1966年8月

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日露戦争


表紙

古屋 哲夫

はしがき
1ロシアの極東進出と日本
2戦争に踏み込む
3満州が主戦場に
4決戦を求めて
5ポーツマス講和条約
6日露協約―結びにかえて―

3満州が主戦場に
制海権の確保
韓国の実権を握る
遼陽と旅順を占領


3満州が主戦場に


韓国の実権を握る



日韓議定書の調印


 このような戦局の進展と並行して、朝鮮支配の面でも、満州軍総攻撃の開始される8月ころにはいちおうの基礎固めを終っていた。すでに述べたように、 開戦前に、韓国皇帝を日本の側にとり込んでおくことが重視されていたのであったが、これが実現されたのは結局日本軍が韓国占領を開始してからのことになっていた。

  開戦前年の10月ごろから、韓国皇帝との閉係を確保しておくために、密約をとり交わしておこうとする工作が具体化していた。日本は韓国の独立と韓国皇室の安全を確保することを約束し、韓国は日本の不利益になるような協約を第三国と結ばないというのがその骨子であり、この実現のためには、韓国皇帝のおそれている在日韓国人亡命者の処分を厳重にすること、韓国に借款を 与えることなどの条件か示されていた。さらに開戦必至の情勢になってくると、12月27日、 小村外相は、「韓国皇帝ヲ我方ヘ抱込ミ置カンコト極メテ必要ナルニ付……必要ナラバ相当ノ金額ヲ贈与スルモ妨ゲ」ないとの訓令をも発した(『外交文書』36の1)。

  こうして翌年1月にはどうやら密約締結の可能性がみえてきたが、しかし韓国訓には日露のどちらかに加担することは独立を失うとする意識も強く、1月21日には韓国外相の名で中立声明を各国に送り、日本がこれをみとめてくれれば密約に署名するとの態度を示した。結局日本政府は中立声明になんの回答も出さず、密約は流産し、開戦を迎えた。そしていち早く京城を占領 した日本軍の威圧のもとに、開戦2週間後の2月13日、日韓議定書が調印されることとなった。

  この議定書では、日本が韓国の独立および領土保全、韓国皇室の安全をはかること、韓国政府は施政の改善について日本政府の忠告をいれること、第三国の侵害や内乱のため、韓国皇室の安全や領土保全に危険のある場合には、日本政府は臨機必要の措置をとり、韓国政府は十分の便宜を与えること、日本政府はこのため軍略上必要の地点を臨機収用できること、この議定書に反する協約を第三国と結んではならないことなどが規定された。

  日露戦争による出兵は、第三国(ロシア)による侵害の場合にあたるというわけである。しか し同時に内乱も想定されていることは、占領と同時に日本軍が開始する憲兵による弾圧の根拠を与えるものでもあった。

  韓国側はこのさいにもなお、独立の確保の余地を少しでも残そうとし、日本側原案の「日本政府ノ助言助力」による施政の改善をたんに「忠言ヲ容ルルコト」と修正したりしたが、もはや軍事支配を確立した日本としてはそのていどのことはどちらでもよかった。韓国政府が自力で建設を始めた京義鉄道(京城―義州間)も、軍事的必要の名のもとに、日本にとりあげられ、軍の手によって建設が急がれた。2月24日、小村外相は、日本の京義線建設着手は、「軍事上ノ必要ニ基クモノナルヲ以テ韓国政府ノ承諾ヲ求ムル限リニアラズ」と訓令している。



植民地化の構想

  こうした日本の軍事支配の確立のもとで、韓国皇室は2月二28日、日本軍の軍需の一部にとして、皇帝十万円、皇太子五万円などの寄付を中した。これに対し政府は、3月8日、枢密院議長伊藤博文を特派大使とし、天皇の親書をもって渡韓させることに決定、伊藤は、3月18、20、25日と3回にわたり皇帝に謁見して政治改革について意見を述べると同時に、天皇からの贈物として皇帝に30万円を贈った。

