岩波講座日本歴史20(第2次)近代7

1976年7月

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日 本 フ ァ シ ズ ム 論


 

古屋 哲夫


はじめに

1 ファシズム把握の歴史的枠組み
2 日本ファシズムの胎動
3 日本ファシズムの形成過程
4 日本ファシズムの政治構造
注釈



4 日本ファシズムの政治構造



 国体明徴運動を指導し、ファッショ化の中心勢力となったかにみえた陸軍も、その内部において激しい抗争が展開されていたことは、この運動が政府の第一次国体明徴声明を批判する形でさらに熱狂の度を加えつつあった35年8月12日、永田鉄山軍務局長が相沢三郎中佐に斬殺されたことで明らかとなった。すでに荒木陸相時代末期から激化しつつあった陸軍部内の対立は、いよいよ最終の局面をむかえていた。それは簡単に言えば、「革新」政策の立案と実行をめざす幕僚グループが、新官僚と結びつき、青年将校運動を抑圧しながら陸軍の新たな主流勢力にのしあがってきたこと、そしてそれに対して青年将校側が激しい反撃に転じてきたことを示すものであった。

 十月事件によって幕僚「革新」派から離れ、さらに血盟団、五・一五事件へと蹶起する急進派とも別れた陸軍青年将校グループは、彼等こそが「革新」の担い手だとする意識を強めつつ、「上下一環、左右一体を標語とし(67)」た運動を展開して行った。この標語の意味するところは、隊付将校としての兵隊教育によって、一般兵士にまで「革新」意識を浸透させると同時に、上官をも説いてこの方向に同調させ、皇道派将官のリードのもとに陸軍を全体として「革新」の中軸たらしめようとする意図を示すものであった。当時話題となった青年将校の荒木陸相訪問なども、この運動方針の実践にほかならなかった。

 しかし同時に、こうした青年将校運動の展開は、幕僚「革新」派を分解させるきっかけともなった。荒木貞夫、真崎甚三郎らの精神主義的傾向の強い将軍たちは、青年将校運動を「革新」の一つの力と考えたのに対して、総動員体制の現実的推進を急務とする永田鉄山らは、全軍の統制による軍中央部の威信を軍の政治的主導権確立の前提であると捉えていた。前者は皇道派、後者は統制派と呼ばれ、34年1月の荒木の陸相辞任(後任林銑十郎)、同3月の永田の軍務局長就任は統制派が陸軍中央を制したことを示していた。 そしてこれと並行して青年将校運動への抑圧が強まってゆくことになる。

 すでに33年11月には、武藤章、池田純久、片倉衷などの幕僚たちは、大蔵栄一、村中孝次、磯部浅一らの青年将校のリーダーと会見し、次のような方針を示したという。すなわちそれはまず「国軍就中陸軍の立場は政府並に国民を指導」すべき「重大使命」を有するものであるが、「内外国策遂行のためには主として国務大臣たる陸軍大臣之に当り、中央部各官は之を輔佐邁進すべく挙軍一体精神的支持を与ふるを第一義とす」という原則を主張する。そして「青年将校が自己の包蔵する政治的考案を研究し之が施行を上司に迫るが如きは軍隊に政治部を配置するソ連と異らず(68)」として中央部の統制に服することを求めたものであった。この話し合いが物わかれに終ると、今度は34年1月 には片倉を中心とする統制派少壮幕僚たちによって「政治的非常事変勃発二処スル対策要綱(69)」が作成される。「政治的非常事変」とは青年将校らの蹶起を想定したものであり、このクーデターをねらって一挙に政治の実権を握ろうとする、いわばカウンター・クーデターの計画であった。そしてこの頃より、荒木・真崎から北一輝、西田税にいたる皇道派系とみられた諸勢力に対する怪文書による攻撃が激化していった(70)。 34年11月には、村中孝次、磯部浅一がクーデターを計画したとして検束される(一一月事件)。彼らはこれを皇道派弾圧のためのデッチァゲ事件だと反論・抗争しているが、35年7月には、皇道派の巨頭、真崎甚三郎が教育総監を罷免され、青年将校たちがおいつめられた状態におちいってきたことは明らかであった。相沢中佐の永田斬殺事件を反撃の口火とした彼等は翌年2月、最後の力をふりしぼって二・二六事件に蹶起する。しかし孤立した皇道派勢力が勝利する条件はもはや存在していなかったと言ってよい。事態は統制派のしいたレールの上を動いているようにさえみえた。

