『人文学報』第36号

1973年3月

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北一輝論 (1)


 

古屋 哲夫


は じ め に

1帝国主義と国家の必要
2社会の進化と個人
3公民国家=社会民主主義論
4国体論批判の性格と天皇機関論
5社会主義運動論の特徴と矛盾



4国体論批判の性絡と天皇機関論


 北は公民国家の成立過程を次のように説明する。すなわち、「家長国時代に於ては社会の未だ進化せざるが為めに社会自身の目的と利益とを意識して国家の永久的存在なることを知らず、社会の一分子若しくは少数分子が其等個人としての(社会の一部としてにあらず)利己心を以て行動するより外なく、他の下層分子は其等上層の利己心の下に犠牲として取扱はれ以て社会を維持し来れる者なり。…近代の公民国家に至っては然らず。社会は大に進化して社会其れ自身が生存進化の目的を有することを解し,国家の利益と目的とが全分子に意識せられ,其の国家の意志を表白すと言ふ機関たる分子に於ても社会の一部としての社会的利己心を以て(機関が其自身を個人として意識する場合の個人的利己心にあらず)行動する者なり。」(1-345頁) この過程の中心が社会の全分子が国家意識にめざめるという点におかれ、それが公民国家成立のメルクマールとされていることは明かであろう。それは君主や天皇をも含めた「国家の意志を表白すという機関たる分子」においても例外ではなく、彼等もまた個人的利己心ではなく社会的利己心を以て、すなわち国家の進化を目的として行動するに至るとされるのである。そして北は明治維新をこのような公民国家成立の過程そのものとして捉えたのであった。従って公民国家論が彼の理論の中枢に位置するのと対応して、彼の日本の現実への把握は明治維新論をその中軸にすえることになる。そしてそこから国体論批判は論理構成の上からも必然的要請となるのであった。

  「維新革命とは国家の全部に国家意識の発展拡張せる民主々義が旧社会の貴族主義に対する打破なり。而してペルリの来航は攘夷の声に於て日本民族が一社会一国家なりと言ふ国家意識を下層の全分子にまで覚醒を拡げたり。恐怖と野蛮の眼に沖合の黒煙を眺めつゝありし彼等は、日本帝国の存在と言ふ社会主義を其の鼓膜より電気の如く頭脳に刺激せられたり。…実に維新革命は国家の目的理想を法律道徳の上に明かに意識したる点に於て社会主義なり、而してその意識が国家の全分子に明かに道徳法律の理想として拡張したる点に於て民主主義なり。…徳川氏時代に至りての百姓町人は最早奴隷賤民にあらず、土百姓にあらず、亦平民にあらず、維新後忽ちに挙がれる憲法要求の叫声を呑みつゝありし民主的国民なりしなり。」(1−350頁)

  しかし明治維新を公民国家の成立=社会民主主義革命として捉えるためには、それに見合った天皇観をつくりあげることがどうしても必要であった。天皇を権力と同時に倫理的価値の源泉とするような支配的イデオロギーを肯定しては、明治国家を公民国家だと言うわけにはゆかなくなる。彼の公民国家論でゆけば、明治国家の骨格をなしているのは、天皇への忠誠ではなく、国家への忠誠でなければならない筈であった。しかしこの観点を貫くためには、明治国家における天皇の性格を明らかにすると同時に、彼の言う社会民主主義革命としての明治維新が何故、天皇を政治の中心に押し上げていったのかをも説明しなければならなかった。彼の国体論批判は、今やこのような公民国家論にみ合う天皇観を築くためのものとなっていた。そしてそのためには、明治維新を王政復古とするような見方を打破することが先決であった。

