『日本と世界の歴史』22

1971年6月

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終戦
廃墟のなかに聞いた天皇の声


 

古屋 哲夫

1終戦のねらい
ポツダム宣言と天皇制
国体を護持しえて
復員とインフレ

2アメリカのための民主化
アメリカの単独占領
民主化政策の出発



1終戦のねらい



ポツダム宣言と天皇制

 1945年(昭和20年)8月14日午前10時50分、宮中防空壕の一室で、最後の御前会議が開かれた。すでに、ソ連参戦の翌日8月10日の御前会議で、条件付きでポツダム宣言を受諾するとの決定がなされ、連合国あてに通告がだされていた。そしてこれにたいする連合国を代表したアメリカの回答も、12日にはラジオで、13日には中立国を通じた正式の形で到着していた。また13日午後には、アメリカ空軍は、日本政府の通告とアメリカの回答をビラにして、空からまきはじめていた。

  国民に極秘にしてすすめられてきた終戦外交も、こうした情勢のなかでは、いつまでもかくしておくことはできず、この面からも、最終的な態度の決定をせまられることになっていた。

  問題はもっぱら、天皇制に関することであった。日本側はまず、ポツダム宣言が、天皇の国家統治の大権を変更する要求をふくまないものと了解して受諾する、と申しいれたのであったが、これにたいするアメリカの回答は、「降伏のときより、天皇および日本政府の権限は、連合国最高司令官の制限のもとにおかれる」、しかして「最終的な日本政府の政体は、日本国民の、自由に表明する意志により決定される」というものであった。

  問題はこの回答で、「国体が護持」されるかどうかということであった。最後の御前会議でも、陸軍側などから受諾反対論がだされたが、外務省側はアメリカの回答が、天皇の存在を正面から否定していないことは暗黙の肯定を意味するものであるし、最終的な政体の問題も、国民が国体護持の精神をもっているから心配ないと主張した。結局この主張を天皇自身が支持して、ポツダム宣言受諾を最終的に決定した。ときに時計の針は正午をさしていた。

  アメリカ側も陸軍などを中心に、戦争の早期終結と占領を容易にするために、天皇制の力を利用することを望む空気が強く、天皇制の実際の効用を見守る態度にでていた。したがって、国体護持を目標にしてポツダム宣言を受諾した日本の支配層にとってはつぎの課題として、終戦をできうるかぎり平穏に実現して、天皇の威力をしめすことがどうしても必要であった。



国体を護持しえて

 このためには、天皇みずから終戦の詔書を国民にむけて放送し、ついで東久邇宮稔彦親王首相とする皇族内閣をつくるという方策がとられた。最後の御前会議のあと、午後からの閣議では詔書案が討議され、夜の11時に発布されると、すぐさま11時20分ごろから詔書の録音がおこなわれた。放送は翌日正午から、新聞も放送後に配達するという方針が決められた。

  軍の一部や右翼に、降伏反対をさけぶ声があり、近衛師団長を殺害して、にせ師団命令でクーデターをくわだてたり、政府要人の邸宅を襲撃したりする事件がおこったが、政府も軍の中枢部も、すでに降伏に天皇制存続の望みをかけており、この動きはかんたんに鎮圧された。

  8月15日正午、前夜から重大放送があると予告されていた国民は、独特の調子で証書を読みあげる天皇の声が、はじめてラジオから流れるのを聞いた。詔書は、時局収拾のため、四国共同宣言を受諾することをつげたのち「朕ハココニ国体ヲ護持シ得テ爾臣民ノ赤誠ニ信倚シ常ニ爾臣民ト共ニ在リ」と宣言し「挙国一家」、「神州不滅ヲ信ジ」「国体ノ精華ヲ発揚」することをもとめたのであった。

  日本の支配層は、降伏により軍事面を犠牲にすることで、他の面では明治憲法的な体制を保とうとくわだてていた。東久邇首相が「一億総ざんげ」を唱え「五か条の誓文」が民主主義なのだから、それにかえればよいと主張したのは、このような意図をしめすものといえた。日本政府のなかからは、国民の人権や自由を確立して、新しい体制で日本の再建をおこなおうとする動きはあらわれなかった。

  8月下旬には、言論、集会、結社の取締りは依然として1900年(明治33)制定以来、大衆運動抑圧の役割を果たしてきた「治安維持警察法」の線でおこなうことが閣議で決定されたり、内務省から国体護持のため「隣組」を強化する案がだされたりした。こうした動きは、一億総ざんげ論とともに、国民のなかから戦争責任追及の動きがおこるのを防ごうとするものであった。



