『京都の歴史』8

1975年3月

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「戦争と京都」



古屋 哲夫

 

明治中期の京都政界
日露戦争と京都

 

明治中期の京都政界
日清戦争前夜
自由党の活動
日清戦争下の京都
深草に歩兵連隊設置
地租増徴問題



明治中期の京都政界



日清戦争前夜

 日清戦争が始まったのは明治27年(1894)夏(宣戦布告、8月1日)であったが、その直前の第6議会では、「鉄道比較線路決定二関スル法律案」 が通過し、京鶴鉄道が認可される見通しがついたところであった。またこの頃には、翌年に予定された第4回内国勧業博覧会・平安奠都千百年記念祭・平安神宮創建の準備が進めら れており、5月19日には博覧会出品人心得が告示され、7月1日には平安神官立柱式が行なわれるなど、博覧会・記念祭人気が高まっていた。日清開戦前夜は京都からみれば、この博覧会・記念祭・京鵠鉄道の三大問題が実現の緒についたところであった。琵琶湖疏水の完成に次いでこの三大問題が具体化したことは、京都の雰囲気を大きく変えてゆくことになるが、ちょうどそれは、中央政界の変化を受けて京都の政界の動きが変わってくる過程とも重なっていた。  

 京鶴鉄道認可の見通しが得られた第6議会は、第5議会が前年の12月30日に解散され、3月1日に第3回総選挙が 行なわれたのを受けて5月15日に開会されたものであったが、すぐまた6月2日には解散させられている。その結果、9月1日にはこの年2回目の総選挙が行なわれることになる のであるが、とにかく半年の間に2回の議会が連続して解散されたことは、この時期の政府と議会の激しい対立を物語るものであった。

 しかしその対立の内容は、それ以前の議会とは著しく異なるものになっていた。即ち第1議会から第4議会までは、自由民権運動の流れをくむ民党(自由党・改進党など)が政府県の吏党と対立し、民党は「政費節減・民力休養」のスローガンをかかげて軍艦建造費の削減を試みるなど、政府を激しく攻撃していた。しかし第4議会で建艦費のために内廷費からの毎年30万円の支出と、官吏俸給1割の納付を命ずる詔勅が出されると、民党の攻勢はたちまちのうちに挫折した。そして今度はそれまで吏党と目されていた勢力が国権拡張のスローガンで政府攻撃の主導権を握り、民党の側は改進党が国権論者に同調して「対外硬派」と呼ばれた新しい野党連合を つくりあげる反面、自由党はしだいに政府に接近し与党化していった。対外硬派が採上げたのは条約改正問題であったが、 イギリスとの条約改正交渉を最終段階まで煮つめつつあった伊藤内閣(外相陸奥宗光)は、この実際に進めつつある交渉を妨害するものとして対外硬派の運動に激しい敵意を燃やしていた。そして第6議会の解散に際しては、その敵意の上に、 朝鮮情勢への配慮が重ねられていた。議会解散と同じ6月2日、政府は朝鮮出兵の方針を決め、日清戦争への第一歩を踏 み出している。



自由党の活動

 すでにみたように、京都では第1回総選挙以来吏党ないし中立系議員が大勢を占め、組織的政党活動がほとんどみられなかったが、こうして民党対吏党という図式がくずれてくるにしたがって、京都でも全国的政党の活動に呼応する動きがしだいに活発となってきた。第4議会終了後の明治26年6月25日、祇園中村楼で自由党京都支部発会式が開らかれているが、それはちょうど自由党が与党化しはじめる転換点にあたっていたといえる。  

