『シンポジウム日本の歴史』21

1973年9月

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ファシズムの体制化


 

古屋 哲夫

a 一般的特徴
b 教化運動と国民再組織
c 政党の無力化
d ファッショ化の諸段階



a 一般的特徴


  すでにこれまでの討論でいろいろな問題が出ていますが、ここでは体制としてのファシズムがどのように形成されていったかという点を中心にして整理 していきたいと思います。

  まず、日本の場合には、ファシズム運動が既存の国家機構の外側で独自の組織をつくって権力を奪いとり、ファシズム体制を形成するという形にはならなかった。いわゆる「急進ファシズム運動』は、大衆を組織することに熱意を示さず、「志士」によるテロ・クーデター方式で一挙に権力中枢を制圧することをねらい、結局、失敗に終わります。ですから 「急進ファシズム運動」は、植民地現地車の侵略と呼応しながら既成勢力の政治力を弱め、ファッショ化をすすめる条件をつくりはしましたが、ファシズムの体制化という観点からみますと、終始「体制化」の中心をはずれたところで活動していたといえるのではないかと思います。

  では、ファシズム体制化過程の軸になっているのは何かというと、まず前提として、官僚の主導する反革命・革命連動抑圧を目的とする大衆の組織化があり、つぎに、恐慌脱出をめざす経済政策が満州事変という形での戦争の開始に呼応し、国防国家をめざす方向に進展し、そこに軍部と結びついた官僚勢力が生まれてファシズム体制化の核になってきます。 そして、上から国防国家=総動員体制にみあう国民全休の再組織が企てられ、反革命的大衆組織は、資本主義や既成勢力への反感を媒介として、上からの組織化を受けいれ促進していく。非常に図式的にいうと、こういう形でファッショ化が進んでいったと思います。



b 教化運動と国民再組織

 そこで、前提となる反革命的組織化の問題ですが、そういう性格をもつものとして、まず、大正12年の「国民精神作興に関する詔書」をきっかけにして出発する教化運動に注目したいと思います。この詔書は、関東大震災の混乱を「浮華放縦ノ習」と「軽佻詭激ノ風」を排除する方向で回復することを目的 としています。つまり、震災が革命運動をひろげる条件になることを予防し天皇制の安定を求めたものですが、この詔書が出ると、内務省社会局の肝煎りで翌大正13年1月に全国教化団体聯合会がつくられることになります。

  これは、報徳会とか青年団とか、天皇制の社会的安定要素となるような団体を集めたものですが、この教化運動は、これらの団体に反革命・天皇制強化のための積極的な活動にのりだすきっかけを与えたものといえるのではないかと思うのです。

  この運動は、国体観念を明確にすることを第一の目標としていますが、やがて次第に「総動員」の思想に結びついていくようにみえます。  
  総動員の問題がともかくも具体的な形をとるのは、昭和2年5月、田中内閣によって、内閣にその準備調査機関として資源局が設けられて以来ですが、斎藤実文書(国会図書館憲政資料室蔵)にある「総動員計画設定事務進捗報告」という書類によると―具体的なことはわかりませんが―昭和4年6月には「総動員計画設定処務要綱」が閣議で決定され、翌5年4月には第1回の総動員計画会議が聞かれています。

  この過程で、国民に向かっても「総動員」という 掛け声がかけられるようになってきます。たとえば、 田中首相は昭和3年の共産党大弾圧(3・15事件) の直後に、議会で、共産主義撲滅のためには国民の 「精神的総動員」が必要だとのべていますが、これは次の浜口民政党内閣で、それとはちがった要素を 加えて、「教化総動員運動」として展開されることになります。  

昭和4年8月から行なわれるこの運動は2つの目標をかかげています。第1は「国体観念を明徴にし、 国民精神を作興すること」、第2は「経済生活の改善を図り、国力を培養すること」です。この第2項 は浜口内閣の計画していた金解禁―産業合理化政策に対応するもので、この政策浸透のために、民政党としての独自の組織化を行なうのではなしに、国民精神作興の教化運動を利用していこうというわけです。

  ここで強調したいのは、この運動が直接にはたい した成果をあげなかったと思いますが、こうした形で産業合理化政策を媒介としながら、反革命としての教化運動と、総動員の思想が結びつけられてきたということです。そしてこの関係は、満州事変が開始されると、新しい進展をみせます。 一方で、カルテル化を中心とする合理化政策は、総動員をめざす統制政策としてうけつがれていくわけですが、他方では、教化運動と経済政策の結びつぎのなかから、国民再組織の観点が生みだされてきます。

