣、参与はより具体的な執行方針にかかわる大臣とでもいったほうがいいだろう。だから今の大臣とは若干異なり各省の長官は、参与の下に知事という名で別におかれている。知事とはこのころは長官という意味で使われていた。



敗戦まで

 しかしこの大臣公選は、現在一部で唱えられているような首相公選論などとくらべられるようなものではない。公選と言ってみても政府部内での選挙であり、選挙権のあるものは三等官以上の者(勅任官)である。今にたとえていえば、各省の次官、局長や県知事などが集まって大臣以下の長官を選挙するわけである。しかも被選挙資格も輔相、議定は公卿諸侯と決まっているのに参与は制限がないという奇妙なものである。ではなぜこのようなことが行なわれたのであろうか、しかも公選はこのとき一回限りであり、また各藩代表による会議も、めまぐるしい官制改革のなかで急速にその姿を消してしまう。

 この点について官吏公選を推進した大久保は次のように主張している。「政府の基礎を強固なものにするためには、先ず適材を適所に用い、情実にとらわれて人のために官をつくるようなことをやめなければならない。この目的のためには官吏公選を行なうのがよい。しかもそれは輔相、議定から始めるべきだ」簡単にいってしまえば、派閥や情実など能力以外の理由でもって役人になったり、また役人にするために用もない官職をつくることをやめるためには、選挙を行なうのが一番よいということである。この考え方はなるほどもっともであり、進歩的である。だがそれが一回限りでかえりみられなくなってしまうのはなぜだろうか?

 尊王攘夷は尊王倒幕にかわり、目的通りに幕府を倒すことが出来たが、それは倒幕の指導者たちにとって出発点の第一歩にすぎなかった。彼らは欧米のような強国になるためには、幕府などというものがあっては駄目だと考えたのであるが、その目的を実現するためには、ただ幕府を倒すだけでなく、それにかわる、もっと強固な政治組織をつくりあげる必要がある。もしそれが成功しなければ、日本は強国となりえないし、もっと直接には彼ら自身が他の勢力によって倒されてしまうにちがいない。もちろんそれはあらゆる政治争いについてあてはまる問題であるが、とくに明治維新の場合には、幕府を倒したのが、封建制度に全く利益をうけない階級ではなく、封建制度の支配階級である武士を中心につくられた勢力であったこと、しかも彼らは豪農までふくむ全国的な独自の結合を軸にしてはいたが、実際に幕府を倒すためには各自の藩を動かし、藩の力を利用しなくてはならなかった。幕府を倒したとはいえ、彼らの力はまだ弱く、不安定なものにすぎなかった。



強国日本への道

 明治政府が出来たけれども、実際に人民を直接支配しているのは藩であり、倒幕の指導者たちも藩にかえればまだ藩主の家臣であり、藩主の力がよわくなったとはいえその言い分を頭から無視してかかるわけにゆかなかった。だから明治新政府を維持するためには、まず実際に人民を支配してい る藩の支持と協力を必要としたし、さらに次の発展のためには、維新の実際の指導者たちを藩主の束縛からときはなし、藩という制度をつぶして人民を直接に支配することを考えねばならなかった。いや人民を支配するだけでなく、人民の支持をかちとらなくてはならなかった。藩によって横に、つまり地域的に、身分は縦に、つまり士農工商といった具合に、仕切られている封建制度から、その仕切りをとりのぞき、全国を統一的に支配し、人民をひとしく臣民につくりかえることが、強国日本をつくりあげる道と考えられたのであった。

  議会制度は、このような強国をつくる目的のために利用されたわけである。藩の代表をあつめて、その意見が政治に反映されるような形をとることは、出来たばかりの新政府に対する藩の支持を得るためだった。と同時に、高官の公選は、倒幕運動の指導者に実権をもたせる 意味をもっていた。だからこの二つは、一方が藩を前提としているのに、他方は藩のわくから指導者を解放しようという矛盾した性質をもっていた。この矛盾した二つの課題をつなぎ合わすためにとられたのが公選の際に、輔相、議定、知事など、つまり各機構の長を公卿、藩主という家柄のものに限り、副長官といった格の参与、副知事などを実際の倒幕の実力者をすわらせるために家柄による制限をやめるという巧妙なやり方だった。公卿、藩主を表面ではたてまつりながら、実権は自分たちで握ろうというのがこの公選を推進した人々の目的であった。次の当選者の顔ぶれをみればこの目的がほぽ達せられたことがわかる。

