『帝国議会誌』第49巻

1979年8月

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第九〇回帝国議会 貴族院・衆議院解説


 

古屋 哲夫

 

極東委員会と対日理事会
天皇人間宣言
総司令部の憲法草案
総選挙の延期と公職追放令
経済危機と緊急措置令
大衆運動と民主戦線

戦後最初の総選挙
後継内閣と鳩山追放問題
吉田内閣の成立
第九〇回議会の召集
日本国憲法の成立
その他の重要法案



極東委員会と対日理事会

 日本で第89回議会の幕が閉じられようとしていた1945(昭和20)年12月16日、モスクワでは米英ソ三国外相会談が開始され、イタリア、ルーマニ ア、ブルガリア、ハンガリー、フィンランドなどとの平和条約をめぐる問題と同時に、日木の占領管理方式に関する問題も、主要な議題の1つに数えられていた。日本占領に関しては、日本降伏以後つづけられているアメリカの単独占領に対して、ソ連、イギリスなどから不満が出されており、日本占領にこれら連合諸国を どのような方式で参加させるかが問題とされていたのであった。

  この点についての占領開始当初のアメリカの考え方は次のようなものであった。

 

「対日戦争において指導的役割を演じたる他の諸国の軍隊の占領への参加は歓迎せられ、かつ期待せらるるも、占領軍は米国の任命する最高司令官の指揮下にあるものとす、協議及び適当なる諮問機関の設置により、主要連合国を満足せしむべき日本国の占領 及び管理のための政策を樹立するため、あらゆる努力を尽すべきも、主要連合国に意見の不一致を生じたる場合においては、米国の政策に従うものとす」(「初期対日政策」、「第八九回議会解説」参照)。

 アメリカはこの構想にもとづいて、8月21日、ソ連、中国、イギリス、フランス、オランダ、カナダ、オーストラリア、ニュージーランド、フィリピンの諸国に対して、極東諮問委員会の設置に参加するよう提議した。この委員会の権限は、「(一)日本が降伏条件の下で課せられている義務を遂行するのに必要な政策、原則、基準、(二)日本に降伏文書の諸条項を厳守させるのに必要な措置と機関、(三)関係国政府の間の合意によってこの委員会に付記されるその他の諸問題」について参加国政府に「勧告を行なうこと」(ハーバード・ファイス、赤羽竜夫訳「ニッポン占領秘史」、34頁)、に限られており、またその勧告がどのような力をもつのか明らかにされてはいなかった。

  連合諸国はこの提案そのものには同意したものの、日本占領への関与がこれだけに限られることには反対 であった。イギリスとオーストラリアは、「ここで予定されている条件は、両国が当然、対日政策に影響を与える資格があると信じているのに、そのための公正で、効果的な機会を両国に与えてくれているとは考えられないといって来た」し、「ソ連は、管理理事会もこれと同様に必要だとの見解を明らかにし、管理理事会は米、ソ、英、中国の代表から或るべきだと示唆し た」(同前、36頁)。さらにイギリスは10月1日になって、たんに勧告を行うだけでなく、政策を形成する権能をもつ極東委員会を設置すべきだとアメリカ政府に提議してきた。これに対してアメリカ政府はともかくも極東諮問委員会を発足させることとし、10月6日関係諸国に対し、同月23日ワシントンで開催する同委員会第1回会合に、代表を出席させるよう要請した。そして同時に、英ソの要求をある程度いれて、同委員会を改組する方針をも示した。

  すなわち、この新しい提案は、極東諮問委員会を極東委員会と改称し、「降伏条項の完遂上準拠すべき政策・原則および基準を作成」する政策決定機関とする。そして政策決定にあたっては、米英中ソ4カ国の拒否権を認めることとして、英ソの要求を満足させる代わりに、委員会の決定の行われていない問題については、アメリカ政府に最高司令官に対する「中間指令」を発する権限を認めて、アメリカの支配的地位を実質的に確保しようとするものであった。さらにソ連、イギリス、中国の3国にマッカーサー元帥のもとに日本占領のための軍隊を送ることを求め、これら各国派遊軍の司令官からなる軍事理事会を東京に設置する案も考えられた。アメリカはこれらの提案をもってソ連の説得にあたり、会合の期日も10月30日に延期されたが、ソ連は管理理事会の創設に先立って極東諮問委員会を 開くことには同意できないとして代表を送らず、結局委員会はソ連抜きで発足、米ソの意見の調整はモスク ワの3国外相会議にもちこされたのであった。

  12月27日に公表されたモスクワ外相会議コミュニケでは、アメリカ側の一層の譲歩が示されていた。すなわちそこでは、極東委員会を4大国が拒否権をもつ政策決定機関とする代わりに、アメリカ政府に中間指令権を与えるという前述の構想を軸としながらも、その「中間指令権」に次のような重大な制限が加えら れていた。

 

「但し日本の憲政機構、若くは管理制度の根本的変更を規定し、又は全体としての日本政府の変更を規定する指令は、極東委員会の協議及び合意の達成のあった後に於てのみ発せらるべきである」

 ここで「全体としての日本政府の変更」と書かれているのは、個々の閣僚の更迭を要求する指令までは、この制限にかからないという意味である。ともあれ、この協定によって、すでにその準備が開始されていた憲法改正問題などは、極東委員会の事前の政策決定なしには推進できないということになる筈であった。極東委員会は、さきに発足していた極東諮問委員会のメ ンバーーに、ソ連代表と、イギリスの要求によって新しいメンバーとして認められたインド代表を加えた11カ国で構成され、1946(昭和21)年2月26日ワシントンで第1回会議を開催、アメリカ代表のマッコイ将軍を議長とし、「賠償」「経済及び財政問題」「憲法及法律改革」「民主的傾向の強化」「戦争犯罪人」「在日外国人」「目本の軍備撤廃」という7つの小委員会を置くという形で発足している。

  モスクワ外相会議で決定された日本に関するもう1つの問題は、対日理事会の設置であった。この理事会の性格に関しては、前述したようにソ連が管理理事会を主張し、アメリカは軍事理事会を考えたが、結局ここではソ連側が譲歩し、対日理事会は管理権を持たない、「最高司令官と協議し及びこれに助言を与える」 諮問機関として性格づけられたのであった。モスクワ会議で決定された日本管理機構を要約してみると、まず、極東委員会が政策決定を行い、アメリカ政府がそれから具体的な指令を作成して、最高司令官に通達する。最高司令官は日本における連合国のため「唯一の執行権者」とされ、その執行にあたるが、事態の緊急性の許す限り、重要事項に関する命令の発出にさきだち対日理事会と協議する。しかしその場合でも「右事項に関する最高司令官の決定は支配的たるべし」とその地位を保証されていた。

  一般的にいえば、対日理事会の最高司令官に対する拘束力は力弱いものであったが、唯一の例外として、さきの極東委員会におけるアメリカ政府の中間指令権の制約に対応する次のような制約が、最高司令官の権限に対しても設けられていた。

 

「日本国の管理制度の変革、憲政機構の根本的変革及び全体としての日本国政府の変更に関する問題についての極東委員会の政策決定の執行に関し、理事会の一委員が最高司令官(またはその代理者)と意見一致せざるときは、最高司令官は極東委員会において、意見一致が達成せらるるまで、右問題に関する命令の発出を差し控うべし」

 つまり、「憲政機構の根本的変革などに関しては、極東委員会の政策決定が行われなければアメリカ政府も何事もないえなくなったばかりでなく、政策決定が行われた場合でも、その執行方法などに関して対日理事会に意見の不一致があらわれた場合には、唯一の執行権者である最高司令官も、極東委員会での新たな同意が得られるまで、その問題に関する命令を出せなくなるわけであった。対日理事会は、米、英(連合王国、オーストラリア、ニュージーランド、インドを同時に代表する)、中、ソ4カ国代表により構成され、46年4月5日、東京で初会合を行った。これでモスクワ外相会議が予定した日本管理機構は全部動き始めたのであったが、しかしそれは、外相会議の決定が意味してい るような形で、アメリカ政府やマッカーサーの手をしばることにならなかった。

  アメリカ側は、管理機構のうえでは、アメリカの権限に対する制約をうけいれたものの、実際にはこの機構が機能しはじめる前に既成事実をつくりあげ、こう した制約をすりぬけてしまうのであった。極東委員会の成立と競合して、アメリカ側が日本の新憲法制定への動きを一層積極的に展開していったのは、こうした関係を示すものであった。なお連合国の占領軍派遣問題では、イギリスだけが派遣を応諾し、1月31日の米英協定により、英本国、オーストラリア、ニュージーランド、インドの混成部隊が広島県を中心に中国地方に進駐することとなった。同部隊の任務は「日本側諸施設及び武器の非軍事化及び処分についての責任に限られ、軍政には関与しないこととされた。」



天皇人間宣言

 日本の憲法問題への関心を高めるきっかけとなったのは、内外における天皇制論議の活発化であった。日本国内では、天皇を戦犯とし、天皇制打倒を叫ぶ共産党の活動が、天皇制をめぐる論議を引き出しおしひろげてゆくうえで大きな役割を果たしたが、国際的な動向についても日本の新聞にも次のような報道がみられ

 

「トルーマン米大統領は十八日の新聞会見において『天皇の運命は日本人民の選挙によって決定するとのルーズヴェルト大統領の提案を知っているか』との質問に対し『さういふ案は聞いていないが、その考へには賛成である。日本人民が、自由な選挙で天皇の運命を決定する機会を与へられるのはいいことだと思ふ』と答へた」(朝日、10・20)

「マッカーサー元帥の発した日本新戦争犯罪人五十九名の逮捕命令に関連し、ワシントンでは天皇の立場に関する新たな観測が種々行はれるに至った。即ち侵略戦争に対する責任は天皇にもあるとして追及される可能性が考へられ、かかる場合天皇をいかなる戦争犯罪クラスに入れるかが目下問題の中心として論議されている」(朝日、12・6)。

「日本の国教としての神道を廃止すべしとなす米国政府の決定が通達されてからニケ月以上経過するが、……更に最近天皇制の問題が表面化してくるに従って、現神として政をとられてきた天皇及び天皇の運命と右の決定は如何なる関係に立つかといふ深刻な疑問が、極めて切実な現実問題として現れてきた」  (朝日、12・15)

 こうした天皇制論議の活発化が、天皇制や憲法問題をめぐる占領政策のあり方への批判に発展するであろうことは、当然に予想されるところであり、占領政策への国際的介入を防ぐためには、先手を打って天皇制の軍国主義的、反民主主義的側面を出来るだけ修正してしまうことが必要だと考えられたのであった。当初憲法改正に消極的であった幣原内閣(「第八九回議公解説」参照)が、ともかくも改正案を作成する方向に動いていったのも、こうした考えによるものであったとみられるが、占領政策の執行にあたるGHQの場合には、天皇制改革に一層積極的な動きがみられた。12月15日の神道の国家からの分離を命じた指令は、はじめて天皇制イデオロギーを攻撃の対象とした点で注目すべきものであった。

  この指令は、行政機関・官公更による神道の保証・支持・弘布、財政的支援、公的資格における儀式・礼式への参加、神道の教義・祭式などにおける軍国主義的・超国家主義的観念の宣伝と弘布などを禁止し、公教育からの神道の教義、祭式などの排除を命じたものであったが、そのなかで「軍国主義的・超国家主義的観念」の内容を次のように例示していた。   

 

「本指令ニ用ヒタル軍国主義的及ビ超国家主義的観念ハ、左記理由ニヨリ、日本ガ他ノ諸国家ト諸国民ニ其ノ統治権ヲ及ボサントスル使命ヲ主張又ハ弁護スル教旨、信仰及ビ理論ヲ包含スルモノトス

(1)日本国天皇ハ其ノ古キ祖先、連続セル血統又ハ特殊ナル起原ノ故ニ他ノ諸国元首ニ優ルモノナリトスル教義  

(2)日本国民ハ其ノ古キ祖先、連続セル血統又ハ特殊ナル起原ノ故ニ他国民ニ優ルモノナリトスル教義

(3)日本諸島ハ其ノ紳聖又ハ特殊ナル起原ノ故ニ他ノ国土ニ優ルモノナリトスル教義

(4)日本国民ヲ欺キテ侵略戦争ニ乗り出サセ、又ハ他国民トノ紛争解決ノ手段トシテ武カヲ使用スルコトヲ礼讃セシムル傾キアルー切ノ教義」(「日木管理法令研究」第1巻6号)

 さらにこの年末12月31日、GHQは、文部省が発行又は認可した教科書を使用する諸学校での修身・日本歴史及び地理の3教科の授業を、総司令部の許可あるまで全面的に停止し教科書を改訂することを命じているが、この措置は12月15日の国家と神道の分離に関する「基本指令」にもとづくものだと述べられていた。そしてまたGHQ当局は、この天皇制イデオロギーから軍国主義的・超国家主義的観念をとり除くことを命じたこの指令によって、基本的な指令は一応出つくしたとして、12月21日次のように述べたのであった。

 

 「連合軍の日本占領がその目的を達成し、日本国民がポツダム宣言に従ってその自由に表現された意思に基く最終的政府形態を獲得するのを援助するという政策を推進する為、最高司令官は日本国民に直接間接悪影響を及ばすすべての障碍を除去すべく諸種の指令を発してきた。

  神道に関する指令は新政府が如何なる形態をとるべきかという問題について最後の推進を与へたものといふことが出来よう、今後発せられる指令は恐らくこれまでに明示された基本的公約の理解と履行を徹底させるために必要なものに限られるであろう。……今後の最大の問題は日本国民と彼らの選んだ役人とがこれらの指令を如何にして身につけるかといふことである」(朝日、12・23)。

 そしてさらに、モスクワ外相会議が終了した翼日には、明らかに同会議コミュニケを意識しながら、同じ趣旨の言明をくり返し発表しているが(朝日、12・29参照)、ここでGHQ当局が意図していたのは、占領に関する基本的指令はもはや出つくし、今後の問題は日本人による実行の問題だけだ、従ってこれから極東委員会が成立しても、基本政策に介入する余地のないことを強調することであったと思われる。