復員とインフレ


 現実にも、戦争責任追及とはまったく逆に戦争協力者の労をねぎらうことに、降伏直後の政策の中心がおかれていた。降伏とともなってつぎにおこってくる問題は、兵士を家庭にかえし、戦時の軍事的編成を解体すること、当時のことばでいえば、広い意味での「復員」の問題であったが、この点でも、将来の再建のことは考えずに、ともかくも、あたえられるだけのものをあたえて復員させ、彼らのあいだから、政治批判がおこるのを防ごうとした。

  日本本土での兵員の復員は、占領軍の進駐と摩擦をさけるためもあって、きわめて急速におこなわれ、降伏後1か月で内地軍隊の4分の3が復員し、約6週間で完了したが、この間、より大きな利益をえたのは、軍出入りの商人や軍需企業であった。

  政府は、降伏とともにいちはやく、陸海軍に所属するいっさいの物資の早急な処分を決定したが、これにより、政府職員と兵隊への無料払下げがおこなわれ、軍出入りの商人はトラックで大規模に運びだしたり、軍関係企業に集積された資材が、そのまま、その企業のものとなってしまう例も多かったと推測されている。
このような復員政策の中核をなしたのは、意識的なインフレーション政策であった。降伏以来、日本銀行の中庭には、陸軍や海軍のマークをつけたトラックが充満し、当時最高額の紙幣であった百円札をいれた箱を、山のように積みこんではでていった。

  8月15日は、302億円だった日銀発行高は、この8月末には423億円に達している。その使途は軍人、とくに高級武官の退職金や年金の先払い、軍需会社にたいする補償的な支払い等であった。とくに軍需補償は種々の批判にもかかわらず頑強に維持され、したがってインフレは急激な進行をはじめ、1945年(昭和20)末の日銀券発行残高は554億円、翌46年2月16日に金融緊急処置がとられたときには、614億円に達していた。つまり降伏からちょうど半年で、通貨量は2倍以上になっており、インフレのはげしさをみることができる。

  このような、軍需物資山分けからインフレにむかう政策が、軍隊の無抵抗な解体を成功させ、また、いっさいの自発性を封じられて、すぐにはたちあがることのできなかった一般国民を、はげしい窮乏化のうずのなかにおとしいれた。その結果、やがておこってきた大衆運動は戦争責任の問題を通りこして、「米よこせ」的な生活防衛的な方向に高揚することになるのであった。



2アメリカのための民主化


アメリカの単独占領


 東久邇内閣は、こうしたやり方で、平穏のうちにアメリカ占領軍をむかえいれることに成功した。

  テンチ大佐を指令とする占領軍先遣部隊が、厚木飛行場に着陸したのは、降伏から2週間近くたった8月28日であり、つづいて2日後の30日には、連合国最高司令官マッカーサー元帥が厚木につき、同時に横須賀や九州鹿屋からも、米軍がいっせいに進駐を開始した。

  9月2日には、東京湾上のミズーリ号のうえで、天皇および日本政府を代表した重光葵と大本営を代表した梅津美治郎が「降伏文書」に調印し、降伏の手続きをおわった。ついで9月8日には、マッカーサーは総司令部を横浜から東京にすすめ、以後占領軍は急速に日本全国に展開した。占領軍は連合国最高司令官という新しい肩書をもったマッカーサーに指揮されていたが、その実態は、これまでも彼の麾下にあったアメリカ軍のみであった。

  アメリカは最初から日本占領の実権をにぎる考えであった。したがって、ソ連の北海道占領への参加の要求をことわり、他の連合国軍隊の占領参加の場合も、マッカーサーの指揮下にはいることをもとめて、実質的には日本をアメリカの単独占領のもとにおく方針をつらぬいた。翌年には他の連合軍の要望をいれて、極東委員会、対日理事会が設けられたが、占領政策を左右するような力はなかった。ソ連等の他の連合国よりも、アメリカのほうが、天皇制に好意的だとみていた日本の支配者層は、このアメリカの単独占領を歓迎していた。

  しかしアメリカといえども、天皇制そのものを支持していたわけではなかった。アメリカ政府はマッカーサーに対して、占領目的を「最小の兵力と資材で」達成するために、「天皇と日本政府を、支持するものではないが、利用する」という政策を伝えていた。つまり、占領目的に役立つかぎりで天皇と日本政府を「利用する」だけだというのである。では占領目的はなんであったろうか。

