1966年8月

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日露戦争


表紙

古屋 哲夫

はしがき
1ロシアの極東進出と日本
2戦争に踏み込む
3満州が主戦場に
4決戦を求めて
5ポーツマス講和条約
6日露協約―結びにかえて―

3満州が主戦場に
制海権の確保
韓国の実権を握る
遼陽と旅順を占領


3満州が主戦場に


遼陽と旅順を占領



第三軍の旅順攻撃

  「旅順、大連の兵備薄弱なる」とは先にふれた大本営四参謀意見書(2月27ひ日付)の中の一句であるが、じっさい、軍首脳部のあいだでは旅順要塞がどのていど堅固にできあがっているかについての情報を得られないまま、たいしたことはあるまいという希望的観測が支配的であった。ロシア側は、日本人とみればスパイ扱いし厳重に警戒 して、旅順にかんする情報を与えないことに成功していた。またその構築も巧みであり、包囲を 完成した第三軍が最良の望遠鏡でのでいてみても、野戦築城に毛のはえたぐらいにしかみえなかったという。

  しかし、いざ攻勢という段になってみると地形そのものが天険の要素をもっているし、セメソ ト20万樽を使用したという情報もあり、要塞正面からの強攻が成功するかどうかという危惧も感じられた。大本営側ではむしろ正面を避けて西に迂回し、旅順港の背後から攻撃する方がよくはないかとの意見をもった。しかし第三軍はこの意見を悲観的にすぎるとし、要塞正面からの攻撃を決定した。

  もちろんそれはたんに旅順を甘くみたということではなく、さきにふれたような、バルチック艦隊が来るから早く旅順を落としてくれという要求が優先的に考慮されていたからでもあった。 第三軍では西側に迂回する作戦は、鉄道からの距離が遠くなるから重砲の配置に時間がかかり、 また地形上中心的防御線を突破しても、なお第二線で抵抗の余地があり、いっきに旅順を占領することができないとして反対した。なるほど、二竜山から東鶏冠山を攻撃正面に選べば、旅順港への最短コースにはちがいなかった。

  8月19日、いよいよ第三軍の砲撃が開始され、翌日も続行、この間一部の突撃を行なってみたがロシア軍の抵抗は強力であった。しかし砲弾の準備からいって、これ以上砲撃だけを続けるわけにゆかないと判断した司令部は、21日午前4時を期して総突撃を命じた。しかし、砲撃は予想したほどにも成果をあげておらず、突撃部隊は鉄条網に悩まされ、機関銃に倒されるという情景が繰り返された。22日夜明け、望遠鏡には、東鶏冠山の斜面に死体が累々として横たわっている光景が映し出されていた。この状態からいったん攻撃中止に傾いた司令部も、磐竜山の一角を占領したとの報告が入ったため、突撃の続行を命じた。しかし、結局殲滅的打撃をうけて奪回されてしまった。24日、司令部は攻撃中止を命令した。5万人以上の兵力をつぎ込んだこの第一回総玖撃は、死傷15800人という大損害をうけて失敗に終った。

  この戦闘について大本営はなんの公表も行なわず、旅順が陥落したら祝賀会を開こうと準備していた市民たちもしだいに熱がなくなっていった。そのかわり、帰還する傷病兵の数がふえた。 当時東京にいたドイツ人の医者ベルツは、つぎのように日記に記している。「毎日のこと、傷病兵の長い列が―大部分は人力車だが、担架に載せられた者も多く、他は徒歩で―停車場から病院へ向かう途中、自宅の近所を通り過ぎるのを見る」(『ベルツの日記』明治37年9月14日)



