『歴史学研究』No377号

1971年10月

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ナショナリズム批判の原点


表紙


古屋 哲夫



1革新ナショナリズム論批判

2レーニンにおける民族自決権の意味



1革新ナショナリズム論批判


 かつては華やかに展開されたナショナリズムに関する論議も、最近ではすっかりかげをひそめてしまっているように見える。しかしそれは、ナショナリズムに関する問題が、論ずる必要もないほど明らかになったからではなく、むしろこれまでの論議が新しい展開を示さないままに混乱し、停滞しているからではないだろうか。 戦後、ナショナリズムが積極的に論ぜられるきっかけとなったのは、第一には占領下における日本共産党の民主民族戦線の提唱であり、第二には、いわゆる市民主義の立場からナショナリズムとデモクラシーとの結合という観点が提起されたことであった。そしてその間に第三の契機として、戦前のナショナリズムの復活の傾向が強まってきたことをあげることができよう。

  こうした状況のなかで、ナショナリズムに関する論議は、進歩的ナショナリズム対反動的ナショナリズムという軸で進められるのであるが、その場合、現実の個々の動向の進歩性なり反動性なりを明らかにしようとする論じ方と、統一戦線の問題とからめながら何か「革新ナショナリズム」とでもいうべきものが存在しうるのではないかとする模索とが交錯してあらわれてきていた。そしてこの2つの傾向が相互に浸透し合った結果として、ナショナリズムは原理的にはどのような問題であるのかを問いつめていこうとする姿勢を弱めることになったのではないかと思われるのである。つまり、一方では、反動的ナショナリズムの復活に個々に反対するだけで、問題を現在の支配層が企てる国民編成全体の中に位置づけ理論的に明らかにすることなく終わり、他方では、「革新」を「国民」の名の下に主張するムードが広範に形成されながらも、「革新ナショナリズム」なるものが原理的に可能なのかどうかという突っ込んだ検討は現れてこないという状況が生まれているのである。

  しかし問題をこのようなあいまいな状態に放置しておいてよいはずはない。日本帝国主義の復活という事態のなかで、ナショナリズムに対して原則的にどのような立場に立つべきかを明らかにすることは、ますます重要な課題となりつつあるといえる。そしてそのためには、一度問題を原理的なレベルで検討することがどうしても必要となるのである。

  ここではまずその手掛かりとして、民族・階級・市民社会・国家といった基礎的な問題の上に「革新ナショナリズム」の立場を確立しようと意図した高島善哉氏の近著『民族と階級』をとりあげて、「革新ナショナリズム」の可能性について考えることから始めてみたい。

  ところで、革新ナショナリズム論は被抑圧民族の民族運動を進歩的なものとする考え方に依拠している場合が多い。日本共産党の民主民族戦線の主張も、占領権力による抑圧状態からの解放=完全独立のスローガンを掲げ得たことによって成り立っていたのであったし、A・A諸国の民族運動が進歩的なものとして大きな関心を集めたことは、ナショナリズムの革新性という発想を力づけることになっていた。高島氏の場合にも、この点を出発点としながら、より一般的な形の「革新ナショナリズム」の構築が意図されてくるのである。

  氏 は言う。「革新ナショナリズム……それは、さしあたりアジア、アラブ、アフリカおよび中南米のいわゆる後進国に現に起こりつつある民族運動から得られたイメージではあるが、アメリカや日本や西欧の先進諸国についてもそれぞれの個別性において考えうることだし、さらにソ連、中国、東欧諸国などの共産圏においてもまた別の意味において考えうることである。用語の適否は別として、革新ナショナリズムというものは、私のみるところでは背理でもなければ形容矛盾でもない、それは現に私たちの目の前で世界を震撼しているグローバルな現実である」(『民族と階級』38〜39頁)と。

  しかし、ナショナリズムが現に存在し大きな力を持っていることと、ナショナリズムが「革新」をなしうる力を持つかどうかということは全く別の問題である。この点にどう答えるかということが、革新ナショナリズム論の最も基礎的な問題であることはいうまでもない。後にみるようにマルクス主義の場合には、抑圧民族と被抑圧民族の分裂という帝国主義時代の状況のなかで、個々の民族運動が帝国主義的支配関係をどう変化させる力となりうるのかという点に進歩性の評価の基準を置いていた。それはいわばナショナリズムに対する外側からの評価といえる。