  同時にまた、この神道に関する指令が基本的指令の最後のものだということは、マッカーサーが天皇制が改革されればこれを支持し、これまでの指令以上に追及しないという態度を固めたことを意味するものであった。そして「天皇制護持」を唱えてきた日本の支配層は、ここに天皇制の戦争責任に関する国際世論の追及をかわす具体的手がかりを求めたといえる。幣原首相は、マッカーサーのこうした態度に呼応するため、 天皇の神格化を否定する詔書を新年を期して発表することを考え、天皇の諒解を得て自らその起草にあたったのであった。幣原は当時を次のように回顧している。「昭和二十年十二月二十五日、大正天皇祭の日、家にいると訪問客でうるさいので、私は永田町の首相官邸の私の部屋に1人でいた。静かな雰囲気の中で、私は予て陛下に命ぜられていた詔勅の起草に着手し、一生懸命に書いた。日本より寧ろ外国の人達に印象を与へたいといふ気持が強かったものだから、先づ英文で起草し、約半日かかってできた、あとで日本語に直してもらって陛下に御覧に入れたら、よろしいとのことであった。マックァーサー元帥も非常に喜ばれた。あの詔勅は外国人に非常によい印象を与へたようで、私は今も喜んでいる。そのときの詔勅が世にいふところの“人間天皇の宣言”である」(幣原平和財団編「幣原喜重郎」667〜8頁)。

  1946(昭和21)年1月1日に発表されたこの詔書は、まず明治維新の際の5箇条の誓文を民主化の基礎だとする東久邇官内閣以来のイデオロギーをうけつぎ、冒頭に誓文をかかげて、この趣旨に則り新日本を建設すべしとする。そして「徹頭徹尾文明を平和に求むるの決意」や「人類愛の完成」にふれたのち、天皇と国民の紐帯を「神話と伝説」から「信頼と敬愛」に切りかえることをめざして次のように述べている。

 

 「朕は爾等国民と共に在り、常に利害を同じふし休戚を分たんと欲す。朕と爾等国民との間の紐帯は、終始相互の信頼と敬愛とに依りて結ばれ、単なる神話と伝説とに依りて生ぜるものに非ず。天皇を以て現御神とし、且日本国民を以て他の民族に優越せる民族にして、延て世界を支配すべき運命を有すとの架空なる観念に基くものに非ず」

 この後半部分が、さきに引用した神道に関する指令のなかの「軍国主義的・超国家主義的観念」の部分を 意識して書かれていることは明らかであろう。ともあれマッカーサーがこの「天皇人間宣言」を承認したことは、日本の新憲法の起草に積極的に乗り出してゆく際の、1つの前提となるものであった。



総司令部の憲法草案

 モスクワ外相会議の決定が行われたとき、極東諮問委員会のメンバーたちは、日本視察の途次にあり、サンフランシスコでこのニュースをうけとった。一行は46年1月9日横浜に着き、1月31日帰米の途についているが、その前日1月30日同委員会メンバーと会見したマッカーサーは、まず憲法問題に関して次のように語ったといわれる。

 

 「マッカーサー元帥は、彼の当初の指令は憲法改正に関する権限を彼に与えたが、モスクワ協定はこの問題を彼の手から取り上げたというた。彼はいかなる行動をとることも中止した。彼は、新憲法は、それがいかによいものであっても、日本人に強制せられたものであるならば、その強制力が残存する間のみ存続するであろうが故に、日本人が、今後起草せられることあるべきいかなる新憲法をも、日本の作裂したものと認めることができるようになることを、希望した」(憲法調査会資料・憲資総第40号・ブレイクスリー「極東委員会(抄)」、4頁)

 また天皇制については「天皇を戦犯として裁くためには百万人の連合国軍隊を日本に駐屯せしめ、無限に継続する軍事占領を必要とするであろう」とし、さらに「日本は封建制度から脱却する過渡期にあるのであり、そのうちには、そしてそう遠くないうちに、日本人自体が天皇制から一切の精神的及び現世的力を取り去り、イギリス国王とほぼ同様に、日本社会の象徴としての天皇を残すであろう」(同前5頁)とも述べてい た。

  しかしマッカーサーもアメリカ政府も、実際には憲法改正に関するいかなる行動をも中止したわけではなかった。総司令部は1月中旬以降、幣原内閣の憲法問題調査香具会(委員長・松本烝治国務大臣)に対し、憲法改正案を出来るだけ早く示せと督促するようになり、2月1日、同委員会試案の1つが毎日新聞にスクープ されるや、マッカーサーは直ちに禎極的行動を開始した。それは極東諮問委員会のメンバーが前日離日したばかりのことであった。

 

「マッカーサー元帥は、二月一日、民政局長ホイットニー准将に対して、松本案を拒否する詳細な解答書を作成して日本政府に手交するように命じ、民政局はこの解答書の作成の準備に取りかかったのであるが、マッカーサー元帥は、二月二日、三日にわたり、さらに熟慮して、その憲法改正に関する基本的原則を日本政府に教示する最も有効な方法はその基本的原則を具体化した憲法草案を総司令部がみずから作成して、これを日本政府に提示することであるという決定に達した。マッカーサー元帥は二月三日、この決定をホイットニーに伝え、その起草を命じ、かつその起草にあたっては民政局に完全な自由裁量を与えるが、その草案の中に、重要な三点を入れたいと述べた。その三点とは、マッカーサー元帥白身のノートによれば、次のごときものであった。

 

 天皇は、国家の元首の地位にある(at the head of the State)皇位の継承は、世襲である。天皇の義務および権能は、憲法に基づき行使され、憲法の定めるところにより、人民の基本的意思に対し責任を負う。

 

 国家の主権的権利としての戦争を廃棄する。日本は、紛争解決のための手段としての戦争、および自己の安全を保持するための手段としてのそれをも放棄する。日本はその防衛と保護を、いまや世界を動かしつつある崇高な理想にゆだねる。いかなる日本陸海空軍も決して許されないし、いかなる交戦者の権利も日本軍には決して与えられない。

 

 日本の封建制度は、廃止される。皇族を除き華族の権利は、現在生存する者一代以上に及ばない。華族の授与は、爾後どのような国民的または公民的な政治権力を含むものではない。予算の型は、英国制度にならうこと。」(憲法調査会編「憲法制定の経過に関する小委員会報告書」、296〜7頁、以下「憲法制定の経過」と略記)

 ここで「松本案」とは、松本烝治国務相が中心となって作成した憲法改正案を指しているが、松本が閣議での意見をも参照して若干の加筆訂正を加え「憲法改正要綱」としてGHQに提出したのは2月8日のことであり、いわば松本案の完成よりも前にGHQの拒否方針が決定されていたのであった。もっとも松本案の内容は、第89回議会での答弁振りなどからみて、かなり微温的なものであることは一般にも予想されていたが、松本がとりあげた主な改正点は次のようなものであった。

   「天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス」を「天皇ハ至尊ニシテ侵スヘカラス」と改める。  
   軍の制度は存置するが、統帥権の独立は認めず、統帥も国務大臣の輔弼の対象とする。
   衆議院の解散は同一事由に基づいて重ねて行なうことはできないこととする。
   緊急勅令等については帝国議会常置委員の諮詢を必要とする。
   宣戦、講和および一定の条約については帝国議会の協賛を必要とする。
   日本臣民は、すべて法律によらずして自由および権利を侵されないものとする。
   貴族院を参議院に改め、参議院は選挙または勅任された議員で組織する。
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 法律案について衆議院の優越性を認め、衆議院で引き続き3回その総員3分の2以上の多数で可決して参議院に移した法律案は、参議院の議決の有無を間わず、帝国議会の協賛を経たものとする。

   参議院は予算の増額修正ができないこととする。
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 衆議院で国務各大臣に対する不信任を議決したときは、解散のあった場合を除くのほかその職にとどまることができないものとする。

  11   憲法改正についての議員の発議権を認める。(同前、216頁)。

 これに対して、のちに作成されたGHQの占領報告書『日本の政治的再編成』は、松本案への批判をまとめているが、その要点は次のようなものであった。

   

天 皇──天皇の権威および権力が、現実的にはなんら変更もされず弱められてもいないことは、重要である。ここに提案されているこのような改正は、手続きに関するもののみである。天皇制度はそのまま残り、しかも、議会による立法を必要としない皇室典範に基づき依然運営される。

   

国民の権利義務──松本案は、いずれかといえば、国民の権利を減じ、その義務を増加せしめている。絶対的な保障は何も規定されていない。

   

議 会──議会に関する改正は、貴族院を参議院に変える以外は重要ではないが、衆議院の優越を定めた規定は真の自由主義化を達成するために払われた「真剣な努力」を示している。

   

内閣および枢密院──責任内閣制が定められているが、首相の任命方法には触れておらず、また、内閣の権能を規定しようともしていない。枢密院については、組織を法律で定めること以外には何も定めていない。

   

その他──松本案には重要な2つの規定が欠けている。そこには、地方自治について何もいっていない。公共団体の住民に、その地方の政治問題に参与する道を開くいかなる保障の提案もない。さらに、憲法を国の最高法規とする規定もまったくない。これらのないことは、それが現実の日本国家をまったく従前どおりにしておき、日本の政治構造上あのように強い特徴であったいろいろな憲法外の機関を、法律の適用の外に置くのであるから、もちろん、致命的なことである。(同前241〜2頁)


 しかしマッカーサーが、松本案をいかに不満と考え たにしても、本国政府の諒解なしには、総司令部自身が日本の憲法草案を起草してしまうという思い切ったやり方に踏み切るわけにはゆかなかったであろう。マ ッカーサーはすでに1月11日、本国の国務・陸・海三省調整委員会(SWNCC)から、228号文書「日本統治制度の改革」をうけとっており、この文書は「情報」ないし「参考資料」とされてはいたが、その「結論」の部分では、「日本の統治体制は、次のごとき一般的な目的を達成するため、改革されるべきことを指示しなければならない」(同前、253頁)として改革さるべき事項を列挙していた。つまりSWNCC228号文書は、「情報」ないし「参考資料」とよぶことで極東委員会の権限との衝突を回避しながら、マッカーサーに憲法改正を日本政府に指示する権限を与えたものとみることができる。マッカーサーが積極的に動き始めたのは、このような文書を手にしていたからにはかならなかった。

  しかしマッカーサーは、この文書だけで、日本の憲法改正を方向づけたわけではなかったし、またこの文書そのものも、重要な点で決定を留保していた。例えば天皇制について、この文書は「日本人は、皇帝制度を廃止するか、あるいはより民主主義的な方向にそれを改革することを奨励支持されなければならない」と して、改革・存続する場合の条件について述べているが、しかし天皇制廃止の方向を否定したわけではなかった。さきのマッカーサー3原則の特色は、第一に天皇制存続をはっきりと打ち出した点であり、第二にはそれと関連して「戦争放棄」という228号文書にもない新しい原則を提起した点であった。この戦争放棄条項の提案者については、幣原首相とする説もあるが、 私は当時の状況からみて、天皇制の存続に対する反対を封ずるために、マッカーサー自身が発案したとみるのが妥当だと考えている。

  さて、2月8日正式に提出された松本案に対して、GHQが全面拒否の回答をするのは2月13日であったが、この間GHQ内部では、憲法草案の起草が大急ぎですすめられていた。

 

 「前述のマッカーサー・ノートは、ホイットニー准将から、民政局の三人の幹部、すなわち行政課長チヤールス・L・ケーデイス大佐、法規課長マイロ・E・ラウエル中佐およびアルフレッド・R・ハッシー海軍中佐に伝えられた。この三人は憲法草案作成の作業を行なううえのかりのプランを立てた。このかりのプランは、二月四日、ホイットニー准将に提出されその承認を得た。そしてその直後に、朝鮮部門を除いた民政局の全体会議が召集された。その席上、ホイットニーは、全員にマッカーサー元帥の指令を伝え、かつ、この仕事 はいっさいの仕事に優先してただちに着手されるべきことを命じた。民政局への出入口は閉ざされ、極秘が要求された。「日本の政治的再編成」はこの仕事の行なわれた満一か月間、その内容に関してまったく何一つ漏れなかったことは注目に値すると述べている。

  実際にこの作業に従事した者は、25人の民政局員のうち21人であった。この21人の民政局員は、9つの委員会に編成された。すなわち、全体の監督と調整に当たる運営委員会、立法権に関する委員会、行政権に関する委員会、司法権に関する委員会、公民権に関する委員会、地方行政に関する委員会、財政に関する委員会、天皇・条約・委任条項に関する委員会および前文に関する委員会であった。」(同前、298〜9頁) 「最初の計画では一〇日間で起草を終わり、その後の八日目に当たる二月二二日のワシントンの誕生日にはこれを提出するように予定されていた。しかしこの計画は、実際上さらに短縮され、草案は起草に着手してから六日目の二月一〇日にはでき上がった。マッカーサー元帥はただちに承認し、二月一ニ日、その草案はプリントされた。」(同前、301〜2頁)

 2月13日、ホイットニー民政局長、ケーディス大佐らは、松本国務大臣らと会見、2月8日に日本政府から提出された憲法改正案は総司令部にとって承認しえないものであることを告げ、代わりに総司令部側が用意した憲法草案を提示、この案を最大限に考慮し指針として新たな憲法改正案を作成することを求めたのであった。その場で早速眼を通した松本は、まず「茲ニ人民ノ意思ノ主権ヲ宣言シ」といった前文や、「第一条、皇帝ハ国家ノ象徴ニシテ又人民ノ統一ノ象徴タルヘシ、彼ハ其ノ地位ヲ人民ノ主権意思ヨリ承ケ之ヲ他ノ如何ナル源泉ヨリモ承ケス」といった規定におどろかされた。「象徴」などという言葉は法律用語としては全く耳なれないものであった。また非常に多くの条文からなる「人民ノ権利及義務」の章には、「土地及一切ノ天然資源ノ究極的所有権ハ人民ノ集団的代表者トシテノ国家ニ帰属ス」といった、土地国有を思わせるような条文もみられ、議会制度は一院制となっていた。ともかくここで手渡された憲法草案が、日本側の全く予想しえなかった内容を持っていることは明らかであった。