  しかしこの訪問がたんなる儀礼的なものでなかったことは、謁見に先だって彼が宮内大臣につぎのように訪韓の意味をのべ、皇帝に取りつぐことを求めているのでもわかる。

  伊藤はまず、自分が韓国の態度をじっさいにみてどう復命するかは日韓関係に重大な関係をもつとし、韓国が日韓議定書の趣旨にそって日本と主義方針を同じくするならば、日本は韓国を「恒久不易の友邦」として俟つであろうが、もし韓国の態度が不鮮明で去就定まらないときは、在韓日本軍を数倍にして威圧の行動に出るなど、変にそなえねばならない、と述べた。日本の言うことをきかなければ、兵力によって制圧すると露骨に脅迫したのであった。

  しかしじっさいには韓国の態度いかんにかかわらず、日露交渉でロシアに要求して承認させることができなかった韓国の保護国化を、軍事力による制圧のもとに強行してゆくのであった。

  5月30日、元老会議で、「帝国ノ対韓方針」(翌日閣議で決定)を明確に打ち出し、「帝国ハ韓 国ニ対シ政事上及軍事上ニ於テ保護ノ実権ヲ収メ経済上ニ於テ益々我利権ノ発展ヲ図ルベシ」とした。つまり、日韓議定書を一歩進めて、軍事・外交・財政を日本の監督下におき、交通、通信機関を掌握、農業・林業・鉱業・漁業などの面で日本人の事業を拡大しようというのであり、端的な植民地化の方向を打ち出したものといえよう。

  まず軍事面では、平和回復後も相当の軍隊を韓国要地に駐留させることが必要であり「平時ニ於テモ韓国上下ニ対シ我勢カヲ維持スルガ為メニ頗ル有用ナリ」とした。これが軍事支配を戦後まで確立する方針であることは、財政節減の名目のもとに「将来韓国ノ防備ハ我邦自ラ之二任ズベキヲ以テ韓国軍隊ハ親衛隊ヲ除クノ外漸次ニ其数ヲ減セシムベシ」と述べていることからもうかがわれる。

  ここから当然「韓国内地及沿岸ニ於テ軍略上必要ノ地域ヲ収用」し、軍事基地化が進められることになり、同時にこの土地の買収、収用に対する朝鮮民衆の抵抗をも呼び起こしてくる。

  第一軍が前進していったあとに後備歩兵五個大隊を中心に韓国駐箚軍が(司令官原口兼少将)が編成されたのは3月11日であったが、以後この駐箚軍が朝鮮民衆の反抗を抑えながら、支配の主役にのしあがってゆくのである。すでに開戦直後の2月17日、公使館付武官伊知地少将は「半島総督府条例」を判定して大、中将の軍人総督を任命し、公使をもその統率下に置くという案を大本営に提出しているが、こうした考え方はしだいに支配的になっていった。たとえば、8月11日の駐箚軍林参謀の参謀総長あて上申では、「威圧を主とする当今の韓国操縦に対しては軍司令官の権能をして公使の上に立たしむるに非ればわが政策の実行は不可能なり」と訴えている。

  この方向はまず8月12日、韓国駐箚軍の後備歩兵十二個大隊への増強となり、ついで9月5日、近衛師団長長谷川好道を中将から大将に昇進させて駐箚軍司令官に任命するという措置となりてあらわれた(10月13日京城着任)。これで司令官の方が公使より格が上になったわけである。

  ところでこれらの措置はたんに軍部の意向を採用したというだけのものではなかった。さきの保護国化方針で軍事とともに重視されている外交・財政の掌握の準備が進み、日本政府推薦の顧問を押し込むことでいわば内側から実権を握るという方針が立てられてくると、公使の機能は低くなってくるという事態に対応していた。そしてこうした実質的な韓国主権の剥奪に対する抵抗を威圧する軍隊の役割は、急上昇してゆくのである。



