『帝国議会誌』第12巻

1976年6月

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第六二回帝国議会 貴族院・衆議院解説


 

古屋 哲夫

 

第六二回帝国議会 貴族院解説
第六二回帝国議会 衆議院解説

第六二回帝国議会 貴族院解説
五・一五事件
第六二回議会の召集
貴族院の状況

第六二回帝国議会 貴族院解説



五・一五事件

 犬養内閣が第61回議会で成立させた昭和7年度追加予算は、4月5月の2ケ月分の満州事変費を計上しただけであり、従って5月に再び臨時議会を召集することは既定の方針であった。政府は4月19日の閣議で、第62回議会を5月23日召集、会期2週間の臨時議会とする方針を決め、4月28日には召集詔書が公布されていた。前回の議会も臨時議会であったから、今度は特別議会とすべきだとの意見もあったが、政府では、憲法の規定は、総選挙後5ケ月の間に議会を開けばよいので、特別議会の形式をとらねばならないわけではないという解釈をとっていた。そして、昭和7年度実行予算の編成、インフレ政策のための兌換銀行条例の改正などを用意したが、財政難のため積極政策をとることもできず、303名という未曽有の与党を 持ちながら犬養内閣の迫力はとぼしかった。

  むしろ政治的には政党政治を否定しようとするファ ッショ的潮流の方に注目が集まりつつあった。次期首班に国本社の平沼騏一郎を擁立しようという策動も広がりつつあった。当時の東京朝日は「拡大強化するフ ァッショ施風」と題して、「多年政界の惑星としてその行動を注視されていた平沼騏一郎男はファッショ的傾向を多分に持つ国本社を中心勢力として隠約の内に政治的活動を開始し……国本社は全国各重要都市において講演会を開き或はパンフレットを発行し以て在郷軍人団青年団等を動かし、いわゆるファッショ的運動の拡大強化に努めている。……この国本社を中心とするファッショ的運動に対しては政府の森(恪)書記官長は当初よりすこぶる共鳴し、荒木陸相始め陸軍首脳部としばしば会見して意見を交換し更に広く有力なる同志を糾合するの目的をもって、貴族院の伊沢多喜男氏、民政党の永井柳太郎氏、貴族院副議長近衛文麿公等や財界有力者とも会見し、現状打破、強力内閣組織の必要なる所以を力説して賛成を求め、不安なる現状を打破するには平沼男の出馬以外に途なきを説いて奔走し」ていると報じていた(東朝、5・7)。政局の不安を感じた近衛は、森恪を通じて軍部に接触を求め、内大臣秘書官長木戸幸一や元老西園寺の秘書原田熊雄らと次の首相は平沼がよいか斉藤実がよいかなどと話し合っている(「木戸幸一日記」4月3、4日の条等参照)。つまり次の内閣は政党の手から離れるだろうとする見方が次第に強まっていた。そしてこの時すでに、直接行動により政党政治に一撃を加えようとする海軍青年将校を中心にした策動が着々と進められていた。

  血盟団事件(「第六一回帝国議会衆議院解説」参照)につづく第2陣を引きうけていた古賀清志・中村義雄ら海軍青年将校は、3月11日井上日召が自首するとすぐさま活動を始めた。まず茨城県で愛郷塾を組織していた橘孝三郎の参加を得た彼等は、さらに後藤映範ら井上日召の影響下にあった陸軍士官候補生グループを 同志とし、陸軍青年将校にも働きかけて行った。第61回議会が開会された3月20日には中村義雄が陸軍側のリーダーである大蔵栄一・村中孝次・安藤輝三らと会見しその蹶起をうながしたが、まだ荒木陸相に期待を抱いていた彼等は自重論をとって応ぜず、士官候補生グループをも抑えようとする態度を示した。結局陸軍側からは士官候補生グループが、大蔵らに秘密にこの計画に参加しただけに終わった。

