『帝国議会誌』第7巻

1976年1月

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第五九回帝国議会 貴族院解説


 

古屋 哲夫

 

ロンドン条約批准問題
海軍補充計画と予算編成
浜口首相狙撃事件
台湾で霧社事件おこる
第五九回議会の召集

浜口首相出席問題
「満蒙権益」をめぐって
研究会の策動と会期延長
重要法案の成否と貴族院



ロンドン条約批准問題

 第五八回特別議会が終わると、政治の焦点は枢密院におけるロンドン海軍軍縮条約批准問題に移っていった。すでに第五八回議会において、この条約で規定された兵力量で国防は安全なのか、この条約は軍令部の反対を無視して調印された点で統帥権干犯ではないの かといった論議が展開されていたが、こうした統帥権論争は兵力量を不満とする軍令部の態度をいよいよ硬化させる結果となっていた。軍令部は一貫して兵力量の対米譲歩に反対していたが、しかし、日米妥協案を原則的に承認する最後回訓案決定(4月1日)にあたっても、加藤寛治軍令部長は用兵作戦上からは困ると述べたのみで、回訓案そのものに異議を唱えてはおらず、この段階ではまだ、軍令部においても問題は統帥権干犯という形では意識されていなかったものと思われる。

  ロンドン条約をめぐる統帥権論争とは、常備兵額の実質的決定権の所在についての論争であり、浜□内閣 が決定権は政府にあるとの立場をとったのに対して、 反対派はその決定にあたっては統帥機関(海軍では軍令部)の同意を必須の条件とすると主張したのであった。後者の見解に立てば軍令部の承認していない兵力量を規定する条約に調印することは、統帥権干犯だということになった。そしてはじめは条約の兵力量には不満だが、条約の制限外の方法による兵力の補充でその欠陥を補おうとする態度を示していた軍令部は、統帥権論争の展開とともに、次第に統帥権干犯論にのって、ロンドン条約そのものに反対する方向に転じていった。と同時に、条約の審査権を握る枢密院では、平沼騏一郎副議長・伊東巳代治顧問官らが、この点をとりあげて政府に迫ろうとする動きが眼にみえてきた。

  与党民政党内部では、この際法理論的立場を明確に打出して統帥権論争に決着をつけるべきだとする声もあがったが、そのためには陸軍との対立を引き起こすことをも覚悟せねばならず、内閣としては憲法論争は回避しながら、ロンドン条約批准にこぎつけようとする方針をとらざるをえなかった。そしてそれには、軍令部をおさえて海軍部内を統一することが先決であり、 航空隊など条約制限外の兵力補充計をうけいれるこ とで軍令部との妥協をはかろうとし、岡田啓介海軍大将らの調停工作に期待をかけたのであった。

  第五八議会閉会5日後の5月19日に帰国した財部全権は、海相の立場から直ちに加藤軍令部長と会見し、意思の疎通をはかろうとしたが、両者の交渉は統帥権問題をめぐって直ちに行き詰まってしまった。以後両者の会談は5月28日まで4次にわたって行われたが、 加藤はロンドン条約調印における統帥権干犯を海相に認めさせ、将来こうしたことのない保障をとりつけたうえで、干犯を阻止しえなかった責任をとって辞職する考えであったとみられる。5月29日の非公式の軍事参議官会議では、将来の保障の問題について海相及び軍令部長から覚え書案が出されたが、海相案が兵力量決定に関しては「海軍大臣・海軍軍令部長両者間ニ意見一致シアルベキモノナリ」と述べているのに対し、軍令部長案は兵額及び編制は両者の「協同輔翼事項ニシテ、一方的ニコレヲ裁決処理シ得ルモノニアラズ」 として一挙に憲法解釈を決定づけようとするものであった。この会議では海相案を基礎とする方針が決定され、結局6月11日、加藤軍令部長が辞任することで、事態はようやく解決に向かった。その前日には海軍次官・軍令部次長の更迭が行われており、新しい海軍首脳部として、軍令部長には、呉鎮守府司令長官谷口尚真大将、同次長には海軍兵学校長永野修身中将、海軍次官には艦政本部長小林躋造中将が任命されている。 そして6月23日の軍事参議官会議ではロンドン条約調印経過に不都合な点はなかったが、将来についての不安を一掃するためとして、「海軍兵力に関する事項は従来の慣行に依り之を処理すべく此の場合に於いては海軍大臣、海軍軍令部長間に意見一致しあるべきも のとす」との覚書が作成・決定された。このことは首脳部更迭により、海軍がロンドン条約承認の線にまとまったことを意味したが、同時に、兵力量決定権は政府にあるとする理論も封じ込められてしまうこととなった。

  統帥権問題がこうした形で解決されたとしても、ロ ンドン条約の規定する兵力量が作戦計画にとって不足しているとの軍令部側の主張は残されており、海軍側は結局、補充計画と引きかえに条約を承認するという方向に固まったことになる。そしてそのことは、「今次ノ倫敦海軍条約協定ニ係ル帝国海軍兵カニ付国防用兵上支障ノ有無及之ガ対策ノ件」という天皇からの諮問に対して、軍事参議院が奉答するという形で明らかにされた。7月23日に決定・上奏された奉答文は次のように述べている。すなわち、奉答文はまずこの「条約ノ協完ニ依レバ右既定方針ニ基ク海軍作戦計画ノ維持遂行ニ兵カノ欠陥ヲ生ズ」との基本的判断を下した。そしてこの欠陥をおぎなうためには、昭和11年末までに次の対策を講ずることが必要だというのであった。

一、協定保有量ノ充分ナル活用、現存艦艇ノ勢力ノ向上及維持、制限外艦艇ノ充実
二、作戦計画ノ維持遂行ニ必要ナル航空兵カノ整備充実  
三、防備施設ノ改善、実験研究機関ノ充実、教育施設ノ改善、各種演習ノ施行、其ノ他人員器材・水陸設備・出師準備ノ充実改善
以上ノ対策ヲ講ズル場合二於イテハ当面ノ情勢二在リテ条約ノ拘束ヨリ生ズル影響ヲ緩和シ、国防用兵上支障無キヲ得ルモノト認ム」(『太平洋戦争への道』 朝日新聞社、別巻・資料篇、55頁)


 この奉答文は、浜口首相に閲覧せしめられたが、こ れに対して浜口は「軍事参議院ノ奉答セル対策ハ洵二至当ノ儀」であり「之ガ実行二方リテハ固ヨリ各閣僚ト共二慎重審議シ財政其他ノ事情ヲ考慮シ緩急按排其ノ宜シキヲ制シ更二帝国議会ノ協賛ヲ経テ之ガ実現二努力」する旨の敷奏文を7月26日に提出している(同前56頁) 。この内閣側の補充計画実行の約束によって、ロンドン条約批准の見通しは立つことになったが、 反面、内閣側は、以後緊縮財政・減税問題と海軍側の要求する補充計画との調整という課題を負わされることになった。

  浜口内閣は軍事参議院の奉答を機として、ロンドン条約批准を奏請、同条約は7月24日枢密院に諮洵された。これに対して枢密院側には反政府的空気が強く、容易に審査委員の指名を行わないのみか、8月4日には倉富議長が浜口首相を訪問し、軍事参議院奉答文を提示するよう要求するに至った。これに対し浜口は、奉答文は内覧を許されただけで写しは存在せず、また元来復写や内容の他言も許されない性質のものであるとしてこの要求を拒絶したが、政府と枢密院の関係は険悪なものとなっていった。枢密院議長が伊東巳代治委員長以下の審査委員の指名を行ったのは、諮洵検2週間余をすぎた8月11日であり、委員会は8月23日の第二回委員会から実質審議にはいり、9月15日の第一一回委員会まで激しい質疑がくり返された。この間、委員側からは、さきの奉答文提示要求がくり返 されたのをはじめ、加藤前軍令部長の出席、海軍補充計画の提示などの要求が出されたが、政府はそのいずれをも拒否しており、この政府側の強硬な態度によって両者の関係は決裂状態におちいった。9月15日の委員会で質疑打切りとなった時点では、審査委員会は「審査休止」を決議し、さらに政府が期限付審査を要求してきた場合には、参考資料欠如の故に今日の状態では可否を決し難いとの決議を行うとの戦術に出るの ではないかとみられていた。