遼陽の戦い

 第三軍の旅順攻撃と同時に行なわれるはずだった第一、第二、第四軍の遼陽攻撃は、13日以来の豪雨のため、旅順総攻撃が失敗に終った4日後、28日に延期されていた。

  日本軍は13万余の軍隊を集め、ロシア軍もまた22万余の軍隊を有し、クロパトキンも初めて決戦を決意した。ここに日露戦争最初の両軍主力の激戦が展開されることになる。

  日本側は最初、第二軍正面の鞍山站の線でロシア軍主力が決戦に出てくるのではないかと予想 したが、26―7日の攻撃で筒単にロシア軍が後退してしまったため、敵は涼陽までいっきに退却すると判断して、28日、総攻撃を命じた。しかし予期に反してそこから頑強な抵抗にぶつかり始めた。とくに遼陽前面の首山堡の線ではロシア軍主力が第二、第四軍を迎えうち、機を みて逆襲に転ずる気配さえ示した。

  この間、右翼の第一軍だけが前進を続け、最右翼の第十二師団は30日の夜中に、遼陽を通って遼河に流れる太子河の上流で渡河、ロシア軍の背後をつく構えを示した。こうなってくると、正面からの逆襲で右翼が逆に分断される危険も出てきた。戦局の焦点は、ロシア軍防衛線の中心である首山堡の陣地をできるだけ早く突破することにかかってきた。

  31日午後3時、総司令部参謀は首山堡攻撃の第二軍につぎのように打電している。

  「全戦役の運命を決すべき前日来の戦闘は、各軍共に行悩み、第四軍及び近衛師団は優勢なる敵に圧迫せられ現状を保持するに止まり、第一軍は第二軍の成功に信頼し、果断なる運動をなしつつあり。今や各軍共にその運命を第二軍の成功に賭して苦戦奮問しつつあり、ここに於て吾人は 貴軍の成功を祈る」(沼田多稼蔵『日露陸戦新史』)

  日露政争において軍神あつかいを受けたのは、海の広瀬中佐と陸の橘中佐であったが、橘はこの31日夜から大隊をひきいて突撃を敢行して戦死、翌日の首山堡占領をみちびいたのであっ た。

  しかし9月1日ロシア軍が後退を始めたのは、たんに日本軍の猛攻のためばかりではなかった。 31日、第一軍の太子河渡河を知ったクロパトキンは、この方面からの包囲をおそれ、遼陽南方の戦線を縮小し、主力をひき技いて第一軍方面に攻勢に出る作戦を決定した。この作戦が成功すれば、第一軍が大きな損害を蒙ったにちがいないが、ロシア軍もこの大移動で混乱し、結局9月3日クロパトキンは総退却を命令、9月4日、日本軍は遼陽を占領した。

  連続して1週間にわたった戦闘の結果、兵隊は疲れ、砲弾もなかった。追撃の力は残されていなかった。この戦闘で日本軍の死傷23500名、ロシア軍の死傷も約20000名とされているから、大きな兵力的打撃を与えられなかったことは明らかであるが、ともかくも、遼陽を占領し、朝鮮、遼東、大孤山の三方面から進んだ軍隊をここで統一するという最初からの大目標は達成された。そして同時に、こんごどのような作戦を行なうかを決定しなくてはならなくなった。開戦前の作戦計画はここまでだったのだから。

  その決定にあたっては2つのことが考慮されなければならなくなっていた。一つは補給能力がどのていど拡大できるかということ、もう一つは、それと関連させながら、旅順攻撃と満州での北進とどちらに重点をかけるかという問題であった。



砲弾の不足

  第一回旅順攻撃に失敗した第三軍は、つぎの攻撃のためにさっそく、砲弾の大量追送を要求してきた。一日も早い旅順攻略を望む海軍の意向もあり、大本営は満州の北進諸軍の砲弾要求を抑えて、旅順からの要請にこたえねばならなかった。陸軍省は開戦前 の明治36年夏から砲兵工廠に徹夜作業を命じ、開戦後は民間工場をも動員したが、じっさいの需要に追いつけず、8月から砲兵工廠の大拡張を行なうとともに、ドイツのクルップ社、イギリスのアームストロング社などに砲弾四十五万発を注文した。しかしそれが到着するのは12月以降であり、それまで北進軍はつねに砲弾不足に悩まされつづけた。しかも重点的な補給をうけた第三軍の旅順攻撃も進展しなかった。



