『帝国議会誌』第13巻

1976年7月

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第六三回帝国議会 貴族院・衆議院解説


 

古屋 哲夫

 

第六三回帝国議会 貴族院解説
第六三回帝国議会 衆議院解説

第六三回帝国議会 衆議院解説
民政党の分裂
斉藤内閣の救農政策
政友会の動向
第六三回議会の召集
議会振粛問題と建議委員会の新設
「焦土外交」演説
率勢米価問題

第六三回帝国議会 衆議院解説



民政党の分裂

  「満州事変」の勃発以後、政党勢力のなかに親軍的傾向が拡大し、5・15事件後になるとそこからさらに、国家社会主義陣営とでも言うべき一勢力が生み出されてきた。無産政党の分裂と一部右翼勢力の抱き合わせによる、日本国家社会党及び新日本国民同盟の結成 (昭7、5・29)はその中核をなすものであったが、協力内閣運動の失敗を機として民政党を脱党していた安達謙蔵らの動向も、既成政党のなかからの国家社会主義的方向への接近とみることができる。第62回議会(6・14閉会)から第63回議会(8・23開会)に至る時期は、まだこうした動向を軸にした政界再編成が進行しているさなかであった。そしてそこでの大きな出来事は、社会大衆党の成立と、安達一派による 国民同盟準備委員会の結成及びそれに伴う民政党の分裂などであった。

  まず7月24日、国家社会主義転向派の脱党によっ て弱体化した社会民衆党と全国労農大衆党とが合同し、社会大衆党が結成されたが(安部磯雄委員長・麻生久書記長)、労大党中の旧労農党系の左派分子にはこの合同に反対して脱落してゆくものも多く、無産政党運動の前途の困難さをうかがわせるものであった。

  ところで、こうした無産政党陣営の再編がすすむにつれて、民政党脱党以来、情勢を静観してきた安達謙蔵らが積極的に動き始める気配を示し始めた。すでに6月初めには「安達氏の周囲は、漸次新党組織論に傾いて来たやうである」(東朝、6・5)と報ぜられており、この動きが具体化すれば、民政党内に相当の影響を及ぼすであろうとみられた。すなわち、安達派は、浜口内閣時代の民政党において、江木(翼)派ととも に二大勢力と呼ばれる程の勢力を有していたが、協力内閣運動失敗に際して脱党したのは、安達・中野(正剛)らの数名にすぎず、安達派の大部分はまだ民政党にとどまっていた。従って安達が新党を結成すれば、これら民政党内の安達派の相当部分が脱党することは必至とみられた。

  しかし民政党残留の安達派は、新党組織よりもむしろ、安達を復党させて民政党の主導権を握ることを望 んでいた。浜口没後、井上準之助を血盟団に暗殺され、江木翼もまた病床にある(9・18没)という民政党の状況にあっては、安達が復党すれば、最有力の総裁候補となることは明らかであった。同時にまたそれ故に、若槻総裁・町田(忠治)総務といった現幹部は、安達復党に強く反対していたのであるが、安達派としては、ともかくも復党運動に最後の力をふりしぼったうえで、それが失敗すれば新党組織にはせ参ずるという態度を固めた。そして第62回議会が閉会する前後から、民政党内はこの問題をめぐって大きく動揺する こととなる。

  議会閉会の前日、6月13日午前、若槻総裁は、山道襄一・古屋慶隆・小池仁郎ら安達復党運動のリーダー達を個別に自邸に招いて運動の打切りを求めたが、このことは復党運動を一挙に表面化させることとなった。翌日から安達派は、幹部の反省を求めるため、安達復党の署名を集め始める。しかし幹部側にはこうした動きに妥協する意思は全くみられず、16日の幹部会では、復党運動を続ける者は断固処分するとの方針が決定された。こうなれば、署名運動などでは対抗できないのは明らかであり、安達派は党内に政策集団を つくり同志の糾合にのり出すという作戦に出た。20日には山道・古屋らが東京ステーション・ホテルに政治研究会事務所を開設し、小池らは別に23日に政策研究会を開催することを決める。これに対して民政党幹部側は党内の動揺を防止するため、ある程度の脱党者を出しても、こうした動きを禁圧し党内統制を強化しようとした。

  6月22日、山道・古屋・小池の3議員と会談した町田総務は、党の政策調査会以外の研究会を認めることはできないとして、派閥的行動をやめるよう求めたが、それが拒否されるや、妥協の余地なし、として離党を勧告するに至った。翌23日、前記3議員は離党届を提出、以後彼等につづいて何人の議員が民政党を 去るかに興味が集まったが、結局第63回議会の開会までに、22名が民政党を脱党し、安達と行動を共にすることとなっている。こうした民政党内の自派議員の動向に呼応して、安達謙蔵も6月27日、強力なる政党の組織を目的とし、当面その準備として自由なク ラブを設立すると声明、7月1日にはステーション・ホテルに「国策研究クラブ」の事務所を開いた。

  この間、民政党からの脱党者が次々に同クラブに加盟しているが、さらに7月12日革新党が安達新党に合流するとの態度を明らかにした。革新党は昭和2年 6月に結成され、議員2、3名の小政党であるが、党弊打破・選挙粛正などを唱え、選挙公営論を主張して注目されていた存在であり、この時には衆議院に清瀬 一郎・大竹貫一、貴族院に勅選議員・関直彦を擁して いた。同党は7月25日に解党大会を開き、正式に国策研究クラブに加盟した。これにより衆議院で交渉団体となる資格である25名を確保する見通しを得たた め、同クラブは8月8日、立党準備協議会を開催し、党名を「国民同盟」、委員長を安達謙蔵と定め、国民同盟準備委員会として第63回議会に臨むことになった。当面の政策としては、満州国即時承認と共に、統制経済の確立を強調しており、既成政党と国家社会主義陣営の中間に位置するとみられた。なお、安達と共に民政党を脱党した富田幸次郎は、この新党運動には 参加せず「他日、民政党と新党とは合同の運びとなる であらうから、その際両者の間に立って仲介の労を取ることとしたい」(東朝、6・23)と語っていた。

  安達派の脱党問題が一応鎮静しつつあった8月2日今度は、中堅幹部の三木武吉が突如脱党届を提出し、民政党は再び新たな動揺に見舞われることとなった。 三木の行動は安達派とは関係なく、同党東京支部の紛争に対する党幹部の態度を不満としたものであり、東京府市部会議長選挙にあたり政友会と通謀した大神田軍治の除名を要求するものであった。すなわち、大神田を除名しなければ自分が脱党するというのである。 三木と関係の深い10数名の議員の動揺をおそれた民政党幹部は5日になって大神田の謝罪等の条件で脱党を 取消すことを三木に求めたが、三木はこれを拒絶し、同じ日、戸沢民十郎・松永東が三木に同調して脱党した・さらに第63回議会の会期中に脱党した藤田若水も三木派に属する議員であった。

  こうした安達派につぐ三木派の脱党によって勢力を さらに弱められた民政党は、この議会においても何ら積極的な行動に出ることなく、もっぱら斉藤内閣の忠実な与党に終始する有様となった。



斉藤内閣の救農政策

  第63回臨時議会の開催は、第62回議会における衆議院の決議によって要請されたものであり、深刻な恐慌状態におちいっている農村に対して、有効な救済策を樹立することが求められたのであった。斉藤内閣も第62回議会閉院式の行われた6月15日午後には、 内務・大蔵・商工・農林・鉄道の5省次官会議を開き、 5省の協力により、救済政策をつくりあげてゆくという方針を決めた。そして以後この方針にもとづき、5省次官会議及び5大臣会議がしばしば聞かれている。 各省ともほぼ7月一杯をかけて、事業計画の作成をすすめていったが、しかし問題は財源であった。昭和7 年度の一般会計がすでに赤字公債に頼らねばならない状態にあり、従って農村救済のために新規事業を起こすとすれば、それが赤字公債の増発を結果し、次年度以降の財政を圧迫することになるのは必然であった。それ故、財政的観点から言えば、救農事業への支出を 出来るだけ切りつめることが必要であり、そこから、 国民に対して「自力更生」を呼びかけるという事態も 生まれたのであった。

