『歴史公論』3巻8号

1977年8月

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天皇制と帝国議会


表紙

古屋 哲夫


1帝国憲法と帝国議会
2帝国議会と国民の間
3議会政治の安定化



1帝国憲法と帝国議会


 天皇制とは、もっとも簡単にいえば、天皇への忠誠を政治・社会秩序の中心に据えた支配体制だということになろう。したがって天皇の権威を国民のあいだに滲透させ、天皇への忠誠心を培養してゆく過程と、その忠誠心を支配体制のなかに吸収してゆく過程とを、 いかに円滑に循環させることができるかが、天皇制にとっての基本的な課題にほかならなかった。たしかに、義務教育、徴兵制、学歴による選抜登用制度など は、この循環過程を支えた大きな柱であった。学校や兵営は天皇への忠誠心をたたきこむ場として最大限に利用されたし、また同郷の秀才たちが帝国大学や陸海 軍大学校を経て天皇に近づいてゆく姿は、天皇の権威を拡大するために大きな役割を果たしたにちがいない。

  しかしそれだけで十分であるはずはなかった。こう した忠誠心の循環過程が安定的に拡充強化されてゆくためには、天皇の名のもとに行なわれる政治が、国民にとってあるていど納得できるものでなくてはならず、 そしてそのためには、天皇の政治に国民の要求をあるていど反映させることが必要であった。藩閥政府を、憲法制定・国会開設に踏み切らせた直接の要因が、自由民権運動の高揚であることはいうまでもないが、しかしそこでの彼らの意図が、天皇制のための安定した政治過程の創出にあることも明らかであった。同時にまた藩閥側は、その過激な部分を弾圧することによって、自由民権運動をもこの天皇のための議会のなかにとりこんでゆくことができると考えてもいた。すでにこれまでの研究で明らかなように、民権運動においても、共和制の主張や天皇の権威の否定は、きわめて例外的、一時的にしかあらわれていなかった。

  しかし「天皇のための議会」という発想と政治過程安定化の要請とをマッチさせ、具体化してゆくことはかならずしも容易ではなかった。伊藤博文をリーダーとし、井上毅を主軸とした憲法起草者たちがもっとも苦心したのも、また、憲法草案を審議した枢密院にお いてもっとも激しく論議が交さたのも、この問題をめぐってであった。起草者たちはまず、議会制度の創設をも含めたこの憲法判定の目的は、「君権の確立」 にあるとし、天皇をすべての権力を有する主権者と規定することが、憲法制定の出発点であるとした。つまり、権力運用のためのさまざまな機関は、いずれも天皇を補佐するためのものであり、これらの機関に天皇の主権が分与されるのではない、というのであった。 そしてこの徹底した天皇主権主義の原則は、枢密顧問官たちの熱烈に支持するところでもあった。したがっ て憲法はまず、天皇主権主義を議会との関係においても明確にし、そのうえで、政治過程の安定化に役立つ ように議会の権限を内容づけるという形で制定されなければならなかった。

  枢密院においてもまず最初に大きな問題となったのは、草案第5条「天皇ハ帝国議会ノ承認ヲ経テ立法権ヲ施行ス」という条文であり、これで天皇主権主義が明確になっているかどうかという点であった。起草者側は次の第6条に、法律の裁可・公布・執行を天皇大権と規定しており、これによって天皇に最終的立法権のあることは明らかであると主張したが、批判者側は 第5条の「帝国議会ノ承認ヲ経テ」の一節は、その点をあいまいにするものだと反撃するのであった。たとえば森有礼は、この条文によれば議会は「堂々タル大権利ヲ掌握スルモノノ如ク、恰モ天皇陛下ノ大権ト平等ノ権カヲ有スルモノノ如クニ見解スルモ亦不可ナキニ以タリ「(稲田正次著『明治憲法成立史』下巻594-5頁)」と述べ、「承認」の文字からは議会が主権の一部を分有するとの解釈を引き出されるおそれがあるとして強く反対したのであった。もちろんこのような解釈が生まれることには起草者たちも反対であった。「承認」の語は最終的には「協賛」に代えられ、第5条は「天皇ハ帝国議会ノ協賛ヲ以テ立法権ヲ行フ」として確定されたのであるが、この修正は帝国議会は立法権そのものを持つのではないという、この憲法の大前提を明らかにしたものといえた。制定者の意図を忠実にうけつごうとする憲法学者・上杉慎吉はこの点について「帝国議会ハ天皇ノ官府タリ天皇ノ統治権ヲ翼成スルノ権能ヲ附与セラルルノミ、自立固有ノ権カヲ有スルモノニ非ス」(『新稿憲法述義』大正14年増補版、223頁)と理解するのであった。