  松本国務相はまず松本案への再考を求める再説明書を提出したが、GHQ側はその余地なしとつっぱね、逆に2月20日までに回答がなければ、総司令部の憲法案を公表すると通告してきた。内閣側はとりあえず回答期限の2日間延期を求め、21日幣原首相自らマッカーサーと会談したが、結局22日の閣議では、GHQの要求を拒否することからおこる混乱と不利益が論議され、GHQの草案にそった憲法改正案を起草する方針が決定された。

  内閣側は3月11日までに改正案をGHQに提出することを目標としたが、GHQからは数回にわたる督促があり、結局3月2日一応の案文をととのえ、3月4日、日本文のまま提出した。これに対してGHQは、ただちにその英訳作業にかかると共に、今夜中に確定草案を作成したいとし、日本側委員との間で翌5日午後4時ごろまで、夜を徹した逐条審議をくりひろげた。この過程で前述した「土地及一切ノ天然資源……」の条文の削除や、国会を二院制として参議院を設ける点などについては、日本側の意見がいれられている。この結果、早くも3月6日には、日本政府の案として「憲法改正草案要綱」として発表され、7日の新聞は「主権在民、戦争抛棄」の憲法案として大々的に報じたのであった。2月8日に松本国務相の「憲法改正試案奏上」のニュースを報じて以来、新聞からは政府の憲法改正案をめぐる動向は全く姿を消しており、改正に消極的とみられていた幣原内閣が、突如として根本的改憲案を提出したことに、国民一般は大いに驚かされたものであった。

  ともあれ、極東委員会の政策決定が行われる以前に憲法改正案をつくりあげ、同時に目前の総選挙のテー マとすることによって、既成事実に一層の重みを加えるという、アメリカ側の作戦は一応の成功を収めたのであった。



総選挙の延期と公職追放令

 第89議会を解散した翌日、12月19日の閣議では、翌46年1月22日に総選挙を行うことが決定されたが、GHQは翌20日、とりあえずこの選挙期日の延期を指示してきた。このことは、GHQが、日本の民主化は、たんなる選挙権の拡大によっては実現できず、反民主的勢力を抑圧し、民主的勢力を育成するような措置が必要であり従って総選挙の前にそのような措置をとる時間的余裕を特たねばならないと考えていることを意味していた。例えば、12月21日の朝日は「AP特約」として次のように伝えている。

 

「マッカーサー最高司令部は目下新選挙法が完全な自由選挙を斯待する司令部の要求を満足させるかどうか検討中であり、かつ戦時中に結成された日本の政治機構は連合国側が何等かの手を打たない限り総選挙を支配してしまふものとみ、これを防止するために、相当思ひ切った手段を考慮しているといはれる。その一つの方法として大政翼賛会のやうな戦時中の全体主義的組織に関係したあらゆる政治家及び秘密愛国団体に加入した者、または永く軍国主義者一派と事を共にしていた者は悉く被選挙資格がないと宣言することが考へられている。もしこれが実現した場合、前代議士の大部分が被選挙資格を失ふであらう」

 この措置は翌年早々の1月4日、「公職より好ましくない人物の除去」を命ずる指令として実現された。ここで「公職」とは、当時の勅任官又はそれと同等以上の者があてられる高級官公吏(又はそれに準ずる)の地位をさし、この指令はこのような地位にいる「好ましくない人物」を即時解任し、さらに将来にわたってその就任を禁止し、また衆議院議員など公選の候捕者たる資格を剥奪することを命じたものであった。この措置は一般に「公職追放」と呼ばれた。そしてこの公職追放にあたいする「好ましくない人物」は同指令附属書A号によってA−G項の7種にわたって次のように分類されていた。

A

戦争犯罪人
戦争犯罪人容疑者として逮捕せられたる者但し釈放又は無罪放免せられたる者を除く

職業的陸海軍人陸海軍省の特別警察及官吏、時期の如何を問はず左の地位の何れかを占めたる事ある一切の者

元帥府、軍事参議院、大本営、参謀本部、軍司令部、最高戦争指導会義の一員

帝国陸海軍現役将校又は特別志願予備役将校

憲兵隊、海軍保安隊、特務機関、海軍特務部又は其の他の特別若は秘密諜報機関又は陸海軍警察機関に於て又は之と共に勤務せる将校、下士官、兵又は軍属

陸軍省(但し昭和20年9月2日以降任命せられたる者を除く)大臣、次官、政務次官、参与官、高級副官勅任官以上の総ての文官、又は通常勅任官以上に依り占めらるる地位にある総ての文官

海軍省(但し昭和20年9月2日以降任命せられたる者を除く)大臣、次官、政務次官、参与官、高級副官 勅任官以上の総ての文官又は通常勅任官以上に依り占めらるる地位にある総ての文官

極端なる国家主義的、暴力主義的又は秘密愛国主義的団体の有力分子日本政府に対する覚書「特定の政党、政治結社及政治団体の解散に関する件」AGO91(昭和21年1月4日付)にて記述されてゐる団体或は其の支部、補助団体、機関又は関係団体の何れかに対し時期の如何を問はず左の関係にあった者但しD項に引用せる団体を除く

創立者、高級役員又は理事であった者

要職を占めてゐた者

一切の刊行物又は機関誌紙の編輯者

自発的に多額の寄付を為した者(寄付せる金額又は財産の価格が絶対的に多額なるか又は当人の全財産に比し多額なる場合)

大政翼賛会、翼賛政治会及び大日本政治会の活動に於ける有力分子、時期の如何を問はず

左記団体の創立者、中央役員、中央理事、中央委員会委員長又は都道府県支部の指導的役員であった者

左記団体の一切の刊行物、又は機関誌紙の編輯者であった者

大政翼賛会及一切の関係団体
翼賛政治会及一切の関係団体又は機関
大日本政治会及一切の関係団体又は機関

日本の膨脹に関係せる金融機関並に開発機関の役員
昭和12年7月7日以降昭和20年9月2日に至る間の如何なる時期を問はず左の地位にあつた者左の機関の何れかの取締役会長、総裁、社長、副総裁、副社長、取締役、理事、顧問、監査役、若は監事又は昭和12年7月7日以降日本軍の占領せる領土内に於て左記機関の支店の支配人であった者

 

南満州鉄道株式会社、満州拓殖株式会社、北支那開発株式会社、中支那振興株式会社、南洋拓殖株式会社、台湾拓殖株式会社、満州重工業株式会社、南洋興発株式会社、東洋拓殖株式会社、戦時金融金庫、資金統合銀行、南方開発金庫、外資金庫、朝鮮殖産銀行、独逸東亜銀行、朝鮮銀行、台湾銀行、満州中央銀行、満州拓殖公社、朝鮮信託株式会社、

其の他の一切の銀行、開発会社、又は機関にして其の主要目的が植民地若は日本占領地に於いて植民及開発活動に対する金融、又は植民地若は日本占領地の財政的資源の動員又は支配に依る軍需生産に対する金融に在った者

占領地の行政長官
左の地位に在りたる日本官吏

朝 鮮 総督、政務総監、中枢院参議
台 湾 総督、総務長官
関東州 関東局長官、関東局総長、警察部長
南洋庁 長官、南洋局長
蘭領印度 軍政監、民政長官
「マレー」 軍政監、民政長官、「シンガポール」市長
仏領印度支那 総督、警視総監、総務局長、財政事務取扱者
「ビルマ」 「ビルマ」政府顧問、日本軍政監部政務部長、中央行政部内務部長
支 那 南京傀儡政府顧問、大使
一〇 満州国 総務長官、総務庁次長、協和会中央機関役員
一一 其 他

蒙彊連合自治政府、比津賓傀儡共和国、自由印度仮政府及 「タイ」国に於て対日協力派である現地人の行政機構の統制に対し責任のあった日本官吏

G

其の他の軍国主義者及び極端なる国家主義者  

軍国主義的政権反対者を攻撃し又はその逮捕に寄与せる一切の者
軍国主義的政権反対者に対し暴行を使嗾し又は自ら行ひたる一切の者

日本の侵略計画に関し政府に於て活発且重要なる役割を演ずるか又は言論、著作若は行動に依り好戦的国家主義及侵略の活発なる主唱者であることを明にしたる一切の者

  このうちC項の基礎とされている政党、結社、団体に関する指令は、この公職追放指令と同時に発せられたものであり、次のような内容のものであったが、そこではたんに軍国主義的・侵略主義的分子にとどまらず、反占領軍的活動の取り締まりにまで及んでいる点が注目された。  

 日本政府は、其の目的又は其の活動の結果が次の各項に該当する一切の政党、政治的結社、協会及団体の結成竝に夫等の中の1又は個人若は集団の活動を禁止しなければならない。

占領軍に対する又は日本政府が連合国最高司令官の指令に基いて発したる命令に対する反抗又は反対。
日本の侵略的対外軍事行動の支持又は正当化
日本が他の「アジア」、「インドネシヤ」又は「マレー」人種の指導者たることの僣称
日本国内に於る外国人の貿易、商業及彼等の職業に従事することからの排除
日本と諸外国との間に於る自由なる文化的、学術的交換に対する反対

日本国内に於る軍事的又は準軍事的訓練の実施及元陸海軍人たりし者に対する同等の民間人に与へられる以上の利益の供与又は特別の発言権の附与又は軍国主義若は軍人的精神の存続

暗殺其他の暴力主義的計画に依る政策の変更又は斯る手段を促す様な傾向の助長又は正当化  

  そしてこの指令も附属書でこれによって解散さるべ き団体を次のように例示した。

 

一 大日本一新会 二 大日本興亜連盟其の一切の関係団体 三 大日本生産党 四 大日本赤誠会 五 大東亜協会 六 大東塾 七 言論報国会 八 玄洋社 九 時局協議会 一〇 鶴鳴荘 一一 建国会 一二 金鶏学院 一三 黒龍会 一四 国際反共連盟 一五 国際政経学会 一六 国粋大衆党 一七 国体擁護連合会 一八 明倫会 一九 瑞穂倶楽部 二〇 尊攘同志会 二一 大化会 二二 天行会 二三 東亜連盟 二四 東方同志会 二五 東方会 二六 やまとむすび本社 二七 全日本青年倶楽部  

  もちろんここには本表は「解散せらるべき団体の総てを包含しているのではない」と註記されており、ここに掲げられているのと同種の団体は解散を命ぜられることを示していた。またこの表にあるすべての団体が敗戦時まで存続していたわけではなかったが、その場合にもこの表は、当面の公職追放および将来の結社禁止の規準として役立つことになる筈であった。そしてこれらの指令の実施が、総選挙の前提条件とされたのであった。  

  公職追放指令はいうまでもなく政界に大きな衝撃を与えた。閣僚中でも、堀切内相(翼賛会総務)、前田文相(翼賛会地方支部長)、松村農相(翼政会政務調査会長、日政幹事長)、田中運輸相(日政代議士会長)、次田国務相兼書記官長(翼政会総務)の5閣僚が追放に該当するものとみられ、一時は幣原内閣にも総辞職の気配が濃厚となったが、結局内閣改造で乗り切ることとなり、1月13日夜、内相兼運輸相に三土忠造、文相に安倍能成、農相に副島千八を任命する親任式が行われ、また内閣書記官長には法制局長官の楢橋渡が横すべりし、法制局長官には枢密院書記官長の石黒武重が起用されることとなった。この同じ13日、GHQは、3月15日以後に総選挙を実施しても差支えないと指示しており、追放該当範囲を確定し、立候補者の資格審査を行い、総選挙の準備をすすめることが改造後の幣原内閣の当面の課題となった。前述の両指令は、いずれもポツダム勅令(「第八九回議会解説」参照)の形式により、2月22日公布の勅令101号「政党、協会其ノ他ノ 団体ノ結成ノ禁止等ニ関スル件」、勅令109号「就職禁止、退官、退職等ニ関スル件」として法令化、公布されたが、総選挙を目前としたこの時期には、勅令の施行規則によって、追放範囲の細目がどう決定されるかに──それによって立候補の顔触れが変わってくる──大きな関心が寄せられることになった。

  第89回議会の解散時における現議員と最も密接な関係にあるD項についてみると、「大政翼賛会、翼賛政治会及び大日本政治会の活動に於ける有力分子」や「都道府県支部の指導的役員」がどのように決定されるかは追放範囲に大きく影響する問題であった。例えば当初政府は、翼賛会の地方支部長を兼任した知事は、翼賛会の規約で形式上兼任しただけだから追放に該当しない、追放指令のいう支部の指導的役員とは翼賛会支部の事務局長と都道府県翼賛壮年団長を指すとの見解をとっていた朝日、1・12及び13参照)が、GHQはそのような解釈を拒否した。D項の具体的範囲は2月9日の閣議で決定・発表されたが、その経過は次のように報ぜられている。

 

 「政府としては指令の趣旨に鑑み、慎重に協議を重ねたが、問題は複雑であり、形式的には該当しても実質的には指令の趣旨に抵触しないとみられるものもあり、また形式的には免れるやうに見えても実質的には指令の精神に触れるものもあって、その間の調整に相当苦心を重ねたが、司令部との折衝の結果は形式的に該当するものは一切適用範囲に含まれることとなった。従って九日の発表による限界線は相当厳格なもので、大政翼賛会の場合は創立者たる新体制準備委員全部、総裁はじめ首脳部はむろんのこと、中央本部事務局、中央訓練所の各部長、有力なる副部長等中堅分子もすべて該当する。さらに翼賛会支部長以下部長以上、協力会議議長も含まれる。  

 翼賛会の関係団体でとくに注目されるのは翼壮関係に対して追放令の適用が相当厳密となっていることで、ほとんど大政翼賛会の場合と同様になっている。興亜同盟が翼壮以外の翼賛会関係団体の中で最も厳格に適用をうけているのはその性格よりみて当然であろう。  

  翼賛政治会と大日本政治会は大体同程度の取扱ひであり、さらに翼賛政治会と実質的な創立者であり推薦候補の詮衡に当った翼賛政治体制確立協議会の構成員もすべて適用される」(朝日、2、10)  

 さらに政府がこの発表に際して、まだ決定されていないG項にふれ、42(昭和17)年のいわゆる翼賛選挙(「第八○回議会衆議院解説」参照)で翼協の推薦をうけて立候補したものはG項に該当するおそれが濃厚であるとしたことは、政界に一層広汎な動揺を与えることになった。つまりこれで解散時の代議士の8割以上が推薦候補であり、次の総選挙に立候補できないことになるわけであった。G項は28日公布の施行規則でも抽象的にしか規定されていなかったが、政府は3月10日にいたり、G項該当者の判定は個人的審査にまつとしながらも、該当者の規準を次のように発表した。