要塞砲を旅順へ

  第一回総攻撃失敗後、大本営にはこれまでと同様のやり方では旅順を落とすことは難しいのではないかという危惧の念が生まれていた。そしてまず、8 月27日、従来よりも破壊力の大きい大口径の巨砲を旅順に向けることが決定された。これよりさき8月7日、バルチック艦隊に備え対馬海峡を確保するために、朝鮮の鎮海湾、巨済島方面に砲台を築き、28セソチ榴弾砲を東京湾要塞、芸予要塞、下関要塞からはずして移動させることが決まっていたが、この巨砲を旅順攻撃につかおうというのであった。

  当時、旅順要塞に向けられた大砲の主力は口径12センチおよび15センチ榴弾砲で、そのう えの28センチというのは、海岸要塞に備えるもので戦場にもち出すものではないというのが常識であったが、この最大の巨砲が旅順攻撃にもちこまれることになった。

  ところで旅順の方では、9月5日の作戦会議で攻撃陣の右翼にあたる第一師団から二〇三高地攻撃が提議され、支作戦としてみとめられた。やがて二〇三高地は爾霊山と通称されるようになるが、これが二〇三高地が正式に作戦計画にとり入れられた最初であった。

  この計画を知った大本営側では、この二〇三高地攻撃と28センチ榴弾砲の使用を結びつけるにいたった。つまり二〇三高地は、旅順の背面にあたる山で、この山からは旅順の町や港が見おろせるはずであり、この山頂からの観測によって28センチ砲でロシア艦隊を砲撃、破壊しようというのであった。しかも二〇三高他方面は、日本軍の接近により防備が強化されたとはいえ、二竜山から東鶏冠山という正面要塞にくらべればはるかに弱いものとみられた。

  この大本営側の計画は、兵員の損失を避けたいという配慮にもつながっていた。つまり、旅順攻撃の目的は、その中にいる艦隊を海上からでは撃破できないから陸上から攻撃する点が中心であり、このことさえ実現できれば、あえて多くの犠牲を出してこの堅固な要塞を占領する必要はなくなってくる。旅順のロシア軍が要寒を出て反撃に転ずることは考えられないのであり、ロシア艦隊さえいなくなれば、旅順はさして日本軍をおびやかす存在ではなくなるというのである。 以後大本営側はこの作戦を旅順攻撃の中心とするように要求、これを支持する満州軍総司令部と、 従来どおり主要塞攻撃を中心とする第三軍とが対立することになってゆく。



兵力の不足

 そしてこの問題の背後には、兵員の補給の問題が生じていたのである。開戦時の兵力は近衛および第一から第十二までの十三個師団であったが、遼陽会戦の時点ですでに旅順三個師団、遼陽に向け八個師団の計十一個師団が出征しており、内地に残っていたのは、第七、第八の両師団だけとなっていた。しかも開戦より9月末までに補充のため各師団に送り込まれた兵員は、65000余名に達していた。これに対してロシア軍の方は増援部隊が続々と到着し、また9月には、現に満州にあるクロパトキン麾下の部隊を第一軍団とし、新たにリネ ウイッチ大将を司令官とする第二軍団を編成して極東に送り込むことが決定された。大本営は、シベリア鉄道の補給力その他からみて、ロシア軍は戦場に、日本式にいえば三十六個師団を養うことができると判断した。遼陽会戦直後、大本営が野戦四個師団の新設および兵役年限を延長して後備歩兵四十八大隊を増加することを決定したのは、こうした情勢への対応のためであった。

  このうち兵役年限の延長は9月29日公布の徴兵令改正としてすぐ実現され、後備役は5年から10年に、兵役年齢は32歳から37歳まで引き上げられた。しかし師団新設のほうはそうすぐに実現するものではなく、師団編成を終り軍旗が授与されたのは、第十三師団がいちばん 早くて翌38年4月15日、このときすでに奉天会戦は終っていた。以後、第十四師団、6月13日、第十五、十六師団、8月8日となっている。