  農村恐慌からの脱出をめざして、昭和7年以後本格的に展開される農村更生運動にこのような観点から注目したいと思います。農相としてこの運動を指導した後藤文夫は、昭和7年10月の訓令で、運動の目的はたんなる経営技術の改善にとどまらず、「農山漁村経済全般に亘り計画的組織的に整備改善を図るに在り」とし、この面から産業組合の役割が重視されることになります。と同時に他方では「農村部落における固有の美風たる隣保共助の精神を活用 し」「精神教化運動との連絡協調を密に」するよう指示しています。さらに農林省の発表した方針では、 この連絡協調すべき教化機関として、具体的に「学校及青年団、婦人会、教化団体、在郷軍入会等」となっています。そして「当該市町村の主要なる人物を網羅して組織する町村経済更生委員会」が更生計画両立にあたるものとされます。

  これは既成の反革命組織を勢揃いさせ、そのリー ダーと官僚とを核にした地域組織をつくり、それを 上からの政策を消化する末端組織にしようとするも のといえます。そしてこのような組織を全国民に強制し、全国民をこのような組織のなかに閉じこめる ことでファシズムの体制ができあがっていくことになります。  

  もちろんこのためには、国体イデオロギーの強調と既成政党への攻撃を通じて、利益関心の政治化を 排除し、「職域奉公」「上意下達、下情上通」のイデオロギーを組織化の軸にすえるという過程が必要なのですが、ともかくこのように教化運動を通して 国民再組織の方向が出はじめたことが、ファッショ 化の第1の前提であり、また日本ファシズムを特徹づけることにもなっていると思います,



c 政党の無力化

 しかし、政党による統合が有効に働いているとしたら、前述のような再組織の方向が主流となること はできないわけですから、政党の統合職能が有効に働いていないということが、ファッショ化の第2の前提条件になっていると思います。それは直接には 第一次大戦後の既成政党のあり方にかかわっている といえます。

  第一次大戦後の状況は、一方での急激な資本主義 の発展と動揺、他方での無産運動の高揚ということで特徴づけられますが、それは他面からいえば従来からの名望家秩序が掘り崩されていくことにほかなりません。そしてそこから社会分化の進行と民衆の多様な運動が結果されてきます。

  それは本来デモクラシーの方向に統合される可能 性をもっているわけですが、そうしたデモクラシー の方向への指導が確立されていない場合には、社会の安定性の解体という不安感が生まれ、革命の危機が過敏に意識されざるをえないという状況がおこってくると思います。

  既成政党の立楊から、デモクラシーの方向を考えるとすれば、普通選挙などによる参政権の拡大と社会政策の確立が2本の柱になると思いますが、既成政党の政策は、財界救済など露骨に独占資本のためのものであり、社会政策の方向は微温的なものでも容易に実現しない。そしてその間に政党の腐敗現象が露呈されてきて、むしろ既成政党に対する民衆の反感が拡大されていくわけです。したがって、普通選挙も治安維持法と抱き合せでなければ安心できないし、その治安維持法では、国体の変革と私有財産制度の否認をならべて処罰の対象とするというように、天皇制の民衆把握力に依存せざるをえなくなっていきます。

  こうした既成政党の状態の下で、共同体的感覚を動員することで、社会の安定性を維持していこうという動きが教化運動になってくるわけで、したがって政党内閣が教化運動によりかかるということは、政党の統合能力を一層低める結果になると考えられます。政党がファシズムのほうにずるずると引き込 まれていくのは、このような統合能力の無力化と相関関係にあるといえます。

  そして、金解禁政策の破綻と同時に、満州事変がおこってくると、既成政党は独自の全体的な政策を 失って侵略を既成事実化して、それに追随していく。 結局、5・15事件以後、政党内閣が姿を消すことは周知のところです。



d ファッショ化の諸段階

@ 戦争の既成事実化

  このような前提の上で、ファッショ化の過程をみてみると、満州事変、5・ 15事件、国際連盟脱退といった時期が、第1段階にあたります。この時期に、これまで述べたような前提条件が一挙に姿を現わしてきます。しかしそれはファッショ化の条件が国内的要因だけによって成 熟してきたということではなく、そうした条件が軍部内の急進派の独走を許すことになり、その独走およびその結果としての戦争の慢性化か既成事実として追認されることによって、ファッショ化の条件が一挙に高まるという構造をもっていました。

