『帝国議会誌』第43巻

1979年1月

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第八〇、八一回帝国議会 貴族院・衆議院解説


 

古屋 哲夫

 

第八〇回帝国議会 貴族院・衆議院解説
第八一回帝国議会 貴族院・衆議院解説

第八一回帝国議会 貴族院・衆議院解説
ミッドウェー海戦
ガダルカナル争奪戦の敗北
大東亜省設置と汪政権の参戦
第八一回議会の召集
第八一回議会の議案

第八一回帝国議会 貴族院・衆議院解説



ミッドウェー海戦

 第八○回臨時議会の閉院式が行われた1942(昭和17)年5月29日の早朝、連合艦隊主力は瀬戸内海柱島基地を出航、ミッドウェーを指して南下していった。すでに27日には、赤城、加賀、飛龍、蒼龍の四空母を基幹とする第一機動部隊が同基地から、またミッドウェー島攻略のための陸軍部隊をのせた船団はサイパン島から出航していた。そして同時に大湊からは第二機動部隊(龍壌、隼鷹の2空母基幹)や攻略部隊がアリューシャン列島に向けて出撃している。つまり第八○回議会が開かれた時期に、ちょうど日本海軍の総力をあげた大作戦が発動されていたのであった。大本営が正式に、ミッドウェー島及びアリューシャン列島攻略を命じたのは5月5日であるが、その作戦目的 は「ミッドウェー島ヲ攻略シ、同方面ヨリスル敵国艦隊ノ機動ヲ封止シ、兼ネテ我作戦基地ヲ推進スルニ在リ」、「アリューシャン列島西部要地ヲ攻略又ハ破壊シ、同方面ヨリスル敵ノ機動並ニ航空進攻作戦ヲ困難ナラ シムルニ在リ」(防衛庁戦史室「ミッドウェー海戦」、92〜4頁)と述べられているように、直接には、日本本土の防衛線の拡大を意図したものであった。しかし同時に、とくにミッドウェー作戦は、米空母を撃滅する機会があるのではないかという期待のもとに立案されたものでもあった。

  42年3月当時の第二段作戦に関する討議では大本営側は太平洋では、アメリカ・オーストラリア分断を意図するフィジー・サモア攻略(F・S作戦)を次期作戦とする方向に固まってきていたが、これに対して連合艦隊側は、真珠湾攻撃で打ちもらした米空母艦隊の活動を封殺することを先決とし、そのための作戦としてミッドウェー攻略を提起してきたのであった。すなわち、米空母の活動からみて近い将来に日本本上空似が企てられることは必至であり、これを防止するためには、ハワイ前面のミッドウェーを抑えて索敵範囲を拡大することが必要である、また米空母艦隊健在の間はフィジー・サモアの如き遠隔地の攻略は困難であるが、ミッドウェーを攻略すれば、反撃にあらわれる米空母を捕捉撃滅する機会がつかめる、従って、F・S作戦の前にミッドウェー作戦が必要である、というのが連合艦隊側の主張であった。大本営海軍部(=軍令部)も4月防めには、この案に内諾を与えていたが、4月18日の米空母機による本土初空襲は、連合艦隊側の主張をうらづけた形となり、ミッドウェー作戦はさらにアリューシャン作戦を追加する形で大本営側からも強く促進されることになったのであった。

  連合艦隊はこの作戦が「戦略的奇襲」として成功すると安易に考えており、南太平洋方面に居ると予想される米空母が、反撃に現われるかどうかに関心が寄せられていた。つまり、米空母が現われれば、確実に撃滅できるという楽観的雰囲気に支配されていたのであった。しかしアメリカ側は日本海軍の暗号解読などによってミッドウェー攻撃を察知し、これをむかえ撃つために兵力の集中を急いでいた。ミッドウェーの基地防衝力は強化され、基地空軍の増強がはかられるとともに、空母がこの海域に集められた。奇襲を企てていたのはむしろ米軍側であり、空母艦隊を日本索敵機の航続距離外のミッドウェー北東海面に待機させ、日本空母を急襲するという計画が立てられていた。

  6月5日午前1時30分、第一機動部隊は、ミッドウェー攻撃隊を発進させ、同隊は3時すぎからミッドウェー空襲を開始した。しかしこの間に、米軍索敵機は日本空母を発見しており、ミッドウェー基地は全機を発進させ、日本攻撃隊の迎撃と日本空母への攻撃とに向かわせたし、米機動部隊も南下しつつ、攻撃機を出撃させてきた。従って日本軍の空襲時には、すでに地上には米軍機の姿なく、また戦闘機の迎撃と熾烈な対空砲火のもとで行われた空襲は十分な成果をあげることが出来ず、攻撃隊は第二次攻撃の必要を報じて4時すぎからは艦への帰途についた。この時、日本空母には、ミッドウェーの米陸上機が来襲していたが、日本側はまだ米空母の存在に気づかずさしたる被害をうけずに来襲機を撃退するや、第一機動部隊南雲長官はミッドウェーの第二次攻撃を決意、米艦隊出現に備えて雷装にしてあった攻撃機の兵装を、陸上攻撃用の爆装にかえるよう命じた。しかしその直後から、ようやく索敵機より米艦隊発見の報がもたらされるようになり、南雲長官は前命令の30分後には、これを取り消 し、4時45分「敵艦隊攻撃準備、雷撃機雷装其ノ侭」(同前、313頁)との命令を発している。日本側はこの索敵活動で2時間のおくれをとっており、この時すでに米軍空母は攻撃隊の発進を開始していた。

  米陸上機による二波の攻撃が5時半すぎに終わるや、「赤城」らの空母は上空に待機させていたミッドウェー攻撃隊を収容すると共に、米空母に向かう攻撃隊の準備を急いだ。6時半頃からは米空母機の来襲が始まっており、上空警戒機や各艦の対空砲火は、低空で襲ってくる雷撃機を迎撃、各艦は回避運動を行って最少限の被害でこの攻撃をも撃退するかにみえた。しかしこの戦闘の間に、高々度から接近してきた爆撃機隊に気づかず、7時20分すぎ、急降下爆撃に入ってくるのを発見した時にはすでにはどこすすべもなく、「赤城」「加賀」「蒼龍」の三空母は、またたく間に大火災につつまれたのであった。「被弾当時各空母はまだ攻撃準備中で、一航艦(第一航空艦隊)の兵装復旧(〇四四五発令、雷装へ)も完成していなかった。各空母では、 艦爆、艦攻はほとんど全部が燃料を満載しており、飛行機に搭載を終わり、あるいは搭載中の魚雷や爆弾、さらに取りはずした爆弾などが付近にあり、艦内は最も悪い状況にあった」(同前、329頁)といわれ、これらの魚雷、爆弾の誘発が各艦に致命傷を与えることとなるのであった。

  これら三空母から離れて被害をうけなかった「飛龍」は、8時第一次攻撃隊を、ついで新空母発見の報に応 じて残存兵力をかき集めて、10時半には第二次攻撃隊を発進させ、米空母ヨークタウンを大破するなどの戦果をあげたが、「飛龍」もまた14時すぎ、急降下爆撃隊の奇襲をうけ致命傷をあたえられた。これで全空母を失った第一機動部隊は、艦艇による夜戦の構えを示したが、すでに戦闘能力なしとみた連合艦隊司令部は、ミッドウェー作戦の中止、全攻撃部隊の戦場離脱を命じ、この作戦は日本側の完敗をもって終わったのであった。ミッドウェー海戦によって、日本側は攻撃用主力空母4隻を喪失(加賀・蒼龍は沈没、赤城・飛龍は航行・消火不能として日本軍の手で沈める)、以後攻勢的作戦を企図しえなくなり、2カ月後のガダルカナルで始まるアメリカ軍の反攻を支ええず、戦局は一挙に敗勢に転ずるのであった。

  同時に行われていたアリューシャン作戦は、ミッドウェー敗戦にも拘わらず続行され、攻略部隊は6月8日、アッツ・キスカ両島を占領した。しかしすぐさま、大型機による空襲、艦砲射撃、潜水艦攻撃などによる反撃が加えられるようになり、大本営は敵を進出させないための長期確保という方針を決定したが、有効な防衛策を打ち出せないまま、翌年の反攻をむかえることになるのであった。

  なお、ミッドウェー作戦発令当時(昭17・5)に日本海軍が保有していた空母は下表の12隻であった。

艦名 公試排水量
(トン)
速力
(ノット)
完成年 記事
鳳翔 9,494 25・0 大11  
赤城 41,300 31・2 昭2 巡洋戦艦改装
加賀 42,541 28・3 昭3 戦艦改装
龍驤 10,151 29・0 昭8  
蒼龍 18,800 34・3 昭12  
飛龍 20,250 34・3 昭14  
瑞鳳 13,950 28・0 昭15 潜水母艦改装
翔鶴 29,800 34・0 昭16  
瑞鶴 29,800 34・0 昭16  
大鷹 20,000 21・0 昭16 春日丸改装
祥鳳 13,100 28・2 昭17 潜水母艦改装
隼鷹 27,500 25・5 昭17 橿原丸改装

(同前、135〜6頁)


  このうち緒戦の真珠湾攻撃に参加した、第一航空戦隊(赤城・加賀)、第二航空戦隊(蒼龍・飛龍)、第五航空戦隊(瑞鶴・翔鶴)の六空母が攻撃用空母であり、このなかでも最も精鋭とみられた第一・第二航空戦隊が空母・搭載機ともに壊滅したことに(五航戦は珊瑚海々戦の損害回復のため内地に残留)深刻な衝撃をうけた軍首脳部はこの敗戦を国民からかくすのに必死となっていた。6月10日大本営は米空母エンタープライズ型・ホーネット型各1隻撃沈、我方空母1隻喪失、同1隻大破、巡洋艦1隻大破(朝日、6・11)と発表、さらに15日には巡洋艦・潜水艦各1隻撃沈(同前、6・16)、の戦果を追加し、やや優勢の戦いであったかの如 くミッドウェー海戦を粉飾しようとしていた。しかし現実の退勢は如何ともしがたいものとなっていた。