  しかし肝心の海軍首脳部が条約承認の方向を打出している以上、枢密院側に政府攻撃のきめ手はなく、また顧問官中には条約支持の態度を明らかにしている者もあり、閣僚も票決権をもつ枢密院本会議で反政府派 が勝利する見込みも立たなかった。こうした情勢をみた伊東審査委員長らはこれまでの態度を一変させ、9月17日の第一二回委員会で条約批准案は全員一致で可決されるに至った。10月1日の本会議に提出された審査報告書は、政府の参考資料提示拒絶を「甚だ遺憾なり」としながらも「関係大臣が国防補充計画を遂行し、かつ国民負担軽減を実行して、本条約の目的を達成するに遺憾なきを期すとの言責を信頼し、その他本条約の条項概ね支障のかどなきを以て、本件は全会一致可決すべきものと議決せり」と述べていた。本会議はこの報告を全会一致で承認し、翌2日天皇は条約を批准、ここにロンドン条約批准問題もようやく完全に解決されることになった。これを機会として、10月3日財部海相は辞任し、後任に軍事参議官安保清種大将が任命された。



海軍補充計画と予算編成

 ロンドン条約批准の見通しが立つと次の問題は、軍縮余剰金を減税と海軍補充計画に如何に配分するかということであった。もちろん政府与党は国民負担の軽減という条約の名分から言ってもできるだけ多額の減税を行おうとするのに対して、海軍側は充分な補充計画の実行を要求していた。なお昭和6年度よりロンドン条約有効期限の昭和11年度まで財政計画上予定されていた建艦費のうち、この条約により節減されるの は5億800万円であった。

  すでに谷口新軍令部長就任以来、財部海相との間に補充計画をめぐる折衝がつづけられていたが、9月末 には海軍省軍令部間で昭和11年度までの継続費として4億5000万円を要求する方針が内定したと伝えられた(東朝、9・26)。これに対して大蔵省は10月19日補充計画3億1300万円、減税1億9500万円とする査定案を作成したが、海軍側は満足せず、結局11月9日に至り補充計国費3億7400万円で妥協が成立、従って減税額は1億3400万円ということになった(いずれも6ヶ年の総額)。なお補充計画費の内訳は、艦艇建造費2億1800万円、航空隊拡張費9000万円、装備施設充実費6600万円 となっており、また減税は地租を中心に営業収益税・砂糖織物両消費税などについて実施することとなった。 しかしいずれにせよ、軍縮余剰金の7割余を海軍補充計画に奪われたことは、大幅な国民負担の軽減によって軍縮政策への国民の支持を獲得しようという浜口内閣の思惑にとっては大きな打撃にちがいなかった。

  昭和6年度予算編成にとって、減税・補充計画以上 に大きな問題となったのは、不景気対策であった。それはまず積極的な対策を打出す以前に、不景気による税収の減少、いわゆる歳入欠陥をどう処理するのかという問題を解決することからはじめねばならなかった。 浜口内閣はすでに、施行予算(議会解散で昭和5年度予算案が成立しなかったため前年度予算が施行された)の歳入額18億1428万円を、16億863万円に圧縮 した形で昭和5年度実行予算を編成していたが、春以降の不況は予想をこえて深刻化しており、6月には大蔵省は実行予算を更に8000万円節減する方針を打出さざるを得なくなった。そして7月18日の閣議では約6000万円分の節減(経費削減約1900万円、 繰延約4100万円)を決定したが、こうした歳入の減少は昭和6年度には更に著しくなるものと予想され、予算編成にあたっては、1億2000万円の減収が見込まれることになった。11月11日の閣議で決定された昭和6年度予算概算総額は14億4000余万円でありご政友会内閣の編成した昭和4年度予算にくらべると約3億2000余万円、20%近く圧縮されたものになっていた。

  こうした緊縮財政のもとでは積極的な不況対策を打出すことは極めて困難であった。浜口内閣が金解禁に対応する形で打出していた経済政策は国産品愛用と産業合理化であり、ある程度の不況を覚悟して日本経済の体質強化をねらったものであった。しかし世界大恐慌という予想外の事態に直面し、不況が深刻になってくると、手をこまねいて事態を傍観するわけにもゆかず、といって、金解禁=金本位制堅持という基本線をくずさない限り、不況と共に財政難も深化するのでありこの面からも積極政策の余地は極めて限られてくるのであった。結局のところ浜口内閣のとりえた積極的対策は、非募債主義を一時停止し、昭和6年度限りということで、一般会計で2200万円、特別会計で1200万円の公債を発行して失業救済事業を行うという程度のことにとどまらざるをえなかった。

  不況は一般産業における以上に農業部門において深刻となっていたが、とくにこの年は米の大農作という事態がかさなり、米価問題が政治問題化しつつあった。 農林省が発表した10月末日現在における収穫予想高 は6530万石であり、最近5ヶ年の平均収穫高(5、 945万石) にくらべて580万石も上廻る大豊作であった。しかし米穀需給調節特別会計の資金は限界に達しており、余剰米すべてを買上げる力はなかった。 政府の打出した対策は、政府買上げ200万石、府県・産業組合等にもみ・玄米貯蔵のための低利資金の融通、 朝鮮米の移入防止等であり、米価の下落を支えることはできなかった。こうした事態のなかで、米穀政策の根本的再検討の声が高まり、第59回議会には、米穀法及び米穀需給調節特別会計法改正案が提出されることになっている。

  第59回議会では、以上みてきたような、海軍補充計画とその前提となる軍事参議院の奉答文及び浜口首相の敷奏文、減税計画、歳入減見積り問題、失業対策、 非募債主義の放棄、米価問題及び農村対策といった問題点は、繰返し論議の対象としてとりあげられ、政府批判の中心テーマとなるものであった。



浜口首相狙撃事件

  昭和6年度予算案の大綱が決定した直後の11月14日、浜口首相が東京駅で狙撃されるという事件がおこった。浜口は岡山県下に挙行中の大演習陪観のため、午前9時発特急「つばめ」に乗車すべくプラットフォームを歩行中、待ちかまえていた愛国社員佐郷屋留雄 (23歳)にモーゼル式六連発拳銃で狙撃され、銃弾を下腹部にうちこまれたのであった。愛国社は岩田愛之肋の主宰する右翼団体であり、佐郷屋は政教社のパンフレット「統帥権問題詳解」・「売国的回訓案の暴露」 などを読み、痛憤してこの挙に及んだものであった。 いわば、ロンドン条約を強い姿勢で批准にまで待ち込んだ浜口首相に対する、右翼陣営からの反撃とも言うべき事件であった。

  浜口は意識は明瞭で、「男子の本懐」と語ったと報ぜられたが、直ちに東大病院に運ばれ、腸の縫合手術 をうけた。銃弾は大血管を外れており、経過は良好と伝えられた。しかし、第59回議会に登院するまで、 面会禁止の状態がつづけられており、政府の側から楽観的情報が伝えられるだけで、正確な病状は不明であった。

  政府与党首脳部は、内閣官制による総理大臣臨時代理をおいてこの事態をのりろうとした。内閣官制第8条は「内閣総理大臣故障アルトキハ他ノ大臣臨時命ヲ承ケ其ノ事務ヲ代理スベシ」と規定していた。しかし誰を臨時代理とするかは、浜口の後継者問題とからめて与党内を紛糾させるおそれのある問題であった。そこで政府側では江木翼鉄相が中心となり、早くも 翌15日午前の閣議で宮中席次上位者である幣原外相を首相臨時代理とすることが決定された。新聞はこの閣議の模様を次のように報じている。