  「維新革命の本義は実に民主主義に在り。…維新革命を以て王政復古と言ふことよりして已に野蛮人なり。」(1-344頁)「維新革命は家長国の太古へ復古したるものにあらず、家長国の長き進化を継承して公民国家の国体に新たなる展開をなせるものなり。」(1−353頁)しかしこの王政復古否定論を成り立たせるためには、明治維新における天皇の地位を尊王イデオロギー以外の要因によって説明しなければならなくなる。北はまず維新以前の天皇を、次のように捉えた。すなわち天皇は神道的信仰の勢力による「神道の羅馬法王」(1−337頁)という特殊性を持つとは言え、本質的には幕府諸侯と変らない「家長君主」であったとする。つまり著るしく弱体であったとしても、公卿を臣下とし土地人民の上に絶対の権利を有したことは明らかだと言うのである。そして彼はまた天皇家がともかくも存続し得たのは、「他の強者の権利に圧伏せられたる時には優温閉雅なる詩人として政権争奪の外に隔たりて傍観者たりしが故」(1−325頁)であり、「万世一系そのことは国民の奉戴とは些の係りなし」(1−328頁)と強調するのである。それは言いかえれば、尊王を中心とした国民的運動がおこるような歴史的条件は存在しなかったということになろう。では何故幕末に尊王論がおこるのか。彼は倒幕運動における尊王論を、外圧により革命論をねりあげる時間的余裕がなかったための便宜的なものと評するのであった。 彼は尊王倒幕論者について次のように書いている。

  「彼等は嘗て貴族階級に対する忠を以て皇室を打撃迫害せる如く、皇室に対する忠の名に於て貴族階級をも転覆せんと企てたり。貴族階級に対する古代中世の忠は誠のものなりき、今の忠は血を持って血を洗はんとせる民主主義の仮装なり。彼等は理論に暇あらずして只儒学の王覇の弁と古典の高天ヶ原との仮定より一切の革命論を糸の如く演繹したり。曰く―幕府諸侯が土地人民の上に統治者たるは覇者の強のみと、而して是れに対抗して皇室は徳を以て立てる王者なりと仮定したり。国民は切り取り強盗に過ぎざる幕府諸侯に対して忠順の義務なしと、而して是れに対抗して皇室は高天ヶ原より命を受けたる全日本の統治者なりと仮定したり。

  維新革命は国家間の接触により覚醒せる国家意識と一千三百年の社会進化による平等観の普及とが、未だ国家国民主義(即ち社会民主々義〉の議論を得ずして先づ爆発したる者なり。決して一千三百年前の太古に逆倒せる奇蹟にあらず。」(1-352頁)

  つまり、尊王論は倒幕革命の理論を早急に、従って既成の理論からつくり出すための「仮定」にすぎず、若し理論的検討の十分な余裕があれば、倒幕論は社会民主主義の方向で、国家の問題を中心として論議されたであろうと言うのである。

  このような国体論批判及び維新革命論から言えば、天皇制を生み出したことは、明治維新の必然的結果とは言えなくなる。彼の論理からは、天皇制否定を叫んだ方がより明快であったと思われる。しかし彼はこのぎりぎりのところから、天皇の地位の肯定へと転換してゆくのであった。そこには、明治国家を本質的には肯定的にとらえたいという彼の願望をよみとることができよう。ともあれ、彼はこの転換によって、倒幕運動における尊王論の役割を否定的に捉えることと天皇が維新革命によって家長君主から公民国家の最高機関に変身したことを矛盾なく説明する必要に迫られることになる。

  彼は「君主固有の威力」という問題について「固有とは君主の一個人が先天的に肉体の中に有すとのことならば、力と言ひ威力と言ふ者は決して君主の固有に非らず社会と言ふ者の有する団結的権力なり。即ち君主の威力あるかの如く見らるゝは此の団結的権力の背後より君主を推し挙ぐるが為めにして」(1-242頁)と述べているのであるから、維新の場合にも、倒幕運動が天皇を「推し挙げた」とみていることは明らかである。では何故倒幕運動は天皇を押し上げることになったのか。尊王論は拒否する北は、天皇は家長君主の地位を脱して国民と共に倒幕運動に参加し、その英雄的指導者となったと主張することで、この問題に答えようとした。