  しかし、議会を天皇の立法権の「協賛」者と性格づけるだけで問題が解決するわけではなかった。このたてまえのうえに、議会が協賛しうる立法権をどう内容 づけ、限定してゆくかという問題が解決されなくてはならなかった。帝国憲法において帝国議会の基本的権限を規定した条文は、いずれも草案の「承認」が「協賛」に修正されたつぎの2カ条であった。

 

第三十七条凡テ法律ハ帝国議会ノ協賛ヲ経ルヲ要ス
第六十四条国家ノ歳入歳出ハ毎年予算ヲ以テ帝国議会ノ協賛ヲ経ヘシ

 つまり帝国議会には法律と予算の審議権が与えられたということになる。しかしそこにも天皇主権主義貫徹の立場からする大きな制約が設けられていた。

  まず法律の問題をみると、法律は議会にかけなければならないとする反面で、法律によって定めねばならない領域をきわめて狭く限定するというやり方がとられていた。つまり、「天皇ハ何々ス」という形で規定されたいわゆる天皇大権の領域は、法律をもって規制する必要のない、いいかえれば議会の関与することのできない領域とされたのであった。天皇大権のうちもっとも大きな意味をもっていたのは、行政各部の官制・文武官の俸給の決定権および文武官の任免権(第10条)、陸海軍の統帥権(第11条)、陸海軍の編成および常備兵額の決定権(第12条)、宣戦・講和および条約締結権(第13条)などであるが、そのことは、行政・軍事・外交という広大な政治領域が、法律=議会の直接の拘束を受けずに存続することを意味した。逆にいえば、法律の関与しうるのは、国民の権利、義務、租税負担の増減といった分野に限られているといってもよかった。

  しかもそのうえ憲法起草者たちは、議会に法律案起草権を与えないこととした。草案は第38条において、「帝国議会ハ政府ノ提出スル議案ヲ議決ス」と規定し、その代わりに「両議院ハ新法ノ制定又ハ現行法律ノ改正廃止二関スル意見ヲ建議スルコトヲ得」との第39条によって、法律に関する建議権を認めようというのであった。井上毅は「法律ハ概シテ起案ノ主義二随テ成立スルモノニシテ起案ハ実二法律ノ上二大勢カアリ、我憲法二於テハ立法権ヲ以テ君民ノ共有ニ帰セス、実二之ヲ天皇統治権ノ一ト視做シ自他本末ノ別判然タリ」(稲田前掲書677頁)と説明する。なるほど立法権をも天皇の権力とする立場からいえば、立法の出発点である起案権と、到達点である裁可・公布権とを天皇が掌握するというのは首尾一貫しているといえる。しかし枢密院では、議会の権限をそこまで切り縮めてしまうことは、天皇主権主義を貫徹することにはなっても、政治過程の安定化という目的に反することになりはしないかとの批判があらわれてきた。

  たとえば鳥尾小弥太は、議員たちがみずからの主張を法案になしえないことに不満を持つのは必然であるとし、「起草権ナキカ為メ議院ノ感動ヲ害ヒ之ヲシテ政府二反対抵抗スルノ患ヲ生セシメンコト、最モ憂慮二堪ヘサル所」であり、「年月ヲ経過スルニ従ヒ必ラス憲法ノ基礎二変動ヲ生スルカ如キ憂アラントス」(同前678頁)とその危惧を表明した。

  また、議会に法律に関する建議権を認めるとすれば、議会側は具体的に法律案を起草して院の意見として出してくるであろうし、それならば、最初から法案起案権を議会に与えおくほうが得策だとも主張した。起草者側もこの批判を認め、同条文は「両議院ハ政府 ノ提出スル法律案ヲ議決シ及各々法律案ヲ提出スルコ トヲ得」と修正されたが、あとにふれるように、議会開設の最初から保安条例廃止法案、集会及政社法改正案など議員提出の法律案がつぎつぎと提出されているところからみても、この修正は国民の要求を議会のなかに吸収する点で大きな役割を果たしたものというこ とができよう。

