『人物・日本の歴史』11 

1966年1月

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陸奥 宗光


古屋 哲夫

1戦争の口実をつくる
2条約改正と日清戦争

3藩閥・政党・政治技術
4三国干渉

1戦争の口実をつくる
東学農民の反乱
敵は清国
朝鮮は清国の属邦にあらず
朝鮮内政改革
戦の口実を作るべし


1戦争の口実をつくる



東学農民の反乱

 明治27年(1894)6月10日午前3時、まだ真夜中だというのに、仁川の日本領事館前には、400人の海軍陸戦隊が集合した。豪雨が前日から降りつづいていた。駐朝鮮公使、大鳥圭介は、この陸戦隊をひきいて出発、午後6時45分ぬかるみを行軍して、京城(現在のソウル)の日本公使館に到着した。この行軍は、日本軍が日清戦争に向かってふみ出した第一歩であったが、大鳥はこのときまだそれに気づいてはいなかった。

  5月5日いらい、休暇を取って帰国していた大鳥は、6月4日陸奥宗光外相から、至急帰任するように命じられた。東学道徒の全臻準にひきいられた農民反乱(いわゆる東学党の乱)は、5月31日、南朝鮮の要衝全州を占領、あわてた朝鮮国王は6月1日、深刻に鎮圧のための出兵を要請したというニュースが伝えられていた。大鳥は軍艦「八重山」で仁川に着くと、そこには、陸戦隊組織を命じられた「松島」「千代田」などの軍艦が先着していた。彼は日本公使館と居留民保護のため、この陸戦隊をひきいて京城に急行せよと命令されていたのである。旧幕府の武将として、戊辰戦争では東北から北海道の五稜郭と最後まで抗戦した経験をもつ大鳥は、混乱のさなかに飛び込む武将の気構えを思い起こしながら、雨中の行軍をつづけたにちがいない。しかし京城は彼の予想に反して平穏であった。

  清国軍は、大鳥より一足先に6月8日牙山に上陸を開始し、12日までに1500人の上陸を終わったが、反乱討伐に向かおうとはしなかった。実際、反乱のほうも、6月11日には、全州城を開いて逃走し、道主の指令で集合した道徒たちも、14日には解散、鎮静にいたった。この反乱は、日本では「東学党の乱」とよばれているが、実際には虐政に耐えかねた農民反乱を東学道徒が指導したという性格のものであった。東学道というのはキリスト教などの西欧文化、西学に対抗し、民間信仰を基礎に東洋的な諸学をとり入れたものであった。



敵は清国

 大鳥公使が京城に帰任した翌日、朝鮮政府は日本軍派兵の必要はないではないかとの抗議をくりかえした。大鳥は面くらった。すぐにつづいて大島昌義少将指揮の下に1個旅団8千人の兵が送られてくるのを知っていた大鳥は、この平穏な京城にそんな大部隊がはいっては、むしろ事態が混乱すると考えた。彼はさっそく、陸奧外相に後続部隊派遣の中止を要請する電報を打った。また、6月11、12日の両日、清国代表として京城に駐在していた袁世凱と会談した大鳥は、清国側が日本とともに撤兵したいと望んでいることを知り、撤兵について話し合った。

  このような大鳥の態度は、陸奥外相にとっては不可解であり、憤激させるものであった。陸奥としては、東学道徒の反乱そのものよりも、むしろ問題は、清国の出兵であり、この機会に朝鮮政府に圧倒的な影響力をもつ清国の力を打ち破ることであった。

  日本が出兵を決定したのは、6月2日の閣議であるが、この席上陸奥が示したのは、京城の杉村濬代理公使からの短い電報であった。「全州ハ昨日賊軍ノ占有ニ帰シタリ、袁世凱曰ク朝鮮政府ハ清国ノ援兵ヲ請ヒタリト」(6月1日京城発)。この電文から、朝鮮の日本公使館や居留民がどの程度の保護を必要としているかなどわかるわけはない。杉村からの報告も、東学反乱をそれほど重大なものとはしていなかった。重要なのは後半の清国出兵である。