  1、

昭和12年7月7日より昭和20年9月2日に至る間次の官職にあった者──国務大臣・内大臣・枢密院議長・内閣書記官長・法制局長官・情報局総裁・企画院総裁・興亜院総裁・同副総裁・対満事務局総裁(昭和12年7月以前のものも含む)・検事総長

  2、

前項と同期間、前項につぐ官吏、又は日銀、特殊銀行、国策会社の幹部の地位にあった者で(イ)三国同盟、日華基本条約、日泰同盟、仏印進駐、日米開戦、(ロ)軍国主義反対者の弾圧、(ハ)日本軍占領地域内各国に対する経済協定、借款供与、(ニ)日本の軍事的活動に関する資金の融通又は物資の生産、などに関し重要な役割りを演じた者。  

  3、 思想検察、保護観察、予防拘禁などに関する官吏のうち在職中G項該当の事実ある者。
  4、 特高警察の経験者のうち在職中G項該当の事実ある者。
  5、 官吏(前記以外の)、両院議員、文筆家及芸術家、出版事業主・発行者・編輯人、事業家などでG項該当の事実ある者。
  6、 1と同期間に航空機・兵器・鉄鋼の生産にあたった有力会社又は国策会社の会長社長重役。
  7、 C項該当以外の国家主義的・暴力主義的又は秘密愛国団体の代表者及最高執行者。
  8、 翼賛選挙において所謂「推薦」をうけた者(朝日、3・11による)  

 こうした追放規準の決定、それによる立候補者の資格審査はかけ足で行われたが、それでも予定の日程には間に合わなかった。政府は1月29日の閣議で3月1日に告示、3月31日に総選挙を施行すると決定したが、資格審査のおくれのため、2月25日の臨時閣議で日程をそれぞれ10日延期し、3月11日告示、4月10日総選挙と変更している。しかしこのようにあわてて総選挙を実施することについては、極東委員会からも疑義が出されていた。

   

「一九四六年三月六日における委員会の第二回会議において、ニュージーランドのサー・カール・ベレンゼンは、日本議会の選挙期日について速に論議することを熱心に勧告した。この問題は極東諮問委員会によってその横浜からホノルルヘの帰途にマウント・マッキンレー号上において熱心に考究せられたものであって、その時にはこの問題についてマッカーサー元帥に意見を申し出ることは適当でないとの決定がわずかの差で行われたのであった。

  三月一四日の第三回会議において、委員会は、第4小委員会(民主的傾向強化問題所管)から、当時四月一〇日に定められてあった日本の選挙期日の問題が、委員会によって考慮せらるべきであるとの勧告を受けた。

  この勧告には二つの基本的争点がふくまれていた。(1)日本における保守的政党よりも自由的政党に有利であるような選挙期日を定めることが望ましいこと、(2)SCAPと極東委員会とのそれぞれの権限の問題──繰り返し委員会において発生した──、基本政策とその実施との間の差別をふくむ問題との二である。」(前掲ブレイクスリー「極東委員会(抄)」、17-8頁)

 極東委員会はこの問題に関し、早期の総選挙が反動的政策を利するおそれを指摘してマッカーサーの意見を求めたが、3月29日、同委員会にもたらされたマッカーサーの回答は、できるだけ早く日本により代表的な議会を組織することは絶対に必要であり、反動政党が後の時期における選挙よりも多くの利益を受けると想像すべき理由はない、選挙の結果が占領目的に不利益であれば、再選挙を要求するのは、最高司令官の権限内にある、というものであった。極東委員会にはすでに総選挙延期の時期を失したとの判断が強く、それ以上の行動に出ることなく、総選挙はこうした危惧の念に見守られながら、予定通り実施されることとなった。



経済危機と緊急措置令

 軍国主義者を追放し、新憲法をつくる、といういわば民主化の骨格をつくり出す作業も、これまでみてきたように、日本国民の下からの力によってではなく、占領軍の上からの政策として推進され実現されてきた といってよかった。この間国民はインフレーションと食糧危機におびやかされ、生活物資の確保に狂奔することを余儀なくされていた。

  日中戦争から太平洋戦争に至る巨大な戦費が主として日銀引き受けの国債によってまかなわれ、それに見合う生産力が低下するという戦時経済の動向からイン フレ現象が生まれてくるのは必然であったが、しかしインフレーションは、戦時下よりも戦後になって加速度的に激化したのであった。その指標の1つとして日銀券の動向をみると、44年3月末に100億円を突破したものが、1年後の45年3月末には205億円と倍増、8月14日には293億円に達していたが、終戦と同時に、戦争保険金、軍需仕掛品への整理資金、軍人の復員手当、軍需会社解散手当など巨額の資金が 一挙に放出され、8月末には423億円に達するという急膨脹を示した。そしてこうした巨額の資金が浮動 購買力となり物不足を背景として物資の獲得に集中しヤミ物価を急騰させ、それが預貯金の引き出しを促進するなど通貨を一層膨脹させることとなった。45年末の日銀券は554億円を数え、翌46年2月15日には605億円と終戦時の2倍をこえる有様であった。 しかもこの間、軍需産業から民需産業への転換は停滞 し、生活必需物資の需給も極度にひっ迫しており、イ ンフレの悪性化は深刻な様相を呈していた。

  産業全般の状況をみると、「降伏とともに一挙に表面化した出炭高の激減、資材の生産減退と入手の見透 し難、死蔵による偏在と保有資材の温存、賠償内容と国家補償の未確定による経理上の不安、公定価格に基 く不採算、労務者の補充難などに加へて、一路激化す るインフレーションはさらにこれらの渦を押し拡げて全面的生産意欲の減退──生産サボタージュの現象を 呼び、当局施策の緩慢遅滞と相侯って転換はもとより、平和産業関係消費材の生産再開そのものも遅々として進捗せず」(「朝日経済年史、昭和二〇〜二一年版」、92頁)、「最初商工省から発表された第三四半期(十〜十二月)の生産実績について見ても、昭和十一年同期との比較において石炭が一八%、普通鋼材が二%、ソー ダ灰が三%といふやうな殆んど生産停止に近い状態を 続けており、然も企業家は今日では種々の悪条件に対抗して生産を再開するよりは、拱手して手持の製品、 原材料の値上りを待つことを寧ろ利益なりと考へつヽ ある」(朝日、2・17)といった有様となっていた。  

  こうしたインフレ下の生活難をさらに深刻にしたのが、食糧危機であった。

 

 「廿年産米の供出割当は原則として従来の制度を踏襲し収穫予想高を四千七百万石とみて三千万石の供出を目標に割当に取りかかったが、風水害によるその後の減収を考慮して結局二千六百五十六万石と決定、各都道府県に割当を行った。しかるに第一回予 想収穫高は四千六百十一万石と稀有の凶作発表となり、更にその後は非公式ながら四千二百九十六万石と発表され四千万石台を割るのではないかとの推定も行はれた。──二十一年度の供出割当二千六百五十六万石は二十年産米の予想収穫高(非公式)四千二百九十六石に対し六割一分に当り、二十年度の実収五千八百五十五万石に対する供出実績三千六百八十万石、即ち六割四分、十九年度の実収六千二百八十一万石に対する供出実績三千九百六十七万石、六割二分と率において大差はないが、しかし実収高から供出高を差引いた農家の保有米が二十年度は二千百七十五万石、十九年度は二千三百十三万石であるのに対し二十一年度は供出割当を完納するとすれば千六百四十五万石(尤も二十一年度の供出割当は綜合供出で米のみでなく代替物を含んでいるが)しか残らず、これを二十年程度の二千二百万石を確保するためには供出は二千百万石、割当に対し八割程度に止めねばならない勘定となる、事実農村筋では二千六百五十万石の供出割当を苛酷とし、供出割当の不適正を もあげ、また横流しなどの喰込みで割当の七、八十%の供出が精一杯とみ、当初より悲観的だったが果して供米は遅々として進捗せず二十年十二月末現在六百十二万石と割当に対し二割三分(前年同期四割二分)……(二十一年)二月末現在千三百八十二万石、 五割二分(前年同期八割六分)といった不成績であった」(「朝日経済年史、昭和二〇〜二一年版」、63頁)。  

 大都会では配給の遅配が始まり、仕事を休んでまで食糧買い出しに出かけてゆかねばならなくなった。

  こうした事態に対して政府は2月17日、金融緊急措置令、日本銀行券預入令、臨時財産調査令、食糧緊急措置令、隠匿物資等緊急措置令を制定公布して経済危機打開をはかろうとした。まず金融緊急措置は過剰購買力の封じこめをねらったものであり原則として現行紙幣の流通を停止して強制的に預金させ(封鎖預金)、 一定額だけ、新紙幣(新円)と交換する、給与などの新円による支払いも一定額に制限する(超過額は封鎖預金支払)というものであった。すなわち2月17日以後、 預金は一切封鎖され、引き出しは毎月世帯主300円、世帯員1人100円に限られることになり、手持ちの現金は2月25日から3月7ロまでの間に1人当り100 円だけ新円と交換され、3月7日まで交換又は預金はできるが、強制通用力は3月2日で失効する。つまり、預金せずに現金を持っていると3月7日以後はただの紙きれになってしまうというわけであった。また給与などの新円による支払いは月500円に制限された。これによればサラリーマンで親子3人の家庭の生活資金は、最高で月1000円(預金より500円、給与500 円)に限られることになるわけであった。預金の封鎖期間は明示されなかったが、当時は少なくとも、財産税の徴収完了までは続くと考えられていた。政府は戦時利得の排除などのため1千億円にのぼる大幅な特別税を予定しており、日本銀行券旧券の強制通用力が失われた翌日、3月3日現在で財産調査を行うこととしていた。  

  金融緊急措置令と同時に制定された食糧緊急措置令は食糧の確保を目的としたものであり、期日まで食糧の供出を行わない者に対して、強制収用を行うことと し、収用を拒否・妨害又は忌避した者には3年以下の懲役又は1万円以下の罰金という厳罰をもってのぞむ こととしていた。また隠匿物資等緊急措置令は、重要物資の調査を行い、隠退蔵とみとめられる場合には、強制譲渡させる道を開いたものであった。しかしこれらの強制措置をもってしても、供出は5月10日現在で目標の7割3分にとどまっており、5月には都市での配給のおくれは全国化し、5月危機と呼ばれるよう な事態におちいっている。

  金融緊急措置にしても、これでインフレがおさまる かどうかは、制限された生活費に見合うような価格で物資が確保できるかどうかにかかっていた。そこで政府は3月3日物価統制令を公布施行して物価を公定する法的権限を固めると同時に、物価を有機的に規制する物価体系確立の方針を明らかにした。そしてまず米(生産者価格石300円、消費者価格250円)、石炭(瓩150円)を基準として生計費(標準生計費500円)及び賃金を決定し、そこから更に基礎資材、日用品、雑品、生鮮食料品などの統制価格を決めてゆくというやり方がとられたのであった。そしてこうしてきめられた物価体系を維持するために、生産者価格より消費者価格を安く公定する2重価格制をとり、その差額に対し国庫より補給金を支給するという仕組みが考えら れていた。しかしこうしたやり方で物価を安定させるためには、生産をできるだけ早く軌道にのせ、物資の必要量を確保しなくてはならず、生産復興がおくれれ ば、補給金はインフレの新たな起動力に転化する筈であり、実際の状況もそのように動いていってしまった。  

  新円切替えによって、なるほど通貨は一時収縮した。 2月16日614億円だった日銀券発行高は3月2日には152億円と75%も減少しているが、しかしこ れでインフレが終わったわけではなかった。日銀券発行高は半年後には再び600億円をこえ、1年後には その倍の1200億円をこえているのであり、インフ レはむしろスピードを早めていったのであった。  

  その原因はいろいろな側面からみることができるが、預金封鎖体制の問題としてみると次のような点を指摘することができる。すなわちまず第1には、生活資金は統制されたが事業金融は統制されておらず、小切手をもってする限り無制限であったという点である。従 ってここでは小切手は貨幣の代わりとなり、物価騰貴を引きおこすような投機的な取り引きも可能となるのであった。しかしより決定的な問題は、第2の、国家財政に統制が加えられなかったという点に見られねばならないであろう。財政の問題としては、封鎖預金による納税がみとめられており、財政が封鎖預金を新円にかえる役割りを果たしたという点を指摘することもできるが、やはり基本的な点は、赤字財政による通貨の増発という問題であろう。そしてこの財政支出のなかで、次第に価格差補給金の比重が増大し、これがインフレのスピードを早める決定的要因となってゆくのであった。



大衆運動と民主戦線

 一方で「民主化」が唱えられ、他方でインフレ、生活物資の欠乏、食糧危機が進行するといった状況のも とでは、大衆運動が激発してくるのは必然であった。 そしてそのなかでは、労働運動が最も大きな発展を示 していた。労働組合の結成を数字でみてみると「四五年十月には八組合、四二〇六名、十一月六六組合、六万三四五八名、十二月四三四組合、三一万二I四九名、 四六年にはいると一月は一〇〇八組合、五二万二〇七 四名、二月一七二六組合、六三万四八五五名、三月三二九七組合、一〇三万一三六一名であった。この六カ月の合計六五三七組合、組織人員二五六万七四六四名」 (斎藤一郎「戦後日本労働運動史」上巻、46頁)に達している。そして職場には要求が山積していたから、組合が出米るとすぐ争議に突入する、あるいは争議に突入する過程で組合がつくられるというのが一般的な例であった。

  またこの時期には、労働組合による生産管理・業務管理が、争議の主要な戦術とされた点が特徴的であった。生産管理は45年10月〜12月の読売新聞争議が最初とされるが、以後京成電鉄(45年12月)、日本鋼管鶴見製鉄所(46年1月)、三菱美唄炭鉱(45 年11月〜46年2月)、東洋合成新潟工場(46年3月〜8月)東芝車輛(46年3月〜4月)、高萩炭鉱(46年4月〜6月)など、数多くの争議で生産管理が行われており、生産再開が経済再建の出発点と考えられていたこともあって、46年前半期にはストライキよ り生産管理という気分が広く滲透していた。これに対 して政府側は2月1日、閣議での協議を経て三土内務、 岩田司法、小笠原商工、芦田厚生の4相声明を発表、 「近時労働争議等に際して、暴行、脅迫または所有権侵害等の事実も発生を見つつあることは、真に遺憾に堪えない」と述べて、暗に生産管理を所有権侵害として排除しようとする姿勢を示した。

