人文学報 第43号 抜刷

1977年3月

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北一輝論 (5)


古屋 哲夫


14 クーデターの思想
15 猶存社の時代



14 クーデターの思想


 北の『改造法案』が当時の国家主義者たちに大きな衝撃を与えたのは、いうまでもなく、「天皇大権によるクーデター」という問題を直截に提起したからにほかならなかった。

  北が、『国体論』で展開した議会主義的な社会主義運動論を、辛亥革命とのかかわりのなかですでに棄て去っていたであろうことは、『支那革命外史』における「武断主義」ヘの傾斜のなかからも十分にうかがうことができる。そして北が、中国革命に対応する日本対外政策の「革命的一変」の主張からさらに進んで、それにみあう国家体制全般の変革=国家改造を、昌え始めるとともに、この「武断主義」は「クーデター」論へと結実してゆくことになるのであった。そしてまた『改造法案』の北は、当時の現実の議会を、かつての『国体論』の場合とは逆に、変革のための手段とはなえりず、むしろ敵の掌中にあり、クーデターにより奪取しなければならない敵の城郭と捉え直してくるのであった。

  もともと『国体論』における北の議会主義とは、議会に多様な利害の調整と統合の機能を求めようとする本来の議会主義とは異質のものであった。北が議会制度に期待したのは、この制度を通じて国家意識を強化し統合することであった。すでにみたように(本稿(1)参照)、『国体論』では日露戦争からの凱旋兵士が社会主義の担い手に見立てられているのであり、北の議会主義は、日露戦争における「愛国」的団結を、普選の実施によって国家意思にまで高めうるという想定のもとに立てられてたものとも云えた。しかしこうした戦勝気分のなかでの身勝手な 想定が、実は幻想でしかなかったことはすぐさま北にも明らかになったことであろう。

  日露戦争後の国内政治の推移を北がどう捉えていたかは明らかではない。しかしそれが北の期待に沿うものではなかったことは確かであろう。大正初頭の政局をゆるがした護憲運動は、軍国主義を批判し、2個師団増設に反対するものであったし、また第1次大戦後、成金景気のなかで、平和主義・自由主義・個人主義の風潮が高まっていったことも繰返すまでもないところであろう。北はこうした状況を国家意識が上下から解体してゆく危機であり、選挙→議会という活動方法によってはこの危機は打開できないと捉えたのであった。

  『改造法案』緒言は次のように書き出されている。「今ヤ大日本帝国ハ内憂外患並ビ到ラントスル有史未曾有ノ国難二臨メリ。国民ノ大多数ハ生活ノ不安二襲ハレテ一ニ欧州諸国破壊ノ跡ヲ学バントシ、政権軍権財権ヲ私セル者ハ只龍袖二陰レテ惶々其不義ヲ維持セントス」(2−219頁)。つまり彼は、私利私欲のために権力を利用する支配層と、国家を離れ、むしろ国家を破壊する方向するに走ろうとする国民との双方に、危機を深化させる要因を見出していたのであった。彼が「欧州諸国破壊ノ跡ヲ学バント」する国民について語るとき、彼の脳裡には、第1次大戦におけるロシアやドイツの、革命連動による「内部崩壊」の姿が画かれていたことであろう(本稿(3)参照)。しかし、国家意識の強化こそ人類進化の方策だと考える北にとって、危機は革命迎動の勃発というロシアやドイツの状況よりもはるか手前の段階で捉えられねばならなかった。