  4月に入ると古賀らは、大川周明・頭山秀三・本間憲一郎などの右翼指導者の援助を求めて資金やピストルなどを受けとり、計画の具体化を急いだ。そして5月13日に至り最終計画が決定された。それは、海軍青年将校・陸軍士官候補生・愛郷塾の農村青年及び血盟団残党などから成る参加者を4組に分け、首相官邸・牧野伸顕内大臣邸・政友会本部・警視庁・三菱銀行・変電所などを襲撃し、戒厳令施行に導いて国家改造の端緒をつくろうとするものであり、行動開始は5月15日午後5時30分と決められていた。行動は予定通り実行に移された。三上卓らの第1組は首相官邸に押し入り、日本間客室に端座して「話せばわかる」と繰り返す犬養首相を、「問答無用」とピストルで射殺、 他のグループも襲撃目標に手榴弾を投げ込んだのち、軍人グループは憲兵隊に自首した。

  5・15事件は、彼等の計画からみれば、首相暗殺以外には、襲撃目標にさしたる被害を与えることができず、農民決死隊による6変電所の襲撃も、機械の一部を破壊しただけで帝都暗黒化の目的を果せなかったなど、決して成功とは言えなかったが、しかしその政治的影響は深刻なものであった。護憲三派内閣以来の政党内閣時代は、この一撃によって終止符を打たれる ことになった。

  政友会は事件後いち早く、内相鈴木喜三郎を後任総裁として政権担当の姿勢を示したが、軍部の政党内閣反対の意向は強く、元老西園寺は重臣層の意見を聴取したうえで、海軍の長老斉藤実を首相に推挙した。西園寺としては穏健派とみられた斉藤を立てて軍部の熱 のさめるのを待ち、政党政治を復活させたいと考えていたし、斉藤も挙国一致を唱えて政党にも協力を求めた(政友会より3名、民政党より2名入閣、「第六二回帝国議会衆議院解説」参照)。しかしこれ以後、政党勢力は弱体化の一路をたどり、第二次大戦後に至るまで、再び政党総裁が首相にのぼることはできなかった。なおこの内閣には、貴族院から逓信大臣南弘(交友倶楽部・勅選)、中島久万吉(公正会・男爵)、後藤文夫(無会派・勅選)が入閣した。南は政友系、後藤は民政系とみられたが、しかし後藤はようやく台頭しつつあった新官僚グループの中心人物であり、次第に新官僚の代表者とみられるようになってゆく。また中島は、財界に重きをなす政治家として選ばれたのであった。



第六二回議会の召集

 第62回議会は5・15事件にもかかわらず、予定通り5月23日に召集された。しかし、前日に斉藤実に組閣の大命が下ったばかりであり、内閣が成立したのが26日になったため、開院式はようやく6月1日に行われている。会期は14日間で、延長もなく6月14日に閉会した。

  この議会での議長・副議長、全院・常任委員長、政府側委員・議員の会派別所属などは次の通りとなっている。

議長   徳川 家達(公爵・火曜会)
副議長   近衛 文麿(公爵・火曜会)
     
全院委員長   松平 頼寿(伯爵・研究会)
     
常任委員長 資格審査委員長 柳原 義光(伯爵・研究会)
  予算委員長 柳沢 保恵(伯爵・研究会)
  懲罰委員長 大久保 利武(候爵・研究会)
  請願委員長 清岡 長言(子爵・研究会)
  決算委員長 辻  太郎(男爵・公正会)
     
国務大臣 内閣総理大臣 斉藤  実
  外務大臣(兼任) 斉藤  実
  内務大臣 山本 達雄
  大蔵大臣 高橋 是清
  陸軍大臣 荒木 貞夫
  海軍大臣 岡田 啓介
  司法大臣 小山 松吉
  文部大臣 鳩山 一郎
  農林大臣 後藤 文夫
  商工大臣 中島 久万吉
  逓信大臣 南  弘
  鉄道大臣 三土 忠造
  拓務大臣 永井 柳太郎
     
