1966年8月

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日露戦争


表紙

古屋 哲夫

はしがき
1ロシアの極東進出と日本
2戦争に踏み込む
3満州が主戦場に
4決戦を求めて
5ポーツマス講和条約
6日露協約―結びにかえて―

2戦争に踏み込む
ロシア、満州にいすわる
行き詰る日露交渉
宣戦布告


2戦争に踏み込む


宣戦布告



韓国の軍事的支配に固執

  日本政府が開戦への決意を固めたのは、このロシア側再修正案をみてからであった。ここでは、「韓国領土の軍略的使用の禁止」、「北緯三十九度以北の韓国領土を中立地帯とすること」の2点については、日本側の修正を拒否し、前案をそのまま復活させてきた。この2点については、ロシアは最後までなんらの譲歩をも示そうとしなかった。

  そのうえ、韓国に対する日本の援助の対象を、「民政」にかぎって軍事を除いたことは前案と同じであったが、「助言及援助」を「助言ヲ以テ援助スル」ことに改めてきた。それは「助言と援助」を「助言」だけに制限したのと同じことであった。また満州にかんする字句はいっさい姿を消していた。ロシアとすれば、満州を利益範囲外とみとめろという要求をひっこめたのだから、朝鮮に対する目本の権利を弱めてもよいと考えたのかもしれないが、それは日本の要求をまっこうから否定したものにほかならなかった。

 日本側は、韓国領土の軍事的使用とか、韓国政府に対する軍事的な「助言及援助」など、要するに軍事的支配の手がかりになる条項はどうしてもゆずろうとしなかった。この点が日露交渉のもっとも重大な対立点として最後まで解けなかったのである。

  このことを知って参謀本部は、政府に対し一日も早く開戦を決意し、戦争準備に移るよう強力に働きかけた。12月16日の元老・閣僚会議では、ロシアが満州での中立地帯をみとめそうもないとすれば、中立地帯にかんする条項をまったく削除する方がよいとした以外には、ロシアの再考を求めるかたちで交渉を継続することが決定された。政府も元老もこのとき開戦の方針を決めることはまだちゅうちょしていたが、日本側が決定的な譲歩をする以外には交渉の行詰まりを 打開できないことも明らかであり、したがって戦争の準備に着手せざるを得なくなった。



戦争準備こ着手

  12月28日、「軍資補充の為臨時支出を為すの件」、「京釜鉄道速成の件」、「戦時大本営条例改正の件」、「軍事参議院条例の件」の4つの緊急勅令が公布されたが、こうしたかたちの準備の裏面では、具体的に戦争にどう踏み込み、戦争をどう展開するかという方針の決定が急がれていた。

  まず軍事的には、陸軍がロシア軍の南下をおそれ、できるだけ早い機会に朝鮮を制圧することを望んだことはすでに述べたが、しかし具体的にいつ、どこに、どのくらいの兵力を進めるかという開題になると、外交政策、海軍の制海権確保とかかわってきた。ところで海軍軍令部の判断は、ロシア艦隊は旅順に集結して、早期の決戦を避けるだろうとみていた。ということは、対馬海峡の安全は確保できるけれども、朝鮮北部への大部隊の護送はいつになるかわからないということにほかならなかった。

  参謀本部は12月に、鴨緑江以南、つまり朝鮮の軍事占領を第一期とし、満州での作戦を第二期とする作戦計画を立てたが、具体的には、右のような海軍の判断を前提として、第一期の最初の作戦を決定するに止まった。そこでは、主力部隊は安全な朝鮮海峡から釜山に上陸して北進することが基本となっており、そのために「先発徴発隊」を派遣して兵站設置の準備をさせることにした。そしてそれとは別に、歩兵五個大隊、山砲一個中隊からなる「臨時派遣隊」を送って京城を占領するというのである。陸軍側は、この「先発徴発隊」と「臨時派遣隊」を正式の国交断絶よりなるべく早く出発させたいとした。しかしそうなると、ことは外交の問題ともかかわってきた。



