『エリア教科事典』1日本歴史

1975年10月

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戦争と破局

古屋 哲夫


 

1揺れ動く日本
2満州事変と国際連盟脱退
3中国との全面戦争
4第2次世界大戦の開始と日本
5太平洋戦争

3中国との全面戦争
華北分離工作と西安事件
盧溝橋事件
国家総動員法と国民生活
東亜新秩序の声明
張鼓峰事件とノモンハン事件
「複雑怪奇」な欧州情勢


3中国との全面戦争



 満州を日本の支配下にうばわれた中国では、急速に民族的危機感を高まり、内戦をくり返していた国民党も共産党も、抗日のために手をにぎる方向に動いていった。しかし、この動向を軽視した日本は、安易に中国との戦争にふみこんで大兵力をくぎづけにされ、その打開策に苦しまなければならなくなった。



華北分離工作と西安事件

 東三省と熱河省とを満州国として中国から切りはなした軍部は、さらにその周辺の華北地方をも、日本の力のおよぶ親日地帯にしようとした。それは、満州の周囲に抗日運動の根拠地ができることを防ぐとともに、華北の資源を獲得しようというものであった。
柳条湖事件に始まる関東軍の作戦行動は、熱河作戦でいちおう終止符が打たれたが、その停戦を定めた塘沽協定は、日本の華北進出の第一歩となるものであった。この協定は、万里の長城以南の河北省東部に非武装地域を設け、日中両軍はその両側に撤退することを規定していたが、日本側はこの非武装地帯を日本の勢力圏とみなした。そして1935(昭和10)年になると、この地域で関東軍の手先となっていた中国人に、翼東防共自治政府(翼は河北省をさす)をつくらせ、国民政府からの離脱、独立を宣言させた。

 同じ年、日本軍はささいな事件を利用して、「梅津美治郎・何応欽協定」「土肥原賢二・秦徳純協定」などをおしつけて、国民党機関を河北省・察哈爾省から撤退させるとともに、中国人を買収して、華北自治を要求する運動を起こさせようとした。出先軍部のこのような政策は、当時、華北分離工作とよばれた。

 華北に対する日本の野望が明らかになるにしたがって、中国民衆のなかに、抗日の気運が広まっていくのは当然であった。そのころ中国共産党は、国民党軍との決戦をさけて瑞金を退き、奥地をう回して北上し(大西遷)、延安を中心とする新たな根拠地を建設していたが、その途上の1935年8月1日に「抗日救国宣言」を発表し、内戦をやめて、一致して日本の侵略に抵抗する必要をうったえた。

 さらに翌1936年12月には、共産軍討伐作戦を督励するため西安をおとずれた蒋介石が、抗日を要求する張学良に逮捕、監禁されるという事件(西安事件)が起こった。満州を追われた張学良とその軍隊は、強い抗日意識をもち、すでに共産党とのあいだに実質的な停戦を実現させ、さらに蒋介石に政策転換を求めたのであった。蒋介石は共産党の周恩来らの仲介によって釈放されたが、この事件をきっかけに、国民党も抗日民族統一戦線の形成、国共合作に動きはじめるこことなった。

 そして、盧溝橋事件後の1937(昭和12)年8月には、華北の中国共産軍主力が国民政府下の第八路軍に、10月には華南に残っていた共産軍が新四軍に編成され、中国共産軍は以後果敢な遊撃線を展開して、抗日戦の重要な一翼をになっていくことになった。



盧溝橋事件

 中国民衆の抗日意識が高まっていた。1937(昭和12)年7月7日夜、北京郊外の盧溝橋で日中両軍の衝突が始まった。日本軍の演習中に銃弾がうちこまれたことを、付近の中国軍のしわざだとして、攻撃を加えたのであった。この事件は柳条湖事件のような計画的なものではなく、7月11日には現地で停戦協定が実現したが、政府や軍部には一撃を加えれば中国は屈服するであろう、という安易な考え方が強く、内地から3個師団を増派し地域を限定して兵力を使用するという方針が決定された。7月28日から日本軍は総攻撃を開始し、ほぼ1日で北京・天津地方を占領した。