  予算審議権についても天皇大権との関係が基本的な問題であった。そしてこの点で枢密院でとくに論議が集中したのは、第68条のつぎのような長文の条文であった。「天皇ノ憲法上ノ大権二基ケル歳出及法律 ノ結果二由リ又ハ帝国議会ノ議決二由り生ジタル政府ノ義務ヲ履行スルニ必要ナル歳出ハ之ヲ予算二掲クルモ帝国議会ハ政府ノ承諾ヲ経スシテ既定ノ額ヲ廃除シ又ハ削減スルコトヲ得ス」。この条文はややこしいが、その最重点は、さきにみたような法律=議会から独立 した天皇大権の領域を財政的にも保証しようという点 にあった。枢密院では多くの問題が論議されているが、そのなかで注目すべきものとしては、「既定ノ」 という限定を削れという修正案が出た点であろう。つまり天皇大権にもとづく経費は、既定・新規にかかわらず、その削威・廃除にはすべて政府の承諾を必要とするというわけである。もちろんそのほうが天皇主権主義をより徹底させることになるのは明らかであったが、しかしそれでは予算のうち議会が自由に審議できる部分がほとんどなくなってしまうではないか、とする反論が起こるのもとうゼんであった。ここにもまた、われわれは天皇主権主義と政治過程安定化の要請との対立をみることになる。そしてこの後者の要請がとり入れられている点に、さきの議会の法律案提案権の採用にみられたと同様な憲法制定の方向を確認することができる。同条は最終的には、他の部分の修正の結果67条に繰り上がり、「憲法上ノ大権二基ツケル既定ノ歳出及法律ノ結果二由り又ハ法律上政府ノ義務二属スル歳出ハ政府ノ同意ナクシテ帝国議会之ヲ廃除シ又ハ削減スルコトヲ得ス」との条文が確定した。議会はこれにより、大権事項に関しても新規の歳出については自由な審議権を得ることになった。

  このことは、憲法起草者たちが、天皇大権領域を確立したうえで、そこにあるていどの議会の関与を認めようとしていたことを示すものであり、議会の上奏権、建議権を容認することに通ずる問題でもあった。憲法は、第40条「両議院ハ法律又ハ其ノ他ノ事件ニ付各々其ノ意見ヲ政府二建議スルコトヲ得」、第49条「両議院ハ各々天皇二上奏スルコトヲ得」という二つの条文によって、議会に建議・上奏の形で、天皇大権の運用についても意見を述べる権限を与えた。も ちろんそれを採用するか否かは天皇および政府の自由であり、したがって上奏や建議、なかでもとくに上奏には、きわめて間接的ながら国民の要求を天皇に達するルートを開くとともに、それを裁定することで天皇の権威をより高めてゆくという両面の機能が期待されていたことであろう。

  要するに大日本帝国憲法は、天皇の統治権をたすける機関としての帝国議会を創設することをめざしたものであった。いいかえれば、この憲法が起草者の意図どおりに守られるかぎり、議会においていかに激しい政争が展開されるにしても、その政争そのものが天皇の統治権運用をたすけるためのものとして捉えられることになるはずであった。



2帝国議会と国民の間

 しかし、そうした想定が実現されるためにはまず、 国民の政治要求が選挙→議会、あるいは請願→議会というルートのなかに平穏に集約されてくることが必要であった。憲法と同時に、議院法・貴族院令・衆議院議員選挙法などをも起草した伊藤博文らは、それらのいわゆる憲法付属の法令を通じて、国民をいくつかに区分けすることで、この政治的要請に答えようとし た。

 すなわちまず第1には、皇族・華族・勲功または学識ある者、多額納税者という枠により、第2には直接国税15円以上を納めるという分界線を設けて、一般国民の上に置き、この三層の区分によって帝国議会と国民との関係を秩序づけようとしたのであった。いうまでもなく第1の集団は貴族院議員の、第2のものは衆議院議員の選出母体であり、それ以外の国民には請願の権利が与えられたにとどまった。つまり一般国民の政治運動はできるだけ抑圧し、その要求は「相当ノ敬礼」を以てする請願(憲法第30条)以外には、恒産ある資産家階級が取捨選択して衆議院に反映させる。それでもなお過激な要求が衆議院を支配する場合には、貴族院を防波堤とする、というのがここで予定されている政治秩序であった。したがって底辺における大衆的政治運動の弾圧と、頂点における貴族院の地位の強化とは、この政治秩序確立のための基本的な要求にほかならなかった。草案段階でみられた貴族院の予算審議権の制限が、枢密院で激しい反対にあい、けっきょ く削除されてしまったこともこうした要求の強さを示すものといえた。

