人文学報 第41号 抜刷

1976年7月

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北一輝論 (4)


古屋 哲夫


12 国家改造の進化論的発想
13 国内改造の基本構想



13国内改造の基本構想


 北の『改造法案』が、この時期に流行した改造論議のなかで特異な地位を占めているのは、国内組織の改造によって対外的膨張のための正義が獲得されると主張し、2つの問題を分ちがたく関連したものとして提示したことによっている。そしてそれは、第一次大戦後の状況を、国民精神の弛緩として捉えていた国家主義者たちにとって、国家的使命感を再建する方向を示唆するものとしてうけとられたのであった。

 では北は、如何にして内外問題を統一する視点をつくり出したのであろうか。それは根本的には、国家社会と個人との間に想定した進化のあり方をそのまま拡大させて、世界史の問題まで一貫してとらえようとする方法にもとずいているのであるが、『改造法案』に即して言えば、より直接的に、国家関係をも国内社会をも同時に裁き得る「正義」を提示することによって、統一的視点を基礎ずけようとしたのであった。

 彼は自らの「正義」を次のように規定する。「正義トハ利己卜利己トノ間ヲ劃定セントスル者。国家内ノ階級争闘ガ此ノ劃定線ノ正義二反シタルガ為ニ争ハルル如ク国際間ノ開戦ガ正義ナル場合ハ現状ノ不義ナル劃定線ヲ変改シテ正義ニ劃定セントスル者ナリ」(2‐273頁)と。では「利己卜利己トノ間」は如何に劃定せらるべきなのか。彼は「英国ハ全世界二誇ル大富豪ニシテ露国ハ地球北半ノ大地主ナリ。散粟ノ島嶼ヲ劃定線トシテ国際間二於ケル無産者ノ地位ニアル日本ハ正義ノ名二於テ彼等ノ独占ヨリ奪取スル開戦ノ権利ナキヤ」(同前)とつづける。つまり土地・資源や経済的利益を独占して、他民族の生活向上の道を阻害することが「不義」だということになる。そこでは、かつては自国の同化作用を他国に強制することを非難する形で展開されていた帝国主義批判が、物質的・経済的利益の独占への非難、国際的大富豪・大地主批判におきかえられているのをみることができる。そしてこの転換によって、革命後のロシアをも敵視することが可能になっていた。「支那ヲ併呑シ朝鮮ヲ領有セントシタルツアールノ利己ガ當時ノ状態二於テ不義ナリシ如ク、廣漠不毛ノ西比利亜ヲ独占シテ他ノ利己ヲ無視セントスルナラバ、レニン政府ノ状態亦正義二非ズ」(同前)と。

 『改造法案』の第一の特徴は、この「不義」の現状を打破するために、国家は「開戦ノ積極的権利」を有すると主張した点にあった。そしてその基礎になっているのは、前節で引用したような、「経済的境遇の甚しき相違」を克服しなければ世界的同化作用は進展しないという考え方にほかならなかった。しかし彼はここで、諸民族の経済的条件の平等を主張しているわけではなかった。彼は「開戦ノ積極的権利」を3種に分け、第一には自己防衛のための開戦、第二には「不義ノ強カニ抑圧サルル他ノ国家又ハ民族ノ為二」する開戦をあげたあと、第三の場合について次のように述べている。「国家ハ又国家自身ノ発達ノ結果他二不法ノ大領土ヲ独占シテ人類共存ノ天道ヲ無視スル者二対シテ戦争ヲ開始スルノ権利ヲ有ス」(2‐272頁)と。

 ここで北が「国家自身ノ発達ノ結果」と言うのは、国家の対外的膨張力の充実した場合を想定していたと考えられるのであり、彼は曰本については、急激な人口増加をもって積極的開戦を正当化する根拠にしようとしていた。すなわち彼は『改造法案』緒言において「我曰本亦五十年間ニ二倍セル人口増加率ニヨリテ百年後少クモ二億四五千万人ヲ養フヘキ大領土ヲ餘儀ナクセラル」(2‐220頁)と述べ、また「開戦ノ積極的権利」の註においては「如何ナル豊作ヲ以テストモ日本ハ数年ノ後二於テ食フベキ土地ヲ有セズ。国内ノ分配ヨリモ国際間ノ分配ヲ決セザレバ日本ノ社会問題ハ永久ニ解決サレザルナリ」(2-273頁)と主張していた。そして「当面ノ現実問題トシテ濠州又ハ極東西比利亞ヲ取得センガタメニ其ノ領有者ニ向テ開戦スルハ国家ノ権利ナリ」(2‐272頁)というのである。言いかえれば資源不足のためその民族的活力を十分に発揮しえなくなった国家は、他の国家の遊休(あるいは十分に活用していない)資源を奪うことができるという論理である。そして彼はそのような国家を「国際的無産者」と表現する。「国際的無産者タル日本ガ力ノ組織的結合タル陸海軍ヲ充実シ、更ニ戦争開始ニ訴テ国際的劃定線ノ不正義ヲ匡スコト亦無條件ニ是認セラルベシ」(2-273頁)と。