 京郡でも郡部では自由民権運動以来の伝統があり、特に南山義塾(明治14目年設立)系の活動家が勢力をもちつづけ、明治25年には山城自由倶楽部がしばしば演説会を開くなど活発に動きはじめていた。これに対して市部では三大事件建白運動の経験者もいたが、この時刻にはむしろ京鶴鉄道実現のために自由党との結びつきを強めようとする傾きが強かったように思われる。したがって自由党京都支部の発足に当たっ て、郡部では、当初市部の活動に異和感を抱き、別に山城支部を設立、明治27年1月14目に改めて京都・山城両支部を統合した新しい自由党京都支部の発会式が行なわれると いう経過をたどっている。この両支部並立期の活動をみると、 26年11月1日に山城支部では条約改正問題についての演説会を開いているのに対して、11月10日の京郎支部役員会は、京鶴鉄道建設を促進し、政府の条約改正に反対しないとの方針を決めており、両支部の活動の差を推測することができる。京都支部では幹事の堤弥兵衛が京鶴鉄道発起人の1人であり、中村栄助・中野忠八(いずれも下京区)を鉄道委員として東上させ、この問題に力をいれていた。

 このような支部活動によって、日清戦争前夜の京都では、由党が唯一、政党らしい姿を整えつつあった。たとえば第4回総選挙(明治27年9月1日施行)を前にして、『京都日出新聞』は「党費の候補者」と題して次のように書いている『日出』明治27・8・29。

   

田地山林を売り家土蔵を典して候補者に出づるが常なるに、自由党には黄金余りあると見え、党費を以て出陣せしむる人あり。(中略)京都府にては中村栄助・河原林義雄二氏の如きは、二氏にして出づるの決心あらば、党費を以て其運動費を支弁すとて、中島信行氏も当地滞留中懇話したることあり。(中略)候補者となるならば自由党の候補者となれ党費支弁の候補者となれ、自家の財産を費すは愚の至りとせんか

    

 このような党活動の結果、第1,2回の総選挙で7議席中1議席を得たにすぎなかった自由党は、第3、4回総選挙では3議席を獲得するに至っている。市内でも第1区(上京)で堀田康人が坂本則美を62対60の2票差で破り、初めて自由党に1議席をもたらした。しかし自由党が力を伸ばしたのは主として郡部であり、市部では容易に勢力を拡大できなかった。京都市民の政治意識のなかでは、全国レベルの問題 よりも京都の発展の問題の方が優位を占めており、それが東京に対する抵抗の姿勢につながっていたように思われる。第1―5回の総選挙で民党系政党が議席を得たのは、自由党の堀田候補の2票差の当選だけであった。さきに『京都日出新聞』が党費の候補者と書いた中村栄助は、結局このときは立候補しなかったが、彼は第1回総選挙では大成会候補として当選していた人物であり、のちの第6回総選挙(明治31年8月10日施行)では、中立の立場で2区にまわってきた堀田を破って当選するという有様であった。



日清戦争下の京都

 第6議会が解散されてから第4回総選挙が施行されるまでの間に、日本は清国との戦争に突入していた。朝鮮の農民反乱鎮圧の名目で清国が出兵すると日本も対抗して兵を送ったが、反乱モのものは後退しつつ あり、5月中旬から朝鮮情勢を報じてきた『京都日出新聞』 も、6月26日にはわざわざ「東学党稍々鎮定し京城も只今の処平穏なり」との号外を出した程であった。しかし日本側はこの際なんとしても戦争に持込み、朝鮮半島の支配権を得ようとしていた。7月29日、日本車は成歓の清国軍を攻撃、8月1日宣戦布告、 そして第4回総選 挙の行なわれた9月1日には、平壌に向けて日本車が行軍しつつあった(9月15日平壌占領)。

 日清戦争時の日本陸軍は近衛および第1―第6師団の7個師団に編制されており、京都出身の兵士は、大阪鎮台を引継いだ第4師団に属していた。清国軍の出兵に対抗して最初に朝鮮に送られたのは、広島の第5師団から編制された混成旅団であったが、次いで第5師団・第3師団で第1軍が編制さ れ、朝鮮半島を北上、南満州に進出する。これに呼応して第1師団に第1師団の一部を加えた第2軍が遼東半島に上陸、 11月21日には1日の攻撃で旅順を占領している。翌明治28年1月中旬第2師団と第6師団の残部で威海衛攻撃軍が編制され、2月2日には威海衛を占領、その翌3月には 李鴻章が来日して20日に講和会議が開かれることになった。 このときまだ京都兵の属する第4師団は近衛師団と共に内地 に残されており、ようやく戦地に向かって動きはじめるのは 講和会議のさなかのことであった。