 

「(まず)江木鉄相から、浜口首相の病状から見てこの際内閣官制第8条により総理大臣臨時代理を置くことが適当と思ふ、と提議した所、首相の容体を見極むため一部の閣僚から今少し延期してはどうかとの意見も出たが多数賛成したので、鉄相は更に、首相臨時代理は宮中席次によれば宇垣陸相であるが、陸相は病気だから幣原外相に御苦労を願ふこととしたい、旨を再び提議し満場異議なくこれに賛成した。よって幣原外相は、各位の御意向であれば御受けはするが、これは単純なる内閣官制第8粂による代理といふ意味において御受けするのだからこの点予め御諒承をこふ、旨を述ぶる所があった。よって各閣僚は外相の意を諒とし、いよいよ同じ議会に臨む場合において尚浜口首相の出席が不可能のやうな際は改めて考慮することを申合せて正午散会した」 (東朝、11・16付夕刊)。

 この申合せにより、第59回議会の初めからは浜口首相の出席が不可能であることが判明すると、再び臨時代理問題が再検討され、民政党内部も大きく動揺したが(この点については「第59回議会衆議院解説」参照)、 結局幣原を臨時代理としたままで議会にのぞむことに なっている。

  なお、宮中席次最上席者の宇垣陸相の場合には、第58回議会でも会期の殆んどを入院中でその出席が問題となったが、議会後病状は再び悪化し再入院が必要となり、6月14日宇垣は辞意を表明した。しかし浜口首相はロンドン条約問題が紛糾しているこの時点では、陸軍最大の実力者である宇垣を閣内に留めておくことを必要として極力慰留、結局宇垣は留任し、6月16日陰軍次官阿部信行中将を無任所の国務大臣に任命、陸軍大臣臨時代理の任にあたらせるという形がとられていた(軍務局長・杉山元少将が陸軍次官心得となる)。このような面倒な手続がとられたのは、宇垣が武官でない国務大臣が陸相兼任又は陸相事務管理となることに反対していたからであった(「第58回議会衆議院解説」参照)。阿部信行の臨時代理が解任されたのは12月8日であり、浜口首相が狙撃された11月14日には、宇垣陸相はまだ臨時代理を立てて療養中の身であった。



台湾で霧社事件おこる

  国内政局がこうしてさまざまにゆれ動いている時、台湾中部・台中州霧社地区で原住民・高山族の大規模な暴動がおこり、浜口首相が狙撃された時には、まだ軍隊による討伐作戦が展開されているさなかであった。

  暴動は10月27日午前3時頃から駐在所襲撃の形ではじまり、朝までに12ヶ所の駐在所をかいめつさせ、さらに霧社警察分室を襲って銃器・弾薬を奪った。つづいて連合運動会のためこの地区の日本人のほとんどが集まっていた霧社公学校を襲い、たちまちのうちに霧社地区を制圧した。襲撃に参加したのは、この地区の高山族部落11社のうち6社(計280戸、総人口 1236人)・壮丁3〜4百名であり、日本人134名が殺害された。当時霧社在住の日本人は36戸、157名であったが、当日は運動会のため霧社の日本人は227名に達していたといわれる。

  この暴動が支配者としての日本人に対する反抗であったことは、襲われたのが日本人に限られたことからも明らかであった。漢族系台湾人も23戸110名が居住し当日は142名が居たが、殺されたのは2名であり、それも日本人とまちがえられたからであった。 暴動の原因としては、学校・駐在所の建改築、道路・橋・水路など土木工事への狩出しと虐待・酷使、低賃金の上にその天引き・横領、日本人警察官と現地女性との関係など種々の事情が数えられているが、それらの背景には、高山族居住地が特別行政区として警察の専制的支配下におかれているという問題が存在していた。このことは第59回議会の貴族院でも論議されており、東京朝日は次のように論じていた。

 

「世人は貴族院予算総会における花井博士と松田拓相の質問応答において、台湾に帝国憲法が行はるるや否やが問題であり、帝国領土内に法律の行はれざる特別行政区域なるものがあり、帝国臣民中にも憲法政治の慶沢に浴していない者が存していることを 聞いて驚いたであらうと思ふ。……かくの如き答弁を国務大臣が帝国議会でしゃあしゃあとしているほど、台湾の蕃地行政といふものは、立憲治下にあり得べからざる無法規状態なのである。警察官の専制政治なのである。……
特別行政区域は、警察官の治外法権区域である。憲法法律も行はれず、裁判にもよらずして蕃人の生命財産は自由にされていたものである。かくの如き状態の暴露こそ霧社事件であるとすれば、これが善後の対策は、従来の警察万能の専制政治を幾分なりと も、法規の下に律して、いふところの撫蕃授産の方面に警察以外の手を参加せしむることでなければならぬ」 (東朝、昭6・3・1社説)  


  暴動に対する鎮圧も、こうした警察支配を裏書きするかのように残酷な軍事攻撃として実行された。警察部隊が霧社に到着したのは事件発生後二昼夜をすぎた29日朝であったが、以後軍隊も続々と集結、マヘボ渓上流の岩窟に退いて長期戦のかまえをとった高山族に対して、12月初めまで約1ヶ月にわたり機関銃・ 山砲から催涙弾、飛行機による爆撃と近代兵器による猛攻撃を加えている。おいつめられた高山族は次々と縊死などの方法で自殺し、抵抗の意思の強固さを示した。この自殺者が多数にのばったことはこの事件の特色であり、松田拓相も2月5日の貴族院本会議において、「御承知ノ通り蕃人ハ死体ヲ遺棄イタシマセヌカラ、確実ナル数ハ明瞭デアリマセヌケレドモ、反抗ノ為二死シタル者ガ約100名位デアリマス、ソレカラ縊死其他自殺ヲシタル数ガ450人位デアリマス」(速記録第11号)と答えている。

  霧社事件は第59回議会でも重要問題の1つとして論議され、貴族院本会議でも、湯地幸平(勅選・研究会)川村竹治(勅選・交友倶楽部)、志水小一郎(勅選・研究会)、井上清純(男爵・公正会)などが質問を行っているが(速記録第7、9〜11、14号参照)、植民地支配の根本を再検討しようとする論議は展開されずに終わっていた。



第五九回議会の召集

  第五九回議会は通常会として昭和5年12月24日に召集され、会期は12月26日の開院式から90日、昭和6年3月25日までであったが、後述するような貴族院の紛糾のため2日間延長され、3月27日に終了した。この議会は浜口内閣にとっては、第五七・五八回議会につぐ3度目の議会であったが、第五七回議会は解散、第五八回議会は総選挙後の特別議会であり、 この内閣の政策を全面的に展開する最初の機会とみられていた。しかし浜口首相の遭難により、幣原外相を首相臨時代理として会期の大半を過ごさねばならなかったことは、政府与党にとって大きな負担となっていた。

  12月26日の開院式のあと、勅語奉答文の作成と全院委員長の選挙が行われ、全院委員長には近衛文麿が当選した。しかし休会中の昭和6年1月15日蜂須賀副議長の任期(7年)が満了となり、翌16日近衛が副議長に任命され、全院委員長を辞任したため、休会あけの1月22日、改めて選挙を行い松平頼寿が当選した。その結果この議会における議長、副議長、全院・常任委員長や政府側委員の顔振れは次のようなものとなった。

議長   徳川 家達(公爵・火曜会)
     
副議長   蜂須賀 正昭(侯爵・研究会)
  (昭6・1・16任命) 近衛 文麿(公爵・火曜会)
     
全院委員長   近衛 文麿(同・前)
  (昭6・1・22再選挙) 松平 頼寿(公爵・研究会)
     