 北の言う「正義」とは結局のところ、分配的正義とでも言うべきものであり、彼が人類の進化を阻害すると考えているような経済状態を是正することを指している。従ってこの論理から言えば、「国際的無産者」であるというだけで、開戦の積極的権利が生ずることになる。しかしただそれだけのことでは、国際的無産者と有産者との交代がくり返されるだけで、世界史の新しい段階は生れようがない。また「国際的無産者」といっても、 その内部に分配的「不正義」をかかえていたとしたら、戦争の勝利はその「不正義」をより拡大する結果となる筈である。それ故、この「正義」を世界史のなかに貫徹するためには、国家改造によって自国の内部であらかじめ「正義」が実現されていなくてはならないということになる。 そう考えてくると、さきの「国家自身ノ発達ノ結果」という言葉は、国内で正義を実現するまでに発達した国家を指しているとも読めるのである。

 とすれば、第三種の「開戦の積極的権利」は、改造実現後の国際的無産者だけに認められる特殊の権利ということになる。つまり、 国際的無産者である日本は、国家的改造さえ行えば、開戦の権利を自由に行使しうる特殊の国家になりうるのだという点に彼の主張の眼目があったと考えられるのである。彼は第一次大戦時のドイツについて、「英領分配ノ合理的要求」も「中世組織ノカイゼル政府」が行えば「不義」のものとなると評し、つづけて「従テ今ノ軍閥卜財閥ノ日本ガ此ノ要求ヲ掲グルナラバ独己ノ轍ヲ踏ムベク改造セラレタル合理的国家ガ国際的正義ヲ叫ブトキ之レニ対抗シ得ベキ一学説ナシ」(2-274頁)と述べているのであった。

 前節でみたような進化論的発想のうえに、「正義」についてのこのような観点を加えてみると、北の言う「国家的改造」は、次の3つの要請を同時に満すものでなければならないことになる。すなわち、第1には国内における分配的正義の実現であり、第2には対外戦争を遂行し「国際的戦国時代」をのり切るための軍事力の強化であり、第3には、異民族間の同化作用が進展する基盤をつくりあげることであった。

 彼はまず改造さるべき国内状況を、大資本家・大地主が「経済的私兵ヲ養ヒテ相殺傷シツツアル」「経済的封建制」(2-229頁)と捉える。この点は、「経済的貴族」「黄金大名」が「国家を手段の如く取扱」(1〜121頁)っているとし、彼等の「資本と土地とを国家に吸収し事実上の政権独占を打破すべし」(1〜393頁)という『国体論』での主張と変っていない。 すなわち、「現時大資本家大地主等ノ富ハ其実社会共同ノ進歩卜共同ノ生産ニヨル富ガ悪制度ノ為メニ彼等少数者ニ蓄積セラレタル者」(2-229頁)であるから、社会に返還させるのは当然だと言うわけである。しかし彼は、少数者への富の集中を排除するために、私有財産制そのものを廃棄することには反対であった。 彼の進化論が、結局は国家に集中されることを予定していたとしても、ともかくも「個人の自由独立」を進化の一つの原動力とみなしていたことはすでに述べたところであるが、彼はこの「自由独立」の基礎を私有財産に求めていたのであった。「個人ノ自由ナル活動、又ハ享楽ハ之レヲ其私有財産ニ求メザルベカラズ」(2-228頁)とする彼は、画一的平等の考え方にも反対し「貧富ヲ無視シタル劃一的平等ヲ考フルコトハ誠ニ社会万能説ニ出発スルモノニシテ・・・・・・人ハ物質的享楽又ハ物質的活動其者ニ就キテ劃一的ナル能ハザ」(同前)るものだと主張するのであった。

 こうした私有財産制擁護の立場から言って、北の改造方針は、富の少数者への集中を結果する経済機構そのものの改変を打出すことは出来なかった。彼は私有に限度を設けることで、黄金大名の解体と私有制度堅持という2つの目的を満足させようとする。つまり経済機構には手をつけず、そこから蓄積されてくる富が一定の限度をこえた場合だけ,その超過部分を国家に納付させようというわけであった。彼はこの限度を、個人財産・土地・資本という3つの側面で具体的金額によって規定している。もっともその金額は、最初の『国家改造案原理大綱』と1923年(大正12)刊行の『日本改造法案』とでは異っているが、その相異をもふくめて彼の主張する私有限度額を一括して表示してみると次のようになる。

