『エリア教科事典』1日本歴史

1975年10月

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大正デモクラシー

古屋 哲夫

 

1憲政擁護運動と大正政変
2第一次世界大戦と日本
3デモクラシー思想と社会運動
4政党政治の展開
5市民生活と文化

1憲政擁護運動と大正政変
2個師団増設問題
閥族打破・憲政擁護
シーメンス事件


1憲政擁護運動と大正政変


  大逆事件以来、社会主義をかかげる運動は影をひそめ、「社会」ということばを使うのさえはばかるようなふんい気が生まれた。しかし、民衆の政治への関心は、しだいに高まっており、明治時代を支配してきた藩閥や軍閥への反感をばねとして、政府攻撃に立ち上がるようになった。



2個師団増設問題

 日露戦争以後、社会全体のふんい気は大きく変わりつつあった。世界最大の陸軍国ロシアにうちかったことは、国民の対外的な緊張感を著しくゆるめ、それまで外に向けられていた人々の関心を内に、つまり国内の矛盾や精神の内部の問題に向け直すきっかけとなった。それは政治の面では、維新以来支配的な力をふるい続jけた藩閥への大衆的な批判となって現れてきた。国民は、戦後の不景気にもかかわらず、軍備拡張を強行しようとする軍部を「横暴」とみるようになった。

  日露戦争の戦費の半分以上が、外国からの借金でまかなわれたうえ、講和条約で償金がとれなかった結果、戦後の財政はひじょうに苦しくなっていた。しかし軍部は、ロシアの復しゅうに備え、新しい植民地を支配するためには、軍備の拡張が必要だと主張した。

  陸軍に支配的な力をもつ長州閥の巨頭、元老山形有朋は、平時25個師団、戦時50個師団という軍備拡張計画を、内閣や議会にはからずに元帥府にかけただけで決定し、天皇の承認を得ていた。日露戦争が始まったとき、近衛師団および第1〜第12の計13個師団であった日本の兵力は、戦争中に4個師団が編成されて17個師団に達していたが、戦後になると陸軍は、25個師団実現の第一段階として4個師団の増設を要求しはじめた。そのうち1907(明治40)年に2個師団が増設されたので、残りの2個師団増設を実現することが、陸軍当面の要求となった。

  このような軍備拡張のため、戦時の非常特別税が戦後もそのまま永続化されてしまい、国民とくに実業家のあいだから強い不満の声が上がった。運動の中心になったのは、中小企業家を中心とする商業会議所(商工会議所の前身)であった。地域ごとの実業家の組織である商業会議所は、運動を全国に広げた。彼らは非常特別税廃止を要求するとともに、軍事費は非生産的な費用だとして軍備拡張に強く反対し、国民のあいだに軍閥の横暴に対する反感を広めていった。



閥族打破・憲政擁護

 1911(明治44)年8月、政友会を与党として成立した第2次西園寺内閣は、こうした情勢のなかで、財政難を打開するために行財政整理を実行しようとし、各省に経費の節減を求めた。しかし陸軍省は、節約した費用で2個師団増設を実現するという案を出した。そして、この師団増設案が閣議で否決されると、陸相上原勇作は辞職し、陸軍は後任者を推薦することをこばんだ。これは当時「陸軍のストライキ」とよばれたが、このため第2次西園寺内閣は総辞職を余儀なくされた。これは陸軍が内閣をたおしたということであり、陸軍の横暴を批判する声が高まった。

  さらに、内大臣兼侍従長に就任して4か月にしかならない桂太郎が、とくに勅語を受けて内閣を組織するや、陸軍批判は藩閥・軍閥(この両者をふくめて「閥族」ということばがつくられた)への攻撃が、はげしい勢いでふきだしてきた。というのは、桂は長州出身で山形有朋の直系であり、陸軍大臣を経験して陸軍大将の位に上り、さらに総理大臣としてすでに2回の内閣を組織し、陸軍と官僚にまたがる長州閥の実力者となっていた。この桂が出てきたことは、長州閥が宮中までも意のままに動かし、内閣を乗っ取ろうとしている証拠だとみられた。

