『人文学報』第38号

1974年10月

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北一輝論(2)


古屋 哲夫


6 『国体論』からの転回

7 辛亥革命への参加
8 中国革命認識の特徴
9 「東洋的共和政」論の再構成と国体論批判の後退
(以下次号)



7 辛亥革命への参加


 北の中国からの第一信は1911年(明治44)10月31日付上海発内田良平宛電報であり、 彼はおそらく10月30日に上海に到着したものと思われる。そしてすぐさま革命派の上海占領工作に参画し、ついで11月8日宗教仁の先行している武昌に向った彼は、12日武昌で宋と会談しすぐ彼等と共に出発、南京を経て、18日には上海に帰っている。彼はこの間、内田良平、清藤幸七郎、葛生修亮等にあてて多くの電信を発しているが、その内容は単なる状況報告や連絡のみではなく、中国革命の根本的性格とそれに対する日本の態度についての意見を主張することに多くの紙面を割いていることが特徴的であった。

  彼はまず、朝鮮に対すると同じ姿勢で中国革命に対してはならないと警告する。即ち内田にあてて、「万々一、対朝鮮ノ心得ヲ抱キテハ折角ノ大効業ガ手ノ裏ヲ翻へスヤウ可相成候間、ヨクヨク御体得願上候 1)」と注意をうながし、清藤に対してはより具体的に「君ノ従来ノ支那観ハ根本ヨリ一掃シナケレバナラヌ。又内田氏モ亡国ノ朝鮮人ノ大臣共ヲ遇スル時ヨリモ一留学生ノ値ハ不可量ノ覚悟ヲ以テサレムコトヲ望ム2)」と書き送った。この「留学生」とは中国から日本に留学した青年たちを指している。

1)

11月10日、北発内田良平宛「武昌行途中、船南京ヲ過ギタル時発シタル書翰」前掲『日本近代化と九州』436頁。

2)

11月5日、北発清藤幸七郎宛「上海占領行動二関スル情報」同前429頁。


  北はこの中国留学生たちが、日本で学んだ国家民族主義をもって、革命運動の指導的部分を形成しているという点に二重の期待をかけていたと言える。即ち第1には、彼等によって、中国にも亡国的腐敗を一掃する明治維新と同質の革命が実現されるであろうとの期待であり、第2には、彼等が新たな治者階級となった新興中国は、日本帝国のよきパートナーたりうるであろうとみる期待であった。そしてこの二重の期待が実現されるか否かに、日本の将来がかかっているようにみえた。勿論そのためにはやがて、彼の論理のなかで、日本と中国との発展を結びつける可能性を求めねばならなくなってゆくが、当面はとりあえず「日本的」思想をもった青年たちが革命の中心であることを認識し、彼等を新しい治者階級たらしめるよう援助するという課題を、日本の政治的指導者たちに理解させなくてはならなかった。彼はこのような方向の媒介者たることを内田良平ら黒龍会幹部に求めたのであった。さきの清藤宛書翰はこれらの点について次のように書いている。

  「直裁簡明ニ単刀直入的ナル革命党ノー般的気風ハ実ニ日本教育ヨリ継承シタモノデアル。……前後ヲ通ジテ幾万ノ留学生即チ四億万漢人ノアラユル為政者階級ノ代表的子弟ニ日本ノ国家主義民族主義ヲ吹込ダカラ排満興漢ノ思想ガ出来タノダ……コレホド明カニ思想的系統ノ示サレテ居ル事例ハ余リ類ガアルマイ。日本ハ革命党ノ父デアル。新国家ノ産婆デアル。日本ノ教育勅語ハ数万全漢民ノ代表者ノ上ニ此ノ大黄国ヲ産ムベキ精液トシテ降リ注ガレタモノデアル1)。」

  つまり彼は、第一に日本が中国革命運動に与えた影響は、国家の独立を第一義に考えるという思想的なものである点を強調しようとした。従って、中国革命に対する援助とは、中国の独立を達成させるという点を根本としなければならず、そうでなければ、援助は干渉となり中国側が「排日」の態度をとるのは必然であると考えた。言いかえれば、中国革命を援助するとすれば、日本の対中国政策は一変されねばならない筈であった。