 しかし中国側には、ここで屈服したら中国民族は滅亡するという危機感がみなぎっていた。そして翌8月上海でも衝突が始まると、もはや中国との全面戦争に突入することは、さけられなくなった。上海では、8月9日に日本海軍の陸戦隊長が射殺されるという事件が起こり、13日から戦闘が始まったが、中国軍の抵抗は予想以上にはげしかった。日本側はつぎつぎに増援部隊を送ったが、中国軍は3ヵ月にわたって、日本軍の猛攻をささえ、日本軍はさらに、3個師団の兵力を杭州湾に上陸させて、やっと11月にこの戦線を突破するというありさまであった。そして12月13日、首都南京になだれこんだ日本軍は大虐殺事件を起こして、各国からはげしく非難された。

 この間、10月からドイツの駐華大使トラウトマンが、日中の和平交渉をあっせんしようとしていたが、南京占領にともなって日本側の要求は過酷となり、交渉が成立する余地はなくなっていった。近衛文麿内閣(1937年6月成立)は翌1938(昭和13)年1月16日になると、日本は以後「国民政府ヲ相手ニセズ」、日本と提携する新興政権の成立発展を期待する、という声明を発表した。新しい政権が発展すれば、蒋介石の国民政府は無力な地方政権に転落し崩壊するにちがいないというのが、この声明の基礎になる考え方であった。

 そして実際にも、1937年12月には北京に中華民国臨時政府が、翌年3月には南京に維新政府がつくられたが、このような日本の意のままにあやつられている政府が、民衆の心をつかめるわけはなかった。日本が一撃で中国を屈服させることに失敗し、長期戦の泥沼にふみこんでしまったことは、明らかであった。



国家総動員法と国民生活

 1938(昭和13)年の春には、すでに16個師団70万の大兵力が中国大陸に動員されていた。しかも、兵力はさらに増加していき、中国との戦争を続けていくためだけでも、経済を統制することが必要になってきた。主要な工業原料の大部分を輸入にあおいでいる日本経済は、輸入の増加に見合うだけ輸出をふやさなくては、生産を拡大できないしくみになっていた。したがって、長期戦を遂行するためには、限られた輸入原料をできるだけ多く軍需産業と輸出産業にふりむけ、それだけ国民一般の消費を制限しなければならなかった。また、労働力の面からいっても、兵隊として動員されたぶんだけ減少していく労働力を、農村までふくめてどのように配分するかという問題も重要となった。もはや、国民生活全般にわたる国家統制を行える体制=国家総動員体制をつくらねばならなかった。

 まず1937年9月に国民精神総動員運動が起こされたのに続き、10月に総動員計画を立案する機関として企画院が設けられ、翌年4月には国家総動員法が制定された。この法律は「人的及び物的資源」を運用するための強力な権限を、政府にあたえようというものであった。この法律によって政府は、物資・資金・労務の需給調整、輸出入・物価の統制をはじめ、労働争議の防止や出版の制限に至るまでの国民生活全般にわたる統制を、議会の承認を必要としない勅令で実施できることになった。議会や政党の地位は、これによって決定的に低められることになった。

 1938年から、はやくも石油・鉄・スズ・アルミニウム・パルプ・綿・皮革・羊毛などの使用が制限された。綿製品を輸出にまわすために、国民は化学繊維(スフ)の使用を強制された。また、ガソリンが切符配給制となり、木炭自動車が登場して人目をひき、あらゆる分野で代用品がくふうされるようになった。