  当初憲法草案第65条には衆議院の予算先議権とともに「貴族院ハ予算二付全体ヲ議スルニ止マリ逐条修正スルコトヲ得ス」との規定が含まれていた。この制限は、国民の生活に密接に関連しているという予算案の性格と、予算をできるだけ速かに成立させる必要とを考慮したものだと説明されたが、衆議院の権限を強化することへの反対は強く、けっきょく、予算先議権という手続的な規定が残されただけで、貴族院の権限は衆議院とまったく対等とすることに落ち着いたのであった。

  明治憲法体制における貴族院の特徴は、こうした権限の対等性と同時に、その性格の保守性が制度的に固定化されている点にみられた。貴族院は当初@皇族、A公侯爵、Bその他の有爵議員、C勲功・学識あるものより選ばれる勅選議員、D多額納税者より互選される議員の5種類の議員により構成された。(のち、学士員選出議員が加えられる)@、Aは世襲議員であり、一定の年齢以上の全員が貴族院議員に任命されたが、Bの伯・子・男爵の場合には、同爵者総数の五分の一弱をめやすとする定員によって互選されるという仕組みであった。ところで、貴族院令は、C、Dつまり勅選議員と多額納税議員の合計は有爵議員の数(A、Bの合計)をこえてはならないと規定し、華族議員の優位を保証した。このことは貴族院の保守性を不動のものとすることを意味した。しかもそのうえ、貴族院令第13条に「将来此ノ勅令ノ条項ヲ改正シ又ハ増補 スルトキハ貴族院ノ議決ヲ経ヘシ」との規定を置いて、貴族院令による貴族院の構成は、貴族院自身の同意なしには変更しえないものとしたのであった。政府が実質的決定権を持たない勅令というのは、勅令の中でもまったくの例外であり、のち1925年(大正14)の貴族院改革が、大きな世論の盛り上がりにもかかわらず微温的なものに終わったのも、この規定に従って貴族院の同意を得ることが困難なためであった。

  しかしこうした貴族院の地位の強化や、前述した国民の階層的区分も、それらを超える組織化が進行するならば、実質的意味を失ってゆくことは明らかであった。たとえば、衆議院議員選挙の有権者が、より下層の国民を主体とする組織のなかにとり込まれ、その統制下におかれてしまった場合とか、貴族院議員が政党勢力のもとに組織されてしまった場合などを想定してみればよい。そしてこのような事態を防ぐためには、大衆的政治運動の弾圧を基礎とし、そのうえで政党組織の拡大をできるだけ抑制しようとする政策がとられたのであった。議院法が貴衆両院ともに、議員全体を抽せんによって9部に分け、部を常任委員・特別委員選出の母体としたことは、党派の活動にもとづかない議会運営が想定されていたことを意味した。

  しかし自由民権運動以来形成されてきている政党の存在を全面的に否定することは困難であった。成立当初の貴族院においては、貴族院議員は政党に加入してはならないということが、暗黙のうちに自明のことと して承認されており、政党勢力の入りこむ余地はなかったが、遂に衆議院のほうには、政党勢力が進出してくることは明らかであった。政府が第1回総選挙直後の明治23年(1890)7月25日、従来の集会条例を全面改正した集会及政社法を公布したのは、国会開設という新たな事態に即応する政党規正策を必要としたからにほかならなかった。そして議会が成立する前にこのような法律を制定しておこうというわけであった。

  集会及政社法は、『屋外政治集会の全面禁止、臨席警察官の集会解散権、内務大臣の結社禁止権などとともに「政社ハ委員若クハ文書ヲ発シテ公衆ヲ誘導シ又ハ支社ヲ置キ若ハ他ノ政社ト連結通信スルコトヲ得ス」(第28条)とする規定を集会条例より引きついでいた。また、政治集会の開会・政治結社の設立についての認可制を届出制に緩和したものの、反面ではつぎのような新たな制限が設けられていた。

 