  「新シキ大黄国ハ日本卜等シク国権卜民族ノ名ノ下ニ行動スベシ。コノ点ハ明ラカニ排日ヲ意味スルト同時ニ根本的ニ精神的ニ親日デアル。…コノ国権卜民族ノ覚醒ガ来タ而モ日本的ニ来ッタ新興国ニ対シ一点デモ其レニ対スル侮リガ見エタラ最後、日本ハ全四百余州カラボイコットサレルノダ。…革命党、即チ数万ノ日本的頭脳ガ治者階級ヲ形ヅクッテ居ル新支那ニ対シテハ、日本ノ対支那策モー変シナケレバナラヌ─而モ其一変タルヤ、支那ノ革命シツゝアルニ併行シテ革命的一変タルベキハ申スマデモナイ。…毛唐共ノ御先棒ハ北清事件ノ馬鹿ヲシタダケデ沢山デアル2)。」

1)

11月5日、北発清藤幸七郎宛書翰『日本近代化と九州』431-2頁

2)

同前432頁


 上海上陸後一週間にして、北がこのような手紙を書いていることは、彼が自ら革命派の立場に立とうとし、その立場からみると革命に対する日本の干渉、あるいは革命の機会をねらった日本の侵略が最も恐るべきものとして映じたことを示しているのであろう。事実、革命の当初から日本政府の内部には、在満権益の確保、居留民の保護を名とした出兵論が存在し、やがて、満蒙の勢力範囲分割を中心とするロシアとの交渉が始められる。(1912年7月8日、第三回日露秘密協約調印)また、清朝援助を最初の方針とした外交当局は、立憲君主制─君主制維持の方向で英国との共同干渉を企図している。そして、この企図が英国の支持を得られずに失敗に帰すると、今度はロシアと共に四国借款国に加入し、袁世凱を通じた中国の国際管理の方向に加わっていった。

  この間、民間では川島浪速らが宗社党を支援して満蒙独立を企て、革命派援助の大陸浪人と対立した方向に動いているが、満蒙支配の確立をめざしている点では、革命援助派も異るところがなかった。そしてこれらの動きと共に、軍払下げの武器の売り込みが南北両派に対して活溌となっていった。

  このような日本側の動向は、北が想定した中国革命に対するあるべき日本の姿とは全くかけ離れていると言ってよかった。彼は1911年11月から12年3月、つまり革命派がまだ次の局面の主導権を握る可能性を持つと考えられていた時期には、このような中国革命に対する姿勢を修正するための活動を内田良平らに期待して、次のような問題を提起していた。即ち(1)無用の浪人の取締1)(2)孫文が革命運動の中心ではないことについての認識2)、(3)清朝側への武器売込みの禁止3)、(4)中国の共和制支持4)、(5)日英干渉打破のための元老勢力の利用5)、(6)南方中心の講和を促進する政策6)、(7)革命派代表としての宗教仁の訪日を成功させる必要7)、(8)武器商人8)の不信、(9)日米借款による革命政府9)支援、(10)満州独立宣言(川島らの満蒙独立運動を指す)の取消10)、(11)袁世凱の手で六国借款を成立させることに反対11)等々といった問題について、内田良平の注意をうながし、あるいは奔走を求めているのであった。

1)

「無用ノ浪人輩、特ニ上海香港ノ間ニハ支那ゴロヤ支那不通ガ多ク……折角ノ国交モ、其等ニヨリテ傷ツケラレ申スコトハ明カ」とし、「真ニ今日ノ急務ハ、先ズ浪人共ヲ取締ルコトニ候」と述べている。 同時に渡航の軍人について、「人格ノ傲慢不遜、又ハ主我的ナルハヨロシカラズ、思想ハ軍隊外ニモ通ジテ、非侵略主義ノ人タルヲ要件ト致度侯」と希望しているが、この要件は浪人についても期待されていたことであろう。11月10日(1911年)北発内田良平宛、『日本近代化と九州』436頁。

2)

しかし、この時期には孫文の勢力を排除することを求めていたわけではなかった。北は、孫文が革命に対して無力であると考えており、後に大総統の地位につこうとは全く予想していなかったにちがいない。1911年11月段階では次のように述べている。「孫逸仙ノ如キハ、内地ニハ全クノ無勢力ノ由、聞キテ驚入候。シカシコレハ、貴下等ノ胸中ニ止メテ一人デモ分裂セシメザルコトガ大事ニ存ジ候。」(11月13日、内田良平宛、同前438頁)、「孫君ノ愚ナル、何ゾ甚シキヤト申度候。……徒ラニ米国ノ遠キニ在リテ無用ノ騒ギヲ為シ……自家ハ康有為ト等シク、時代ノ大濤ヨリ役ゲ出サレツゝアルヲ知ラズ」(11月14日、清藤幸七郎宛、同前439頁)