  ところで、兵員補充の問題はこうした兵員総数の問題よりも、将校の補充の方がより困難な問題であった。日本軍の勝利が将校の素質、指揮能力に依存するところが大きかっただけに、この問題は深刻であった。またすでに第一線における士気のゆるみが伝えられ始めてもいた。谷寿夫は従軍当時を追想してつぎのように述べている(『機密日露戦史』)。

  「従軍各将卒中には已に遼陽に達せば交戦終焉すべしと楽しみにして漸く目的を達し、ヤレヤレ もう安心なりとするの念慮腹中に充満するもの多かりしは事実なり」「此頃我軍隊中に『補充兵は消耗兵なり、進撃喇叭(ラッパ)は冥土の鐘なり』『旅順に進むものは意気銷沈し、北進軍に従軍するものは志気昂る』等の言を弄するもの生じ寒心に堪へざるものあり」

  また士官学校長から近衛第一旅団長に就任した伊崎少将は、児玉のあとをついで参謀次長となっていた長岡外史少将にあてて、9月29日、「志気は旺盛なりと揚言するも其実は未だ容易に首肯すべからず」と書き送っていた。こうした状況に対しても、優秀な将校による士気引締めが必要と考えられたことは疑いもない。もちろん、将校補充のためには、士官候補生の増徴、教育期間の短縮、下士官よりの進級など、さまざまなルートの拡大がはかられた。しかし、もっとも重要なことは損失を少なくすることにほかならなかった。



まず旅頃を

 これらもろもろの条件からみて、大本営の第二期作戦についての考え方はつぎのような方向に固まっていった。

 まず旅順に対しては二〇三高地占領―28センチ砲による旅順艦隊砲撃を主作戦として、兵員、物資の損失を少なくする。そして兵力はできるだけ北進軍に集めて、増大するロシア軍に対抗する。しかし旅順と遼陽の両面で同時に大作戦を行なうことは補給が困難であるから、旅順のほうが片がつくまで、遼陽付近ではこれまでのように積極的な攻勢をとらず、陣地を築いて前進せず、敵が攻めて来たら迎えうつこととするというのである。

  9月27日の御前会議で、開戦前の作戦計画で支作戦として決定されていたウスリー方面への進攻を無期延期し、そのためにとっておいた第八師団を遼陽方面に出征させることを決定したのは、こうした大本営の意向を示したものであった。

  同様な観点から今後の作戦を立てようとする意見は満州軍の中にも生まれていた。参謀本部総務部長から満州軍総司令部高級参謀に転じていた井ロ少将は、9月16日、今後の作戦指導についての意見書を書き、これまでの戦闘は戦略的要点を奪うことに主眼をおき、したがってわが軍も大きな損害を蒙ってきたが、今後は少ない損害で敵の主力に殲滅的打撃を与えることが重要だと論じた。したがって作戦面でも、堅固な防御工事を施した敵陣の正面は、一部の兵力で砲火を あびせるに止め、主力は大きく迂回させて、側面あるいは背後など、敵の弱点をみつけて攻撃すべきだとした。

  これに対しては、補給がつきしだい前進して、第二の戦略目標である奉天を占領すべきだとする反対論もあったが、児玉総参謀長はこれに決を与えることなく、9月15日、旅順攻撃視察のため南下していった。たしかに旅順攻略の成行きが、北進軍の行動を拘束する大きな要因となっていた。

  9月19日、第三軍は第二次総攻撃の前哨戦として、ロシア軍の前衛堡塁攻撃を開始、このときはじめて、二〇三高地攻撃も行なわれた。この結果、竜眼北方堡塁、水師営南方堡塁に加えて、二〇三高地前方の南山波山を占領したが、二〇三高地攻撃は失敗に終り、22日攻撃は中止された。しかし、南山波山からでも旅順旧市街の一部とロシア軍艦数隻がみえるとの報告があり、この山頂や気球による観測に従って、ロシア軍艦砲撃が始められることになった。