 物不足や労働者の不足で軍需と関係ない産業、とくに中小企業の経営は急速に苦しくなった。平和産業から軍需産業の産業への転業も容易謂でなく、けっきょく廃業に追いこまれることが多かった。1940(昭和15)年6月にはマッチと砂糖の切符制、翌年4月からは米穀通帳による配給制が実施され、対米英戦争を開始する前に、すでに国民生活は目にみえて苦しくなっていた。



東亜新秩序の声明

 中国に対して高飛車な態度に出たものの、日本の政府も軍部も中国との戦争をどう収拾するのかという、明確な構想をもっていたわけではなっかった。1938(昭和13)年2月には、参謀本部は積極的な攻撃をやめて持久策をとり、その間に中・ソ2面作戦を行えるだけの軍備拡張を行うとの方針を決めたが、有力な中国軍の出現を見のがすわけにもいかず、けっきょく現地の情勢にひきずられて、すぐに破棄されてしまうというありさまであった。こうしたなかで、3月下旬に山東から南下した一支隊が、台児荘で有力な中国軍にであい、徐州付近に中国軍主力が陣どっていろことがわかると、参謀本部は南北からこの主力部隊を包囲撃滅するという、積極方針にかわり、5月には徐州作戦が実施された。

 5月19日、日本軍は徐州を占領し、華北と華中の占領地をつなげることができたが、中国軍主力を撃滅することには失敗した。そこで参謀本部は、包囲をのがれた中国軍を追って、武昌・漢口を攻撃すると同時に、華南にも兵を送って広州を占領し、国民政府の外国との連絡路を断ち切る、という方針を立てたのである。

 この作戦は10月に実施され、日本軍は武漢・広東を占領したが、蒋介石はなお重慶に後退して抗戦の姿勢を示した。しかし日本軍も、それ以上奥地にまで進攻作戦は行わず、抗日勢力は「謀略及び攻略」によって崩壊させるという方針が決定された。

 抗日の姿勢を示しつづけたとはいえ、あいつぐ敗戦によって国民政府の受けた政治的、経済的打撃は大きく、日本との妥協を図ろうとする勢力も現れるようになってきた。とくに国民党副総裁汪兆銘・宣伝部長周仏海という大物が動きだしたことは、日本側を喜ばせた。日本側は、汪兆銘ならば有力な新政権をつくれるかもしれないとの期待をもって、その引き出しに全力をかたむけた。1938年12月22日、近衛首相が東亜新秩序についての新しい声明を出したのは、12月18日に重慶を脱出した汪兆銘の動きにこたえて、日本側の基本的態度を明らかにするためであった。

 この声明は、日本が中国と戦っているのは東亜新秩序を建設するためであり、新秩序とは「日満支三国」が結合して、「善隣友好・防共(共産主義を防ぐ)・経済提携」を実現することだと述べた。それは、中国側に、満州国の承認、防共を理由とする駐兵権、経済的利権の提供などを要求するものであり、東亜新秩序とは、中国大陸の秩序の決定権を日本がにぎる、ということにほかならなかった。汪兆銘の「国民政府」は、以前から日本がつくりあげていた占領地政権を統一して、1940年3月、南京に成立したが、日本の意のままになる政権(傀儡政権)であることは明らかであり、中国民衆の指示を得ることはできなかった。

 しかも、新秩序の声明は米英の反発を招いた。とくにアメリカの対日政策はしだいに強硬となり、1939年7月には、日米通商条約破棄を通告し(1940年1月発効)、日本の戦争経済に大きな打撃をあたえた。



張鼓峰事件とノモンハン事件

 満州事変後、ソ連は満州との国境の軍備を増強し、とくに戦車・飛行機などは、満州・朝鮮に配置された日本軍の数倍にあたっていた。したがって、中国と戦争しながらソ連とも開戦することは不可能に近かったが、ソ連に一撃を加えたいというのは陸軍の強い願望であった。そのため日中戦争中も国境線をめぐる紛争が続発し、とくに張鼓峰とノモンハンでは大規模な武力衝突に発展した。

