1966年8月

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日露戦争


表紙

古屋 哲夫

はしがき
1ロシアの極東進出と日本
2戦争に踏み込む
3満州が主戦場に
4決戦を求めて
5ポーツマス講和条約
6日露協約―結びにかえて―

2戦争に踏み込む
ロシア、満州にいすわる
行き詰る日露交渉
宣戦布告


2戦争に踏み込む


行き詰る日露交渉



ロシアとの交渉を開始

  こうして主戦論の盛りあがり始めたなかで、政府も6月23日、元老と主要閣僚の御前会議を開いて、ロシアとの交渉開始を決定した。

  御前会議には、元老として伊藤博文、山県有朋、大山巌、松方正義、井上馨の5人、閣僚として、桂首相、山本海相、寺内陸相、小村外相が出席、小村提出の草案を討議決定した。

  小村の草案は、これまで繰り返し述べてきたような福建省と韓国を2つの目標とする大陸政策の確認から始まっていた。「帝国ハ南北二点二於テ大陸ト最モ緊切ノ関係ヲ有ス、即チ北ハ韓国、南ハ福建之レナリ」。このうち福建の問題は、目下焦眉の急に迫っていることではなく、将来の中国分割の場合に備えることに重点がある。しかし韓国の問題はロシアの満州占領の継続と韓国国境への南下によって緊急の問題となってきた。このまま放置すれば、韓国宮廷および政府はロシアの威圧によってロシアに従属するに至るだろう。もしそこまでゆかなくても、ロシアはその力によって韓国でも思いのままの行動に出るにちがいなく、そうなっては、韓国における日本の勢力と利益を支えることはできなくなる。それを防ぐためにはどうしても今日の機会にロシアと交渉を試みねばならないと小村は主張した。

  そしてその協定の骨子として小村は、清韓両国の独立と領土保全、商工業上の機会均等主義を 維持することを前提に、日露両国は、日本は韓国における、ロシアは満州における利益を保護するため、一時的出兵を含む必要な措置をとることができること、しかし日本は韓国内政改革のため助言および助力の専権をもつことをロシアにみとめさせることが必要だとした。

  これはすでに前章に述べた伊藤博文とラムスドルフの交渉を延長するものにほかならなかった。 その基礎になっているのは「満韓交換論」であった。したがってロシア側の反論もさきの交渉のさいとまったく同様の論理で展開された。日本もロシアも、朝鮮と満州をそれぞれ自分の勢力範囲であること、相手がこれに手を出さないことを約束させようとした。そして同時に、相手方の勢力範囲における支配権をなるべく局限しようとした。

  小村外相は、交渉開始についてイギリスの了解をとりつけたうえで、8月3日、栗野公使に協定の日本側草案を送った。そこでは「韓国二於ケル日本ノ優勢ナル利益」をみとめさせるかわりに、「満州二於ケル鉄道経営二就キ露国ノ特殊ナル利益」をみとめようというのであった。しか も「韓国二於ケル改革及善政ノ為メ助言及援助(但シ必要ナル軍事上ノ援助ヲ包含スルコト)ヲ与フルハ日本ノ専権二属スルコトヲ露国二於テ承認スルコト」という一条を加えた。ここが日本側のもっとも重要な主張であった。形式的に韓国の独立は保障しても、実質的にはあらゆる面か ら内政干渉して日本の従属国にすることが中心の目的であり、しかもそのためにはロシアの満州支配を弱めなければ安心できないというわけである。

  「満韓交換論」といっても、満州はロシア、韓国は日本というぐあいに分けようというのではな く、韓国は日本のものにし、ロシアの満州に対する支配力をできるだけ抑えつけようというのだから、「交換」という言葉から予想されるような対等な取引きではなかった。

  すでに、撤兵を中止し鴨緑江に進出したロシア側がこの日本の要求に強い反発を示したのはいわば当然であった。その反発はすぐさま、8月12日の極東総督府の設置となってあらわれた。