常任委員長 資格審査委員長 柳原 義光(伯爵・研究会)
  予算委員長 林 博太郎(伯爵・研究会)
  懲罰委員長 松木 宗隆(伯爵・研究会)
  請願委員長 清岡 長言(子爵・研究会)
  決算委員長 紀 俊秀(男爵・公正会)
     
国務大臣 内閣総理大臣 浜口 雄幸
  外務大臣 幣原 喜重郎
  総理大臣臨時代理(兼任) 幣原 喜重郎
 

(昭5・11・15〜昭6・3・9)

  内務大臣 安達 謙蔵
  大蔵大臣 井上 準之助
  陸軍大臣 宇垣 一成
  海軍大臣 安保 清種
  司法大臣 渡辺 千冬
  文部大臣 田中 隆三
  農林大臣 町田 忠治
  商工大臣 俵 孫一
  逓信大臣 小泉 又次朗
  鉄道大臣 江木 翼
  拓務大臣 松田 源治
     
政府委員(12・24発令)  
  内閣書記官長 鈴木 冨士弥
  法制局長官 川崎 卓吉
  法制局参事官 黒崎 定三
  金森 徳次郎
  外務政務次官 永井 柳太郎
  外務参与官 織田 信恒
  外務書記官 松宮 順
  内務政務次官 斉藤 隆夫
  内務参与官 一宮 房次郎
  内務書記官 唐沢 俊樹
  大蔵政務次官 小川 郷太郎
  大蔵参与官 勝 正憲
  大蔵省主計局長 藤井 真信
  大蔵省主税局長 青木 得三
  大蔵省理財局長 富田 勇太郎
  大蔵省銀行局長 大久保 偵次
  大蔵書記官 川越 丈雄
  関原 忠三
  陸軍政務次官 伊東 次郎丸
  陸軍参与官 吉川 吉郎兵衛
  陸軍主計総監 中村 精一
  陸軍少将 小磯 国昭
  陸軍一等主計正 矢部 潤三
  海軍政務次官 矢吹 省三
  海軍参与官 栗山 博
  海軍主計中将 加藤 亮一
  海軍少将 堀 悌吉
  海軍主計大佐 佐々木 重蔵
  司法政務次官 川崎 克
  司法参与官 井本 常作
  司法書記官 近藤 三郎
  文部政務次官 野村 嘉六
  文部参与官 大麻 唯男
  文部書記官 河原 春作
  農林政務次官 高田 耘平  
  農林参与官 山田 道兄
  農林書記官 田淵 敬治
  商工政務次官 横山 勝太郎
  商工参与官 野田 文一郎
  商工書記官 長崎 栄十郎
  逓信政務次官 中村 啓次郎
  逓信参与官 福田 五郎
  逓信省経理局長 大橋 八郎
  鉄道政務次官 黒金 泰義
  鉄道参与官 山本 厚三
  鉄道省経理局長 後藤 悌次
  拓務政務次官 小坂 順造
  拓務参与官 武富 済
  拓務書記官 大磐 誠三
  朝鮮総督府政務総監 児玉 秀雄
  朝鮮総督府財務局長 林 繁蔵
  台湾総督府総務長官 人見 次郎
  台湾総督府財務局長 池田 蔵六
  関東庁財務部長 西山 左内
  樺太庁長官 県 忍
  南洋庁長官 横田 郷助
     
政府委員追加(会期中発令)  
  内務省地方局長 次田 大三郎
  内務省警保局長 大塚 惟精
  内務省土木局長 三辺 長治
  内務省衛生局長 赤木 朝治
  社会局長官 吉田 茂
  北海道庁長官 池田 秀雄
  司法省民事局長 長島 毅
  司法省刑事局長 泉二 新熊
  鉄道省監督局長 丹羽 武朝
  鉄道省建設局長 黒河内 四郎
  鉄道省工務局長 大河戸 宗治
  拓務省監理局長 生駒 高常
  農林省農務局長 石黒 忠篤
  農林省山林局長 平熊 友明
  逓信省郵務局長 山本 直太郎
  商工省工務局長 吉野 信次
  商工省鉱山局長 福田 康雄
  商工省貿易局長 立石 信郎
  海軍少将 寺島 健
  文部省専門学務局長 赤間 信義
  文部省普通学務局長 篠原 英太郎
  文部省学生部長 伊東 延吉
  農林省蚕糸局長 小平 権一
  商工省商務局長 川久保 修吉
  製鉄所長官 中井 励作
  大蔵書記官 野津 高次郎
  賀屋 興宜
  農林省水産局長 長瀬 定一
  農林省畜産局長 戸田 保忠
  内務書記官 鈴木 敬一
  臨時産業合理事務官 武内 可吉
  簡易保険局長 園田 栄五郎
  大蔵省専売局長官 平野 亮平
  大蔵省専売局部長 佐々木 謙一郎
  逓信省管船局長 広幡 忠隆
  司法書記官 森田 豊次郎
  逓信省電気局長 富安 謙次
  農林書記官 村上 龍太郎
  荷見 安
  井野 碩哉
  社会局部長 大野 緑一郎
  石原 雅二郎
     
会派別所属議員氏名  
開院式当日各会派所属議員数  
  研究会 149名
  公正会 66名
  交友倶楽部 42名
  同和会 34名
  同成会 27名
  火曜会 27名
  会派に属しない議員 55名
  400名
     
研究会    
  黒田 長成
  蜂須賀 正韶
  大久保 利武
  林 博太郎
  堀田 正恒
  川村 鉄太郎 
  樺山 愛輔
  奥平 昌恭
  小笠原 長幹
  柳沢 保恵
  柳原 義光
  松木 宗隆
  松浦 厚
  松平 頼寿
  二荒 芳徳
  児玉 秀雄
  酒井 忠克
  酒井 忠正
  黒木 三次
  溝口 直亮
  有馬 頼寧
  稲垣 太祥
  伊集院 兼知
  伊東 祐弘
  伊東 二郎丸
  井上 匡四郎
  五辻 治仲
  今城 定政
  池田 政時
  石川 成秀
  岩城 隆徳
  八条 隆正
  花房 太郎
  西尾 忠方
  西大路 吉光
  保科 正昭
  戸沢 正己
  豊岡 圭資
  渡辺 七郎
  渡辺 千冬
  片桐 貞央
  吉田 清風
  米津 政賢
  米倉 昌達
  高倉 永則
  滝脇 宏光
  立花 種忠
  冷泉 為男
  曽我 祐邦
  鍋島 直縄
  裏松 友光
  野村 益三
  大浦 兼一
  大久保 立
  大河内 輝耕
  櫛笥 隆督
  柳生 俊久
  薮  篤麿
  松平 直平
  松平 康春
  前田 利定
  牧野 忠篤
  牧野 一成
  舟橋 清賢
  藤谷 為寛
  井伊 直方
  青木 信光
  秋月 種英
  秋田 重季
  秋元 春朝
  綾小路 護
  清岡 長言
  三室戸 敬光
  白川 資長
  新庄 直知
  樋口 誠康
  東園 基光
  毛利 高範
  森 俊成
  織田 信恒
  土岐 章
  梅小路 定行
  梅園 篤彦
  三島 通陽
  植村 定治
  岡部 長景
  毛利 元恒
  市来 乙彦
  馬場 ^一
  西野 元
  富谷 ヌ太郎
  若林 賚蔵 
  勝田 主計
  金杉 英五郎
  内藤 久寛
  馬越 恭平
  藤山 雷太
  小松 謙次郎
  木場 貞長
  湯地 幸平
  宮田 光雄
  志水 小一郎
  鈴木 喜三郎
  坂西 利八郎
  大橋 新太郎
  山川 端夫
  太田 政弘
  塚本 清治
  岡崎 邦輔
  若尾 璋八
  大谷 尊由
  三井 清一郎
  山岡 万之助
  藤原 銀次郎
  八田 嘉明
  根津 嘉一郎
  佐賀 石川 三郎
  長野 今井 五介
  宮城 伊沢 平左衛門
  新潟 五十嵐 甚造
  島根 糸原 武太郎
  千葉 浜口 儀兵衛
  和歌山 西本 健次郎
  群馬 本間 千代吉
  北海道 金子 元三郎
  石川 横山 章
  大阪 田村 駒治郎
  宮崎 高橋 源治郎
  東京 津村 重舎
  静岡 中村 円一郎
  高知 宇田 友四郎
  鳥取 奥田 亀造
  東京 山崎 亀吉
  長野 小林 暢
  岡山 佐々木 志賀二
  長崎 沢山 精八郎
  新潟 斉藤 喜十郎
  奈良 北村 宗四郎
  徳島 三木 与吉郎
  福井 森 広三郎
  大阪 森 平兵衛
  鹿児島 奥田 栄之進
  千葉 菅沢 重雄
  福岡 富安 保太郎
  北海道 板谷 宮吉
  兵庫 八馬 兼介
  神奈川 上郎 清助
  京都 風間 八左衛門
  山梨 名取 忠愛
     