清国を中立化して戦争を局限

 12月30日の閣議は、開戦の場合の清国および韓国に対する方針を決定した。まず清国は日本の側に参戦させることなく、中立をとらせるのが得策だとした。清国を日本側に参戦させればいろいろな利益はあるが、ロシアとの戦争ということから欧米人一般への民衆の反抗、すなわち、先の義和団事件を再現しないともかぎらない。

  そうなると清朝への革命内乱に至るかもしれず、そうした情勢になれば列強はたちどころに干渉を始め、利権奪取に狂奔することはまちがいない。この間、日本はロシアとの戦争に専念する ほかはないということになれば、清国分割にたち遅れ、福建の拠点をさえ失うおそれも考えられる。

  つまり、列強の利権を全身にしょい込んでいる清国を動かしては、分割を促進することになるから、中立をとらせ、秩序と統一を保たせるがよい、というのであった。それは中国分割への対応という、日露戦争の基本的性格を端的に示すものにほかならなかった。いいかえれば、列強の現状を動かさないように戦争を局限しようということであった。清国はこの勧告をいれて開戦 後の翌年2月12日中立を宣言、日本政府はまた、戦闘区域をも遼河以東にかぎろうと努めた。



韓国は実力で支配

  韓国については「如何ナル場合二臨ムモ実カヲ以テ之ヲ我権勢ノ下二置カザルベカラズ」とした。しかしこの場合もできるだけ「名義ノ正シキヲ選ブヲ得策トスル」から、攻守同盟あるいは保護的協約を結ぶがよい、といってもそれが成功するかどうかわからないし、たとえうまくいっても、韓国皇帝が一貫してこの協約を守ることは、期待しがたいから、結局、帰するところは実力のいかんということになろう、と書いている。

  ここで「名義ノ正シキ」というのは、韓国政府から依頼されたというかたちをとって、朝鮮を 占領し、駐留する方が、列強から文句をつけられる心配がなくて得策だというのである。ところが韓国皇帝は日本に反感をもっており、反日派の勢力も強い、また9月には韓国皇帝は日露両国に使者を送り、開戦のさい、韓国の局外中立をみとめるよう要請するなどの動きもあらわれていた。こうした情勢のなかで、日本側がもっとも心配したのは、日清戦争の翌年に皇帝がロシア公使館に逃げ込み、親日政権打倒を命じたような事態が再現することであった。12月には、京城 では、皇帝がロシアの同盟国であるフランス公使館に逃げ込むのではないか、という風評が流れていた。もし、皇帝がフランス公使館から日本の出兵を不法と宣言するような事態が起これば、日本としては、はなはだやりにくくなることは眼にみえていた。とすれば京城の早期占領は、こうした事態を防ぐ政治的意義をもってくる。

  日本がロシアとの交渉で、最後まで朝鮮の軍事面での支配力確保の条項に固執したことは、植民地的支配のためには、どうしても軍事力にたよらねばならないという一般的事情のうえに、こうした朝鮮における足場の弱さを補うには、軍事面での支配を最も有効と考えたからにほかなるまい。

  この閣議決定は日本外交文書第36巻に収録されているが、「山本伯実歴談」(海軍省編『山本権兵衛と海軍』所収)に収められている原案では、この早期占領への配慮が含まれていた。もっともその日付けが明治36年9月となっているが、これまで述べてきたような経過からみて、12月の誤りであろうと思われる。

  この原案では、さきの韓国に対する政策に続けて、韓国の皇帝や国民があてにならない状態のもとでは、まず有力な軍隊を送って「宮廷及政府ヲ手中二収ムル」ことが得策だという一節がつ いていた。これは結局山本海相の反対で削られたのであるが、彼は反対の理由として第一に、韓国は弱いとはいえ、やはり一つの独立国であり、開戦前の出兵は国際法違反であり列強からの干渉がくるおそれもあること、第二に、ロシア側がこの措置を宣戦布告と同じものと称して攻撃に 転じて来た場合には、まだ戦争準備が半分もできていない日本がはなはだしい苦境におちいるこ とは眼にみえているというのである。おそらくこの第二の理由は決定的だったにちがいなく、元老、閣僚会議で山県有朋が再度この開題をぶり返したが、結局山本に押し切られてしまった。