ガダルカナル争奪戦の敗北

 ミッドウェー敗戦によって、日本軍は次期作戦の構想から再検討せざるを得なくなってきた。もはや空母勢力における優位が失われた以上、フィジー、サモアといった遠距離への進攻は困難となり、フィジー・サモア作戦は連合艦隊の意見によって、7月11日正式に中止が決定された。またポートモレスビーヘの進攻も、珊瑚海の制海・制空権が得られないことから、東部ニューギニアの背骨をなすオーエン・スタンレー山脈をこえて、陸路から進攻するという方針がとられることとなった。しかもこのモレスビー攻略も、米濠分断という観点よりも、ソロモン・ニューギニア方面での航空基地の拡張・整備の一環として、いわば、この方面で基地航空の傘の下に不敗の態勢を築こうという観点で考えられるようになっていた。

  開戦時における日本の戦争指導者の考え方は、イギ リスを屈伏させることでアメリカの戦意を失わせることが出来る、つまりドイツとの協力によってイギリスを打倒することが、太平洋戦争のかぎとなるとするものであった。ミッドウェー海戦後は、東正面でのアメリカとの決戦を企て得なくなったこともあって、海軍部内でも開戦時の構想にもどって眼を西へ向け、ドイツの中近東への進出を期待しながら、太平洋方面では防御を固め、印度洋での通商破壊を次の主目標にしようとする考え方も強まっていた。陸軍側でも四川作戦・重慶攻略が論ぜられていた。しかし、すぐさま開始されたアメリカ軍の本格的反攻は、主戦場を西方に設定したいという日本側の願望を打ちくだくものにほかならなかった。

  アメリカ軍反攻のきっかけとなったのは、ガダルカナル島での航空基地建設であるが、それはミッドウェー作戦の直接の結果ともいえるものであった。つまり、主力機動部隊を失ったことは、不沈母艦としての航空基地を前進させることを緊急の課題とすることになったし、またミッドウェー作戦の中止は、同作戦のために準備されていた設営部隊をソロモン方面の基地建設に投入する条件となったのであった。6月中旬南洋部隊は基地整備計画を作成したが、その際、ニューギニア・珊瑚海方面を制圧するための要地としてガダルカナル島が選ばれ、7月上旬には第一一・第一三設営隊及び警備の陸戦隊が上陸、7月16日から基地設営を開始、8月5日には滑走路を概成、8月16日には戦闘機一個分隊が進出することが予定された。

  しかしアメリカ軍はこの計画を傍観してはいなかっ た。ミッドウェーの勝利で勢いづいたアメリカ側は、ラバウル基地の制圧を次の目標とし、そのためにまずガダルカナル島の対岸で日本海軍が水上機の基地としたツラギに進攻するという方針が立てられた。そしてその矢先に日本側のガダルカナル基地建設が始められたため、この攻略が第一任務とされるに至ったのであった。米軍は日本戦闘機の進出に先手を打って、8月7日輸送船団をつらねて上陸作戦を敢行、これに対して第八艦隊は巡洋艦「鳥海」を旗艦として翌8日夜に夜襲し、米巡洋艦4隻を撃沈するなどの戦果をあげたが(第一次ソロモン海戦)上陸を阻止することは出来なかった。しかし、開戦当初から米軍の本格的反攻は43(昭和18)年以後と考えていた軍首脳部には、陸軍部隊を送り込めば簡単に奪回できるという安易な空気が強く、これもミッドウェー攻略のために編成されていた一木支隊(支隊長一木清直大佐、約2400名)を上陸させて飛行場を奪回するという作戦が立てられた。だが困難は同支隊の輸送の段階から早くも明らかになってきた。

  一木支隊先遣部隊(支隊以下約1000名)は8日28日夜、ガ島上陸に成功したが、同20日、連合艦隊は敵機動部隊発見の報により第二梯団を輸送中の船団 を反転退避させ「翔鶴」、「瑞鶴」を軸として再編した主力機動部隊を出撃させた。しかしこの日早くも米軍機はガ島飛行場に進出、翌21日後続部隊の上陸をまたずに決行された一木支隊先遣部隊の飛行場攻撃は、戦車をも含む米軍に反撃包囲され、支長も自決するという惨敗に終わっている。24日には、機動部隊相互の攻撃により、エンタープライズに被害を与えたものの、日本側でも小型空母「龍驤」が撃沈され(第ニ次ソロモン海戦)、また翌25日ガ島に接近した一木支隊第二梯団の輸送船団は同島を発進した米軍機の攻撃をうけ、上陸作戦をあきらめて引き返さざるをえなくなっていた。米軍機のガ島進出により、ガ島争奪戦の主導権が米軍側に握られたことは明らかとなった。連合艦隊司令部も、ガ島の米軍基地航空兵力が健在な間は、もはや輸送船団による上陸作戦は困難になったことをみとめ、一木支隊につづく川口支隊などの陸軍兵力を駆逐艦等の快速艦艇により輸送するという、いわゆる「ねずみ輸送」の方式によることを決定した。つまり「ねずみ輸送」によって送り込んだ兵力により飛行場を奪回することを先決とし、「飛行場ヲ奪回セバ連ニ飛行機ヲ進出、次イデ陸軍輸送船ヲガダルカナル島ニ進出セシム」(8・25連合艦隊参謀長指示、防衛庁戦史室「大本営海軍部・連合艦隊(3)」、176頁)というのが新しい作戦の構想であった。

  しかし輸送船による増強・補給を行っている米軍に対して、「ねずみ輸送」で打ち勝ちうると考えるのは、日本軍の戦力についての過信に基づくものというほかはなかった。8月29日から9月7日に至る一日数隻の駆逐艦輸送により、川口支隊を中心に約4500の陸兵がガダルカナルに送り込まれたが、9月8日になると米軍は日本側が揚陸地点としていたタイボ岬を攻撃、上陸占領するに至るのであり、川口支隊はいわば腹背に敵を迎える形となった。こうした苦境のもとで、川口支隊は南方の密林中を迂回し、9月13日夜10時すぎから飛行場に向けて攻撃を開始したが、一部の部隊が第二線陣地を突破したものの飛行場に突入するまでには至らず、夜明けと共に激烈となった米軍砲火に制圧され、多大の損害を受けて後退を余儀なくされたのであった。

  一木支隊につづく川口支隊のこの攻撃失敗は日本側に大きな衝撃を与えたが、しかし軍首脳部はまだ、米軍より優勢な兵力を送り込めば奪回は可能だと考えていた。そして、ポートモレスビー攻略のために予定されていた第二師団をガダルカナルにつぎ込み、更にそのうしろに第三八師団を動員してラバウルに集結させ、必要とあればこの師団をも急送する体制をととのえ、10月中旬に総攻撃を行うという新作戦方針が立てられたのであった。輸送面でも、これまでの「ねずみ輸送」に加えて、基地航空部隊や戦艦の艦砲射撃などによる援護のもとに、高速輸送船団(6隻)をも突入させ、充分な物資、資材を陸揚げすることとされた。そ して10月1日より第二師団の「ねずみ輸送」が開始 され、13日には戦艦金剛・榛名が飛行場に艦砲射撃、15日には高速船団が突入していった。日本側としては、この作戦を最重点策として取り組んでおり、すでにモレスビー陸路進攻の途についていた南海支隊の前進を抑え、ニューギニアはガダルカナル奪回後とする方針も明らかにされていた。このため、補給の得られなくなった南海支隊は、極度の食糧難に陥り、飢餓状態で後退する有様となっていた。

  しかしこの輸送作戦も敵の制空権のもとでは思惑通りには実現しなかった。当時ガダルカナルの第一線を視察した辻政信大本営参謀は、「駆逐艦ニヨル兵力及弾薬、糧秣ノ輸送ハ敵機ノ揚陸妨害ニ依り計画ノ概ネ三分ノ一程度ナルト、揚陸点ヨリ第一線迄ノ補給ハ夜間、人カノミニ依り辛ウシテ三分ノ一前後ヲ前送シ得ル状態ニ在リ」(防衛庁戦史室「大本営陸軍部閣」、231頁)と報告しているし、また10月14日深夜ガ島に接近した高速船団も、15日の夜明けと共に米軍機に攻撃されて6隻中3隻が被弾炎上しており、「その後第一七軍参謀が揚陸点を実査したところ、揚陸し得たのは軍隊の全部と、軍需品は弾薬5分の1(1、2割)、糧秣の半分に過ぎず、折角揚陸しても、海岸で敵機の銃爆撃により焼かれるというのが実態であった(同前、235頁)といわれる。またこの間10月7日ガ島においても米軍の反撃を受けて飛行場に最も近い前進陣地を失うなど、攻撃態勢をととのえることも容易ではなかった。

  第二師団の総攻撃は再三の予定延間のすえ、10月24日午後5時より開始され、同深夜には一時は飛行場占領の電報もとび込んだが、結局それは誤報とわかり、この日の夜襲は失敗に終わっていた。翌25日夜、再度の夜襲が企図されはしたが、すでに弾薬、糧食も残り少なく、26日夜明けとともに、第二師団もまた大きな損害をうけて後退したのであった。

  連合艦隊もこの第二師団総攻撃に呼応して機動部隊を出撃させているが、同部隊は26日早朝には米空母を発見攻撃を加え、南太平洋海戦(大本営の呼称)を展開した。この海戦で日本側も「翔鶴」「瑞鳳」の二空母が発着不能となる損害をうけて戦線を離脱したが、戦果をまとめた連合艦隊は米空母4隻、戦艦1隻を撃沈 したと称し、軍首脳部も久々の大勝利を喜んだ(戦果判定技術の拙劣による誤認、実際は空母1、駆逐艦1を撃沈、空母1、戦艦1に被弾)。しかし空母の被害が航行可能な程度にとどまったとはいえ、艦載機の損害は大 きく(喪失機数92、残存使用可能機数86)、当分機動部隊として役立たなくなったといってもよかった。第二師団の総攻撃失敗、南太平洋海戦の時点で、日本の陸海軍がガダルカナル奪回の力を失ったことは明らかであった。すでにこの間、10月9日には企両院は物動計画改定をめぐり、陸海軍が20万トンの船舶を解傭しなければ、年間400万トンの鉄鋼生産を維持できないと申し入れていた。