  しかしGHQ側はこの声明に承認を与えたという一部の報道をはっきりと否定し、「日本の労働争議は、連合軍の占領政策に抵触しない限り、紛争の関係者、日本政府及びその解決機関の解決すべき問題である、また如何なる場合も労働争議に警察が干与することは 出来ない。たゞし暴動とか、公の安全を侵害する場合は例外である」との立場を明らかにした。そして「従業員による生産管理は公の秩序を乱すと解するか」との質問に対し「具体的な場合を待つより外はない、原則的には必ずしも公の秩序を破壊するものではない」(朝日、2・3)と答え、全体としては、この記事に朝日新聞がつけた見出しのように「生産管理、合法なら可」という方向を示したのであった。この時期にはまだGHQにも労働運動の左翼化を容認する雰囲気があったといわれ、またGHQも石炭増産に強い関心を 示していることからみても、ストライキより生産管理に賛成だったといえよう。

  ともかくもこの時期は、労働運動が順調に発展した時期であり、全国組織としての総同盟が実質的に発足したのもこの時期であった。総同盟の結成は、45年10月10日戦前の労働運動の指導者約100名の懇談会が聞かれたのをきっかけに動き始めており、この懇談会から生まれた組織結成中央準備委員会(委員長松岡駒吉)は、11月3日の第3回の会合で中央組織の名称を「労働組合総同盟」とすることを決定、翌46年1月17日には綱領、規約要項、運動方針などを決めて準備会をもって総同盟を結成した。会長には松岡駒吉、総主事には原虎一が就任した(なお正式の結成は8月1日の第1回大会)。そして5月27、8日の拡大中央委員会では、4月末現在で1600余組合の約65万人が加盟していると報告された。

  しかし、日本の労働運動が総同盟に統一されたというわけではなく、運動の主導権をめぐる社会・共産両党の争いは組織を分裂させる形で激化していた。総同盟は1月17日採択の「当面の運動方針書」で「左翼小児病患者(共産党を指す)の分裂政策を粉砕し」「日本社会党を中心とする民主主義諸勢力の結集」(労働省 「資料労働運動史、昭和20〜21年」、446〜7頁)する と述べているように、明らかに社会党につながっていた。

  これに対して共産党は総同盟幹部を「ダラ幹」と排撃し工場代表者会議を呼びかけて総同盟の組織をも下から切りくずしてゆき、全国的な産業別組織をつくろうとしていた。「わが党は全国的な規模における広汎な工場代表者会議運動を提唱し、そのイニシアチヴを とらねばならぬ──エ場代表者会議はこれを地域的な或は産業別的な労働組合協議会として残され、更に全国的な産業別単一労働組合結成のための、具体的な準備行動とされねばならぬ」(「選挙闘争を通じて労働組合運動の強化へ」「赤旗」第9号・46・1・1)。共産党はこの方針に従って、45年12月25日神奈川県下の工場代表者会議、ついで46年1月27日全関東の工場代表者会議を開き、関東地方労働組合協議会を結成、 この間産業別組織の準備もすゝめられ、1月14日には最初の産別単一組織として日本新聞通信放送労働組合の結成大会が開かれている。そしてこの新聞通信労組の提唱という形をとって、2月27日には産別会議準備会が組織されており、労働運動の分野が総同盟と産別会議という2大組織に分裂することは避け難い勢いとなっていた。

  こうした対立は、農民運動の分野にももちこまれたが、共産党の勢力が弱かったこともあって、日本農民組合が単一の全国組織となり、対立は内部での主導権争いとなっていった。農民運動の場合にも、45年10月3日、社会党系の戦前の運動家25名が農民組合 組織世話入会を結成し、このグループが中心となって46年2月9日、日本農民組合の結成大会にこぎつけた。この動きに対し共産党は、上からの全国組織の結成に反対すると同時に、「小作人ばかりの従来の農民組合は時代おくれであり、かつ不合理で農民の勢力を分裂せしめるもの」(「赤旗」第1号、45・10・20) とし、小作だけでなく、自小作、自作などすべてのはたらく農民を農民委員会に組織し、供出・配給、村政、 文化など農民に共通するすべての問題を扱うという戦術を提唱した。そして食糧問題についての市民食糧管理委員会の構想を媒介として、労働組合、市民食糧管理委員会と農民委員会とを結合し、地域的な萌芽的な権力機関ともいうべき人民協議会を樹立すべきだとの方針を打ち出した。しかしこれらの構想は実際には発展せず、共産党も結局、日農の組織になだれ込んでいったのであった。

  社共の対立は現実には激化する一方であったが、社共を中心とする革新勢力の統一戦線への期待も強く、 戦争中延安にあって日本人解放連盟を指導していた野坂泰三の帰国を迎えてこうした動きは一挙に高まってきた。野坂は1月12日、朝鮮からの引揚船黄金丸で博多に上陸したが、その前日、社会主義運動の長老、山川均が人民戦線の即時結成を提唱、15日には、差当り世話入会をつくるという具体案を提案して大きな反響を呼んでいた。帰国した野坂は、まず制度としての天皇制と個人としての天皇とを区別することを共産党首脳部に認めさせ、同時に「愛される共産党」となり、民主戦線の推進力となることを求めた。野坂は1月14日の歓迎会の席上、民主戦線について次のよう に述べている。

 

 「日本において、何戦線をつくるか、われわれとしては『民主主義革命の完成』の戦線をつくらなければならない。此目標に一致するすべての民主主義勢力を団結する、われわれは日本民族の大多数を含む戦線を作らなければならぬ、……労働者、農民だけでかたまるのではなく知識階級も中小商工業者も含まなければならない、民主戦線も人民戦線もその性格においては大差ないが、わが国では『人民戦線』 といふと左翼の運動のやうな印象を与へていたので 私は民主戦線の名が適当ではないかと思ふ」(「アカ ハタ」第12号、46・1・22)  

  野坂の帰国によって共産党の態度は柔軟になってき たとみられ、それに対する社会党の態度が注目された。 社会党も野坂の人気を軸にした統一戦線気運の盛り上がりを無視することはできなかったが、共産党と一線を画そうとする気分も強く、1月16日の中央執行委員会では、時期尚早論を唱えて問題を総選挙後にくりこすという態度に出たのであった。すなわち同委員会の決定はまず「現下の客観情勢は民主主義諸勢力の共同戦線を必要としていることは最早議論の余地ない、然しながら民主主義諸団体は今直ちに共同戦線を張り得る状態にまでなっていない、そこで吾々には共同戦線に先だちその基盤を形成すべき勢力が主観的客観的に確立さるべきことが何よりも必要であると思ふ」とした。つまりそれぞれの党派が、自己の組織を強化し、綱領・政策などを確立・充実させてからでなくては、 共同戦線はありえないというのであった。そして社会党は「総選挙後において民主主義諸勢力に対し共同戦線を提唱することを目標として準備工作を進めなくてはならぬ」(朝日1・17)としたのであった。

  これに対して共産党は翌1月17日、食糧問題など解決を追られている問題が山積しているのに、共同闘争を総選挙後までやらないというのは許されないとし、 同時に山川提唱の統一戦線結成世話入会の計画に賛成する態度を明らかにした(朝日、1・18)。社会党のなかにも野坂帰国による共産党の柔軟化を評価して共同闘争に踏み切るべきだとする左派グループが存在しており、そのことが山川らに活躍の余地を与える条件となっていた。山川は共同戦線気運を盛りあげるために荒畑寒村らとともに野坂歓迎国民大会を企画した。 1月26日、大会は日比谷公園に3万の大衆を集めて開催され(大会委員長山川均、司会者荒畑寒村)、社会党からも水谷長三郎、片山哲、加藤勘十らが共産党の徳田球一らととも演壇に立ち、戦線統一が実現したかの如き印象を与えた。野坂はここで民主人民戦線の綱領を提議すると同時に、目前に追っている総選挙こそ共同戦線をつくる上の絶好の機会であり、選挙の前に共同戦線を結成することを強く訴えた。ついで1月29日の社会党常任中央執行委員会では、水谷ら左派は、食糧問題だけに限ってでも共産党と共同闘争を行うべ きだと主張したが、西尾末広らは16日の中央執行委員会以来情勢は変わっていないと反駁、結局、共同闘争の準備工作のために特別委員会を設けることを決定 しただけに終わった。しかし水谷を委員長とする社会党京都支部は、共産党と提携しさらに自由党までまき 込んだ民主戦線をつくり、そのほか北海道・青森・三重などでも地方民主戦線の動きがあらわれてきた。

  こうしたなかで、山川らの工作も進められており、 3月9日には、石橋湛山、羽仁説子、長谷川如是閑、細川嘉六、大内兵衛、河崎なつ、横田喜三郎、高野岩三郎、辰野隆、野坂参三、藤田たま、安部磯雄、荒畑寒村、聴涛克巳、三浦鉄太郎、森戸辰男、末川博、末弘厳太郎、山川均の19名からなる民主戦線統一世話人会のメンバーが発表され、翌10日の第1回世話人会では組織の名称を「民主人民連盟」とし、運動自体は「民主人民戦線」と呼ぶことに決定された。この世話人会には社会党幹部の名がみられないが、社会党では右派の圧力のもとに、この運動が政党に発展する可能性があるとの理由をつけて、党の代表としてはもとより、個人の資格でも世話入会に参加しないとの態度をとったのであった。そして総選挙1週間前の4月3 日には69労農団体、45文化団体が参加した民主人民連盟結成大会が聞かれている。

  民主人民戦線は社会党の不参加により、政治的基盤を確立しえなかったが、イデオロギー的影響力は大きく従って保守勢力からは強い反発がひきおこされたのであった。2月4日、自由党鳩山総裁は、「民主戦線は天皇制打倒の空気を醸成することを目的としている」 (朝日、2・5)としてこれに反対する態度を明らかにし、さらに2月22日には、反共運動を呼びかける党声明を発表するに至っている。そして戦後最初の総選挙は、民主戦線対反共連盟という政治的零囲気のも とで行われることになるのであった。



戦後最初の総選挙


 46年4目10日に施行された第22回総選挙は、まず婦人が選挙権・被選挙権を得たはじめての選挙であり、また公職追放今によって既成政治家の大半が立候補資格を失なったこと、また大選挙区連記制のはじめての試みである点などからも注目された。有権者総数は3687万余人と前回42年総選挙1459万余人の2倍以上に達した。立候補者数は、公職追放のあとをうけて新人が殺到し、4月10目現在の確定候補者数で2770名、定員466名の約6倍という濫立状態となったが、その党派別、新旧別の内訳は次表の通りであり、前議員・元議員合わせても、わずかに146名しか立候補できなかったことが注目された。

党派
進歩 339 18 23 380
自由 429 15 42 486
社会 305 7 18 330
共産 143 0 0 143
協同 91 2 1 94
諸派 565 1 4 570
無所属 752 4 11 767
2,624 47 99 2,770

 新人とともに、小政党も濫立し、政党数実に258、そのうち一人一党は184で約7割をしめ、5大政党以外で10人以上の候補者を立てたのは新日本党、日本革新党、立憲養正会、独立社会党、北海道政治同盟、日本民党の6党にすぎなかった(朝日、4・3)。  

  投票の結果は次の通りであるが、定員に2名足りないのは東京2区と福井県で定員の最下位者が法定得票数に達せず、当選できなかったためである。   

    自由党 140名 進歩党  94名
    社会党 92名 協同党 14名
    共産党 5名 諸 派 38名
    無所属 81名 464名

 諸派のなかでは、日向民主党4、宮城地方党3、北海道政治同盟3、協同民主党2、日本島本党2、島本党2などが重だったところであった。福井の再選挙は6月1日、東京2区は6月24日施行され、それぞれ社会党と自由党の候補者が当選したため、この総選挙の最終的な結果は、自由党141名、社会党93名となった。また婦人の当選者は、立候補者97名中、39名を数えた。当選者の顔触れと得票数は以下の通りである。