『国家改造案原理大綱』

『日本改造法案』

私有財産限度
私有地限度
私人生産業制度

国家一人につき    300万円
国民一家につき    時価 3万円
1千万円   

国民一家につき    100万円
同右           時価 10万円
1千万円



  要するに、『日本改造法案』と改題刊行するにあたって、私有財産限度をひき下げ私有地限度を引き上げているわけであるが、その根拠は明らかではない。しかし1冊の参考書もなく書き上げたという彼の言葉1)からみても、日本経済の現状分析を基礎にした数字だとは考えられないのであり、従ってその改訂も、私人生産業限度を基準とした場合に、他の限度があまりに均衡を失しているという程度の考えにもとずいたものにすぎなかったのではなかろうか。

  1) 「第三回の公刊頒布に際して告ぐ」2-358頁参照


 『改造法案』の示す国家改造政策の根底をなしているのは、この私有財産限度をこえる部分を無償で国家に納付させるという点であった。すなわち土地・資本については個人或は一家の私有財産限度以内でも納付させられる場合がありうるから、この場合には国家が三分利付公債をもって賠償することにして、私有財産限度を無償納付の基準とする方針を貫こうとしていた。 彼はこの方針を皇室にもあてはめ、「天皇ハ親ラ範ヲ示シテ皇室所有ノ土地山林株券等ヲ国家二下附」し、代りに国庫から「年額三千万円」(2-226頁)の皇室費を支出することを主張している。

 結局のところ北が画く国家改造の構想は、このような有償・無償で徴集した財産・土地・資本の運用あるいは再配分によって、一方で国家を富強にすると共に、他方では国民の生活条件を、私有財産の強化を軸として向上させてゆくことを基本とするものであった。そしてその基礎となっているのは「大資本ノ国家的統一」という考え方であった。北の経済観は大規模経営の優位という観点に立っており、彼は一定規模以上の経営は国家、それ以下のものは私人というように、経営規模によって国家と私人の領域を分け、 両者を並存させることを主張している。すなわち、「積極的ニ見ルトキ大資本ノ国家的統一ニヨル国家経営ハ米国ノツラスト独逸ノカルテルヲ更ニ合理的ニシテ国家ガ其主体タル者ナリ。ツラスト、カルテルガ分立的競争ヨリ遙カニ有理ナル実証ト理論トニヨリテ国家的生産ノ将来ヲ推定スベシ」(2-238頁)とする北 は、銀行省、航海省、鉱業省、農業省、工業省、商業省、鉄道省により、国家自らが大規模経営を行うことを予定する。そして反面、「私人生産業以下ノ支線鉄道ハ之ヲ私人経営ニ開放スベシ」(2-242頁)、「塩煙草ノ専売制ハ之ヲ廃止シ国家生産ト私人生産トノ併立スル原則ニヨリテ私人生産限度以下ノ生産ヲ私人ニ開放シテ公私一律ニ課税ス」(2-243頁)と規定するなど、 国家経営と私人経営の領域とを明確に区分するための再編成をも要求していた。

 北はさらにこの原則を農林部門にも拡大し、「大森林又は大資本ヲ要スヘキ未開墾地又ハ大農法ヲ利トスル土地ハ之ヲ国有トシ国家自ラ其経営ニ当ルヘシ」(2-235〜6頁)と規定した。しかしここで注意しておきたいのは、北が土地所有権については私有財産制擁護の立場から原理的に支持しようとはしていなかった点である。彼はここでは土地国有論にも一理あることを認め、土地問題の解決については画一的な原則はないと主張する。「社会主義的議論ノ多クガ大地主ノ土地兼併ヲ移シテ国家其者ヲ一大地主トシテ国民ハ国家所有ノ土地ヲ借耕スル平等ノ小作人タルヘシト言フハ原理トシテハ非難ナシ。之ニ反対シテ露西亜ノ革命的思想家ノ多クハ国民平等ノ土地分配ヲ主張シテ又別個ノ理論ヲ土地民有制ニ築ク者多シ。併シ乍ラ斯ル物質的生活ノ問題ハ或劃一ノ原則ヲ想定シテ凡テヲ演繹スヘキニ非ス。若シ原則トイフ者アラハ只国家ノ保護ニヨリテノミ各人ノ土地所有権ヲ享受セシムルカ故ニ最高ノ所有者タル国家ガ国有トモ民有トモ決定シ得へシト言フコト是ノミ。……則チニ者ノ敦レカヲ決シ得ル国家ハ其国情ノ如何ヲ考へテ最善ノ処分ヲナセハ可ナリトス。」(2-234頁)そして日本が「小農法ノ国情」(同前)にあるとする北は、土地問題も資本、企業経営の場合になぞらえて処理しようとする。