  しかし大本営はまだガダルカナルをあきらめず、陸軍は第二師団、第三八師団についで第五一師団、第六師団などをソロモン・ニューギニア方面に投入することとした。そしてこれまでの第一七軍をソロモン作戦専用とし、ニューギニア作戦のために第一八軍をおきそのうえに両軍を統轄する第八方面軍司令部を新設するという兵力の拡大にみあう組織もつくられたのであった。第八方面軍、第一八軍両司令部の編成が発令され、今村均中将が同方面軍司令官に任ぜられたのは11月9日であったが、しかし以後、今村中将がラバウルに到達して統帥を発勤した26日にいたる半月ばかりの間に、この方面の戦況は一変し、日本軍にとって救い難いまでに悪化してしまっていたのであった。

  10月26日、前述したように第二師団の総攻撃失敗が明らかになると、第一七軍はすでにラバウルに到着していた第三八師団をすぐさまガ島に送り込み攻撃の再興を図ろうとし、その輸送について海軍側と協議 していた。両者の間では輸送船数隻で行う輸送作戦を くり返すとの案も立てられたが、敵飛行場を長時間制圧することは無理であり、乗ぜられる機会もふえるとして、大船団で一挙に陸揚げする方式をとること、期日は11月13日とすることが決定された。11月11日、艦砲射撃などによる飛行場制圧などをめざした連合艦隊の前進部隊は南下を開始したが、そのなかには、もはや1隻の空母(隼鷹)が参加しているだけだった。12日夜同部隊はガ島への夜襲を試みたが、米艦隊と遭遇して海戦となり艦砲射撃を実施できなかったため、船団輸送も1日延期されて14日に変更された。しかし13日夜の艦砲射撃も十分でなく、ガ島に近づいた船団は14日早朝から八波にわたる空襲をうけ、11隻のうち7隻が被爆(6隻沈没、1隻は引き返す)という大きな被害をうけた。襲撃したのは陸上機(B17)と艦載機であり、さきの南太平洋海戦で傷ついたエンタープライズが応急修理のうえ早くもこの攻撃に参加していたことは、日米間の補給、修理能力の大きな差を示すものであった。

  14日夜、前進部隊はガ島周辺で米艦隊と再び遭遇して海戦(12日から14日に至る一連の海戦が「第三次ソロモン海戦」と呼ばれた)、結局また飛行場砲撃を行うことができず、残った船団4隻は14日深夜ようやくガ島に入泊、陸揚げを急いだが、翌15日朝6時頃から空からの爆撃、陸上砲台及巡洋艦・駆逐艦各1隻による砲撃をうけてたちまち全船火災につつまれ、折角の爆薬、糧食もほんの一部を陸揚げできたに止った。 結局、この大輸送作戦も重火器のない兵員を送り込んだだけであり、新たな攻撃力とはなりえないものであった。陸揚げしたのは兵員2000名に対して山砲野砲弾薬360箱、米1500俵にすぎず「戦艦2隻、重巡1隻、駆逐艦3隻、輸送船11隻などの犠牲を払って敢行された大船団輸送作戦は完全に失敗に終った」(同前、363頁)のであった。

  この第三八師団輸送作戦の失敗で、日本軍がもはや完全にガダルカナル奪回の力を失ったことは明らかであったが、米軍はさらにこれに追打ちをかけるように、翌11月16日日本軍がニューギニアでのポートモレスビー陸路攻略作戦の基地としていたブナ周辺地方に上陸作戦を展開、ニューギニア戦線でも本格的反攻を開始してきた。これに対して日本側は駆逐艦輸送により増援部隊を送ったが、米軍の攻撃を支えきれずに、ブナ、ギルワ、バサブアの三地区に孤立し、12月8日にはバサブア地区、ついで43年1月1日にはブナ地区の日本軍が全滅するに至り、モレスビー攻略作戦もまた不可能となったのであった。この間、完全に制空・制海権を失ったガダルカタルでは、駆逐艦輸送まで困難となり、潜水艦による輸送が行われるようになり、駆逐艦による場合には、物資をドラムかんに入れて投げ込むという方法がとられたが、この場合には揚陸されるのは2割程度という効率の悪いものとなっていた。この補給難によって、ガダルカナルの日本軍は飢餓状態におちいっていった。ガ島で戦病死、行方不明などの日本軍兵士は約2万名(上陸総数31,400名)とみられたが「このうち純戦死は5,000〜6,000(第八方面軍参謀長報告)と推定されているので、1・5万名前後が戦病に襲れたことになる。死因は栄養失調症、熱帯性マラリア、下痢及び脚気等によるもので、その原因は補給の不十分に基づく体力の自然消耗によるものであった」(同前、517頁)といわれる。

  もはやこれ以上のガ島作戦の続行は、日本の戦争能力そのものを崩壊させるところまで来ていた。12月6日、船舶問題をめぐって作戦続行論者の田中新一参謀本部作戦部長が東条首相と衝突、罷免されたことは、軍部首脳部が戦略転換に動き始めたことを示すものであった。新作戦部長には満州の第一方面軍参謀長の綾部橘樹少将が任ぜられ、ついで作戦課長も服部卓四郎大佐から陸軍省軍務課長真田穣一郎大佐に代わったが、真田新作戦課長は着任早々ので12月17日ラバウル方面の視察に出発、現地軍首脳と協議したが、結局「思い切ってガ島部隊を撤収し、後方に主線を設定する」方針をとるほかはないとの結論に達した。そして25日帰京した真田は、参謀総長以下の首脳部に戦略転換の必要を力説、ここから急速にガダルカナル撤退の方針が固まり、それから一週間後の12月31日には早くも御前会議における正式決定にまで持ち込まれたのであった。

  第八一回議会で実質的密議が始められた43(昭和18)年2月1日、ガダルカナルでは夜陰に乗ずる撤退作戦が開始されていた。ついで、2月4日〜5日第二次、7日〜8日の第三次撤退作戦をもって撤退を完了した。この間米軍機の来襲をうけることもなく、撤退はガダルカナルに於いて日本軍が成功した唯一の作戦といえるものであった。大本営は2月9日、「転進」という用語を使って次のような発表を行っている。

一、

南太平洋方面帝国陸海軍部隊は昨年夏以来有力なる一部をして遠く挺進せしめ、敵の強靭なる反攻を索制破砕しつつ其の掩護下にニューギニア島及ソロモン群島の各要線に戦略的根拠を設定中の処、既に概ね之を完了し茲に新作戦遂行の基礎を確立せり。

 二、

上掩護部隊としてニューギニア島のブナ附近に挺進せる部隊は寡兵克く敵の執拗なる反撃を撃攘しつつありしが其の任務を終了せしに依り一月下旬陣地を撤し他に転進せしめられたり。

同じく掩護部隊としてソロモン群島のガダルカナル島に作戦中の部隊は昨年八月以降引続き上陸せる優勢なる敵軍を同島の一角に圧迫し激戦敢闘克く敵戦力を撃攘しつつありしが、其の目的を達成せるに依り二月上旬間島を撤し他に転進せしめられたり」(朝日2・10)


 何か「新作戦への転進」と読ませようとするこの発表によって、その真相は国民の眼からおおわれてしまったが、太平洋方面の戦局の主導権はミッドウェー作戦の失敗から半年にして、完全に米軍の手に握られてしまっていたのであった。



大東亜省設置と汪政権の参戦

 日本軍がガダルカナル島争奪をめぐる消耗戦にまき込まれたということは、他の方面においても新たな大作戦を起こす余力を失ったことを意味した。陸軍部内で唱えられた四川作戦、重慶作戦といった構想も、ガ島戦の激化とともに消滅していったのであった。そしてこうした戦力面での弱化とともに汪兆銘政権の対米英参戦とか、フィリッピン・ビルマヘの独立の口約とかという形での占領地政権の補強策が問題とされるようになるのであるが、しかし反面では、占領地の資源確保という要求は強引にでも貫徹されなければならないというわけであり、こうした種々の問題を調整し実現するには、新しい機構が必要だとする動きもあらわれてきていた。

  東条内閣は第八〇回議会が終わるとすぐ、行政機構簡素化の問題をとりあげ、7月28日の閣議では、部局の廃合により勅任官89名を減員するとの方針が決定されているが、この場合にも簡素化の目的の一つとして「南方建設に必要な官吏の供出」が掲げられており、いわゆる「大東亜共栄圏」建設との関連が強く意識されていた。そしてこの時にはすでに「大東亜省」新設問題が具体化していたのであった。

  大東亜省とは、1938(昭和13)12月、中国占領地に対する政策を一元化するために設立された興亜院の発想をうけつぐちのであり、第二次近衛内閣が「大東亜共栄圈建設」を唱え、仏印進駐を強行した頃から問題とされてきたものであった。そして興亜院、企画院などがこうした構想をおしすすめようとしたのに対して、外務省が「外政一元化」を唱えて反対するという対立が続いてきたのであったが、日本軍がシンガポールを占領した42年2月頃からは、外務省を除いて陸・海・興・企の4者間で新省設立の協議がすすめられていった。この協議の軸となったのは、外務省・ 拓務省・興亜院・対満事務局などを再編統合して「建設ト外交トヲ一元的ニ推進セシムベキ総合責任官庁」を設置しようという発想であったが、それはいいかえてみればアジア全城の植民地化、従属化を一元的に推進する官庁ということにほかならなかった。この構想の推進者であった興亜院・堂ノ脇光雄調査官は「大東亜共栄圈ノ予想形態」につき次のように記している。

(イ)