 事件後の粛軍人事によって皇道派勢力は一掃され、広田内閣はその組閣過程から陸軍側の激しい干渉に悩まされる。軍部とくに陸軍の国策への介入は格段に強まってきた。36年5月には軍部大臣現役武官制が復活され、それはすぐ次の宇垣一成の組閣を失敗に終らせるという効果をあらわした。11月にはナチス・ドイツとの間に日独防共協定が締結され、国際的にもファッショ陣営が形成された。そしてそのことは、ファッショ化の方法をドイツに学ぼうとする気運を強めることにもなるのであった。またこの間、軍部の「行政機構改革案」が各方面に大きな衝撃をあたえるという事態も起っている。しかしファシズムという観点からみれば、この軍の政治への関与がどこまでどのような形で強まるのか、つまり軍が軍事以外の分野をも直接に指導し組織するという事態がおこってくるのかどうかが問題であった。

 既成の諸機構を否定しない漸進的な「革新」を主張していた統制派の間にも、軍が国民を直接に指導し動員できる体制をつくるべきだとする考え方があらわれていた。たとえば、池田純久中佐の執筆といわれる「陸軍当面の非常時政策(71)」(35年9月18日)は、「非常時日本を急速なる漸進的過程に於て改革せんと欲せぱ、軍部は独自の政治勢力を結成せざるぺからず」とし、軍自らが「国民大衆の動員組織を確立」することが必要だというのであった。そして具体的には、ブレーントラストの組織、ジャーナリズムの利用、在郷軍人会の統制、陸軍労働組合の組織、公益労働者の獲得、配属将校を通ずる学生動員、中堅インテリの獲得、各種の民間新興団体の統制、好意的中立派の増加拡大などの問題をとりあげている。この案はもちろん机上の空論に終ったが、若しこうした広汎な国民の組織化に軍自らが着手するとすれば、具体的な「敵」に向って国民を煽り立てることが必要であったであろう。

 しかし、統制派の漸進的構想から言えば、もはや国内に「敵」を想定することは困難であり、国外の「敵」に対する戦争構想を軸とした軍部の「政治勢力」化の道しかありえないことになろう。だが、この場合にも粛軍にあたっても強調された政治関与のルートを陸軍省軍務局→陸軍大臣に限定するという統制派の原則と矛盾する事態がおこってくるという困難にぶつからなければならなかった。つまりそこでは戦争構想立案の主役である参謀本部が「政治勢力」化の主役にもなるということが予想されるのであり、それに対しては統制派的反撃の起こることは必至であった。そして二・二六事件後の石原莞爾をめぐる陸軍内部の動向はそのことを実証するものであった。

 1935年8月12日の石原の日記には、「初出勤、永田少将刺サル(72)」と書かれているが、ここで参謀本部作戦課長の職務についた石原は、以後急速に永田なきあとの陸軍の中心人物にのしあがっていった。そしてこのように彼の地位を重からしめたのは、具体的な戦争構想とそれに伴う経済計画の立案であった。まず作戦課長に就任した石原は、「満州事変」後のソ連の軍備増強により、対ソ関係における日本の軍事力が、とくに戦車、飛行機において著しく劣勢に陥っていること(73)を知る。そしてそうした軍事力の劣勢を挽回し、軍備の機械化を実現するためにはどれだけの生産力が必要なのかという問題に直面することになった。石原は「然ルニ民間ニモ政府ニモ日本経済カノ綜合判断二関スル調査ナキヲ知リテ驚愕シ、種々考慮ノ結果満鉄会社ノ諒解ヲ得、昭和十年秋同社経済調査会東京駐在員タリシ宮崎正義二依頼シテ日満財政経済調査会ヲ創立セリ(74)」と回顧している。このいわゆる宮崎機関は、36年8月頃から種種の計画をまとめているが、その目標は37年から41年にいたる5年間で対ソ戦のための軍備とそれを支える生産力をつくりあげることにおかれているのであり、したがってそれは具体的な展望をもった綜合的対外政策の樹立を前提とするものであった。