  7月6日夜のラジオ放送を通じて、国民に自力更生のための奮起を訴えた斉藤首相は、7月18日に聞かれた地方長官会議冒頭の訓示でもこの点を強調した。 内務省では自力更生を促す啓蒙・精神運動を企画した。 しかし地方長官会議における知事達の発言は、「農家の負債は1戸当たり500円から1000円に達している」などと農村の窮状を具体的に訴え、また「東北の青森・岩手の両県の如きはこの際直ちに自力更生によるは困難である故、特に当局の考慮が必要である」、自力更生の「精神運動よりは、その物質的基礎をなす国及び公共団体の救助施設が必要である」(東朝、7・ 19、同20)などと政府の積極的施策を求めるものであった。しかし財政難を回避する名案はあり得なかっ た。

  各省で作成された事業予算は総計3億4000万円 にのぼったが、8月11日の閣議に提出された査定案では、このうち1億4000万円足らずが認められたにすぎなかった。これに対して各省から復活要求が出されたが、結局8月16日の閣議では、一般会計1億 6300余万円、特別会計1300余万円、合計1億7600余万円の昭和7年度追加予算案が決定された。 このうち最も大きなものは土木事業費であり、内務省 所管(治水・港湾・道路等)4800余万円、農林省所管(開墾・用排水・林道等)3700余万円、合計7400余万円にのぼっている。政府としては、これらの土木事業に農民を就労させ、賃銀を得させることをねらったものであり、内務省では請負を排して町村直営事業の方式により、地元農民を雇傭させることに主眼を置いていた。その他の農村関係予算のうちでは、文部省に1200万円が認められたのが注目された。こ れは恐慌による地方財政悪化のため、小学校教員の俸給の不払い問題が起こっており、こうした事態を解消 するために、市町村立尋常小学校費臨時国庫補助法案を提出し、3ヶ年にわたって国庫補助を行うという計画が立てられ、その初年度分の予算というわけであった。

  ここにもみられるように、斉藤内閣は3ヶ年で農村を救済するという構想によって政策を立案しており、そのことは追加予算とならぶ救済政策の柱である融資計画のなかにより明確にあらわれていた。すなわち内閣側では、農村で不動産を担保とした貸付けなどで長期にわたって固定してしまっている資金を流動化することを目的として、不動産融資及損失補償法案・産業組合中央金庫特別融通及損失補償法案などを用意したが、それらはいずれも3年の時限立法であった。すなわち前者は、日本勧業銀行・農工銀行・北海道拓殖銀行に3年間で5億円を融資し、他の銀行の不動産担保債権を肩代りさせる(損失は1億円を限度として国が補償)、後者は産業組合中央金庫に3年間に1億円を融資して、全国の信用組合の固定化した債権を肩代りさせ る(損失は3000万円を限度として国が補償)というも のであった。

  斉藤内閣はこうした財政支出及び融資を基礎とし、さらにそのうえで米及び繭の価格を安定させることで、農村を救済できると考えていたようにみえる。第63 回議会に提出された法案についてみると、まず米につ いては、米穀需給調節特別会計法を改正してその借入 (運用)限度を3億5000万円から4億5000万円に増額すると共に、昭和9年10月末までの応急法として米穀応急施設法を制定し、政府買上げ米の道府県への貸付け及び朝鮮米・台湾米の買上げ・売渡しが出来るようにしようとしている(そのため特別会計限度も更に3000万円増額)。すなわち米については従来の方式を拡張し、植民地米を統制下におけば、その価格を安定させることが出来るというわけであった。これに対して繭については、製糸業を安定させることで、養蚕農家を間接に保護することが考えられていた。新たに提案された製糸業法案は、製糸業を免許制にする と共に、主務大臣に同業者に統制上必要な命令を発しうる権限を与えるものであり、一定規模以下の弱小経営を整理することにそのねらいが置かれていた。

  こうした諸施策にくらべて、一般に農村救済の中心課題と考えられていた50億円にものぼるとみられる 農家負債をどう整理してゆくのか、という点に関する政府の施策は著しく貧弱なものに感ぜられた。政府側が用意したのは、農村負債整理組合法案・金銭債務臨時調停法案の2法案であったが、前者は負債整理のため部落を単位とする連帯無限責任の法人として農村負債整理組合の制度を起こそうというものであり、後者 は1000円以下の債務につき、借地借家調停法に準ずる手続をもって調停してゆこうというものであった。 政府側は負債整理組合に対して国又は公共団体から低利資金を供給する考えのあることを言明したが、その額や方法について何らの規定がなされていないのは、 政府の熱意のなさを示すものだとの批判が高まり、後述するように議会でも大きな問題となった。

  しかし後藤文夫農相を中心とする立案者側の発想は、資金の不足を隣保的規制関係の強化によって補ってゆく、つまり、「自力更生」の「自力」を個々の農家にではなく、隣保的組織に求めようとするものであったと言える。負債整理組合法第1条には「隣保共助ニ依 リ」と規定しているが、こうした文言が法律の条文にあらわれるのは異例のことであった。同様の観点は、同時に提出された産業組合法改正案にもみることができる。同法案はこれまで認められてきた有限責任制度を原則として廃止して、保証責任又は無限責任に統一すると共に、個人に限られていた組合員の資格を拡張し、農事実行組合及び養蚕実行組合に法人としての加 入の道を開いたものであった。ここでの農事実行組合とはそれまで農家小組合と総称されてきた共同作業のための部落的任意団体を連帯無限責任の法人化したも のと言える。つまり後藤農相の構想は、部落的隣保規制関係を強化し、それを消極的には負債整理組合として農家の生活規制にあたらせ、積極的には、農事実行組合に組織して、産業組合活動のなかに組み込んでゆこうとするものであった。負債整理組合法は後述するようにこの議会では流産したが、議会後に展開される農村更生運動はこうした組織化構想を軸とするものとなっていた。



政友会の動向

  昭和7年度追加予算案の内容が固まってきた8月上旬になると、前議会で注目を集めた請願運動が再び盛 り上がり始めた。さきに「3ヶ条請願期成同盟会」を 組織して請願運動に先鞭をつけた自治農民協議会・長野朗らは、8月1日になると3ヶ条請願は実現性にとぼしかったとして、組織を「5ヶ条請願期成同盟会」と改称し、次の5ヶ条の請願運動を起こした。「(1)政府低利資金3ヶ年据置、利子補償ノコト、(2)農民ノ生活権ヲ確保スル様強制執行法ヲ改正スルコト、(3)3億円ノ開墾事業ヲ起コシ、且開墾助成ノ範囲ヲ拡ムルコト、(4)適当ナル移民教育ヲ施シ、海外移住助成金1人当タリ100円、内地移住助成金1人当タリ100円ヲ給付シ且帰農移住者ニハ助成米1人当タリ4斗ヅツ 3年間支給スルコト、(5)俸給ヲ物価ニ平行セシメ上下ノ懸隔ヲ緩和スル様俸給令ヲ改正スルコト」(内務省警保局編「社会運動ノ状況・昭和7年」、931頁)。

  これに対して成立早々の社会大衆党も8月2日、日常闘争に関する指令を発したが、農村問題については、「(1)農村モラトリアムの即時断行、(2)農産資金の無担保融通、(3)肥料種子農具の国家無償配給、(4)米産農家損失の国家補償、(5)立入禁止土地取上げの絶対禁止、 (6)勤労農民負担税の減免」(同前、674頁)のスローガンをもって、請願署名運動を行うこととした。官憲側の調査によれば、第63回議会開会までに、5ヶ条請願期成同盟会は4万2505名、社会大衆党は2万3782名の署名を集めたという(同前、932、675頁)。このほか、帝国農会をはじめとする農林・水産・土木などの関係団体も、議会への請願・陳情運動にのり出しており、第63回議会は「請願議会」と呼ばれるような様相を示した。そしてこうした動きを背景と しながら、衆議院の絶対多数を握る政友会の活動が、著しく野党的となってきたことがこの議会の特徴であ った。  