  これに対して高島氏の苦心は、ナショナリズムの内側になんとか「革新」の源を取り込もうとする点にみられた。そしてその結果として「母体としての民族、主体としての階級」なる主張が打ち出されることになるのである。いわば「革新」の力としての階級と、民族とを結び合わそうというわけである。それは民族を階級と結合しうる形に規定しなおすことを必然とせざるをえない。

 

「民族が母体であるということは……民族というものが、あたかも大地のように、それ自身のうちに一つのエネルギーを孕んでいるという思想を表明している」(同前、41頁)。

「歴史的社会的に形成されてきた個体的な共同体としての民族は、『自然』の生のままのエネルギーをそのうちに内蔵している」(同前、45頁)。


  つまり、氏の主張は階級による民族的エネルギーの組織・指導ということになりそうである。しかしそのためには、なお二つの問題を解かねばならない。第一は、民族が「歴史的社会的に形成されてきた」ということと、「『自然』の生のままのエネルギーをそのうちに内臓している」ということがどう関連づけられるのかという点である。また第二には若しそうしたエネルギーが存在するとしても、それが階級を主体とした革新の方向に吸収されうる性質のものであると断定できるのかという問題である。

  民族が、部族・種族から「歴史的社会的に形成」されたということは、なるほど一方では、生産活動による自然との交流や、経済活動の発展による生活圏の拡大という自然成長的な側面を有している。しかしそれだけではない。歴史的社会的形成の起動力である生産力は、人々を社会的分業を軸として生産関係に編成することによってはじめて現実のものとなるのである。そしてこの側面には国家や権力の問題がどうしてもかかわってこざるをえないのではないか。即ち「歴史的社会的形成」とは、経済的自然成長的側面と政治社会的編成の側面との相互作用としてしか考えられないのではないか。

  そうだとすれば、民族が内蔵するエネルギーもまた、この二つの側面の相互作用の結果として蓄積されてきたものということになり、したがってそこには、政治・社会的編成が生み出してきたイデオロギーや観念・情念などもまた蓄積されているはずである。そしてそのような、一定の歴史的な方向性をもったエネルギーが、「革新」の立場から利用可能かどうかは改めて検討されねばならない問題となるであろう。
ところが、高島氏は、民族と国家を理想的に切り離した上で、さらに国家を階級国家と市民国家とに内部から分断するという二重の手続きによって、この問題をすり抜けようとされるのである。氏は次のように語る。

 

「民族は人間の共同体における自然的なものと歴史的社会的なものが統一されたものである。これにたいして国家は、人間の共同体における支配被支配という関係において成り立つ歴史的関係である。……国家はそのうちに、自然的なもの原生的なものの一片さえをも含まない」(同前、176頁)。

  これだけでは、民族と国家は「歴史的社会的」という点でつながっているようにもみえる。しかし氏の場合には、民族における「歴史的社会的なもの」が権力によって媒介されているという側面は全く無視されている。そしてそのことによって氏の論議は成り立っているのであり、したがって氏の論理は、国家は自然的なものを含まず、民族は権力的なものを含まないという形で展開されているものと評せざるをえないのである。次に国家の問題については次のようなこととなる。

 

「私のアイディアは、階級抑圧の機関としての国家からまず国家そのものをとり出してみるというところから生まれる。これが一般意思としての国家であり、市民社会の胎内から必然的に生み落された国家である。これを市民的国家あるいは市民国家と名づけることができよう」(同前、219頁)。


  この場合、市民社会とは独立した経済的主体の相互交流という側面を抽象化したものであろうし、別の箇所で「市民社会の論理(この場合は市民=基本的人権の論理)」(同前、220頁)という表現がとられていることから推測できるように、市民国家とは、この市民社会を基本的人権の方向に、即ち権利の体系として組みあげたものということになろう。そしてこの市民国家と階級国家が分離可能なものと考えられていることは次の引用から明らかとなろう。

 

「ではプロレタリアートは、ブルジョアジーの国家のうち何を破壊し、何をひきつぐべきであろうか。第一に破壊されなければならないのは、国家独占資本主義にまでふくれ上ったブルジョアジーの階級的支配である。これには何人も異存がない。しかし何がひきつがれるべきであろうか。……ひきつがれるべきものは市民的国家であり、生産力の体系としての市民国家である」(同前、320頁)。