3)

北は、三井・大倉・高田などが清朝側に武器売込をしていることは革命派にもわかっていることを指摘し、「僕ガ折角日漢ノ関係ヲ円満二シヤウトシテモ、後カラブチ壊シテヤラレテハ何ニモナラヌ。政府モ方針ガ一定シテル位ナラ、ウント腰ヲ据エテ、干渉デモ圧制デモシテハドーダ」(11月18日、内田良平宛、同前444頁)と憤激している。

4)

12月18日、内田良平宛、同前462頁。

5)

12月20日、内田良平にあてて、「杉山氏共ニ、山県桂公ニ説キ外務省ヲ圧迫セシメヨ」(同前462頁)と要請している。杉山氏は杉山茂丸。

6)

1月20日(1912年)、内田良平宛、同前464頁。

7)

1月25日、内田良平宛、「日本ノ優越権ハ彼ヲ成功セシムルコト、彼ヲ歓迎スルコトニアリ」(同前465頁)。なお1月4日、2月6日、3月17日の内田宛電信をも参照。同前646、466-8頁。

8)

2月 6日、内田良平宛、同前467頁。

9)

2月17日、内田良平宛、同前468頁。

10)

2月19日、内田良平宛、同前470頁。なお同じ日、宋教仁も内田にあてて、「貴国政府ノ責任者ヨリ満州独立ノ宣言ガ決シテ貴国ノ好ムトコロニアラザル事ヲ弊国ノ与論ニ普及スルガ如キ方法ヲ以テ言明セラレンコトヲ希望ス」(同前469頁)と打電しており、この宋の希望の実現をはかることを求めたものであった。

11)

3月13日、内田良平宛、同前473頁。


  北は宋教仁の活動の方向が、北自身の想定した中国革命のあり方に最も適合するものと考え、宋教仁を支援することを彼の活動の中心としていた。しかし情勢の進展は次第に彼の期待を打砕いていった。まず清朝側の全権を握った哀世凱のために、11月26日、革命軍は漢陽で一敗地にまみれる。しかし哀世凱もそこで軍をとどめ、以後革命軍との妥協交渉が断続的に継続されるに至った。この間革命派内部では、新政権樹立への動きが活発となってゆくのであるが、そのなかで北が期待した「黄興大元帥、宋教仁総理大臣1)」の線も崩れていった。一時は黎元洪大元帥、黄興副元帥に動くかにみえた各省代表者会議は、12月25日、孫文が上海に帰着すると、圧倒的支持を以て、孫文を臨時大総統に推戴するという北の予期しない事態があらわれた。1912 年1月1日、孫文を臨時大総統、黎元洪を副総統とする南京臨時政府が成立する。

1)

北は12月1日付、内田良平宛電報で次のように述べている。「黄興大元帥、宋教仁総理大臣、中央政府発表近シ、漢陽失敗ハ(大局ニ)関係ナシ、三人秘密ニヤル。北」(『日本近代化と九州』461頁)


  臨時政府樹立によって、袁と革命軍との講和会議は表面上決裂したが、裏面では、清帝退位、共和制実現を条件とした妥協の方向に動いていた。この間講和実現の大勢をみた北は、新中央政府部内での革命派の主導権確保を日本が支援すべきだと考え、宋教仁の訪日促進(実現せず)などを画策したが、日本側の動きは彼の期待とはますます隔絶して行った。満蒙独立運動や第三次日露協約への動きが明確になるのはこの時期であり、日本政府内部にはさまざまな意見があったとは言え、北京の伊集院公使は、袁世凱に共和制反対の圧力を加えつづけ、列強のなかでも孤立しつつあった。また、他方黒龍会などこれまで革命派支援の立場をとってきた大陸浪人のグループは、いわゆる南北妥協そのものに反対の態度を示していた1)。これに対して北は、「革命党ガ根本ノ勢力タルコトヲ確信シテ、袁ニ六ケ月開花ヲ持タセタリトテ何ノ恐ルゝトコロゾ2)」と反論したが、彼等の態度を変えさせることは出来なかった。