 大本営は、講和会議に圧力をかけまた講和決裂の場合に備えるため、直隷平野での決戦という第2期作戦計画の準備を進め、征清大総督府を編制・出征させるとともに、内地残留の2個師団をも動員したのであった。近衛・第4両師団は4月3日に広島に集中を終わり、12日より18日の間に天連湾に到着したが、下関では17日に講和条約が調印されてい た。この後、近衛師団は新領地となった台湾現地民の鎮圧に向かい、大きな損害を受けているのであり、結局、第4師団 はこの戦争で実戦に参加しなかった唯一の師団ということとなった。
京都では戦時下にもかかわらず、博覧会と平安奠都記念祭 の準備が予定どおり進められていた。明治28年1月には 博覧会場の建設はほとんど終わり、下関講和会議開会直前の3月15日には平安神宮鎮座式が行なわれた。そして開会を半月後にひかえた博覧会場の模様は「各陳列館の府県出品は未だ陳列に着手するに至らず、目下各府県の委員は孰れも 大工其他の職工を使役して、陳列棚の装飾等陳列上の準備に奔走し、各館に入り居る工夫は5、6千人に余まれり」と伝えられてもいた『日出明治28・3・16。以後、大車輪で準備が進められ、 4月1日にはいよいよ7月末まで4ヵ月にわたる第4回内国博覧会が開かれ、岡崎周辺は日々1万人内外の入場者で賑うことになる。そして更に月末の4月30日には平安奠都記念祭が予定されており、その1週間前の23日には「大本営を27日より京都に移さる」とのニュースが報ぜられて、 紀念祭は天皇の出席を得て挙行されるかにみえた。

 しかしこの日、東京の外務省には日本の遼東半島領有に反対する露仏独の三国干渉がもたらされていた。27日、天皇は予定どおり大本営を従えて京都に入ったが、その裏面では政府首脳が三国干渉の打開策を求めて苦慮していた。天皇も「御風気」のため記念祭出席を見合わせ、紀念祭そのものも秋まで活用されることになった。5月5日、陸奥外相は三国干渉の無条件受諾を3国に通告、10日天皇は遼東還付についての詔勅を発した。日本全体でいえばここから「臥薪嘗胆」 の季節が始まっているはずであるが、京都人の関心はなお博覧会の盛況にひきつけられていたのではなかったであろうか。少なくとも博覧会や戦勝祝賀会などの記事に大きな紙面を割 いている当時の『京都日出新聞』からは、三国干渉をめぐる 危機感を読みとることはできない。

 征清大総督府、第1軍・第2軍司令部の凱旋を京都の大本営に迎えた天皇は、この間5月24日博覧会を視察、1ヵ月余の京都滞在を終えて29日大本営と共に東京に向かっ た。



深草に歩兵連隊設置

 日清戦争が終わると政府はすぐさま次の戦争を目指す軍備拡張に着手した。そしてその結 果、京都にもさまざまな軍事施設がつくられるようになった。 すでに戦争中の明治27年10月には大阪砲兵工廠の付属施設として宇治火薬製造所が設立されることに決まっていたが、 同製造所が開業し運転式が行なわれたのは戦争が終わった29年4月であった。その前月の3月には、陸軍管区表が改正され、近衛を除く師団数を6から12へと一挙に倍増する大軍備拡張が発表されていた。これまで第4師団管下にあっ た京都府は、市内と山城八郡が従来どおり第4師団、丹波・丹後の十郡が新設の第10師団の管下へと分割されることになった。
 この改正により、これまで第8・第9・第10・第20連隊を基幹としていた第4師団は、第8・第9・第37・第38の4個連隊で編制されることになった。このうち37・38の2連隊が新設であり、明治29年7月には第38連隊の兵営を紀伊郡深草村に設置するとの決定が下された。これは地元にとっては大問題であった。深草では早速7月20日、村民が巣まって徹夜の協議が行なわれたが、少ない土地をこの上、兵営に買収されては困るという農民の苦情が強く、結局、結論を出さずに散会している『日出』明治29・7・22。このように深草村では兵営段段反対の空気が強かったが、隣りの伏見町では軍隊や兵隊個人の消費による収入の増加をあてにして、歓迎の声があがり、1万円内外の寄付をしてもよい という話ももちあがっている。当時の軍陣拡張を当然のこと とする風潮のなかでは、兵営反対の動きを支援する勢力もな く、深草村も強く抵抗することはできなかった。

