1966年8月

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日露戦争


表紙

古屋 哲夫

はしがき
1ロシアの極東進出と日本
2戦争に踏み込む
3満州が主戦場に
4決戦を求めて
5ポーツマス講和条約
6日露協約―結びにかえて―

3満州が主戦場に
制海権の確保
韓国の実権を握る
遼陽と旅順を占領


3満州が主戦場に


制海権の確保



初期の作戦計画


  開戦後しばらくは、戦争にかんするニュースは海軍の旅順攻撃が中心となった。陸軍ではロシア軍が攻勢をとらずに、兵力の輸送を急いで、満州の野に日本軍を迎えうつ準備に終始したため、朝鮮はほとんど戦闘もなく日本の占領下に入った。最悪の場合、釜山から上陸、北進することになっていた第一軍主力部隊も、第十二師団は先遣部隊のあとを追って仁川から2月16日上陸を開始、3月中旬平壌に進出、同時に後続二個師団も3月14日より平壌を流れる大同江の河口、鎮南浦に上陸、北進を始めた。そして4月下旬、鴨緑江右岸に集結することになる。

  開戦から2ヵ月近くもほとんど戦闘なしの行軍が続くというのは、現在の感じからいうと、はなはだ妙であるが、鉄道もなく自動車もなく、大砲や食料や弾薬を荷車に積み、馬にひっぱらせて悪路の中を進むこの戦争では、以後、短時日の戦闘と長い期間の補給、前進とが交互にあらわれることになるのである。

  開戦直前、参謀本部はつぎの三つの作戦を計画した。(一)三個師団をもって韓国を占領(第一軍)、(二)満州を主作戦地とし、ここに陸軍の主力を用い、ロシア野戦軍主力を攻撃するため遼陽に向かって前進、大孤山を上陸地点に予定し、三個師団と騎兵、砲兵各一個旅団をもって第二軍を編成、(三)ウスリー方面を支作戦地とし、一個師団をもって敵を牽制。独立第八師団をこれにあて羅津浦に上陸を予定。このうち(一)は予想外に容易に実現した。したがってそのあいだに(二)の主作戦をどう実行するかが軍首脳の課題となった。

  ここではまだ、旅順に対してどういう作戦をとるかまったく触れられていないことが注目される。大本営はまだ旅順がどのていど堅固な要塞となっているかわからなかったし、海軍は旅順のロシア艦隊を海からの攻撃で撃滅、あるいは少なくとも封鎖することが可能と考えていた。

  満州の主作戦の展開は、制海権の確保が前提であり、したがって開戦当初陸軍側はさまざまの案を立てながら、海軍の作戦を見守り、そのすみやかな推進を督促していた。



旅順口の「閉塞作戦」

 連合艦隊は緒戦の夜襲に続いて、2月14日第二回旅順艦隊攻撃を行なったが、出口の狭い旅順港内にあるロシア艦隊に有効な打撃を加えることができなかった。そこで、この決戦を避けるロシア艦隊をむしろ港内にとじこめるための策が立てられた。有名な「旅順口閉塞」作戦がこれである。

  「閉塞」とは具体的には、旅順港の出口に汽船を並べて沈め、敵艦隊の交通を妨げることであった。まず艦隊の攻撃で敵艦を港内に押し込め、ついで闇夜に乗じて汽船を進め、予定地点で爆破、乗組員は待ちかまたた水雷艇に乗り移って帰ってくる、というのがじっさいのやり方であった。 しかし、探照灯で照らし出され、沿岸砲台からの猛砲撃の中でこれだけのことをやるのは非常に冒険的なことであったし、また、目測に頼る当時の航行術によって、こうした状能のもとで誤りなく予定地点に達することも非常に困難であった。まさに決死の作戦であった。

  まず2月24日未明、第一回閉寒を実行して5隻の汽船を沈め、ついで3月27日第二回閉塞で4隻を沈めた。しかし、予定地点到達前の坐礁、あるいは探照灯に照らされての位置誤認、さらには敵弾により撃沈されるなど期待した成果を収め得なかった。沈んでゆく汽船の上で、行方不明の部下を最後まで探し続けて戦死した広瀬武夫少佐(死後、中佐に昇進)が、以後「軍神」としてあがめられることになったが、これは第二回閉塞作戦中の出来事である。