  日本の支援のもとに革命派の主導権を確保するという北の構想が実現の手がかりをつかめないうちに、「南北妥協」は進行した。1912年2月12日清帝退位の上諭が発せられると孫文は辞任、3月15日袁世凱は北京で臨時大総統の地位をついだ。そしてその直後、四国借款団(英米独仏)は、6千万ポンドの借款を袁政権に与えることと共に、日露両国の借款団参加に異議のないことを申合せた。日本外交は袁世凱支援に追ずいし、やがて展開される革命派弾圧の資金づくりに手を貸していた。袁の地位はもはや6カ月花をもたされたという程度のものではなくなりつつあった。北の構想は全面的に敗北しつつあったと云ってよい。彼を中国に送った大陸浪人たちからも孤立し、活動資金にも欠乏した北の姿を3月末の一電文は次のように伝える。 「北金策ニ窮シ(大局ヲ)誤ルノ恐レアリ。ナホコゝニ置クノ要アリ。金送レバ余コレヲ始末スベシ、ヘンデンS3)」と。これ以後、彼が内田良平らにどのような電信を送ったか明らかでない。 ただ南北妥協に反対して革命派を見限りつつあった内田と、なお宋教仁を支持しつづけた北との距離が次第に拡がりつつあったと推定できるだけである。彼が依拠した宋教仁は、5月革命派を糾合して国民党を組織、翌1913年(大正2)2月の総選挙に大勝したが、その翌月、3月 22日上海で暗殺されて32才の生涯を閉じた。北自身もまた、4月8日、上海領事を通じて日本政府から中国退去を命ぜられたのであった。

1)

例えば、内田良平等黒龍会幹部は、南北妥協の報を「意外のことゝし」妥協交渉中止を勧告するために、葛生能久を南京に派遣している。(黒龍会編『東亜先覚志士記伝』中巻、446〜7頁。1935年3月、同会出版部刊)また、内田らと革命派支援のために有隣会を組織していた小川平吉は、「吾々は万難を排して戦争を遂行し南北統一の実を挙げなければならないと云ふ考へ」から妥協に反対し、2月9日には宋教仁にあてて「袁世凱が時局を左右するに至る事は我々の絶対に反対する所なり。袁に欺かれず断乎として初心を貫徹するよう、孫、黄ニ君にしかと注意を乞ふ。尚ほ君の来朝を待ちて面談す。早々来れ」と打電している。(小川平吉文書研究会編『小川平吉関係文書』、1-584頁及び2-443頁参照)

2)

2月19日北発内田良平宛、『日本近代化と九州』470頁。

3)

3月26日、佐藤(惣治カ)発内田良平宛、同前474頁、なおカッコ内は西尾陽太郎氏の推定及び判読。


 退去命令によって余儀なく帰国してから、『支那革命党及革命之支那』(のち『支那革命外史』と改題)の執筆にかかる1915年(大正4)秋までの約2年半ばかりの間、北がどのような生活を送ったかについて語る資料は少ない。しかし「支那ノ完全ナル独立ハ、日本ノ絶対的必要1)」という観点からみれば、情勢は悪化する一方であった。北が帰国した同じ月の月末、4月27日には、 五国借款国(さきの六国借款団よりアメリカが脱退)と袁世凱政府との間に、いわゆる「善後借款」が正式調印される。そしてこれに力を得た袁は、国民党に対する弾圧を強化、追いつめられた形の国民党幹部は、七月第二革命と通称される武力闘争に立ちあがるが、たちまちのうちに敗退していった。そしてそのあとには、辛亥革命の成果をとりつぶしてゆく袁世凱独裁化の過程がつづく。

1)

1月20日(1921年)北発内田良平宛、『日本近代化と九州』464頁。


 袁の独裁化過程は、1915年(大正4)後半には、袁自ら皇帝たろうとする帝制樹立工作にまで発展する。しかし袁政権の基礎は彼が思いあがった程強固ではなかった。前年8月に始った第一次世界大戦は、袁政権支援の国際的強調を破産させていた。日英同盟を利用して参戦した日本は、年内に山東省のドイツ権益を占領、ついで翌15年(大正4)1月には、悪名高い「21 カ条要求」をつきつけて袁政権を動揺させるに至る。日本はついに5月7日最後通告を発し、5月9日袁政権はこれをうけいれて、一応交渉は終ったが、このニつの日付が「国恥記念日」として中国民衆の間に記憶されてゆくことは、それだけ袁政権の基盤が失われてゆくことを意味していた。すでに威信を失墜しつつあった袁世凱の帝制工作には、これまで反革命の線で袁と手を握ってきた諸勢力も離反して、1915年12月第三革命に踏み切り、16年6月、袁が失意のうちに没したあとには、軍闘割拠の状況が残されることになるのであった。