  彼は言う。「維新革命の国体論は天皇と握手して貴族階級を転覆したる形に於て君主々義に似たりと雖も、天皇も国民も共に国家の分子として行動したる絶対的平等主義の点に於て堂々たる民主々義なりとす」(1−353頁)「現天皇は維新革命の民主々義の大首領として英雄の如く活動したりき」(1−354頁)「現天皇が万世一系中天智とのみ比肩すべき卓越せる大皇帝なることは論なし。常に純然たる詩人たりしものが徳川氏の圧迫を排除せんが為めに、卓励明敏の資質を憂憤の間に遺伝したり。…維新革命の諸英雄を使役して東洋的摸型の堂々たる風耒は誠に東洋的英主を眼前に現はしたり。(吾人は想ふ、今日の尊王忠君の声は現天皇の個人的卓越に対する英雄崇拝を意味すと)」(1-357頁)

  北が明治天皇に対して何か特別の感情をもっていたことは、後年の北の仏壇に軍服姿の明治天皇像がかざられていたことからも推測することが出来る。ここで述べられている維新の英雄としての明治天皇のイメージには、明治後期に彼が抱いた明治天皇観が投影されていることは疑いもない。しかしまた、いわゆる国体論を拒否した上で、天皇の存在を肯定するためには、このようなやり方以外にありえなかったであろうことも明らかである。この明治天皇英雄論は実証的根拠のない一つのフィクションである。彼は国体論の神話にかえて、維新の英雄という神話をつくったとも言える。彼はこのフィクションを以て、一方で天皇の現存に根拠を与えると共に、他方では天皇を国家の進化という目的以外には行動し得ないものとして限定づけようとしたのであった。つまり天皇はこのフィクションにより、公民国家の強化、すなわち彼の言う社会民主主義の方向を代表しなければならないものとして規定されることになるのであり、一見明治天皇への個人崇拝にすぎないかの如き「維新の英雄」論は、実はいわゆる国体論を拒否して、天皇機関論―と言っても公民国家論にみあう特殊なものであったが―を導き出すという役割を負わされていたのであった。

  北は、維新の英雄としての活躍によって、天皇の性格は次のように変化したとする。「現皇帝は維新以前と以後とは法理学上全く別物なり。維新以前は諸侯将軍の君主等と等しく其の範囲内に於ける家長君主たる法理上の地位なりしと雖も、維新以後二十三年までは唯一最高の機関として全日本国の目的と利益との為めに国家の意志を表白する者となれるなり」(1−363頁)ここで「国家の意志」とは、あとでみれるように、国家の進化を目的とする社会的勢力のなかにあらわれるとされるのであるから、「最高機関」としての天皇は、そのような社会的勢力を代表すべき者なのだということになる。北は明治維新を明治憲法制定に至る一連の過程とみるのであるが、その憲法制定はこのような形での「最高機関」の働きとして捉えられていた。

  「維新革命は貴族主義に対する破壊的一面のみの奏功にして、民主々義の建設的本色は実に『万機公論による』の宣言、西南佐賀の反乱、而して憲法要求の大運動によりて得たる明治二十三年の『大日本帝国憲法』にありと。即ち維新革命は戊辰戦役に於て貴族主義に対する破壊を為したるのみにして、民主々義の建設は帝国憲法によりて一段落を劃せられたる二十三年間の継続運動なりとす。」(1−354〜5頁)つまり彼は明治憲法を明治維新の帰結とみると同時に、「憲法要求の大運動によりて得たる」ものと評価しているのである。そしてこの評価は次のような「欽定憲法」における「欽定」の理解につづいていた。「欽定とは…国家の主権が唯一最高機関を通じて最高機関を変更して特権の一人と平等の多数とを以て組織すべきことを表白したることなりとす。」(1−364頁)すなわち、欽定とは、国家の意思を表明する最高機関が天皇だけであったから、天皇が定めるという形式になったということであり、天皇個人が定めたということではない、天皇は国家意思の媒介たるにすぎないというわけである。つまり明治憲法は「憲法要求の大運動」が国家意思を形成し、それが最高機関である天皇を通じて「欽定」という形式で制定されたと把握されているのである。