  したがって、戦争への対応が中心的な課題とされながら、一元的な指導体制や理念が確立されないという状態がおこるわけで、これに対して各分野で、戦争体制をすすめるためのリーダーシをとろうとする動きが競合的に出てくることになります。 無産政党の中からも麻生久のような親軍派があらわてくる。彼は、昭和9年10月に陸軍省新聞班の出した「国防の本義とその強化の提唱」を支持し、「軍隊と無産階級の合理的結合」を主張するわけですが、同時に、その際、党員(社会大衆党、麻生は書記長)に向かって「勇敢に在郷軍人会、青年団、 産業組合の陣営に進出し……反資本主義勢力の拡大強化に努力」すべきことを呼びかけています。  

  このことは、国防国家=戦争体制の方向をめざす勢力にとって、在郷軍入会・青年団・産業組合などが国防国家に見合う組織として認められてきたことを示しているように思われます。



A 国体明徴運動


  これにつづく第2段階では、 ファッショ的勢力の増大によって、思想や運動の自由が奪われ、自発的結社の可能性が封殺されていきます。2・26事件前後の時期がこれにあたるわけです。まず昭和10年を中心とする天皇機関説排撃・ 国体明徴運動の勝利が思想の自由を圧殺する画期だと思いますが、ついで翌年の2・26事件の衝撃を背景として、メーデーや軍工廠労働者の労働組合加入禁止、思想犯保護観察法の制定、人民戦線事件の弾圧などが加えられ、この過程でファッショ化に抵抗する勢力が有効に活動しうる条件はなくなってしまったといえると思います。

  同時に、既成政党に対する批判運動としてはじめられた選挙粛正運動が政府の手でとりあげられ、道府県ごとに選挙粛正委員会がつくられます。この運動は建て前としては政党を排撃したものではありませんが、この運動を機会に、在郷軍入会が「個人主義的・自由主義的・現状維持的」人物の排撃をよびかけたり、壮年団の組織が急迫に伸びたりしているように、既成政党の基盤を切り崩す役割を果したよ うに考えられます。と同時に、この運動のために部落懇談会が聞かれたりしているように、農村更生運動の場合よりもさらに一般的な形で、国民の地域的組織化が企てられていたといえると思います。



B 国民精神総動員運動


  このような情勢の上に、第3段階として、1937年の日中戦争開始直後からはじめられる国民精神総動員運動、翌38年 の国家総動員法制定とその実施といった事態が展開されることになります。  

  ここでの特徴は、生活様式の画一化が進められるとともに、思考や行動の画一化をも強制され始めるという点にあります。もはや、戦争体制の進行に積極的に同調しなくては「非国民」の非難をまぬがれなくなります。 国民精神総動員運動の直接の目的は、生活様式を 全面的に総動員体制に合わせていくことにあるわけですが、同時に私的利益を排して全体に奉仕する 「職分奉公」のイデオロギーを貫徹しよりとするわ けで、そこに家族主義や共同体イデオロギーが国体と結びつけて採用されることになります。しかし、それだけでは効果を期待できないので、地域的な相互監視を中心とした組織化がすすめられることにな るわけです。つまり、国民精神総動員の「実践網の整備は、その後における部落会、町内会、隣組の国民基盤組織のかくれたる基石となった」(「翼賛国民運動史」)という方向が出てくることになります。  

  これまで、生活改良と結びついた郷土主流的組織を動員して、その上に農村更生なり選挙粛正なりの目的の地域組織化がはかられてきたわけですが、それがここまでくると、全生活の把握を目的とするようになるとともに、強制的抑圧的性格が明確になってくるわけです。

 同時に、職場生活の組織化も企てられることになりますが、この面でも同じようなことがいえます。昭和13年7月結成の産業報国連盟がそれにあたるのですが、その綱領をみると、「産業は資本、経営、勤労三者の有機的に結合せる一体」であり、それぞれ「忠実に其の職分を盡し労資一体、事業一家の実を挙げ」もって産業の発展を期すというのです。つまり国家の要請に忠実に応え、職分をつくす、そのことを保証するための組織というのですから、そこに警察・特高関係者が加わったり、警察署管内を単位として支部がつくられたりすることになるわけです。この段階になると、あらゆる面にファシズムとしての性格が明確に出てくるようになっています。