 36年6月には石原の主張により参謀本部に戦争指導課が新設され、石原は自らその課長に就任するや直ちに「昭十六年迄ヲ期間トシ対『蘇』戦争準備ヲ整フ(75)」、つまり5カ年計画の完成までは一切の戦争を行わず、専ら対ソ戦の準備をあらゆる側面から進めるという方針を打出した。しかしこの構想が実現されるためには、軍事、外交、経済、財政、宣伝等、基本的政策はすべてこの観点から統制されねばならないというとになるはずであった。石原はこの「国防国策」実現のために積極的に政治に介入していった。37年1月23日には「戦争遂行ノ基礎ヲ確立スル為概シテ昭和十六年迄ニ日満ヲ範囲トスル自給自足経済ヲ完成ス」という点を中心とした「内閣更迭の場合陸軍大臣の入閣条件として要求すべき事項(76)」が参謀総長の決裁を得る。そしてこれを背景とした石原は、十河信二(満鉄理事・興中公司社長)を林の組閣参謀に送り込み、閣僚人事を左右し、とくに「満州事変」における盟友板垣征四郎の陸相就任を実現しようとした。しかしこの、軍部の外に宮崎、十河らを中心にして満州組と呼ばれた勢力をつくり、組閣に介入するという石原のやり方は、独自の「政治勢力」の形成を志向するものにほかならず、軍内部から激しい反撃にあうのは必然であった。陸軍三長官会議は板垣陸相案を拒否し、ここから石原の声望は急速に後退して行ったといわれる。37年3月、参謀本部作戦部長という絶好の地位につきながら、蘆溝橋事件以後の日中戦争の全面化を阻止しえなかったことは、石原構想の完全な敗退を意味するものにほかならなかった。

 日中戦争の全面化以後の諸問題は、本講座の他の諸論文で明らかにされる筈であるが、この戦争過程の最大の特徴は、日本の政治指導者が主体的な戦争構想をたてえないままに、戦争の泥沼にはまり込んでいった点に見出されるであろう。そしてそれは、これまでみてきたようなファッショ化の構造がそのまま克服されずに持続されていったことを示すものにほかならなかった。いいかえれば、「満州事変」後の政治過程にあらわれている次のような問題点が固定化される形で、日本ファシズムの政治構造ができあがったとみることができる。

 まず第一には、クーデターの代りに「満州」侵略の軍事的勝利がファッショ化の道を開いて以後、対外侵略がファッショ化の基本的動因として固定化されていった。「満州事変」以後、1933年の熱河作戦、35年の華北分離工作と、侵略は現地軍の判断を中心にして継続されていったが、この軍事支配の拡大こそが、軍部の政治的主導性の根拠となり、同時にまた国内の非常時意識を持続させファッショ化の要求を高める要因となっていたが故に、軍中央部が現地軍を統制することは極めて困難とならざるをえなかった。石原構想の敗退はこのことを端的に示していた。第二に、ファッショ的勢力がこうした軍事侵略を支持する形で、それぞれの権力機構内部に拡大していったことは、明治憲法を基礎とする権力機構の割拠性を打破することを困難にした。国体明徴運動は、見方をかえていえば、明治憲法についての特定の解釈を絶対化することにより既存の機構の根本的改変を否定する効果をもたらし、二・二六事件後の粛軍も、既存の軍機構の再強化により軍内部の割拠性の温存を結果していた。第三にはこうした割拠性が克服されない以上、多様なファッショ勢力は、対外強硬論を主張し合い、あるいは国民のファッショ的組織化を競い合うことで、ファッショ体制における地位を確保しようとすることとなる。そしてこの競合がファッショ化の具体的動因となったといってよい。トラウトマン和平工作の拒絶に際して、参謀本部より政府の方が強硬であったことは、こうした政治構造のあり方を示す事例であった。更にこの政治勢力の競合状態は、軍部内に元来存在する軍事的成功を競い合う傾向を更に激化させ、主体的構想を欠いた戦争の拡大を結果することとなるのであった。日本ファシズムは国民組織の面から言えば、大政翼賛会の成立をもってその完成のメルクマールとすることができる。しかし政治構造的に言えば、蘆溝橋事件から「国民政府を相手にせず」という近衛声明に至る時期にはこうした競合的ファッショ化の構造が確定的なものとなったとみることができるであろう。