 彼はまず都市の住宅地と農地とを区別する。そして農地については「農業者ノ土地ハ資本卜等シク其経済生活ノ基本タルヲ以テ資本ガ限度以内ニ於テ各人ノ所有権ヲ認メラルル如ク土地亦其限度内ニ於テ確実ナル所有権ヲ設定サルルコトハ国民的人権ナリ」(同前)として、農地を資本と同様に扱うことを主張した。しかし都市の住宅地については、私有を認めず、「都市ノ土地ハ凡テ之ヲ市有トス」(2-235頁)と規定する。彼はその理由として、都市の地価が騰貴するのは土地「所有者ノ労力ニ原因スル者ニ非スシテ大部分都市ノ発達ニ依ル」(同前)ものであり、従って地価騰貴の利益を宅地所有者に与えることはできないと述べている。つまり彼は、都市居住者は市に借地料を支払い、地価の騰貴は借地料の騰貴となって市財政をうるおすという事態を想定しているわけである。

 北が土地問題をこのような形でしか考えなかったということは、他の側面からみれば、地主・小作関係解消のための根本的対策を用意していないということを意味してもいた。彼も「熱心ナル音楽家ガ借用ノ楽器ニテ満足セサル如ク勤勉ナル農夫ハ借用地ヲ耕シテ其勤勉ヲ持続シ得ル者ニ非ス」(2-234頁)として、自作農化が望ましい方向であることを認め、「皇室下附ノ土地及私有地限度超過者ヨリ納付シタル土地ヲ分割シテ土地ヲ有セサル農業者ニ給付シ年賦金ヲ以テ其所有タラシム」(同前)という対策を用意した。しかし彼はそれ以上積極的に地主・小作関係に介入することは考えていなかった。彼は言う。「凡テニ平等ナラサル個々人ハ其経済的能力享楽及経済的運命ニ於テモ劃一的ナラサルカ故ニ小地主卜小作人ノ存在スルコトハ神意トモイフヘク、且社会ノ存立及発達ノ為メ二必然的ニ経由シツツアル過程ナリ」(2-232頁)と。

 北がこのように小作問題を重要視しなかったことについては、当時労働運動が急激な発展を示していたのにくらべて、農民運動の発展がおくれていたという事情も影響しているかもしれない。しかしより根本的には、国家発展の基軸を、工業生産の拡大とそれを支えるような資本主義的経済活動の全面的展開に求めていることを関連しているように思われるのである。

 例えば彼は改造後の国家による大規模経営の発展を極めて楽観的に捉え,「生産的各省ヨリノ莫大ナル収入ハ殆卜消費的各省及ヒ下掲国民ノ生活保障ノ支出ニ應スルヲ得ヘシ。従テ基本的租税以外各種ノ悪税ハ悉ク廃止スヘシ」(2-243頁)などと述べている。そしてこの発展は「工業ノトラスト的カルテル的組織ハ資本乏シク列強ヨリ後レタル日本ニハ特ニ急務ナリ。又今回ノ大戦ニ於テ暴露セラレタル如ク曰本ハ自営自給スル能ハサル幾多ノエ業アリ」(2-241頁)との指摘からもうかがわれるように、工業の拡大強化を中心とするものと考えられていたのであった。

 北の国家改造の目的の1つが、このような強力な工業力によって、軍事力の強化を基礎づけようとすることにあったことは明らかであるが、彼の私有財産制擁護もまた、こうした国家企業の発展を支えるような企業活動、さらにはその基底となる活発な経済活動が私的所有なしには展開しえないとの認識によって性格づけられていた。彼は私人生産業の存在を認める理由の1つとして、「国民自由ノ人権ハ生産的活動ノ自由二於テ表ハレタル者ニツキテ特二保護助長スヘキ者ナリ」(2-237頁)と述べているが、このことは彼が、改造後の経済発展を、結局のところ巨大な国家企業を中心とした資本主義的経済関係の全面的展開として促えていたことを示すものと考えられるのである。そして私的所有の擁護にもこうした経済発展の図式との関連によって強弱がつけられていたのではなかったであろうか。彼が都市住宅地の私有制を否定したのは、資本制生産との関連がうすいと判断したからであり、地主・小作関係にさしたる関心を示さなかったのは、それが資本主義的生産関係からはずれたものと考えたからであるように思われるのである。