  この経過から明らかなように、明治36年12月には、開戦直後の海軍がどのようにして制海権を確立するか、いつ、陸軍の先遣部隊「臨時派遣隊」が京城を占領し、後続の主力をどこに上陸させ得るかが当面の作戦計画の課題とされてきた。

  12月30日、参謀本部、海軍軍令部合同首脳会議で、海軍は第一、第二艦隊で旅順を急襲し、 第三艦隊を鎮海湾に集結して対馬海峡を確保すること、陸軍は臨時派遺隊を海軍の行動開始より先に出発させないことなどが決定された。戦争はもはや時間の問題であった。



戦争開始を決定

  年があけて明治37年1月6日、ロシア側から3度目の修正案が通告されてきたが、それも若干の譲歩を示したものの、日本側の戦争への歩みを止め るほどの力は持たなかった。

  この案でロシア側は、これまでの争点である2つの条項、すなわち、(1)韓国領土を軍略的目的に使川しないこと、(2)北緯39度線以北の中立地帯設定、の2条項を日本がみとめれば、ロシア側はつぎのような一条を入れることを承諾するといってきた。
  その一条とは、日本は満州を利益範囲外とみとめること、同時にロシアは、満州において、日本または他国が清国との現行条約で獲得した権利および特権(ただし居留地の設定を除く)を享有することを妨害しないことというのである。この後半の部分は、ロシアが初めて満州についての規定をみとめたものであったが、居留地設定をみとめないということは、ロシアが満州の実質的領土化の意図をすてていないことをうかがわせるものであった。

  日本側がこの案を交渉の余地なしとしたのはいうまでもあるまい。12日の御前会議では、これまでの日本側の主張をもう一度だけ送ることにしたが、同時にロシアが回答を遅らせたり、不満足な回答しかもたらさなかった揚合には、軍事行動に移ることを決定した。陸軍は一日も早い 出兵を求めて海軍の準備を早めるよう要求した。



戦争の限定

 さて、こうした当面の軍事行動の方向は固められたものの、では戦争が全体としてどうなるか、ということになると見通しははなはだ心もとないものだった。ロシアがシベリア鉄道によって、ヨーロッパ・ロシアから軍隊を送らねばならないという制約があるから、初期には勝利を占めうると考えられたものの、戦争が長期にわたってくると、この地理的な条件はなくなってしまう。

  開戦論者の中心である井口省吾少将でさえ、6月の意見書で戦争をハルビンまでに限定して考えていた。彼はロシア軍を追ってシベリアに入ることはいけない。日本軍はぜひともハルビンを 占領することが必要であるが、「此地以北に前進することは、我が為に害有りて益なし」という のである。ハルビンは、満州北部を横断してウラジオストックにのびる東清鉄道から、旅順に向かう南部支線が分岐する交通の要衝であり、ここを占領してロシア軍が反撃してくれば撃退する構えをとり、日本軍からは出撃しない、こんな状態が続けばロシアもあきらめて和平を申し込んでくるにちがいないというのが井口意見書の戦争構想であった。

  つまり純軍事的にみて、このていどの進撃しかできないことは明白だったのであり、じっさいにはこの構想でもまだ判断が甘く、日本は奉天会戦後ハルビソに進撃する力を失っていた。当時の世界一の陸軍国ロシアに決定的打撃を与えるほどの力がないことは、初めからわかっていた。

  同時にまた、この意見書のようにハルビンで守勢にまわればいつまでも戦争ができるというわけではなかった。軍事力そのもの以上に開題なのは財政であった。井口意見書でも、この点を強調し、日清抗争の軍事費が2億2千万円であったのと対比して、日露戦争は5億円あれば足りる、そのうち国庫で負担し得るのは1億5千万円ていどと考えられるから、残り3億5千万円は同盟 国のイギリスから外債を募集してまかなうという構想を述べている。これから逆算していえば、彼は地理的にはハルビン、時間的には1年と戦争を限定して考えていることがわかる。これに対 して児玉参謀次長は戦費8億円と予想したといわれるが、じっさいには、陸海軍軍事費17億4千6百万円、各省臨時事件費2億3千8百万円、計19億8千4百万円、つまり約20億円と予想をはるかにうわ回る金額を支出しなければならなかったのである。