 ソ連と満州の国境は、清朝と帝政ロシアとの古い条約に基づくもので、河川などによるおおまかな区分であり、細かくいえばいたるところ不明確であった。1938(昭和13)年7月に衝突が起こった張鼓峰は、朝鮮・満州とソ連の沿海州が接する豆満江下流にあり、日本側が満州の国境内だと主張する張鼓峰にソ連兵が進出したことから衝突が始まった。しかし、日本軍は張鼓峰を占領したものの、ソ連軍の反撃によって大損害をこうむり、モスクワでの停戦協定調印によって、ようやく事態を収拾した。戦闘は明らかにソ連機械化部隊に対する敗北であったが、軍はこれは威力偵察の作戦であり、撤退は予定の行動だとして反省するところがなかった。

 ついで翌1939(昭和14)年5月、今度は満州の北西部のノモンハン付近に進出した、外蒙古軍とのあいだに衝突が起こった。日本軍はただちに反撃に移ったが、外蒙古と同盟関係にあるソ連軍の出勤によって大損害を受けると、関東軍は独断で大規模な反撃作戦を計画した。6月から7月にかけて飛行機をも動員した総攻撃が展開され、関東軍はつぎつぎと増援部隊をつぎこんだが、戦局は不利であった。8月20日にソ連軍が大反撃に出ると、日本側は壊滅的打撃を受けて敗退した。

 冷静さを失った関東軍は、全兵力を投入して戦闘を続けようとしたが、国際情勢の激変に直面した軍中央部は、関東軍司令官以下の主要参謀を交代させてこれをおさえ、9月15日、政府は外交交渉で、停戦協定を実現させた。この事件は、極東のソ連軍によほどの変化がない限り、対ソ連に勝利することができないことを示していた。



「複雑怪奇」な欧州情勢

 ノモンハンで関東軍が苦戦している最中の1939(昭和14)年8月23日、独ソ不可侵条約が締結されたことは、日本にとってきわめて大きなショックであった。というのは、この年の1月に近衛内閣のあとを受けて成立した平沼騏一郎内閣では、ドイツとのあいだに、防共協定を軍事同盟に強化する交渉が進められており、ドイツがこの交渉を無視してソ連と手をにぎることは、まったく予想外の出来事だったからである。

 ヒトラーの率いるナチス=ドイツと日本との関係が密接となったのは、1936(昭和11)年11月に、日独防共協定が結ばれて以来であった。この協定は表面は前年7月、共産党の国際組織であるコミンテルンの第7回大会で、日独両国を主要な敵とする反ファッショ人民戦線のテーゼ(綱領)が採択されたことに対抗して、コミンテルンの活動を防ぐために協力することを約束したものであった。しかし秘密協定では、日独の1国がソ連の脅威または攻撃を受けた場合、他の1国はソ連の負担を軽くするようなことはしないことを約し、ソ連を仮敵国とみなしていた(1937年11月にイタリアが加盟)。

 しかしその後、オーストリアを併合し、チェコスロバキアを解体するという形で侵略を進め、つぎにポーランドをねらっていたヒトラーにとっては、しだいに英仏、とくにイギリスをけん制することが重要になってきた。そこでドイツは、防共協定の対象をソ連に限らない軍事同盟に発展させることを、提議してきたのだった。この提案を受けた日本側では、陸軍は、重慶の蒋介石を屈服させるためには、イギリスの援助をやめさせなければならないと考え、積極的に賛成した。しかし、海軍は、米英2国を敵とする可能性のあるこの案につよく反対し、閣議は紛糾を続けた。

 このような日本のありさまに見切りをつけたヒトラーは、一転してソ連との結びつきにふみきったのであり、おどろいた平沼内閣は、「欧州情勢は複雑怪奇」として総辞職した。日中戦争の行き詰まりと、欧州情勢の激変に直面した日本の指導層は、状況を打開するためには、新たな構想を模索しなければならなくなっていった。(古屋哲夫)

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