  ロシア皇帝はアレキシエフ大将を極東総督に任命、総督は皇帝に直属して、極東における軍事、行政のみならず、外交をも掌握することになった。これはベゾブラゾフ派が中央政府をとおさず に極東政策を左右し得る体側をつくったことを意味した。そしてモスクワでの交渉を望んだ日本の要求を拒絶して、東京を交渉地とすることを求めてきた。ロシア側は、この交渉には「地方的知識」が必要だとして、アレキシエフ極東総督のもとで駐日公使ローゼンに交渉にあたらせるというのである。

  日本側は、ウイッテと近いラムスドルフ外相を相手にした方が有利だと考えたのであったが、ロシア側のこうした体制ができあがってしまった以上、東京で交渉を始めることに譲歩するほか はなかった。小村・ローゼンの第1回会談が行なわれたのは10月6日であり、日本の交渉申入れから2ヵ月以上がこの問題で空費された。



国内世論の動向

  この間に世論はしだいに対露主戦論に熱狂し始めていた。とくに極東総督府設置はロシアの目本に対する強硬な態度を示すものとうけとられ、新聞はロシアとの戦争はもはや避けえないとするムードをあおり、政府の態度は、無為、軟弱であると激しい言葉で非難した。

  7月26日には、さきにロシアの満州撤兵を要求して国民同盟会をつくった右翼グループが ふたたび対外硬同志会を組織して結集した。そして8月9日には東京で大会を開き、対露同志会 と改称した。彼らはロシアとの開戦を実現するために、桂首相や伊藤博文に膝づめ談判を試みるなど、活発な活動を開始した。諸新聞も声を大にしてロシアとの対決を主張した。その中で幸徳秋水、堺利彦らの社会主義者と、キリスト教徒の内村鑑三を擁して、戦争反対の論陣をはってい た黒岩涙香の「万朝報」も、やがて主戦論に転向、幸徳、堺、内村らは退社していった。

  世論は激しい開戦論の方向に統一されていった。三国干渉以来「臥薪嘗胆」のスローガンが学校や軍隊や、あらゆるルートで流し込まれ、軍国主義のムードがつくられていた。そしてそれが ロシアに向かって集中されてゆく。

  しかし、それが完全な挙国一致をつくり出せなかったことは、注目しておく必要があろう。万朝報を退社した幸徳や堺らは、「平民新聞」を発刊し、遊説などによって反戦運動を続け、戦争が始まってからも、繰り返される発売禁止、投獄などの弾圧のもとで、反戦を叫ぶことをやめなかった。彼らはさまざまの問題をとらえて、戦争が民衆の利益にならないことを強調した。しか し、生活の利益を権力に対して守ろうとする意識や、権カヘの抵抗の態度を欠いている民衆の中へ、容易に浸透してはゆかなかった。民衆は国家の栄光を自分のことと考えて生活の不満を補い、あるいは戦勝による国家の膨張からなんらかの利益を期待しながら、戦争の方向に参加し、引きずられていった。



「利益範囲」と「中立地帯」

 さて、日本の提案に対するロシア側の対案が、小村外相に提出されたのは10月 3日であったが、その内容は、日本の要求を裏返したものということができよう。つまり、日本にあるていど、韓国に対する支配をみとめるけれども、それがロシアの満州支配をおびやかさないていどに抑えようというわけであった。

  そのためには、日本から韓国を軍事的には支配しないという約束をとりつけることに重点を置いた。ロシア案は、日本の韓国に対する援助を「民政ノ改良」だけに限定し、さらに韓国の領土を一部たりとも軍略上の目的に使用しないこと、朝鮮海峡の自由航行を妨害するような軍事施設をつくらないこと、北緯三十九度以北の韓国領土は中立地帯とし、日露両国とも兵を入れないことなどの制限をつけた。また満州については、日本案の第一条、清韓両国の独立と領土保全の保障を、たんに韓帝国だけに局限するなど、日本案にある満州についての条項をまったく削除した。 そしてかわりに「満州及其ノ沿岸ハ全然日本ノ利益範囲外」とする条項を新たに加えてきた。