 兵営は約1年で完成、大津の第9連隊に仮住いしていた第38連隊が深草に移動してきたのは、明治30年7月29日のことであった。連隊の移動にともなってまっ先に現われたのは、家賃の暴騰という現象であった。当時の軍隊では、 兵隊は兵営で生活することに定められていたのに対して、将校は兵営外に居住することが許されていたので、深草周辺で は将校の家探しが始まり、借家賃は前年の5倍以上にはねあがったといわれる。

 深草の38連隊が連隊として政争に参加するのは日露戦争が最初であるが、それ以前にもこの連隊から抽出された小部隊が、清国駐屯軍(政和団事件で設置)や、台湾守備隊の一員として派遣されている。特に領有後も長く原住民の抵抗の 続いた台湾では明治35年に至っても戦闘が続いていた。 当時の新聞に載せられた一将校の通信は、第38連隊より 派遣された兵士たちが、一中隊で21名の死傷者を出す激戦を戦っていることを報じたが、なおこの戦いが西南戦争以後はじめての京都兵の戦闘であるとして次のように述べてい た。「顧みれば、世人西南戦役一度五畿内兵の恃むべからざ るを称してより互に20有5年、汚名尚ほ雪ぐを得ず、27、8年の戦役・北清事件と共に空しく鉄腕を撫して脾裏肉 を生ずるを歎きたるもの、今聊か我が隊の勇敢なる下士兵卒 に依て大和山城壮丁の面目を挙げ、世人に向つて其真価を問ふの時機に至りたるを喜ぶ」『大朝』明治35・12・29。



地租増徴問題

 大規模な軍備拡張と積極的な産業育成策を軸 としたいわゆる「戦後経営」政策は、清国からの賠償金と公債を財源として出発したが、この計画によってもたらされる経常費の増加は、増税によってまかなう以外にはなかった。しかしどのような租税を増徴するかについて は、政府と政党が対立しそれに商業会議所などの実業家も加 わった激しい争いが展開されることになった。  

 明治31年3月15日の第5回総選挙のあとをうけて開 かれた第12特別議会に伊藤内閣が地租増徴案を提出すると対立は一挙に頂点に達した。まだ民力休養の要求が根強く残 っていた進歩党(改進党を中心として、対外硬派の小党派が合併し、明治29年2月1日結成)はもちろん、藩閥政府との提携を深 め、民力休養から積極政策路線に転じつつあった自由党も、 この案には反対した。そして6月10日議会が解散されると、 22日両党は合併して憲政党を組織、伊藤内閣はこの大政党の出現に直面して総辞職し、政権を憲政党に譲った。  

 憲政党大隈内閣は6月27日に成立し、その下で8月10日に行なわれた第6回総選挙では、同党は300議席中260議席、実に全議席の8割以上を占める圧倒的勝利を収めた。 京都でも市部は依然として無所属議員の議席を奪うことはできなかったが、郡部は進歩党の成立により自由・進歩両党に両断される形勢となっており、したがってこの総選挙では憲政党が郡部の議席を独占するに至っている。しかし進歩党→憲政本党系の議員が多数を占めていることは、郡部では地租増徴反対の空気が強かったことを示すものと思われる。  

 大隅内閣は絶対多数の憲政党を与党としたにもかかわらず、 その与党内部の分裂によって何事をもなしえずに10月31日には総辞職した。同時に憲政党も自由党系の憲政党と、進歩党系の憲政本党に分裂、次いで山県内閣が成立すると憲政党はその与党となり、12月から始まった第13議会では、 地租増徴案で増税率を下げ、5年間の期限をつけるかたちに修正して通過させた。

