『現代歴史学と教科書裁判』

1973年4月

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日ソ中立条約と教科書裁判


 

古屋 哲夫


はじめに

1 検定側の意図と方法
2 対ソ政策の転換
3 日ソ中立条約の締結過程
4 中立条約締結後の日ソ関係



2 対ソ政策の転換

 さて、日本が対ソ国交調整問題に積極的となり、日ソ中立条約に至る交渉に着手した原因として、「日華事変解決」のための必要をあげる点では、検定側の村尾次郎、中村菊男証人も、森克巳鑑定書も共通している。しかしそこでは、対ソ国交調整を必要とするような「日華事変解決」とはいったいいかなる「解決」なのかという点にはまったく眼が向けられていない。もしもその「解決」が日本軍の中国大陸からの全面撤兵というような解決なら、日ソ交渉のあり方もまったく違ったものになったに相違ない。

  つまり検定側も日ソ関係と日中戦争との密接な関係にまったく眼をつむるわけにはゆかないのであるが、しかしその関係を日ソ交渉の起因ということだけに局限してしまおうとするのである。だが、事実の歴史的関連ということに十分な関心を向けるならば─それは歴史研究にとっての基本的な要請であるはずである─日中戦争が日ソ中立条約の交渉過程全体を規制する基本的な要因であるばかりでなく、対ソ政策を国交調整交渉に向って転換させる奥深い要因ともなっていることに気付かねばならないはずである。したがって日ソ交渉の起因を日中戦争のなかに求めるのであれば、日中戦争が対ソ政策をいかなる形で、いかなる方向に転換させる要因になっているのかという問題を解明することから始めるというのが歴史研究というものではあるまいか。この点を無視する非歴史的なやり方が、「歴史」教科書の「検定」としてまかり通っているような事態をわれわれは何と呼ぶべきなのであろうか。ともかく、われわれはまず対ソ政策の転換過程を検討することからはじめねばならない。

  すでに触れたように、中立条約をめぐる交渉が問題とされる以前の段階では、日本の対ソ政策を象徴していたのは、1936年11月調印の日独防共協定であった。それが表面ではコミンテルンへの対抗をかかげ、秘密協定ではソ連を仮想敵国とするものであっとことは周知のところであろう。それはたんに国内での思想弾圧に対応し、国際的なファッショ陣営のイデオロギー的結合を示すに止まるものではなかった。日本は新たな植民地「満州国」の確立のために、対ソ一撃の態勢をつくろうとしていた。

  同協定を成立させた広田内閣が、その発足にあたって決定した「国策の基準」は言う。「満州国の健全なる発達と日満国防の安固を期し、北方蘇国(ソ連)の脅威を除去すると共に、英米に備へ、日満支三国の緊密なる提携を具現して我経済的発展を策するを以て、大陸に対する政策の基調とす。而して之が遂行に方りては、列国との友好関係に留意す」(外務省編『日本外交年表並主要文章』下、344ページ)。つまり、英米と妥協の道を求めながら中国に対する支配を拡大強化し、ソ連への一撃をねらうというのが、「国策の基準」の軸をなす考え方であった。それはこの時初めて作られた方針ではなく、「満州事変」以後の対ソ政策をうけついだものであった。日本側が1931-32年にわたるソ連の不可侵条約の提議をとりあげようとしなかったのは、このような意図の故であった。

  同時にまた、「防共」は中国を従属させ、あるいは中国における植民地を拡大するための名分でもあった。広田は岡田内閣の外相時代に、1936年1月、「共同防共」を対華三原則の一項に加えていたが、さらに広田内閣の下で同年8月11日に決定された「第二次北支処理要綱」では「北支処理の主眼は…防共親日満地帯の建設」(同上書、347ページ)にあるとの方針が示されている。

  では、この反ソ・防共政策は何故に転換されねばならなかったのか。一口で言えば、この政策の前提条件が崩壊してしまったということにほかならなかった。防共協定締結時における反ソ・防共政策の第一の前提は、中国との全面戦争を避け、米英との妥協をはかりつつ、華北・満州を一体とした自給的軍需工業体制をつくり対ソ戦備を完成するということであった。1936年当時において、すでにソ「満」国境に対峙する軍事力は、ソ連のほうが圧倒的優位に立ちつつあった。

 

師団数

飛行機

戦車

 