  政友会は斉藤内閣に閣僚を送って一応協力の姿勢を 示してはいたものの、その内部には300議席の勢力をもって思い切った政策を打出して人気を集めることができれば、政友会内閣の復活もありうるのではないかという思惑が渦巻いていた。第62回議会で突如と して「平価五分のり切下げ案」を唱えて混乱をまきおこしたこともそのあらわれであったが、第63回議会が近づくと斉藤内閣の救農政策を微温的とし、「不徹底無気力な斉藤内閣にはこの重大時局を担当する能力がないから、この際現内閣を打倒して真の意味における非常時強力内閣を組織すべし、と主張する一派」(東朝、8・11)この活動が表面化してきた。まず、8月10日には志賀和多利逓信政務次官が、「今日の農村に 自力更生の力ありとするは非常なる認識不足」(同前)だと主張して辞表を提出、辞任(翌11日、後任に牧野良三―岐阜県選出―を任命)したが、16日になると30余名が出席した有志代議士会が開かれ、斉藤内閣の用意した政策は「一時を糊塗し却って禍を将来に残す もの」であるとし、「政府は改めて国民の要望に副ふの方途を樹立し本議会に提出すべし」と決議した。また同じ日の政友会院外団理事会はより明確に「斉藤内閣の如きは非常時局に際して大政処理の能力なきものと認む。よって現内閣の自決を促し強力内閣の成立を 期す」(東朝、8・17)として倒閣を決議している。  

  これに対して政友会の幹部達は、5・15事件後間 もないこの時期に、挙国一致を唱えるこの内閣と正面衝突することは不利と考えていたが、将来の政局の主導権を握るためには、人気取り政策を掲げてある程度の抵抗を行うことは必要だとしていた。しかし対政府強硬派は、こうした幹部の態度をなまぬるいとし、彼等の突上げによって、8月17日の政務調査会総会も、召集日前日、21日の恒例の議員総会も大いに紛糾するに至っている。議員総会の場合をみると、開会の挨拶に立った山口義一幹事長は、「自力更生なる標語は国民自らの間において用いらるるときは正当であるが、 国政せう理の大任にある人より聞くときそれは責任の回避であり無為無能の弁解に過ぎない」(東朝、8・22)と政府を批判したが、鈴木喜三郎総裁の演説は政府の施策を批評することを避け、議会において十分な審議を行うという是々非々主義の立場を表明するものであった。しかし強硬派はこの方針に大いに不満であり、正規の議事が終了するや、宮崎一議員(埼玉)は、政府案のよくないことは議会を待つまでもなく明らかではないか、我党は宜しく会期を延長して予算案の作 り直しを政府に要求すべきだと叫び、篠原義政議員(群馬)は「不信任案もやむなし」と極言するなど、会場は騒然とした状態におちいっている(同前)。

  政友会が内閣不信任案を提出することはないとみら れたものの、第63回議会もまた、300議席の威力をもつ政友会の動向によって相当に紛糾することが予想されたが、政府側は短期の臨時議会という方針をも って臨んでいた。



第六三回議会の召集

  第63回議会は8月5日に公布された召集詔書により、会期8日間、この年3度目の臨時議会として8月22日に召集された。召集の翌23日に開院式が行われるという異例のスピードで開会されたが、会期は3回にわたって5日間延長され、終了したのは9月4日 になっていた。

  この議会における正・副議長、全院・常任委員長、 政府側委員、議員の党派別所属は次の通りであった。 なお後述のように、この議会冒頭の8月24日の本会議で建議委員会が委員数45名の常任委員会として新設されることとなった。

議 長   秋田  清(政友・徳島)
副議長   植原 悦二郎(政友・長野)
     
全院委員長   伊藤 仁太郎(政友・東京)
     
常任委員長 予算委員長 岡田 忠彦(政友・岡山)
  決算委員長 田口 文次(政友・佐賀)
  請願委員長 高見 之通(政友・富山)
  懲罰委員長 浜田 国松(政友・三重)
  建義委員長 牧野 賎男(政友・東京)
     
国務大臣 内閣総理大臣 斎藤  実
  外務大臣 内田 康哉
  内務大臣 山本 達雄
  大蔵大臣 高橋 是清
  陸軍大臣 荒木 貞夫
  海軍大臣 岡田 啓介
  司法大臣 小山 松吉
  文部大臣 鳩山 一郎
  農林大臣 後藤 文夫
  商工大臣 中島 久万吉
  逓信大臣 南  弘
  鉄道大臣 三土 忠造
  拓務大臣 永井 柳太郎
     
政府委員(8・22発令) 内閣書記官長 柴田 善三郎
  法制局長官 堀切 善次郎
  法制局参事官 黒崎 定三
  金森 徳次郎
  外務政務次官 滝  正雄
  外務参与官 沢本 与一
  外務書記官 松宮  順
  内務政務次官 齊藤 隆夫
  内務参与官 勝田 永吉
  内務省地方局長 安井 英二
  内務省警保局長 松本  学
  内務省土木局長 唐沢 俊樹
  内務書記官 山崎  巌
  社会局長官 丹羽 七郎
  北海道庁長官 佐上 信一
  大蔵政務次官 堀切 善兵衛
  大蔵参与官 上塚  司
  大蔵省主計局長 藤井 真信
  大蔵省主税局長 中島 鉄平
  大蔵省理財局長 冨田勇太郎
  大蔵省銀行局長 大久保 偵次
  大蔵書記官 川越 丈雄
  関原 忠三
  陸軍政務次官 土岐  章
  陸軍参与官 石井 三郎
  陸軍監 小野寺 長治郎
  陸軍少将 山岡 重厚
  陸軍二等主計正 栗橋 保正
  海軍政務次官 堀田 正恒
  海軍参与官 川島 正次郎
  海軍主計中将 加藤 亮一
  海軍少将 寺島  健
  海軍主計大佐 荒木 雅彦
  司法政務次官 八並 武治
  司法参与官 岩本 武助
  司法省民事局長 長島  毅
  司法書記官 黒川  渉
  文部政務次官 東郷  実
  文部参与官 石坂 豊一
  文部省普通学務局長 武部 欽一
  文部書記官 河原 春作
  農林政務次官 有馬 頼寧
  農林参与官 松村 謙三
  農林省農務局長 小平 権一
  農林省山林局長 木島 駒蔵
  農林省水産局長 戸田 保忠
  農林省畜産局長 村上 龍太郎
  農林省蚕糸局長 入江  魁
  農林省米穀部長 長瀬 貞一
  農林書記官 井野 碩哉
  田淵 敬治
  商工政務次官 岩切 重雄
  商工参与官 松村 光三
  商工省商務局長 川久保 修吉
  商工省工務局長 竹内 可吉
  商工書記官 北村 保太郎
  逓信政務次官 牧野 良三
  逓信参与官 立花 種忠
  逓信省電務局長 山本 直太郎
  逓信省管船局長 広幡 忠隆
  逓信省経理局長 富安 謙次
  鉄道政務次官 名川 侃市
  鉄道参与官 板谷 順助
  鉄道省運輸局長 日浅  寛
  鉄道省建設局長 池田 嘉六
  鉄道省経理局長 工藤 義男
  拓務政務次官 堤 康次郎
  拓務参与官 木村 小左衛門
  拓務省管理局長 生駒 高常
  拓務省拓務局長 郡山  智
  拓務書記官 杉田 芳郎
  朝鮮総督府政務総監 今井田 清徳
  朝鮮総督府財務局長 林  繁蔵 
  台湾総督府総務長官 平塚 広義
  台湾総督府財務局長 岡田  信
  樺太庁長官 今村 武志
     
政府委員追加(会期中発令) 内務省衛生局長 大島 辰次郎
  外務省亜細亜局長 谷  正之
  拓務省殖産局長 北島 謙次郎
  社会局部長 冨田 愛次郎
  大蔵書記官 石渡 荘太郎
党派別所属議員氏名    
     