 このことは更に、小作保護策を何1つとりあげなかった北が、労働者保護については多くの頁を割いていることからも裏書きされる。彼の労働政策は、労働の自由、労働者の経営参加、争議の国家統制という3の観点から成り立っていた。まず彼は、「人生ハ労働ノミニヨリテ生クル者二非ズ。又個人ノ天才ハ労働ノ餘暇ヲ以テ発揮シ得へキ者ニアラズ」(2-245頁)とし、「国民二徴兵制ノ如ク労働強制ヲ課」(同前)すことに反対する。そしてそれと対応する形で、「労働賃銀ハ自由契約」(2-244頁)という原則を立てる。この点については「自由契約トセル所以ハ国民ノ自由ヲ凡テニ通セル原則トシテ国家ノ干渉ヲ背理ナリト認ムルニ依ル。等シク労働者ト言フモ各人ノ能率二差等アリ。特二将来日本領土内二居住シ又ハ国民権ヲ取得スル者多キ時国家ガー々ノ異民族ニツキ其ノ能率卜賃銀トニ干渉シ得へキニ非ズ」(2-244〜5頁)と説明されているが、その根底には次のような自由観が前提されているのであった。すなわち彼は「国民ハ平等ナルト共二自由ナリ。自由トハ則チ差別ノ義ナリ。国民ガ平等二国家的保障ヲ得ルコトハ益々国民ノ自由ヲ伸張シテ其ノ差別的能力ヲ発揮セシムル者ナリ」(2-258頁)と述べているのであり、自由を個々人の能力・条件のちがいを通じて実現さるべきものと捉えていたことは明らかであろう。

 彼は国家改造後には、このような各人の能力に応じた賃金が自由契約で実現されると考えており、「現今二於テハ資本制度ノ圧迫ノ下二労働者ハ自由契約ノ名ノ下二全然自由ヲ拘束セラレタル賃金契約ヲナシツツアルモ改造後ノ労働者ハ真個其ノ自由ヲ保持シテ些ノ損傷ナカルベキハ論ナシ」(2-245頁)と断じているが、その根拠は明らかにされていない。彼は労働市場の問題には全く言及していないが弱者保護政策及び、労働者の権利の強化によって、おのずから労働市場での地位も改善されると楽観的に考えていたのではあるまいか。

 労働者の権利としては15歳(改題刊行後は16歳)以下の幼年労働の禁止、8時間労働制を基礎とし、その上で純益配当の護得・労働者代表の経営計画及び決算への干与などを認めようとしている。つまり労働時間は国家企業、私企業を通じて一律に8時間制とし、さらに日曜祭日の休業日分の賃銀をも支払う。利益配当は私企業の場合には、純益の2分の1を労働者側に配分し、国家企業の場合には、それに代るべき半期毎の給付を行うというのである。利益配当の考え方は、「労働者ノ月給又ハ日給ハ企業家ノ年俸卜等シク作業中ノ生活費」(2-246頁)であり、企業活動は両者の協同によるものであるから、利益は折半とするのが当然だというものであった。しかし国家企業の場合には、全体的観点から損失をかえりみずに投資を行う場合も多いのだからこの原則をあてはめるわけにはゆかないとされ、経営参加についても、「事業ノ経営収支決算二干与スル代ワニ衆議院ヲ通シテ国家ノ全生産二発言スベシ」(2-245〜6頁)という間接的な形態が考えられていた。

 北は労働者を「力役又ハ智能ヲ以テ公私ノ生産業二雇傭セラルル者」(2-244頁)と規定し「軍人官吏教師等」を労働者の範囲から除いたうえで、これらの原則は農業労働者を含めた全労働者に適用されるべきものだと主張した。すなわち「農業労働者ハ農期繁忙中労働時間ノ延長二応シテ賃銀二加算スベシ」とし、経営計画及収支決算への干与についても「農業労働者卜地主トノ間亦レニ同ジ」(2-245頁)と規定している。しかし、この小作人よりも農業労働者の方をより重く保護するという北の考え方は、農業人口が全人口の過半を占め、そのなかで小作経営が圧倒的な比重をもっているという当時の日本の状況にそぐわないものであった。小作争議が激発しつつあった改題刊行時には、彼もその点を考慮したのであろう、労働者がその雇傭される企業の株主たりうる権利を設定すると共に「借地農業者ノ擁護」について次のような規定を追加した。すなわち「私有地限度内ノ小地主二対シテ土地ヲ借耕スル小作人ヲ擁護スル為メ二、国家ハ別個国民人権ノ基本二立テル法律ヲ制定スベシ」(2-317頁)というのであるが、この場合も「小地主対小作人ノ間ヲ規定シテ一切ノ横暴脅威ヲ抜除スベキ細則ヲ要ス」(同前)と註しているように、むしろ農村における秩序維持の観点が、優位していたと思われるのである。そこには小作権・争議権といった考え方を見出すことは出来ない。

