デモクラシー思想とさまざまな社会運動の発展とは、政党の役割を高める結果となった。大正末年には政党内閣時代が始まり、普通選挙制も実現されたが、既成政党は大衆運動の激化をおそれ、治安維持法を制定するようになっていった。
平民宰相、原敬
米騒動が起こったとき、首相の座にすわっていたのは、長州(山口県)出身の陸軍大将で、陸軍大臣・朝鮮総督を経た寺内正毅であった。彼は1916(大正5)年10月、大隈内閣が総辞職したあと、元老山県有朋の強い支持によって内閣を組織したのであった。寺内内閣は「不偏不党」を唱えて、政党党首をも加えて外交調査委員会をつくるなど、新しい動きもみせたが、朝鮮の武断政治の責任者であった寺内の内閣だけあって、言論活動や労働活動には抑圧的政策をとり、しだいに「非立憲」内閣との批判が高まっていった。そして米騒動にゆさぶられたあとでは、もはや政治的力を失っていた。
寺内内閣は米騒動がいちおう沈静した1918(大正7)年9月21日に総辞職したが、元老たちも事態の転換を図るためには政党の力を借りることが必要と考えるようになり、けっきょく、政友会総裁原敬を首相の座につけた。
原は爵位をもたない最初の首相という意味で「平民宰相」とよばれ、国民から新鮮な印象をもってむかえられた。彼は、陸・海・外相以外の全閣僚を政友会員で構成したが、この時代の制約のもとでは、政党内閣の実をあげたものといえた。しかし彼はこの勢いをもって、元老・枢密院・貴族院・軍部などといった、国民の手の届かない特権的な勢力を打破しようとはせず、彼らと妥協しながら、彼らのあいだに政友会の支持者を広げようとするやり方をとっていた。
原内閣は、国防の充実、教育の振興、産業の奨励、交通機関の整備を4大政策としてかかげたが、これは軍部や財界を満足させるとともに、学校や鉄道をつくって地方の要望にこたえ、政友会の地盤を強化することをねらったものであった。この政策にしたがって、八八艦隊計画(戦艦8隻、巡洋艦8隻を基幹とする艦隊建造)などの軍拡計画や、高等学校など教育機関の増設などが推進され、また戦後恐慌に対しては、日本銀行から巨額の特別融資をさせて財界を喜ばせた。
しかし、このような積極的な党勢拡張政策は多くの汚職事件を生み、しだいに国民の反感を買うようになり、1921(大正10)年11月4日、東京駅で原首相が暗殺されるという結果を招いた。最初の平民宰相となった原敬は、現職で暗殺された最初の首相として、その生涯を終わったのであった。
ワシントン会議
平和維持・軍縮に関するおもな条約 |
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加藤友三郎(海軍大臣)
徳川家達(貴族院議長)
幣原喜重郎(駐米大使)
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太平洋での相互の権利尊重と現状維持 日英同盟廃棄 |
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主力艦保有量比を米英5、日本3、仏伊1.67 |
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中国の主権尊重と中国に対する門戸開放政策を約束 |
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斎藤実(朝鮮総督)
石井菊次郎(駐仏大使) |
補助艦制限を討議したが意見不一致で失敗 |
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内田公哉(元外相) |
戦争放棄を約束 違反制裁規定なし |
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若槻礼次郎(元首相)
財部彪(海軍大臣)
松平恒雄(駐英大使) |
大型巡洋艦の保有量比を米英10、日本6
補助艦全体の保有量比を米英10、日本6.97 |
原首相が暗殺された直後の1921(大正10)年11月12日には、アメリカのワシントンで、太平洋・極東問題と軍縮問題を討議するため、米・英・日・仏・伊・中・ポルトガル・ベルギー・オランダの9か国が参加した国際会議が開会された。