  とはいえ、第三軍は大本営の思惑とはちがって、二〇三高地は支作戦とする態度を変えず、28センチ砲も大部分を要塞正面に配置した。10月1日から始められた28センチ砲の砲撃は、 たしかに破壊力大きく、これをみた児玉総参謀長はさらに六門の追送を大本営に要求した。これに対して、南山波山からの観測による港内砲撃はさっぱり命中しなかった。これは観訓点の悪さはあるにしても、これでは28センチ砲の港内砲撃は予期した成果をあげえないのではないかとの感を児玉に与えた。遼陽に帰ってゆく児玉の胸中には、28センチ砲18門をならべて、主要塞線を突破してゆく第三軍の光景が描かれていたにちがいない。しかし彼には、旅順視察をとり入れた長期作戦構想を練っている暇はなかった。彼を待っていたのはロシア軍逆襲のニュー スであった。



沙河の会戦

  日本軍が兵員、物資の補給を待ちながら遼陽付近で停止しているのをみたクロパトキンは、日本軍の損害が大きくて動けないのだと考え、初めて全軍をあげた反撃を企てた。10月5日、ロシア軍は総前進を始め、とくに日本軍右翼に大きな兵力で攻撃を加える作戦をとった。

  満州軍総司令部は6日から7日にかけてこうした情勢をつかんだが、次期作戦計画が決定していないという状態のもとでは、このロシア軍の反撃への対抗策についても議論が分かれることになった。総司令部の高級参謀のあいだでは、敵を十分に日本軍陣地に引きつけ、大きな打撃を与え、その混乱に乗じていっきょに出撃するのが有利だとする主張と、敵の兵力の集結が完全でないうちに先制攻撃を加えるべきだとする意見が対立した。児玉総参謀長も決しかねて9日、各軍参謀長と会食懇談したが、結局翌10日からの先制攻撃の命令をくだした。まだ防御の策をとるほどには陣地構築が進んでいなかったからである。このときすでにロシア軍の攻撃は問始されていた。日本軍最右翼である本渓湖付近の第一軍に対するロシア軍の攻撃が始まったのは、8日午後3時であった。

  日本軍は、第一軍がこの右翼からの攻撃をもちこたえているあいだに、左翼で敵を圧迫しながら中央を突破するという作戦で行動を開始した。このため、本渓湖方面では一時非常な苦戦に陥ったがよくもちこたえ、騎兵旅団をさらにその右翼に進出させて12日には危機を脱した。この間、第二、第四軍は漸次前進を続け、部分的勝利を収めたとはいえ、戦線全体の均衡を崩すまでにはゆかなかった。

  13日夜、大山総司令官は、各軍司令官にあてて、この会戦では敵に先制して迅速な勝利を期したが、予期に反してすでに4日を経過した、「而して戦闘延引せば、体力弾薬の消耗共に大にして、消耗と補充と相一致せざるに至らん事を恐る。寧ろ野戦に於ては一時の消耗を大にするも、 戦闘決勝の期を早むるに如かず」と命令した。損害をおそれず、短期決戦の大玖撃を行なえというわけである。

  この夜はロシア軍は後退を始めた。クロパトキンは、中央から分断されることをおそれて戦線の縮小を命じた。日本軍の右翼を攻撃していたロシア軍は急速に後退し、15日には、第一軍、 第四軍の正面は平静となった。日本軍も追撃戦に出なかった。しかし第二軍方面では依然として激戦が続き、15日万宝山を占領したものの、激しい反撃にあって翌16日、第二軍司令官は攻撃を中止し後退することを命じた。この後退作戦は困難をきわめ、万宝山付近ではロシア軍逆襲のため大砲14門を捨てて逃げるという敗北を契した。しかしロシア軍もこれにさらに追撃戦を挑むことなく、17日には全戦線で戦闘が終った。

  この間、16日、児玉総参謀長は山県参謀総長から、すでに述べたような補給の困難を強調し、遼陽付近に堅固な陣地をつくり、こんどのように敵が攻めてきたら迎えうつ作戦を希望する旨の電報をうけとっていた。児玉は19日近電を打ったが、そこには日本軍の状況がつぎのように述べられていた。