 

(輔 相)

三条実美議定、岩倉具視、徳大寺実則、鍋島直正

 

(参 与)

東久世通禧、木戸孝允、大久保利通  後藤象二郎、副島種臣、板垣退助


  その他、主なところでは、

 

(会計官)

知事 万野小路博房、 

(副)大隈重信
 

(軍務官)

知事 嘉彰親王、    

(副)大村益次郎
 

(外国官)

知事 伊達宗城     

(副)寺島宗則


といったところである。参与、副知事などにのちに明治政治史に忘れることの出来ない名前が、ずらりとならんでいることに注意してほしい。



馬上の自由

 官吏公選が、明治2年の1回だけで終ったのは、ここで幕府を倒した実力者がいよ いよ政府の実権を握る体制が確立したからであり、以後、公選をつづければせっかく確立した体制がくずれてしまうおそれがあったからである彼らがこの体制で行なおうとしたのは、藩制度、身分制度を解体することであり、もし議会制度、官吏公選の制度をつづけてゆけば、解体される藩主、武士層の不満がこの制度のなかにもち込まれ、封建制解体の政策をさまたげることは明らかであった。明治4年、廃藩置県が成功するや、明治政府にとって議会制度など古着でも捨てるようにかえりみられなくなるのである。

  輸入された議会制度は、欧米におけるよ うな民衆による権力の制限のための制度としてではなく、強力な国家をつくるための道具として利用され、利用価値がなくなったときすてられてしまった。しかしその意図がどうあったにしろ、どんな内容であったにしろ、一時でも議会選挙の形式が、中央政府でとりあげられたことは、民衆に議会主義についての関心をよびおこし、輸入される欧米政治思想の理解の手がかりをあたえるという結果を生んだ。馬上で「自由之理」をよむ河野の姿は、こうした全体の流れの中の1コマにほかならなかった。



五ヵ条の戒律

 明治政府によって利用され、捨てられた議会主義は今度は在野の反政府運動の武器としてひろいあげられることになった。そしてはじめて、民衆の要求を政治に反映させる制度としての側面が強調されるようになる。つまり議会主義ははじめて「民権」論という形で主張されるようになった。しかし、そうはいっても、前にのべたような、国家を強めるための制度という考え方を克服したのではなかった。むしろここでも、国家を強め発展させるためには、民権を尊重することが必要なのだということが大前提となっているのである。まず人民があって、その人民の利益になるようにすべてを決めてゆくというのではなく、反対にまず 国家があり、それを強め発展させる一つの方法として人民の意思を政治に反映させることが考えられている。だから逆にいえば国家にとって必要とあれば、民権などおさえてしまってもかまわないということになる。民権運動の子にあたる政友会や民政党が大正後期から昭和のはじめにかけて政党全盛時代をつくりながら、たちまちのうちにファシズムの波におい落され、翼賛議会のなかにはまり込んでしまったのは、このような「国家の必要」を民権に優位させる考え方が克服されることなべつづいていたからである。