  アメリカ政府は、占領開始にあたり、国務、陸・海軍3省で作成した「降伏後におけるアメリカの初期対日占領の基本政策」をマッカーサーに指令していた。この文書は9月22日ワシントンで公表され、すぐに日本の新聞にも訳載されて国民に知らされたが、このなかで、占領の「究極の目的」はつぎのように規定されていた。

  すなわち、第1には「日本がふたたびアメリカの脅威となり、または世界の安全と平和の脅威となることがないよう保証すること」第2には「国際連合憲章の理想と原則にしめされた、アメリカの目的を支持すべき平和的かつ責任ある政府をおってうちたてること」という2つが究極の目的だというのであった。

  これはいいかえれば、日本をアメリカに似せて改革し、アメリカの利益に役だつ国にするということであった。天皇制もこのような観点から考えられていたのである。



民主化政策の出発


 この目的のために最初にとらねばならない政策が、日本の非軍事化、軍国主義の解体であり、その効果を永続的にするために民主化政策が必要とされたのであった。このことじたいは、ポツダム宣言にかかげられた項目からも予想されることであったが、問題はその幅の広さと深さであった。それは、日本側の思惑をはるかにこえていた。

  東久邇内閣では、軍隊は解散しても憲兵と特高警察はのこそうとか、治安維持法は廃止しても治安警察法は維持しようとか、戦争犯罪人を日本側で自主的に裁判したいとか、民主化政策をなるべく幅のせまいものにし、日本政府の権限をできるだけ大きくのこそうと策動した。しかし、アメリカ側も、それを認めるほど甘くはなかった。

  この時期には、アメリカは中国の蒋介石政府を支援することを、アジア政策の最大の支柱としていた。だから日本にたいしては、まずアメリカにしっかり従属させることを眼目としており、まだ日本の支配層をアメリカのアジア政策のために積極的に起用することは考えられていなかった。

 したがって初期の占領政策には、天皇制をのこすとしても、軍国主義解体の点では、たんに軍隊や軍閥をなくすだけでなく、軍事的・侵略的な勢力がおこってくる社会的・経済的基礎をも根底からうちくだいてゆこうという意気込みがみられた。

  占領軍は9月11日、東条英機元首相らを逮捕して戦争犯罪人の追及を開始、ついで9月19日には「新聞規則」(プレス・コード)を発して、占領政策への批判を禁じ、検閲制度をしいた。具体的な占領政策を展開するまえに、全面的な言論統制をしいて批判を封じ、世論操作の手段をにぎったのは、いかにもアメリカ的なやり方であった。

  こうして占領体制を整えたうえで、GHQ(連合国総司令部)は10月4日、民主化政策の第一歩として「政治的・市民的・宗教的自由にたいする制限の除去」を指令した。それは@天皇、国体および日本政府に関する自由な討議を含めて、思想、宗教、集会および言論の自由に制限を加えているいっさいの法律、命令の廃止、A10月10日までにいっさいの政治犯人を釈放すること、B特高警察など前記の法律、命令の実施のために設置されたいっさいの官庁、機関などの廃止、C内務大臣、警保局長、警視総監、府県警察部長、特高警察全職員などの罷免、Dこの指令に従ってとったいっさいの措置を10月15日までに報告すること、というきびしいものであった。

  それは日本の支配層が予期しなかったものであり、深刻なショックをうけた東久邇内閣は、翌10月5日総辞職した。次の首相には幣原喜重郎が選ばれたが、この人事がGHQの同意のもとにおこなわれたことは明らかであった。幣原は大正末から昭和初期にかけて外相の座にあり、米英との協調外交を展開した外交官であった。GHQは、この幣原内閣をむかえて、民主化政策を全面的に展開していった。

  10月11日、幣原首相の訪問をうけたマッカーサーは、口頭で@婦人の解放と婦人参政権、A労働組合の結成奨励、教育の自由化、B教育の自由化、C国民にたいする圧制的制度の廃止、D経済機構の民主化、といういわゆる「五大改革」を指令し、憲法の自由主義化を示唆した。これは、いわば占領政策における民主化の構想を全面的にしめしたものであった。そしてそれは、以後新憲法の制定を軸としながら、さまざまな形で実現されていった。

  しかし、すでにみたように、「民主化」はアメリカの究極の目的ではなかった。やがて、中国革命の勝利に対抗して、アメリカは日本を反共の防壁にしたてあげようとするにいたるのであり、戦後日本は、このアメリカの目標転換とともにゆれ動いてゆくことになるのである。