1935(昭10)末
1936(昭11)末
1937(昭12)末
1938(昭13)末
1939(昭14)末
1940(昭15)末

14
16
20
24
30
30

5
5
7
9
11
12

950
1,200
1,560
2,000
2,500
2,800

220
230
250
340
560
720

850
1,200
1,500
1,900
2,200
2,700

150
150
150
170
200
450

 満州事変後の二度にわたる不可侵条約提議を拒絶されたソ連は、いわゆる「北満」鉄道の権利を「満州国」に譲渡し(1933年6月交渉開始、35年1月協定調印)、紛争の因を除こうとすると共に、33年に始まる第二次五ヵ年計画の実施にあたっては、極東地方の開発と軍事力強化に努力した。
  シベリア鉄道の複線化、国境地帯の要塞化も急速に進行した。参謀本部の推定した日ソ両軍の兵力量は上表のように変化している(日本軍は満州・朝鮮にある兵力の合計、ソ軍の師団数は狙撃師団のみ、他に騎兵2-3個師団あり)。こうした軍事力の強化を背景として、ソ連側は防共協定締結以後は日本に対する態度を硬化させる。

  これに対して日本側では、この極東ソ連軍を打破することが、満州支配を完成させるために必要だと考えたが、そのためには中国の資源を加えたいわゆる「日満華経済ブロック」を、米英との決定的対立を避けながらつくりあげることが必要とされた。しかしこのような、中国を日本の経済圏にくみ込もうとする大陸侵略政策が、中国との全面戦争をも、米英との対立の深刻化をも回避して実現できるものではなかった。

  1937年7月の盧溝橋事件に始まる中国の全面的な抗日戦の遂行は、この反ソ・反共政策の大前提をつき崩すものであった。中国の抵抗は日本の大兵力を大陸に釘付けにした。開戦1年後の1938年秋には、早くも中国側を武力によって屈服させることの不可能が明らかとなった。盧溝橋事件に際しての政府声名は「支那軍ノ暴戻ヲ膺懲シ以テ南京政府ノ反省ヲ促ス」と述べていたが、この目標が武力行使によって達成できない以上、対中政策は転換されねばならなかった。陸軍の「昭和13年秋季以降対支処理方策」(38年11月18日概定、12月6日陸軍省部決定、『現代史資料』(8)、553ページ)は、漢口・広東攻略の余勢を駆って武力攻撃を加えてみても「事変解決」を期し難いことを認め、「残存抗日勢力の潰滅工作は」主として「謀略及政略の運営に俟つ」という方向への転換を打ち出していた。

  この政策転換の性格を明らかにしたのが、38年11月3日の第一次近衛内閣の声名であった。ここではじめて「東亜新秩序」なるスローガンが公式に声明された。それは日本側の望む和平構想の基本を示すものであり、中国大陸の「秩序」の決定権を要求するものにほかならなかった。軍事的行詰りに直面し、「南京政府ノ反省」を求める当初の目標を「新秩序」というはるかに包括的な目標に拡大することは明らかに矛盾であった。しかしこの矛盾は当時の日本の支配層には意識されていなかった。

  したがって「東亜新秩序」への転換が直ちに対ソ政策の転換を結果するものではなかった。「新秩序」の中核は「日満支」の「共同防共」におかれており、具体的和平条件として御前会議で決定された「日支新関係調整方針」でも「共同防共」の名による駐兵権などを要求するものであった。

  しかし「新秩序」の要求は、反ソ・防共政策の柱である米英との妥協の余地を決定的にせばめるものであった。米英は中国大陸の秩序の決定権を日本に渡すことに反対して、次第に蒋介石政権への援助を強めた。だが日本の支配層は米英との妥協の可能性に望みをかけていた。そのことは、「新秩序政策」を打ち出すのと並行して、38年7月から39年8月にかけておこなわれた日独伊提携強化交渉の過程に端的にあらわれていた。

  ドイツ側のイニシアティヴによってはじまったこの交渉は、ヨーロッパ支配をめざすドイツが、防共協定をソ連以外の第三国─具体的には英仏─をも対象とする軍事同盟に発展させようとしたのに対して、日本側は、防共協定の軍事同盟への強化を中心とし、対象をソ連以外に拡張する場合にも、相互間の兵力的援助は対ソ戦の場合に限定しようとしたために行詰ったものであった。