  このような国家のための民権論では、その関心が議会という制度の問題に限られてしまったのも当然だろう。当時、欧米文化について最も深い理解を示していた福沢諭吉が、明治20年に書いた「私権論」という論文のなかで、西洋諸国の人民は自分の生活と結びついた個人的権利、私権(個人の権利)の大切であることをさとり、これを守るために政治的権利を求めたのであるが、日本の場合には、まだ私権論がおこらないうちからにわかに政権論が盛んになった、と述べているのは、民権運動に対する適切な批評であった。たしかに議会制度は、民衆の利益を守るためのすぐれた制度であるが、だからといって制度が出来たからすぐ民衆の利益が守れるわけではない。お互いに相手を人間として尊重し合い、同時に、また自分の利益は堂々と主張するという行動の仕方が社会全般にゆきわたっていなければ、議会制度は民衆の利益になるように運営されはしない。「役人」が普通の人間より偉いと思ったり、職務上の上役には、職務をはなれてまでペコペコするような態度があたり前とされていては、議会も骨抜きになってしまう。こうした点からいえば、民権運動は、議会制度の要求と一緒に基本的人権を確立するための活動をしなければならなかったはずであるが、この点の重要さは十分意識されることがなかった。それは日本の民権運動の最初からある弱点が克服されなかったためであった。

  民権運動がはじまったのは、維新の指導者とちがった階層が政治的な勢力として頭をもちあげて来たからではない。倒幕運動には国学を学んだ農民や商人が参加していたが、それは武士の活動をたすけるという程度をこえるものではなかった。この関係は維新後も急には変化してこない。だから例えば農民が自分の農業の利益のために直接に手をにぎり政治的に活動するような動 きがあったから、政府を批判する民権運動がおこったのではない。

  明治政府の指導者の間の仲間われがその出発点となっているのである。

  しかし征韓論をめぐる閣議の分裂のとき、韓国をやっつけてしまえと主張した征韓派が、その主張が通らないというので野に下り、民撰議院を設立せよという建白書を出し、これが民権運動の出発点となるという経過はいかにも奇妙で理解しにくい。人間には天からあたえられた奪うべからざる権利があり、この権利を尊重しなければならない、という民権論の主張からすれば、朝鮮の人民も同じ人間なのだからその権利と生活をも尊重しなければならないはずである。

  しかもその征韓論の中心は、明治政府の中では最も封建的な思想の持主である西郷隆盛なのであり、昨日まで封建派西郷と手を握って征韓論を主張していた人々が明日は民権派に早変わりするのは一体どういう わけなのだろうか。

  征韓論を主張して参議(今の大臣)を辞職したのは、西郷隆盛をはじめ、板垣退助、後藤象二郎、副島種臣、江藤新平の5人であり、そののち西郷をのぞいた4人が建白書に署名している。しかもこのうち、副島は政治家というより儒学者というほうがふさわしい人物であり、平生は君主専制主義を口にしていた人物だ。だから彼が民権論に関係したのはこのときの署名だけで、しかもその署名も政府反対の意思表示の目的の方が強く、その内容にどの程度賛成であったのか疑問である。その点江藤は欧米の法律に詳しく、副島よりは、欧米文化に接することは多かったにちがいないが、しかし、建白書提出(明治7年1月18日)の直後に、郷里の佐賀で攘夷主義封建主義の士族たちがさわぎ始めると早速帰郷し、2月から3月にかけて彼らが反乱をおこした時にはその頭領となっていた。そして捕えられて死刑になってしまう。その行動からみても彼が民権論をどの程度理解していたのかわからなくなってくる。だからこの2人が建白書を提出することに賛成しただけで、その起草に積極的に参加していないのは当然といえる。しかし副島や江藤は決してこの初期の民権運動の異分子なのではなく、運動に参加した人々のうちの多くは彼らのような人間なのであった。ではなぜ、民権運動に彼らのような攘夷主義者、封建主義者とよんだ方がふさわしいような人々参加してくるのであろうか。



征韓論と民権論

 征韓論に敗れたとき、民撰議院、つまり国会の設置を要求する運動をはじめようと考えついたのは板垣だった。彼はまず、彼と行動を共にして辞職(軍人)した子分格の片同健吉と林有造に国会を要求する建白をつくるようすすめた。しかし2人は、そのようたことはもっと名望のある人がやらなくてはだめだといって辞退するので、では自分でやろうという気になった板垣は後藤象二郎に相談した、後藤は維新の際に、徳川家までふくめた藩主の議会をつくって事態を解決したほどの経歴の持主だから、何か名案があるかもしれないと思ったのであろう。後藤はイギリスに行って議会についての知識を仕人れて来た古沢滋、小室信夫の2人を板垣に紹介し、結局この2人に建白書を起草させ副島、江藤をもくどいて賛成させたのである。