  このとき、すでに陸軍は戦争を決意していた。明治17年(1884)の甲申事変(第ニ次京城事件、80ページ)で朝鮮に親日政権をつくろうとするクーデターが清国軍の反撃で失敗し、逆に清国の支配力が強まっていらい、清国を仮想敵国とする軍備拡充が行われてきた。とくに陸軍では、参謀本部次長川上操六中将を中心にした対清主戦論の力が強まっていた。川上は、軍独自の情報収集につとめ、また明治26年にはみずから清国から朝鮮を視察して、日本の軍事的優位を確信していた。東学反乱に対しても、軍独自の調査員を送り、その情報にもとづいて、出兵の必要を内閣にふきこんでいた。

  軍部の戦争への決意を端的に示しているのは、6月5日動員令をくだすと同時に、大本営を参謀本部内に設置したことであろう。つまり、1個旅団の派兵だけでは、大本営設置の必要はないのであり、これにつづく大兵力の動員が最初から予期されていたわけである。とくに、出兵決定後の陸奥外相は、軍部の意図を実現させるために平穏に帰した朝鮮の状況のなかから、いかにして戦争の口実をつくりあげるかに苦心することになるのである。



朝鮮は清国の属邦にあらず

 まず陸奥は、出兵の根拠を明治15年(1882)の壬午事変(第一次京城事件、80ページ)の善後措置として結ばれた済物浦条約に求めた。この条約で日本は、日本公使館を護衛するため「兵員若干ヲ置」く権利を得ていた。この権利によって1混成旅団を派遣するというのであるが、この「兵員若干」が8千人というのは、いかにも非常識で乱暴な解釈であることはいうまでもない。日本側の苦しい出兵の理由づけに対して、清国側は朝鮮政府からの要請に応じることを理由にしていた。同時にまた、清国は朝鮮を属国としており、実際にも中朝商民水陸貿易章程などにより、他国に優越する特権をもっていた。したがって清国側は、「斥倭洋倡義」をとなえる東学道徒の乱から、列国の利益を守るのは宗主国としての清国の任務だと考えていた。東学反乱による朝鮮政府の要請にしたがい、属邦保護の旧例によって出兵する旨、日本政府に通知した。これに対して陸奥は、日本は、朝鮮を清国の属国とはみとめていないと抗議したが、この問題は、この当時の日清間の大きな争点となっていた問題であった。



朝鮮内政改革

 しかし、それはすぐそのまま開戦の口実に使えるものではなかった。朝鮮政府自体が清国の属国だとみとめていたのでは、日本が介入する余地はない。そこで考え出されたのが「朝鮮内政改革」を提議するという方策であった。

  陸奥は、出兵直後からこの問題にとりくまなければならなかった。「京城目下ノ形勢ニテハ、過多ノ兵士進入ニ対スル正当ノ理由ナキヲ恐ル」と打電(6月12日)してくる大鳥公使に、なんらかの積極的な方策を与えようとした陸奥は、伊藤首相と協議した。その結果、6月14日の閣議に伊藤は1案を提出した。

  それは清国につぎのような提案をするというものであった。第1に、日清両国は共同して東学反乱の討伐にあたること、第2に反乱鎮定後に、日清両国より常設委員若干名を派遣して、朝鮮の内政改革にあたることとし、第3に、内政改革の内容として、財政・行政の調査・整備、治安維持のための警備隊創設、公債による起業などを提案するものであった。

  伊藤首相の提案は閣議で了承されたが、陸奥は、なお1日の猶予を求め、翌日の閣議で陸奥は、伊藤の提案に2つの条件をつけた。

  第1はこの案をめぐる清国との交渉がどうなろうとも、その結果をみるまでは、けっして撤兵しないというのであり、第2には、この案を清国が断ったときは、日本が独力で朝鮮内政改革にあたるというのであった。陸奥は、この提案が清国にことわられることを予想したし、そうなってくれることを望んでいた。