  そのうち増税でまかなわれたのは2億1千5百万円にすぎず、戦費の78%は内外からの公債、 とくに12億円を英米市場を中心とする外債募集に依存したことがこの戦争の特徴であった。

  前に述べたような、中国分割を促進しないための他の列強の現状維持という側面とともに、こうした軍事・財政面の弱さからいっても、「戦争の限定」ということが最初から必須の課題にな っていた。



英米への依存

  そこから当然、イギリス、アメリカヘの依存という事態が生まれる。それは、財政的な面での依存と同時に、適当な時期に戦争に「まった」をかけてくれる調停者になってもらうというかたちの依存をも必要とした。

  戦争の開始を決定すると同時に、政府はアメリカに金子堅太郎、イギリスに末松謙澄を派遣し、 両国の有力者と接触して親日的世論をつくるよう努力させることにした。このうちイギリスに対する主要な目的は外債を得ることにあったが、アメリカに対してはそのうえ、金子がローズベル ト大統領とハーバード大学で同期だったというような個人的関係まで利用して、彼に適当な時機に講和調停者として登場してもらおうという期待をもっていた。ついで、日銀副総裁高橋是清を 米英に送って外債募集に奔走させた。世界の強国のうち、日露両国と同盟関係にあるイギリス、フランスをのぞくと残るのはドイツと、アメリカだけであり、このうちドイツはロシアに、アメ リカは日本に好意的であるという関係にあったわけである。

  つまり、いろいろな弱点を知る日本政府の首脳部は、できるだけ早い機会に講和を実現することを最初から明確な課題として認識していたのであった。戦争が始まってから5ヵ月日の1904年7月、小村外相は早くも講和条件についての意見書を書いている。それは翌月遼陽と旅順への攻撃が成功し、それで講和ができる場合のことを考えたものであった。つまり講和条件をふところにしながら戦争を進めたのであった。しかし同時に、この戦争はロシアの「死命ヲ制スル能ハザル」戦争であり、日本の望む講和条件を実現することは容易でないことをみとめていた。とすれば、他国の調停を必要とすることは十分予想しなければならず、講和条件も「直接二列国ノ 利益ヲ害スルコトナキ範囲」に止めることが必要であった。いいかえれば、こうした英米への依存は、同時に日本の戦争目的や戦勝の獲物をも制約することになるのであった。

  開戦が必至となった12月31目、小村外相はロンドンの林公使に訓令を送り、イギリス政 府に対し開戦前に財政上の援助をしてくれるよう申し入れることを命じたが、そのさいとくに日本の行動は利己主義によるものではない、「何トナレバ日本ノ尽カノ成果ハ満州ト商業上ノ関係 ヲ有スル列強一段ノ均シク享受スベキ所」である点を強調せよと申し渡した。またさきの開戦論者井口少将の意見書でも、戦後の満州は「各国の互市場」とし、「何れの国も毒手を触るる能はざるの中立地」とするという構想が述べられている。

  つまり日本は、イギリス、アメリカからの支持をかちとるために、ロシアから満州を開放し、戦後には列国の自由にさせるという条件をみとめねばならなかったのである。それは日本にとっ て最大の目的である朝鮮の植民地化と、列強の望む満州開放を取引きすることであった。

  日本政府は事前に米英に通告しながら戦争に踏み込んでゆくのであった。



開戦の時期

  以後、開戦の時期は主として海軍の事情を中心にして考えられていたようにみえる。その一つは、イギリスの仲介でアルゼンチンから買い入れた二隻の軍艦(のち春日、日進と命名)が日本に向かって回航中であり、これが日本の勢力圏に入って安全となる時期の問題、一つは、ロシアの旅順艦隊の動向、という二つの点が大きく考慮されていたようである。小村外相は1月23日、26日、30日と繰り返し栗野公使に訓令し、ロシア政府に対して回答を督促しているが、これも国交断絶の準備行動にほかならなかったであろう。春日、日進は1月26日コロンボ、2月5日シソガポールを出港することになった。

  この間、2月3日、二つの電報が入った。一つは、ウラジオストックの要塞司令官が日本の貿易事務官に対して、戒厳令布告と同時に日本人の在居を禁止するから引揚げの用意をしておくよう通告した、というものだった。