帝国ノ国防上、経済上ノ要地ハ永久領有スヘシ(香港、マレー連邦、ボルネオ、ニューギネア、比島中ノ要地、蘭印中ノ要港・油田地帯、ビルマ・豪州・印度ノ要港等)

(ロ)

比島、仏印、ビルマ、インドネシア、豪州、印度ハ帝国保護下ニ独立シ共栄圈ノ一部担当図ルヘシ(組要地ハ日本ノ永久領有トシテ認メシムルコト前項ノ如シ)

(ハ)

大東亜自給自存経済確立ノ為、政治外交ハ勿論、経済開発、貿易、金融通貨、交通通信等ハ日本ノ強カナル統制指導ノ下ニ独立(保護)国及占領諸地域全般ヲ通シ計画的二運営セラルベシ(以下略)(外務省編「外務省の百年」下、693頁)


  結局この新省構想は、「大東亜共栄圏」とその他の地域とを分け、共栄圏に対する政策(純外交を除く)を新省に一元化するという方向で具体化されたのであったが、これに対し東郷茂徳外相は7月12日、東条首相に対して次のように反論している。

 

  「聞ク所ニ依レバ目下研究セラレツツアル案ハ東亜共栄圏内政治、文化、外交等凡ユル事項ヲ包含処理スル一省ヲ設置セントスルモノノ如キ処、自分ハ如此案ノ実施カ国策遂行上不得策ナルコトハ興亜院ノ実例ニ鑑ミテモ明ラカナルコトト思フ、興亜院ハ設置当初ノ理由如何ニ拘ラズ全然失敗ナリシト八万人等シク認ムル所デアル、(中略)元来興亜院ノ如キ国内的性格ヲ有スル官庁ヲ以テ外交問題ヲ取扱ハシメ而モ共栄圏内外交ト共栄圏外ノ外交トヲ二分スルガ如キコト外務省トシテハ絶対ニ容認スル能ハザル所ナリ、満州、支那、仏印及泰ハ勿論、今後南方占領地区ニ於テ独立スベキ国アリトスレバ其ノ時ヨリ此等独立国ハ均シク外務省ノ所管タルベク、又斯クセザルベカラザルモノナリトノ固キ信念ヲ有スルモノナリ、例ヘバ人ヲ招待スル場合或ル者ハ正門ヨリ或ル者ハ裏門ヨリ人ルベシト云フガ如キコトヲ為サンカ其ノ裏門ヨリ招シ人レラレル者ハ必ズヤ差別待遇ヲ受クルモノトシテ反感ヲ招来スルハ明ラカナリ」(同前、699〜700頁)



 しかし東条首相は、早急に戦力の増強をはかるためには、東亜全体を日本のために寄与させることが必要であるとの見地から、大東亜省設置の方向を推し進めたのであり、9日2日の閣議には大東亜省設置要綱が提出されたのであった。同要綱の骨子は「大東亜省を設け大東亜地域(内地、朝鮮、台湾および樺太を除く)に関する政治、経済、文化等諸般の政務の施行に関する一元的機関たらしむること、但し純外交に関する事務は外務省の所管とすること」(朝日、9・2)というものであり、対満事務局、興亜院、外務省東亜局工閉洋局、拓務省拓北局・拓南局、南洋庁に関する事務を統合し、大東亜地域における大公使や現地機関を大東亜省の所轄とすること、同省職員には、陸海軍軍人をも任用で きるようにすることなどが予定されていた。

  東郷外相はこの案に強硬に反対し、午前10時から開かれた閣議は、3時間にわたる討議にも拘らず意見不一致のまま一たん休憩、内閣総辞職かともみられたが、夕刻に至りついに東郷外相が単独辞職し、閣議は大東亜省設置の決定にこぎつけることができた。後任外相はとりあえず東条首相が兼任したが、9月17日になって、外務省出身(元次官)で情報局総裁の任にある谷正之が外相兼任に、国民政府経済顧問で蔵相の経験をもつ青木一男が国務大臣に任命されている。青木は大東亜省の発足と同時に大東亜大臣に就任することが予定されていたものであった。大東亜省の発足は、同省官制を審議する枢密院に、東郷外相と同様な強い批判があって審議が難航したこと、現地機関の組織について現地軍との意見の調整に手間どったことなどにより予定よりたくれたが、11月1日に至って行政簡素化のための各省分課規程改正などとともに大東亜省官制が公布され、正式に発足している。

  ところで大東亜省が設置された時、政府・大本営連絡会議では、汪兆銘政府に米英に対して宣戦させるという方針が決定されたばかりであり(10・29決定)、これに伴う両国間の問題を処理することが、大東亜省の最初の仕事となったのであった。この参戦問題は汪自身の希望から出たものであったが、日本側がこれを うけいれたのは、「米英側ノ反攻ノ最高潮ニ達スルニ先チ」「国民政府ノ政治カヲ強化スル」(「杉山メモ」下巻、321頁)との思惑からであり、そのために租界の返還、治外法権の撤廃などを約束して中国民衆の歓心を買おうというわけであった。この方針は12月21日御前会議を開いて正式に決定され、同様な方向はさらに、 翌43年1月14日の大本営・政府連絡会議での、ビルマ・フィリッピンに独立を許すという決定を生み出していった。

  そこでは占領地支配についての反省もある程度はあらわれていた。例えば、青木大東亜大臣は中国での問題について次のように述べている。

 

 「現地ニ於ケル観察ニヨレバ支那人ノ民心ハ漸次日本ヨリ離反シ国民政府ハ逐次弱化シツツアリ、此ノ侭ニテ推移スレバ決シテ油断ナラヌ状態ニシテ恐ルベキ事態ヲモ惹起スル可能性ナシトセズ。

  従テ此ノ際参戦ヲ契機トシテ国民政府ノ政治カヲ強化シ且民心ヲ把握スル為思ヒ切ツタ転換ヲ必要トス。

  敵産処理ニ就テ見ルモ現地ハ何デモ取り込ミ主義ニシテ租界ハ返スガ倉庫モ家屋モ目星シイモノハ皆取ラントスル思想ナリ、斯クテハ租界ニハ何モ残ラズ斯様ナ返ヘシ方ヲセラレテハ民心ノ離反モ已ムヲ得ザルベシ」(同前、181頁)。


  しかし同時にまた、賀屋蔵相のいう如く「物資獲得ノ必要ヨリ言ヘバ之ヲ日本ニ持チ来ル為ニハ相当無理デモ強行セザルヲ得ザルベシ」(同前、303頁)という側面も強まっているのであり、日本の戦争指導者は、開戦一周年を迎えたこの時点で、早くもこえがたい障害につきあたっていたのであった。



第八一回議会の召集


  第八二回議会は42(昭和17年11月7日公布の召集詔書により、会期90日間の通常会としてこ12月24日に召集された。会期は12月26日の開院式に始まり、12月24日より翌43年1月20日まで24日間の年末年始の休会をはさんで予定通り3月25日終了、翌26日閉院式が行われている。

  この議会における国務大臣、政府委員、議長・副議長、全院委員長・常任委員長、議員の会派別所属などは次の通りであった。

国務大臣    
  内閣総理大臣 東条 英機
  外務大臣(42・9・17任命) 谷  正之
  内務大臣 湯沢 三千男
  大蔵大臣 賀屋 興宣
  陸軍大臣(兼任) 東条 英機
  海軍大臣 嶋田 繁太郎
  司法大臣 岩村 通世
  文部大臣 橋田 邦彦
  農林大臣 井野 碩哉
  商工大臣 岸 信介
  逓信大臣 寺島 健
  鉄道大臣 八田 嘉明
  大東亜大臣(42・11・1新設) 青木 一男
  厚生大臣 小泉 親彦
  国務大臣 安藤 紀三郎
 