公正会    
  伊藤 安吉
  伊藤 文吉
  伊江 朝助
  今枝 直規
  今園 国貞
  岩倉 道倶
  池田 長康
  稲田 昌植
  井上 清純
  西 紳六郎
  東郷 安
  千秋 季隆
  長 基連
  渡辺 修二
  神山 郡昭
  金子 有道
  高木 喜寛
  高崎 弓彦
  辻 太郎
  鍋島 直明
  南部 光臣
  中島 久万吉
  上田 兵吉
  野田 亀吉
  大井 成元
  大鳥 富士太郎
  大寺 純蔵
  小原 (馬+全)吉
  小畑 大太郎
  沖 貞男
  黒田 長和
  矢吹 省三
  松岡 均平
  船越 光之丞
  福原 俊丸
  藤村 義朗
  郷 誠之助
  近藤 滋弥
  寺島 敏三
  有地 藤三郎
  赤松 範一
  足立 豊
  坂本 俊篤
  阪谷 芳郎
  佐藤 達次郎
  木越 安綱
  紀 俊秀
  北河原 公平
  北大路 実信
  北島 貴孝
  斯波 忠三郎
  千田 嘉平
  関 義寿
  周布 兼道
  上村 従義
  長松 篤(非+木)
  三須 精一
  深尾 隆太郎
  松尾 義夫
  井田 磐楠
  中村 謙一
  肝付 兼英
  平野 長祥
  園田 武彦
  松村 義一
  京都 田中 一馬
     
交友倶楽部 勅男 山本 達雄
  勅男 北里 柴三郎
  犬塚 勝太郎
  石渡 敏一
  橋本 圭三郎
  花井 卓蔵
  和田 彦次郎
  川村 竹治
  玉利 喜造
  高橋 琢也
  竹越 与三郎
  中村 純九郎
  室田 義文
  大山 綱昌
  岡 喜七郎
  山之内 一次
  安楽 兼道
  佐藤 三吉
  鮫島 武之助
  水上 長次郎
  水野 錬太郎
  南 弘
  土方 寧
  内田 重成
  大川 平三郎
  鵜沢 総明
  小久保 喜七
  桑山 鉄男
  長岡 隆一郎
  中川 小十郎
  山口 林 平四郎
  青森 鳴海 周次郎
  福岡 太田 清蔵
  鹿児島 藤安 辰次郎
  神奈川 小塩 八郎右衛門
  熊本 坂田 貞
  広島 森田 福市
  岡山 山上 岩二
  茨城 瀬谷 勇三郎
  滋賀 吉田 羊治郎
  山形 佐藤 信古
  福島 根本 祐太郎
     
同和会 勅男 幣原 喜重郎
  浅田 徳則
  大島 健一
  嘉納 治五郎
  真野 文二
  石塚 英蔵
  内田 嘉吉
  武富 時敏
  若槻 礼次郎
  森 賢吾
  原 保太郎
  藤田 四郎
  上山 満之進
  仁尾 惟茂
  阪本 ソ之助
  倉知 鉄吉
  川崎 卓吉
  安立 綱之
  川上 親晴
  田所 美治
  岡田 文次
  永田 秀次郎
  徳富 猪一郎
  服部 金太郎
  木村 清四郎
  稲畑 勝太郎
  赤池 濃
  野村 徳七
  関 直彦
  有吉 忠一
  静岡 尾崎 元次郎
  広島 松本 勝太郎
  三重 小林 嘉平治
  岩手 瀬川 弥右衛門
     
同成会 勅子 実吉 安純
  伊沢 多喜男
  高田 早苗
  鍋島 桂次郎
  福原 鐐二郎
  江木 翼
  三宅 秀
  菅原 通敬
  菊池 恭三
  青木 周三
  渡辺 千代三郎
  加藤 政之助
  大津 淳一郎
  井上 準之助
  片岡 直温
  愛知 磯貝 浩
  福島 橋本 万右衛門
  茨城 浜 平右衛門
  兵庫 田村 新吉
  富山 高広 次平
  秋田 土田 万助
  岐阜 長尾 元太郎
  沖縄 大城 兼義
  愛媛 八木 春樹
  埼玉 斉藤 善八
  熊本 沢田 喜彦
  大分 平田 吉胤
     
火曜会 徳川 家達
  徳大寺 公弘
  近衛 文麿
  鷹司 信輔 
  一条 実孝
  伊藤 博邦
  嵯峨 公勝
  松平 康昌
  山内 豊景
  池田 仲博
  西郷 従徳
  四条 隆愛
  鍋島 直映
  広幡 忠隆
  徳川 圀順
  野津 鎮之助
  小村 欣一
  中御門 経恭
  菊亭 公長
  細川 護立
  佐竹 義春
  木戸 幸一
  佐々木 行忠
  大隈 信常
  久我 常通
  徳川 頼貞
  中山 輔親
     
会派に属さない議員 雍仁 親王
  宣仁 親王
  載仁 親王
  邦 芳 王
  博 恭 王
  博 義 王
  武 彦 王
  垣 憲 王
  邦 英 王
  朝 融 王
  守 正 王
  多 嘉 王
  鳩 彦 王
  稔 彦 王
  恒 徳 王
  春 仁 王
  永 久 王
  西園寺 公望
  毛利 元昭
  九条 道実
  島津 忠重
  大山 柏
  三条 公輝
  山県 有造
  浅野 長勲
  前田 利為
  小松 輝久
  醍醐 忠重
  山階 芳麿
  井上 三郎
  勅 男 松井 慶四郎
  勅 伯 内田 康哉
  福永 吉之助
  渡辺 暢
  樺山 資英
  松本 蒸治
  二上 兵治
  新渡戸 稲造
  末延 道成
  磯村 豊太郎
  藤田 謙一
  佐竹 三吾
  松浦 鎮次郎
  本山 彦一
  村山 龍平
  後藤 文夫
  湯川 寛吉
  各務 鎌吉
  上田 万年
  田中 館愛橘
  小野塚 喜平次
  藤沢 利喜太郎
  埼玉 斉藤 安雄
  愛知 下出 民義
  栃木 見目 清


浜口首相出席問題

 浜口首相が負傷療養中で出席できず、民政党員でもない幣原外相が首相代理として議会にのぞむというのは全く異例な事態であった。衆議院では冒頭からこの異例なやり方に対する批判が野党から展開されているが、貴族院においても、首相代理とは何かという論争がくり返されることになった。例えば、1月29日の本会議において池田長康(男爵・公正会)は、浜口首相 と幣原首相代理との間に代理関係があるのかという問題をとりあげ、幣原が浜口と関係なしに総理大臣としての職を完全に行うというのならば、代理関係は存在しないではないか、こうした首相代理が長くつづけば百弊の因となると論じた(速記録第六号参照)。