 選挙区名の下の数字は有権者総数
  得票数 党派 新旧前 候補者氏名
北海道一区 1,037,277      
  109,879 無所属 有馬 英二
  88,994 協同 北 勝太郎
  69,418 社会 新妻 イト
  67,919 自由 苫米地 英俊
  67,621 自由 平塚 常次郎
  60,006 社会 岡田 春夫
  59,446 社会 正木  清
  50,419 諸派 椎熊 三郎
  50,029 諸派 地崎 宇三郎
  48,018 協同 東  隆
  44,140 共産 柄沢 とし子
  43,398 協同 北  政清
  40,880 自由 小川原 政信
  39,990 協同 香川 兼吉
北海道二区 640,260      
  42,139 協同 飯田 義茂
  39,338 無属 永井 勝次郎
  36,272 自由 坂東 幸太郎
  34,254 諸派 本名  武
  33,926 自由 伊藤 郷一
  33,905 協同 太田 鉄太郎
  33,722 社会 森 三樹二
  33,228 協同 松本 六太郎
  32,600 自由 武田 信之助
青森全区 510,792      
  58,520 諸派 笹森 順造
  49,167 自由 小笠原 八十美
  40,071 自由 夏堀 源三郎
  37,674 進歩   山崎 岩男 
  35,085 社会 大沢 喜代一
  32,768 進歩   津島 文治
  32,531 進歩   苫米地 義三
岩手全区 610,223      
  55,065 進歩   菅原 エン
  54,529 社会 石川 金次郎
  47,826 自由 松川 昌蔵
  43,249 自由 八重樫 利康
  41,731 進歩   柴田 兵一郎
  39,376 自由 小沢 佐重喜
  35,682 自由 菊地 長右衛門
  35,506 社会 及川  規
宮城全区 691,480      
  67,784 社会 菊地 養之輔
  53,264 自由 大石 倫治
  50,279 自由 庄司 一郎
  49,910 諸派 井上 東治郎
  40,285 進歩 本間 俊一
  37,584 諸派 安部 俊吾
  36,074 無属 丹野  実
  34,307 自由 内海 安吉
  33,521 諸派 竹谷 源太郎
秋田全区 585,848      
  100,622 無属 和崎 ハル
  70,918 諸派 丸山 修一郎
  48,229 社会 島田 晋作
  48,131 進歩 中川 重春
  47,936 社会 田中 健吉
  40,751 社会 細野 三千雄
  34,339 自由 大井 直之助
  31,567 諸派 鈴木 弥五郎
山形全区 657,904      
  66,166 自由 松浦 東介
  65,680 自由 小野  孝
  64,957 無属 山本 武夫
  53,659 進歩   大久保 伝蔵
  48,922 諸派 米山 文子
  43,787 自由 牧野 寛索
  43,782 社会 海野 三朗
  42,191 無属 石黒 武重
  40,598 無属 図司 安正
福島全区 947,101      
  76,668 自由 円谷 光衛
  60,181 社会 鈴木 義男
  58,929 進歩   荒木 武行
  54,235 自由 中野 寅吉
  51,488 進歩   太田 秋之助
  50,278 社会 榊原 千代
  49,734 無属 林  平馬
  49,409 進歩   山下 春江
  45,954 自由 大内 一郎
  45,644 自由 加藤 宗平
  42,042 進歩   村井 八郎
  40,630 進歩   鈴木 周次郎
  40,271 進歩 星  一
茨城全区 997,425      
  88,455 無属 大津 桂一
  79,558 自由 河原田 巌
  68,197 自由 杉田 馨子
  64,997 自由 葉梨 新五郎
  54,753 無属 菊地  豊
  42,799 進歩   武藤 常介
  40,173 無属 中山 栄一
  39,726 社会 細田 綱吉
  38,864 進歩   加藤 高蔵
  38,070 進歩   鈴木 明良
  36,420 進歩   宮原 庄助
  33,472 自由 山崎  猛
  31,975 進歩   小野瀬 忠兵衛
栃木全区 760,881      
  68,708 諸派 戸叶 里子
  53,470 進歩   江部 順治
  43,903 社会 金子 益太郎
  41,282 進歩   山口 光一郎
  39,737 自由 山口 好一
  38,056 進歩   大島 定吉
  35,536 社会 高瀬  伝
  35,235 進歩 菅又  薫
  32,607 協同 船田 享二
  31,115 自由 杉田 一郎
群馬全区 781,251      
  127,007 無属 野本 品吉
  71,419 進歩   最上 英子
  69,870 進歩   飯島 祐之
  67,871 社会 須永  好
  62,432 進歩   鈴木 強平
  47,787 進歩   山田 悟六
  46,287 社会 町田 三郎
  42,955 社会 武藤 運十郎
  40,793 進歩   滝沢 浜吉
  36,700 自由 小峯 柳多
埼玉全区 1,061,317      
  119,711 自由 荒船 清十郎
  99,341 自由 平岡 良蔵
  78,553 社会 松永 義雄
  71,074 諸派 磯田 正則
  66,703 自由 高橋 泰雄
  61,346 自由 山本 勝市
  59,881 自由 三ツ林 幸三
  58,560 自由 井田 友平
  58,102 進歩 関根 久蔵
  55,492 自由 古島 義英
  54,282 自由 加藤 睦之助
  51,773 進歩 宮前  進
  50,193 社会 川島 金次
千葉全区 1,041,418      
  110,759 自由 山村 新治郎
  95,553 進歩 成島  勇
  88,415 無属 森  暁
  70,221 自由 横田 清蔵
  62,614 諸派 竹内 歌子
  59,256 自由 片岡 伊三郎
  58,180 自由 水田 三喜男
  49,533 社会 吉川 兼光
  48,309 進歩 青木 泰助
  46,273 自由 斎藤 行蔵
  41,993 無属 藤田  栄
  41,009 無属 寺島 隆太郎
  38,576 自由 木島 義夫
東京一区 933,722      
  106,872 自由 鳩山 一郎
  85,149 社会 山口 静枝
  80,897 共産 野坂 参三
  68,637 社会 浅沼 稲次郎
  43,321 自由 竹内 茂代
  37,781 自由 中島 守利
  34,940 諸派 石田 一松
  34,077 自由 鈴木 仙八
  31,307 社会 原 彪之助
  29,895 進歩 林   連
東京二区 2,058,947      
  138,496 社会 加藤 シヅエ
  106,000 社会 中村 高一
  101,170 社会 河野  密
  91,896 社会 鈴木 茂三郎
  90,005 自由 大久保 留次郎
  86,534 社会 松岡 駒吉
  75,876 共産 徳田 球一
  63,182 自由 花村 四郎
  53,697 社会 荒畑 勝三
  48,161 自由 栗山 長次郎
  45,688 諸派 松谷 天光光
東京二区再選挙 1,164,839      
  41,119 自由 広川 弘禅
神奈川全区 1,016,570      
  188,778 社会 片山  哲
  114,118 無属 鈴木 憲一
  105,963 自由 河野 一郎
  66,970 自由 小此木 歌治
  59,411 社会 松尾 トシ
  53,326 社会 土井 直作
  49,125 自由 山本 正一
  48,420 諸派 吉田 セイ
  44,767 自由 岩本 信行
  43,045 自由 三浦 寅之助
  39,286 自由 礎崎 貞序
  37,572 社会 金井 芳次
新潟一区 537,027      
  83,609 社会 玉井 潤次
  70,390 進歩 村島 喜代
  64,618 社会 井伊 誠一
  64,037 自由 北  ヤ吉
  46,193 進歩 白井 秀吉
  44,946 自由 小沢 国治
  37,506 進歩 舟崎 由之
新潟二区 651,998      
  64,421 自由 亘  四郎
  63,089 社会 稲村 順三
  59,076 社会 清沢 俊英
  58,811 自由 塚田 十一郎
  49,327 無属 野村 ミス
  45,122 進歩 荊木 一久
  42,851 進歩 吉沢 仁太郎
  41,303 自由 板倉 治作
富山全区 515,257      
  64,866 無属 中田 栄太郎
  60,891 諸派 麻生 正蔵
  49,228 諸派 稲田 健治
  41,211 自由 綿貫 佐民
  40,525 進歩 橘  直治
  39,316 進歩 佐藤 久雄
石川全区 483,931      
  46,945 社会 米山  久
  45,077 無属 五坪 茂雄
  43,236 自由 益谷 秀次
  41,779 無属 江川 為信
  39,828 自由 竹田 儀一 
  36,209 自由 殿田 孝次
福井全区 384,259      
  49,083 進歩 薩摩 雄次
  46,878 無属 坪川 信三
  30,125 無属 奥村 又十郎
  25,884 自由 今井 はつ
福井再選挙 399,859      
  51,055 社会 堂森 芳夫
山梨全区 414,061      
  100,512 社会 平野 力三
  67,771 進歩 天野  久
  50,818 自由 樋貝 詮三
  44,016 無属 笠井 重治
  43,906 社会 松沢  一
長野全区 1,104,054      
  133,945 諸派 安藤 はつ 
  90,962 自由 植原 悦二郎
  87,267 無属 池上 隆祐
  71,260 無属 井出 一太郎
  70,694 協同 米倉 龍也
  67,363 無属 小坂 善太郎
  62,309 社会 棚橋 小虎
  60,083 社会 野溝  勝
  58,008 自由 田中 重弥
  53,379 共産 高倉  輝
  52,246 社会 林  虎雄
  47,374 進歩 降旗 徳弥
  47,199 無属 小川 一平
  47,029 無属 宮沢 才吉
岐阜全区 768,102      
  110,143 無属 伊藤 恭一
  48,331 進歩 平野 増吉
  44,314 自由 水口 周平
  42,600 自由 稲葉 道意
  42,090 社会 加藤 鐐造
  41,627 自由 大野 伴睦
  36,284 自由 田中 実可
  32,310 無属 武藤 嘉一
  30,826 進歩 日比野 民平
  30,501 自由 木村 公平
静岡全区 1,134,284      
  191,929 社会 山崎 道子
  82,245 無属 増井 慶太郎
  72,757 自由 森田 豊寿
  72,609 社会 長谷川 保
  65,290 協同 竹山 祐太郎
  60,048 自由 鈴木 平一郎
  56,139 自由 大塚 甚之助
  56,094 諸派 廿日出  厖
  53,061 自由 神田  博
  51,802 自由 加藤 一雄
  51,363 自由 佐藤 乕次郎
  47,182 自由 小池 政恩
  46,022 社会 渋谷 昇次
  44,735 無属 坪井 亀蔵
愛知一区 949,140      
  162,026 社会 加藤 勘十
  115,187 社会 山崎 常吉
  108,382 自由 辻  寛一
  84,010 進歩 白木 一平
  63,491 諸派 越原 はる
  60,741 進歩 神戸  真
  52,864 進歩 早稲田 柳右エ門
  51,320 自由 深津 玉一郎
  48,779 社会 赤松  勇
  47,093 自由 江崎 真澄
  46,534 無属 河野 金昇
愛知二区 549,887      
  76,117 進歩 小林  リ
  73,866 無属 酒井 俊雄
  72,442 無属 大谷 瑩潤
  66,162 自由 青木 孝義
  53,486 無属 穂積 七郎
  52,378 進歩 岡本 実太郎
  42,056 諸派 中野 四郎
三重全区 733,359      
  163,084 無属 尾崎 行雄
  104,449 無属 伊藤 幸太郎
  42,360 進歩 長井  源
  41,874 進歩 九鬼 紋十郎
  40,672 進歩 川崎 秀二
  39,085 社会 沢田 ひさ
  38,754 進歩 松田 正一
  36,535 自由 石原 円吉
  35,718 諸派 田中 久雄
滋賀全区 456,487      
  44,074 自由 森 幸太郎
  39,468 社会 矢尾 喜三郎
  39,225 社会 堤  隆
  37,455 無属 今井  耕
  36,484 自由 服部 岩吉
  30,626 自由 花月 純誠
京都全区 896,129      
  110,745 社会 水谷 長三郎
  100,318 自由 芦田  均
  88,227 自由 冨田 ふさ
  64,802 無属 田中 伊三次
  47,760 無属 大石 ヨシエ
  39,858 自由 中野 武雄
  39,533 社会 竹内 克巳
  34,478 進歩 小川 半次
  32,034 無属 木村 千代
  29,300 社会 辻井 民之助
大阪一区 655,842      
  70,449 社会 西尾 末広
  70,042 進歩 細川 八十八
  45,324 社会 大矢 省三
  42,121 共産 志賀 義雄
  39,171 進歩 一松 定吉
  38,303 自由 有田 二郎
  32,767 諸派 三木 キヨ子
大阪二区 917,048      
  101,056 無属 喜多 楢治郎
  70,637 自由 松永 仏骨
  65,375 進歩 寺田 栄吉
  57,766 無属 原 藤右門
  56,957 社会 井上 良二
  56,000 自由 左藤 義詮
  55,582 進歩 田中 万逸
  52,830 諸派 本多 花子
  51,408 社会 叶  凸
  48,513 社会 西村 栄一
  47,724 諸派 小西 寅松
兵庫一区 992,386      
  95,403 社会 永江 一夫
  89,441 自由 川西  清
  71,824 無属 中川 たま
  53,373 自由 森崎 了三
  52,334 社会 松沢 兼人
  51,014 進歩 佃  良一
  50,886 自由 細田 忠治郎
  49,998 進歩 原 健三郎
  45,570 自由 田中 源三郎
  45,243 社会 米窪 満亮
  44,248 社会 山下 栄二
兵庫二区 567,940      
  122,049 進歩 斎藤 隆夫
  48,406 自由 小島 徹三
  42,063 協同 木下  栄
  36,294 進歩 八木 佐太治
  36,128 進歩 小池 新太郎
  35,366 進歩 堀川 恭平
  32,927 進歩 小笹 耕作
奈良全区 426,547      
  48,165 自由 北浦 圭太郎
  46,122 無属 滝清 麻吉
  42,015 進歩 仲川 房次郎
  40,967 無属 東井 三代次
  38,421 協同 駒井 藤平
和歌山全区 511,517      
  37,738 自由 山口 喜久一郎
  35,282 進歩 斎藤 てい
  33,883 自由 世耕 弘一
  31,248 自由 小野 真次
  30,993 無属 早川  崇
  29,695 無属 池村 平太郎
鳥取全区 296,674      
  39,634 自由 稲田 直道
  35,011 進歩 佐伯 忠義
  34,562 無属 赤沢 政道
  30,134 無属 田中 たつ
島根全区 466,194      
  80,393 自由 飯国 壮三郎
  71,192 社会 中崎  敏
  55,499 進歩 木村 小左衛門
  55,356 無属 井上  赳
  48,891 進歩 原 夫次郎
  45,618 社会 松本 淳造
岡山全区 824,999      
  99,972 無属 西山 冨佐太
  97,218 進歩 犬養  健
  87,086 無属 近藤 鶴代
  73,123 自由 星島 二郎
  51,705 社会 黒田 寿男
  49,650 無属 若林 義孝
  45,477 社会 中原 健次
  35,368 自由 滝沢 脩作
  34,994 自由 井上 卓一
  31,132 進歩 逢沢  寛
広島全区 995,676      
  216,051 無属 平川 篤雄
  145,344 自由 武田 キヨ
  97,036 無属 伊藤 実雄
  76,729 協同 大宮 伍三郎
  71,604 無属 松本 滝蔵
  71,183 社会 森戸 辰男
  56,488 協同 大原 博夫
  56,172 進歩 田中  貢
  54,747 社会 前田 栄之助
  54,294 自由 渡辺 忠雄
  52,429 社会 高津 正道
  49,894 自由 原  侑
山口全区 722,317      
  73,139 無属 久芳 庄二郎
  55,786 無属 仲子  隆
  49,708 無属 細迫 兼光
  47,324 自由 阪本  実
  43,088 社会 田村 定一
  39,930 自由 木村 義雄
  39,577 諸派 疋田 敏男
  36,189 自由 厚東 常吉
  33,717 自由 田辺  譲
徳島全区 438,621      
  67,300 無属 三木 武夫
  60,523 無属 岡田 勢一
  51,159 無属 紅露 みつ
  37,834 無属 柏原 義則
  36,825 無属 秋田 大助
香川全区 464,945      
  59,717 自由 松浦  薫
  53,619 無属 豊沢 豊雄
  50,369 自由 三木 武吉
  41,053 自由 矢野 庄太郎
  39,793 社会 田万 広文
  39,168 社会 平野 市太郎
愛媛全区 704,870      
  64,953 進歩 桂  作蔵
  55,084 自由 高橋 英吉
  52,008 社会 林田 哲夫
  48,515 自由 薬師神 岩太郎
  48,058 進歩 馬越  晃
  47,601 進歩 関谷 勝利
  39,438 諸派 布  利秋
  38,205 社会 安平 鹿一
  37,123 進歩 稲本 早苗
高知全区 432,340      
  58,280 自由 林  譲治
  54,226 社会 氏原 一郎
  51,155 社会 佐竹 晴記
  50,944 自由 寺尾  豊
  44,043 進歩 長野 長広
福岡一区 700,472      
  100,111 社会 上田 清次郎
  91,568 社会 田原 春次
  55,172 社会 伊藤 卯四郎
  53,195 無属 石崎 千松
  53,080 社会 森本 義夫
  51,545 進歩 長尾 達生
  50,599 進歩 松岡  運
  49,209 進歩 岡部 得三
  45,519 社会 松本 七郎
福岡二区 754,940      
  115,005 進歩 森山 ヨネ
  98,644 無属 楢橋  渡
  83,705 社会 稲富 稜人
  55,046 社会 田中 松月
  51,724 自由 山田 善三
  45,778 無属 中島 茂喜
  45,305 社会 杉本 勝次
  32,130 自由 石井 光次郎
  30,562 進歩 古賀 喜太郎
佐賀全区 428,291      
  55,547 無属 大島 多蔵
  51,928 自由 江藤 夏雄
  45,255 進歩 中村 又一
  41,549 自由 田中 善内
  36,012 進歩 保利  茂
長崎全区 678,385      
  53,082 無属 久保 猛夫
  49,184 自由 本多 市郎
  38,536 進歩 北村 徳太郎
  33,570 自由 西村 久之
  30,749 社会 今村  等
  27,256 自由 小柳 冨太郎
  26,106 自由 本田 英作
  25,077 自由 栗原 大島太郎
熊本全区 806,199      
  66,925 無属 藤本 虎喜
  56,479 自由 坂田 道太
  55,906 進歩 吉田  安
  55,648 無属 橋本 二郎
  54,974 自由 上塚  司
  54,722 無属 山下 ツ子
  50,888 自由 渕田 長一郎
  46,104 社会 宮村 又八
  44,661 自由 小見山 七十五郎
  39,173 進歩 林田 正治
大分全区 590,204      
  69,213 無属 松原 一彦
  42,767 自由 塩月  学
  41,980 自由 村上  勇
  41,248 諸派 平野 八郎
  37,393 諸派 原尻  束
  37,176 進歩 八坂 善一郎
  36,579 進歩 金光 義邦
宮崎全区 450,860      
  84,944 無属 鹿島  (シ+秀)
  68,400 諸派 伊東 岩男
  43,578 無属 甲斐 政治
  31,993 諸派 大橋 喜美
  27,429 諸派 川野 芳満
  27,002 諸派 森 由己雄
鹿児島全区 753,503      
  86,127 自由 上林山 栄吉
  81,403 社会 冨吉 栄二
  80,433 無属 的場 金右衛門
  63,151 協同 山本 実彦
  59,780 協同 二階堂  進
  54,852 無属 井上 徳命
  53,327 進歩 井上 知治
  50,419 進歩 原  捨思
  46,296 諸派 宇田 国栄
  44,049 諸派 石原  登
  34,782 諸派 原  国