  彼は危機の本質について次のように述べる。「経済的組織ヨリ見ルトキ現時ノ国家ハ統一国家二非ズシテ経済的戦国時代クリ経済的封建制タラントス。……国家ハ嘗テ家ノ子郎党又ハ武士等ノ私兵ヲ養ヒテ攻戦討伐セシ時代ヨリ現時ノ統一二至リシ如ク、国家ノ内容タル経済的統一ヲナサンガ為二経済的私兵ヲ養ヒテ相殺傷シツツアル今ノ経済的封建制ヲ廃止シ得ベシ」(2-229頁)。これは国民の側の問題として云いかえてみれば、経済的封建制→金権政治による国民の「私兵化」として状況を捉えることにほかならないであろう。そしてこの国民の「私兵化」状況のもとでは、普通選挙を実施しても、議会を辺ずる国家改造の道はありえないというのであった。

  1923年(大正12)の『改造法案』改題刊行に際して書き加えた1)国家改造議会についての註において、北は「現時ノ資本万能官僚専制ノ間二普通選挙ノミヲ行フモ選出サルヽ議員ノ多数又ハ少数ハ改造二反対スル者及反対スル者ヨリ選挙賀ヲ得ダル当選者」(2-378頁)にほかならないと断じているし、また二・二六事件の軍法会議法廷においては、憲法の3年間停止を主張した理由について、「戒厳令下に於て時局事態を収拾せられるに際し、不忠なるものが憲法に依り貴衆両議会を中心に、天皇の実施せられる国家改造の大権を阻止するを防止する為、論じてあるものであります」2)と述べたといわれる。

1)

この部分は23年の刊本では伏字となっているが<何行削除>と書かれている行数からみて、この刊行の際に書き加えられたものと推定することができる。

2)

林茂他編『二・二六事件秘録(三)』〈小学館、1971年)、412頁


 北は、改造過程における議会の排除については、この程度のことしか述べていない。しかし彼はもはや、それがたとえ小数であるにしても、どうしても「私兵化」状況を反映してしまうような選挙→議会の方向に国民の不満を組織しようとは考えなくなっていたことは明らかであった。「由来投票政治ハ数ニ絶対価値ヲ附シテ質ガ其以上ニ価値ヲ認メラレルベキ者ナルヲ無視シタル旧時代ノ制度ヲ伝統的ニ維持セルニ過ギズ」(2−221頁)と北が云う時、それは彼が、「経済的諸侯」とその「私兵」の拠点と化した議会、というイメージを更に一般化し、議会制度を、たんに現状を数量的にしか反映しえず、従ってそこから新しい「質」を生み出すことのできないものと評価したことを意味していたことであろう。「経済的維新革命は殆んど普通選挙権其のことにて足る」(1-389頁)という『国体論』の観点から云えば、それは明かに180度の転換であったが、しかしそこで変化したのは、北の議会制度観であるよりもむしろ、彼の国民の現状についての認識であったという方が適切なように思われる。つまり、日露戦争直後の北は、国民のなかに望ましい「質」が順調に発展してゆくとみたのであり、それ故にその発展を量的にまとめあげ、国家意思へと媒介してゆく普選=議会制度に期待をかけたのであった。しかし第1次大戦になるとこの彼が発展を期待した「質」が逆に崩壊の道を歩んでいるとみられるのであり、従って、それを前提として成立しいていた彼の議会主義も、もはや無用のものとして棄てられていったとみることができよう。

 北の唱える国家改造とは、なによりもまずこの崩壊に瀕した「質」を、かつて彼が期待した以上の強さに再建することをめざすものと云えた。そして彼は『改造法案』においてはこの「質」を端的に「国家主義」として提示したのであった。同書の「結言」は次のように云う。「マルクスの如キハ独乙ニ生レタリ雖モ国家ナク社会ヲノミ有スル猶太人ナルガ故ニ其ノ主義ヲ先ツ国家ナキ社会ノ上ニ築キシト雖モ、我ガ日本ニ於イテ社会的組織トシテ求ムル時一ニ唯国家ノミナルヲ見ルベシ。社会主義ハ日本ニ於イテ国家主義其ノ者トナル」(2-279頁)と。『国体論』における「社会主義」をここで思い切って「国家主義」に書きかえたのは、世界的大帝国へと向う彼の目標の膨張に相応ずるものだったことは明らかであろう 1)。そして彼が国家改造によってうち立てようとしたのは、この目標への軍事的過程を担いうる軍国的国民組織にほかならなかった。前にもふれたように彼は『改造法案』を「日本帝国を大軍営の如き組織となすべしと謂う精神を以て記載した」2)のであった。では彼はこの「大軍営」に至る「国家主義」を如何にして再建強化しようというのであろうか。