 これに対し北は、労働者に対しては改造完成までの間には労働争議を「国民ノ自衛権」として容認しようとする立場にたっている。すなわち「同盟罷工ハエ場閉鎖ト共二此ノ立法二至ルヘキ過程ノ階級闘争時代ノ現象ナリ。永久的二認メラルヘキ労働者ノ特権二非ルト共ニー躍此改造組織ヲ確定シタル国家二取リテハ断然禁止スベキ者ナリ。但シ此ノ改造ヲ行ハスシテ而モ徒二同盟罷工ヲ禁圧セントスルハ大多数国民ノ自衛権ヲ蹂躙スル重大ナル暴虐ナリ」(2-244頁)というわけであり、過渡的権利としてではあれ労働者の争議権を認めようとしていた。もちろんそれは労働運動の擁護を意味しているわけではなく、争議当事者は労働省の裁決に服さねばならないとされる。ただその場合には「此裁決ハ生産的各省私人生産者及ヒ労働者ノー律二服従スベキ者ナリ」(同前)とし、私企業ばかりでなく国家企業の経営者である各省もまた、一律に労働省の裁決に服さねばならないとした点は、この『改造法案』の特色ということが出来よう。なお労働者にあらずと規定した軍人官吏教師等については、巡査が内務省、教師が文部省というように、労働省は関与せずに関係省がその解決をはかることとされていた。

 ともあれ、北の『改造法案』は、資本=労働関係を中軸とし、これに国家統制を加えるという形で、国家改造後の国民的秩序を構想していた点で、農本主義者の改造思想と決定的に相違していたといいうるであろう。つまり、北の国家改造思想の基本的性格は、彼の主観では社会主義と考えられたとしても、資本主義の諸原則を肯定したうえで、国家権力による統制・資本の国家への集中をはかろうとするものであり、国家資本主義への方向をめざすにほかならなかったと考えられるのである。

 こうした北の資本主義的立場はまた、国民生活の改造における個人主義の主張をともなってあらわれており、この点でも右翼的思想家のなかでは特異であった。それは当時の社会秩序の根幹とされていた家父長的諸制度を否定しようとするものにほかならなかったが、しかし彼はすべての伝統的価値を排除しようとしたわけではなく、その個人主義と伝統の部分的擁護とのからみ合いは、『改造法案』の読者に一種異様な印象を与えたことと思われるのである。

 この点は同法案における婦人問題の扱い方に最も端的にあらわれていた。彼はまず「婦人ノ労働ハ男子卜共二自由ニシテ平等ナリ」(2-251頁)と宣言し、男女同一の国民教育(裁縫料理育児等の女子だけの特殊課目の廃止)、「婦人ノ分科的労働ヲ侮蔑スル言動」(2-255頁)や男子の姦通の処罰やなどを唱える。更に改題刑行の際には、「平等分配ノ遺産相続制」の規定を追加し、「現代日本ニノミ存スル長子相続制ハ家長的中世期ノ腐屍ノミ」(2-330頁)と家父長制反対の立場を明確にする。そして彼はここで「合理的改造案ガ必ズ近代的個人主義ヲ一基調トスルコトヲ知ルベシ」(2-329頁)と強調したのであった。しかしその反面、彼は「但シ改造後ノ大方針トシテ国家ハ終二婦人二労働ヲ負荷セシメザル国是ヲ決定シテ施設スベシ」(2-247頁)と述べ、また「女子ハ参政権ヲ有セズ」(2-243頁)と規定する。そしてこの両者を結んでいるのは、個人主義への指向と曰本的伝統としての「良妻賢母主義」とを両立させようとする試みであったと言える。

 北は「良妻賢母主義」を日本のよき伝統として捉え、次のように言う。「欧州ノ中世史二於ケル騎士ガ婦人ヲ崇拝シ其春顧ヲ全フスルヲ士ノ礼トセルニ反シ日本中世史ノ武士ハ婦人ノ人格ヲ彼ト同一程度二尊重シツツ婦人ノ側ヨリ男子ヲ崇拝シ男子ノ春顧ヲ全フスルヲ婦道トスルノ礼二発達シ来レリ。コノ全然正反対ナル発達ハ社会生活ノ凡テニ於ケル分科的発達トナリテ近代史二連ナリ、彼二於テ婦人参政運動トナレル者我二於テ良妻賢母主義トナレリ」(2-225頁)と。つまり「近代的個人主義」をうけいれるかにみえた北は、ここでは「直譯ノ醜ハ特二婦人参政権問題二見ル」(同前)として欧米文化の導入を峻拒するに至るのであり、「国民ノ母国民ノ妻タル権利ヲ完全ナラシムル制度ノ改造ヲナサバ日本ノ婦人問題ハ凡テ解決セラル」(同前)と断ずるのであった。  