第七条

凡ソ屋外二於テ公衆ヲ会同シ又ハ多衆運動セントスルトキハ発起人ヨリ四十八時間以前二会同スヘキ場所年月日及其通過スヘキ線路ヲ管轄警察署二届出テ認可ヲ受クヘシ

 

第八条

帝国議会開会ヨリ閉会二至ルノ間ハ議院ヲ距ル三里以内二於テ屋外ノ集会又ハ多数運動ヲナスコトヲ得ス

 

第二十七条

政社ハ標章及旗幟ヲ用ルコトヲ得ス

 

第二十九条

政社二於テハ法律ヲ以テ組織シタル議会ノ議員二対シテ其発言及表決二付議会外ニ於テ責任ヲ負ハシムルノ制規ヲ設クルコトヲ得ス

 このうちはじめの2条は屋外集会に開する制限であるが、屋外政治集会が第6条で全面的に禁止されているのであるから、ここでは非政治的目的を掲げた屋外集会をも警察の認可制のもとにおき、また開会中の議会に近づくことを禁止することを意味した。(ただし 「祭葬講社学生生徒ノ体育運動及其他慣例ノ許ス所ニ係ルモノ」は例外)、つまり非政治的屋外集会も政治的に利用される危険があると考えられたのであり、つぎの条の政社による旗・のぼりの使用禁止も、このことと関連するものであったといえよう。そしてまた、開会中の議会を中心に三里にわたる地域の平穏を確保し、議会へ大衆的圧力が加えられることを未然にかつ完全に予防しようという発想は、治安を害するおそれのある者を皇居より三里以内の地から追放するという保安条例の発想と同じものであった。事実また、議会開会中には、議員に圧力を加えようとする壮士たちが再三にわたり、この保安条例の適用によって退去させられている。(『新聞集成明治編年史』第8巻、11、30、249頁参照)

  こうした議会への圧力を徹底的に排除しようという方向は、請願に関しても貫かれていた。議院法は請願についてつぎのような制限規定している。

 

第六十六条

法律二依り法人ト認メラレタル者ヲ除ク外総代ノ名義ヲ以テスル請願ハ各議院之ヲ受クルコトヲ得ス

 

第六十七条

各議院ハ憲法ヲ変更スルノ請願ヲ受クルコトヲ得ス

 

第六十八条

請願書ハ総テ哀願ノ体式ヲ用ウヘシ、若請願ノ名義二依ラス若ハ其ノ体式二違フモノハ各議院之ヲ受クルコトヲ得ズ

 すなわち請願は法人以外の場合には請願者が個人として連署し、憲法の範囲内で「哀願」の形式をもって行なわねばならないというわけである。それは、請願を軸として政治運動が組織されることを恐れたものにほかならなかった。起草者は総代の名義による請願を禁じたのは「多衆ヲ煽動シ夥伴ヲ籠絡シ以テ多事ヲ為スノ弊ヲ防ク」(稲田正次、前掲書1060頁)ためであるとし、さらにつづく第69、70条において皇室に対する不敬の語、政府または議院に対する侮辱の語を用いた請願、司法および行政裁判に関する請願を禁じたのも、請願者に請願をもって「多事ヲ好ミ或八名誉ヲ売リ或ハ間接二人心ヲ煽動シ衆論ヲ激起スル方術ト為ス」(同前)ことを許さない趣旨だと説明していた。さらにまた、議会への侮辱を、皇室への不敬、政府への侮辱と並べて禁止することと、議会に対する請願にも「哀願」の形式を要求することとは対をなすものであり、「天皇ノ官府」としての帝国議会の性格を認識させようとするものといえた。

  請願行動がこのような厳しい制限のもとにおかれた以上、大衆にとって合法的政治運動のもっとも積極的な形態は、政治結社への参加ということになるわけであるが、ここにもまた、さきにあげた集会及政社法第29条によって新たな障壁が設けられていた。政治結社は、議会における議員の発言および表決について、議会外でその責任を追及するような規約を設けてはならないというこの条文の規定は、政治結社の議員に対する拘束力を弱め、議員と一般大衆の区分けを結社の内部組織にまで貫徹させることをねらったものであった。しかも政治結社の活動自体も、委員を派遣したり文書を発したりして「公衆ヲ誘導」してはならない、支部を置いたり他の政治結社と「連結通信」してはならないという、集会条例(明治15年の改正でこ の趣旨の条項追加)以来の制限のもとに置かれていたのであった。