  つまり高島氏は、国家を権力的抑圧そのものとしての階級国家と、共同利害の組織者としての被抑圧的な市民国家とに内部から分断しうると考えられていることになる。そしてこの上に、風土(歴史的社会的風土と自然的風土)の概念を加えることで、氏の論理の骨組みはできあがってくるのである。

  もっとも氏は、市民社会・国家・風土といった問題には多くのページを割かれているのであるが、それらの問題が肝心の革新ナショナリズム論に向かってどう集中されていくのかという点になると、どうもはっきりと論じられていない。しかし、氏の論議を整理してみると、その革新ナショナリズム論は次のような構造になっているように思われる。即ち第一には、階級国家―市民国家―市民社会―歴史的社会的風土―自然的風土という関係を設定し、民族をできるだけ「風土」に近づけて捉えようとする論理がある。つまり、権力と自然との間にこれだけの媒介項をはさみ込むことによってはじめて、民族が“「自然」の生のままのエネルギー”を内蔵しているという主張が可能になってくるのである。第二には、この民族のエネルギーは、非権力的な市民社会に吸いあげられ、市民国家に組織され蓄積されることによって、階級国家を打倒し社会主義をつくりあげる力として作用するという論理が推定される。つまりまず民族的エネルギーを自然に向かって下向させることによって純化し、ついで「革新」に向かって上向させるというのが高島氏の論理の骨組みであるように思われるのである。

  ではこの論理で革新ナショナリズムが基礎づけられたことになるであろうか。氏の論理の特徴は、ナショナリズム論と称しながら、民族あるいはナショナルなものの積極的主張がみられないという点にある。民族は最後まで「母体」という消極的な所に止まっている。あるいはまたその「エネルギー論」にしても、自然的性格を強調する結果、「民族的」性格はうすめられ「風土的エネルギー」と名づけねばならなくなりはしないか。つまり、論理のどのレベルでも、このエネルギーには民族的性格が付与されることなく終わっているのである。

  結局のところ氏の理論は、市民社会=市民国家の擁護の主張であり、ある種の「革新」の主張でありうるとしても、ナショナリズムの主張とはなりえていない、という他はない。氏の主張と「ナショナルなもの」との関連を求めるとすれば、市民社会がナショナルな形で編成されているという事実以外にないが、その場合にはそのことがどういう意味を持っているのか、そのナショナルな「編成」が「革新」の拠点となりうるかどうかが問われねばならなくなるであろう。

  元来、ナショナリズムとは、「ナショナルなもの」の価値を主張し、社会や国家をナショナルな形に編成しようとし、「ナショナルなもの」の発展の見地から大衆を組織・指導しようと試みる思想や運動を指す言葉であるはずである。したがって、「ナショナルなもの」を積極的に主張しないものをナショナリズムの名で呼ぶことは、言葉の乱用にほかならず、議論の混乱をひきおこすことは必然であろう。また「ナショナルなもの」は、自然に存在するようなものではない。その核をなしているのは、「民族意識」に他ならないのであり、この問題をはずしては、ナショナリズムを論じたことにならないのではあるまいか。

  これらのナショナリズムにとっての基本的な問題をとりあげようとしない高島氏の論議が、「革新ナショナリズム」の立場を確立しえないのは当然といえよう。しかし私にとって興味があるのは、氏の論議が氏の意図に反して、「革新ナショナリズム」なるものがそもそも成り立たないことを示唆しているように思われる点である。つまり氏の論理の基礎は、すでにみたように、「民族は『自然』の生のままのエネルギーを内蔵している」という点におかれているのであるが、そのことは、「革新」の立場に立つ限り、現に存在する「ナショナルなもの」をそのまま利用することが出来ないという主張を裏側に含んでいると考えられるのである。氏の主張は階級国家と市民国家への国家の解体の論理を媒介としてナショナリズム解体の方向を示しているといえないであろうか。

  とくにかつての抑圧民族であり、現にまた抑圧的性格を強めつつある日本の場合、支配の強化が「ナショナルなものの強調を媒介として進められることは必然であり、この状況のなかで必要なことは、まさに「ナショナリズムの解体」にほかならないと思われるのである。
 そしてこのような問題の把握こそ、レーニンの民族理論の革新をなしていたのではなかったであろうか。