第一次日韓協約

  日韓議定書を一歩進めるという方針の具体化は、8月22日の日韓協約(第一次)の調印によって実現された。この協約は三ヵ条からなり、(一)韓国政府は日本政府推薦の日本人一名を財政顧問に、(二)日本政府推薦の外国人一名を外交顧問に任用すること、(三)韓国政府は外国との条約締結、外国人に対する特権譲与もしくは契約などについては、あらかじめ日本政府と協議すること、というのである。

  外交顧問に外国人をあてたのは、国際的反響を顧慮したからであり、とくにあまり目立つことをやって、アメリカ、イギリスの世論を失ってはまずいと考えたからであったろう。外交顧問には、アメリカ駐在日本公使館の顧問スチーブンス、財政顧問には、大蔵省主計局長目賀田種太郎があてられた。とくに第三条が設けられたのは、韓国政府が日韓議定言と矛盾する対外条約、契約などは結べないとしても、それ以外のものは自由であり、外国人の要求に応じて利権を与えることが心配だったからであり、この心配が顧問任用の第一次日韓協約の調印を急がせた最大のモメソトになっていた。

  韓国政府と目賀田の顧問傭聘契約は10月15日、スチーブンスとの契約は12月27日締結されたが、それによれば、韓国政府は財政・外交のいっさいの案件は、両顧問の事前の同意がなければ実行できないことになっている。これで韓国政府は、財政・外交というもっとも重要な部門での実権を失った。これはまさしく併合への第一歩であった。

  「治安維持」という言葉で表現されている駐箚軍の任務は、こうした中央政府の掌握に対応して地方官吏を抑え、また一般民衆の批判を抑えることにあった。駐箚軍は7月京城およびその付近に軍事警察を施行、ついで咸鏡道に軍政をしき、憲兵によって実施させたが、その憲兵の任務はつぎのようになっている。

  まず7月20日の軍事警察訓令によると、(一)治安を妨害する文書の押収と、起草、配布者の処分、(二)治安に害ある集会、新聞の停止と関係者処分、(三)兵器、弾薬などの私有者の検査、押収、処分、さらには(四)「郵便、電報ヲ検閲シ疑ハシキ通行人ヲ検査スルコト」にまで及んでいる。

  さらに10月9日の「軍政施行ニ関スル内訓」では、軍事警察訓令の内容を拡大して改めているほか、「地方官吏ニシテ荀クモ我ガ軍ニ対シ不利益ノ行動ヲ為スカ若クハ不適任ト認ムル者アル トキハ任地ヨリ退去ヲ命ズベシ」と追放にまで及んでいる。また、どんな理由にしろ地方言が任地にいないときには適任者を選んで事務をとらせろとか、韓国政府の任命した地方官でも軍司令官の承認状をもたないものは拒否しろといった規定もある。あるいはまた、鉄道・電線・道路・橋などいっさいの軍事交通機関の安全については地方人民に責任をもたせ、軍事行動に必要な道路・橋などの修繕は地方費で行なわせることとも規定している(朝鮮総督府『朝鮮ノ保護及併合』)。

  これらのことはいずれも、韓国との条約によって得た権利ではなく、軍隊が実力によって押しつけたものである。この中には戦争の負担を朝鮮民衆に押しつけるという面と、日本のやり方に対する抵抗を、行動から思想にいたるいっさいの面で封じ込めようとする面とがまじりあっているが、ともかくも財政・外交顧問の任命と軍事支配とによって、日本の意に反する行動に出られないように韓国を押え込む体制ができあがったことを意味している。

  そして第一次日韓協約と韓国駐箚軍の拡充が同じ8月に行なわれたことは、早期講和が実現される可能性を考え、そのさい、韓国が自由な働き方ができないようにしておくこと、日本が講和条件の中心におく韓国の支配を既成事実としてつくりあげておくことの必要から急がれたという側面をも持っていたにちがいない。

  小村外相が、旅順占領と遼陽会戦の勝利を凱として講和する場合について、7月にすでに意見書を書いていることは前にもふれたが、その中で彼は「韓国ハ事実上ニ於テ我主権範囲ト為」すと述べていた。

  日韓協約が調印されたとき、第三軍はまさしく第一回旅順総攻撃の真最中であった。

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