 この憲政党の成立と崩壊を含む明治31年の後半は地租問題をめぐる論争が全国的に展開され、商工業者が政治への発言を強めてくる画期をなしているが、そのことははっきりと京都でも現われていた。すでに6月の第12議会で地租増徴案が自由・進歩両党によって否決されたとき、内貴甚三郎 と高木文平両名は上京選出の雨森代議士に「君が増税案に賛成したるは市民の喜ぶ処、謹謝す」と打電する反面、下京選出の竹村代議士に対しては「増税案賛成27の内君の名無し、 間違か将た実か、実なれば君は選挙区を忘れたるか、返事せよ」と詰問する電報を打っている『日出明治31・6・12。内貴はこの年の10月には市長に就任する市会の実力者であり、高木は京都商工会議所の初代会頭を経て京都電鉄社長の地位にあり、京都財界の重鎮と目されている人物であった。この2人がこのよ うな行動に出たのは、京都の実業家の世論の上に立っていると確信したからであり、したがってまた竹村代議士も早道、 「老眼誤て青票を投じたる」もの「真意は絶対賛成」なりと弁明の返書を送らざるをえなかったのであった『日出』明治31・6・14。

 地租問題が最終段階を迎えた12月には、実業家の動きは更に活発になった。12月8日には京都商業会議所が、読いて10日には京都実業協会が地租増徴を要請する請願書を貴・衆両院に送るとともに、代表委員を東上させて積極的運動を展開する。更に13日には祗園館で、実業家政談演説会を開 くという熱の入れ方であった。『京都日出新聞』は12月14日付でこの演説会を「京都に於ては空前のことなり」と評している。  

 このように市部では、実業家のりーIドする地租増徴運動が盛んであり、政党は独自の動きをすることがでぎなかったが、 郡部では政党員の指導する地租増徴反対運動が目立っていた。 11月21日には山試ハ郡選出の府会議員が地租増徴反対を決議、12月に入ると憲政本党京都支部が非地租増徴同盟会を組織、12月16日には、川崎安之助ほか1258名が署名した地租増徴反対請回書が貴・衆両院に提出されている。川崎はさきに触れた山城自由倶楽部以来の自由党系の活動家で憲政党に属していたが、同党が山県内閣との提携を公表した後でも地租問題では増徴反対の立場をとりつづけてい た。同様の傾向は郡部の党員に強く、したがって憲政党京都支部は何等積極的行動をとることができなかった。  

 憲政本党は、地租増徴が成立したあとも、翌明治32年 5月28日には武富時敏らを招いて祇園館で非増租政談大演説会を開くなど増租反対運動を続けているが、同党のなかでも市部の党員はしだいにこの運動から離れていった。同年10月、富田半兵衛・中安信三郎ら上京を地盤とした市会の党派である同志会に属する党員たちが、非増租派とみなされるのをきらって、憲政本党を脱党したのは、このような動向を象徴するものであった。

 結局、京都でも地租増徴問題が紛糾した過程は、自由民権以来の名残りをとどめていた党派が解体し、新たな基礎の上 に再編成される過渡期であった。政府も政党もようやく活発 に動きはじめた実業家を組織しようとした。明治33年9月に伊藤博文を総裁し、憲政党が参加して結成された政友会は実業家の組織をねらったものであったし、その半年前の 3月に公布された衆議院議員選挙法の改正では、選挙人資格の納税額を国税15円以上から10円以上に引下げ、30000人以上の市を独立選挙区とする、大選挙区制採用などを定めているが、これらも商工業者の意見をより多く国政に反映させようとする意図をもつものであった。同時に政党活動の重点も、選挙人の負担の軽減よりも、地方に対する積極的施策を求める方向に変わりつつあった。

 
第6回総選挙時31・8・10
第7回総選挙時35・8・10
選挙区
定員
選挙区
定員
市部 一区
1
878
2,381
全区
3
5,671
二区
1
1,503
郡部 三区
1
1,863
7,912
全区
5
16,124
四区
1
2,034
五区
2
2,486
6区
1
1,529


日露戦争と京都へ