1966年8月

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日露戦争


表紙

古屋 哲夫

はしがき
1ロシアの極東進出と日本
2戦争に踏み込む
3満州が主戦場に
4決戦を求めて
5ポーツマス講和条約
6日露協約―結びにかえて―

4決戦を求めて
列強、講和へ動く
奉天占領
戦力の限界
日本海海戦


4決戦を求めて


戦力の限界



ハルビン占領を断念

 
奉天占領の報が入るとすぐ、長岡参謀次長は今後の作戦方進針案を作成し、3月11日、首相、陸相の同意を得て山県参謀総長に提出した。

  それは(1)守備に適する鉄嶺付近まですみやかに前進し、それ以上は大規模な北進作戦を行なわない、この戦争ではハルビソ占領は断念する、(2)すみやかにウラジオストック方面を占領する、(3)適宜の時期に樺太島を占領する、という三項目からなっていた。その主眼は明らかに、講和を 促進講和のさいの日本の地位を有利にすることに置かれていた。たとえば、樺太占領は戦後の領有を目的として、すでに前年から長岡次長が事あるごとに強く主張していたところであった。 またウラジオストックにしても、戦後の領有を夢みるとともに、ウラジオのようなロシア領土内の重要拠点を占領することは、ロシアから講和を言い出させる圧力になるという考え方が基本となっていた。

  つまり、ロシア軍に勝ったといっても、ロシアの領内に攻め込まなければ、ロシアに、敗けたといわせることが難しいし、またロシアが早期に講和を申し出た場合にも、日本の勝者としての立場がはなはだ弱いものになるというのであった。それはいいかえれば敵主力を撃滅することをあきらめ、敵の軍事力に決定的打撃を与えないままで講和を有利に実現する方策を探ることであった。長岡次長の作戦方針案は鉄嶺に軍を止める理由をつぎのように述べている。 「満州軍は鉄嶺附近を超えて前進すべからず。之れ兵帖事務の困難と兵力の分散を防がん為にして、敵に苦痛を与ふるよりも我の受くる困難多大なればなり、若し夫れ大に進んで哈爾賓(ハルビン)を占領することを得ば、戦略上至大の便益を得べき事無論なれども、之れ蓋し望むべく行うべからず、 乃其中間に於ては開原を得るも長春を占むるも敵は何等の打撃を感心ず、我に於ては労多くして利無し、之れ土地其物が敵の所有に非ればなり」(『明治軍事史』下)

じっさい、4月22日兵姑総監部がハルビソヘの前進を想定してつくった「鉄嶺以北の補給計画」をみると、ハルビソまでを四区間にわけ、鉄道を改修しながら北進するとして、最後の区間の前進を開始できるのは、1年2ヵ月後の1906年7月上旬以後とされている。距離の延長 によって補給の困難は倍加するわけであった。すでに述べたように外債に依存して戦争を続けている日本にとって、財政的にもこれ以上1年をこえる大作戦を実行することはほとんど不可能であった。じっさいにも、満州軍は5月上旬、開原の線まで前進しかだけで、以後停止し、先の 「補給計画」が第一期とした奉化―四平街の線にも達することなく戦争を終えているのである。



将校の不足

  さらに困難は、戦闘力そのものの面でも深刻となっていた。3月23日、山県参謀総長は首相・蔵相・外相あてに意見書を提出したが、その中で軍事上の困難について、(一)ロシアは本国にまだ強大な兵力を有しているのに反して、日本はすでにあらんかぎりの兵力を川いつくしている、(ニ)ロシアはまだ将校に欠乏していないのに、日本は開戦以来多数の将校を失い、今後容易に補充できない、との二点をあげていた。そしてそこから、兵員、将校のすみやかな補充の要求が出されていること、それに伴う財政上の困難が予想されていることはいうまでもないが、同時に他面では、訓練不十分な新設部隊の戦闘力低下をも予想しなくてはならなかった。

  すでに奉天会戦において、満州軍総司令部は、「後備旅団は悉く用を為さず」「一般に軍隊の運動は過去の諸会戦に比し、足重きを感じたるは補充兵多きに原因するならん」との感想を抱いたが(『機密日露戦史』)、4月に上京した児玉総参謀長は大本営に対し、「満州車内に在る後備歩兵旅団を、独立して作戦し得る如く混成旅団に編合すること」「後備隊は用途野戦隊と異なることなし、然るに成績上遺憾の点あるは、幹部殊に大隊長以上の老朽なるに因ること多し。よって之を 野戦隊の幹部と同一若しくはそれ以上に素質を向上すること」などの意見を具申した。また、従来日本軍は「素質優秀」をもって勝利を占めてきたが、この優秀さは逐次消耗しており、将来は兵員の数の優勢によるほか勝利の手段がなくなるだろうとして、兵力の増加を求めた(『日露陸戦新史』)。