1)

しかし北は、23年の改題刊行にあたってこの部分を削除してしまっている。その理由は明らかではないが、第1には、この社会主義=国家主義の主張が、自らの理論の特異な印象をうすめることをおそれたのではないか、第2には、国家なきユダヤ社会という問題を出すことによって、読者を改めて国家と社会の関連という問題に立ち戻らせることを避けようとしたのではないか、といった臆測をめぐらすことも可能であろう。

2)

2・26事件憲兵隊調書、3-445頁


 結論から云えば、北はここでまず「天皇」を持ち出し、そこから国家改造の政治方策を組みあげていった。しかし彼は状況認識だけから云えば、反対の結論を引き出すことも可能であったはずである。すなわちさきにあげた「政権軍権財権ヲ私セル者」が「只龍袖二陰レテ惶々其不義ヲ維持」しているという認識からすれば、彼等を「龍袖」にかくし「其不義ヲ維持」せしめている「天皇」をも、彼等の支配の根柱として追及し、その打倒を唱える方が素直な結論というべきものであろう。 あるいはまた、「クーデターハ国家権力則チ社会意志ノ直接的発動ト 見ルベシ。其ノ進歩的ナル者二就キテ見ルモ国民ノ団集其者二現ハル、コトアリ。奈翁レニンノ如キ政権者ニヨリテ現ハル、コトアリ」(2-221頁)という彼のクーデターの定義から云えば「挙国一人ノ非議ナキ国論ヲ定メ」(2-219頁)うるならば、クーデターは天皇の権威なしに正当化されうるはずであった。しかし北は逆に「天皇ハ国民ノ総代表タリ、国家ノ根柱タルノ原理主義」(2-222頁)を叫び始めるのであった。

 北のこの天皇論を支えているのは、歴史的に形成された国民精神を中核に据えることなしには、国家主義を確立することは出来ないとする論理であり、彼は日本においてはその中核は天皇以外にありえないとするのであった。『国体論』において明治天皇を維新の英雄とする理解を示し、『文那革命外史』において、 国民信仰の伝統的中心である天皇を変革の基軸とすることのできた明治維新を革命の理想型であると主張した北にとって、天皇中心主義はもはや信念の域に達して始めていたのでもあろうか。「神武国祖ノ創業明治大帝ノ革命二則リテ宮中ノ一新ヲ図リ」(同前)などとあえて「神武国祖」までをもとりあげていわゆる国体論的天皇信仰との妥協を図ろうとする姿勢さえとりはじめる北であった。

 「国民ノ総代者ガ投票当選者タル制度ノ国家ガ或ル特異ナル一人タル制度ノ国ヨリ優越ナリト考フルデモクラシーハ全ク科学的根拠ナシ。国家ハ各々其国民精神卜建国歴史ヲ異ニス」(2-223頁)。 しかし北は、「国民精神ト建国歴史」を基礎にして、改めて天皇を国民の総代表にしなければならないというのではなかった。そうした天皇の根本的性格はすでに明治維新において出来あがっているというのが彼の主張するところであった。「此時(維新革命)ヨリノ天皇ハ純然タル政治的中心ノ意義ヲ有シ、此国民運動ノ指揮者タリシ以来現代民主国ノ総代表トシテ国家ヲ代表スル者ナリ。即チ維新革命以来ノ日本ハ天皇ヲ政治的中心トシタル近代的民主国ナリ」(同前)との『改造法案』の叙述は、明治維新についての北の解説であり、「維新に帰れ」との叫びであったと読む外はない。彼は、維新における天皇は、国家意識にめざめた倒幕運動に参加し、それを指導することによって小家長君主から近代公民国家の政治的中心に転身したと理解しているのであり、国家改造の第一の課題は、この天皇の政治的本質をおおいかくし、天皇と国民の間に立ちはだかり肥大化していった支配層を打倒するために、彼の理解する維新を再度実現することにおかれたのであった。『改造法案』の主張するクーデターとは、維新革命の再現により、天皇に国民の総代表たる地位を回復させることによって、国民の国家主義への再編成をめざすものであったと云いかえることが出来るであろう。