アジア・太平洋地域では、第一次世界大戦のあと始末がまだ終わっていなかった。太平洋をはさんだ中国とアメリカは、パリ講和条約を受け入れておらず、日本と中国のあいだには山東問題が懸案として残されていた。また、原内閣時代の八八艦隊計画にみられるように、日米の建艦競争が激化し、それにイギリスなどもまきこまれて、各国の財政に大きな負担となっていた。さらには、期限満了(1922年7月)が近づいている日英同盟をどうするかということも問題であった。
アメリカの提唱で開かれたこのワシントン会議に、日本は海相加藤友三郎・貴族院議長徳川家達・駐米大使幣原喜重郎を全権として送った。翌1922年2月まで続けられた会議は、次のような成果をもたらした。
1.海軍軍縮条約(米英日仏伊)
今後10年間主力艦の建造を停止する。各国の保有量を、
主力艦[米・英=52.5万t、日本=31.5万t、仏・伊=17.5万t]
航空母艦[米・英=13.5万t、日本=8,1万t、仏・伊=6.0万t]に制限する。
米・英・日・仏・伊の主力艦の比率は、5・3・1.67であった。
2.四か国条約(米英日仏)
本国からはなれて太平洋方面にある領地・属地の島々に関する権利を相互に尊重する。
この条約の発効と同時に日英同盟は終了する。
3.九か国条約(参加9カ国)
中国の主権、独立および領土的、行政的保全を尊重する。
中国に対し、機会均等・門戸開放の原則に反する要求を行わない。
4.山東問題の解決(日中直接交渉)
膠州湾租借地は無条件、鉄道・鉱山などの利権は若干の報酬を得て中国に返還する。
5.日本はシベリアについて領土的野心をもたず、適当な協定ができれば撤兵する。
ワシントン会議のこれらの決定は、アジア・太平洋地域の現状を維持し、日本の侵略を封じこめることをねらったものであった。
軍縮の実行
ワシントン会議の結果、日本の主力艦では安芸・薩摩以下14隻がスクラップにされ、土佐・紀伊など6隻が建造中止または契約解除となった。また海軍の将兵7500人、造船所の職工1万4000人が整理された。慢性的不況のなかで、造船業の受けた打撃は大きかったが、世論はこの軍縮を歓迎し、さらに陸軍の軍縮をも要求するようになった。ワシントン会議が終幕をむかえた1922(大正11)年3月には、衆議院で陸軍軍備縮小建議案が可決されている。この陸海にわたる軍縮の課題に取り組んだのは、ワシントン会議から帰ったばかりの加藤友三郎が組織した内閣であった。
原敬暗殺後、高橋是清が閣僚をそのままひきついだ高橋内閣を組織したが、高橋には大政友会を統率する力はなく、政友会の主導権争いは激化し、内閣は閣内不統一のため1922年6月に総辞職した。すでにその年2月山県有朋は病死し、元老は松方正義・西園寺公望の2人だけになっていたが、首相選定権はいぜんとして元老ににぎられていた。4年にわたる政友会内閣が、不評を招いていたことを考慮した元老たちは、加藤友三郎を首相に推した。
加藤内閣は、さきに述べた海軍の大軍縮を実施するとともに、山梨半造陸相のもとで陸軍軍縮にも手をつけた。山梨軍縮は、軍隊の編成を縮小し中隊数を減らすという形で、5万7000人の人員を削減したが、世論は満足せず、さらに宇垣軍縮が行われることになった。
1925(大正14)年、加藤高明を首相とするいわゆる護憲三派内閣(後述)の陸相に就任した宇垣一成は、今度は4個師団を廃止するという思い切った軍縮を実現させた。師団数は、日露戦争終結時の17個師団に逆もどりした。しかし宇垣は同時に、これによって節約された費用を軍の機械化にふりむけ、また、あまった将校を中学以上の学校に送りこんで、軍事教練に当たらせる、というやり方をも実現させていた。彼は、世論にある程度の満足をあたえながら、軍の力を温存し、強化することをねらっていたのであった。
関東大震災
1923(大正12)年8月24日、加藤友三郎首相が病死し、後任に推された山本権兵衛が組閣の準備を進めていた最中の9月1日正午、南関東一帯は最大震度7という激震にみまわれた。小田原・横浜でも家屋の倒壊などにより大きな被害が出たが、東京では同時に発生した火災が市の中心部をなめつくした。9月3日未明まで燃え続けた火は、本所・深川・浅草・日本橋・京橋・神田・下谷などを焼きつくし、両国の陸軍被服廠跡では、非難してきた3万8000人の人たちが火に囲まれて焼死するという惨事が起こっている。関東大震災は、り災者340万人、死者・行方不明あわせて10万人をこえるという大きな被害を残した。