C 大政翼賛会−ファッショ化の到達点−

 
このように各種の組織化が進行するなかで、それらを一元化して強力な体制をつくろうという志向がでてくるのは当然ですが、その動きは、日中戦争のいきづまりによって一層促進されることになります。日中戦争は周知のように一定の戦争計画なしで安易に開始され、既成事実を積み重ねて泥沼化していくわけですが、この状態を打開するためには、政治力の結集が必要だとする考え方が強まってきます。ま た戦争の長期化に耐えながら、次の英米ソなどとの間で予想される大戦争に備えるためには、総動員体制の一層の強化が要請されることにもなります。

  近衛文麿の新体制運動は、このような要詰にこたえうる強力な政治体制をつくることを目的としたも のですが、近衛が具体的に新体制運動に乗り出したときでも(昭和15年7月)、まだ漠然としたスロー ガソ以上の綿密な計画があったとは考えられません。 にもかかわらず、新体制ができあがったとき自分の地位がなくなることを恐れた既成政党や、まだ残っていた労働組合・農民組合などもいっせいに解散し て新体制運動になだれこんできます。

  近衛の側では、このなだれこみをおさえて自分の主体性を確立することはできず、たちまちのうちに、彼はこのような勢力によってたちまち首相の座に押 しあげられ、新体制はこの内閣によって進められることになります。したがって内閣に設けられた「新体制準備会」の顔触れは勢力均衡、呉越同舟の感があり、したがって新しい理念の下に強力な政策を打ちだすような政治組織をつくろうとすることは不可能になります。

  つまり、この新体制としてつくられるのが大政翼賛会になるわけですが、それは政治結社ではないとされ、新しい政治指導の主体としての役割は完全に否定されて、ファッショ的な国民再組織の面だけを 担うものとなるわけです。

  大政翼賛会と政府との関係は、(一)一般重要政策の立案実施は、政府の責任であり、翼賛会はこれに意見を具申するにとどまる。(二)国民組織、経済、文化、 労務の再組織に関する計画は両者協議の上、政府が決定し、その実施は主として翼賛会が行なう、ということにされています。

  この大政翼賛会成立の過程で、他方では内務省による町内会、部落会、隣保班(隣組)の組織が行なわれます。これは従来の地域組織を一本化し、生活全体を画一的に統制する基礎単位として全国民に強制されるわけですが、やがて大政翼賛会の末端組織とされるようになります。この町内会・部落会を基礎としてその上に、何々報国会とか翼賛壮年団とかいった形で既成組織を一本化してその傘下に収めていき、こういった形でファッショ的国民組織を完成させる役割を果たすことになっていきます。



D 日本ファシズムの矛盾

  こうして国民に対する強制的画一化ができあがるわけですが、これに対する政治の頂点の一元化は容易に進行しない。このことは、大政翼賛会の成立過程で明らかなように、既成組織の勢揃い的な性格を根本的には打破ることができず、明治憲法を守るという建て前は崩さないわけです。きわめて外見化されたとはいえ議会制 は残されるし、ナチ的な一国一党は否定されます。 したがって東条内閣におけるように、首相の兼任という形で権限の集中がはかられても、それに限界があることは明らかです。そればかりか、明治憲法に根拠をもつ割拠性は解消されないばかりか、欠乏する物資の取りあいで一層激化することにもなります。

  それは、戦争遂行のための合理的能率的な機構と運営ができなかったということですが、このことは国民組織の面でもいえます。つまり、共同体感覚、隣保組織、家族主義などを動員した部落的組織化は、一切の反体制的動向を封じ込めるにはきわめて有劾 だったわけですが、このことと戦争遂行のために、人や物を臨機に組織する目的合理性とは本来矛盾するものだろりと思います。総動員のためには、国民職業能力申告令などによる別個の登録組織を必要とするのであり、それを基礎にした労働力の徴用は、共同体的なものを掘りくずしていくわけです。その点からいえば、日本ファシズムの体制は、総動員の目的合理的な追求と根本で矛盾する性格をもち、戦争経済の混乱とともに内側から崩壊しつつあったといわねばならないと思います。