 しかし、この天皇=総代表論でゆけば、まず国民の側で天皇に代表さるべき「社会意志」を形成することが前提でなければならない。「日本ノ改造二於テハ必ズ国民ノ団集卜元首トノ合体ニヨル権力発動タラザルベカラズ」(2-221〜2頁)、「挙国一人ノ非議ナキ国論ヲ定メ、全日本国民ノ大同団結ヲ以テ終二天皇大権ノ発動ヲ奏請シ、天皇ヲ泰ジテ速力二国家改造ノ根基ヲ完ウセザルベカラズ」(2-219〜20頁)。打倒すべき支配層の城郭の奥深くに鎮座する天皇と、「国民ノ団集」とは如何にして「合体」することが出来るというのか。『改造法案」は、だから「ク ーデター」が必要なのだと述べるだけで、その具体策については何事も語ってはいない。   おそらく、上海で執筆した当時の北にとって曰本のクーデターのための具体的方策を画くことは困難であったであろうし、また官憲の弾圧を避けるためにも、まず基本的目標を示すにとどめることが有利だと考えられたことであろう。しかし、彼のクーデター論の性格が全くうかがえないというのではない。第1には、彼はクーデターヘの道においても、国民大衆の組織化には関心を示さず、少数のエリートに期待をかけていたとみられる点である。『改造法案』にみられる国民は、さきにみたように、「欧州諸国破壊ノ跡ヲ学パン」とする国民か、「経済的諸侯」に「私兵」化される国民かにすぎないのであり、そこから北の、大衆的エネルギーヘの期待を読みとることはできない。彼は逆に、この著作にかかる直前に満川亀太郎に書き送った書簡「ヴェルサイユ会議に対する最高判決」の末尾において、「数十人の国柱的同志あらば天下の事大抵は成るものと御決意下さい」(2-213頁)と述べ、またこの書簡を永井柳太郎・中野正剛・小笠原海軍中将に示すことを依頼しているのであった。ここで彼の云う「国柱的同志」のイメージは明らかでないとは云え、これらの事柄は、彼のクーデター論が、少数のエリートによる上からの国民全体の再編成をめざすものだったことを示しているように思われるのである。もちろんそれは、国民の側の「社会意志」の形成の要請とは矛盾しているようにみえる。しかし、この点については、北は挙国一人の非議なき「筈の」国論の形成でこと足りると考えたのではなかったであろうか。