第二軍の上陸地点

  しかし、海軍はこの閉塞作戦に相当の自信をもっていたようであった。海軍は早くから陸軍に第二軍の大連湾上陸が可能だとする意向を伝えた。陸軍側にも、鴨緑江をこえた第一軍と、大孤山に上陸した第二軍とが遼陽に前進するには相当の時日を必要とするから、むしろ、ロシア軍の集中に先だって遼東半島を占領するのがよいとの意見が生じていた。

 たとえば、2月27日、大庭二郎、田中流一ら4人の参謀少佐は連名で意見書を提出し、「今や旅順、大連の兵備薄弱なることと欧露よりする軍事輸送未だ進捗の域に達せざるの徴候あるとは実に逸すべからざるの好機なりとす」と述べて、大孤山上陸を中止し「遼東半島に優勝の地位を占むるを最も必要なりとす」と主張した。

  大孤山は、朝鮮半島と遼東半島の中間にあたる地点であった。こうした陸海軍の判断の結果、大連を陸軍の集結基地とする夢が拡がった。3月2日、二個師団をひきいて鎮南浦に上陸するため広島にあった第一軍司令官黒木大将に対して、第二軍は4月中旬、大連湾に上陸するはずであるから、第一軍はなるべく多くの敵を鴨緑江方面に牽制せよとの訓令が手渡された。

  この計画は3月27日の第二回閉塞が十分の成果をあげられなかったため延期され、また大連湾には多くの機雷が敷設されていることが明らかになったため、上陸地点は大連より北方の塩大澳に変更された。そしてこの第二軍の作戦を中核にして以後の作戦計画が立てられてゆくのである。

  この間海軍は、旅順周辺海上へ機雷を沈置、続いて第三回の閉塞作戦を行なうことに決した。 第三回閉塞は汽船12隻を沈めるという大がかりなものであり、海軍側はこれによってロシア艦隊を港内にとじ込め、外からの砲撃で撃破しうると信じたもののようであった。4月6日、参謀総長、次長、海軍軍令部次長の3名の会議では、「閉塞は十中八、九成功の見込」「成功せば唯駆逐艦の出入のみを許すこととなるを以て艦隊を以て封鎖すること容易となる」との意見が述べられ、第二軍上陸はこの閉塞作戦後にすることが決定された。なお、この会議で軍令部次長は、海軍では第二軍上陸後ただちに旅順要塞を攻撃することは要請しないと語っているのであり、のちに、陸上からの旅順攻撃が海軍にとっても重大問題となることはまったく予測されていなかった。

  しかし、この態度はすぐさま大きく転換することになった。そのきっかけは、ロシアがヨーロ ツパにあるバルチツク艦隊を極東に回航させるとのニュースであった。



ロシア、バルチック艦隊派遣を決定

  ロシアが旅順とウラジオストックにある東洋艦隊を太平洋第一艦隊と改称し、太平洋第二艦隊を編成、増援におもむかせることを決定したのは4月30日、ロジェストウェンスキー中将(当時少将)を司令長官としてその編成を決定したのが7 月4日であり、リバウ軍港を出港したのは10月16日になっている。

  この第一報が入って以来、海軍にとっては、できるだけ早くロシア東洋艦隊、とくにその主力の旅順艦隊を撃破することが最大の課題となってきた。開戦以来ともかく優勢を保持してきたとはいえ、相手に決定的な打撃を与えることができないまま、増援艦隊に合流されてしまっては、 形勢はまりたく逆転し制海権を失うことがおそれられた。したがって、バルチツク艦隊がたどりつくまでのかぎられた期間に旅順とウラジオの艦隊を片づけ、艦艇の修理など迎撃体制の完成を はかることが必要であった。いわば制限時間の中の勝負となってきた。そのためにけべ陸軍による旅順の攻撃を早めるこどが有効な策であったし、また旅順の陥落によってロシア側か、バルチツク艦隊派遣をとりやめてくれれば、それにこしたことはなかった。

  第一軍、第二軍を中心に満州に向かう主作戦に加えて、参謀本部の初めの予定になかった旅順攻撃が主要な支作戦となってくるのはこうした経過のすえであった。それはまた初めの予定であったウラジオ進攻を目的とするウスリー作戦がたち消えになってゆく過程でもあった。