  これに対して政府側は、幣原首相代理の職務上の行為については、代理が解かれた後、浜口首相が責任をとるとだけ述べ、法理上の問題を回避した。しかし幣原が施政方針演説の冒頭で、浜口首相の経過は良好であり、「遠カラズ当議場ニ出席シ、御目ニ掛ルコトガ出来ルデアラウト存ジマス」(速記録第二号)と述べているように、首相自身がこの会期中には出席できるというのが、首相代理を立てて議会にのぞむ際の前提と なっていた。従って何時、浜口が出席するのかが次第に政治問題化してくることは必然であった。

  2月3日の衆議院予算総会における、幣原失言問題(「第五九回議会衆議院解説」参照)が12日に至って解決すると、野党側は次の問題として、首相の出席を強く要求するようになった。貴族院においても、2月17日最大の会派である研究会が、首相出席時期について緊急質問を行うとの方針を立て、政友会系の交友倶楽部がこれに同調する動きを示した。すでにこの日、 衆議院では予算案が委員会を通過して本会議に上程されており、政府側としても遠からず出席という答弁をくり返すわけにはゆかなくなっていた。そこで緊急質問に先手を打ち、2月19日の貴族院本会議で幣原首相代理は「三月上旬」には登院することができると言明するに至った。しかし会期90日のうち70日をす ぎての登院では、たんに顔を出したという程度にとどまるではないかとする批判もあらわれた。2月28日の貴族院予算総会において花井卓蔵(勅選・交友倶楽部)は次のように述べている。

  「予算会議ガ終ッテ後ニ議院ニ顔ヲ出サレルト言フコトガゴザイマシテモ、是ハ実ハ形式ニ顔ヲ出サルト言フニ止マルノデアリマシテ、輔弼ノ名分ニ鑑ミラレテ、我々協賛機関ト輔弼機関ノ首班タル浜口氏ト、政治的ニ意見ヲ交換スル機会ハ早ク既ニ去ッテシマウノデアリマス、三月上旬ナラバ、早ク既ニ去ッテシマッタト言ッテモ宜シイノデアリマス。私ハ浜口氏ノ責任感ノ強キヲ信ズルガ故ニ、而シテ現内閣ガ政治ノ公明ヲ高調セラルルガ故ニ、浜口氏ハ此際静ニ病ヲ養ハレテ、而シテ其後継ヲ奏薦セラレテ、平常責任感ノ強キ浜口氏ヲシテ浜口氏タラシムルノ途ヲ講ゼラルルノガ当然デハアルマイカト考ヘルノデアリマス」 (「予算委員会議事速記録」第九号)

  当時浜口は政党政治家の第一人者として一定の尊敬を集めていたのであり、花井の論旨もまた、かかる大政治家を無理やり議場に引出してその生命を縮めることは国家のため損失であり、むしろこの際辞職して責任ある政治家としての立場を一貫さすべきであるというにあった。しかし政府与党は、形式的にせよ浜口を出席させることによって、ともかくも政変を避けて議会をのり切ろうとしていた。

  浜口の病状は政府側の楽観的言明に反して回復がおくれていた。当初3月3・4日と言われていた登院も、3月上旬ぎりぎりになってようやく実現するありさまであった。3月9日幣原首相代理と共に参内した浜口首相は(この日をもって首相代理を解任)、10日衆議院本会議・貴族院予算総会、11日衆議院予算総会・貴族院本会議に出席して挨拶したが、すぐ下痢のため寝込むという状態であった。東京朝日は3月10日付紙面に「浜口首相を殺すな」との社説をかかげ、「野党の如何なる攻撃にも堪へ得るまでに健康が回復していないで、浜口首相が出席するといふことは、形式はその責任を尽くしているようであって、実際は議会の機能を停止せしむるがための作戦と異らないのである」 と論じた。しかし政府与党は首相の答弁時間を出来るだけ縮めるというやり方でこの議会をのり切っていった。新聞は10日から20日に至る首相の延べ登院時間6時間43分と報じた(東朝、3・22)。貴族院について言えば、首相が出席したのは3月10日予算総会、11日本会議、13日本会議、20日減税関係法案特別委員会、23日予算総会、25日減税関係法案特別委員会の6回であり、そのうち答弁に立ったのは、後半の3回にすぎなかった。

  しかしこのわずかな登院も、浜口の病状を悪化させることとなり、議会閉会二週間後の4月13日には浜口内閣は総辞職、浜口は8月26日死去した。



「満蒙権益」をめぐって

  この議会では、すでにふれたように、統帥権・海軍補充計画・陸軍軍制整理・不景気・失業問題・霧社事件・減税問題などが論議の対象としてとりあげられているが、さらにもう一つ、中国問題、とくにいわゆる満蒙権益をめぐる論戦の熱度が高まってきたことが注目されなくてはならない。

  1930(昭和5)年4月、中国では蒋介石対閻錫山・馮玉祥連合軍の内戦がはじめられたが、10月には蒋介石軍の勝利に終わり、11月12日より18日に至る国民党第四次全体会議において蒋を中心とする国民政府の地位はより強固なものとなっていった。そして同時にそのことは、中国側の半植民地状態打破への要求がいよいよ強まることを意味していた。全体会議直後の11月25日には国民政府は漢口の日本租界回収を提議した。日本側はこの提議は無視したが、治外法権撤廃に関する交渉に全く応じないわけにはゆかなくなった。そしてこの第五九回議会末期の3月12日、王正廷外交部長と重光葵代理公使との間に法権問題をめぐる交渉が開始されたが、漸次的撤廃という日 本案に対して、中国側は即時無条件撤廃を主張、交渉は容易に進展しそうになかった。

  こうした中国側の利権回収要求の強化は、満鉄の経営状態悪化という問題を媒介として、日本側に「満蒙の危機」というイメージを生み出すことになった。

  満州の支配者張学良は、内戦の中途から蒋介石支持に踏み切って陸海空軍副司令の地位につき、満州の軍事権を掌握していたが、外交・経済等軍事以外の側面では満州が国民政府中央のもとに統合されてゆく傾向は明らかであった。

  いっぽう満鉄経営の悪化は昭和5年末には、収益の半減、株式配当の一割一分から六分への転落という形であらわれていた。その直接の原因は世界大恐慌の波及と世界的な銀の暴落にあり、とくに銀の暴落は銀建ての中国側鉄道の運賃を金建ての満鉄運賃よりも著し く低廉なものとすることになっていた。しかし日本側で問題とされたのは、こうした純経済的条件そのものではなく、その作用を倍加させ、あるいはそれを利用する形で中国の満鉄圧迫政策が展開され強化されているという点であった。例えば朝日新聞から鉄道問題視察のため満州に派遣された武内文彬記者は、そのレポートを「満蒙における支那側の満鉄に対する挑戦的圧迫政策は、満鉄を戦りつすべき状態に直面せしめ、満鉄を満蒙経営の根幹とするわが満蒙政策もまたしたがって、恐るべき破綻の危機に直面した」と書き出している・そして「この視察の結果驚いたのは、支那鉄道の満鉄対抗策が、予期以上に徹底せるものである事である。同時にその競争力もあなどり難く……東北四省の鉄道省たる東北交通委員会の完全なる統制と指導の下に、(イ)打倒満鉄と(ロ)自給自足鉄道敷設を二大標語としつつ、連絡輸送に、満鉄対抗運賃の実施等々に、一糸乱れざる満鉄圧迫政策に没頭しつつ、百パーセン トその機能を発揮していることであった」 (「危機を はらむ満蒙鉄道を観る」一、東朝、昭6・1・10)と述べて中国側の満鉄圧迫政策を強調したのであった。