政府委員(5・25発令)    
  内閣書記官長 星野 直樹
  法制局長官  森山 鋭一
  法制局参事官 佐藤 基
  入江 俊郎
  佐藤 達夫
  企画院次長 安倍 源基
  情報局次長 奥村 喜和男
  技術院総裁 井上 匡四郎
  技術院次長 和田 小六
  特許局長官 中村 幸八
  外務次官 松本 俊一
  外務省政務局長 上村 伸一
  外務省通商局長 渋沢 信一
  外務省条約局長 安東 義良
  外務省調査局長 山田 芳太郎
  外務書記官 佐藤 信太郎
  内務次官 山崎  厳
  内務省地方局長 古井 喜美
  内務省警保局長 三好 重夫
  内務省国土局長 新居 善太郎
  内務省防空局長 上田 誠一
  内務省管理局長 竹内 徳治
  内務書記官 沢  重民
  神祇院副総裁 飯沼 一省
  朝鮮総督府政務総監 田中 武雄
  朝鮮総督府財務局長 水田 直昌
  台湾総督府総務長官 斎藤  樹
  台湾総督府財務局長 中嶋 一郎
  樺太庁長官 小河 正儀
  大蔵次官 谷口 恒二
  大蔵省主計局長 植木 庚子郎
  大蔵省主税局長 松隈 秀雄
  大蔵省営繕管財局長 氏家  武
  大蔵省資金局長 松田 令輔
  大蔵省理財局長 田中 豊
  大蔵省外資局長 原口 武夫
  大蔵省銀行局長 山際 正道
  大蔵省監理局長 相馬 敏夫
  専売局長官 木内 四郎
  大蔵書記官 松尾 俊次
  陸軍次官 木村 兵太郎
  陸軍法務中将 大山 文雄
  陸軍主計中将 栗橋 保正
  陸軍少将 佐藤 賢了
  陸軍大佐 那須 義雄
  陸軍大佐 二宮 義清
  陸軍主計大佐 遠藤 武勝
  海軍次官 沢本 頼雄
  海軍主計中将 武井 大助
  海軍法務中将 尾畑 義純
  海軍中将 岡  敬純
  海軍主計大佐 稲岡  新
  海軍大佐 矢牧  章
  司法次官 大森 洪太
  司法省民事局長 坂野 千里
  司法省刑事局長 池田  克
  司法書記官 石田  寿
  文部次官 菊地 豊三郎
  文部省総務局長 藤野  恵
  文部省専門教育局長 永井  浩
  文部省国民教育局長 纐纈 弥三
  文部省数学局長 近藤 寿治
  文部省科学局長 生悦 住求馬
  文部省体育局長 小笠原 道生
  文部省図書局長 松尾 長造
  文部省教化局長 阿原 謙蔵
  文部書記官 柴沼  直
  農林次官 石黒 武重
  農林省総務局長 重政 誠之
  農林省農政局長 石井 英之助
  農林省山林局長 井出 正孝
  農林省水産局長 寺田 省一
  農林省蚕糸局長 井上 俊太郎
  農林省食品局長 田中 啓一
  農林書記官 笹山 茂太郎
  馬政局長官 岸  良一
  食糧管理局長官 湯河 元威
  商工次官 椎名 悦三郎
  商工省総務局長 神田  暹
  商工省企業局長 豊田 雅孝
  商工省金属局長 津田  広
  商工省化学局長 山本  茂
  商工省機械局長 佐藤 筌太郎
  商工省繊維局長 西川  浩
  商工省交易局長 山口  喬
  商工書記官 赤間 文三
  燃料局長官 楠瀬 常猪
  物価局長官 菱沼  勇
  逓信次官 手島  栄
  逓信省総務局長 小林 武治
  逓信省郵務局長 東  博仁
  逓信省電務局長 中村 純一
  逓信省工務局長 松前 重義
  逓信省電気局長 塩原 時三郎
  貯金局長 岡崎 誠一
  簡易保険局長 田倉 八郎
  海務院長官 松木 益吉
  海務院次長 安田 丈助
  航空局長官 山田 良秀
  鉄道次官 長崎 惣之助
  鉄道監 平山  孝
  斎藤 義八
  佐藤 栄作
  堀木 鎌三
  小林 紫朗
  向笠 金吾
  厚生次官 武井 群嗣
  厚生省人口局長 中村 敬之進
  厚生省衛生局長 灘尾 弘吉
  厚生省生活局長 石井 政一
  厚生省勤労局長 持永 義夫
  厚生省保険局長 平井  章
  軍事保護院副総裁 藤原 孝夫
  軍事保護院援護局長 高辻 武邦
  軍事保護院業務局長 大坪 保雄
  厚生書記官 青柳 一郎
  大東亜次官 山本 熊一
  大東亜省総務局長 竹内 新平
  大東亜省満州事務局長 今吉 敏雄
  大東亜省支那事務局長 宇佐美 珍彦
  大東亜省南方事務局長 水野 伊太郎
  大東亜書記官 華山 親義
 
政府委員追加(会期中発令) 内閣恩給局長 平木  弘
  内閣東北局長 宇都宮 孝平
  企画院部長 柴田 弥一郎
  梶原 茂嘉
  秋永 月三
  柏原 兵太郎
  亀山 孝一
  情報局情報官 堀  公一
  橋本 政実
  佐藤 勝也
  松村 秀逸
  技術院参技官 本田 静雄
  内務書記官 小林 千秋
  中島 賢蔵
  大蔵書記官 久保 文蔵
  戸田 忠粛
  日下部 滋
  前田 克巳
  池田 勇人
  河野 一之
  松田 一隆
  平田 敬一郎
  森永 貞一郎
  窪谷 直光
  専売局理事 浜田 徳海
  陸軍少将 吉積 正雄
  農林書記官 藤田  厳
  馬政局次長 片桐  茂
  商工事務官 美濃部 洋次
  燃料局部長 山口 真澄
  山口 六平
  逓信省電気技監 森   秀
  海務院部長 新谷 寅三郎
  渡辺  浩
  若林 清作
  中尾 国次郎
  航空局部長 遠藤  毅
  仁村  俊
  横川 市平
  厚生書記官 木村 忠二郎
  菊地 武夫
  軍事保護院書記官 杉山 俊郎
  大東亜書記官 杉原 荒太
  愛知 揆一
  関東局部長 伊藤 護二
  南洋庁長官 近藤 駿介
  大蔵書記官 加藤 八郎
  阪田 泰二
  内務書記官 郡  祐一
  内務事務官 今井  久
  海軍少将 保科 善四郎
  司法省行刑局長 正木  亮
  司法省保護局長 森山 武市郎
  文部書記官 清水 虎雄
  技術院参技官 岡田 重一郎
  北海道庁長官 坂  千秋
  陸軍次官 富永 恭次
 
〔貴族院〕    
議長   松平 頼寿(伯爵・研究会)
副議長   佐佐木 行忠(侯爵・火曜会)
 
全院委員長   徳川 圀順(公爵・火曜会)
 
常任委員長 資格審査委員長 青木 信光(子爵・研究会)
  予算委員長 林 博太郎(伯爵・研究会)
  懲罰委員長 樺山 愛輔(伯爵・研究会)
  請願委員長 高橋 是賢(子爵・研究会)
  決算委員長 深尾 隆太郎(男爵・公正会)
     
会派別所属議員氏名
     
開院式当日各会派所属議員数 研究会 161名
  公正会 68名
  火曜会 43名
  交友倶楽部 30名
  同和会 29名
  無所属倶楽部 28名
  同成会 26名
  会派に属さない議員 24名
  409名
 
研究会 大久保 利武
  林  博太郎
  堀田 正恒
  徳川 宗敬
  樺山 愛輔
  副島 道正
  大木 喜福
  黒木 三次
  柳原 義光
  柳沢 保承
  山本  清
  松平 頼寿
  松木 宗隆
  二荒 芳徳
  後藤 一蔵
  酒井 忠正
  溝口 直亮
  児玉 秀雄
  橋本 実斐
  伊東 二郎丸
  入江 為常
  井上 匡四郎
  今城 定政
  池田 政e
  波多野 二郎
  西大路 吉光
  西尾 忠方
  錦小路 頼孝
  北条 雋八
  保科 正昭
  本多 忠晃
  伊集院 兼高
  戸沢 正己
  土岐  章
  富小路 隆直
  大河内 正敏
  大河内 輝耕
  大島 陸太郎
  岡部 長景
  河瀬  真
  加藤 泰通
  谷  儀一
  立花 種忠
  冷泉 為勇
  曽我 祐邦
  上原 七之助
  裏松 友光
  梅園 篤彦
  植村 家治
  野村 益三
  柳沢 光治
  前田 利定
  松平 親義
  松平 忠寿
  松平 乗統
  松平 康春
  松平 保男
  牧野 康熙
  舟橋 清賢
  米田 国臣
  青木 信光
  綾小路  護
  秋田 重季
  秋月 種英
  秋元 春朝
  安藤 信昭
  実吉 純郎
  清岡 長言
  京極 高修
  京極 鋭五
  北小路 三郎
  由利 正通
  水野 勝邦
  三島 通陽
  宍戸 功男
  仙石 久英
  八条 隆正
  織田 信恒
  高橋 是賢
  高木 正得
  大岡 忠綱
  大久保 教尚
  藤井 兼誼
  市来 乙彦
  今井 伍介
  石渡 荘太郎
  八田 嘉明
  坂西 利八郎
  西野  元
  堀 啓次郎
  星野 直樹
  長  世吉
  大橋 八郎
  大橋 新太郎
  太田 政弘
  大塚 椎精
  小倉 正恒
  河原田 稼吉
  唐沢 俊樹
  賀屋 興宣
  横山 助成
  田口 弼一
  竹内 可吉
  内藤 久寛
  黒崎 定三
  山川 端夫
  松村 真一郎
  松本  学
  藤原 銀次郎
  藤沼 庄平
  木場 貞長
  伍堂 卓雄
  有田 八郎
  有賀 光豊
  青木 一男
  安宅 弥吉
  木村 尚達
  結城 豊太郎
  三井 清一郎
  宮田 光雄
  勝田 主計
  白根 竹介
  下村  宏
  平塚 広義
  関屋 貞三郎
  堀切 善次郎
  山岡 万之助
  広瀬 久忠
  村瀬 直養
  三重 伊藤 伝七
  鹿児島 岩元 達一
  北海道 板谷 宮吉
  新潟 飯塚 知信
  長崎 橋本 辰二郎
  宮城 二瓶 泰次郎
  福岡 大藪 守冶
  東京 小野 耕一
  徳島 奥村 嘉蔵
  岐阜 渡辺 甚吉
  鳥取 米原 章三
  島根 田部 長右衛門
  兵庫 滝川 儀作
  大阪 中山 太一
  石川 中島 徳太郎
  栃木 上野 松次郎
  鹿児島 上野 喜佐衛門
  高知 野村 茂久馬
  滋賀 野田 六左衛門
  北海道 栗林 徳一
  熊本 山隈  康
  奈良 松井 貞太郎
  熊本 古荘 健次郎
  山口 秋田 三一
  千葉 斎藤 万寿雄
  愛媛 佐々木 長冶
  青森 佐々木 嘉太郎
  茨城 結城 安次
  千葉 菅沢 重雄
  静岡 鈴木 幸作
  京都 大橋 理祐
 
公正会 岩村 一木
  岩倉 道倶
  伊藤 一郎
  伊藤 文吉
  井田 磐楠
  稲田 昌植
  井上 清純
  今園 国貞
  伊江 朝助
  飯田 精太郎
  原田 熊雄
  西  酉乙
  坊城 俊賢
  東郷  安
  小畑 大太郎
  大井 成元
  大蔵 公望
  大森 佳一
  奥田 剛郎
  渡辺  汀
  渡辺 修二
  加藤 成之
  神山 嘉瑞
  高崎 弓彦
  高木 喜寛
  辻  太郎
  中川 良長
  中村 謙一
  中御門 経民
  村田 保定
  向山  均
  黒田 長和
  久保田 敬一
  倉富  釣
  山川  建
  山根 健男
  山中 秀二郎
  八代 五郎造
  矢吹 省三
  安場 保健
  前田  勇
  松岡 均平
  松田 正之
  松平 外与麿
  益田 太郎
  深尾 隆太郎
  近藤 滋弥
  安保 清種
  赤松 範一
  明石 元長
  浅田 良逸
  北大路 信明
  北島 貴孝
  肝付 兼英
  宮原  旭
  水谷川 忠麿
  三須 精一
  柴山 昌生
  島津 忠彦
  東久世 秀雄
  関  義寿
  千田 嘉平
  周布 兼道
  杉渓 由言
  河田  列
  古市 六三
  本多 政樹
  松村 義一
 