  ところで建白書の署名者は参議をやめた4人に、この古沢、小室、それから東京府知事をやめた由利公正、大蔵大丞だった岡本健三郎が加わり、全部で8名となった。このうちとくに注目をひくのは由利公正がさきの「五箇条の御誓文」起草者の1人だったことである。それは国会開設の要求が、「五箇条の御誓文」を根拠としていることの象徴といってもよかった。以後の運動のなかで、くり返し提出される国会開設要求の建自書や請願書に一貫しているのは、御誓文にいわれている「万機公論に決す」るためにはどうしても国会が必要ではないか、という考え方である。そのことは、さきに指摘した、国会を国家を強めるための制度、つまり一つの方法とする考え方をうけついでいること、そして同時にその国家の中心としての天皇の権威を無条件で承認してしまっているとを示していた。民権論という言葉から想像されるような人民の権利→人民主体という考え方は、この枠をとり去らなければ成立することが出来ない。しかし、あとに発展する運動のなかでも、この 天皇中心の国家の発展を第一におくということについては、疑問すらもたれないのが大勢であり、敗戦の際に御誓文がもち出されるところまでつづくのである。



国家の必要


 征韓論をとなえた人が、すぐ民権論をとなえても何ら矛盾を感じないでいられるのは、この国家の強化を第一に考えているからにほかならない。国家を強めるためには、民権を主張し国会を要求することも一つの方法であるが、海外に領土を広めることも有力な方法だというようにならべて考えられている。だから情勢に応して、ある場合には、民権の主張を正面に出すかと思えば、他の場合には海外への膨張論を表面に出してくるという使い分けが可能になってくるのである。

  例えば少し時代はあとになるが、自由民権の実現に全力を傾けようと決意していた若き日の国木田独歩をとってみよう。彼は自由平等の理想の実現のために一時、自由党の機関紙の編集にたずさわるのであるが(明治26年)、すでに派閥関係によって腐敗の面があらわになっていた政党に失望 して、人類の真の歴史は山林や海浜の小民のなかにあると考えて田舎にかえり、文学者を志すようになった。しかし翌明治27年、日清戦争の報をきくや、彼の血はまたおどり始めるのであった。彼は友人にあて次のように書いている。「朝鮮の風雲、支那のカラ意張り、面白い哉。伊藤内閣しくじる時は藩閥政府の最後。甘くやれば日本の、対外的光栄、ドチラデモ余り損は行かぬ事に侯」つまり「戦争もやるべし、大改革もやるべし、何もかもどしどしやるべし」ということになるのである。彼は再び上京し、自ら従軍記者を志願して軍艦にのり込んでいった。

  このような独歩の思想と行動は、彼の民権についての理解が浅かったからおこったのではない。

  ルソーの「民約論」の翻訳者として有名であり、民権運動における最高の理論家の一人である中江兆民も、独歩と全く同じ論理で、戦争に訴えてもロシアの満州進出を 許すなと主張する国民同盟会に加入してゆく(明治33年)。彼の弟子で、のち社会主義者として日露戦争の際に反戦論を主張するようになる幸徳秋水は、このとき師の兆民に対して、そのような帝国主義の団体にはいることは、先生のこれまでの自由平等の主張と矛盾するのではないかとつめよった。

  しかし兆民は笑って、ロシアと戦って勝てば日本が大陸に足場を得て東洋の平和につくすことが出来るようになる。また敗ければ藩閥を一掃して大改革を行なう好機となるではないか、と答えたという。

  征韓論と民権論が仲よく同居している板垣の頭の中では、民権運動のなかではついに根本的に克服されることができなかったばかりでなく、現在の自民党にまで流れ込んでいるようである。一方では民主主義を 形式的な制度や手続きの問題に限ってしまい、他方では、韓国の軍事独裁政権と手を握ろうとする現在の自民党のなかには、民権運動のなかの悪い伝統だけがよみがえり りつあるようにみえる。