 第2には、北がクーデターの実力部隊として、上級指揮官から離れ、より下級の将校に掌握された「軍隊」を想定していたと思われる点である。彼は国家改造を「天皇大権ノ発動ニヨリテ三年間憲法ヲ停止シ両院ヲ解散シ全国二戒厳令ヲ布ク」(2-221頁)という状態のもとで実現するのだと主張した。云うまでもなく戒厳とは、統治権が軍隊の掌握下におかれることを意味する。従ってこの軍隊が国家改造に反対するならば、クーデターはたちまちのうちに崩壊せざるをえないであろう。しかも、クーデターはこれまでの軍首脳部の排除をもめざしているのである。「改造内閣員ハ従来ノ軍閥吏閥財閥党閥ノ人々ヲ斥ケテ全国民ヨリ広ク偉器ヲ此任ニ当ラシム」(2-226頁)。 ここでは「軍閥」は斥けるべきものの飛頭にかかげられているのであり、そのためには、従来の指揮命命令系統は切断されなければならない。ここで北が、辛亥革命から得た「革命運動が軍隊運動ならざるべからざる活ける教訓」(2-23頁)をその基礎においていたことは明らかであろう。すでにみたように『支那革命外史』における北は、大隊長以上とは結托しないという原則のもとに、軍隊との述絡を確立し、叛逆の剣を統治者の腰間より盗み出した辛亥革命の姿をみ、さらに維新討幕の志士たちの上にも想いをはせたのであった。「維新革命に於て薩長の革党が其藩内の幾政争に身命を賭して戦ひしは蝸牛角上の事に非ず。其の藩候の軍隊を把握せずんば倒幕の革命に着手する能はざりしを以てなり」(2-26頁)。この点でもまた国家改造のクーデターは、北にとって、維新の再現と捉られていたことであろう。要するに、彼自身によっては書かれることなく終ったクーデターの構想は、こうした「国柱的同志」と軍隊を掌握した下級将校との連携を軸とするものであったと考えられるのである。

 しかし、この軍隊掌握の問題は、『改造法案』の場合には、たんにクーデターのための武力というにとどまらず、国民組織の基軸に据えられている点に特徴がみられた。まず第1に、北は、在郷軍人団をして土地・私有財産の調査とその限度超過額の徴収にあたらせることを予定する。もちろんそこでは従来の階級を否定し、「在郷軍人ノ平等普通ノ互選ニヨル在郷軍人会議」(2-230頁)を開いて、 在郷軍人団そのものを改造することが前提とされているのではあるが、同時にまた、軍隊による在郷軍人の指導という側面をそのままうけつごうとするものであったことも明らかであった。在郷軍人組織は日露戦争後、軍隊、さらには天皇制そのものの社会的支持基盤として全国的に拡大されてきたものであるが、北はこの組織化に依拠すると共に、さらにそれを国民組織の中核に再組織しようとするのであった。云いかえれば、彼は軍隊生活で養われた軍国的愛国精神を国民組織の基軸たらしめようと考えたとも云える。「在郷軍人ハ嘗テ兵役二服シタル点二於テ国民タル義務ヲ肢そ多大二果タシタルノミナラス其ノ愛国的常識ハ国民ノ完全ナル中堅タリ得ベシ。且其大多数ハ農民卜労働者ナルガ故二同時二国家ノ健全ナル労働階級ナリ。……在郷軍人団ハ兵卒ノ素質ヲ有スル労働者ナル点二於テ労兵会ノ最モ組織立テル者トモ見ラルヘシ」(2-230頁)。

 北が、「現時ノ日本ハ充実強健ナル壮者ナリ。……古今ヲ達観シ東西ニ卓出セル手術者アラバ曰本ノ改造ノ如キ談笑ノ間二成ルヘシ」(2-226頁)として国家改造に極めて楽観的態度を示したのは、在郷軍人に「既ニー糸紊レサル組織アルカ故」と云う極めて安易な評価を基礎とするものであった。それは−面から云えば、天皇の権威をもってすれば、軍隊―在郷軍人組織の基底部分を「一糸紊レザル」ものとしてそのまま利用しうるとする安易さであり、「日本ノ国体ヲ説明スルニ高天ケ原的論法ヲ以テスル者」を排斥しながら、高天ケ原的国体論による組織化に依拠しようとする矛盾を示すものでもあった。かつての国体論批判の成果は、『改造法案』においては、「天皇」を国民の総代表とする論理を基礎ずけるだけのものとなり、 高天ケ原的国体論との闘争は実際上放棄されたとみるほかはない。