2レーニンにおける民族自決権の意味

  高島氏はスターリンの民族理論が「マルクス主義的民族理論の一応の定型を示すもの」(同前,123頁)であると積極的に評価する。反面、レーニンについては、民族における非合理的なものの洞察などに深い思想を示しているとしながらも、「厳密な意味での民族の理論」をもたず「戦術的もしくは戦略的提言」に終始した(同前、153頁)ことを残念がっておられるようである。

  ではレーニンとスターリンはどう違っているのか。端的にいえばスターリンの思想には、レーニンからうけついだ民族問題を歴史的なものとして動的に捉えていこうとする側面と、自らつくりあげた民族を実体化していこうとする静的な側面とが混在しているのである。

  まず第一の側面は次のように展開される。

 

「民族は、歴史的範疇であるだけでなく、一定の時代の、すなわち勃興しつつある資本主義の時代の歴史的範疇である。封建制度が解体して資本制度が発展してゆく過程は、同時に人々を民族に構成してゆく過程である」

 そしてつづけて「だが民族の形成は、そこでは(西ヨーロッパでは)同時にそれらの民族が独立の民族国家へ転化することを意味していた」のに対して「東欧では多数民族国家」がつくりあげられたことを指摘する(国民文庫『マルクス主義と民族問題』59頁)。

  つまり、この側面では資本主義の発展と民族の形成とその国家への編成を相関的に捉え、民族の形成と国家編成を媒介するものとして「民族運動」が問題とされているのである。この限りでは、スターリンはレーニンを原則的にうけついでいる。高島氏も民族が歴史的に形成されたものであることは承認されているが、資本主義の発展・民族運動・国家編成などを相関的に捉えようとする論点にはほとんど興味を示されていない。氏が興味をしめされるのは、スターリンの第2の側面、特に民族に関する次のような定義についてである。

 

「民族とは、言語・地域・経済生活、および文化の共通性のうちにあらわれる心理状態、の共通性を基礎として生じたところの、歴史的に構成された、人々の堅固な共同体である」。「(そしてこれらの)すべての特徴が同時に存在するばあいに、はじめて民族があたえられるのである」(同前、50-51頁)。

 これにたいして高島氏は、共通性はこの四つに限られるのか、人種という要素を落としているではないか、四つの共通性はどう関連するのかなどと批判されているが、問題はむしろ逆の方向にあるように私には思われる。つまり、この民族の規定が、さきの歴史的な民族問題の把握にどう生きてくるのかという点が問題なのである。

  もちろん、この規定が非歴史的だというのではない。例えば「大工業が発達し階級闘争が尖鋭化するとともに、『共通性』はきえはじめる」(同前、89頁)とも規定されている。したがって問題は、非歴史的という点にあるのではなくて、「歴史的」ということの内容にあるのである。スターリンの民族概念では、民族は四つの共通性が同時に存在すれば、自然にあらわれてくるかのように捉えられてしまうほかはない。

  だが民族が歴史的範疇であるということは、民族がそのように自然に出来あがるということを意味してはいない。なるほどそれらの共通性の形成には、自然成長的な側面が強くあらわれるにちがいない。しかしそれが民族を生み出すためには、それらの自然成長的な共通性を自覚的にとり出し、1つに結び合わせていこうとする民族運動に媒介されることが必要なのである。ところがスターリンの民族概念には、このような側面が抜け落ちてしまっているのである。

  このことはスターリンの民族概念では、民族が自然成長的な実体―やがてそれが崩壊するにしても―として捉えられることを意味する。そしてそこからある場合には、民族問題を、民族をこえたプロレタリアートの組織化の問題に安易に従属させることになり、ある場合には、自然成長的な民族意識に安易によりかかるという傾向がやがて、1945年の日本降伏にあたっての悪名高い声明―「1904年の日露戦争でのロシア軍隊の敗北は国民の意識に重苦しい思い出をのこした。この敗北はわが国に汚点をしるした。わが国民は、日本が粉砕され、汚点が一掃される日がくることを信じ、そして待っていた。40年間、われわれ古い世代のものはこの日を待っていた。そしてここにその日はおとずれた」(国民文庫『ソ同盟の偉大な祖国防衛戦争』210頁)―という声明にまで発展する。しかしこのようなスターリンの堕落のあとをおうのはここでの目的ではない。ここではスターリンのこうした民族概念の特徴が、民族自決権の問題についても、レーニンとの間に微妙な差異を生み出している点を問題にしたいのである。