  西園寺内閣の総辞職が1912(大正1)年12月5日、桂内閣が成立するのが12月21日であるが、その間の12月14日には、実業家・新聞記者・国民党・政友会の有志などにより「憲政擁護会」が結成され、「閥族打破・憲政擁護」をスローガンとした憲政擁護運動が開始され、先頭に立った犬養毅(国民党)・尾崎行雄(政友会)らの政治家に人気が集まった。運動はたちまちのうちに全国に広がり、各地で陸軍や桂に反対する集会が開かれた。

  翌年にはいって桂は、新政党組織(のち立憲同志会)を発表して、政党勢力を切りくずそうとしたが、このことは、大衆運動に消極的だった原敬ら政友会幹部を、硬化させる結果となった。桂内閣は、野党の不信任案上程に対して停会につぐ停会をもって対抗し、議会を解散して野党と選挙で争おうとする態度を示した。2月10日、激こうした群衆は議会周辺におしかけ、また、政府系新聞社や交番の焼き打ちをくわだてたりした。群集に囲まれた議会のなかで、桂もついに解散という強硬策をあきらめ、内閣総辞職にふみきった。

  当時、内閣の交代が「政変」とよばれていたが、これは大正最初の大政変という意味で「大正政変」とよばれた。たしかに第二次世界大戦前の日本では、この政変が、大衆運動のために内閣が倒れた唯一の事例であった。



シーメンス事件

 大正政変のあとには、薩摩藩出身で海軍の実力者である山本権兵衛が、政友会の支持を得て内閣を組織した。一部には、山本も閥族の一味ではないかとの反対があったが、原敬らは次善の策としてこの妥協にふみきった。山本内閣は師団増設要求をおさえ、行財政整理を実現するなど、ある程度、護憲運動の要求にこたえようとした。とくに軍部大臣現役武官制を廃止したことは大きな業績であった。

  現役武官制廃止とは、陸海軍大臣は現役大将・中将に限られていたのを改め、予備役や後備役の大将・中将でも軍部大臣になれるようにするということであった。つまり、現役武官は政治団体と関係することを禁じられ、軍首脳部の強い統制下に置かれるのに対して、予備役や後備役になると軍の統制も弱く、政党と結びつくことも自由であり、したがって、軍部が大臣を出さないで内閣をたおすというやり方も、むずかしくなるはずであった。

  この改正には、枢密顧問官の総入替えも辞さないという強い態度で、官制改正の権限をにぎる枢密院の審議をおしきり、この改正を実現したのであった。しかし、この山本内閣も意外な事件でつまずくことになった。

  1914(大正3)年1月、シーメンス・シュッケルト電気会社(ドイツ)の東京支社員が、同支社から日本の海軍高官への贈賄を示す書類をぬすみだして、それを種に恐喝を働き、有罪となったというニュースは、日本の政界をゆるがせた。これは海軍無線電信所建設にからむ事件であったが、ついでイギリスのヴォッカース社への軍艦発注のさいの汚職も発覚した。野党や貴族院はこの問題を取り上げて、海軍の実力者であった山本首相・斎藤海相に攻撃を集中し、大正3年度の予算案を不成立に終わらせて、山本内閣を総辞職させた。

  元老たちは政友会に一撃を加え、護憲運動の流れを断ち切るために、この機会を利用しようとし、かつての民権運動の一方の旗がしらであり、早稲田大学の創設者として人気のあった大隈重信を首相の座につけた。大隈は師団増設を政綱にかかげ、1915年3月の総選挙で政友会に圧勝し、懸案の2個師団増設を実現させた。護憲運動は3年にしてまったく勢力を失い、ついで起こった第一次世界大戦への参戦で、日本社会の様相は、はげしく変化していくことになるのであった。

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