大急ぎで組閣をすませた山本内閣は、さっそく9月7日支払猶予令(モラトリアム)を出して、り災地の金銭債務の支払いを30日間延長させ、つづいて震災のため支払えなくなった手形を日本銀行に再割引させ、その損失を1億円まで政府が負担することにして急場をしのいだ。この日銀が再割引した手形は「震災手形」とよばれ、その後その処理が難航し金融恐慌の原因となるものであった。
震災2日目の9月2日、夕方には戒厳令がしかれ、り災地は軍隊の支配下におかれたが、この戒厳令下で朝鮮人や社会主義者に対する暴行、虐殺が広がっていた。この2日の朝から、朝鮮人が襲来してくるとか放火したという流言が流れはじめたが、警察がさっそく応戦体制をとり、市民に警戒をよびかけたことは、このうわさをほんとうだと思いこませる役割を果たした。市民は刀やこん棒・とび口などで武装して自警団をつくり、朝鮮人らしい通行人を見つけると、暴行を加えたり虐殺したりした。この流言がまったくのデマだったことは、数日のうちに明らかになったが、虐殺事件は7日ごろまで続いており、犯人のわかっている被害者(死者)だけで、朝鮮人231人、中国人3人、日本人59人におよんでいるが、実際に殺されたのは、その数十倍に達するだろうと推測されている。
朝鮮人虐殺と並行して、警察や軍隊は治安をみだすおそれがあるという名目で、社会主義者や労働運動家を検束していった。そして亀戸署では労働運動の活動家であった平沢計七ら9人が軍隊の手で殺されるという事件が起こり、さらに震災の混乱がいちおう収まった9月16日になって無政府主義者の中心的指導者であった大杉栄が妻の伊藤野枝、おいの6歳の少年とともに麹町憲兵隊にとらえられ、その夜のうちに3人とも絞殺されてしまうという事件が人々をおどろかせた。関東大震災は大地だけでなく日本社会をもゆるがせ、そのゆがんだ一側面を露出させていた。
普通選挙運動
震災のさなかに成立した山本内閣は、官僚出身の実力者を集めて期待されたが、とくに山本首相が普通選挙を実現させる意向を示したことは注目を集めていた。この内閣は公約を果たすことなく、摂政(現天皇)が虎の門付近で無政府主義の影響を受けた一青年にそ撃された事件(虎の門事件)の責任をとって、わずか4か月で総辞職してしまったが、このころには、もう普通選挙(普選)実現は時間の問題とみられるようになっていた。
普通選挙を要求する運動は、すでに明治後半期から始まっていたが、それが大衆的な運動に発展してくるのは、米騒動後、原内閣の時代からであった。1919(大正8)年2月、東京と大阪で普選を要求する学生や労働者の大会が開かれたことは、大衆的普選運動のきっかけとなり、翌年の議会に向けて運動は急速にもりあがった。翌1920年1月には41団体が参加した全国普選連合会が結成され、2月には東京で3万の民衆を集めた大示威運動が展開されるに至った。このような情勢をみて、政党側も普選の方向に動きはじめた。
前年にはまだ、選挙資格となる納税額を引き下げるという主張をしていた憲政会・国民党の両野党は、1920年春の第42議会には、内容は異なるとはいえ、ともかく選挙権の資格から納税条件を撤廃するという普選案を提出して、大衆運動にこたえようとした。しかし普選に反対する原内閣は、あえて議会を解散して対決し、小選挙区制下の総選挙で、与党政友会は絶対多数を獲得した。
このことは、大衆的普選運動を後退させる要因となった。労働運動のなかには、議会や普通選挙の実現などをあてにせず、ゼネストなどの直接行動でたたかうべきである、とするふんい気が広がった。しかし、逆に政党や官僚のなかには、民衆の不満を過激な方向に走らせない「安全弁」として、普選を実現することが必要だという主張が強まっていった。山本内閣のあとに、枢密院議長清浦奎吾が貴族院中心の内閣をつくりあげたとき、政党側が特権内閣は国民の不満を高め、思想を悪化させ、階級闘争を激化させるものだとして反対したのは、普選=安全弁論と同じ考え方を示すものであった。
護憲三派内閣
選挙権の拡大 |
年代 |
●内閣
有権者の資格 |
改正後初の選挙における有権者数の推移 |
1889 |
●黒田清隆
直接国税15円以上
男子25歳以上 |
1890年 4.5万円人
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1900 |