 このように、婦人を政治と労働の分野から切り離しておきたいとする志向は、当時の男性に一般的であったと思われる次のような女性観にもとずくものであった。「婦人ハ家庭ノ光ニシテ人生ノ花ナリ。……特二社会的婦人ノ天地トシテ、音楽美術文芸教育学術等ノ広漠タル未墾地アリ。 婦人ガ男子卜等シキ牛馬ノ労働二服スベキ者ナラバ天ハ彼ノ心身ヲ優美繊弱二作ラズ」(2-247〜8頁)。そして彼はこのような女性像の社会的実現のために、女性に扶養の義務を負わせないような制度をつくるべきだと考えた。つまりそのような場合には国家がその負担を肩代りするというのであり、改造による「莫大ナル国庫収入」(2-243頁)はそれを可能にするというのであった。

 北は国家が荷うべきこの種の負担を次のように規定した。(2-249〜50頁)

(1)
児童の権利として国家から養育・教育をうける場合。
(イ)
「満15歳未満ノ父母又ハ父ナキ児童」
(ロ)
「父生存シテ而モ父二遺棄セラレタル児童」
(2)
国家が扶養の義務を負う場合
(イ)
「貧困ニシテ実男子又養男子ナキ60歳以上ノ男女」
(ロ)
「父又ハ男子ナクシテ貧困且ツ労働二堪へザル不具廃疾」
        

 これらの場合を通ずる原則が「婦人ハ自己一人以上ヲ生活セシムル労働力ナ」(2-250頁)しとするものであることは明らかであり、保護者あるいは扶養者としての男子を欠く場合に限られているわけである。それは逆に言えば男性は保護・扶養の責任をまぬがれることが出来ないということであり(例えば子を遺棄した父親は国家から養育・教育費の賠償を請求されることになる)、それを裏付けているのはさきの女性観と表裏をなす伝統的男性観だというのであった。北は「養老年金法案」の如きものを排して「実男子又ハ養男子二貧困ナル老親ヲ扶養セシムルハ欧米ノ悪個人主義卜雲泥ノ差アル者」(同前)と強調している。要するに彼は、女性の人格的尊重を説き、家父長制に反対したとは言え、養育・教育・扶養を荷う国民の基本的な生活単位を男子の血縁を軸とする家族に求めていたということができる。

 そして更に、家族問題におけるこのような欧米の生活文化への拒絶反応は、教育の分野へと拡大されてゆくことになる。北はまず国民は5歳から15歳まで(改題刊行の際に6歳より16歳に改める)10年間の一貫した「国民教育」を受ける権利をもつと規定する。 そしてそれは国民の権利であるから「無月謝・教科書給付・中食ノ学校支辨」(2-251頁)で「日本精華二基ク世界的常識ヲ養成」(同前)するものでなければならないとされる。彼がこの「日本精華」を全体としてどう捉えていたかは判然としないが、教育面では次のような提唱となってあらわれていた。

英語ヲ廃シテ国際語(エスペラント)ヲ課シ第二国語トス。
体育ハ男女一律二丹田・鍛治ヨリ結果スル心身ノ充実具足ニー変ス。
従テ従来ノ機械的直譯的運動及兵式訓練ヲ廃止ス。
男女ノ遊戯ハ撃剣柔道大弓薙刀鎖鎌等ヲ個人的又ハ団体的二興味付ケタル者トシ従来ノ直譯的遊戯ヲ廃止ス。(2-251頁)  


 一見すると曰本の伝統的武術の修得を要求しているようにみえるが、彼はこれらはあくまで遊戯であり「精神的価値等ヲ挙ゲテ遊戯ノ本旨ヲ傷クベカラズ。コハ生徒ノ自由二一任スベシ。現今ノ武器ノ前二立チテ此等二尚武的価値ヲ求ムルニ及バズ」(2-254頁)と註記しているのであり、ここでの彼の主張の主眼が直譯的形式的教育、更にその根底となる欧米文化の排撃におかれていたことは明らかであろう。彼は最初、英語教育の廃止について、たんに「現代日本ノ進歩二於テ英語国民ガ世界的知識ノ供給者ニアラス又日本ハ英語ヲ強制セラルル英領印度人二非レバナリ」(2-252頁)と述べるに止っていたが、『日本改造法案』ヘの改題・刑行にあたつては、それにつづけて、次のような文章を追加しているのであり、それはこの際に行われた修正のうち、最も長文にわたるものであったと言える。  