  たしかに東北交通委員会は、大規模な鉄道建設計画を樹て、それを葫蘆島築港と結びつけようとしており、昭和5年7月2日には張学良主催の下に、葫蘆島築港起工式がはなばなしく行われていた。そしてそれは前述のような観点から言えば、満鉄を包囲し大連港の地 位を奪おうとする計画であり、日本が有する満鉄並行線禁止という権益を侵害するものということになるのであった。並行線禁止とは、日露戦争でロシアから獲得した利権を中国(当時はまだ清朝であった)に認めさせた「満州に関する日清条約」(明治38年12月調印) の付属取極めのなかにみられるものであり、満鉄と並行する幹線または満鉄の利益を害するような支線を敷設しないことを清国に約束させたものであった。それは中国の自主的鉄道建設を阻止するものであり、張作霖政権末期から満州においても積極的な鉄道建設が始められると共に、日本では満鉄並行線を阻止せよとする声があげられてくるのであった。この議会でも赤池濃(勅選・同和会)が奉海線(奉天−海龍、昭2・9竣工)、 打通線(打虎山―通遼、昭2・11竣工)、吉海線(吉林―海龍、昭4・5竣工)を並行線禁止規定に反するものとして幣原外相に追っている(速記録第29号参照)。

  満鉄の経営悪化は中国の鉄道政策が日本の既得権益を侵害した結果であるとする見方は、当時の保守的政治家にとって極めてうけいれやすいものであった。貴族院本会議では、前述の赤池濃のほか、川村竹治(勅選・交友倶楽部、速記録9・10号)、志水小一郎(勅選・研究会、速記録11・12号)などがこうした中国の権益侵害に如何に対処するのかを問いただそうとしている。

  しかしこれに対して幣原外相は、こうした見方を出来るだけ排そうとした。まず外交方針演説では「我々ハ固ヨリ民国ノ正当ナル立場ヲ無視シテ妄リニ利己的ノ要求ヲ為スガ如キ意思ヲ有スルモノデハアリマセヌ、 是ト同時二民国側二於イテモ我ガ南満州鉄道ノ地位ヲ危クセントスルガ如キ計略ガアリ得ベキモノトハ信ゼラレマセヌ」(速記録第2号)と述べ、また満鉄経営の悪化については「大豆ノ出廻リガ無カッタ」などの純経済的な事情によるのであり、「中国鉄道ノ満鉄ニ対スル包囲政策二依ッテ、満鉄ノ収入ハ減ジタモノトハ考ヘテ居リマセヌ」(速記録第9号)と答えた。さら に葫蘆島については、「支那ガ港ヲ改築スル、或ハ新タニ築キ上ゲルト言フコトニ付キマシテ、我々ハ何ニモ抗議スベキ根拠ハ無イト考ヘテ居リマス」(速記録第12号)と述べて、中国の主権尊重の立場を明確にしようとした。

  これらの答弁は、幣原の中国の経済的要求を出来るだけ認めてゆこうとする姿勢のあらわれであったが、 そのことは並行綿問題でより明確に示されていた。彼 は奉海線は満鉄に利益をもたらす営養線であると主張したが(速記録第29号)、打通線・吉海綿については、 それが並行線であることを認めたうえで、「中国ノ鉄道モ相当二利益ヲ受ケ、満鉄ノ利益モ相当二保證セラ レル所謂共存共栄ノ原則二依ッテ、何等カノ協定ヲ試ミタイ」 (速記録第10号)と述べているのであり、そ れは並行綿禁止協定の実質的修正をふくむものとも言えた。おそらく彼は、既得権益のうち「如何ナルモノ ガ我ガ国民生活二絶対的二必要デアッテ、其必要上変改ヲ許サザル性質ノモノデアルカ、又如何ナルモノガ 世界ノ変遷、殊二日華両国間ノ新タナル事態二適応シテ変改シ得ルモノデアルカ」 (速記録第29号)という 問題を、権益の根拠にまでさかのぼって検討し直すこ とを必要と考えていたことであろう。

  しかし、この時すでに幣原の言う「民国ノ正当ナル立場ヲ無視シテ妄リニ利己的ノ要求ヲ為スガ如キ」勢力は急速に拡まりつつあった。前掲武内記者の報告はつづく。「私が今回の旅行に当たって、心から同情に堪えなかったのは、満鉄及び関東庁以外の在留邦人の95パーセント、否ほとんどその100パーセントが、銀安と満鉄包囲鉄道の脅威によって、主戦論を唱へざるを得ざるまでの悲況のドン底に落ち込んでいるという憐むべき事実であった。『かう悪化しては、最早最後の手段に訴へるより外はない』という悲痛な叫びは、 奉天でも、開原でも、四平街でも、吉林でも、長春でも到る処に挙げられていた」(東朝、昭6・1・14)。そして実際に関東軍においては、石原莞爾らを中心と して、この第五九回議会閉会半年後に「満州事変」と して強行された満州占領計画が着々と固められつつあったのである。



研究会の策動と会期延長

  第五九回議会での貴族院の情勢は、開会前には次のように予測されていた。「同成会は純政府系であり、 同和会は反政友系が多いからこの両派は政府支持と見ていい・交友クラブはほとんど政友系を以て網羅されているから議会再開冒頭の質問戦を皮切りとして交友 クラブ闘士は、くつわを並べて政府強襲に出るに違いない・そこで問題は研究会と公正会であるが、研究会は伝統的方針によってすべての問題についてイニシアティヴをとることを避けるだろうし、会内純政友系が個人的立場から政府反対の声をあげる以外は、研究会 としては是々非々の大勢順応を以てのぞむことになろう。よって来議会における貴族院の動きは、公正・火曜両会派の去就がもっとも見ものであるが、軍縮問題以来公正会内にたい頭している反政府熱は侮るべからざるものがあるから、各派の情勢としては、今後公正会内の政治的分野が如何なる点に落ちつくかが注目の焦点となっている」(束朝、昭5・11・24)。しかし 実際には、こうした予想がはずれて、研究会が反政府的方向に動き出し、それによって貴族院の情勢は混とんとしてくることになった。

  その最初の動きは、浜口首相登院問題をめぐってあらわれてきた。すでにふれたように、研究会は浜口首相の登院時期を明示せよとする緊急質問を行おうとしたが、このことは同会が野党的に動き出したことを意味しておりヽさらに政友会系の交友倶楽部がこれを支持したことは、両会派の野党的立場での提携として注目された。この緊急質問問題を討議した2月17日の研究会常務委員会では、政府の財政経済政策を糾弾する決議案を提出すべきだという議論も出されており、 野党系議員の活躍が目立ちはじめていた。

  首相登院に関する緊急質問は、政府が先手をうって 登院時期を明示したため実現せずに終わったが、次の朝鮮忠清南道・道庁移転問題では研究会が中心となって、衆議院の議決をくつがえすという事態があらわれてきた。この問題は政府が朝鮮総督府の要求にもとづ き、道庁を公州から大田に移転する費用35万9000円を特別会計予算案に計上したことに端を発していた。これに対して与党民政党内部から移転反対の声があがり、結局衆議院では移転費は削除されたのであるが、貴族院では研究会・交友倶楽部が、移転費復活の方向に勤きはじめたのであった。衆議院側の削除理由は、3月7日民政党総務会が作成した次の声明書につくされている。すなわち「公州は百済以来1400余年の歴史を有する朝鮮人市街であり、忠清南道の中央 に位する交通経済の中心都市である。これに反し大田 は僅かに20余年の新開地にして道の東南隅に偏在し、主として内地人市街である。しかして今公州より大田に道庁を移転することは、朝鮮人の利害を顧みず内地人をひ護するとの非難をも免れないのである。かくの如きは朝鮮の民族心理を刺激し統治の将来に重大なる禍根をのこす大問題である」(東朝、昭6・3・8)との観点から道庁移転に反対したものであった。