第一軍、鴨緑江を渡河

  4月12目、大本営海軍部は陸軍部に対し、旅順口閉塞のいかんにかかわらず第二軍上肢を実施する方針を申し入れ、14日の高級幕僚会議で4月17日もしくは28日より、鎮南裏に集結した第二軍先発部隊を塩大澳に向け輸送を開始することとし、5月1日上陸開始と予定した。それと同時に4月下旬に鴨緑江岸に集結を終る第一軍に対して、第二軍上陸の前日、4月30日に渡河作戦を命じ、ロシア軍を牽制することにした。

  第二軍の上陸は準備が遅れて5月5日となったが、第一軍は予定をのばすことは不利として5 月1日渡河を開始、ここに日露戦争最初の陸戦が展開された。九連城に主力をおくロシア軍に対し、右翼より渡河、敵を包囲するかたちで戦闘を行なうことに決した第一軍は、29日夜、上流水口鎮より第十二師団を渡河させ、5月1日明け方から砲兵の援護下にいっせいに前進開始、午後までには九連城一帯を占領、ロシア軍は後備部隊をつぎ込むことなく退却した。第一軍はつ いで5月11日鳳凰城に進出し、ここで遼陽への前進のための補給を待つことになった。

  ところでこの戦闘で日本軍は932名の死傷者を出したが、国民のあいだからは、こんなに死傷が多くては先が思いやられるとの非難があらわれ、石本陸軍次官が新聞記者に陳弁これつとめるという一幕もあった。日清戦争にくらべると大砲の正確度、発射速度などがはるかに進歩しており、またロシア軍は機関銃という新兵器をもっていた。日本側もこれに対抗して、明治37年11月18日、野戦師団の各歩兵連隊に6挺ずつ配付することにしたが、使用不慣れでさ したる威力を発揮しなかったようである。



南山の戦い

 こうした兵器の進歩は死傷者を激増させることになった。とくに「歩兵の突撃」を中心に戦闘を考えていたことが、要塞攻撃のさいの死傷者をさらに激増させる原因となったし、また砲撃の必用は、開戦前の予想をはるかにうわ回るものであり、日本軍はつねに砲弾の不足に悩まねばならなかった。こうした戦争の様相についての認識の甘さをはっきり知らせたのは、第二軍最初の攻撃、南山の戦いであった。この戦闘は1日で終ったが、死傷4987名にのぼり、大本営はこの報告をきいて、一ケタ違うのではないかと首をかしげたという。

  5月5日塩大澳付近から上陸を開始した第二軍は、まず南下して、遼東半島の中でもっとも幅が狭く、くびれている金州付近を占領し、旅順を孤立させたうえで、北に向きをかえて前進するという作戦を命ぜられていた。

  5月13日、歩兵三個師団と砲兵一個旅団の上陸を終った第二軍は15日行動を開始した。この間、ロシア軍が南下、攻撃を加えてくることを大本営は心配したが、司令官クロパトキンは、遼陽に主力を止めたまま動かなかった。大本営は第二軍についで、5月19日には、第一軍と第二軍の中間、最初の第二軍上陸予定地であった大孤山に、独立第十師団を上陸させたが、これに対してもロシア軍は積極的に攻撃を加えようとはしなかった。

  第二軍は北方に対する体制を整えてから主力をもって南下、5月25日半島最狭部にまたがる南山の玖撃を開始した。午前5時から3時間にわたる砲撃のすえ、歩兵の突撃となったが、敵陣は十分に破壊されておらず、掩蓋の下からロシア兵が射ち出す銃弾に倒されていった。10時には最後の予備部隊まで第一線に投入したが、午後になっても攻撃は進展せず、また早くも砲弾が欠乏してくるというありさまであった。

  参謀の中には、いったん後退して陣容をたてなおすことを進言する者もあったが、奥軍司令官は、万難を排して攻撃を続けることを命令、午後6時すぎになってようやく敵陣の一角を突破した。これを機に、日本軍に十分の損害を与えたとみたロシア軍は後退を始め、南山は日本軍の手に帰した。ロシア軍はつぎの抵抗を旅順の要塞に予定しており、第二軍は以後ほとんど戦闘を交えることなく、5月30日には無防備の大連を占領した。