  「我が兵力土気共に目下優勢の位置に在るを以て、この時機に於て今一度政に打撃を与ふるは最も有利とす。然れども如何せん、砲弾欠乏のため、これを実行する能はず。現に全線共に三、四百米より、二、三千米の間に接触し、日夜銃砲火を交へ、毎夜互に夜襲を反復しあるに拘らず、 更に断乎たる打撃を加ふること能はずして沙何の線に堅固に陣地を構成し、ただ弾薬の補充を待たざるべからざるは実に遺憾に堪へず」と。

  この沙河の会戦で、日本軍の死傷約20500名にのぼったが、この兵員の損害と弾薬の不足が補充されると、満州軍参謀部の中に、こうしたうやむやのままの滞陣をきらい、攻撃に出ようとする意見が支配的になったのはある意味では当然であった。11月17日、参謀部は総参謀長に意見書を送り、このままロシア軍の増強を無為に見送っていては、将来攻勢に出ることが困難となるおそれがあること、旅順も落ちず、北進軍も消極的になっては、国民が失望するのはともかくとしても、列国に軽蔑の念をおこさせ、戦争の終局に不利となることなどの理由をあげて、前進の開始を主張した。

  しかし児玉総参謀長は大本営の意向を顧慮し、また旅順の状況をみすえて、この主張をうけいれなかった。

  北進軍九個師団は、沙河の会戦のあと、ロシア軍と対峙のまま冬をむかえた。12月に入ると 厳しい寒さに堪えるための設営に忙しくなった。もはや行動をおこすことは不可能であった。両軍合わせて35万の大軍が、沙河をはさんで凍りついたように動かなくなり、春を待ちつつ冬営に入るのであった。



バルチック艦隊、いよいよ出発

  この間10月16日、ロジェストウェンスキー指揮下の太平洋第二艦隊はいよいよバルチック海のリバウ軍港を出港した。海軍がおそれていた事態はいよいよ現実のものとなった。しかもこうした情報の入電するなかで行なわれた第二次旅順総攻撃もまた失敗した。前回の失敗にこりた第三軍では、要塞にできるだけ近いところまで壕を堀り、歩兵はここからとび出して突撃するとか、ロシア軍が突撃妨害のため造った外壕を通過する設備を考えるとか、あらかじめ鉄条網を破壊するなどさまざまな準備が行なわれた。そのうえで10月26日から総砲撃を問始、28日には28センチ砲18門の威力が眼にみえてきたから、あと2日も砲撃を続ければ大丈夫と判断、30日午後1時から突撃開始と決定された。第三軍参謀長はのちの報告で「最初の景況にては目標の大部分破壊せらるべく、従って歩兵の突撃は容易なるべしと判断」したと述べているが、この判断は大変甘かった。

  破壊は予期したほどではなく、突撃部隊はつぎつぎと倒されていった。後方からみていると突撃していって敵陣の前で「伏せ」と命令されでもしたようにいっせいに伏せてしまう、おかしいと思っていたら、機関銃でやられてしまっていたという話も伝えられている。第二次総攻撃の失敗は明らかであった。翌31日、3800の死傷を出して攻撃は中止された。

  その直後の11月3日、バルチック艦隊は北アフリカのタンジール港に入った。ここで艦隊は二手に分かれ、一隊はスエズ運河を通り、主力はアフリカ南端を迂回してマダガスカル島で合流する予定であった。吃水の深い大艦は、一度石炭などの搭載物資をおろさないとスエズ運河を通過できないからであった。大本営海軍部は、バルチック艦隊は12月中旬マダガスカル付近に集結、1月上旬には台湾海峡付近にあらわれる可能性があると判断した。そして遅くとも12月10日以降は、艦艇修理のため旅順艦隊に対する封鎖体制を緩めねばならないから、海上輸送は中止だとまでいい出した。満州軍からは、修理といっても艦隊全部を一時にドックに入れる必要はあるまいという抗議が出される一幕もあるなど、軍首脳部はバルチック艦隊をめぐって緊張の度を増していった。