  こうした政治運動への一般的制限が憲法起草者たちが想定した政治秩序の確立を目的としている以上、それがさらに、議会の活動をも拘束する原則にまで延長されてくることは必至であった。

  まず議院法は、各議院は「人民二向テ告示ヲ発スルコトヲ得ス」(第72条)、「審査ノ為二人民ヲ召喚シ及議員ヲ派出スルコトヲ得ス」(第73条)との 規定を設けて、議会が国民に向かって積極的に働きかけることを禁じた。議会は国民に向かって声明を発することも、参考人や証人を喚問することも、議会としての国民生活に関する調査活動を行なうこともできなかった。そしてそのうえ、行政権の運用についての調査をもきわめて狭いルートに局限されたのであった。「各議院ハ国務大臣及政府委員ノ外他ノ官庁及地方議会二向テ照会往復スルコトヲ得ス」(議院法第75条)との規定によれば、議会は、議会に出席する国務大臣や政府委員(議会ごとに政府が指名する高級官僚)に対して、資料の提出を要求できるだけであり、 それ以外に官庁や地方議会に対して独自の調査を行なうことはできないとされたのであった。いいかえれば、これらの規定は議員たちの活動を議場のなかだけに封じこめることを意味していた。

  ようするに、(1)大衆的政治運動を抑圧し、政党活動を制限することによって、選挙→議会を国民の政治参加の主要なルートとして確立するとともに、大衆的政治的圧力が生まれることを防止する。(2)議会の活動を議場における議案審議に局限すると同時に、選挙→議会のルールを上昇してくる国民の要求を、制限選挙によって濾過し、さらに貴族院の保守勢力の容認しうる範囲に限定するというのが、憲法起草者たちが構想した大日本帝国憲法下の政治秩序の枠組みであった。そして彼らは、この枠組みによって、議会を中心に、天皇の立法権を協賛する安定した政治過程を生み出そうと意図したのであった。しかしこの思惑は、そのままの形で実現したのではなかった。



3議会政治の安定化

  帝国議会の開設は、すぐさま政治過程の安定化をもたらしたわけではなく、当初は政党勢力が、憲法解釈の領域にまで踏み込みながら激しい政府攻撃を展開したのであった。当時「民党」と呼ばれた自由民権運動の流れをくむ自由・改進両党は、衆議院の多数を制し、主として2つの方向から政府に迫った。それは第1には民権運動以来の要求である「民力休養=地租軽減」を、予算審議を中心として実現してゆこうとする方向であり、第2には、政治的自由の拡大のために、保安条例、出版条例、集会及政社法の改廃を要求し、議員提出法案として政府につきつけてゆくという方向であった。

 まず、予算審議の問題をみると、官吏の俸給などの行政費・軍艦建造費・製鋼所設立費などを削減して、地租軽減のための財源にしようというのが、第一議会から第四議会にいたるまでの民党の一貫した予算査定方針であった。すなわち、第一議会では、民党は行政費削減のため官吏減俸のみでなく、部局の改廃をも含む予算査定案を作成したが、政府はこれら憲法上の大権にもとづく既定の経費の削減に反対すると同時に、部局の改廃は予算をもって官制を変革せんとするものであり、予算議定権の範囲を超えると強く反撥した。この時は、いわゆる自由党土佐派の裏切りによって、妥協案が成立したが、次の第二議会になると、部局の改廃はあきらめたものの、官吏減俸に加えて新規事業としての軍艦建造費・製鋼所設立費を否認する方針をとり、ついに政府は衆議院を解散してこれに対拠せざるをえなくなっていた。