  レーニンの民族問題に関する理論のなかで、「民族自決権」の問題が中心的な地位を占めていることは改めて指摘するまでもない。そしてそれは民族的抑圧に反対することを目的とし、「抑圧民族と被抑圧民族への諸民族の分裂」が「帝国主義のもとにおける基本的な、もっとも本質的な、不可避なもの」(レーニン「社会主義革命と民族自決権」、国民文庫『帝国主義と民族・植民地問題』18頁)となったという状況のなかで特に強調されたのであるが、この点ではスターリンもレーニンを忠実に受けついでいたといってよい。

  しかし民族自決権そのものを原理的にどう理解するかという点になると両者の間に差異があらわれてくるのである。まずスターリンの場合からみることにしよう。

 

「自決権とは、民族は自分の希望どおりにやってゆくことができる、ということである。民族は、自治の原則にもとづいてその生活をいとなむ権利をもつ。それは他の民族と連邦関係にはいる権利をもつ。 それは、完全に分離する権利をもつ。民族は主権をもち、すべての民族は平等である。

このことはもちろん、社会民主党は、民族のどんな要求でも支持する、ということを意味しない。民族は古い制度にたちもどる権利さえもっている。だがこのことは、社会民主党は、ある民族のあれこれの機関のおこなうこのような決定に完全に同意するであろう、ということを意味しない。プロレタリアートの利益を擁護する社会民主党の義務と、いろいろな階級からなっている民族の権利とは、別個の2つの事がらである。

民族自決権のためにたたかうにあたって社会民主党は、民族圧迫政策をおわらせ、それを不可能にし、これによって民族間の闘争をほりくずし、これをにぶらせ、これを最小限にすることを、目的とする」(国民文庫『マルクス主義と民族問題』67−68頁)。

 ここでまずスターリンは、民族自決権を民族一般の自然的権利として把握する。したがってこの自決権からは、民族的抑圧に対する闘争が生まれると同時に、「古い制度にたちもどる」ような反動的な権利も容認されることにならざるをえない。そしてそれ故に、プロレタリアートの立場からは、民族自決権を「民族圧迫政策」の排除に限定し、反面、「民族の有害な慣習や制度に反対する煽動をおこない、この民族の勤労者層が、それらのものから解放されることができるようにする」(同前、67頁)ための任務を強調することになるわけである。つまりプロレタリアートの利益の擁護と民族自決権を「別個の2つの事がら」とする結論がでてくるのである。

  この結論は一応もっともらしくみえる。レーニンもその限りでは反対ではなかったであろう。しかしそこには、プロレタリアートは「民族」からどれほど自由なのかという問題意識は抜け落ちており、したがってプロレタリアートの民族をこえた結合が、安易に楽観的に想定されているように思われるのである。スタ−リンはいう、「勃興しつつある資本主諸条件のもとでの民族闘争は、ブルジョア階級同士の闘争である。ときにはブルジョアジーは、プロレタリアートを民族運動にひきいれることに成功する」(同前、64頁)と。つまり、この見解によれば、民族運動は本質的にはプロレタリアートの頭の上での出来事なのであり、この頭の上の障害物をはらいのけることによって、プロレタリアートの民族をこえた結合が実現することになろう。それはまさにスターリンの民族概念が民族運動との内的連関を欠いていたことを示している。レーニンはこの点においてスターリンと決定的に異なっていた。 彼は次のように語っている。

   

「民族の原理は、ブルジョア社会では歴史的に不可避である。そして、この社会を考慮にいれてマルクス主義者は、民族運動の歴史的法則性を完全に承認するのである。しかし、この承認が民族主義の弁護に堕さないためには、その承認を、この民族運動のうちにおける進歩的なものだけに、もっとも厳密に限定することが必要であり、この承認がブルジョア・イデオロギーによるプロレタリア意識のあいまい化にみちびかないことが、必要である。

封建的な眠りからの大衆のめざめは、進歩的であり、いっさいの民族的圧迫に反対し、人民の主権、民族の主権をめざす大衆の闘争は、進歩的である。このことからして、もっとも決定的でもっとも一貫した民主主義を民族問題のあらゆる部分でまもることが、マルクス主義者にとって無条件の義務となる」(国民文庫『民族問題にかんする批判的覚書』79頁)。