 在郷軍人評価の安易さは、別の面からみれば、軍隊生活の体験が労働者・農民としての生活に優位するという単純な想定となってあらわれている。それはまた、労働者農民の階級闘争が、軍隊体験を解体してしまうまでには激化していないという情勢判断を基礎としているとも云えよう。さきにあげた、現時の日本は「充実強健ナル壮者」だとする評価は、云いかえてみれば、階級闘争がそれを軍事力で圧伏しなければならない程には激化していないとの判断を示すものにほかならなくなる。従って、改造過程における在郷軍人団の登用は、たんにそれが軍隊の延長としての性格をもっているとの消極的側面からだけではなく、そうした「団」としての活動によって、軍人意識を再強化し、労働者農民の生活者としての意識を圧伏し非主体化することをねらったものと云える。結局のところこの軍隊=在郷軍人を軸とする国民の再組織とは、階級闘争をその出発点で解体することを意図するものにほかならず、北を日本ファシズムの先駆とする評価は、この問題にかかわるものであった1)

 

1)

『改造法案』が「在郷軍人」書いたのは、検閲を顧慮したもので、実は「現役軍人」を指しているのだとする説が、最近においても、松木清張氏の『北一輝論』(講談社、1976年)によって援用されているが(156〜8頁参照)、そうした見方は、クーデターの政権奪取の側面だけに固執しすぎているのではあるまいか。北は、クーデターにおける現役軍隊を暗黙の前提とし、そのうえで在郷軍人に独自の役割を負わせていると私は読むのであり、そうでなければ、北の国民再組織の意図を読み落すことになると考えるのである。


 こうした北の軍国的国民再組織論は、その基底となる徴兵制を堅持・強化すると同時に、軍隊生活に一定の改造を加え、国民生活の模範たらしめようとする意図を生み出すことになった。彼はまず「国家ハ国際間二於ケル国家ノ生存及ヒ発達ノ権利トシテ現時ノ徴兵制ヲ永久二亙リテ維持ス」(2-268頁)と宣言する。もっとも、この「国家」は、日本帝国を指して居り、彼はここで、如何なる兵役制が適するかは、それぞれの国の建国事情や国民的信念にかかわる問題だとの主張を展開している。すなわち植民者の契約的結合から生じた米国や、社会契約的信念の普及している英国の場合には、契約にもとずく傭兵制の方が適しているが、日本の場合には事情が全く異っていると北は云う。「日本国民ノ国家観ハ国家ハ有機的不可分ナルー大家族ナリト云フ近代ノ社会有機体説ヲ深遠博大ナル哲学的思索ト宗教的信仰トニヨリ発現セシメタル古来一貫ノ信念ナリ。徴兵制度ノ形式ハ独仏二学ヒタルモ徴兵制度ノ精神タル国民皆兵ノ義務ハ中世封建ノ期間ヲ除キテ上世建国時代二発源シ更二現代二復興シテ漲溢シツゝアル国民的大信念ナリ」(2-268〜9頁)。

 北はこの国民的信念にもとずく兵役制度を基礎とすることによってはじめて国家の発展が可能になると考えているのであり、従って次には、この国民的信念から逸脱する思想・信仰の自由を厳しく拒絶するのであった。「将来クエーカー宗ノ如キ又浅薄ナル非戦論ノ如キヲ輸入シテ徴兵忌避ヲ企ツル者アラバ刑罰ハ断々トシテ其ノ最モ重キ者ヲ課シテ可ナリ」(2-271頁)と北は云う。そして彼は、こうした徴兵制度の徹底化と共に、軍隊生活における平等化をすゝめることで、軍隊を国民生活の中心に位置づけようとするのであった。彼は、高等教育履修者に対する例外措置としての徴兵猶予や1年志願兵制度を廃止すること、現役兵には国家が俸給を、給付して家族の生活を保証することなどを主張すると同時に、「兵営又ハ軍艦内二於テハ階級的表章以外ノ物質的生活ノ階級ヲ廃止」(2-268頁)することを要求した。 彼がこの條項につけた註では、「物質的生活」は飲食のことについて述べられているだけであるが、ともかくも北は、私有財産を基礎にした自立した国民生活の中核部分に、こうした物質的平等の軍隊生活を組み入れることによって、そしてまたその両者を在郷軍人団によって結び合わせるという形で、国求改造によってつくり出すべき国民編成を方向づけていたと云うことができる。そして、政治機椛の改造もそれと見合った形で構想されたのであった。