第三回旅順閉塞も失敗

 この間に大本営では、第三軍を編成して旅順攻撃にあたらせ、第二軍を遼陽に向け前進させることを決定していた。5月3日に行なおれた第三回閉塞作戦もまた予期した成果をあげることができないで終っていた。

  11隻からなる閉塞船団(12隻の予定のところ、1隻は航行不能のため除外)は5月2日夜、旅順に向け出発したが、10時ごろから吹き始めた南風がしだいに強まり、この状態では乗組員の収容は困難とみた総指揮官林三子雄中佐は、作戦を中止し、引き返す旨の命令を出したが、命令が徹底せず、先頭の3隻が帰還しただけで、あとの8隻はそのまま突っ込んでしまった。この結果、乗組員158名中収容されたものは67名にとどまり、17名は旅順にうちあげられて捕虜となり、74名が行方不明になるという大きな犠牲を出した。しかも封鎖が実現しなかったことは、6月に入ってロシア艦隊が出撃してきたことで実証された。

  第二軍が南山を占領した翌日、5月26日、東郷連合艦隊司令長官は、大本営の命令により、旅順口封鎖宣言を発表した。中立国の船舶の入港をもいっさい阻止するというわけである。ついで大連が占領され日本軍が追ってくると、旅順のロシア艦隊の方でもウラジオストックに脱出を 企て始めた。旅順艦隊がさしたる活動を示さなかったのに対して、ウラジオ艦隊の方は日本軍をおおいに悩ましていた。



ウラジオ艦隊の活躍

  まず4月25日、歩兵一個中隊は元山から金州丸で利原に上陸、偵察を行ない、ふたたび同船に乗って元山に帰ろうとしたが、ウラジオ艦隊に発見され撃沈された。

  ついで6月15日には、ウラジオ艦隊は対馬海峡にあらわれ、まず塩大澳より宇品に帰航中の陸軍運送船和泉丸を撃沈、ついで宇品よりともに1000名以上の陸軍部隊をのせて塩大澳に向かう常陸丸、佐渡丸をとらえ、常陸丸を撃沈、佐渡丸にも魚雷を命中させたが、かろうじて沈没をまぬがれた。翌日には舞鶴沖でイギリス汽船アラントン号を捕えてウラジオに送り、また帆船2隻を 沈め、その翌日にもまた帆船1隻を撃沈した。

  さらに7月20日には津軽海峡を通って太平洋側に抜け、汽船高島丸を撃沈し、以後10日間に わたって御前崎沖にいたる太平洋岸で活動、日本の帆船4隻、イギリス汽船2隻、ドイツ汽船1隻を沈め、30日にはまた津軽海峡を通ってウラジオに帰ってしまった。

  国民のあいだには、いつウラジオ艦隊の砲撃をうけるかもしれないという恐怖感が広まった。 とくに東京湾の鼻先で3日も活動していたことは、大きなショックだった。当然、ウラジオ艦隊を見張り攻撃するはずの第二艦隊に対する非難は高まり、とくに上村司令長官の留守宅には、辞職しろとか切腹しろとかいう手紙が山をなし、はては上村はロシアのスパイだと言い出すものや、家族をおどかすものまであらわれた。上村艦隊は、8月14日朝、朝鮮の蔚山(うるさん)沖でついにウラジオ艦隊の主力3隻を発見し、1隻を撃沈、2隻を大破させてやっとこの汚名をそそいだ。



黄海の海戦

  しだいに包囲の中におち込んでゆく感のあった旅順艦隊が、こうした活躍を示すウラジオ艦隊への合流を望んだのは当然であった。まず6月23日、掃海隊を 先頭に戦艦以下11隻が旅順を出港、連合艦隊の包囲を破ろうとしたがしだいに制圧され、結局旅順に逃げかえってしまった。

  しかし、これにこりず8月10日には第二回の出撃を試みてきた。こんどは旗艦ツェザレウイッチ号を先頭に17隻の陣容であった。今度は連合艦隊も、なるべく遠くまで誘い出してたたく作戦をとり、南東方向に脱出しようとするロシア艦隊に追いすがった。午後1時すぎから始まった 海戦は容易に決着がつかなかったが、6時すぎ、旗艦ツェザレウイッチの司令塔を撃破したのを 機にようやく日本側の勝利となった。司令長官以下の幕僚を一瞬にして失ったツェザレウイッチ は舵にも故障を生じ、このためロシア艦隊の陣形はいっきょに乱れてしまった。利あらずとみた主力はふたたび旅順に逃げ帰ったが、ツェザレウイッチと駆逐艦3隻は膠州湾に、巡洋艦と駆逐艦各1隻は上海に、さらに1隻の巡洋艦はサイゴンに逃げ込んで武装解除されたし、山東で駆逐艦が、樺太付近で巡洋艦が擱坐するというありさまであり、旅順艦隊の力は半減してしまった。黄海の海戦と呼ばれているのがこれである。