火曜会 岩倉 具栄
  伊藤 博精
  一条 実孝
  二条 弼基
  徳川 家正
  徳川 圀順
  桂  広太郎
  鷹司 信輔
  九条 道秀
  山県 有道
  近衛 文麿
  三条 公輝
  島津 忠承
  島津 忠重
  井上 三郎
  池田 仲博
  池田 宣政
  蜂須賀 正氏
  細川 護立
  東郷  彪
  徳川 頼貞
  徳川 義親
  大炊御門 経輝
  大隈 信常
  伊達 宗彰
  築波 藤麿
  鍋島 直映
  中山 輔親
  中御門 経恭
  黒田 長礼
  山内 豊景
  山階 芳麿
  松平 康昌
  小村 捷治
  浅野 長武
  西郷 吉之助
  西郷 従徳
  嵯峨 実勝
  佐竹 義栄
  佐佐木 行忠
  菊亭 公長
  四条 隆徳
  広幡 忠隆
 
交友倶楽部 久我 通顕
  勅男 山本 達雄
  犬塚 勝太郎
  橋本 圭三郎
  岡  喜七郎
  若尾 璋八
  川村 竹治
  芳沢 謙吉
  長岡 隆一郎
  中川 小十郎
  中村 純九郎
  内田 重成
  古島 一雄
  佐藤 三吉
  水野 錬太郎
  埼玉 岩田 三史
  神奈川 磯野 庸幸
  福岡 出光 佐三
  香川 大西 虎之介
  和歌山 吉村 友之進
  宮崎 竹下 豊次
  佐賀 中野 敏雄
  埼玉 永瀬 寅吉
  岡山 山上 岩二
  大分 麻生 益良
  広島 水野 甚次郎
  群馬 渋沢 金蔵
  愛知 下出 民義
  福島 諸橋 久太郎
  京都 奥  主一郎
 
同和会 勅男 若槻 礼次郎
  勅男 幣原 喜重郎
  岩田 宙造
  稲畑 勝太郎
  仁井田 益太郎
  徳富 猪一郎
  小原  直
  岡田 文次
  織田  万
  田所 美治
  中川  望
  永田 秀次郎
  村上 恭一
  村田 省蔵
  野村 徳七
  倉知 鉄吉
  松井  茂
  児玉 謙次
  江口 定条
  出渕 勝次
  有吉 忠一
  赤池  濃
  沢田 牛麿
  光永 星郎
  光行 次郎
  広島 松本 勝太郎
  大阪 佐々木 八十八
  山形 三浦 新七
  岩手 柴田 兵一郎
 
無所属倶楽部 大山  柏
  太田 耕造
  吉田  茂
  吉野 信次
  田辺 治通
  田中 穂積
  田沢 義鋪
  滝  正雄
  黒田 英雄
  安井 英二
  松本 蒸治
  大野 緑一郎
  東郷 茂徳
  福永 吉之助
  後藤 文夫
  小山 松吉
  広田 弘毅
  平生 釟三郎
  千石 興太郎
  遠藤 柳作
  富田 健治
  小林 一三
  阿部 信行
  小野塚 喜平次
  田中 館愛橘
  長岡 半太郎
  姉崎 正治
  新潟 長谷川 赳夫
 
同成会 入江 貫一
  阿井 弥八
  川上 親晴
  米山 梅吉
  建部 遯吾
  塚本 清治
  次田 大三郎
  中川 健蔵
  丸山 鶴吉
  青木 周三
  菊地 恭三
  柴田 善三郎
  下条 康麿
  愛知 磯貝  浩
  福島 大谷 五平
  山梨 河西 豊太郎
  長野 片倉 兼太郎
  福井 熊谷 三太郎
  東京 小坂 梅吉
  長野 小坂 順造
  富山 佐藤 助九郎
  岡山 坂野 鉄次郎
  静岡 三橋 四郎次
  秋田 塩田 団一郎
  神奈川 平沼 亮三
  茨城 渡辺 覚造
 
会派に属さない議員 雍仁 親王
  宜仁 親王
  崇仁 親王
  載仁 親王
  博 恭 王
  武 彦 王
  恒 憲 王
  邦 寿 王
  朝 融 王
  守 正 王
  鳩 彦 王
  孚 彦 王
  稔 彦 王
  盛 厚 王
  恒 徳 王
  春 仁 王
  徳 彦 王
  徳大寺 実厚
  西園寺 八郎
  毛利 元道
  醍醐 忠重
  華頂 博信
  小松 輝久
  木戸 幸一
 
〔衆議院〕 議長 岡田 忠彦(岡山・翼政会)
  副議長 内ヶ崎 作三郎(宮城・翼政会)
  全院委員長 近藤 英次郎(山形・翼政会)
 
常任委員長 予算委員長 金光 康夫(大分・翼政会)
  決算委員長 上田 孝吉(大阪・翼政会)
  請願委員長 平川 松太郎(神奈川・翼政会)
  懲罰委員長 津崎 尚武(鹿児島・翼政会)
  建議委員長 漢那 憲和(沖縄・翼政会)
 