  これに対して貴族院の移転費復活論者は「総督政治の威信という点を慮っている者と、研究会所属の児玉(朝鮮総督府)政務総監(児玉秀雄・研究会の伯爵議員) の立場に同情する者、特に反政府的立場から復活を主張する者との三様の立場」(東朝、2・25)に立ってい るとみられたが、いずれにせよ「貴族院の復活論者の主張は削除論者のそれに比してお話にならぬほど薄弱」(東朝、3・15社説)なのであった。しかし3月9日の研究会総会では道庁移転費復活が決議され、13日の貴族院本会議では記名投票により103票の大差で復活案が通過した。研究会内部の復活反対派も、同会 の総会拘束主義によって反対票を投ずることが出来ず、 せいぜい欠席するにとどまっていた。またこの問題で両院の妥協ができないと特別会計予算案全体が不成立 に終わることを恐れた与党幹部は、党内の不満をおさえて、両院協議会を開かずに衆議院に貴族院の議決を承認させたのであった。

  予算案関係でもう一つ問題になったのは大阪帝国大学新設費であった。この問題については、公正会など から、すでに京都に帝大があるのに、なぜこの財政難の際に大阪に帝大を急造する必要があるのかといった反対論があがり、一時は研究会もこの方向に動くかに みえた。しかし研究会幹部の間では、減税法案審議と からめて政府系・反政府系両派のかけひきがくりひろげられており、結局「文政審議会の議に付するを要す」 との付帯決議をつけただけで阪大創設費は承認された。当時の新聞はこの間の研究会の動向を次のように報じている。すなわち政府系の青木信光(子爵)一派が「帝大創設費の削除を事実上の交換条件として減税案を無修正で一気に通過せしめんとしていたいのに対して、 反政府系の前田利定(子爵)一派は「減税案は減税案 として別個に取扱うべきである。帝大創設費を交換条 件とするようなら創設費の方は付帯決議付で可決しようと逆手に出」(東朝、3・24)たというのである。研究会内部のこうしたかけ引きがまとまったのは会期最終日の3月25日であり、同日夜の本会議で追加予算案は成立したが、減税法案はまだ委員会段階にとどまっていた。政府はその成立をはかるため、2日間の会期延長にふみ切らざるを得なかった。

  減税法案とは、地租法案、営業収益税・砂糖消費税・織物消費税改正法案など一括審議された諸法案を指しているが、そのなかで貴族院でとくに問題とされたのは地租法案であった。同案は、これまでの地租条例を廃止する新法であり、課税基準を地価から賃貸価格に 改めると共に、税率を地目にかかわらず一律に3・8%とした点で画期的なものであった。そして従来の地租総額を維持するとすれば、税率4・5%となる所を一割五分減税してご3・8%に引き下げたのであるが、地目別にみると、これまでの税率が宅地2・5%、田畑4・5%、その他5・5%であったため、農地では減税となるが大都市の宅地は増税となることになった。貴族院の反政府派はこの点をとらえて政府攻撃の焦点にしようとしていた。

  衆議院で原案通り可決された減税法案が貴族院本会議に上程されたのは3月4日であったが、長岡隆一郎(勅選・交友)、池田長康(男爵・公正)、三井清一郎(勅選・研究)、森田福市(多額・交友)、高橋琢也(勅選・交友)、志水小一郎(勅選・研究)らが登壇して長広舌をふるい、3月7日に至ってようやく委員付託となった。このように第一読会の委員付託までに4日を費すことは異例なことであり、反政府派の議事引延し戦術の結果であった。

  減税法案の成否は、勿論最大の会派=研究会の動向にかかっていた。研究会内部では政府・反政府派の対立が激化していったが、3月25日の協議員会で突如、 政府派とみられていた馬場^一(勅選)議員から、宅地租を軽減しその分だけ田畑地租を増徴するとの修正 案が出されたため会内は大混乱におちいった。しかし 翌26日の研究会総会では、これらの修正案は否決、政府原案支持の方針が可決され、翌27日の本会議で 減税法案は原案通りに成立したのであった。阪大創設費につづくこうした地租法案をめぐる研究会内部の紛糾がこの議会の会期延長を余儀なくさせた最大の原囚であったが、いずれも結果は原案支持に落着いているのであり、研究会の不明朗な策動に対する批判が高まったのは当然であった。当時の東京朝日は次のような 解説記事を掲げて研究会に攻撃を加えている。やや長文であるが、貴族院を理解する一資料として引用しておきたい。
 

 

 「減税案が無修正通過に決するまでの経過を概観すればそれは政府系・反政府系両派の作戦くらべであった。さうしてその結論においては100パーセント政府系の作戦が図に当たったのである。最初小笠原長幹・前田利定氏等の反政府系一派は削除に大勢決し ていた大阪帝大創設費を生かすことによって会内の反政府熱を圧縮し、その熱を減税案に向かって爆発せしめんと企図しその作戦は着々として成功するかに見えた。25日夜に至って協議員会に政府系の闘将馬場^一氏が突如として地租修正案を提出した時には政府もろうばいし、政府県議員も戦敗れたりと直感したのだった。然し青木信光・馬場^一氏等政府系が何故かかる突飛な修正案をだしたか、その底には更に底があった。

  かういう修正案をだせば多額議員の多数は農村への負担の転稼を理由として挙って反対するに極まっている。一方反政府系議員一部の強硬論者はかかる修正案をなまぬるしとして地租案否決の立場から同じく反対するに極まっている。形勢かうなれば修正案は敗れるに極まっているのだからさうなると原案の無修正通過は確実だ、青木・馬場氏等の政府系と政府との間に事前に意思の疏通があったかどうかは別として、これら政府系の作戦は兄事図に当たり、修正案は果たして一蹴され予定の筋書き通り原案通過と極まってしまったのである。……一体研究会はどうして猫の目のようにその態度を変へるのか、大阪帝大費の問題についても総会を開くこと三度、減税案に至っては到底健全な常識の持主の測り難き道行きだ。いはゆる議会季節は研究会の書きいれ時である。

  就中研究会の中心団体たる子爵議員中あるものにとっては一年分の生活費のかせぎ場であるとまでいはれている。そのためには花道が短くては芝居にならぬ。どうせ落ちつく先は舞台ときまっていても花道が長くなくては色んな仕草が出来ぬ。……それにしても元をただせば政民両政党の浮気心が禍根の因だ。貴族院が紛糾して来れば、時の政府は夜に日をついで閣僚総出で研究会幹部の拝み倒しに狂奔し、野党は野党で手を変へ品を変へてけん制運動に奔走する。

  この間、朝・野両党から何の意昧かは知らぬがとにも角にも黄白の散ぜられることは公然の秘密とせられている。これに味を占めている研究会がごった返しの火事場泥棒を働くのも元はといへば両政党の心得違ひから。無産党を弾圧する暇にまづ研究会をボイコットすることが政・民両党に与へられた一大課題である」 (東朝、3・27)。




重要法案の成否と貴族院

 この議会は、浜口内閣にとって最初の通常議会であったため、内閣の基本政策を示す多くの重要法案が提出された。まず経済面では重要産業統制法・輸出組合法改正案・重要輸出品工業組合法改正案こ蚕糸業組合法などが成立しているが、これらは浜口内閣の唱える 産業合理化政策が、いわゆる過当競争の排除→カルテル化促進の方向を指向していることをあらわしていた。 また米穀法改正により政府の市場介入の基準としての「率勢米価」が登場し、同時に米穀需給調節特別会計法改正で同特別会計の運用限度が2億7000万円から3億5000万円に拡張されているが、これらの改正も政府の介入を強めるという経済政策の一環をなしけようとしていた」(東朝、3・27社説)。

  ともあれ、この議会ではすでに、政党内閣らしい政党内閣、進歩的な政党内閣として期待された浜口内閣が、浜口遭難以後、急速に弱体化し、内部から崩壊に向かう徴候があらわれていた。議会外ではロンドン条約問題・満蒙問題を契機として、反政党勢力が急速に力を伸ばしつつあった。従ってあとからふり返れば、この議会は、政党政治没落への転機をなしていたといえるかもしれない。

(古屋哲夫)