●山県有朋
直接国税10円以上
男子25歳以上 |
1902年 98万人
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1919 |
●原 敬
直接国税3円以上
男子25歳以上 |
1920年 307万人
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1925 |
●加藤高明
普通選挙
男子25歳以上 |
1928年 1241万人
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1945 |
●幣原喜重郎
普通選挙
男女20歳以上 |
1946年 3688万人
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清浦内閣が成立当初より不評であり、弱体とみられたことは、政党側を元気づけた。原内閣以来、政権から遠ざかっていた政党側は、この機会に政党内閣をつくろうと、動きはじめた。政友会の高橋是清、憲政会の加藤高明、革新倶楽部の犬養毅の3党首会談が行われ、3党は貴族院特権内閣排撃、政党内閣制確立のスローガンで第2次憲政擁護運動に立ち上がることになった。政友会の反総裁派床次竹二郎らはこの運動に反対し、分裂して政友本党を結成したが、護憲三派は1924(大正13)年5月の総選挙で大勝した。翌日清浦内閣は、成立半年にしてなすところなく退陣し、加藤高明を首相とする護憲三派内閣が成立した。
これ以後1932(昭和7)年の5・15事件まで、政党党首が首相となる政党内閣時代が続くのであり、その意味では第2次護憲運動は1つの画期をつくったことになった。しかしその内容は、自由主義的政治家や実業家・新聞記者などが、民衆を動員しながら党幹部をつきあげていった第1次護憲運動の場合と異なり、最初から党幹部の握手で始められ、幹部の統制のもとに進められており、大衆運動を起こそうとする意欲は、まったくみられなくなっていた。
しかしともかくも、護憲運動を基礎として成立した加藤内閣は、懸案をつぎつぎとかたづけていくだけの力をもっていた。まず衆議院議員選挙法を改正し、25歳以上の男子に選挙権を、30歳以上の男子に被選挙権をあたえるという形で、普通選挙制度を確立した。また行財政整理を政綱にかかげて、その一環としての陸軍軍縮(前述の宇垣軍縮)をも実現した。外相となった幣原喜重郎は、日ソ基本条約を締結してソ連との国交回復を実現し、中国に対しては列国と強調しながら、関税自主権など中国の民族的な要求を、ある程度認めていこうとした。この政策は「幣原外交」「協調外交」などとよばれて、この時期の政治の1つの特色となっていた。
治安維持法の制定
護憲三派内閣は、このようないわば進歩的な政策ばかり実現したのではなかった。この内閣は普選とともに、治安維持法の制定者として、その名を歴史のうえに、残すことになった。
治安維持法は、社会主義や共産主義の運動をとりしまるための、新しい弾圧法規であった。普選法案と同時に、1925(大正14)年春の議会で成立したこの法律の内容は、国体の変革、私有財産の否認を目的とした政治結社を組織した者、その目的を知って加入した者を、10年以下の懲役または禁固とし、結社には関係なくとも、同じ目的の実行を扇動したり、実行に関して協議した者も、7年以下の懲役または禁固という重刑にしようというものであった。1923年の最初の共産党員検挙は、治安警察法の秘密結社の組織および加入罪によって行われており、その刑罰が6か月以上1年以下の軽禁固であったのと比べると、いかに弾圧が強められているかがわかる。
しかも、特定の目的についての協議や扇動をふくむということは、思想活動そのものを処罰するということにほかならなかった。1925年4月に公布されたこの法律は、はやくも12月には、マルクス主義の研究を行っていた学生社会科学連合会に向かって発動されるに至っている。そして国体についての神がかり的な解釈が拡大されるにつれて、自由主義など西欧的思想一般が取締りの対象になりうるのであり、のちのファッショ化に有力な武器を用意することになった。
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