召集日各党派所属議員数 立憲政友会 298名
  立憲民政党 119名
  国民同盟準備委員会 30名
  第一控室 14名
  欠員 5名
  466名
     
立憲政友会 東京 立川 太郎
  本多 義成
  犬養  健
  鳩山 一郎
  安藤 正純
  伊藤 仁太郎
  磯辺  尚
  国枝  拾次郎
  中野 勇治郎
  三上 英雄
  牧野 賎男
  前田 米蔵
  中島 守利
  津雲 国利
  坂本 一角
  京都 鈴木 吉之助
  鷲野 米太郎
  中野 種一郎
  磯辺 清吉
  長田 桃蔵
  芦田  均
  水島 彦一郎
  大阪 板野 友造
  山本 芳治
  沼田 嘉一郎
  上田 孝吉
  青田 勝晴
  森田 政義
  喜多 孝治
  岩崎 幸治郎
  山口 義一
  井阪 豊光
  神奈川 野方 次郎
  川口 義久
  鈴木 喜三郎
  胎中 楠右衛門
  鈴木 英雄
  河野 一郎
  兵庫 砂田 重政
  中井 一夫
  蔭山 貞吉
  立川  平
  小林 絹治
  多木 久米次郎
  青木 雷三郎
  原 惣兵衛
  土井 権大
  若宮 貞夫
  畑 七右衛門
  長崎 西岡 竹次郎
  向井 倭雄
  森  肇
  佐保 畢雄
  新潟 山本 悌二郎
  田辺 熊一
  松木  弘
  渡辺 幸太郎
  出塚 助衛
  加藤 知正
  高橋 金治郎
  山田 又司
  鈴木 義隆
  武田 徳三郎
  埼玉 秦  豊助
  高橋 泰雄
  宮崎  一
  横川 重次
  長島 隆二
  一瀬 一二
  出井 兵吉
  門田 新松
  群馬 中島 知久平
  青木 精一
  増田 金作
  畑  桃作
  木暮 武太夫
  篠原 義政
  千葉 鈴木  隆
  本多 貞次郎
  川島 正次郎
  鳩山 秀夫
  今井 健彦
  竹沢 太一
  小高 長三郎
  岩瀬  亮
  茨城 内田 信也
  宮古 啓三郎
  葉梨 新五郎
  石井 三郎
  山崎  猛
  飯村 五郎
  堀江 正三郎
  佐藤 洋之助
  栃木 船田  中
  森  恪
  坪山 徳弥
  松村 光三
  岡本 一已
  上野 基三
  奈良 江藤 源九郎
  岩本 武助
  福井 甚三
  三重 加藤 久米四郎
  伊坂 秀五郎
  堀川 美哉
  浜田 国松
  後藤  脩
  愛知 加藤 鐐五郎
  田中 善立
  瀬川 嘉助
  丹下 茂十郎
  山田 佐一
  滝  正雄
  田中 貞二
  小笠原 三九郎
  小林  リ
  大口 喜六
  近藤 寿市郎
  静岡 山口 忠五郎
  宮本 雄一郎
  深沢 豊太郎
  仁田 大八郎
  春名 成章
  勝又 春一
  太田 正孝
  倉元 要一
  山梨 田辺 七六
  川手 甫雄
  大崎 清作
  竹内 友治郎
  滋賀 清水 銀蔵
  服部 岩吉
  仙波 久良
  岐阜 匹田 鋭吉
  大野 伴睦
  佐竹 直太郎
  楠  基道
  牧野 良三
  平井 信四郎
  長野 山本 慎平
  山本 荘一郎
  小川 平吉
  平野 桑四郎
  有馬 浅雄
  高橋  保
  植原 悦二郎
  宮城 守屋 栄夫
  宮沢 清作
  菅原  伝
  佐々木 家寿治
  星  廉平
  大石 倫治
  福島 堀切 善兵衛
  菅野 善右衛門
  八田 宗吉
  小島 智善
  助川 啓四郎
  佐藤 庄太郎
  鈴木 辰三郎
  岩手 田子 一民
  八角 三郎
  熊谷  巌
  志賀 和多利
  小野寺  章
  広瀬 為久
  青森 藤井 達也
  梅村  大
  工藤 十三雄
  兼田 秀雄
  山形 西方 利馬
  高橋 熊次郎
  戸田 虎雄
  熊谷 直太
  松岡 俊三
  秋田 杉本 国太郎
  鈴木 安孝
  小山田 義孝
  福井 熊谷 五右衛門
  山本 条太郎
  猪野毛 利栄
  石川 中橋 徳五郎
  箸本 太吉
  青山 憲三
  益谷 秀次
  富山 石坂 豊一
  高見 之通
  島田 七郎右衛門
  土倉 宗明
  鳥取 豊田  収
  矢野 晋也
  島根 島田 俊雄
  沖島 鎌三
  岡山 岡田 忠彦
  横山 泰造
  難波 清人
  大山 斐瑳麿
  久山 知之
  小谷 節夫
  星島 二郎
  白神 邦二
  広島 岸田 正記
  名川 侃市
  渡辺  伍
  望月 圭介
  宮沢  裕
  米田 規矩馬
  森田 福市
  山口 久原 房之助
  保良 浅之助
  庄  晋太郎
  松岡 洋右
  窪井 義道
  西村 茂生
  児玉 右二
  和歌山 木本 主一郎
  玉置 吉之丞
  松山 常次郎
  世耕 弘一
  三尾 邦三
  徳島 紅露  昭
  生田 和平
  秋田  清
  伊藤 皆次郎
  香川 宮脇 長吉
  上原 平太郎
  山下 谷次
  三土 忠造
  愛媛 大本 貞太郎
  須之内 品吉
  森 昇三郎
  河上 哲太
  白城 定一
  清家 吉次郎
  山村 豊次郎
  高知 田村  実
  中谷  貞頼
  林  譲治
  依光 好秋
  福岡 原口 初太郎
  宮川 一貫
  吉田 鞆明
  実岡 半之助
  田尻 生五
  野田 俊作
  貝谷 真孜
  山崎 達之輔
  高倉  寛
  樋口 典常
  内野 辰次郎
  大分 金光 庸夫
  野依 秀市
  塩月  学
  綾部 健太郎
  清瀬 規矩雄
  佐賀 田中 亮一
  石川 又八
  藤生 安太郎
  田口 文次
  熊本 木村 正義
  松野 鶴平
  村田 虎之助
  上塚  司
  三善 信房
  中野 猛雄
  宮崎 佐藤 重遠
  平島 敏夫
  渡辺 与七
  田尻 藤四郎
  水久保 甚作
  鹿児島 原  耕
  床次 竹二郎
  蔵園 三四郎
  井上 知治
  中村 嘉寿
  東郷  実
  天辰 正守
  寺田 市正
  金井 正夫
  津崎 尚武
  永田 良吉
  沖縄 金城 紀光
  花城 永渡
  崎山 嗣朝
  竹下 文隆
  北海道 寿原 英太郎
  丸山 浪弥
  岡田 伊太郎
  東  武
  林 路一
  田中 喜代松
  佐々木 平次郎
  林 儀作
  板谷 順助
  松実 喜代太
  松尾 孝之
  三井 徳宝
  尾崎 天風
  木下 成太郎
     