  もう一つは、旅順のロシア艦隊は修理中の一隻以外はすべて出港、行方は不明である、という芝罘(チーフー)の領事からの報告であった。このニュースは海軍に大きなショックを与えた。ロシア艦隊が日本海軍に対する先制攻撃に向かったのではないか、あるいは朝鮮占領に向かったのではないか、など各種の可能性が考えられ、佐世保、竹敷などの軍港では万一に備えて演習名義で機雷の敷設が行なわれた。

  翌4日、元老・閣僚の御前会議が開かれるや、開会劈頭、山本海相は、ロシア艦隊出勤の目的がどこにあるかわからないが、とにかくこうした出勤が行なわれたところからみて「戦機すでに熟した」とみるべきだと述べた。御前会議は軍事行動に移ることおよびロシアに対する国交断絶の最後通告案を決定した。



軍事行動を始める

 
翌5日、連合艦隊は黄海方面のロシア艦隊を撃滅し、陸軍の先遣部隊(「臨時派遣隊」)を護送すること、第三艦隊は鎮海湾を占領して朝鮮海峡を警戒せよとの命令が発せられた。前年12月28日、艦隊は戦時編成をとり、第一、第二、第三の三艦隊に改編され、第一・第二艦隊が連合艦隊として行動することになっていた。連合艦隊司令長官兼第一艦隊司令長官は東郷平八郎、第二、上村彦之丞、第三、片岡七郎各海軍中将であった。5日には、旅順を出港したロシア艦隊は、大連湾に仮泊しただけで旅順に帰り、港外に碇泊しているとのニュースが入ったが、軍事行動はそのまま決行された。

  連合艦隊が二手に分かれて、旅順艦隊の攻撃と陸軍先遣部隊四個大隊2200名の仁川上陸護衛のため佐世保を出発した2月6日、栗野公使は国交断絶および10日に公使館引揚げをロシア政府に通告した。その前夜、栗野はラムスドルフ外相から、ロシア側の回答を極東総督アレキシエフに発送したとの通知をうけ、その要旨を聞いたが、これまでのロシア案の骨子を変えるものではなかった。その詳細は知ることができないが、ウィッテの回想によれば、1月28日の陸海外三大臣会議で、日本との対立の焦点を中立地帯設置問題であるとし、この条項の削除が討議されたとのことであり、このことにかんして若干の手直しを加えたものだったと思われる。

  それはロシア側か平和を望んでいたというよりも、交渉を引きのばすことを有利としたことを 意味しているであろう。クロパトキンは、日本がこの回答をまたずに開戦したことに憤激しているが、同時にロシアの指導者が日本の軍事力を低く評価し、とくに極東における出先軍部では、 ロシア艦隊の力が優勢であり、日本軍は満州に直接大兵力を上陸させることはできない、したがって日本から戦争をしかけてくることは非常に困難だとみていたと回顧している。ロシア軍が日本側がおそれていたような先制攻撃に出なかったのは、このような態度によるものであった。

  逆に軍事力の一時的優位にしか望みをかけられなかった日本軍部は、早期開戦と先制の奇談攻撃によって、戦局の主導権を握ろうとした。開戦当時、仁川にはロシア軍艦「ワリャーグ」と 「コレーツ」が碇泊していたが、日本側は軍艦千代田をロシア軍艦とともに仁川に停めておき、 日本の開戦の意思をあらわさないように工夫した。2月8日午後仁川に入った日本艦隊は、ロシア軍艦の前で徹夜で陸軍部隊の上陸を行ない、翌9日上陸が完了するとロシア軍艦の退去を要求、港外に出たところを攻撃して「ワリャーグ」を撃沈、逃げ場を失った「コレーツ」は自爆した。

  すでに前夜から旅順攻撃も開始されていた。この夜襲で戦艦二隻、巡洋艦一隻に損害を与えた 日本海軍は、翌日もさらに攻撃を続けた。緒戦は日本側の思惑どおりに成功した。そしてその翌日10日には、栗野公使はロシアを引き掲げてベルリンに向かい、東京では宣戦の詔勅が発せられ た。ロシアの宣戦布告も同じこの日であった。

3満州が主戦場に