  こうした実情にある軍隊や財政をもって、どういう作戦を行なうかの点について、山県参謀総長の意見書は、大きくいえば守るか、攻めるかの2つの道しかないと述べる。しかし現在の占領地域を守って敵が南下攻撃してきたら撃退するという方法をとるとすると、敵は増援部隊をつぎつぎと送り込んでくるのに、日本軍は無為の滞陣で士気がおとろえてくるということにもなりかねないし、これではいつ戦争が終わるるかわからない、とすれば攻めるしかないが、これもハルビソ を奪いウラジオストックを占領してもロシアの死命を制したことにならない、だから進んでハルビンを攻撃するときには、ロシアの首都まで攻め込む覚悟がなくてはならないというのである。

  山県はこの意見書を、作戦計画については我々に自信かあるから、閣僚諸君がすべからく国家の大政策を確立してほしいと結んでいるが、その内容はこの言葉とはうらはらに、純軍事的にはロシアを屈服させることができないことを告白したものにほかならなかった。

  彼はこの意見書を「政戦両略概論」と名づけていたが、奉天会戦後、政略と戦略の一致とか、軍事と外交の一致といった言葉が軍部の側から叫ばれるようになったのは、こうした軍事的行詰 りを反映したものであった。これより先、3月13日大山満州軍総司令官からも戦略政略の一致 を求める電報が大本営にもたらされていた。政戦両略の一致とは、先の長岡参謀次長の作戦案からもうかがえるように、ロシアの軍事力打倒は不可能として、外交面から講和を促進し、それに有利なように作戦を展開するということにほかならなかった。

  3月30日大本営決定の、以後の作戦方針では、鴨緑工軍を満州軍に編入し、ハルビソ占領に向かって前進させる、ウラジオ防衛の第一線として韓国北部を占領しているロシア軍を追い出し、できれば満州車の一部をさき、海軍と協力してウラジオ付近を占領する、できるだけすみやかに 樺太島を占領し、状況が許せば樺太占領軍の一部でカムチャッカ半島を攻略する、新たに六個師団を増設する、などの大風呂敷を拡げたものであったが、長岡参謀次長が「戦争切り上げとは言われぬからハルビソ占領を大きく出した」(『機密日露戦史』)と述べているように講和の実現を基本において可能な作戦を行なうということにほかならなかった。



講和条件の大綱を決定

  大本営から次期作戦についての協議のため上京を求められた児玉総参謀長は、3月28日新橋駅に着くと、出迎えの長岡参謀次長に「おれは 戦争をやめるために上京したのだ」と語ったと伝えられるが、児玉を迎えた政府、軍部の動きも講和問題をめぐって活発となっていった。児玉が満州への帰途につく4月下旬までのあいだに、 4月8日「作戦並外交歩調一致ニ関スル件」が、ついで4月21日には具体的な講和条件決定の最初である「講和条件予定ノ件」がいずれも閣議で決定された。前者は作戦面では現在の地位を守り、事情の許すかぎりいっそう優勢の地位を占め、外交では迅速かつ満足な平和を実現するため、いまの時期に適当な手段をとることを決めた。後者はこの外交のための基礎として、絶対必要の条件と、できるだけ実現をはかる条件とを分けて講和条件を決めたものであり、のちのポーツマス会議に提出される日本案の出発点となったものであった。

  絶対的必要条件としては、(一)韓国の日本による自由処分をみとめさせること、(二)日露両軍の満州撤兵、(三)遼東租借権とハルビソ―旅順間の東清鉄道の譲渡の3項目、できるだけ貫徹を図る条件としては、(一)軍費の賠償、(二)中立港に逃げ込んだロシア艦艇の引渡し、(三)樺太の割譲、(四)沿海州沿岸の漁業権の獲得の4項目がかかげられた。これより先、4月8日の閣議では韓国に対する保護権を確立し、韓国の対外関係を日本の掌中に収める方針を決めていた。具体的には韓国の外交権を日本が握るということであるが、その実行は列強の態度をみて時機を決めることとした。 講和のための工作と並行して、韓国保護国化を列強にみとめさせることが外交の課題となったのである。講和条件決定のため、元老、政府首脳などと会談を繰り返して意見の統一につとめた児玉は、4月21日、大山総司令官あての書簡で「日本ヨリ米国ヲ中間二立テ働キ懸クノ手段」 とすることを17日の元老会議で決定したことを報じていた(『外交文書5』別冊・日露戦争のX)。