立憲民政党 東京 高橋 義次
  大神田 軍治
  駒井 重次
  中島 弥団次
  頼母木 桂吉
  柳田 宗一郎
  鈴木 富士弥
  高木 正年
  斯波 貞吉
  中村 継男
  佐藤  正
  八並 武治
  京都 中村 三之丞
  川橋 豊治郎
  田中 祐四郎
  大阪 一松 定吉
  枡谷 寅吉
  竹田 儀一
  内藤 正剛
  広瀬 徳蔵
  中山 福蔵
  本田 弥市郎
  吉川 吉郎兵衛
  勝田 永吉
  松田 竹千代
  神奈川 戸井 嘉作
  三宅  磐
  小泉 又次郎
  岩切 重雄
  平川 松太郎
  兵庫 浜野 徹太郎
  中 亥歳男
  前田 房之助
  原 淳一郎
  田中 武雄
  斎藤 隆夫
  長崎 中村 不二男
  牧山 耕蔵
  中田 正輔
  新潟 山田 助作
  佐藤 与一
  原 吉郎
  増田 義一
  埼玉 高橋 守平
  群馬 飯塚 春太郎
  清水 留三郎
  木桧 三四郎
  千葉 多田 満長
  鵜沢 宇八
  土屋 清三郎
  茨城 豊田 豊吉
  中井川 浩
  栃木 高田 耘平
  岡田 喜久治
  奈良 八木 逸郎
  松尾 四郎
  三重 川崎 克
  松田 正一
  池田 敬八
  愛知 小山 松寿
  横山 一格
  西脇 晋
  武富  済
  静岡 海野 数馬
  平野 光雄
  永田 善三郎
  滋賀 堤 康次郎
  青木 亮貫
  岐阜 清  寛
  長野 小坂 順造
  松本 忠雄
  小山 邦太郎
  百瀬  渡
  宮城 内ヶ崎 作三郎
  村松 久義
  福島 林 平馬
  鈴木 虎彦
  比佐 昌平
  青森 工藤 鉄男
  山形 清水 徳太郎
  秋田 田中 隆三
  町田 忠治
  猪股 謙二郎
  福井 斎藤 直橘
  添田 敬一郎
  石川 永井 柳太郎
  桜井 兵五郎
  富山 野村 嘉六
  松村 謙三
  鳥取 山枡 儀重
  島根 桜内 幸雄
  木村 小左衛門
  原 夫次郎
  俵 孫一
  岡山 小川 郷太郎
  広島 荒川 五郎
  藤田 若水
  田中 貢
  作田 高太郎
  横山 金太郎
  山口 藤井 啓一
  沢本 与一
  徳島 谷原 公
  真鍋 勝
  矢野 庄太郎
  愛媛 武知 勇記
  村上 紋四郎
  高知 川淵 洽馬 
  福岡 田島 勝太郎 
  高野 喜六
  勝 正憲
  大分 松田 源治
  重松 重治
  佐賀 池田 秀雄
  熊本 大麻 唯男
  北海道 山本 厚三
  坂東 幸太郎
  大島 寅吉
  手代木 隆吉
     
国民同盟準備委員会 兵庫 野田 文一郎
  清瀬 一郎
  長崎 中川 観秀
  新潟 大竹 貫一
  埼玉 野中 徹也
  茨城 風見  章
  栃木 栗原 彦三郎
  愛知 加藤 鯛一
  鈴木 正吾
  静岡 岸  衛
  井上 剛一
  山梨 福田 虎亀
  岐阜 古屋 慶隆
  後藤 亮一
  長野 鷲沢 与四二
  戸田 由美
  岩手 高橋 寿太郎
  青森 菊池 良一
  山形 佐藤  啓
  佐藤 理吉
  鳥取 由谷 義治
  広島 山道 襄一
  和歌山 小山 谷蔵
  福岡 中野 正剛
  佐賀 森  峰一
  熊本 安達 謙蔵
  伊豆 富人
  深水  清
  沖縄 伊札  肇
  北海道 小池 仁郎
     
第一控室    
     
     〔社会大衆党〕 東京 安部 磯雄
  大阪 杉山 元治郎
  福岡 亀井 貫一郎
  小池 四郎
     〔無所属〕 東京 朴  春琴
  三木 武吉
  松谷 与二郎
  京都 福田 関次郎
  埼玉 松永  東
  三重 尾崎 行雄
  福島 中野 寅吉
  香川 戸沢 民十郎
  高知 富田 幸次郎
  北海道 山本 市英


 なお、この議会の会期中に、中田正輔(長崎)が民政党から国民同盟準備委員会へ、藤田若水(広島)が同じく民政党を脱して第一控室へ、また第一控室の山本市英(北海道)は政友会に移った。



議会振粛問題と建議委員会の新設

  5・15事件前後から政党政治の弊害が強く叫ばれるようになり、政党の側でも自粛の気運が高まってきたが、その具体的な動きとしては、秋田衆議院議長の提唱により第62回議会の会期中に各派代表が参加して発足した議会振粛委員会の動きをあげることが出来 る(「第62回帝国議会衆議院解説」参照)。当時、政党=議会政治を立て直すための制度的改革は、選挙法と議会の運営方法の両面から考えられていたが、前者については斉藤内閣が本腰を入れて取組むことになり、 8月4日には選挙法改正に関する法制審議会第1回総会が開かれ具体的審議が始められた。従って、議会振粛委員会ではもっぱら後者の問題がとりあげられることになり、第62回議会終了直後、6月16日の委員会では、小委員会を設けて具体案を作成することが決定された。そして7月15日には次のような「議会振粛要綱」が採択されるに至っている。  

 

 「議会振粛ノ根本対策ハ宜シク立憲的公民教育ヲ施シ議会政治ニ対スル国民ノ覚醒ヲ促スに在リ、選拳法ヲ改正シ政党ノ組織運用ヲ改革シ議員ノ自制ヲ求ムルコト亦当面緊要ノ対策タリト雖モ、凡ソ左記各項ヲ速カニ実行セハ議事ヲ円滑ニシ議会ノ品位ヲ向上シ其ノ機能ヲ発揮シ、以テ議会振粛ノ目的ニ資スル所アルヘシ」。

  (一) 議長副議長ニ関スル事項  

 (一) 議長ノ権限ヲ拡張スルコト。院内警察及ヒ秩序ニ関スル議長ノ職権十分ナラサルモノアリ、之カ拡張ヲ為スハ議会振粛ノ第一義ナリ。議長カ議場整理ノ為議員ニ対シ制止取消シ又ハ発言中止ヲ命スルモ其ノ命ニ従ハサルトキハ更ニ退場ヲ命スルコトヲ 得ルハ現行法規ノ定ムル所ナリト雖モ、尚依然トシテ喧噪ヲ止メサルトキハ遂ニ休憩又ハ議事ヲ中止セサルヘカラサルヲ以テ議事ノ円滑ナル進行ヲ妨クルコト少ナカラス、依テ議長ハ議場ノ秩序ヲ素ル議員ニ対シ登院停止ヲ為シ得ルコトトシ、議長ノ議場整理ノ権能ヲ発揮セシメムトス、此ノ外議事進行ノ発言等議事ノ取扱ヒニ関シ議長ノ権限ヲ拡張セムトス。(二)議長副議長ノ地位ヲ高ムルコト。立憲政治ニ於テ議院ヲ代表スル議長ノ地位ヲ相当高位ニ置クハ当然ノ事柄タリ、之ヲ欧米ノ実状ニ見ルニ概ネ内閣総理大臣ト相比肩ス、然ルニ我国ニ於テハ近時官吏ノ 地位荐リニ進ムト雖モ、議長副議長ハ依然トシテ昔日ノ地位ニ在ルヲ以テ、事実上甚シク低下シ今ヤ一地方ノ行政長官ニ及ハサル奇観ヲ呈ス、是レ寔ニ憲政ノ本義ニ戻り時代ノ趨勢ニ適応セサルヲ以テ速カニ之カ改正ヲ為シ其ノ位列ヲ高メ、議長ハ宮中席次第一階第三枢密院議長ト同列、副議長ハ同第一階第十一親任官ト同列トシ親任式ニ依ツテ任命スルコト トセムトス、尚議長副議長ハ次回ノ総選挙ニ選挙ヲ用イスシテ当選セシムルコトトシ、且退職後ニ在リテハ相当優遇ノ方法ヲ講スルト共ニ、議長副議長ハ党籍ヨリ離脱シ独立公正ヲ保持セシメムトス。(三)副議長ヲ2名トスルコト。議院ノ事務逐年繁劇ヲ加へ加之常置委員ヲ設ケ閉会中ト雖モ委員会ヲ開会スルニ在リテハ副議長1名ヲ以テシテハ不便少ナカラス、且閉会中ニ於テハ仮議長選挙ノ途ナキニ依り副議長ヲ増員シテ議事ノ円滑ヲ図ラムトス。而シテ副議長ハ皆一党一派ヨリ選出スルコトナク少ナクトモ其ノ1名ハ議長ノ属セサル党派ヨリ選出スルコトトシ議会振粛ノ目的ニ副ハムコトヲ期ス。
  