政府委員(6・1発令) 内閣書記官長 柴田 善三郎
  法制局長官 堀切 善次郎
  法制局参事官 黒崎 定三
  金森 徳次郎
  外務政務次官 滝  正雄
  外務参与官 沢本 与一
  外務省亜細亜局長 谷  正之
  外務省欧米局長 松島  肇
  外務省通商局長 武富 敏彦
  外務省条約局長 松田 道一
  外務書記官 松宮  順
  内務政務次官 斎藤 隆夫
  内務参与官 勝田 永吉
  内務省地方局長 安井 英二
  内務省警保局長 松本  学
  内務省土木局長 湯沢 三千男
  内務書記官 武部 六蔵
  社会局長官 丹羽 七郎
  大蔵政務次官 堀切 善兵衛
  大蔵参与官 上塚  司
  大蔵省主計局長 藤井 真信
  大蔵省主税局長 中島 鉄平
  大蔵省理財局長 富田 勇太郎
  大蔵省銀行局長 大久保 偵次
  大蔵書記官 川越 丈雄
  関原 忠三
  陸軍政務次官 土岐  章
  陸軍参与官 石井 三郎
  陸軍主計監 小野寺 長治郎
  陸軍少将 山岡 重厚
  陸軍二等主計正 栗橋 保正
  海軍政務次官 堀田 正恒
  海軍参与官 川島 正次郎
  海軍主計中将 加藤 亮一
  海軍少将 寺島  健
  海軍主計大佐 荒木 彦弼
  司法政務次官 八並 武治
  司法参与官 岩本 武助
  司法省民事局長 長島  毅
  司法書記官 黒川  渉
  文部政務次官 東郷  実
  文部参与官 石坂 豊一
  文部省学生部長 伊東 延吉
  文部書記官 河原 春作
  農林政務次官 有馬 頼寧
  農林参与官 松村 謙三
  農林省農務局長 小平 権一
  農林省山林局長 長瀬 貞一
  農林省水産局長 戸田 保忠
  農林省畜産局長 村上 龍太郎
  農林省蚕糸局長 入江  魁
  農林書記官 田淵 敬治
  商工政務次官 岩切 重雄
  商工参与官 松村 光三
  商工省工務局長 竹内 可吉
  商工省鉱山局長 福田 庸雄
  商工省貿易局長 寺尾  進
  商工書記官 北村 保太郎
  製鉄所長官 中井 励作
  逓信政務次官 志賀 和多利
  逓信参与官 立花 種忠
  逓信省経理局長 富安 謙次
  鉄道政務次官 名川 侃市
  鉄道参与官 板谷 順助
  鉄道省監督局長 喜安 健次郎
  鉄道省経理局長 工藤 義男
  拓務政務次官 堤 康次郎
  拓務参与官 木村 小左衛門
  拓務書記官 杉田 芳郎
  朝鮮総督府政務総監 今井田 清徳
  朝鮮総督府財務局長 林  繁蔵
  台湾総督府総務長官 平塚 広義
  台湾総督府財務局長 岡田  信
  関東庁財務部長 西山 左内
  樺太庁長官 岸本 正雄
  南洋庁長官 松田 正之
     
政府委員追加
(会期中発令)

文部省普通学務局長 武部 欽一
  北海道庁長官 佐上 信一
  内閣恩給局長 樋貝 詮三
  大蔵書記官 賀屋 興宣
  営繕管財局理事 太田 嘉太郎
  農林書記官 井野 碩哉
  大蔵書記官 青木 一男
  拓務省管理局長 生駒 高常
  拓務省殖産局長 北島 謙次郎
  拓務省拓務局長 郡山  智
     
会派別所属議員氏名    
開院式当日各会派所属議員数
(昭和7年6月1日)

研究会 149名
  公正会 68名
  交友倶楽部 41名
  同和会 41名
  火曜会 34名
  同成会 25名
  会派に属さない議員 42名
  400名
     