 ここでレーニンはまず第一に、ブルジョア社会が民族の原理で編成されることを歴史的必然であるとみる。第二にはこの編成が、反封建的な大衆的民族運動によって達成されることも歴史的法則性を持つというのである。そして第三には、民族運動あるいはそこから生まれる民族文化が、大衆運動を含みこむ限りにおいて、民主主義的性格を持ち進歩的であると判断されるのである。即ち「おのおのの民族文化のうちには、たとえ未発達のものであるとはいえ、民主主義的ならびに社会主義的文化の諸要素がある。なぜなら、おのおのの民族のうちには、勤労被搾取大衆が存在し、彼らの生活条件が不可避的に民主主義的ならびに社会主義的イデオロギーをうみだすからである」(同前、65頁)ということになる。

  つまり民族の原理による編成ということは、封建的割拠性の打破、大衆の封建的生活様式の変革―程度の差はあれ―によって媒介されなければならないのであり、したがってプロレタリアートを含む大衆も一度は、民族的に編成され、民族文化の中にまき込まれざるをえないことになるのである。

  ところで、民族の原理がレーニンにとって極めて深刻な問題となってくるのは、それが一方で封建的割拠性を打破するとともに、他方では、民族的な抑圧=被抑圧の関係で世界的なブルジョア秩序を編成することになるからであった。したがってブルジョア的世界秩序の到達点としての帝国主義支配にとって、「諸民族の分裂」が「基本的な、もっとも本質的な、不可避なもの」となってくるのは必然なのであった。そこではかつての「解放された民族は、抑圧者の民族へ、『資本主義滅亡の前夜』に際会しつつある帝国主義的略奪民族へ、転化した」(「マルクス主義の漫画および『帝国主義的経済主義』について」、国民文庫『帝国主義と民族・植民地問題』67頁)のである。そしてそのことは、民族的に編成されているプロレタリアートにとっても深刻な問題を投げかけることになるのであった。

 

「重要なことは、帝国主義時代にプロレタリアートが客観的諸原因によって2つの国際陣営にわかれ、そのうちの1つは、大国のブルジョアジーの食卓からのおこぼれ、とりわけ小民族の二重、三重の搾取からのおこぼれで堕落させられており、もう1つのほうは、小民族を解放せずには、大衆を反排外主義的な、すなわち反併合主義的な、すなわち『自決主義的な』精神をもって教育することなしには、みずからを解放しえないということ、これである」(「自決にかんする討論の決算」。国民文庫、同前、157頁)。

 即ち、レーニンにとって、民族的抑圧=被抑圧の関係を打破することは、第一に帝国主義支配を打破し、さらにはブルジョア社会の民族の原理による編成を打破するカギとなる問題であった。したがって民族的抑圧=被抑圧関係の打破はプロレタリアートのレベルでも重大であり、それなくしては、プロレタリアートの国際的結合を実現しえないような、必須の課題なのであった。レーニンにおいては、民族自決権の思想は、このような諸課題の結節点において提起されていたのである。

  「民族自決権は、政治上の意味での独立権、抑圧民族から自由に政治的に分離する権利を、もっぱら意味するのである」(「社会主義革命と民族自決権」、国民文庫、同前、17頁)とレーニンはいう。しかしそれはスターリンにおけるような、民族の自然的権利として捉えているのではない。レーニンはつづける。「この要求は、けっして分離・細分・小国家の樹立の要求と同じくはないのである。この要求は、いっさいの民族的抑圧に対する闘争の首尾一貫した表現を意味するにすぎない」(同前)。だからそれは、闘争の必要がなくなれば、消え去っていくような性格のものなのである。「国家の民主的構成が分離の完全な自由に近ければ近いほど、それだけ実践上、分離の欲求はいっそうまれになり弱くなる」(同前)。

  したがって民族自決権の真にめざしているものは、外見上はそれと反対のもの、即ち「社会主義の目的」としての「諸民族の融合」なのである。つまり階級の廃絶が、被抑圧階級の独裁という過渡期を通じてはじめて実現されうるように、「人類が諸民族の不可避的な融合に到達できるのも、すべての被抑圧民族の完全な解放、すなわちそれらの民族の分離の自由という過渡期を通じてのみのことである」(同前、18頁)

  ところでレーニンの場合には、抑圧一般に対する闘争は「民主主義」として捉られているのであり、民族自決の要求もそのようなものとしての「民主主義」一般の場合と同様な問題をもつものと考えられている。

 