  (二) 立法府経費ニ関スル事項  

 (四)立法ノ予算ハ之ヲ大蔵省所管ヨリ独立セシムルコト。  

  (三) 議会ノ召集ニ関スル事項

 (五)召集詔書公布ノ日ヨリ召集日迄ノ期間ヲ短縮シ二十日ト為スコト。   

  (四) 会期ニ関スル事項  

 (六)会期延長及ヒ之ニ代ル方法ヲ講スルコト。会期ヲ延長シ議事ヲ円滑ニスルハ議会振粛上最有意義ノコトナリ、唯会期ノ規定ハ憲法ノ定ムル所ナルヲ以テ之カ改正ハ容易ナラス、故ニ成ルヘク会期延長ヲ奏請スルノ慣例ヲ作リ、尚新ニ常置委員会ノ制度ヲ設ケ、閉会中ト雖モ議案ノ審査ニ当タラシメ、議会開会ヲ待ツテ之ヲ報告議決セシムル等、議会ノ働ヲ拡充シ以テ会期ノ短キヲ補ハムトス。  

  (五) 部属及ヒ委員ニ関スル事項  

  (七)部属ハ之ヲ廃止スルコト。部ハ現今ホトント其ノ効用ヲ失ヒ唯僅カニ常任委員ノ選挙母体トシテ存スルニ過キス、故二寧ロ之ヲ廃止スヘシ。(八)全院委員会ノ制度ヲ改正シ其ノ活用ヲ為サシムルコト。 全院委員会ハ公開ノ制トナリ居ルモ、之ヲ改正シテ常任委員会及ヒ特別委員会ト同様、一般傍聴ヲ禁シ懇談的ニ議案ノ審査ヲ為サシメ、以テ重要案件ヲ付託シ質疑応答セシメムトス。(九)常置委員ヲ設クルコト。議会ノ開会中閉会中ヲ通シテ常置ノ委員ヲ設ケ、議会中未決議案ノ審査ヲ要スルモノハ之ヲ審査セシムルハ勿論、閉会中審査ヲ要求セラルル案件ニ付キテモ亦之ヲ審査シ、会期ノ短キヲ補フト共ニ時事ノ問題ニ対シ政府ニ説明ヲ求メ質問ヲ為シ、議会ノ行政監督権ヲ発揮セシメムトス。(十)継続委員ヲ廃止スルコト。常置委員ヲ設クル以上、現行継続委員ノ職務ハ之ニ包含スルヲ以テ廃止セムトス。(十一)建議案処理ノ常任委員ヲ設クルコト。近年建議案ノ提出漸ク多ク時ニ400件ヲ超ユルコトアリ、 然ルに建議案ノ議事日程掲載ノ順序ハ政府提出議案及ヒ議員発議法律案ノ次位ナルヲ以テ、上記諸案ノ 幅輳スル近来ニ於テ、建議案ノ審議ハ概ネ会期切迫ニ際シ十分討議ヲ為スコト能ハス、甚シキハ会期ノ最終日ニ、2、300件ヲ上程スル有様ニテ寔ニ遺憾ニ堪ヘス、仍テ建議案審査ノ為特ニ常任委員ヲ設ケ、建議案ノ提出セラルル毎ニ直チニ審査ニ入り其ノ終了ト共ニ会議ニ上程セムトス。  
 
  (六) 議案ニ関スル事項

 (十二)議案提出ノ賛成者其ノ他ノ員数ヲ20名ニ改ムルコト。上奏案、建議案、予算修正案、質問主意書ノ提出、採決ニ対スル異議中立テ等ハ、30名以上ノ賛成者アルコト又ハ30名以上ヲ以テ要求スルコトトナリ居ルモ、法律案ノ提出ハ20名以上ノ 賛成者ニテ足ルヲ以テ、之ト均衡ヲ得セシメムトス。
(十三)議員提出ノ議案及ヒ質問ハ出席議員3分ノ2以上ノ多数ヲ以テ議決シタルトキハ政府ノ同意ヲ経ス政府案ニ先チ議題ト為シ得ルヤウ改ムルコト。  

  (七) 議事ニ関スル事項

 (十四)議事道行ノ発言ニ相当制限ヲ付スルコト。 現在衆議院ニ於テハ議事進行ニ関スル発言ハ直チニ之ヲ許可スル慣例ナルカ為、却テ議事ノ円満ナル道行ヲ妨ケラルルコト少ナカラス、故ニ議事進行ノ発言ト雖モ、直接議題ト関係ヲ有スルモノ又ハ直チニ処理セサルヘカラサルモノヲ除キテハ、其ノ発言ヲ許可スル場合ヲ一ニ議長ノ裁量ニ委ネムトス。(十五)一切ノ動議ヲ封スルノ動議ヲ禁止スルコト。一切ノ動議ヲ封スルノ動議ハ言論ノ府ニ於ケル機能ヲ阻止スルモノタルノミナラス、之ニ依テルル騒擾ヲ誘起スルヲ以テ、一切ノ動議ヲ封スルノ動議ハ爾今之ヲ禁セムトス。(十六)予算不可分ノ原則ヲ緩和スルコト。特別会計予算ハ総予算ト分離シテ成立スルコトヲ認メラルル今日、特別会計予算中ノ一省所管ノ特別会計ハ他省所管ノ特別会計ト全然相関セサルニ拘ハラ ス、一特別会計ノ不成立ヲ以テ特別会計予算全部ヲ 不成立ニ終ラシムルハ、国務ノ遂行ヲ妨クルモノニシテ何等ノ実益ナシ、故ニ之ヲ改正セムトス。  

  (八) 請願ニ関スル事項

 (十七)政府ヲシテ請願処理ノ経過ヲ毎年報告セシムルコト。

  (九) 秩序ニ関スル事項

 (十八)議院内ニ酒類ノ搬入、販売ヲ禁止スルコト。

  (十) 通院徽章ニ関スル事項

 (十九)前代議士元代議士及ヒ政党事務員ノ通院徽章ノ数ハ相当整理スルコト。(二十)政党事務員ハ議事堂内ノ指定区域外ニ出入ヲ禁スルコト。(二十一)政府委員随員ノ徽章ヲ相当整理スルコト。   

  (十一) 傍聴券ニ関スル事項  

 (二十二)傍聴券ニ紹介者ノ氏名ヲ印刷スルコト。(二十三)臨時傍聴券ノ交付方ヲ改正スルコト。

  (十二) 懲罰ニ関スル事項

 (二十四) 懲罰委員会ノ権威ヲ発揚スルコト。懲罰委員ノ人選ニ付キ各派ニ於テ特ニ考慮ヲ払フ慣例ヲ作リ、同委員会ヲシテ権威アラシメムトス。(二十五)懲罰権ヲ議院構内全部ニ及ホスコト。現行法ニ於テハ懲罰権ノ及フ場所明瞭ヲ欠クヲ以テ、議院構内全部ニ及フコトヲ明ラカニスルヤウ改正セムトス。(二十六)出席停止ヲ登院停止ニ改ムルコト。  

  (十三) 設備ニ関スル事項

 (二十七)議場ノ構造ヲ改メ議事ヲ懇談的ニ進行セシメ得ルヤウ為スコト。(二十八)委員会ノ座席ヲ改造シ出入者ニ相当制限ヲ付スルコト。委員会ハ委員席ト傍聴席トノ区別ヲ為シ、委員席ニハ委員ノ外妄りニ出入セシメサルコトト為シ、又政府委員ノ随員ヲ初メ出入者ニ相当ノ制限ヲ加フヘシ。(二十九)議長席及ヒ演壇ニ拡声機ヲ備へ付ケ必要アル場合ニ之ヲ使用スルコト。  