最後の師団を旅順へ

 
11月9日、山県参謀総長は、大山満州軍総司令官に電報を送り、第三軍はまず旅順艦隊の撃破を急がなければならないと述べ、総司令官の意見を求めたが、その意味するところは、暗に第三軍の作戦計画を二〇三高地攻撃に変えさせようとしたものにほかならなかった。しかし翌日総司令官からの返電は、二〇三高地攻撃を得策とする意見もあるが、この高地は旅順そのものの死命を制するものではなく、ただ28八センチ砲の観測点でしかない。しかも「港内軍艦に対する28センチ砲の威力は、平時に於て予期したる如くならず」と反論し、二〇三高地には助攻勢を向けると述べていた。そしていちばんの近道は、現在の第三軍の計画を推進するために、内地にある最後の既設師団である第七師団を投入することだと主張していた。

  しかし大本営側もあきらめずに、11月14日御前会議を開き、海軍側の判断と、旅順攻略が困難ならば、旅順艦隊の撃破だけでも行なわねばならないという意見をまとめて満州軍総司令部に送った。だがその返事はまた前回と同様に第七師団の派遣を求め、海軍に対しては、封鎖のていどを緩めながら艦艇を修理することは可能ではないかと反発していた。

 大本営も満州軍の主張をみとめざるを得なかった。長岡参謀次長が述べているように、最後の師団である第七師団を送れという要請は、大本営にとって「痛し痒し」であった。派遣すれば「無論最初の突貫に師団の大部分は無くなる」が、といって送らなければ旅順陥落はもっとのびるかもしれないとして、大本営はしぶしぶこの師団に出兵を命じた。

  しかし満州軍総司令部も、二〇三高地攻勢の要請をまったく無視していたのではなかった。11月21日、第三軍に与えた訓令で、海軍の整備期間を確保するために「今日ノ急務ハ旅順ノ死命ヲ制スルニ足ルベキ要地ヲ攻略シ以テ旅順港内ニ在ル敵艦ノ戦闘カヲ奪ヒ得ルノ時機ヲ速ニスルニ在リ」(陸軍省編『明治軍事史』下)と述べているのは、二〇三高地攻撃への配慮をも含んでいたと思われる。



主攻撃を二〇三高地に転換

 こうした経過をたどって準備された第三軍の第三次旅順総攻撃は、要塞正面の中央にあたる望台占領を主目標にして、11月26日、いよいよ突撃を開始した。しかしこんどもまた第二回と同様に失敗したことがすぐさま明らかとなった。すでに前回の攻撃後から、第三軍の軍司令部や師団司令部は、砲弾のとどかぬ後方に引っ込んだまま前線視察もせず、要塞の強度の偵察も第一線部隊の報告を集めるだけで、独自の偵察をしていないのではないかとの批判が出ていたが、こんどもまた要塞は司令部の判断以上に強固であり、突撃部隊はつぎつぎと倒れた。翌朝まで突撃は続けられたが、軍司令部もこの攻撃の失敗をみとめており、やむなく次善の策として、27日朝、まだ夜の明けないうちから二〇三高地攻撃への転換を準備し、重砲の移動などを命じた。そして27日午前10時、軍司令官は、現正面の攻撃を中止し、二〇三高地攻撃を以後の作戦の中心とすること、砲兵はいますぐに主として28センチ砲をもって砲撃を開始し、第一師団は日没をまって突撃を敢行することなどを命じた。

  9月の第一師団の攻撃失敗以後、ロシア軍もこの高地の防備を強化していたとはいえ、コンク リートで固めた正面要塞に比較するとはるかに弱く、したがって28センチ砲の効果は大きかった。28日夜、突撃を繰り返した第一師団はついに山頂の一角を占領した。しかしロシア軍も日本側の攻撃の焦点がここに移ったことを知るや、ぞくぞくと兵力を移動させて逆襲に転じ、29日午前零時半にはせっかく占領した山頂も奪い返されてしまった。もはや第一師団には攻撃を続行する余力はなかった。軍司令官は総予備として手許にあった新着の第七師団に出動を命 じた。そして翌30日午前10時から突撃を開始した。