 彼はまず「英語ガ日本人ノ思想二与ヘツツアル害毒ハ英国人ガ支那人ヲ亡国民タラシメタル阿片輸入卜同ジ」と断じ、英語をもって輸入された害毒として、キリスト教・デモクラシー・平和主義非軍国主義などを列挙する。そして「言語ハ直チニ思想トナリ思想ハ直チニ支配トナル」のであるから、「国民教育二於テ英語ヲ全廃スベキハ勿論、特殊ノ必要ナル専攻者ヲ除キテ全国ヨリ英語ヲ駆逐スルコトハ、国家改造ガ国民精神ノ復活的躍動タル根本義二於テ特二急務ナリトス」(2-322〜3頁)として、英語文化をより激烈な調子で攻撃するに至っているのであった。

 彼はここで、英語文化に代って、日本帝国の膨張に呼応する新たな世界文化の形成について夢想していたに違いない。例えば彼は丹田本位の体育に関して「印度二起リタル亜細亜文明ハ世界ヨリ封鎖セラレタル日本ヲ選ヒテ天ノ保存セラレタル者」(2-253頁)と述べている。それは直接には、丹田本位とヨガとの関連を想定していたものであったであろう。しかしその根底で彼は、仏教文明を亜細亜思想の精髄とみ、その伝統が日本文化のなかにうけつがれていると捉えていたのであった。『改造法案』結言において彼は言う。「印度文明ノ西シタル小乗的思想ガ西洋ノ宗教哲学トナリ、印度其ノ者二跡ヲ絶チ、経過シタル支那亦只形骸ヲ存シテ独り東海ノ粟島二大乗的宝蔵ヲ密封シタル者。茲二日本化シ更二近代化シ世界化シテ来ルベキー大戦後二全世界ヲ照ラス時、往年ノ『ルネサンス』何ゾ比スルヲ得ベキ、東西文明ノ融合トハ日本化シ世界化シタル亜細亜思想ヲ以テ今ノ低級文明国民ヲ啓蒙スルコトニ存ス」(2-280頁)と。  

 つまり北の主観から言えば、彼はたんに文化的伝統の維持を求めたのではなく、曰本文化のなかに密封されている筈のアジア文明を全面的に開花させることによって、新しい世界文明をつくりあげることが出来るという図式を画いたということになるのであった。そして彼は第二国語に採用しようとするエスペラントが、英語文化の排撃と同時に、この新しい文明の担い手たる役割を果すことを期待していたのであった。それは逆に言えば、日本語はそのような役割を果しえない程劣悪だということでもあった。  

 「国民全部ノ大苦悩ハ日本ノ言語文字ノ甚タシク劣悪ナルコトニアリ。……言語ノ組織其者ガ思想ノ配列表現二於テ悉ク心理的法則二背反セルコトハ英語ヲ訳シ漢文ヲ読ムニ凡テ日本文ガ転倒シテ配列セラレタルヲ発見スベシ」(2-252頁)、とすればこのような「我自ラ不便ニ苦シム国語」(2-253頁)を将来拡張した領土内の諸民族に押しつけるわけにはゆかないと北は言う。そしてそこから、合理的組織をもち簡明正確で短曰月ノ修得可能なエスペラントを異民族間の公用語とせよという北の主張が生れる。もしこのことが実現されるならば、劣悪なる曰本語は自然淘汰され「50年ノ後ニハ国民全部ガ自ラ国際語ヲ第一国語トシテ使用スルニ至ルベク、今日ノ日本語ハ特殊ノ研究者二取リテ梵語ラテン語ノ取扱ヲ受」(同前)けるに至るだろうと彼は考えるのであった。  

 この主張は『古事記』以来の日本語の流れのなかに特殊曰本的なものを求めようとするいわゆる「日本主義者」たちとは決定的に対立するものであったが、おそらくは多くの場合現実性のない妄想として読みとばされてしまったことであろう。しかし北は「言語ノ統一ナクシテ大領土ヲ有スルコトハ只瓦解二至ルマテノ華花一朝ノ栄ノミ」(同前)という消極的理由からだけではなく、彼の進化論が想定した世界的同化作用を基礎づけるためにも、この国際語の採用・国語の変革を必須の条件と考えていたと思われるのである。言いかえれば北は、日本語によって保存されているアジア思想を、国際語によって近代化・世界化することを構想していたのであった。

 そしてこのような分配的正義と大工業の同時的実現、伝統文化の維持発展と国際語による世界化という二つ基軸によって構成されている国内改造政策を、いかにして実現し、世界に向って拡大してゆくのかということは、政治の任務として北は捉えるのであった。

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