  (十四) 議員ノ品位ニ関スル事項  

 (三十)議院内ノ犯罪ニ依り処罰セラレタル者ハ議員タルト否トニ拘ハラス一定ノ期間衆議院議員選挙権被選挙権ヲ停止スルコト。(三十一)議院内ニ於テ暴行ヲ為シ騒擾ノ主囚ヲ為シタル者ハ政党ノ役員タラシメサルコト。(三十二)党議拘束ノ程度ヲ緩和スルコ ト(「議会制度七〇年史・帝国議会史」下、382〜4頁)。


  この「要綱」の実現に関しては、第63回議会召集日の8月22日の各派交渉会において次のように決定された。すなわちまず、(一)議院法の改正を必要とする事項については、貴族院と交渉し次の通常議会に提案できるようにすること、(二)建議委員会の新設については今議会から実施することとし、24日の常任委員の選挙に当たり、議長より常任委員中に45名の建議委員を設ける事を提議し、院議をもって同委員会の新設を行うこと、(三)各派の申し合わせだけで着手できる具体案をつくり今議会より実施すること、などの決定がなされたのであった。  

 この決定にもとづき、同要綱は秋田衆議院議長から徳川貴族院議長にもたらされ、貴族院では既設の制度調査会で審議されることとなった。また建議委員会も 申し合わせ通りの手続きで新設されたが、これにより以後建議案は本会議を経ずに直接同委員会で審議されその結果が本会議にかけられることになった。こうした改正が必要となったのは、地方的利害の問題が建議案の形式で数多く提起されるようになったためであっ た。元来建議は重要な政治問題について行われるものとの想定で制度化され、従って本会議に直接上程し、そこでの討論によって即決する建前がとられてきた。 選挙区へのお土産的な建議が増加するに従い、このやり方では討議はおざなりとなり、そのうえ本会議の運営を阻害する点が問題とされたのであった。  

  第3の申し合わせによる実行案は次の12項目よりなるものであるが、主として議場の秩序維持の観点に立つものであり、すでに8月16日の各派交渉会で秋田議長から、酒の追放やマイクロフォンの設置などの提議が行われていたものであった。つまり、酒―野次―乱闘という悪循環をたち切ると共に、マイクロフォ ンにより野次を圧倒しようというわけであった。   

 

 各派申し合わせ

(一)演説者ノ言論法規ニ違背スルトキハ之ヲ中止スルハ論ヲ侯タサルカ議長ニ於テ不穏当又ハ議題ノ範囲ヲ超越シタリト認メタルトキハ議長ハ注意シ尚改メサル場合ハ其ノ演説ヲ中止スルコト。(二)規則第一七九条(演説妨害禁止)ヲ厳守スルコト。議長ノ注意ヲ肯セス静粛ヲ欠クトキハ議長ハ退場ヲ命スルコト。(三)規則第一八十条(許可ナク演壇ニ登ラサルコト)ヲ厳守スルコト。議長注意シ肯セサルトキハ退場ヲ命スルコト。演説ヲ中止セラレ降壇セサル者亦同シ。(四)本会議ハ成ルヘク午後六時頃ヲ以テ散会スルコト。(五)弥次ヲ慎ミ殊ニ議院ノ品位ヲ傷クル言動ヲ為ササルコト。(六)懲罰委員会ヲ権威アラシムルヤウ其ノ組職ニ付キ特ニ考慮スルコト。(七) 拡声機ヲ議長席及ヒ演壇ニ備へ付ケ必要アル場合ニ之ヲ使用スルコト。(八)院内ニ酒類ノ搬入及ヒ販売ヲ禁スルコト(但シ儀礼ノ場合ハ此ノ限リニ在ラス)。 (九)衆議院議員選挙法ノ改正ニ当タリ将来議院内ニ於ケル犯罪ニ依り処罰セラレタル者ハ議員タルト否トニ拘ラス五箇年間衆議院議員ノ選挙権及ヒ被選挙権ヲ停止スル規定ヲ設クルニ努ムルコト。(十)将来議院内ニ於テ暴行ヲ為シ騒擾ノ主囚ヲ為シタル議員ハ政党ノ役員タラシメサルヤウ努ムルコト。(十一)各政党ニ於テ党議拘束ノ程度ヲ緩和スルヤウ努ムルコト。(十二)定例日ノ質問ハ成ルヘク之ヲ為サシムルヤウ努ムルコト(同前、384頁)。  


  この申し合わせの実行によって、野次は減り議場は大分静かになったようであるが、議案をめぐる対立が激化すれば、申し合わせを守ってはいられなくなった。 東京朝日は8月25日の社説で「衆議院といふ国民の声を伝へるマイクロフォンが狂って、それを直すため に本物のマイクロフォンが備へつけられるといふこと は、我が議会政治に対する偉大な皮肉である」と揶揄 していた。



「焦土外交」演説

 この議会の特徴としては、第1には内田外相によって、国際世論の如何に拘らず「満州国」を承認するとの方針が明示されたこと、第2には、政友会の政府批判が強まり、議会運営が円滑にゆかなくなったことを あげねばならないであろう。  

  第1の「満州国」承認問題に関しては、すでにさきの第62回議会の衆議院で「満州国」即時承認を求める決議案が満場一致で可決されており、むしろ議会側 が、この決議の実行をせまるという形で政府を鞭撻していた。といっても政党側がこの問題について独自の意見や判断を持っていたわけではなく、軍部の意向を くみ先取りしようとしただけのものであり、「満州国」 承認の準備は、一貫して軍部のペースで進められてい た。そして8月8日武藤信義陸軍大将が関東軍司令官兼駐満特命全権大便兼関東長官に任命されたことは、 承認準備がほぼ完了したことを示すものであった(この過程について詳しくは「第六三回帝国議会貴族院解説」参照)。斉藤首相が、関東軍の状況にも通じているはずの満鉄総裁内田康哉に外相就任を要請したのは、軍部との協調関係を強めてゆくことを期待してのこととみら れた。内田は株主総会などを終えて7月5日上京、翌6日外相に就任した(それまでは斉藤首相の兼任)。

  内田はすでに外相就任直後のリットン調査団との会見において、満州国承認の方針を明確にしていたが、さらにこの議会における外交演説では、「帝国政府ハ、新国家ニ対スル承認ヲ以テ満蒙ノ事態ヲ安定シ、延ベ テ極東ニ於ケル恒久的ノ平和ヲ招来スベキ唯一ノ解決 方法ト認ムルモノデアリマス」(速記録第3号)ど述べ、一層その立場を明確にした。この演説は「満州事変」 は自衛権の行使であり、「満州国」の成立は「支那内部ノ分離連動ノ結果」なのだから、不戦条約や9ケ国条約に違反するものではないとし、また「満州国」政府に多数の日本人が在職している事実も、明治初年に日本政府が多くの外国人を傭い入れたのと同じことだと強弁していた。しかし「満州国」総務長官や各部次長(日本の各省次官にあたる)の地位を日本人が独占し、いかなる政策決定も彼等の承認なしには行なえない状態にあることを、内田が知らない筈はなかった。

  これに対し、最初の質問者として演壇に立った政友会・森恪は「亜細亜ニ帰レ」と叫んでいる。「六十年間盲目的ニ模倣シ来ツタ西洋ノ物質文明ト袂ヲ別ツテ、伝統的日本精神ニ立帰り、東洋本来ノ文明ト理想トニ基イテ、我ガ亜細亜ヲ守ルト言フコトガ、吾々ガ亜細亜ニ帰レト言フコトノ真意デアル」(同前)とした森は、満州国承認は国際協調主義者や国際平和論者に対する外交的宣戦布告であると断じたうえで、承認断行は国際情勢にどのような変化を招来するかとただした。ここで答弁に立った内田は、我が国民は「挙国一致・国ヲ焦土ニシテモ」満州問題に対する主張を貫徹する決心を持っているし、「世界ハ必ズ我ガ態度ヲ是認スルニ至ルト確信シテ居ル」と述べ、内田「焦土外交」の名を残すことになっている。結局、満州国承認はこの議会閉会10日後の9月15日、日満議定書の調印によって実現されたが、そこから国際連盟脱退への道は避けがたいものとなったと言ってよい。