  日本側の言う防共協定強化の提案では、みずからの目的に役立たずとみたドイツは、39年5月独伊軍事同盟を、8月には独ソ不可侵条約を締結、この結果におどろいた平沼内閣が独ソ不可侵条約は防共協定違反と抗議すると共に、「欧州情勢は複雑怪奇」との声名を残して総辞職したことは周知のところでもあろう。

  ところで、この挫折した提携強化交渉の過程は、日ソ関係で言えば、張鼓峰事件からノモンハン事件に至る時期にあたっている。独ソ不可侵条約が調印された8月23日には、関東軍は8月20日から開始されたソ連軍の大攻勢の前に大打撃をうけて敗退しつつあった。政府も軍部も事件を早急に収拾しなければならなくなっていた。9月15日モスクワでノモンハン事件の停戦取決めが成立した時には、すでにドイツのポーランド進撃(9月1日)によって第二次大戦の口火が切られていた(9月3日英仏、対独宣戦)。

  この情勢の激変によって、日本の支配層の間では、独ソ不可侵条約締結を機に対独不信感が広まり、欧州戦争の開始という条件を利用して対米英関係を改善することに関心が集中していた。そしてそれによって日中戦争解決の手がかりをつかむことが望まれたのであった。

  すでに1939年7月の日英会談では、イギリスから中国における日本軍の治安維持・利敵行為排除のための行動を妨害しないとの譲歩を獲得しており、一方ではこうした方向をさらに拡大して、蒋介石政権を孤立させることが意図された。しかし同時に、アメリカはイギリスの対日譲歩を叱咤するかのように、39年7月26日、6ヵ月の予告をもって、日米通商条約を破棄する旨通告してきていた。戦略物資確保のためには、アメリカとの無条約状態におちいるのを回避するための交渉が必要であった。

  阿部信行に平沼内閣の後継内閣組織を命ずるにあたって、天皇がとくに守るべき3項目を指示し、その1として「外交の方針は英米と協調する方針を執ること」と述べたのは、このような支配層の希望と必要とを代弁したものであった。阿部内閣は「政策の中核を支那事変の処理に置き、外は自主的立場を堅持」することを基本政綱にかかげた。「自主的立場」とは欧州戦争に介入せず、米英との妥協の道を求めるということであった。

  しかし「東亜新秩序建設」を日中戦争解決の基本とする限り、米英との対立が緩和される可能性のないことは次第に明確になっていった。そしてそこから対ソ政策転換のきざしが現われてくるのであった。

  1939年12月28日、阿部内閣の野村吉三郎外相、畑俊六陸相、吉田善吾海相によって決定された「対外施策方針要綱」は、この点で注目する必要がある(外務省編『日本外交年表並主要文書』下、421-424ページ所収)。この要綱は、対米英、とくに対米施策に重点を置くものであったが、対ソ関係については「支那事変中両国関係ノ平静化ヲ図」るとして、次のように述べている。

 

不侵略条約ハ少クモ『ソ』聯ノ対支援助放棄及日満脅威軍備ノ解消等ヲ前提要件トシ其見透シ確実トナル迄ハ之ヲ公式ニ取扱ハス、従ツテ我方ヨリ之ヲ提議スルコトナシ、但シ対米施策ヲ有利ナラシムル為日『ソ』接近ノ気配ヲ装フコトアリ

  つまり「日満脅威軍備ノ解消」など従来の反ソ・防共政策の考え方をうけついでいるが、ノモンハン事件における敗北によって、ソ連極東軍備打破の現実性は、はるか彼方に遠のいており、また国内における防共=社会運動・思想に対する弾圧体制の完成したこの時点では、援蒋行為中止を求める観点と同時に、アメリカに対する立場を強化するためにソ連と接近する可能性が考慮され始めていたのである。
このような事態の推移は、日本の対ソ政策が、植民地支配の拡大と対米英関係という2つの問題によって規制されていることを示している。そして独伊との関係もまた、この2つの問題に対ソ関係をからませながら、いかに有利に展開するかという観点から選択されていたと言える。したがって、植民地支配の拡大と対米英関係とを調和させることができるならば、日本は独伊との関係を冷却させても、反ソ=米英との妥協の道を選んだであろう。植民地支配の拡大にとって、独伊よりも米英との関係がより直接的だからである。しかし植民地支配の拡大が中国民衆の抵抗によって「新秩序」政策を余儀なくされ、それによって米英との対立が激化してくると、反ソ=米英との妥協という図式は成り立ち難くなってくる。しかも「反ソ」のほうも、ソ連の軍事的優位によって現実性のうすいものになっていた。これらの条件が、日本の対外政策を親ソ=反米英に、「新秩序」を通じる独伊との握手に転換させる力となることは明らかであろう。そしてまたこのような関係から、日本の対外政策の基本が植民地支配の問題にあることを読みとることも容易であろう。