  それは観点を移して言えば、天皇と国民は直接に相対立する存在ではないとする主張に変わる。「約言すれば日本天皇と日本国民との有する権利義務は各自直接に対立する権利義務にあらずして大日本帝国に対する権利義務なり。例せば日本国民が天皇の政権を無視す可からざる義務あるは天皇の直接に国民に要求し得べき権利にあらずして、要求の権利は国家が有し国民は国家の前に義務を負ふなり。日本天皇が議会の意志を外にして法律命令を発する能はざる義務あるは国民の直接に天皇に要求し得べき権利あるが為めにあらず、要求の権利ある者は国家にして天皇は国家より義務を負ふなり」(1-213頁)従って「国民の忠は国家に対するもの」(1−369頁)であって天皇そのものに向けらるべきものではない、「『国家の為めに』と言ふ社会主権の公民国家と、『君の為めに』と言ふ君主々権の家長国とは、国体の進化的分類に於て截然たる区別をなす」(1−368頁)ということになるのである。北は「爾臣民克く忠に」という「忠」の内容は、「国家の利益の為めに天皇の政治的特権を尊敬せよと言ふこと」(1−369頁)にすぎないと断ずるのであった。それは当時の支配者のスローガンであった「忠君愛国」を切断し、「忠君」ではなくて「愛国」こそが道徳の基本であることを強調するものにほかならなかった。

  この論理で言えば、天皇もまた「愛国」という政治道徳によって拘束される存在であり、北は、天皇をも含めた最高機関としての「君主」が個人的利己心で行動するようになれば、公民国家が「事実上の家長国と化し去ることあり」(1−362頁)と考えたのであった。「今日の天皇は…国家の特権ある一分子と言ふことにして、外国の君主との結婚によりて国家を割譲する能はず、国家を二三皇子に分割する能はず、国民の所有権を横奪して侵害する能はず、国民の生命を『大御宝』として殴傷破壊する能はず、実に国家に対してのみ権利義務を有する日本国民は天皇の白刃に対して国家より受くべき救済と正当防衛権を有するなり。」(1-218頁)

  彼は孟子の「一夫紂論」を援用しながら、論理的には国家の利益に反する天皇は打倒の対象となりうることを認める。しかし現実には、「天皇等の徳を樹つることの深厚なりしは…歴史上の事実なり(1−420頁)とし、「固より独乙皇帝の如き一匹夫ならば…国家機関たる所の君主に非らざる帝冠の叛逆者として一夫紂論の爆発することはあり得くしと雖も、親ら民主的革命の大首領たりし現天皇は固より歴史以来の事実に照らして日本今後の天皇が高貴なる愛国心を喪失すと推論するが如きは、皇室典範に規定されたる摂政を置くべき狂疾等の場合より外想像の余地なし」(1-421頁)としてその現実的可能性を否定したのであった。

  このような北の天皇観は、国家の最高機関としての天皇に敬意を払うべきことを説き、天皇打倒の現実の可能性を否定したとは云え、支配的イデオロギーからみれば明らかに異端であった。北はこのような状況の下で大日本帝国憲法そのもののなかから、彼の天皇観、公民国家=社会民主主義論にみあう解釈を引き出し、自らの主張を補強しようと試みるのである。

  北はまず憲法第5条と第73条に着目する。 第5条とは「天皇ハ帝国議会ノ協賛ヲ以テ立法権ヲ行フ」との規定であり第73条は憲法改正手続についての規定である。即ち憲法改正案は勅令により帝国議会に付議し、議会は議員総数の3分の2以上が出席し、出席者の3分の2以上の多数を得れば改正の議決をすることが出来るとしたものである。この規定から北は、天皇が行政の長官として、或は陸海軍の統率者として活動する場合には独立の機関であるが、立法についてはたんに機関の一要素であるにすぎないと主張する。「即ち、立法機関は天皇と議会とによりて組織せられ始めて一機関としての段落ある活動を為すことを得」(1-231頁)と。そしてこれを根拠に「天皇は統治権を総覧する者に非らず」(1-230頁)として、第4条(「天皇ハ国ノ元首ニシテ統治権ヲ総纜シ此ノ憲法ノ條規二依り之ヲ行フ」」を否定する。つまり立法機関として不完全な天皇が、統治権の総覧者でありえないことは明らかだというのである。