  北が『支那革命党及革命之支那』を執筆したのは、15年11月から16年5月にかけてであり、彼は袁世凱の帝制樹立工作が強引に遂行されるかにみえた時点に筆を起し、袁死去の前月に書き終ったことになる。それは辛亥革命から離脱した彼が、「世界大戦」という新しい状況のもとで、中国の将来と関連させながら、日本帝国の使命についての新たな構想を獲得し、それによって、日本の対外政策の「革命」を企てはじめたことを意味していた。そしてその場合にも権力中枢に直接に働きかけようとする辛亥革命時の姿勢がそのまま維持されてはいたが、しかしここではもはや、内田らを媒介とする訳にはゆかなくなっていた。

  南北妥協を「対日背信1)」とみた内田は、第ニ革命勃発の1913年(大正2)7月には「宗社党ヲシテ満蒙ニ一区域ノ独立国家ヲ建設スル2)」方向を示唆した意見書を山本首相に送り、「満蒙問題の解決について中国革命党の協力を期待した従来の方式を拠棄し、専ら宗社党及び愛親覚羅氏に心を寄せる満蒙諸藩との協力によって満蒙新帝国を建設するという方式に傾斜3)」していた。そして彼は露骨な満州侵略を主張する「対支連合会」を組織し、その活動に力を注いでいた。

1)

孫文の「満蒙譲渡の公約」が「来るべき革命後の日支関係に対し多大の光明を与へた」と考えた内田にとって、袁世凱との妥協はこの公約への背信とうけられた。『国士内田良平伝』527〜9頁参照。

2)

大正2年7月26日付、山本権兵衛宛意見書『小川平吉関係文書』2-69頁。

3)

『国士内田良平伝』531〜2頁。


  内田はもはや、中国革命に対する認識を全く放棄していた。彼は「現下ニ於ケル支那南北ノ抗争ハ支那人古今ヲ通ジタル政権慾ノ結果ニ出デ侯行動ニ有之、其双方ニ於テ主張卜云ヒ主義卜云ヒ人道卜云ヒ名分卜云フガ如キモノハ倡優一夕ノ粉粧ニモ値ヒセザル底ノ義卜奉存候1)」と述べており、中国の政治情況を民族的利害などという観点を失った泥沼の如きものとして捉えているのであり、従ってそれに対する日本の政策は、「浮動セル支那共和民国ノ噪妄ヲ威圧ス可キ2)」ものでなければならないとしたのであった。

1)

前掲山本首相宛意見書『小川平吉関係文書』2-66頁。

2)

同前 69頁。


  これに対して北は、中国革命はいまだ継続中であるとの認識を前提としており、従って、中国革命の性絡と行方を見定めることが日本帝国の使命を把握し、対外政策を立案する基礎とされねばならないと考えた。彼は辛亥革命の渦中から内田らに書き送った意見を出発点として中国革命認識を再整理し、今度は内田らの仲介を排して自ら権力中枢に働きかけるために、『支那革命党及革命之支那』を「執筆の傍より印刷しつつ時の権力執行の地位に在る人々に示した」(2-1頁)のであった。彼は1921年(大正10)『支那革命外史』と改題刊行に際して付した序文のなかで、この著作の性格について次のように述べていた。即ち「此の書は支那の革命史を目的としたものでないことは論ない。清末革命の前後に亘る理論的解説と革命支那の今後に対する指導的論議である。同時に支那の革命と並行して日本の対支策及び対世界策の革命的一変を討論力説してある。即ち『革命支那』と『革命的対外策』という2個の論題を1個不可分に論述したものである」(2-序2頁)と。

  北は、中国革命に対する認識を整理・再編しつつ、それとの関連のなかで、日本の「変革」の問題を提起しようというのであった。それは、『国体論』とは全く異った視角であると言える。すでにみたように、『国体論』においては、さまざまな問題を持つとは言え、とにもかくにも、「階級闘争」と「啓蒙運動」とが、つまり国内大衆の団結が社会主義の前提に置かれていたのに対して、ここでは、「革命支那」と「革命的対外策」という外からの要請が、彼の関心の基底をなすに至っているのである。そしてさらに「革命支那」との関連において設定された筈の「革命的対外策」が、その関連を失って独走しはじめるという点に、北の思想の決定的転換の鍵があるように思われるのである。ともあれ、彼は、中国革命の認識を媒介として『国体論』の立場から飛躍してゆくことになるのであった。

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