『統一』299号

1968年11月

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津田道夫著「日本ナショナリズム論」を読む


 

古屋 哲夫


大衆意識への肉迫

本質規定と展開
民族の契機を無視
幾つかの疑問と期待

全的対決の立脚点を
現在の状況に正面から取り組む



大衆意識への肉迫

 “「明治百年」を中軸とする反動イデオロギー攻勢にたいする対決の書”(序文)として著者は自らこの本を性格づけている。しかもそこでの「対決」とは、イデオロギー攻勢の反動性を個別具体的に暴露することに止まるものではない。「わが愛国心にたいする羞恥を」という「全的否定の命題」によって、全的対決の思想的立脚点をつくり出そうと著者は意気込んでいるのである。つまり、ナショナリズムを問題にする場合、支配者レベルのナショナリズムをとりあげるだけでは、不十分であるばかりでなく有効な対決となり得ないのであり、大衆レベルにおけるナショナリズムとも対決しなければならないというのが、この本の主題なのである。「『日本人』―この大衆の常識―に迎合・妥協するのでなく、その汚辱にまみれた醜悪なる実態を暴露し」それに対する羞恥の意識、屈辱の意識を組織することによって、はじめて、プロレタリア・インターナショナリズムへの道が開けてくるのだ、ということが著者の主張の要点をなしていると思う。

  こういう問題意識からいってナショナリズムの大衆レベルにおける根拠を問い、それが支配者のナショナリズムとどういう相互作用をもちながら、どういう方向におもむこうとしているか、いわゆる革新ナショナリズムはこの間にあってどんな機能と役割を果すものであるかに分析の主力がおかれることになっている。



本質規定と展開


 著者はまず「ナショナリズムとは何か」(第1章)と問い、「市民社会における私的エゴイズムの国家レベルへの止揚形態」と規定する。そして私的エゴイズムが人権の論理に媒介されてゆく西欧近代の場合と比較しながら、戦前の日本の場合には人権思想にまで浄化されない「庶民エゴイズム」がナショナリズムの大衆レベルでの根拠をなしていたというのである。しかもこの大衆意識における人権思想の未確立の状態は、戦争直後の「戦後大衆運動とそれをささえた統一的人民主体」の解体によって、戦後にまでもち込まれると主張する。人権思想は、「身のまわり人権感覚の確立」以上に進まない。そして私的エゴイズムの形態は、戦前のイエ意識、ムラ意識から、平和憲法と戦後民主主義の常識化及び高度経済成長に媒介されて、企業帰属意識と「強度の相互補完関係にたつ」マイホーム主義に転化する。そしてこのマイホーム主義は、ブルジョア的大衆思想運動としての生産性向上運動と相互に浸透しながら、「国家の栄枯盛衰をおのれのこととして対象化する意識」に到達する。そこに戦後の「大衆ナショナリズムの実態」(第2章)がある、と著者は主張されるのである。

  次に、「大衆の受益者意識から国家意識へ、というこの自生的な意識の流れ」を「直接的な国家的動員要因としての国家意識」に誘導することが、現在の「支配者ナショナリズムの展開」(第3章)の目標となっているのだと著者は言う。ここで「明治百年」をめぐる支配者の動向が分析の中心に据えられることになる。そして、現在の支配者ナショナリズムは、「反共・復古的ナショナリズム」と「近代化論的ナショナリズム」に腑分けすることが出来るが、この2つの潮流は、近代化論的ナショナリズムの方向に収斂されつつあるというう分析が示されている。

  支配者レベル及び大衆レベルでのイデオロギー状況をこのように規定した著者は、最後に第4章「ナショナリズムを止揚するもの」で日本共産党及び国際共産主義運動のなかに発生してきたナショナリズムと、インターナショナリズムの欠落の問題をとりあげる。そしてその最も奥深い原因として、指導者たちが、「あるがままの大衆としての日常的な要求」「大衆的価値に基礎をおくその自然成長性の力」に屈服してしまったことを指摘する。そして最後に、ナショナリズムをめぐるこのようなイデオロギー状況全体に対して「愛国心にたいする羞恥を」という否定命題をかかげなければならないというのがこの著書の結論となっているのである。



民族の契機を無視

 この本が、現在のイデオロギー状況に正面から立ち向かおうとする意欲にもえた力作であることは確かであろう。しかしそれがなお多くの問題を残した試論であることも否定するわけにはゆかない。
 まず第1は、ナショナリズムの規定の仕方についてである。大衆レベルにおけるナショナリズムの根拠を問うことの必要性は著者の強調される通りであろう。しかしそこから「市民社会における私的エゴイズムの国家レベルへの止揚形態」と規定してしまうのはいささか性急ではないか。この規定では、ナショナリズムは国家意識一般に解消されてしまうのではないか。
 このことは、著者がナショナリズムを問題にする場合、「国家」の契機のみをとりあげ、「民族」の契機をとりあげようとしないことと関係しているように思う。この国家意識と民族意識がどんなかかわり合いをするかはそれぞれの時代、地域、国際政治における地位などによって異なってくるが、ここで共通するものとして「集中」及び「拡大」仁意識を問題としなければならないのではあるまいか。市民社会成立期や植民地では、集中の側面が、前面にあらわれ、帝国主義国では拡大の側面が中核をなすと私は考えている。



幾つかの疑問と期待

 第2には、マイホーム主義の問題であるが、私はこれをナショナリズムの大衆レベルにおける根拠というよりは、現在の保守的秩序の安定要因として把えている。これは著者と私とのナショナリズムの把握の違いとも関連してくるのであるが、私はマイホーム主義はナショナリズムの集中と拡大の契機に対して分散の契機を中心にするものと考えており、ナショナリズムの大衆レベルでの根拠は、マイホーム主義の息苦しさから脱却しようという意識にあるのではないかとの仮説を立ててみている。

  第3は、支配者ナショナリズムの2つの潮流についてであるが、私は近代化論的ナショナリズムへの収斂という著者の見解を疑問とするのであり、2つの潮流の顕在化はは近代化論的ナショナリズムの行き詰りを示すものと考えている。新植民地主義の方法を主軸にして復活した日本帝国主義にとって、帝国主義の方向への大衆意識の集中と拡大は必須の課題となっており、近代化論的ナショナリズムだけではこの課題に対する方法として十分でなくなってきているところに、現在の支配者ナショナリズムの問題があるのではないだろうか。

  第4に、これは異論というより著者への期待なのであるが、大衆社会―この本では「大衆社会的」という形容詞としてしか出てこないが―についての著者の把握を示して頂きたいと思っている。というのは大衆の自然成長性の力への屈服から共産主義運動にナショナリズムが発生するという指摘には教えられるところが多かったのであるが問題を一歩進めると大衆社会状況の中で「前衛」(インターナショナリズムの問題をも含めて)の概念が成立するのかどうかという点を理論的に確認しておくことが、現在の諸論争を生産するために必要ではないかと考えているからである。

  第5に著者は大衆意識の変革にあたって、ショック療法を重んじられているように読めるが、私には意識変革の真の糸口はさまざまな運動の中での認識の大衆的前進にしかないように思われるのであるが、どうであろうか。

  ともあれ、現在のイデオロギー状況の中で、自己の思想的立脚点を確立し、あるいは確かめるために、この本と格闘することを、読者諸氏がこの本を自ら深く読み、読み破られんことを期待しておきたい。