後継内閣と鳩山追放問題


 総選挙の結果は単独で過半数を制する政党がなく、第一党の自由党も3分の1の議席に足りないという有様であった。しかもまだ新憲法による新しい首相選定方式はできあがっておらず、かといって古い慣行も崩壊しているという過渡的な状態にあり、そこにさまざまな策謀の生まれる余地があった。次期首相の選定については、現首相が候補者を天皇に推挙するという形式が一般に容認されていたが、その現首相が自分で居据り工作をはじめたことから、政界は混乱におちいることとなった。すなわち総選挙後まず第一党となった自由党は、進歩・社会両党との連立による鳩山内閣の実現に向けて動き始めようとしたが、それより早く内閣側から、進歩党を軸とし諸派・無所属を合わせた新党をつくりこれを与党として幣原内閣の居据りをはかろうとする工作が、三土内相、楢橋書記官長らによって強引にすすめられていた。

 

「幣原内閣の与党工作は十二日夜、楢橋内閣書記官長の帰京から急速に進展した。楢橋氏は帰京の途、大阪で談話を発表し、与党をつくる用意のあることを声明した。これは工作開始前の重要な布告であった。……首相は憲法改正をあくまで現内閣の手でやりたい、それには、三土内相を進歩党の総裁とし、進歩党を与党として特別議会に臨む考へでいた。ところが一三日朝三土内相は首相を訪問し、この考へ方に反対、政党内閣でゆく場合、首相と総裁はあくまで同一人でなければならぬ、この際首相は断乎として政党の総裁となり政局を担当すべし、自分も十分協力するとの決意を述べ、さらに楢橋氏を交へて三人で鳩首協議した。そして第一の構想として、進歩党勢力を中心とする新党を樹立し、その総裁に幣原首相が就任する、新党の性格、政策の傾向は現実にありうるかどうかは別として『自由党の左、社会党の右』とする、そして各政党に呼びかけ『国民戦線』的な恰好をつけるなどといふ大綱の点で三者の意見は完全に一致を見、首相もこれでゆく気になった」(朝日、4・16)


  楢橋は、追放で町田総裁以下の首脳部を失なった進歩党に眼をつけ、すでに3月中旬から残った領袖の1人、犬養健との間に、幣原総裁実現のための工作を始めており、総選挙後には、最高幹部である斎藤隆夫の説得にかかっていた。そして4月17日には幣原・斎藤会談が実現し、ここで進歩党側も幣原の入党、総裁就任の線を基本的に諒承することとなった。そして翌翌19日の進歩党代議士会は幣原入党を承認した。

  しかし幣原内閣の居据り工作が順調に進んだというわけではなかった。世論は、例えば朝日新聞は「幣原内閣は退陣せよ」(4・16社説)、「即時総辞職すべし」 (4・18社説)と叫んだように、一斉に反発したし、自由・社会両党をはじめ、進歩党以外の諸政党も、居据り工作は総選挙の結果を無視する反民主的行動と非難した。その進歩党にしても、諸派・無所属を吸収するために解党して新党を結成するといった構想には反対であり、また幣原の処遇にしても、「党首就任は総辞職後」(犬養談、朝日、4・17)にしたいとの意向が強かった。こうした行き詰まり打開のため、幣原首相は進歩党入党が決まった段階で、鳩山自由、片山社会の両党首との会談を意図したが、両党は総辞職が会談の前提とした。

  さらに4月19日には、社会党の呼びかけに応じて、社会・自由・協同・共産の4党による「幣原内閣打倒共同委員会」が開かれ、4党代表は官邸に幣原首相を 訪問、即時退陣を要求したが、幣原は居据りの態度を 変えず、翌日の共同委員会では28日に倒閣国民大会を開くとの方針を決定した。この間閣内からも、自由党員である芦田厚相が19日辞表を提出してこの動きに呼応した。新党もできず、4党が倒閣に踏み切るという状況のもとでは、もはや内閣居据りはありえなくなった。4月22日午前進歩党斎藤総務会長らは幣原に総辞職を断行し然る後総裁に就任すべきであると要望、幣原内閣も同日夕、ついに総辞職した。翌23日午前、進歩党本部におもむいて正式に総裁に就任した幣原は、午後から鳩山、片山両党首と個別に会談し、とくに鳩山に対し「第一党たる自由党が中心になって次期政権の確立にあたるのが当然であり、また進歩党・ としても欣然自由党の組閣工作に援助を送る」(朝日、 4・24)旨明言した。鳩山はこれをうけて早速、自由・進歩・社会の3党連立内閣の組織に動き始め、ただちに河野一郎幹事長を片山哲社会党書記長のもとに送り、連立参加を要請した。

  しかし、これで政界の動きがスムースになったわけではなかった。というのは、幣原内閣が居据り工作を策した裏には、第1党総裁である鳩山一郎が追放され、従って自由党首班内閣は出来ないかもしれないという思惑があり、幣原内閣総辞職によってもこの思惑は消えなかったからであった。例えば4月18日の時点でこの問題は次のように報ぜられていた。

 

「選挙後の政局の帰趨がすこぶる微妙となり、殊に第一党たる自由党鳩山総裁に対し関心がよせられている折柄、政府側では鳩山総裁が反共連盟の声明その他により国際的な反感を呼んでいる旨を種々の機会に述べ、鳩山氏の首相就任が事実上困難なるが如 きことを仄めかしており、これが与党工作の進展に相当影響を及ぼしている。最近に至って更に鳩山氏にとって不利な事実が表面化して来た。それは鳩山氏が立候補資格申請書にその著書『世界の顔』を記載する事を落していたことで、これを最近の星条旗紙が伝えたことである」(朝日、4・18)。


 また、社会党が4月16日、幣原内閣の新党工作を 断乎排撃し政権担当の名乗りをあげる声明を出したが、ここにも鳩山問題がからんでいたといわれる。この声明は「名目的なる多数党は自由党であるが、同党が内外の負託に副ひ得ざることは極めて明白である」とし、「国家の再建が勤労階を基礎としてのみ可能であり、中外の信任が期せずしてわが党に集まるの現実を思ふ時、わが党こそが、この難局を担当すべき唯一の適格者なることを確信する」(朝日、4・17)と述べたものであったが、この声明を決定するにあたっては、同日の常任中央執行委員会で松岡駒吉が「鳩山自由党総裁の反共声明が国外に与へた渦紋について外人と接触して得た情報、これに関連して次期政権は鳩山氏に行かぬだらうとの諸情報を提供、従って自由党との連携は考慮の余地なし、と主張した」(朝日、4・18)ことが大きく影響していたといわれる。

  さらに社会党は、前述した幣原・片山会談が聞かれ た23日の夜、常任中央執行委員会で「一、次期政権はわが党を首班とする内閣たるべきこと、一、それが 不可能の場合には在野党たるべきこと」との決定を行い、二四日には片山書記長から河野幹事長に対し「社会党としては自由党中心内閣に協力できない」と通告した。社会党がこのような態度に出られたのは、自由党との連携を主張する筈の西尾末広らが、鳩山問題のためにその主張を強く出せなかった、つまり「この日の委員会でも鳩山氏の資格問題は未だ見透しがつかず、万一自由党と与みした揚句、鳩山氏が総理たり得なかったときは、社会党は天下の笑ひ物とならう点に、西尾氏らの主張が弱さを持っていた」(朝日、4、25)ことがI因になっているとみられた。

  鳩山問題は、『世界の顔』の記載もれは、釈明書の提出でケリがついたとも伝えられたが(朝日、4・19)、同時に「鳩山氏の抵触事項は立候補資格申請書に 『世界の顔』を落した手続問題のほかに同氏のこれまでの言動が、極端な国家主義・軍国主義者を追放するG項の分に該当しないか、にも問題があり、それには議会での言動、京大事件、反共宣言等があげられ」(朝日、4・27)ている、つまり、GHQでは鳩山の政治活動全体を再検討していることを示唆する報道もあらわれていた。鳩山の資格が問題化したのは一群の外人ジャーナリスト達が鳩山を糾弾してからであった。首謀者の1人マーク・ゲインは4月6日の日記に次のよう に記している。

 

「夕刻、プレス・クラブで豪華な番組が行われた──四大政党の領袖との晩餐会である。……」の晩餐会の直前、私は政治的審査会を組織した。被告は鳩山だった。新聞社の特派員は政治に介入すべきではないかもしれない。が、私はこれは如何なる観点からも正当な仕事だと考えた。一アメリカ人としての私は、日本が有数の戦争犯罪人──次の総理に予定せられているだけに甚だ危険性のある男──の手から逃れるのに力を貸したかったのだ。と同時に新聞記者としての私は、第1面をかざるニュースを期待していた。

  1週間ほど前、ヒットラーとムッソリーニ訪問の旅を終えて帰国した鳩山が1938年に書いた本(『世界の顔』)の翻訳を総司令部のある将校たちが私にくれた。その本の内容は、民主日本の次の総理の唇からかつて出たものとしては甚だふさわしからぬものを盛っていた。その将校たちは、この本を根拠に鳩山を追放しようと試みた、ところがこれは失敗におわった。そこで彼等はこの翻訳を私にパスしてよこした。晩餐会がはじまる前、私はこの本を12に引裂いて、関心をもつ、中国や英国や米国の特派員たちに各々各部分をうけおわせた、……。  

  が、我々の武器はその著書だけではなかった。更にいろいろな資料が提供されはじめるに及んで、鳩山はも早、狩人たちとかけくらべするだけの思考の迅さを失ってしまい、すっかり怖えきった一老人と化した」(マーク・ゲイン、井本威夫訳「ニッポン日記」上巻、141〜4頁)  


  『世界の顔』は鳩山が37年に外遊した際に、同行 した新聞記者山浦貫一が代筆したものであるが、それは鳩山の経歴をとりあげるために集められた材料の一つであり、反共連盟提唱を鳩山の保守反動性のあらわれとみたGHQの一部将校が鳩山追放に動き出したことを意味するものであった。のちの5月3日付けの鳩 山追放の指令では、総選挙後にGHQは、鳩山の公職適格性の再審査を期待する旨日本政府に通告したが、何等の措置もとられなかったので、GHQ自らその適格性を審議したと述べている。  

