ポツダム宣言と天皇制
1945年(昭和20年)8月14日午前10時50分、宮中防空壕の一室で、最後の御前会議が開かれた。すでに、ソ連参戦の翌日8月10日の御前会議で、条件付きでポツダム宣言を受諾するとの決定がなされ、連合国あてに通告がだされていた。そしてこれにたいする連合国を代表したアメリカの回答も、12日にはラジオで、13日には中立国を通じた正式の形で到着していた。また13日午後には、アメリカ空軍は、日本政府の通告とアメリカの回答をビラにして、空からまきはじめていた。
国民に極秘にしてすすめられてきた終戦外交も、こうした情勢のなかでは、いつまでもかくしておくことはできず、この面からも、最終的な態度の決定をせまられることになっていた。
問題はもっぱら、天皇制に関することであった。日本側はまず、ポツダム宣言が、天皇の国家統治の大権を変更する要求をふくまないものと了解して受諾する、と申しいれたのであったが、これにたいするアメリカの回答は、「降伏のときより、天皇および日本政府の権限は、連合国最高司令官の制限のもとにおかれる」、しかして「最終的な日本政府の政体は、日本国民の、自由に表明する意志により決定される」というものであった。
問題はこの回答で、「国体が護持」されるかどうかということであった。最後の御前会議でも、陸軍側などから受諾反対論がだされたが、外務省側はアメリカの回答が、天皇の存在を正面から否定していないことは暗黙の肯定を意味するものであるし、最終的な政体の問題も、国民が国体護持の精神をもっているから心配ないと主張した。結局この主張を天皇自身が支持して、ポツダム宣言受諾を最終的に決定した。ときに時計の針は正午をさしていた。
アメリカ側も陸軍などを中心に、戦争の早期終結と占領を容易にするために、天皇制の力を利用することを望む空気が強く、天皇制の実際の効用を見守る態度にでていた。したがって、国体護持を目標にしてポツダム宣言を受諾した日本の支配層にとってはつぎの課題として、終戦をできうるかぎり平穏に実現して、天皇の威力をしめすことがどうしても必要であった。
国体を護持しえて
このためには、天皇みずから終戦の詔書を国民にむけて放送し、ついで東久邇宮稔彦親王首相とする皇族内閣をつくるという方策がとられた。最後の御前会議のあと、午後からの閣議では詔書案が討議され、夜の11時に発布されると、すぐさま11時20分ごろから詔書の録音がおこなわれた。放送は翌日正午から、新聞も放送後に配達するという方針が決められた。
軍の一部や右翼に、降伏反対をさけぶ声があり、近衛師団長を殺害して、にせ師団命令でクーデターをくわだてたり、政府要人の邸宅を襲撃したりする事件がおこったが、政府も軍の中枢部も、すでに降伏に天皇制存続の望みをかけており、この動きはかんたんに鎮圧された。
8月15日正午、前夜から重大放送があると予告されていた国民は、独特の調子で証書を読みあげる天皇の声が、はじめてラジオから流れるのを聞いた。詔書は、時局収拾のため、四国共同宣言を受諾することをつげたのち「朕ハココニ国体ヲ護持シ得テ爾臣民ノ赤誠ニ信倚シ常ニ爾臣民ト共ニ在リ」と宣言し「挙国一家」、「神州不滅ヲ信ジ」「国体ノ精華ヲ発揚」することをもとめたのであった。
日本の支配層は、降伏により軍事面を犠牲にすることで、他の面では明治憲法的な体制を保とうとくわだてていた。東久邇首相が「一億総ざんげ」を唱え「五か条の誓文」が民主主義なのだから、それにかえればよいと主張したのは、このような意図をしめすものといえた。日本政府のなかからは、国民の人権や自由を確立して、新しい体制で日本の再建をおこなおうとする動きはあらわれなかった。
8月下旬には、言論、集会、結社の取締りは依然として1900年(明治33)制定以来、大衆運動抑圧の役割を果たしてきた「治安維持警察法」の線でおこなうことが閣議で決定されたり、内務省から国体護持のため「隣組」を強化する案がだされたりした。こうした動きは、一億総ざんげ論とともに、国民のなかから戦争責任追及の動きがおこるのを防ごうとするものであった。
復員とインフレ
現実にも、戦争責任追及とはまったく逆に戦争協力者の労をねぎらうことに、降伏直後の政策の中心がおかれていた。降伏とともなってつぎにおこってくる問題は、兵士を家庭にかえし、戦時の軍事的編成を解体すること、当時のことばでいえば、広い意味での「復員」の問題であったが、この点でも、将来の再建のことは考えずに、ともかくも、あたえられるだけのものをあたえて復員させ、彼らのあいだから、政治批判がおこるのを防ごうとした。
日本本土での兵員の復員は、占領軍の進駐と摩擦をさけるためもあって、きわめて急速におこなわれ、降伏後1か月で内地軍隊の4分の3が復員し、約6週間で完了したが、この間、より大きな利益をえたのは、軍出入りの商人や軍需企業であった。
政府は、降伏とともにいちはやく、陸海軍に所属するいっさいの物資の早急な処分を決定したが、これにより、政府職員と兵隊への無料払下げがおこなわれ、軍出入りの商人はトラックで大規模に運びだしたり、軍関係企業に集積された資材が、そのまま、その企業のものとなってしまう例も多かったと推測されている。
このような復員政策の中核をなしたのは、意識的なインフレーション政策であった。降伏以来、日本銀行の中庭には、陸軍や海軍のマークをつけたトラックが充満し、当時最高額の紙幣であった百円札をいれた箱を、山のように積みこんではでていった。
8月15日は、302億円だった日銀発行高は、この8月末には423億円に達している。その使途は軍人、とくに高級武官の退職金や年金の先払い、軍需会社にたいする補償的な支払い等であった。とくに軍需補償は種々の批判にもかかわらず頑強に維持され、したがってインフレは急激な進行をはじめ、1945年(昭和20)末の日銀券発行残高は554億円、翌46年2月16日に金融緊急処置がとられたときには、614億円に達していた。つまり降伏からちょうど半年で、通貨量は2倍以上になっており、インフレのはげしさをみることができる。
このような、軍需物資山分けからインフレにむかう政策が、軍隊の無抵抗な解体を成功させ、また、いっさいの自発性を封じられて、すぐにはたちあがることのできなかった一般国民を、はげしい窮乏化のうずのなかにおとしいれた。その結果、やがておこってきた大衆運動は戦争責任の問題を通りこして、「米よこせ」的な生活防衛的な方向に高揚することになるのであった。
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