「マルクスは、例外なしにいかなる民主主義的要求をもなにか絶対的なものとは考えないで、ブルジョアジーの指導下の人民大衆の反封建主義的闘争の歴史的表現であると考えた。これらの要求のどれ1つとして、ある事情のもとでは、ブルジョアジーが労働者を欺瞞するための道具に役だてられないようなもの、また実際に役だてられなかったというものはない、この点で、政治的民主主義の要求のうちの1つ、すなわち民族自決をとり出して、それをそのほかの要求に対置するのは、理論上、根本的にまちがいである」(同前、21頁)。

 しかも、民族的抑圧が、ブルジョア社会や帝国主義的支配にとって根本的な問題であるだけに、民族自決権の問題は特にブルジョアジーや帝国主義者に利用されることにならざるをえない。それ故レーニンは、民族自決権の主張が、民族的抑圧を打破する闘争の首尾一貫した表現であるためには、それが民主主義一般を支持するものでないばかりでなく、民族主義を解体する方向に発展せざるをえないことを特に強調したのであった。

 

「いっさいの民族的圧制にたいする闘争―これは、無条件にイエスだ。いっさいの民族的発展のための、『民族文化』一般のための闘争―これは、無条件にノーだ」(国民文庫『民族問題に関する批判的覚書』80頁)。

 では一体、民族主義に向かわないような形で民族的抑圧の打開することは如何にして可能となるのか。ここで「抑圧民族の社会民主主義者と被抑圧民族の社会民主主義者との具体的な任務を区別する必要」(「社会主義革命と民族自決権」、国民文庫『帝国主義と民族・植民地問題』30頁)が生ずるのである。つまり、民族的抑圧は、抑圧民族と被抑圧民族の両方の側から掘りくずしていくことによってはじめて解消するような、またそのことなしには、プロレタリアートの国際的結合が実現出来ないような、強力な障害なのだ。それは社会主義革命によっても簡単に除去されるような代物ではない。

 

「資本主義を社会主義へ改組したのち、プロレタリアートは、民族的抑圧を完全に排除する可能性をつくりだす。この可能性は、住民の『共感』に応じた国境の決定や分離の完全な自由にいたるまでの民主主義をあらゆる領域で完全に実行する場合に『はじめて』―『はじめて』だ!―現実性に転化する。この地盤のうえで、逆に、ごくわずかの民族的摩擦も、ごくわずかの民族的不信も、絶対に排除するということが実際におこなわれ、諸民族のみやかな接近と融合がうまれ、国家の死滅によって完成されるのである。これが、マルクス主義の理論である」(「自決にかんする討論の決算」、同前、131頁)。

 民族的抑圧の排除が完成されるのは、国家の死滅によってであるというのだ。レーニンが民族的抑圧の問題をいかに深刻な問題として考えていたかがわかる(勿論それは「民主主義の死滅」という捉え方につながっている―『国家と革命』参照)。そしてこの深刻な問題に対する第一歩が、抑圧民族と被抑圧民族の社会主義者の任務の区別ということなのである。レーニンはいう。

  「抑圧民族の……プロレタリアートは、『自国』民族によって抑圧されている植民地および諸民族の政治的分離の自由を要求しなければならない。そうしないばあいには、プロレタリアートの国際主義は、からっぽな口さきばかりのものにとどまるだろう。被抑圧民族の労働者と抑圧民族の労働者のあいだの信頼も階級的連帯性も、不可能であろう。……(略)

  他方では、被抑圧民族の社会主義者は、抑圧民族の労働者と被抑圧民族の労働者との完全な無条件的な統一―組織的統一をふくめた統一を、とくに強調し、それを実現しなければならない。これなしには……他の諸国のプロレタリアートと彼らとの階級的連帯性を、まもりぬくことはできない」(「社会主義革命と民族自決権」、同前、19頁)。

  別の言葉で言えば、抑圧民族では、「分離の自由」が、被抑圧民族では「結合の自由」が主張されねばならない、ということになる。そしてこれは「国際主義と民族融合」という同一の目標にいたる別々の道であり、この別々の道を通る以外には目標に到達できないとレーニンは強調する。この場合どちらの道がよりけわしいのか。問題が「抑圧の排除」にある以上、抑圧民族の社会主義者の任務の方が決定的なのである。だからこそ、レーニンは「抑圧諸民族の社会主義者の偽善と臆病とを特別に考慮にいれなければならない」(同前、18頁)と強調したのである。そしてまた、民族自決権=「分離の自由」は抑圧民族の社会主義者にとって決定的に重要な要求となるのであり、それによって労働者階級を教育すべき基本的スローガンとならねばならないとされたのであった。