  この報告を烟台の満州軍総司令部できいた児玉総参謀長は激昂し、みずから旅順におもむくこととした。一度占領した二〇三高地を確保するには、つぎつぎと新鋭部隊を注ぎ込まねばならないのに、予備軍を約1日行程もある後方に置き、そのためせっかくの二〇三高地を奪回されてしまうとは、第三軍司令部はなにをやっているのか、というわけである。29日午後5時40分大山総司令官の名で第三軍司令官に発電された訓示は、つぎのような端的な批判を述べていた。「今回二百三高地二対スル戦闘ノ状況不利ナルハ指揮統一ノ宜シキヲ得ザルモノ多キニ帰スルト云ハザルヲ得ズ、畢竟高等司令部及予備隊ノ位置遠キニ失シ、敵ノ逆襲ニ対シ之ヲ救済スルノ時機ヲ誤リタルモノナリ、貴官深ク此ニ鑑ミ明朝ノ攻撃ニ当リテハ必ズ此弊ヲ除キ各高等司令部適当ノ位置ニ進出シテ自カラ地形ト時機トヲ観察シ占領ノ機会ヲ逸セズ且其占領ヲ確実ニスルコトヲ期セラルベシ」(前掲『明治軍事史』下)29日、旅順に向け出発した児玉のふところには「余ハ第三軍ノ攻撃指導ニ関シ要スレバ満州軍総司令官ノ名ヲ以テ第三軍二命令スルコトヲ貴官二委ス」という訓令が秘められていた。つまり、第三軍の指揮権を軍司令官から奪ってよろしいというのである。もっとも、乃木は児玉に軍司令官代理として指揮することをみとめたため、この訓令は利用されなかった。



旅順開城

 さて、30日午前10時から始まった第七師団の二〇三高地への突撃も簡単には成功しなかった。夜に入ってふたたび山頂を占領したものの、1日未明には再度ロシア軍に奪還され、以後5日にかけて文字どおり血みどろの混戦が続けられた。この間、1日正午第三軍司令部に到着した児玉は、乃木司令官から司令官代理とみとめる書状をうけとると、さっそく参謀たちを集め、砲撃強化のための諸施策の実行を厳命した。5日午前10時、突撃部隊は三たび山頂の一角を占領、午後1時、逆襲を撃退してようやくその占領は確実となった。

  児玉はすぐさま28センチ砲を進め、山頂からの観測によって港内軍艦の砲撃を開始することを命じた。午後2時から始められた砲撃によって、この日早くも戦艦ポルタワに中甲板まで浸水させるという損害を与えた。元来が海岸砲である28センチ砲は、軍艦に対しては大本営が 期待したとおりの成果を収めた。以後10日までの砲撃により旅順艦隊の主力を破壊した。

  児玉総参謀長が旅順から帰って行ったのは12月10日、海軍側が放順封鎖体制を緩めると言明 していた日であった。死傷17000を出した第三次旅順攻撃は、ようやく海軍側の最低限の希望をみたすことができたのであった。

  要塞正面の攻撃ももうあせる必要はなくなった。爆薬を仕掛け外壁を爆破してのち突入すると いう方法が着実に進められた。12月18日東鶏冠山、28日二竜山、31日松樹山が日本軍の掌中に落ち、もはや旅順陥落は時間の問題となった。

  1月1日、守備軍司令官ステッセルは軍使を派遣して降伏を申し入れてきた。翌2日水師営で旅順開城規約が調印され、日本軍は13日に入城していった。旅順攻撃に後方部隊を含めて130000の兵員をつぎ込み、死傷者59000余名の大損害をうけるとは、開戦前には予想だにされないことだった。

  旅順陥落の報をマダガスカル島でうけとっちバルチック艦隊は、さらにバルチック海から増援されることになった後発艦隊を待ちつつ、3月までの時間を空費することになるのであった。

4決戦を求めて