会派別所属議員氏名
 
召集日各党派所属議員数 翼賛政治会 459名
  無所属 7名
  466名
 
翼賛政治会 東京 牛塚 虎太郎
  河野  密
  福家 俊一
  橋本 祐幸
  鳩山 一郎
  中島 弥団次
  長野 高一
  駒井 重次
  川口  寿
  瀬母木 真六
  安藤 正純
  渡辺 善十郎
  今牧 嘉雄
  真鍋 儀十
  滝沢 七郎
  本多 市郎
  山田 竹治
  四王天 延孝
  大橋 清太郎
  本領 信治郎
  牧野 賎男
  花村 四郎
  中村 梅吉
  前田 米蔵
  赤尾  敏
  山田  清
  田中  源
  津雲 国利
  八並 武治
  坂本 一角
  京都 田中 伊三次
  今尾   登
  中村 三之丞
  田中 和一郎
  水谷 長三郎
  池本 甚四郎
  田中   好
  川崎 末五郎
  岡田 啓次郎
  村上 国吉
  芦田  均
  大阪 田万 清臣
  川上 胤三
  一松 定吉
  山本 芳治
  田中 藤作
  紫安 新九郎
  池崎 忠孝
  高梨 乙松
  上田 孝吉
  山野 平一
  菅野 和太郎
  大川 光三
  吉川 吉郎兵衛
  西尾 末広
  勝田 永吉
  笹川 良一
  杉山 元治郎
  大倉 三郎
  河盛 安之介
  松田 竹千代
  井阪 豊光
  神奈川 中   助松
  田辺 徳五郎
  佐久間 道夫
  小泉 又次郎
  野口 喜一
  野田 武夫
  岡本 伝之助
  平川 松太郎
  河野 一郎
  安藤   覚
  山口 左右平
  兵庫 中井 一夫
  河上 丈太郎
  今井 嘉幸
  金光 邦三
  浜野 徹太郎
  前田 房之助
  阪本   勝
  白川 久雄
  南 鉄太郎
  小林 絹治
  黒田   巌
  吉田 賢一
  清瀬 一郎
  古河 和一郎
  田中 武雄
  原  惣兵衛
  斎藤 隆夫
  佐々井 一晃
  木崎 為之
  長崎 伊吹 元五郎
  馬場 元治
  木下 義介
  中瀬 拙夫
  則元 卯太郎
  小浦 総平
  鈴木 重次
  川副   隆
  森    肇
  新潟 長沼 権一
  吉川 大介
  高岡 大輔
  佐藤 芳男
  小柳 牧衛
  稲葉 圭亮
  三宅 正一
  川上 法励
  加藤 知正
  田下 政治
  今成 留之助
  中村 又七郎
  石田 善佐
  増田 義一
  埼玉 松永  東
  宮崎  一
  遠山 暉男
  飯塚  茂
  横川 重次
  坂本 宗太郎
  高橋 守平
  石坂 養平
  新井 堯弥
  出井 兵吉
  松岡 秀夫
  群馬 中島 知久平
  木村 寅太郎
  青木 精一
  五十嵐 吉蔵
  清水 留三郎
  最上 政三
  蝋山 政道
  木暮 武太夫
  篠原 義政
  千葉 多田 満長
  成島  勇
  篠原 陸朗
  川島 正次郎
  吉植 庄亮
  伊藤  清
  今井 健彦
  岩瀬  亮
  中村 庸一郎
  白鳥 敏夫
  小高 長三郎
  茨城 内田 信也
  豊田 豊吉
  渡辺  建
  小沢  治
  中井川  浩
  福田 重清
  川崎 巳之太郎
  赤城 宗徳
  山本 粂吉
  佐藤 洋之助
  小篠 雄二郎
  栃木 船田  中
  高田 耘平
  矢部 藤七
  佐久間  渡
  菅又  薫
  森田 正義
  森下 国雄
  松村 光三
  栃木 日下田 武
  奈良 越智 太兵衛
  北村 又左衛門
  江藤 源九郎
  植村 武一
  福井 甚三
  三重 井野 碩哉
  川崎  克
  九鬼 紋七
  馬岡 次郎
  松田 正一
  浜地 文平
  田村 レイ
  長井  源
  愛知 加藤 鐐五郎
  下出 義雄
  小山 松寿
  林  正男
  山崎 常吉
  中埜 半左衛門
  桶口 善右衛門
  安藤 孝三
  野田 正昇
  加藤 鯛一
  富田 愛次郎
  本多 鋼治
  小笠原 三九郎
  大野 一造
  田嶋 栄次郎
  鈴木 正吾
  大口 喜六
  静岡 八木 元八
  山口 忠五郎
  深沢 豊太郎
  山田 順策
  加藤 弘造
  鈴木 忠吉
  金子 彦太郎
  大村  直
  勝又 春一
  太田 正孝
  森口 淳三
  坂下 仙一郎
  加藤 七郎
  山梨 高野 孫左衛門
  今井 新造
  平野 力三
  田辺 七六
  堀内 一雄
  滋賀 堤  康次郎
  松原 五百蔵
  別所 喜一郎
  信正 義雄
  広野 規矩太郎
  岐阜 清    寛
  船渡 佐輔
  石樽 敬一
  伊藤 東一郎
  安田 桑次
  三田村 武夫
  牧野 良三
  古屋 慶隆
  間宮 成吉
  長野 松本 忠雄
  藤井 伊右衛門
  小坂 武雄
  小山  亮
  小山 邦太郎
  羽田 武嗣郎
  木下  信
  小平 権一
  吉川 亮夫
  中原 謹二
  吉田  正
  小野 祐之
  小野 秀一
  宮城 内ヶ崎 作三郎
  守屋 栄夫
  庄司 一郎
  阿子島 俊治
  菊地 養之輔
  高木 義人
  村松 久義
  小山 倉之助
  福島 内池 久五郎
  小松 茂藤治
  加藤 宗平
  牧原 源一郎
  助川 啓四郎
  仲西 三良
  神尾  茂
  唐橋 重政
  植松 練磨
  星   一
  山田 六郎
  岩手 田子 一民
  八角 三郎
  高橋 寿太郎
  泉  国三郎
  金子 定一
  小野寺 有一
  鶴見 祐輔
  青森 三浦 一雄
  小笠原 八十美
  森田 重次郎
  竹内 俊吉
  長内 健栄
  楠美 省吾
  山形 高橋 熊次郎
  木村 武雄
  近藤 英太郎
  西方 利馬
  松岡 俊三
  伊藤 五郎
  池田 正之輔
  小林 鉄太郎
  秋田 町田 忠治
  信 太儀右衛門
  二田 是儀
  中川 重春
  川俣 清音
  小山田 義孝
  斎藤 憲三
  福井 中西 敏憲
  猪野毛 利栄
  酒井 利雄
  添田 敬一郎
  石川 永井 柳太郎
  村沢 義二郎
  箸本 太吉
  桜井 兵五郎
  喜多 壮一郎
  青山 憲三
  富山 高見 之通
  中川 寛治
  赤間 徳寿
  松村 謙三
  大石 斉治
  卯尾田 毅太郎
  鳥取 三好 英之
  坂口 平兵衛
  豊田  収
  由谷 義治
  島根 田部 朋之
  桜内 幸雄
  原  夫次郎
  恒松 於菟二
  島田 俊雄
  田中 勝之助
  岡山 岡田 忠彦
  久山 知之
  森谷 新一
  片山 一男
  逢沢  寛
  小川 郷太郎
  星島 二郎
  小谷 節夫
  土屋 源市
  広島 古田 喜三太
  奥  久登
  岸田 正記
  加藤 俊夫
  田中  貢
  永野  護
  木原 七郎
  肥田 琢司
  永山 忠則
  土屋  寛
  作田 高太郎
  宮沢  裕
  山口 西川 貞一
  林  佳介
  紀藤 常亮
  安部   寛
  岸  信介
  西村 茂生
  窪井 義道
  八木 宗十郎
  伊藤 三樹三
  和歌山 中谷 武世
  松山 常次郎
  山口 喜久一郎
  角  猪之助
  小山 谷蔵
  森川 仙太
  徳島 谷原  公
  紅露  昭
  田村 秀吉
  秋田  清
  三木 与吉郎
  三木 武夫
  香川 藤本 捨助
  三木 武吉
  前川 正一
  矢野 庄太郎
  松浦 伊平
  岸井 寿郎
  愛媛 武知 勇紀
  岡本 馬太郎
  米田 吉盛
  山中 義貞
  河上 哲太
  村瀬 武男
  野本 吉兵衛
  毛山 森太郎
  高畠 亀太郎
  高知 松永 寿雄
  大石  大
  宇田 耕一
  依光 好秋
  中越 義幸
  小野 義一
  福岡 中野 正剛
  松本 治一郎
  森部 隆輔
  江口  繁
  満井 佐吉
  松尾 三蔵
  赤松 寅七
  吉田 敬太郎
  図師 兼弐
  楢橋  渡
  沖   蔵
  山崎 達之輔
  鶴   惣市
  松延 弥三郎
  橋本 欣五郎
  勝  正憲
  有馬 英治
  林  信雄
  大分 柏原 幸一
  金光 庸夫
  大島 高精
  一宮 房治郎
  山口 馬城次
  綾部 健太郎
  木下  郁
  佐賀 真崎 勝次
  池田 秀雄
  田中 亮一
  藤生 安太郎
  愛野 時一郎
  熊本 荒川 真郷
  大麻 唯男
  松野 鶴平
  木村 正義
  石坂  繁
  中井 亮作
  深水 吉毅
  三善 信房
  藤原 敏捷
  伊豆 富人
  宮崎 斎藤 正身
  三浦 虎雄
  曽木 重貴
  野村 嘉久馬
  小田 彦太郎
  鹿児島 高城 憲夫
  松方 幸次郎
  南郷 武夫
  小泉 純也
  津崎 尚武
  浜田 尚友
  原口 純允
  東郷  実
  寺田 市正
  宗前  清
  永田 良吉
  金井 正夫
  沖縄 漢那 憲和
  仲井間 宗一
  伊礼  肇
  桃原 茂太
  北海道 山本 厚三
  沢田 利吉
  安孫子 孝次
  正木  清
  松浦 周太郎
  吉田 貞次郎
  坂東 幸太郎
  前田 善治
  真藤 慎太郎
  大島 寅吉
  渡辺 泰邦
  手代木 隆吉
  北  勝太郎
  南条 徳男
  深沢 吉平
  星野 靖之助
  黒沢 酉蔵
  南雲 正朔
  東条  貞
  奥野 小四郎
 
無所属 東京 大神田 軍治
  新潟 北  ヤ吉
  三重 尾崎 行雄
  岡山 犬養  健
  広島 森田 福市
  佐賀 松岡 平市
  沖縄 湧上 聾人


 なお、この議会の会期中、貴族院では菊池恭三(勅選・同成会)、西尾琢八(勅選・交友倶楽部)、千田嘉平(男爵・公正会)、中村謙一(同前)が死去、前田利建(侯爵・火曜会)、徳川慶光(公爵・火曜会)が就任、森山鋭一(無会派)、鮎川義介(同前)、左近司政三(同和会)、田中都吉(同前)、石黒忠篤(無所属倶楽部)が勅選議員に任命され、また子爵議員の補欠選挙で阪谷希一(研究会)、稲垣長賢(同前)が当選している。この結果、会期終了時の会派別所属議員数は、研究会163名(2名増)、公正会66名(2名減)、火曜会45名(2名増)、 同和会31名(2名増)、交友倶楽部29名(1名減)、無所属倶楽部29(1名増)、同成会25名(1名減)、会派に属さない議員26名(2名増)、合計414名(5名増)となった。

  また衆議院では、会期中に東京六区の山田清(翼政会)、東京一区の大神田軍治(無所属)が死去し、代わって浜野清吾(翼政会)、源玉重(同前)がそれぞれ繰り上げ補充されたほか、無所属の北吟吉(新潟)が翼政会に入会したため、会期終了時には翼政会461名(2名増)、無所属5名(2名減)と変わっている。



第八一回議会の議案

 この議会に政府から提出された議案は、予算案のほかに法律案89件にのぼったが、政府協力を議案審議の基本姿勢として、衆議院は3月8日、貴族院は3月10日にその全部を可決し、翌日から自然休会として会期を終わっている。

  ところでこの議会は、すでに述べたようなガダルカナル争奪を中心とする南太平洋での消耗戦を背景として開かれており、従って大部分の議案は、戦争経済の悪化、軍需の膨脹への対応策という性格を侍つものであった。まず予算案をみると、当初提出の昭和18年度予算は99億余万円(前年比11億余万円増)であったが、すぐつづいて追加予算第1号23億余万円、同2号9億余万円がこの議会に提出されており、これを合わせると一八年度一般会計総予算額は132億7500余万円となっている。この額は前年度比39億5800余万円、42%という激増ぶりであったが、さらにそのうえに臨時軍事費特別会計への第九次追加として270億円(第八次追加は180億円、第七九議会可決)が要求されており、これを合わせた財政規模(一般会計と特別会計の重複分を控除)は360億余万円、前年度比113億余万円の増という急膨脹ぶりを示した。その財源としては、一部は増税によることとされたが、主としては公債により、昭和一八年度公債発行予定額は総額214億余万円に達し、前年度の163億余万円にくらべ50億余万円も増加することとなった。

  増税案は各種税法の改正案などて一件の法律案として提出されているが、今回の増税は間接税に限られたものであり、その意図は国庫収入の増加よりもむしろ、消費の徹底的抑制と浮動購買力の吸収にあると説明された。従って奢侈的とみなされた商品や行為に対して は大幅な税率の引き上げや課税範囲の拡大などが行われている。例えば、総税額で酒税・清涼飲料悦ば10割、砂糖消費税2割程度の増徴が見込まれているが、その内容を清酒でみると一級から四級に区分し、造石悦と庫出税とを合わせて一級酒では現行石当り153円を515円に、ニ、三、四級酒では現行100円をそれぞれ340円、210円、200円に引き上げるというものであった。また新たに特別行為税をおこし、写真の撮影・現像・焼付及複写、調髪・美容、織物及被服類の染色・刺繍・仕立、書画の表装、印刷及製本などを特別行為として課税の対象としたが、これもこれらの行為が当時奢侈的とみられたことを示すものであった。