研究会 黒田 長成
  蜂須賀 正韶
  大久保 利武 
  林 博太郎
  堀田 正恒
  川村 鉄太郎
  樺山 愛輔
  奥平 昌恭
  小笠原 長幹
  柳沢 保恵
  柳原 義光
  松木 宗隆
  松平 頼寿
  二荒 芳徳
  児玉 秀雄
  酒井 忠克
  酒井 忠正
  黒木 三次
  溝口 直亮
  有馬 頼寧
  橋本 実斐
  伊集院 兼知
  伊東 二郎丸
  井上 匡四郎
  五辻 治仲
  今城 定政
  池田 政時
  岩城 隆徳
  八条 隆正
  花房 太郎
  西尾 忠方
  西大路 吉光
  保科 正昭
  戸沢 正己
  豊岡 圭資
  渡辺 七郎
  渡辺 千冬
  片桐 貞央
  吉田 清風
  米津 政賢
  米倉 昌達
  高倉 永則
  滝脇 宏光
  立花 種忠
  冷泉 為勇
  曽我 祐邦
  鍋島 直縄
  裏松 友光
  野村 益三
  大浦 兼一
  大久保 立
  大河内 輝耕
  櫛笥 隆督
  柳生 俊久
  藪  篤麿
  松平 直平
  松平 康春
  前田 利定
  牧野 忠篤
  牧野 一成
  舟橋 清賢
  藤谷 為寛
  井伊 直方
  青木 信光
  秋月 種英
  秋田 重季
  秋元 春朝
  綾小路 護
  清岡 長言
  三室戸 敬光
  白川 資長
  新庄 直知
  樋口 誠康
  東園 基光
  毛利 高範
  森  俊成
  織田 信恒
  土岐  章
  梅小路 定行
  梅園 篤彦
  三島 通陽
  植村 定治
  岡部 長景
  毛利 元恒
  加藤 泰通
  高木 正得
  市来 乙彦
  馬場 ^一
  西野  元
  富谷 ヌ太郎
  若林 賚蔵
  勝田 主計
  金杉 英五郎
  内藤 久寛
  馬越 恭平
  藤山 雷太
  小松 謙次郎
  木場 貞長
  宮田 光雄
  志水 小一郎
  板西 利八郎
  大橋 新太郎
  山川 端夫
  太田 政弘
  塚本 清治
  岡崎 邦輔
  若尾 璋八
  大谷 尊由
  三井 清一郎
  山岡 万之助
  藤原 銀次郎
  八田 嘉明
  根津 嘉一郎
  潮 恵之助
  磯村 豊太郎
  大塚 惟精
  堀 啓次郎
  今井 五介
  佐賀 石川 三郎
  宮城 伊沢 平左衛門
  新潟 五十嵐 甚造
  島根 糸原 武太郎
  千葉 浜口 儀兵衛
  和歌山 西本 健次郎
  群馬 本間 千代吉
  北海道 金子 元三郎
  石川 横山  章
  宮崎 高橋 源次郎
  東京 津村 重舎
  静岡 中村 円一郎
  高知 宇田 友四郎
  鳥取 奥田 亀造
  東京 山崎 亀吉
  長野 小林  暢
  岡山 佐々木 志賀二
  長崎 沢山 精八郎
  新潟 斉藤 喜十郎
  奈良 北村 宗四郎
  徳島 三木 与吉郎
  福井 森  広三郎
  大阪 森  平兵衛
  鹿児島 奥田 栄之進
  千葉 菅沢 重雄
  北海道 板谷 宮吉
  兵庫 八馬 兼介
  神奈川 上郎 清助
  京都 風間 八左衛門
  山梨 名取 忠愛
  栃木 見目  清
     