  ロシアは、2年前の伊藤博文・ラムスドルフ交渉のときと同様に、日本が満州問題にくちばしを入れるのに反対した。日本側が、ロシアの満州占領は条約にもとづかない不法なものなのだから、占領中に獲得した利権などを、少しでもみとめてやれば譲歩だと考えているのに対して、ロシア側は、満州をどうするかは、ロシアと清国とのあいだだけの問題であり、清国との条約をつくって決めればよいことで、日本が口を出すのはおかしいと主張するのであった。

  ロシア案は、満州支配確立のために、日本に利益範囲外と約束させ、北朝鮮に大幅な中立地帯をつくり、日本の韓国に対する軍事的支配を禁ずる、という三段構えの策を示したのである。日本の要求とロシアの要求が根本から対立していることは明らかであった。



交渉に望みを捨てず

 しかし日本側はまだ交渉の望みを捨てなかった。ロシアの要求のうち、朝鮮海峡の自由航行の保障の開題は、2年前の伊藤の日露交渉案にもみられたものであり、小村も初めからこの項目がロシア側から出されればみとめるつもりだったから問題なかった。

  また、「利益範囲」と「中立地帯」の問題については、日本とロシアが対等になれば受けいれてもよいとした。そのかわり朝鮮にかんするそれ以外の問題については、日本の最初の要求をな んとか実現する―そういった線での妥協が成立しはしないかという希望を残していた。

  10月30日、ローゼンに手渡された日本側修正案では、朝鮮海峡の自由航行の保障をみとめる以外は、韓国にかんする日本の権利はほとんど前案を復活させ、満州にかんしてはつぎのよケに規定した。すなわち、中立地帯は、韓国国境の両側に50キロメートルの幅で設定すること、満 州が日本の利益範囲外にあることを承認すると同時に、ロシアも韓国をその利益範囲外とみとめること、しかしロシアと韓国の条約、および日本と清国の条約で規定される商業上・居住上の権利を妨害しないことを相互に約束すること、などであった。この商業上・居住上の権利については、その直前の10月8日、奉天、大東溝の開市開港を含む日清追加通商航海条約が調印されたばかりであった。

  日本側からいわせれば、この案はとにかく「中立地帯」をみとめ、満州を「利益範囲外」とみとめて、日本の進出を商業上・居住上にかぎったことは、大きな譲歩と考えられたに違いない。 それは満州をロシアの勢力範囲とみとめ、軍事的進出はもとより、鉄道、鉱山利権の要求など帝国主義的進出をも行なわないことを約束することにほかならず、ロシアを安心させると思われるものであった。

  ローゼン公使は、この日本案は訓令外の事項を含むから、本国政府に請訓の必要があるとし、結局ロシア側の再修正案がとどくのは約40日後の12月11日であるが、この間小村外相は、ロシアの動きを静観する態度をとり、朝鮮の出兵機関からの強硬政策の上申を抑え続けた。

  たとえば、駐韓林公使はロシアの竜岩浦租借の要求に対する対抗策として、日本は、竜岩浦とその鴨緑江上流にあたる義州の開市開港を韓国に要求するという案を立てたが、小村外相は、ロ シアとの交渉を混乱させるとして反対した。11月10目の訓令では、義州、竜岩浦問題は日露交渉という「大局問題」の前では「軽微」な問題にすぎない、政府は目下具体的成案をもってロシアと交渉中なのだから、その決定をみないうちに「更二別個ノ小問題ヲ提起スルハ徒ラニ事局ヲ 紛糾ナラシムルノミ」と述べている。また、ロシア軍艦が入港した場合、兵隊の上陸、入京を妨害する必要はないかと、仁川の加藤領事が訓令を求めてきたのに対しても、小村は、「日露ノ関係二付キテハ目下露国政府ト交渉中ニテ風説ノ如ク事情切迫セルニアラズ、就テハ其地居留民ニ於テモ鎮静其堵二安ズル様論達セラルベク又万一露兵来着スルモ其上陸入京等ヲ妨害スルニ及バズ」と訓令した(『外交文書』三十六の一)。10月13日のことである。

  しかし12月11目、ローゼン公使のもたらしたロシア側の再修正案は、さらに強く日本の要求を制限したものであり、政府の妥協への希望をくだき、主戦派を喜ばせることになるのであった。

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