  つまり、レーニンにおける「民族自決権」の思想は、まず第一に、抑圧民族における民族主義の解体を要求するものなのであり、その点にこそ最も重要な特徴があったのである。それは、被抑圧民族の民族運動の歴史的法則性と進歩性を認め、帝国主義的民族支配の打破を当面の目標とするものであったが、そこにとどまるものではなかった。さらに、長い歴史の中で蓄積され、ブルジョア社会の編成のテコとして強化されてきた民族的抑圧、民族差別一般の排除にまで踏み込んでいこうとするものであった。そして、「ごくわずかの民族的摩擦や民族的不信」まで取り除いていこうとする決意する点に、レーニン思想の深さがあったといえる。スターリンはこの思想の深みにまでついて行こうとはせず、レーニンにとっても当面の目標の地点から引き返して行ってしまった。

  スターリンもその著『レーニン主義の基礎』のなかで、さきの「分離の自由」と「結合の自由」について述べたレーニンの「自決にかんする討論の決算」の一節を引用している。しかし彼はそこでまず、ロシアのプロレタリアートが、ロシア帝国主義の鉄鎖を粉砕し、民族的抑圧をとり除き、旧ロシア帝国の被圧迫民族から共感と支持をうけることによってロシア革命を勝利させることが出来た点に注意をうながす。そしてつづけて「圧迫された国々の社会主義者の民族的な閉鎖性と考えの狭さと分立性にたいして闘争する必要がうまれる」(国民文庫『レーニン主義の基礎』89頁)ことを強調するのである。

  その主張を、部分的に個々別々にとりあげてみれば、レーニンの思想をうけついでいるとみえるかもしれない。しかし全体としては、民族的抑圧の打破を、民族的不信感をとり除くまでに徹底させようとする方向にではなく、プロレタリア運動において、大民族プロレタリアートの指導性を小民族、したがって被抑圧民族のプロレタリアートが承認すべきであるという点に力点が置かれるに至っているのであった。それはいわば、スターリンがレーニンと別れ、民族主義の方向にたち返っていく分岐点を示すものともいえた。レーニンは、その「遺書」の中で、このようなスターリンを弾劾する。その「大ロシア人的・民族主義的カンパニア」に対して「スターリンとゼルジンスキーに政治的責任をとらせなければならない」(『レーニン全集』第36巻721頁)と述べる。

 

「私はすでに、民族問題を論じた私のいろいろの著作のなかで、民族主義一般の問題を抽象的に提起してもなんの役にもたたない、と書いた。抑圧民族の民族主義と被抑圧主義の民族主義、大民族の民族主義と小民族の民族主義とを区別することが必要である。
このあとのほうの民族主義にたいしてわれわれ大民族に属するものは、歴史的実践のうちで、ほとんどつねに数かぎりない強制の罪をおかしている。それどころか―自分では気づかずに、数かぎりない暴行や侮辱をおかしているものである。……(略)

だから、抑圧民族、すなわちいわゆる『強大』民族……にとっての国際主義とは、諸民族形式的平等をまもるだけでなく、生活のうちに現実に生じている不平等にたいする抑圧民族、大民族のつぐないとなるような、不平等をしのぶことでなければならない。このことを理解しなかったものは、民族問題にたいする真のプロレタリア的な態度を理解せず、実は小ブルジョア的見地にとどまっているものであり、したがって、たえずブルジョア的見地に転落せざるをえないのである。……(略)

なぜなら、民族的不公正ほど、プロレタリア的階級連帯の発展と頑固さを阻害するものはなく、また平等の侵害―たとえ不注意によるばあいでさえ、たとえ冗談としてでさえ―ほど、自分の同志であるプロレタリアによってこの平等が侵害されることほど、『侮辱された』民族の人々の心ににするどくひびくものはないからである。そこで、このばあいには、少数民族にたいする譲歩とおだやかさの点で行きすぎる方が、行たりないよりはましである」(同前、718-719頁)。

 この死の床からのレーニンの切々たる訴えは、強大民族、抑圧民族の1人としての我々の心を強くゆり動かすものである。それは、我々にとって、ナショナリズムの問題を考え、批判していく場合の原点となるものであることは疑いをいれないところであろう。(未完)