公正会 伊藤 安吉
  伊藤 文吉
  伊江 朝助
  今枝 直規
  今園 国貞
  岩倉 道倶
  池田 長康
  稲田 昌植
  井上 清純
  西  紳六郎
  東郷  安
  千秋 季隆
  長  基連
  渡辺 修二
  神山 郡昭
  金子 有道
  高木 喜寛
  高橋 弓彦
  辻  太郎
  鍋島 直明
  中島 久万吉
  野田 亀吉
  大井 成元
  大寺 純蔵
  小畑 大太郎
  沖  貞男
  黒田 長和
  矢吹 省三
  松岡 均平
  船越 光之丞
  福原 俊丸
  藤村 義朗
  郷  誠之助
  近藤 滋弥
  寺島 敏三
  有地 藤三郎
  赤松 範一
  足立  豊
  坂本 俊篤
  阪谷 芳郎
  佐藤 達次郎
  紀  俊秀
  北河原 公平
  北大路 実信
  北島 貴孝
  斯波 忠三郎
  四条 隆英
  千田 嘉平
  関  義寿
  周布 兼道
  上村 従義
  長松 篤(非+木)
  三須 精一
  深尾 隆太郎
  松尾 義夫
  井田 磐楠
  中村 謙一
  肝付 兼英
  平野 長祥
  園田 武彦
  松村 義一
  渡辺  汀
  原田 熊男
  大森 佳一
  菊地 武夫
  徳川 喜翰
  岸  清一
  京都 田中 一馬
     
交友倶楽部 勅男 山本 達雄
  犬塚 勝太郎
  石渡 敏一
  橋本 圭三郎
  和田 彦次郎
  川村 竹治
  高橋 琢也
  竹越 与三郎
  中村 純九郎
  室田 義文
  大山 綱昌
  岡  喜七郎
  山之内 一次
  佐藤 三吉
  水上 長次郎
  水野 錬太郎
  南  弘
  内田 重成
  大川 平三郎
  鵜沢 総明
  小久保 喜七
  桑山 鉄男
  長岡 隆一郎
  中川 小十郎
  栃内 啓次郎
  古島 一雄
  山口 林  平四郎
  青森 鳴海 周次郎
  福岡 太田 清蔵
  芳賀 茂元
  神奈川 小塩 八郎右衛門
  熊本 坂田  貞
  岡山 山上 岩二
  茨城 瀬谷 勇三郎
  滋賀 吉田 羊治郎
  山形 佐藤 信古
  福島 根本 祐太郎
  愛知 下出 民義
  埼玉 岩田 三史
  鹿児島 相良 安之助
  沖縄 大城 兼義
     
同和会 勅男 幣原 喜重郎
  浅田 徳則
  大島 健一
  嘉納 治五郎
  真野 文二
  石塚 英蔵
  内田 嘉吉
  武富 時敏
  勅男 若槻 礼次郎
  森  賢吾
  原  保太郎
  藤田 四郎
  上山 満之進
  阪本 ソ之助
  倉知 鉄吉
  川崎 卓吉
  安立 綱之
  川上 親晴
  田所 美治
  岡田 文次
  永田 秀次郎
  徳富 猪一郎
  服部 金太郎
  木村 清四郎
  稲畑 勝太郎
  赤池  濃
  野村 徳七
  関  直彦
  有吉 忠一
  本山 彦一
  織田  万
  阿部 房次郎
  岩田 宙造
  松浦 鎮次郎
  門野 幾之進
  各務 鎌吉
  静岡 尾崎 元次郎
  広島 松本 勝太郎
  三重 小林 嘉平治
  岩手 瀬川 弥右衛門
  大阪 佐々木 八十八
     
火曜会 伊藤 博精
  一条 実孝
  徳川 家達
  徳川 圀順
  徳大寺 公弘
  鷹司 信輔
  九条 道実
  山県 有道
  近衛 文麿
  三条 公輝
  島津 忠重
  池田 仲博
  細川 護立
  徳川 頼貞
  徳川 義親
  大隈 信常
  鍋島 直映
  中山 輔親
  中御門 経恭
  野津 鎮之助
  久邇 邦久
  山内 豊景
  山階 芳麿
  前田 利為
  松平 康荘
  久我 常通
  西郷 従徳
  嵯峨 公勝
  佐竹 義春
  佐々木 行忠
  木戸 幸一
  菊亭 公長
  四条 隆愛
  広幡 忠隆
     