  憲法の条文に矛盾のある場合には、「各々其の憲法の精神なりと認むる所、国家の本質なりと考ふる所によりて自由に取捨するを得べく」(1-235頁)とする北は、天皇を「神聖」とし、「元首」とする規定をも切り捨てる。すなわち、「神聖」は歴史的に踏襲された形容詞にすぎず、学理上は意味のないものであり、また「元首」は君主を頭とし労働者を手足とするような児戯に類する比喩的有機体論の産物にすぎないとした。

  では大日本帝国憲法において、統治権を有する機関は何なのか、まず「『最高機関』とは最高の権限を有する機関のことにして即ち憲法改正の権限を有する機関なり」(1-232頁)と定義される。そしてさきの第73条の規定から云って、天皇と議会の合体したものを最高機関とみなすべきだとするのである。「若し此の国家の意志の表白さるる所の者を以て主権者と呼び統治者と名くるならば、天皇は主権者にあらず又議会は統治者に非らず、其等の要素の合体せる機関が主権者にして統治者なりとすべし」(同前)と。

  このような北の天皇論・憲法論から云えば、いわゆる国体論はそれが単に根拠のない妄想であると云うだけではなく、打倒すべき反革命であり、国民を国家に向ってより強力に集中してゆくために排除しなければならない障害であった。彼は云う。世の所謂『国体論』とは決して今日の国体に非らず、又過去の日本民族の歴史にても非らず、明らかに今日の国体を破壊する『復古的革命主義』なり」(1-211頁)と。復古的革命主義とは反革命と云うに等しい。彼は国体論の内容として君臣一家論や忠孝一致論をとりあげて批判するが、その観点は要するに「所謂国体論の背髄骨は、如何なる民族も必ず一たび或る進化に入れる段階として踏むべき祖先教及び其れに伴ふ家長制度を国家の元始にして又人類の消滅まで継続すべき者なりと言う社会学の迷信なり」(1-260頁)という一節につきていた。それは云いかえれば、国体論は折角公民国家にまで進化した日本の国体を、再び家長国家に逆転させようとする反革命だということにほかならないのである。

  たしかに北の国体論批判は当時においては極めて強烈であり、官憲をして発禁処分に走らせるに十分であった。しかしそこでの問題関心が明治国家を如何にして根底的に肯定するかという点にあったことは、「伊藤博文の帝国憲法は独乙的専制の飜訳に更に一段の専制を加へて、敗乱せる民主党の残兵の上に雲に轟くの凱歌を挙げたり」(1‐355頁)としてその専制的性絡を指摘しているにも拘らず、憲法論としては天皇大権の大きさにも、議会の権限の弱さにも触れることなく、ただ次の結論で満足していることからも明らかであろう。すなわち、現在の政体は「最高機関は特権ある国家の一分子と平等の分子とによりて組織せらるる世俗の所謂君民共治の政体なり。故に君主のみ統治者に非らず、国民のみ統治者に非らず、統治者として国家の利益の為めに国家の統治権を運用する者は最高機関なり。是れ法律の示せる現今の国体にして又現今の政体なり。即ち国家に主権ありと言ふを以て社会主義なり、国民(広義の)に政権ありと言ふを以て民主々義なり。

  依之観之、社会主義の革命主義なりと云ふを以て国体に抵触すとの非難は理由なし。其の革命主義と名乗る所以の者は経済的方面に於ける家長君主国を根底より打破して国家生命の源泉たる経済的資料を国家の生存進化の目的の為めに国家の権利に於て、国家に帰属すべき利益と為さんとする者なり」(1-247頁)と云うのである。