 北は、改造政策尖行のための中心機関としては、国家改造内閣、在郷軍人団、国家改造議会という3種の組織を考案しているが、そこに彼が暗黙の前提としていた筈の軍隊を加えてみると、改造内閣→軍隊→在郷軍人団という形で政策が実施され、その成果は在郷軍人団を軸とする国民の組織化として改造議会に吸収される、そしてそこから国民の合意が改造内閣にもたらされる、という政治過程が予定されていたとみることができる。そしてこの過程が安定したところで、憲法を改正し、クーデターの過程は完了することになるのであった。「天皇ハ第3期改造議会マデニ憲法改正案ヲ提出シテ改正憲法ノ発布卜同時二改造議会ヲ解散ス」と『改造法案』は規定した 1)

 

1)

この規定は、23年の改題刊行の際に削余されてしまっているが、この点については後の機会に触れることにしたい。


 以上みてきたことを要約すれば、北の国家改造とは、分配的正義と大国家産業の同時的実現、伝統文化の維持発展と国際語による世界化、天皇を中心とし「日本国民本有ノ国家有機体的信仰」(2-269頁)を軸とする国民の軍国的編成という三つの課題を遂行しようとするものであり、またこれだけの課題が実現できれば、他民族を同化し世界的大帝国を建設することが可能になるというのであった。それは云いかえれば、『改造法案』に提示された諸方策を植民地・新領土にも普及・実施してゆくことが、大帝国を基礎づけることになるということでもあった。

 北はまず、日本内地と同じ私有限度の原則を、日本人と現地人とに対し差別なく平等に実施してゆくことが、植民地統治の根本であることを強調する。「私有財産限度、私有地限度、私人生産業限度ノ三大原則ハ大日本帝国ノ根本組織ナルヲ以テ現在及将来ノ帝国領土内二拡張セラルヽ者ナリ」(2-264頁)。そしてこの内外にわたる同一原則の実現は、植民地における日本人の横暴をおさえるとともに日本の「正義」を示すことになると北は考えるのであった。そしてこの三大原則の実現した後に、他の諸政策の実施に移り、参政権など、日本人と同一の権利を与え、同一の日本国民たらしめることを予定した。具体的には、朝鮮・台湾・樺太などの現有の植民地に対しては、日本内地の改造を終り戒厳令を撤廃すると同時に三大原則の施行に着手し、その後10年乃至20年の間に地方自治権、参政権など内地人と同一の生活権利を与えてゆくという曰程が掲げられた。そしてその後に獲得した新領土に対してもその文化程度に応じて改造方針を実施するというのであり、 従ってこの改造完了後には、日本人と異人種異民族とは同一無差別なる権利を有する日本国民になるというのであった。そしてさきに触れたように(本稿(4)参照)そこではエスペラントが通用している筈であった。

 それこそ進化論上の先進国ではないか、と北は云いたかったのであろう。彼は日本の将来の姿を次のように画き出している。「将来ノ新領土ハ異人種異民族ノ差別ヲ撤廃シテ日本自ラ其ノ範ヲ欧米ニ示スベキハ論ナシ。濠州ニ印度人種ヲ迎ヘ、極東西比利亜ニ支那朝鮮民族ヲ迎ヘテ先住ノ白人種トヲ統一シ、以テ東西文明ノ融合ヲ支配シ得ル者地球上只一ノ大日本帝国アルノミ。従テ此ノ改造組織ヲ其等ノ領土ニ施行シテ主権国民自ラ私利横暴ヲ制スルト共ニ先住ノ白人富豪ヲ一掃シテ世界同胞ノ為ニ真個楽園ノ根基ヲ築キ置クコトガ必要ナリ」(2-266頁)。そしてこの「白人富豪ノ一掃」が「支那保全」・「インド独立」のための対英・対露戦争論へとつづくわけであるが、この点はほとんど『支那革命外史』の主張そのままであるので、ここでくり返し検討することは必要ではあるまい。