同成会 伊沢 多喜男
  高田 早苗
  鍋島 桂次郎
  江木  翼
  三宅  秀
  菅原 通敬
  菊池 恭三
  青木 周三
  渡辺 千代三郎
  加藤 政之助
  片岡 直温
  藤沢 幾之輔
  丸山 鶴吉
  次田 大次郎
  愛知 磯貝  浩
  福島 橋本 万右衛門
  茨城 浜 平右衛門
  兵庫 田村 新吉
  富山 高広 次平
  秋田 土田 万助
  岐阜 長尾 元太郎
  愛媛 八木 春樹
  埼玉 斉藤 善八
  熊本 沢田 喜彦
  大分 平田 吉胤
     
会派に属さない議員 雍仁親王
  宜仁親王
  載仁親王
  邦芳王
  博恭王
  博義王
  武彦王
  恒憲王
  朝融王
  守正王
  多嘉王
  鳩彦王
  稔彦王
  恒徳王
  春仁王
  永久王
  西園寺 公望
  毛利 元昭
  大山  柏
  浅野 長勲
  小松 輝久
  醍醐 忠重
  井上 三郎
  勅 男 松井 慶四郎
  勅 伯 内田 康哉
  福永 吉之助
  渡辺  暢
  樺山 資英
  松本 烝治
  二上 兵治
  新渡戸 稲造
  藤田 謙一
  佐竹 三吾
  村山 龍平
  後藤 文夫
  土方  寧
  美濃部 達吉
  上田 万年
  田中 館愛橘
  小野塚 喜平治
  藤沢 利喜太郎
  香川 大西 虎之助

 なおこの議会の会期中に沢原精一(広島)が多額納税議員として任命されたが、当面会派には加わらなかった。



貴族院の状況

 この議会冒頭の施政方針演説で斉藤首相は「現下ノ 時局ハ世人ガ之ヲ称スルニ『非常時』ノ形容詞ヲ以テシマスル程重大デアルト考ヘマス」と述べているが(速記録第2号参照)、こうした非常時意識は議員のなかにも滲透してきており、さらに衆議院では政友・民政ともに政府支持の立場に立っている関係もあり、貴族院でも反政府的な策動は影をひそめてしまっていた。しかし次第に政治的圧力を強めてくる軍部に対する反感もみられ、とくに貴族院においては、陸軍士官候補生から5・15事件参加者を出したにも拘らず、荒木陸相がその責任をとらずに留任したことに対する批判も強かった。当時の新聞は貴族院の空気を次のように報 じている。

 

 「荒木陸相留任の報に接した貴族院各派は大体左の如き見解を下している。

  聖代の一大不祥事勃発当時の荒木陸相・大角海相・鈴木内相は如何なる事情あるも立派に責を負うて留任勧告を辞退するが当然である。先に軍部の一部では犬養首相暗殺直後後継内閣の形態その他に関し種種の論議をなし荒木陸相自らこれが先頭を勤め、当時その不謹慎を憤慨する向きが多かったにも拘らず、更に荒木陸相が留任するに至ったのは驚く外はない。斯様な組閣振りでは新内閣の生命の長短に非常に影響するものである。  

  とて酷評する者多く来たるべき臨時議会において貴族院は陸相の責任を質すの必要ありとの声が高まるものとみられている」(東朝、5・27付夕刊)。 


 陸軍部内では、5・15事件に関しては武藤信義教育総監が責任をとって辞任したが(後任、林銑十郎)、荒木に対しては軍中堅層から青年将校に至るまで一致 してその留任を求める声が高かった。いわばこの時期にはまだ荒木の手腕への期待が陸軍全休に充満していたと言ってよい。従って荒木追及は陸軍全体との対決となることを覚悟しなければならない情勢であり、貴族院の反荒木的ムードも議会開会が近づくにつれて後退していった。  