  つまり、社会主義は国体と矛盾しないばかりでなく明治国家の本質的な意義を肯定するものなのだという結論を導くことだけが目的であり、北はそれ以上に憲法に執着しようとはしなかったと云える。 云いかえれば、彼の憲法論は、彼の公民国家論にみあう天皇機関論を導くためのものであり、彼はそれ以上に憲法解釈に立入ろうとはしなかった。天皇機関説という呼び方で理解すれば、北は美濃部達吉と共通の立場にあるかの如くみえるけれども、この点で彼は美濃部と決定的に異っていた。彼が憲法解釈学に立ち入らなかったのは「天皇と帝国議会とが最高機関を組織し而もその意志の背馳の場合に於て之を決定すべき規定なきに於ては法文の不備として如何ともする能はざるなり」(1‐364頁)つまり憲法の解釈権者が指定されていないという見方も関係しているであろう。しかし根本的な問題は、北の理論においては国家意思は常に憲法を越えるものとされている点にある。彼は云う。「国家主権の今日及び今後に於ては、其の手続きを定めたる規定其者と矛盾する他の規定を設くとも、又其の規定されたる手続によらずして憲法の条文と阻格する他の重大なる立法をなすとも、国家主権の発動たる国家の権利にして、国家は其の目的と利益とに応じて国家の機関を或は作成し或は改廃するの完き自由を有す」(1-248頁)すなわち主権者としての国家は、憲法によって規定されるものではなくて、憲法を自由に改廃しうる超憲法的存在だというのである。さきにみた国家人格実在論がこの基底に置かれていることは繰返すまでもあるまい。

  しかし、憲法をこえる国家は、如何にして自らの意思を発動することになるのか、ここでは、北の進化論が想定した社会そのものの意識にしろ国家人格にしろ、現実には個人の公共心や国家意識の展開としてしか自らをあらわしえなかったのと同様に、超憲法的存在としての国家も、結局具体的な人間の活動によってしか自らの活動をなし為ないことになるのであった。北は次のように書いている。「只、如何なる者が国家の目的と利益とに適合する主権の発動なるかの事実論に至りては、是れ自ら法理論とは別問題にして其の国家の主権を行使すと言ふ地位に在る政権者の意志に過ぎず。即ち事実上政権者の意志が国家の目的と利益との為めに権力を行使するや否やは法理論の与かり知らざる所なり。―是を以ての故に憲法論は強力の決定なりと云ふ。」(1-249頁)そしてその「強力」については、「凡ては強力の決定なり。強力とは社会的勢力なり(単純に中世時代の腕力が社会的勢力を集めたることを以て今日の強力を腕力と速断べからず)。社会的勢力は社会の進化に従ひて新陳代謝す」(1-406頁)と説明する。また「社会的勢力」については、次のようにも書いている。「国家は決して個人の自由に解散し若しくは組織し得べき機械的作成の者にあらずして、革命とは国家の意思が時代の進化に従ひて社会的勢力と共に進化すと云ふことなり。」(1-376頁)「今の社会民主々義者は維新革命の社会民主々義を経済的革命によりて完備ならしめんとする経済的維新革命党なり。革命党の迫害せらるゝは其の社会的勢力を集中せざる間は社会の進化として常態なり」(1-382頁)と。

  従って彼の社会主義運動のあり方についての論議も、社会主義と国体は矛盾しないという点で憲法論にかかわるだけで、むしろこの強力論を主たる基盤として展開されているといえる。すなわち彼の社会主義運動論は、次のような形で導かれてくるのであった。まず公共心→国家意識がその社会で主導的な勢力=「強力」となるとき、そこに国家人格が顕在化し、その勢力の代表者が政権を握った時、国家人格は公民国家として現実のものとなる、しかし、政権についた代表者は、その社会的勢力から離れて個人的利己心にとらわれ、あるいは進化を更に進めることを忘れた保守反動に転化するのが常である。従って、公民国家が基本的には社会民主主義の方向を持つとは云え、その方向を現実のものとするためには、新な社会的勢力を結集して、眼前の政権担当者を克服しなければならない。このような国家の進化を担うべき社会的勢力=強力をつくりあげてゆくことが、社会主義者の任務なのだと。

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