 大選挙干渉で著名な第二回総選挙においても民党は過半数を維持し、第三特別議会においても前議会の方針を踏襲して、明治25年度追加予算(解散のため当初予算としては24年度予算を施行)を削減・議決したが、貴族院は政府の意向をくんだ復活修正を行ない、問題は貴・衆両院の権限争いにまで発展するこ ととなった。すなわち衆議院は、貴族院における予算審議は衆議院の議決案を原案とすべきものであり、議会に予算起案権がない以上、貴族院は衆議院議決案に増額修正を加えることはできないと主張し、貴族院よりの回付案を違法なものとしてその受領を再三にわた り拒否したのであった。これに対して貴族院はついに天皇の裁定を求める上奏を行なうにいたったが、枢密院に諮詢したうえで下された裁定は、両院の予算審議の権限は衆議院の先議権以外にはなんら差異のないものだとする憲法解釈を示したうえで、「敬二後議ノ議院ハ前議ノ議院二対シテ何等覊束セラルルコトナク、 従ッテ前議ノ議院二於テ削除セル欺項ヲ存留スルハ素 ヨリ後議ノ議院ノ修正権内二属スベキモノ」だとするものであった。衆議院もこの裁定に服し、つづく両院協議会では貴族院側が譲歩して軍艦建造費を削除して追加予算を成立させたが、この間、天皇の権威によっ て示され憲法解釈に議会が服従し、貴衆両院の権限の対等性が具体的に確定されたことは大きな意味を持つものであった。そして次の第四議会でも同様な事態があらわれ、天皇の介入のもとに議会運営の慣行がつくられてゆくことになった。

 第四議会においても民党は三たび官吏減俸と軍艦建造費の削除をもって政府に立ち向かったが、ここで特徴的なことは、憲法第67条にいう既定の歳出(こ こでは官吏の俸給)の削減要求を、政府が同意するまで繰り返しつきつけるという新たな戦術がとられたこ とであった。すなわち、衆議院は予算修正案に政府が不同意を表明すると、「本院は本案に対し別に再考を要せず政府に向ひ更に同意を求むべし」との動議を可決、これに対して政府が再び不同意の態度を明らかにするや、今度は「政府の處決を促すために5日間休会する」ことを決議すると同時に、三たび予算修正案を政府に送致した。

 「政府の處決を促す」とは、内閣を総辞職するか、衆議院を解散するか、予算修正案に同意するか、この3つのうちいずれを選ぶかを決意せよとの趣旨であった。衆議院の意図は、予算案中の大権事項に関する既定の経費が修正された場合に、政府はこの3つの道の1つをえらぶという政治慣行をつくりあげようとするものであったが、それはいいかえれば、予算審議を通 じて天皇大権に議会の関与を許めることを結果するはずであった。政府はこの衆議院の自主休会を黙殺するという戦術で対決し、休会あけの衆議院は最後の手段としての上奏案可決という方向に走らされていった。そして「在廷ノ臣僚及帝国議会ノ各員二告ク」と題する異例の詔勅を引き出す役割を負わされたのであった。

 この詔勅は、6年間にわたり毎年内廷費30万円を下付すると同時に、文武の官僚に俸給の10分の1を納めさせて製艦費を補助するという具体策を提示した点で政治史上著名なものとなっている。しかしここでの論点からみれば、当面の争点である行政整理について閣臣に命じて遺算なきを期せしむることを約束しつつ、「憲法第六十七条二掲ケタル費目ハ、既二正文ノ保障スル所二属シ、今二於テ紛議ノ因タルヘカラス」 という一般原則を受けいれさせようとする点に、この詔勅の核心があったといわねばならない。つまり、天皇大権にもとづく既定の経費について、いたずらに紛議を重ねてはならないとする憲法運用の原則が天皇の名によって示されたのであった。衆議院が、「聖旨ヲ奉体シ和衷協同、益々心カヲ霊シ以テ大業補翼ノ任ヲ完クシ、陛下ノ隆恩二奉対セントス」との奉答文を奉ってこの詔勅に全面的に屈伏したことは、議会政治の一転機をなすものであり、以後この67条関係経費をめぐる紛議がおこることはなくなっていった。

 しかし、政府対議会の抗争の鎮静化は、たんに詔勅に対する議会の屈伏にだけよるものではなく、その背後には、政党の側の政治的自由の要求の緩和、対外膨脹主義・資本主義育成などの政策方向に関する政府・議会間の合意の形成といった問題が存在していた。たとえば、衆議院には第一議会以来、屋外政治集会の自由、政党活動の自由を求める集会及政社法改正案が議員立法として提案されているが、第四議会にいたり委員会段階でつぎのような制限が復活されていることに注目しなければなるまい。すなわち屋外政治集会については「屏障若クハ欄柵ヲ設ケタル地域内」でのみ認めることとし、また政社については「政社ハ他ノ政社 ト連結スルコトヲ得ス」とする部分だけは復活させるという修正案が特別委員会より出され、それがそのまま衆議院を通過、貴族院もけっきょく前者の条件を「堅固ナル昇降ヲ設ケ自由ノ交通ヲ遮断シタル地域内」とより厳重にしただけで、この衆議院修正案に妥協した。この修正案はともかくも可能な範囲で政治活動の自由を拡大しようとしたものだと説明されたが、これにより、一般大衆への文書の配布、政党支部の設置などが認められ、狭い範囲ではあれ屋外政治集会の可能性が開かれたことで衆議院側もいちおう満足していることは、以後第八議会まで再度の集会及政社法改正案は提出されず、第九、十議会では提出をみたものの否決されてしまっていることからもうかがうことができる。そしてそれは、民党においても自由民権運動の伝統がうすれ、議員政党的体質が強まりつつあること、またそのことを前提として藩閥との妥協の可能性が形成されつつあることを示すものでもあった。