  ところで、ここに注目されることは、賠償要求をできれば実現する条件の中に入れたこと、つまりやむを得なければ、賠償がとれなくても講和する態度を決めたことであった。すでに1904年7月の小村外相の講和条件にかんする最初の意見書でも、満韓ならびに沿河州方面での利権拡張を主張するにあたって、「殊ニ今回ノ戦争ハ或ハ満足ナル軍費賠償ヲ得ルコト能ハザルモ料 ルベカラザルヲ以テ益々我利権拡張ノ必要ヲ見ル所以ナリ」と述べて賠償獲得の困難を予想して いたが、この時期になると無賠償での講和を望む列強の態度が明らかになっていた。軍事力による決定的打撃を与えることができないままに、列強の動向に依拠して、ともかくも勝利者としての講和を実現しようという日本にとって、この無賠償講和の声を無視することができなかった。



列強、無賠償講和をのぞむ

  奉天会戦後、ロシアのこれ以上の敗北による弱体化、さらには革命の危機を避けるために講和を求める動きは列強のあいだでいっそう活発となってきた。ロ シア自体の中でも、奉天会戦の3日後、ウィッテが講和の急務を主張する上奏文を皇帝に提出した。彼はこれ以上の戦争の継続は、ロシアの財政経済を破綻させ、負担の増大からくる民衆の不満は恐るべき災禍をもたらすとして、講和の実現と議会開設の実施などによる民心の緩和を説いたのであった。革命をおそれだのはウィッテばかりではなかった。

  奉天会戦後、アメリカ駐在のドイツ大使、フラソス大使はあいついでローズベルト大統鎖を訪ね、ロシアの情勢がかつてのフラソス革命のさいのように近隣諸国に容易ならざる影響をおよぼすことをおそれると述べ、講和成立の可能性についてローズベルトの意見を求めた。そのさい両大使は、講和を日本の方からいい出すべきだとの考えを語っていた。ローズベルトは、戦勝者の地位にある日本にそれを求めるのは無理だとしたが、しかし仮に日本からいい出せば講和は成立するだろうかと反問していたし、3月16日には高平公使に対して、日本は講和の意思があるこ とをなんらかの方法で列強に通じ、できれば講和条件をも示すことが得策ではあるまいかと提案 した。この案は日本の容れるところとならなかったが、ローズベルトとしてみれば、列強の講和を求める動きに乗りながら調停の主導権をとろうとしたことは当然であろう。

  ロシアがあまり弱らないうちに戦争を終らせたいと考える列強の意図は、ロシアに屈辱を与えないような条件での講和という方向に固まりつつあった。4月5日、フラソス外相デルカッセは、 木野公使に対して、日本が領土割譲と償金支払いを要求しなければ、講和について自信があると語ったが、講和にあたっての最大の難閉がこの2つの開題、とくに償全問題になることは明らかになっていた。3月30日に高平公使を招いたローズベルトも、「日本は償金を要求しない方が得策だろう」「この問題についてはヨーロッパの態度を考慮しなければならない」「ロシアは償金を払う資金がないだろう」などの点を指摘していた。つまりロシアも戦争遂行の資金をフラソスなどヨーロッパ市場からの外債に大きく依存していたのであり、ロシアが日本に償金を払うとすれば、そのために新たな外債を募集する以外にない。しかし外債を引き受ける金融資本の側からすれば、ロシアの侵略政策に寄生しその分け前にあずかろうとするからこそ外債に応ずるのであり、日本に支払うための償金ではあまり面白味がなくなる、そんなことなら日本に直接金を貨してこの新興国を従属させる方が楽しみが多いということになるのは当然である。ローズベルトの言葉は、早期講和のためにロシアに屈辱を与えない条件ということが、このような全融資本の動向と結びついていることを指摘したものであった。

  また日本の外債を引き受けている英米の金融資本からいっても、ロシアの満州侵略を排除して中国市場の安定と満州開放を実現することが日本支援の目的であり、日本がその目的以上に、泥沼のような戦争に深入りすることに、資金的援助を与えるとは考えられなかった。彼らとしても戦争を早く切り上げて、戦後の中国市場への資本輸出を望んでいたのは当然である。ローズベル トは事あるごとに繰り返して、戦後の満州開放の実行について念を押していた。

  小村外相は4月3日、日本は償金要求の権利ありと考えること、領土については樺太の割譲を要求するつもりであることなどを、内密にローズベルトに伝えるようにとの訓令を発した。しかし、このような列強および国際金融資本の動向をみては、これらの要求を貫徹しない講和をも考えねばならなかった。そしてこの2つの条件は、4月21日の決定ではっきりと絶対的必要条件からはずされたのであった。

  日露講和をめぐる国際的動向とそれに従おうという日本の態度は、原則的に固められてきた。 あとはロシアの講和の申し出を待つだけであった。ロシアはまだ、地球の半分をまわる大遠征の途上にあったバルチック艦隊に、勝利の望を托していた。

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