 この北の未来像のなかで問題なのは、彼が国家改造の基軸においた「国民の総代表としての天皇」論や、「国家有機体的信仰の上に立つ徴兵制」論などは、改造政策の世界への拡大につれてどうなっていくかという点であろう。北はこれらの点については、わずかに「現在及ヒ将来ノ領土内ニ於ケル異民族ニ対シテハ義勇兵制ヲ採用スル者アルベシ」(2-268頁)と述べているにすぎず、何の解答も与えていないと云ってよい。しかしこれらの問題に対する彼の態度は、彼の民族自決主義に対する批判のなかにうかがえるように思われるのである。

 北は民族自決主義について、「八十歳ノ老婆ニモ生活ヲ自決セシムベク十歳ノ少女ニモ恋愛ヲ自決セシム」というような、「自決スル力」の有無を考えない空想だと批判したあとに、次のようにつづけている。「現時ノ強国中各種老幼ノ民族ヲ包有セザル者ナキコト各家庭ニ於テ老婆少女ヲ有スルガ如シ。是等二向ッテ自決ヲ迫ラバ各家庭ノ分散スベキ如ク一切ノ強国ハ分解スベシ。強国ノ無用ヲ云フカ。然ラバウヰルキンソンハヴェルサイユニ行カズシテ端西ノ社会党大会ニ列席スベカリシナリ」(2-263頁)と。北にとっては、弱小民族の自決よりも強大民族の発展の方が基本的な命題であった。そしてそれは文化の領域にもあてはめられてゆく。「思想信仰ノ価値ハ其ノ民族精神又ハ世界思想ニ戦ヒテ凱歌ヲ挙ゲタル時ニ認メラルヽ物ナリ」(2-270頁)との北の言葉を、さきの「東西文明ノ融合ヲ支配」する日本という未来像につなげてみると、勝利した日本民族精神の支配下における諸文化の融合という結論が導かれてくるにちがいない。しかしその結論を『改造法案』にあてはめてみると、エスペラントを語る天皇制国家という奇妙なイメージしか得ることが出来ない。それは民族精神の攻撃性を解体することなしに、世界的同化作用につなげてしまうという北の進化論の矛盾を示すものであり、またその矛盾を解消しない限り、北の進化論も侵略擁護のための理論にすぎないと評されても致方ないであろう。

 しかし彼の理論の帰結をそこまで追い求めることはさして意味のあることではないかもしれない。北も再びその進化論的未来像を語ろうとはしなかったし、彼の『改造法案』が右翼陣営に与えた影響もその進化論によるものではなかったのだから。北が『改造法案』を九分通り書きあげた時、大川周明が彼の帰国を求めて上海にやってきた。この時両者が夜を徹して話し合ったのは、進化論の展開についてではなく、天皇中心主義─金権政治打倒による国家の富強─白人帝国主義からのアジアの解放といった主題をめぐってであったことは、のちにふれる大川の思想からみても間違いないところであろう。北は後年、この時『改造法案』について大川との間に意見をかわし、「天皇大権の発動で日本を改造する様に論述してある主意から、革命的運動者と行動を共にせずに、吾々は何処迄も一天子中心の国家主義改造で進まねばならぬと云ふ事を確く約束しました」と述べているのであった 1)

 

1)

2・26事件憲兵隊調書、3-445頁


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