 もちろん、すぐさま妥協ができあがったというわけではない。第五議会以後もなおしばらくは激しい政争がつづいているが、しかしそこでは早くもこれまでの民党対政府の対抗関係がくずれている。自由党が政府に接近したのに対して、改進党は従来の反民党的勢力とも握手し「対外硬」派と呼ばれる新たな陣営をつくり、条約改正問題を争点とする政府攻撃を展開したのであった。第五、第六議会がたてつづけに解散させられたことは、この政争の激しさを示してはいるが、しかしそこでの問題の性質は第四議会までとは明らかに異なっており、国家の対外的強化・膨脹という同一の目標のもとに、政党が政府を叱咤激励するという図式で捉えねばならなくなっている。そしてそれは外交権を現実に掌握する政府に対して、外交に直接に関与できない議会から、より強硬な要求が出されるというパ ターンを生み出しながら、議会が天皇制のなかで安定 した地位を確立してゆくという方向を指し示しているものでもあった。

 もちろん、こうした方向が具体化する基盤には、社会の発展についての共通な展望が存在しなくてはならない。天皇制をつくりあげた藩閥側が、資本主義の育成を社会発展の基軸としていたことは、官営事業創設以来の歴史のなかにも明らかであるが、衆議院に代表される地主勢力のなかにも、しだいにみずからの経済発展を資本主義的方向に求めようとする傾向が拡大していった。官吏減俸による予算削減を企てた初期議会の民党も、殖産興業費にはほとんど手をつけようとはしなかったし、第三、四議会ごろになると輸出品海関税免除法案、鉄道拡張法案、蚕業奨励法案、生糸直輸出奨励法案、航路拡充建設案など産業関係の法律案・建議案などが議員の間からつぎつぎと提案されてくるようになった。そしてそのことは、地主経営の収益を資本主義発展の方向に投資してゆこうとする寄生地主的展望が、政党勢力のなかにも強まってきたことを意味していることは明らかであろう。とすれば政党が大衆を切り捨て、資本主義育成政策の促進のために藩閥勢力と妥協・抱合する方向をたどることは必然であった。この妥協・抱合が現実化した日清戦争後の政治過程は、同時に産業保護・育成に関する法律案がめじろ押しに議会に提案され、成立してゆく過程ともなっていた。

 大日本帝国憲法を起草した伊藤博文が、実業家層の政治的組織化をのぞみ、明治33年(1900)にいたって立憲政友会を結成したことは、天皇制政治秩序の安定点を身をもって示したものといえた。天皇主権主義を確立し、議会を天皇の立法権の協賛者と位置 づけることは、たしかに天皇制秩序を安定させるための基礎にはちがいなかったであろう。しかしその政治的安定を実現してゆく道は、伊藤らが当初考えたように、政党による組織化を排除することによってではなく、政党を資本主義発展のなかにとり込んでゆくことによってはじめて実現されたのであった。政友会結成と同じ1900年、初期議会以来の問題であった集会及政社法が廃止され、代わって治安警察法が登場したことは、ここでの問題の性格を示すもう1つのできごとといえた。取締りの主たる目標を政党政社から労働運動・小作運動に切りかえたこの法律を、衆議院本会議は質問も討論もなく、政府の説明をきく必要さえないとして一気に可決したのであった。

 以後、南北朝正閏論から国体明徴問題にいたるまで、帝国議会は天皇の権威の絶対化と天皇への忠誠心の拡大強化のために、いかに大きな役割を果たしたことか。天皇制研究にとって、帝国議会を天皇制の欠くべからざる支柱として捉え直すことが必要となっているように私には思われるのである。

(ふるや・てつお=京都大学助教授)