  こうした日本の朝鮮共同改革の提案に対して、清国は、陸奥の予想どおり、6月21日全面的に拒絶してきた。清国の言い分は、事態が平静に帰した以上、あくまで撤兵が先決だとした。また、内政改革については、清国は朝鮮の内政に干渉する気はないこと、まして、朝鮮を独立国と称している日本に内政干渉の権利はないと反駁した。そして清国軍事力にじゅうぶんの自信がなく、戦争を避けることをのぞんだ李鴻章は、日本案拒否と同時に、列強に調停を依頼する工作をも開始していた。

  日本側はこの清国の拒絶を好機として、すぐさま増兵を実施した。さきに大鳥公使の要請により、仁川にとどまっていた4千の部隊は23日京城に進み、出発を延期していた混成旅団後続部隊は、27日8隻の輸送船をつらねて仁川にはいり、翌日上陸を終わった。日本軍はこれで、牙山の清国軍の3倍に達したとみられた。



開戦の口実を作るべし

 後続部隊と同時に、陸奥の新しい訓令ももたらされた。「今日ノ形勢ニテハ行掛上開戦ハ避クベカラズ、依テ曲ヲ我ニ負ハザル限リハ、如何ナル手段ニテモ執リ、開戦ノ口実ヲ作ルベシ」と(6月27日)。しかしそれは、いますぐにでも戦争をはじめようというものではなかった。28日発の回訓は「聶ノ布告ニアル属国ニ字ヲ撤去セシメヨ、乍去在牙山ノ清兵退去セシムルコトハ、現下ノ政略ニ背ク、故ニ朝鮮政府ノ聴従スルト否トニ関セズ、加藤(27日の訓令を持参した外務書記官)ノ到着次第内政改革問題ヲ提議セヨ」と述べている。文中「聶ノ布告」とは、牙山の清国軍事指令官聶士成が、出兵理由を属国保護のため、と布告したことをさしている。

  しかし、陸奥は、本気で朝鮮内政改革の実現をはかろうとしたわけではなかった。彼はのちに『蹇蹇録』(陸奥の回想録)でこの問題について、「余は固より朝鮮内政の改革を以て政治的必要の外何等の意味なきものとせり」とし、「日清両国の間に蟠結して解けざる難局を調停せむが為めに案出したる1個の政策」にすぎなかったと述べている。つまりは「口実」である。陸奥にとって、この場合の「口実」は、清国に対する「いいがかり」というだけにとどまってはならなかった。むしろ、欧米列強に干渉させないための「口実」という点に、より大きな力点を置いていた。欧米列強は、日本がどんな朝鮮政策をとるかを見つめている。いまや「我れ若し一歩を誤らば殆んど四面皆敵の危険に陥らざるを得ざるの基運たり」(『蹇蹇録』)というのが陸奥の情勢認識であった。

  この「危険」を脱するためには、日本からいいだした「朝鮮内政改革」ともかくも実行に移さなければならない。その間に列強に介入を許し、その失敗をまって、日本が自由行動に出る、というのが陸奥の立てた策であった。この判断の基礎には、列強は「内政改革」という名目そのものには異議をとなえるはずはない、という見通しがあった。国際政治において、たよるべき味方をもたなかった日本にとって、列強の見守るなかを、干渉の手をある限度に封じながら、しかも干渉が限度をこえて強まる暇をあたえないですり抜け、かけ抜けていくことが外交の最大の課題だと陸奥は考え、それを成功させた。この点が陸奥は、確かに明治時代の第一流の外交家にちがいなかった。

  しかもそのうえ、陸奥はこのとき、列強の干渉を封じるだけでなく、条約改正という維新以来の最大の課題の実現をも期していたのであった。

2条約改正と日清戦争へ