  「学習指導要領」は「第一次世界大戦から第二次世界大戦の終結に至る過程については、国際情勢の推移、日本の対外政策などの相互の関連に着目させて取扱う」と指示する。 この「相互の関連」とは以上のような関係とどう異なるというのであろうか。日本の対外政策を「相互の関連に着目」して「取扱う」とすれば、対ソ政策の転換の問題は、そのような「関連」を明らかにする点で不可欠ではないか。そしてここには「自国に不公正な印象」などという、あいまいにして主観的な基準を持ち込む必要などまったくない。

  さて、このような対ソ政策の転換は阿部内閣によっては着手されなかったが、アメリカの通商条約破棄の政策を変えさせることは不可能との観点からは、対ソ関係を改善すべきだとの意見が主張され始めていた。たとえば、ノモンハン事件の停戦交渉を成立させた東郷茂徳駐ソ大使は、日ソ関係をさらに改善するため39年11月、野村外相に対し日ソ不可侵条約の締結を考慮するようにとの意見を具申した。「東郷の意図は…日ソ関係の正常化の進展がもたらす重慶政権への打撃の強化、また対米関係における外交的立場の強化におかれていた」(細谷千博「三国同盟と日ソ中立条約」『太平洋戦争への道』第5巻、241ページ)。

  この時東郷は、日中戦争解決の方式を根本的に変更しなくては、アメリカとの対立の緩和は不可能であるとし、たとえば通商条約破棄後の暫定協定を結ぶことにさえアメリカが応じないのは明らかだとみていたのである(東郷茂徳著『時代の一面』132ページ)。

  たしかに阿部内閣の方針は米英との協調を掲げはしたが、他面では「東亜新秩序」の強化拡大というそれと矛盾する側面をもまた強調していた。現実にも、野村・グルーの日米交渉がおこなわれているとき、同時にそれと並行して汪兆銘に「日支新関係調整方針」をうけいれさせる交渉が進められていた。しかも、さきの「対外施策方針要綱」は、この既定の方針さえもこえて「南方ヲ含ム東亜新秩序ノ建設」という新しい目標を打ち出していたのである。つまりそれまで「日満支」という範囲で唱えられていた「東亜新秩序」を南方にまで拡大しようというのである。「南方」とは具体的には東南アジアを指していた。

  「要綱」では、東南アジアに対して2つの観点からの関心が示されていた。1つは「国防経済自給圏確立」、つまり戦略物資(とくにこれまでアメリカに頼ってきた石油)を確保するという観点からの「蘭印」への関心、もう1つは、援蒋ルート遮断の点からする「仏印」への関心がそれである。そしてこのような関心から、東南アジアをもふくめて「新秩序」をつくろうとすれば─この時期にはまだそのための武力行使までは考えられていなかったとはいえ─、米英との対立がさらに深刻化するのは必然であった。

  同時にまた、この「新秩序」という観点からすれば、防共協定強化交渉のつまずきにもかかわらず、米英より独伊のほうに傾かざるをえなかった。「要綱」は言う。「独『ソ』協定成立以後情況ノ変化ハアリタルモ独伊両国カ世界新秩序ノ建設上帝国ト共通ノ立場ニ立チ得ヘキ点ニ着目シ依然提携及友好関係ヲ持続」(傍点─引用者)すべきであると。

  阿部内閣の主観的意図がどうあったにせよ、この「要綱」は「東亜新秩序」から「大東亜新秩序」への1歩を踏み出した点で画期的である点を否定するわけにはゆかない。そして阿部内閣が対米交渉に失敗し(日米通商条約は40年1月26日失効、日米間は無条約状態となる)、対米関係の調整が困難になるに従って、「要綱」にあらわれた「新秩序」拡大強化の方向が前面に押し出されてくるのであり、対ソ政策は、そのことによって転換されるに至るのである。

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