率勢米価問題

 外交政策に関してはすでに政府と政党の間の対立はほとんどみられなくなっていたが、内政問題に関しては、積極的な恐慌対策を打出せない斉藤内閣は無能だとする批判が次第に拡がっていた。新たに組織された国民同盟準備委員会もこうした立場から、斉藤内閣に反対の声をあげていたが、問題は絶対多数を握る政友会のなかに強まってきた反政府的な空気がどのように動くかであった。すでに述べたように、政友会がこの議会で倒閣に動き出すことはないとみられていたが、法案審議をめぐって波らんが起こることは避けがたい形勢であった。

  政友会はこの議会に、製糸業法案・原蚕種国営法案・ 輸出生糸販売統制法案・米専売法案など多くの法案を提出したが、最も力を入れていたのは負債整理組合中央金庫法案と米穀法改正案の2つであった。両法案は秦豊助外23名提出の形で27日の本会議に上程され たが、いずれも政府の負債整理・米穀政策を批判し、政府案の実質的修正をめざしたものであった。政友会はまず、政府の農村負債整理組合法案が、整理資金の裏付けのない点をつき、負債整理組合中央金庫を設立 して資金を確保しなければならないと主張した。政友案によれば、中央金庫は政府から3000万円の出資によって(3年にわたり毎年1000万円)設立し、負債整理組合への貸出しに際してはその20分の1を出資させる。更に出資払込額の20倍以内の債券及び富くじの発行権を与えて資金を調達するというものであった。また、負債整理組合の設立を農村に限ろうとする政府案に対して、都市の中小商工業者をも対象に加えるべきだとした。これに対して政府側は、財政難及び 巨額の債券発行による金融市場の混乱を理由に反対したが、政友会では、農家負債55億〜60億、都市中小商工業者の負債25億〜30億にのぼる負債を整理するためには、この程度の資金を用意しなくてはなら ないと反論した。

  次に米穀法改正に関しては、政府案のように運用資金を増額してみても、余剰米買上げの基準額が「率勢米価」に拘束されていては、農家経済を安定させるために米穀法を運用することができない、また政府買上げ米の売渡しについても、基準額による市場への放出だけでなく、市町村に対して有償又は無償で交付する道を開くべきだというのが政友会の主張であった。政府側も、米穀応急施設法案で政府米の府県への貸付けを認めようとしていたが、政友会は対象を市町村とし無償交付をも認めるべきだというのであった。

  これらの政友会の主張のうち、最も問題となったのは、「市勢米価」規定削除をめぐってであった。率勢米価とは、浜口内閣時代の第59回議会で成立した米穀法改正によって、政府が米の買入れ又は売渡しを行う場合の基準として登場したものであった。すなわち 同改正法によれば、政府の市場への介入は、米価が政府のあらかじめ告示した最高価格を越え、或いは最低価格以下に低落した場合に限られる事になったが(第4条)、その最高・最低価格は、(1)米穀生産費、(2)家計費、(3)米価指数の物価指数に対する割合の趨勢に依り算出したる価格を基礎として決定することと規定された(第5条)。この(3)の方式により決定された価格が、「率勢米価」と呼ばれたものであり、この第5条の規定だけでは(1)、(2)を補足するようにもみえるが、実際には生産費及び家計費の調査が不完全であり、従って当分の間、この率勢米価のみによって米価基準を決定することとされたのであった(附則)。すなわち市勢米価の上下2割を、最高価格・最低価格とすることとな り、毎年12月に次年度における米穀法運用の基準と して、率勢米価が告示されることになったのである。

  ところでこの方式が問題となったのは、率勢米価が現に出廻っている米ではなく、その前年の米の作柄を 基礎として決定されたものだという点であった。具体的に言えば昭和7年度の市勢米価は昭和6年12月に告示されたが、その際の基準米価とされたのは、昭和5年11月1日より昭和6年10月末日に至る間の東京・大阪両正米市場における正米平均価格であり、それは昭和5年度産米の価格にはかならないことになる。 そして持にこの時点でこのことが問題化したのは、昭和5年度産米が大豊作であるのに、6年度産米が大凶作となるという事態が起こったからであった。「現に昨年12月発表された7年度率勢米価は6年の収穫が希有の凶作であったに拘らず前年の大豊作相場を基に算出しているため、最低16円31銭(石当たり)といふが如き適用の余地なき安価が出来上がったのである。政友内閣(犬養内閣) になってから物価高を理由として7年3月訂正して現在の17円91銭に引上げ たけれど、これさへ実際に適用するには現在の正米相場20円60銭が2円70銭以上暴落しなければなら ぬ」(東朝、8・28)。農林省が不完全ながら調査した 米の生産費でも昭和6年度は20円11銭であり、率勢米価の規定が生きている限り、政府は生産費をはるかに下まわる価格でしか米の買入れを行うことはできず、米穀法は米価安定のためには何ら寄与しないことになるではないかというのが政友会の言い分であった。そして政友会提出の米穀法改正案は、前述の第4・第 5条を削除して、米穀法運用の基準を政府の判断に一 任しようとするものであった。

  こうした政友会の主張、とくに負債整理組合中央金庫の設立と率勢米価規定の削除という2つの問題を中心にして、政府と政友会との折衝が行われることとなったが、この間、閣内の不統一もあらわれ、事態はますます紛糾することとなった。すなわち8月28日付けの東京朝日は「率勢米価条項削除、政府も遂に同意、妥協案けふ閣議へ」と題する記事をかかげ、三土鉄相・ 鳩山文相と政友会幹部との間に、政友会が中央金庫法案をとり下げる代りに、政府は率勢米価条項の削除に同意するという点を中心にした妥協案が成立したと報 じた。しかしこれは政友会出身の鳩山・三土両相と柴田書記官長が「非公式な話の間にデッチあげた一種の妥協試案」(東朝、8・29)にすぎず、政友会幹部も後藤農相もともに「我関せず」として態度を硬化させ、 妥協を一層困難にする結果となった。とくに後藤農相は主務大臣を無視して妥協案を作成するとは何事かと憤激し、これまで明確な答弁を避けてきた率勢米価問題に関して、28日午後の予算総会ではじめて問題の規定を削除するのに反対であるとの態度を明らかにした。これに対して政友会は同会の主張を貫徹すると気勢をあげ、妥協の成立は困難な情勢となった。この段階で29日、政府は30日に終了する予定の会期を9月2日まで3日間延長することにした。

  絶対多数を握る政友会が同会の主張を貫徹するという態度をとる以上、政友案が衆議院を通過することになるのは明らかであった。結局政友会は、政府提出の農村負債整理組合法案の「農村」を削り、中央金庫規定を追加する形で修正し、また率勢米価規定を削り政府提出の米穀応急施設法案の内容をとりいれると共に政府米を市町村に有償・無償で交付するという規定をも加えた米穀法改正案を可決し、貴族院に送った。

  貴族院では、研究会を中心とした妥協工作が行われ、同院では政府の側の意向をくんだ再修正案が可決されたが、両院協議会では結局、負債整理組合法案は意見が一致せずに廃案となったが、米穀法については率勢米価規定を残す代りに、その規定を適用せず、最低価格は生産費を基礎として米穀委員会に諮問して決定する、政府米の貸付けについては政府原案通りとするということで妥協が成立し、三たびにわたって延期された会期の最終日、9月4日の両院本会議でようやく両院協議会案が可決されるという有様であった。

  率勢米価問題で紛糾したこの議会について、当時の新聞は、「いはゆる挙国一致内閣でありながら寄合世帯の悲しさ、政府部内の不統一は遺憾なく暴露されたと同時に、議会政治の運用は政党内閣にあらざれば円滑に行い難い点を深く印象づけたのと、政府と政友会との関係が益々遊離し近き将来において政友会は必ずや何かの問題を捉へて政府との関係を清算し断然野党たる立場に還るであらうとの観測を有力ならしめた」 (東朝・9、5)と評していた。

(古屋哲夫)