  しかし、それでもまだ旅順艦隊はウラジオ艦隊よりはるかに大きな力を残している。閉塞作戦や海戦によってこの艦隊を全滅させるのが容易でないことはもう明白であった。

  この海戦で連合艦隊のほうも旗艦三笠の艦長伊地知大佐が負傷したし、艦艇にかなりの損害を うけた。これらの艦艇の修理に2ヵ月はかけて、十分な戦闘力を回復してバルチック艦隊を迎えうちたいと考えた海軍側にとって、陸軍による旅順攻略が望みのつなとなってきていた。7月12日には、東郷連合艦隊司令長官の要請にもとづき、伊東軍令部長は山県参謀総長をおとずれ、バルチック艦隊の東航に備えるため、旅順をできるかぎり早く攻略してほしいと申し入れた。



遼陽をめざして

  すでに5月29日、乃木希典大将を司令官とする第三軍戦闘序列が決定され、このころには旅順総攻撃のための軍需品集積が急がれていた。

  同時に満州では、遼陽のロシア軍主力との対決の体制が整えられていた。第三軍に旅順をまかせた第二軍は、6月15日、ロシア軍最初の大規模な反撃を得利寺付近で迎えうって撃退し、7月25日大石橋、営口を占領、また第一軍は7月17日摩天嶺を占領した。その中間にあった独立第十師団は後備第十旅団と第二軍より第五師団を加えて第四軍に改編され、第二軍の海城攻撃と呼応して柝木城を攻撃、7月31日より8月4日にわたる戦闘で海城を占領、第二軍と連絡した。この三方から前進した将軍は遼陽で一つに結びつくはずであった。

  これでほぼ遼陽攻略の陣形が整ったのであるが、こうした前進によって、補給の問題が重大になりつつあった。大本営は最初7月中旬に遼陽攻撃を望んだが、それも補給の関係で実現しなかった。とくに7月から8月にかけては満州の雨期であり、河川は増水して渡河が困難となり、平地では道路がぬかるみとなって車の通行をはばんでしまう。

  とくに第二軍方面では、6月27日から降り姶めた雨のため、早くも兵站倉庫が空になるありさまであり、兵隊の食糧を半減するという事態まであらわれていた。ここにはロシアの建設した鉄道かおるわけであるが、ロシア軍は機関車は残さずもち去ってしまったし、日本から機関車をもってきても日本のは3フイート6イソチの狭軌、ロシアは5フイートの広軌だから、そのままはつかえない。結局、将来のことはともかくとして、とりあえずは線路を狭く敷きなおして、日本の機関車をつかうのが早道ということになったが、改築に着手したのは7月中旬であり、そ れまではロシア軍が残していった貨車を人間が押してゆくほかはなかった。このため1200名の 兵隊まで動員したが輸送は遅々として進まず、結局、渤海湾からの海上輸送を中心とすることになった。第一軍方面でも安東県―鳳凰城間に軽便鉄道が7月13日に完成したが、これも手で貨車を押してゆく代物であった。しかしそれでも馬車より有効であり、遼陽をめざして修理や延長がはかられたが、十分な補給を確保するわけにはゆかなかった。8月6日には、大本営に弾薬の追送を要求する電報がとどいている。旅順のほうでも、第三軍はまず大連からの鉄道を修理することを総攻撃開始の前提としていた。ともあれ、8月中旬には、旅順と遼陽をめざす大攻勢の準備が完了した。

  6月20日、在満四軍を統轄するため、満州軍総司令部が編成され、大山参謀総長、児玉参謀次長がそれぞれ総司令官、総参謀長に任命された。参謀総長の椅子には山県有朋がついた。7月10日大山総司令官は宇品を出発、その指揮下に始まろうとしている四軍をあげての総攻撃は、まさに日露戦争最初のヤマとなるものであった。

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