  その他の法案で重要なものは、いずれも戦時体制の強化とその能率的運営という観点から立案されたものということができる。それは簡単にいえば、中央の政府権力の強化とそれをうけいれる下部機構の整備という形で展開されているが、まず、政府の強化のためには、戦時行政特例法案、戦時刑事特別法改正案が用意された。このうち戦時行政特例法案は「生産力拡充其ノ他総合国カノ拡充運用」のため必要とされる場合には、現行の法律に定められている禁止・制限などを、議会の承認のいらない勅令によって解除・緩和することが出来るという原則を定めたものであり、法律は勅令によって改廃することはできないという憲法の原則の例外をつくることにはかならなかった。例えば、当時需給関係が逼迫していた労務関係でいえば、工場法で規定されている16歳未満の者及び女子の就業時間の制限、深夜業禁止、休憩時間の制限、危険業務就業の禁止等を一片の勅令によって解除、緩和することができるというわけであった。これだけでも大きな問題となる内容であったが、さらに同時に、首相の権限を強化する勅令・戦時行政職権特例が制定され(3・18公布)、この法律とともに運用されることが明らかになっていたため、東条独裁のためのものとして反発を呼び、この議会でも密議の対象となっていない行政職権特例について多くの論議が交わされる有様となった。

  戦時行政職権特例は、戦時下における鉄鋼・石炭・ 軽金属・船舶・航空機を五大重点産業とし、この五大産業の生産拡充に必要な場合には、内閣総理大臣は各省大臣に対し「必要なる指示」をすることができるとして首相に各省大臣への「指示」権を与えたものであった。しかしこの措置は、各省大臣を首相に服従させ、各国務大臣が各々独立して天皇を輔弼するという大日本帝国憲法の原則に違反するのではないかという疑義が提起され、この勅令を審査した枢密院でも問題化した。これに対して政府側は、首相の「指示」は各省大臣の行政長官としての権限に対してなされるものであって、国務大臣としての輔弼についてなされるわけではないなどと答弁しているが、こうした論議の背景をなしている東条独裁への反感は、次の戦時刑事特別法改正案をめぐって、よりはっきりと露呈されてきていた。

  戦時刑事特別法は第七九回議会で成立した法律であり、「灯火管制中又ハ敵襲ノ危険其他人心ニ動揺ヲ生ゼシムベキ状態アル場合」など戦時下の犯罪をとくに重く罰し、治安を維持することを目的とするものであったが、この議会に提出された改正案はこのうち「国政変乱」を目的とする行為に対する処罰をさらに拡大強化しようとしたものであった。即ち同法第七条は第一項で「戦時ニ際シ国政ヲ変乱スルコトヲ目的トシテ人ヲ殺シタル者ハ死刑又ハ無間ノ懲役若ハ禁則ニ処ス」 と戦時下の政治的殺人の処罰を、第二項以下ではその予備・陰謀・教唆・幇助・煽動などの処罰について規定したものであったが、改正案はその後に条文を追加し、「戦時ニ際シ国政ヲ変乱スルコトヲ目的」とした傷害・監禁・暴行・脅迫(第七条ノ二)、同じ目的による騒擾その他治安を害する行為及びその協議・煽動(第七条ノ三)、「戦時ニ際シ国政ヲ変乱シ其ノ他安寧秩序ヲ素乱スルコトヲ目的」とした「著シク治安ヲ害スベキ事項」の「宣伝」(第七条ノ四)などを処罰することとしていた。しかしこれに対しては、こうした処罰の対象の拡大が必要なのかどうか、とくに第七条の四の宣伝罪は独裁を意図したものではないかといった疑問が強く、改正案反対が盛りあがったのであった。

  例えば2月16日の衆議院の同改正案第一読会で、委員会付託の前に一松定吉、赤尾敏、田中伊三次の3名もの質疑が行われたこと自体、政府協力を唱えた戦時議会では異例のことであったが、とくに赤尾は「本立法ハ御用運動以外ノ政治運動、思想運動、斯ウ云フ国民運動ヲ抑圧シテシマッテ欧州ノ某々国ノヤウニ官僚独善ノ……斬捨御免ノ政治ヲヤラウト云フノカ」(衆議院議事速記録第12号)とつめよっていた。委員会においても、とくに宣伝罪に対して反対が強く、ここでいう「国政」とは何かなどといった点を中心に討議が行われた。政府側は「『国政』の定義については『国政』は国家の政治組織並に現実の機構および基本的政策の三つを含む法律概念であるとし、この中最も問題となった基本的政策については、国是遂行のための内政および外政に関する諸政策中の根幹的なもののみを指し、それは御詔勅、法律、勅令、条約の四つの公式令に基く形式の中のいずれかによって、明暗に国民に知悉せしめられたもの、例えば大東亜戦争の完遂、枢軸諸国 との同盟並に防共協定、満支両国との結盟、国防目的達成のための統制経済等を指すと説明、又これらの基本政策は肇国以米悠々渝らざる不動の国是より発するものであるからで原則として個々の内閣の更迭には左右されない程度の一貫性を侍つものであり、従って、本案によって特定内閣の政策を保護せんとするものではないと言明した」(朝日、3・5)。

  しかしこの説明によっても、政策批判が困難になることは明らかであり、衆議院ではこの法案をめぐる紛糾がつづき、同法案反対の有志代議士会まで開かれている。「戦時刑事特別法中改正案に関し斎藤隆夫氏等を発起人とする有志代議士会は4日午前11時より院内に第二回会合を開催、中野正剛氏ほか約50名出席、紫安新九郎氏を座長とし、斎藤隆夫氏等より同法案に対する一部の修正削除の意見が提起されたが、中野正剛氏より同案は立法の趣旨が明確をかく故、よろしく否決すべきであるとの強硬なる意見の開陳あり、これに対し安藤正純、北ヤ吉の諸氏が賛成演説をなし、有志代議士会としては同法案に対し否決の態度をもって臨むことを申し合わせて正午散会した」(朝日、3・5付け夕刊)。

  この問題では自由主義的とみられていた旧同交会系の勢力と、翼賛選挙ではなやかに登場してきた右翼勢力とが握手して反対にまわっているのが特徴的であっ た。

 

  「衆議院で難航を続けている戦時刑事特別法中改正案は六日の本会議に上程して、通過成立せしめんとする翼政幹部の努力にも拘らず六日午後の代議士会における浜野委員長の報告と津雲総務の発言が相違する点があったため、遂に法案の本会議上程は八日に持越されることになった。すなはちこれまでの経緯としては、議案審査会を六日午後一時より再開し、浜野委員長の報告を聴取したるのち同法案に対する賛否の決をとった結果、中谷武世、田中貢両氏の反対を除いて原案を無修正可決することを決定、つい で議公役員会を開いて同様諮ったところ橋本欣五郎氏より同法案を無修正可決せんとする翼政幹部の再考を促す旨の他言があり、これに対して白鳥敏夫氏も賛成の意を表したが、採決の結果、橋本、白鳥、中谷三氏を除いて役員会も原案を無修正可決することにした。

   よって午後三時より休憩中であった代議士会を再開し、劈頭浜野委員長より委員会における審議経過と委員会においては同法案の無修正可決が多数である旨の報告をなしたところ、原案反対者より委員長の報告は委員会の空気を歪曲したものであるとの発 言が多く議事の進行が不能になった。

   この時三木武吉氏は『委員長の報告が真に委員会の意向を反映していないやうでは代議士会の態度を決定し得ないから山崎議案審査会長の報告をきく前に委員の発言を許すべきである』と動議を提出、これが容れられて真崎勝次、木村武雄、三田村武夫、 満井佐吉、今井新造、赤尾敏、一松定吉、南鉄太郎の諸氏交々起って委員長の報告を反駁して原案無修正可決に反対の意を表明した」(朝日、3・7)


  結局この日の代議士会は態度決定が出来ないままで散会したが、この間政府は原案貫徹の強硬な態度を表明、翼政会幹部もこれにこたえて3月8日午前の代議士会では、多数決で無修正可決の方針を押し切り、反対派も同日午後の委員会で委員辞任の意思表示して退席しただけで、独自の修正案を提出するまでには至らずに終わった。退席したのは、真崎勝次、三田村武夫、赤尾敏、木村武推、黒田駿、満井佐吉、水谷長三郎、今井新造、江口繁の9委員であり、委員会では残る18名の委員により原案通り可決、つづく本会議でも反対派議員の欠席により満場一致で可決された。

  こうした政府権力の強化案とともに、地方の自治権を縮め、中央集権を強めることを目的とした地方制度改革案が提出されたことも、政府批判の空気を高める一つの要因となっていた。同改革案は府県制、市制、町村制、北海道会法改正案として提出されたが、その中心は市町村長の権限とともに中央の監督権をも強め、反面、市町村会の権限を弱めようとする点におかれていた。これによれば市町村長は市町村会に対して従来よりその権限を拡大するばかりでなく、農業会等の団体や方面委員等に対しても必要な指示をなし得るという権能を与えられたのであった。政府側はこの改正は戦時下での行政能率を高めるために必要だと称したが、 これは地方の自治を官治にし、独裁的体制をつくるものではないかとする批判の声もあがった。しかし結局はこれも原案通り可決された。この地方制度改革案と同時に、東京都制案もこの議会に提出、成立しており、43年7月1日から新しい首都制度として東京都が発足している。

  この議会ではまた、こうした行政機構の中央集権的強化とともに、それをうけいれる国民の側の組織、とくに経済面での組織を一元化することをめざした法案として、農業団体法案、水産団体法案、商工経済会法案、商工組合法案などが成立した。

  この議会では、戦時下では珍しく活発な論議がなされたが、法案の修正は殆んど実現せず、東京都制案にわずかな修正が加えられただけで、他はすべて原案通 り可決されている。

(古屋哲夫)