  荒木陸相白身は開会冒頭の演説で、5・15事件にふれ、軍人がこの種の行動に出たことは「誠ニ遺憾ニ存ジ、申訳ケナキコトト存ジテ居リマス」と述べたが、留任の事情については、「然ルニ四囲ノ情勢ハ、今回敢テ私ガ不肖ヲ忘レマシテ再ビ其任ニ留マリマシテ、 匪躬ノ誠ヲ致サザルヲ得ザルニ立至リマシタ」(速記録第2号参照)と抽象的に触れたにすぎなかった。そこで6月6日夜の徳川議長主催の閣僚・各派交渉委員招待会の席上では、留任事情をどの程度まで説明できる かとの質問が出たが、荒木は先日の本会議で述べた以 上のことは不可能とつっぱねている。そこで翌7日に予定されていた上山満之進(同和会・勅選)の軍紀粛正 についての質問演説が注目されたが、上山も結局陸相留任問題は追及することなく終わった。  

  しかし上山は「世論ニ惑ハス政治ニ拘ラス」との軍人勅諭の一節を引用して、軍人は現役に居る間は断じて政治に関与してはならないと強調し、5・15事件を起こした青年軍人の行動は「全ク軍人勅諭ニ背イタモノデアリマス」と断定して注目された。そしてさら に、3月事件・10月事件といった軍部の陰謀にも触 れている「三月ノ事件、一〇月ノ事件、其他苟モ世人ノ疑ヲ挟ム事件ヲ発表シナイノハ、徒ニ流言蛮語ヲ シテ、却ッテ勢ヲ逞シウセシムル所以デアラウト思ヒマス」と述べた上山は、「軍部ハ昨春以来頻発セリト称セラルル事件ニ付キ軍部ニ関スル真相ヲ発表シテ世ノ疑惑ヲ解キ以テ人心安定ニ資スルノ意思ナキヤ」とただした。この部分は当時の新聞には報ぜられず、答弁に立った荒木陸相もこの問いには何等触れるところがなかった。しかしこの上山の演説は軍部を強く刺激 した。陸軍首脳部の間では、軍紀の保持という問題は統帥事項に属することであり、軍人が政治に関与してはならないというなら、立法府は統帥事項に容かいす ることができない筈だ、従って上山演説は統帥権干犯だという論議がなされていたという(東朝、6・8)。 上山が3月事件・10月事件についてどれ程の情報を 得ていたか不明であるが、中堅・高級将校が関与した10月事件の場合には、荒木はクーデター政府の首相にかつがれており、5・15事件よりもはるかに直接的な責任を追及される問題であった。

  この議会に重要案件としては、まず昭和7年度追加予算案・歳入補てんのための公債発行法案・兌換銀行券発行条例改正法案・関税定率法改正案などをあげる ことができる。これらは犬養内閣のもとで用意されていたものであるが、ここにみられる特徴は、インフレ政策と関税障壁による世界的なブロック経済化への対抗がはっきりと打ち出されたことであった。後者に関連しては資本逃避防止法案も提出されているが、その要点は外国通貨及び外国為替の売買を統制(制限又は禁止)する権限を政府に与えようとするものであった。 また商法中の手形関係の規定を独立させ整備した手形法案もこの議会に提出されたが、これは1930年の国際会議で調印された手形に関する法規を統一する条約にもとづく法案であり、この臨時議会で成立させ同条約の批准期限に間に合わせようとしたものであった。

  これらの法案をめぐる論議は、平凡・低調と評されたが、議会の外からは、恐慌下の農村を救えという大衆的な農村救済請願運動がまきおこり、この議会に押しよせてきていた。その結果、衆議院での決議により、 この年3回目の臨時議会として第63回議会が開かれることになるのであるが、この議会でも生糸滞貨問題解決のため、糸価安定融資担保生糸買収法案・糸価安定融資損失善後処理法案が急きよ上程されるに至っている。これらの案件はいずれも可決成立しており、この議会に政府から提出された予算案3件、法律案21件のうち、審議未了に終わったのはわずか2件にすぎなかった。   

(古屋哲夫)

         
第六二回帝国議会 衆議院解説