  ともあれ、社会党は、こうした不透明な鳩山問題を 背景として、自由党の連携工作を拒否したが、しかし、社会党首班内閣を実現させる手がかりを持っていたわけではなかった。そこで自社両党とも、幣原内閣打倒のための四党共同委員会で後継内閣問題も討議すべきだという社会党左派や協同党の要求にのることになり、 4月25日午後、共同委員会が聞かれた。委員会では首班問題、政策問題が討議され、社会党の水谷長三郎が憲法問題をとりあげて共産党を除く3党は大体政府原案に賛成していると云えば、共産党の徳田球一が憲法より食糧危機の方が現下の重大問題だと応ずる一幕 も演じられた。4党共同委員会は翌26日も聞かれたが、討議は小委員会に移されることとなり、同日午後5時から三木武吉(自)、河野密(社)、井川忠雄(協) 徳田球一(共)による小委員会が開催され、「後継内閣首班をまず決定すべきであるといふことに4党意見の一致をみ、討議を進め社会・共産の両党は実質的に政策を実施する党が首班たるべしと主張し、これに対し自由・協同の両党は憲政の常道から第一党たる自由 党より首班を出すべしとして対立、結局小委員会もまとまらず決裂した」(朝日、4、27)  

  4党共同委員会は、各党の立場のちがいを確認しただけにとどまり、社会党も27日、23日の「首班か野党か」という決定を再確認して自由党に連立工作拒絶を正式に通告したが、この際片山書記長は「自由党がもしも単独内閣を組織する場合には、社会党としては政策協定などの折衝を経たうへで、善意の是々非々主義を以て議会に臨み、自由党を院の内外から支援する」(朝日、4・28)と言明しており、同党内に自社提携を政局収拾の主軸にしようとする右派が大きな勢力を持っていることを示した。自由党側もこの片山言明に示された自社政策協定のうえに立つ単独内閣の方向でゆくことになり、5月2日、自由党より河野一郎、 星島二郎、三木武吉、社会党より西尾末広、平野力三、 水谷長三郎、河野密らが出席して政策協定委員会が開催された。委員会では当面の危機突破に限る政策協定を行うという原則を立て、憲法については政府原案を土台に審議を行う旨の口約が交されたのち、食糧問題、インフレ対策、失業対策の3問題が討議されたが、結局食糧問題について、(一)超党派的食糧協議会の設置、(二) 農地問題に関し耕作権確立の徹底、(三)肥料国営の原 則による硫安月産10万トンの達成、(四)強権的供出の廃止と割当の合理化、(五)配給制度の民主化、(六)隠匿物資の摘発など国内食糧の総動員、(七)超党派的協力による輸入の促進などの協定が成立したにすぎなかった。 しかしともかく部分的にもせよ自社協定が成立したことから、幣原首相は5月3日、鳩山総裁を次期首相として天皇に推挙する決意を固め、その前提として総司令部の諒解を求める手続をとったが、これに対する回答は鳩山追放の指令であった。

  5月4日午前9時45分、総司令部は鳩山一郎が追放令のG項に該当すると指示したが、その理由として、1927年成立の田中内閣書記官長時代にまでさかのぼり、治安維持法の緊急勅令による改悪、斎藤内閣文相時代の滝川事件の責任をとりあげたほか、「鳩山は反軍国主義を装っていた」が「彼の言動は首尾一貫して日本の侵略行為を支持していた」と指摘していた。鳩山追放にはさまざまな問題が考えられるが、ともかくこれによって、後継内閣問題は振出しにもどった形となった。



吉田内閣の成立

 鳩山が追放されると、社会党は翌5月5日「昏迷せる政局はわが党が担当すべき段階に到達した。……勤労大衆を基盤とせるわが党を主軸とし、自由、協同、 共産の3党をはじめ、議会内外の凡ゆる民主主義的勢力を糾合して強固なる救国政権を樹立せんとするものである」(朝日、5・6)との声明を発し、社会党首班の連立内閣構想を打ち出した。後継首班推挙の役割を 握っていた幣原もこれに賛成して片山を激励、後継内閣問題の主導権を握った社会党は、早速さきの4党共 同委員会のメンバーとの交渉にはいった。このうち協同党は積極的協力を約したが、自由党は政策協定を協力の前提とし、共産党は「社会党、共産党、労農団体、文化団体を中心とする民主戦線を基礎とする内閣」であることを要求した。  

  自社両党の政策協定委員会は、前述の鳩山追放前の場合とは立場を逆にして5月7日午後2時から聞かれたが、この間午後5時共産党代表は社会党本部を訪れ 「社会党が自由党と連繋すれば保守陣営の毒殺にかかる結果となるから社共連立の基礎の上に他党との連繋 を考慮するのでなければならない」(朝日、5・8)と申し入れたが、これに対して自由党は翌8日の自社政策協定委員会において社会党と共産党の関係を明確にすることを要求、社共連立の場合はもち論、共産党が 閣外協力の場合にも入閣を拒否する態度を明らかにした。これにより社会党は、自由・共産のいずれか一党と握手し他を排除する以外に連立内閣を組織する可能性はなくなったが、党内に左右両派が対立している状況のもとでは、そのいずれにも踏み切ることができず、 9日の常任執行委員会では、社会党単独内閣を組織するとの方針を打ち出し、片山書記長より幣原首相にその手続をとるよう申し入れた。しかし幣原は、これに対して政局の安定を考えねばならぬと答えて、この申 し入れを、事実上拒否した。第3党にすぎない社会党の単独組閣論が何の迫力を持たないのは当然であった。  

  自由・社会両党の組閣工作の失敗によって、局面打開の主導権は再び幣原首相の手に握られ、幣原は社共中軸の民主戦線内閣に対抗し、自由・進歩・協同の保守3党に社会党を引き込んだ形の、共産党を除く4党 連立内閣樹立の方向に動くものとみられた。そしてその場合、首班は第1党の自由党が出すこととされ、幣原内閣の居据り失敗以来鳴りをひそめていた進歩党も、 この自由党首班で保守中軸の連立構想に積極的に動きはじめた。そしてこの間、日本協同党が諸派・無所属 と合して、代議士30名前後の勢力をもつ協同民主党 に膨脹したことも、こうした方向をおしすすめるのに有利に備くとみられた。協同民主党は5月8日山本実彦を座長として結成準備会を開き、「我等は社会正義に立脚して勤労、自主、相愛を基調とする協同主義経済体制の確立を期する」(朝日、5・9)との綱領を採択、日本協同党、農本党、日向民主党が主唱者となり、大同クラブ、教育議員クラブ等中立無所属団体からの参加者を合して勢力を倍増させたのであった。  
  しかしこの連立構想をすすめるためには、首班に予定されている自由党総裁を早く決定することが必要であった。鳩山追放後の自由党は、総裁後継問題で混乱 していた。元来「鳩山派」を核としたこの党では、鳩山に代わりうる者は見当らず、創立にかかわった幹部 としては芦田均の名もあがったが、いち早く幣原内閣 に入閣してしまったことで党内の反感も強かった。そのほか古島一雄、松平恒雄などの名もあがったが、結局、GHQとの関係がよいということで、外相の吉田茂におちついていった。すでに5月12日の朝日新聞 は「自由党総裁については政府側と自由党側の密接な連絡のもとに吉田外相の就任はほゞ確実でこの点は政府側の筋書通りに道んでいる」(朝日、5・12)と報じているし、また吉田自身、幣原から総裁就任を強く求められたと回想している(吉田「回想十年」第1巻、137〜8頁)ことからみても、この人事が幣原の次期内閣構想にかなったものであったことは確かであろう。  

  結局吉田は5月14日夜、自由党に総裁就任を受諾する旨回答、自由党側はとりあえず吉田を総務会長に推し、大会を聞いて正式に総裁に推戴することとした。 吉田の自由党総裁就任が確実となるや、幣原は自進社協の4党首会談を呼びかけたが、社会党は出席を拒否、 結局、幣原、吉田、山本の3党首会談が5月15日、 首相官邸で聞かれた。しかしここで山本協同党委員長 は「社会党を加へた四党の連立政府を組織すべきであると主張し、社会党が連立参加に応じない以上協同党としても保守的色彩の濃厚な政府に加盟しえないといふ態度を明確にし、一足さきに退席」(朝日、5・16)、 会談は実質的に幣原・吉田会談となり、次期内閣は自由・進歩の保守連立による吉田内閣となることが明らかとなった。そして翌16日午後2時すぎ、幣原の奏請によって組閣の大命が吉田に下されている。  

  吉田は早速組閣にかかったが、その組閣ぶりがあまりに政党側を無視しているといった苦情が出たりして、 組閣は遅々としてすすまなかった。とくに当面の食糧危機を乗り切るために、農林大臣に学者を起用しよう としたことが組閣を紛糾させる大きな原因となった。 吉田は次のように回想している。   

 

 「最も手間どったのは農林大臣を決めるときだった。 農林大臣については、終戦内閣の農林大臣だった農政界の元老石黒忠篤君に相談した。石黒君は最初は東京帝国大学教授の東畑精一君を椎してきた。終戦後の再興は先ず農村からいうことと、農業立国を考えていた私は、この農林大臣の選考は、党の推挙してきた数人の中からという一つの型を打破って、私の独自の構想で進めることにしたので、東畑君入閣の交渉も払白身がやった、すったもんだの末に断られた。その次に元東大教授の那須浩君ということであったが、これは総司令部のアグレマンを貰えない。   

  そんなことで、いささか面倒くさくなったとでもいうか、投げ出してしまおうかといった心境になったが、石黒君も気の毒がってまあまあという。そして農林省農政局長だった和田博雄君を推した。党内に多少の問題もあったが、陛下も大変ご心配になっていらっしやるという切羽詰った状態に追いやられ、農林大臣は和田君ということで押切った、当時新進の和田君の起用は、異例の人事だといって騒がれた」 (「回想十年」第1巻、140頁)。  


 教授グループの起用については、東畑教授が大内兵衛東大教授の国務大臣兼経済安定本部総務長官への就任を条件としたとも伝えられ、大内教授やさらには有沢広巳東大教授らの名前も取沙汰されたが、このとき はこれらの教授の入閣は実現せず、経済安定本部がま だ設立されていなかったこともあって、同本部総務長官は空席のまま内閣は発足した。しかしその後、本格的人選にあたっても再び教授グループの起用がはかられ、有沢教授の出馬を要請、同教授は高橋正雄九大教授を協力者として起用することを前提としたが、高橋教授はこれを拒否しこの話も成立しなかった。結局こ の地位には財界から膳桂之助が起用され、安定本部は8月12日に発足している。なお教授といえば、文相に就任した田中耕太郎は45年10月、当時の前田多門文相に懇望されて東大教授から文部省学校教育局長に就任したという経歴の持主であった。  

  東畑教授についで農相候補とされた那須教授はGHQから大臣に不適格とされたのであったが、初めから法相留任の予定であった岩田宙造も同様に不適格ということになり急に検事総長の木村篤太郎が起用される こととなった。また内相には内務官僚出身者をあてる こととし、貴族院議員となっている松村義一(勅選、 公正)が予定されていたが、松村は主権在民の憲法草案に絶対反対であるとして入閣を拒絶、代わって藤沼庄平、松本学らが候補とされたが、結局大村清一次官の昇格ということに落ち着いた。  

  つぎに政党出身閣僚をみると、自由党からは吉田首相が外相と第1・第2復員相を兼任(但し両復員省は6月15日統合・縮小されて復員庁となる)、蔵相に石橋湛山、商工相に見島二郎、運輸相に平塚常次郎、無任所の国務大臣に植原悦二郎と5名が入閣、ほかに林譲治が内閣書記官長に就任した。しかしこのうち石橋は自由党といっても、さきの4月総選挙ではじめて立候補して落選しており、むしろ東洋経済新報社を主宰してきた経済評論家としての活動に注目した起用といえよう。これに対して進歩党からは、厚生相に河合良成、無任所国務相に幣原喜重郎、斎藤隆夫、一松定吉の3名、計4名が入閣した。このうち一松は逓信院総裁を 兼任、7月1日同院の逓信省昇格と同時に逓信大臣に就任している。また憲法問題担当の国務大臣として金森徳次郎が6月19日に任命された。 吉田内閣の親任式が行われたのは5月22日、4月22日に幣原内閣が総辞職して以来、ちようど1カ月 にわたる政治的混乱がつづいたのであった。



第九〇回議会の召集

 第90回議会は、5月7日公布の召集詔書により、臨時議会として5月16日に召集された。召集詔書公布当時は、前述したようにまだ社会党首班工作の行われていたさなかであり、召集期日の決定は、すでに総辞職して新内閣成立までの事務処理にあたっていた幣原内閣によって行われたものである。すでに総辞職した内閣によってこのような決定が行われることは極めて異例のことであったが、幣原内閣は大日本帝国憲法第45条の「解散ノ日ヨリ五箇月以内ニ之ヲ召集スヘシ」 という特別議会に関する規定に従って、前年12月18日の解散から数えて5ヵ月の期限にあたる5月16日を議会召集日とすることとしたのであった。しかし、特別議会は通常議会同様、召集日の40日前に召集詔書を公布するという慣例に従うことが不可能(40日前ではまだ総選挙が行われていない)であったため、臨時議会召集の手続きに従ったものであった。

  会期は召集詔書で40日とされたが、開院式は新内閣成立をまって挙行する(そこから会期がはじまる)こととし、一時は6月10日開会とも伝えられたが、予算案・法律案などの準備に手間どり、結局6月4日の閣議で6月20日開会と決定された。召集から開会まで1カ月以上を要したのもはじめてであったが、会期も7月29日で終了する予定が次の4回にわたって延 長され、通計114日に及んだのも異例であり、実質的に新憲法下の国会に移行しつつあることを意味して いた。 

  第1回 7月30日― 8月28日 30日間
  第2回 8月29日― 9月27日 30日間
  第3回 9月28日― 10月7日 10日間
  第4回 10月8日― 10月11日 4日間

 この議会における国務大臣、政府委員、議長・副議長、全院委員長、常任委員長、議員の会派別所属は次の通りであった。

国務大臣 内閣総理大臣 吉田  茂
  外務大臣(兼任) 吉田  茂
  内務大臣 大村 清一
  大蔵大臣 石橋 湛山
  司法大臣 木村 篤太郎
  文部大臣 田中 耕太郎
  厚生大臣 河合 良成
  農林大臣 和田 博雄
  商工大臣 星島 二郎
  運輸大臣 平塚 常次郎
  逓信大臣(7・1設置) 一松 定吉
  国務大臣 幣原 喜重郎
  国務大臣 斎藤 隆夫
  国務大臣 植原 悦二郎
  国務大臣(6・19任命) 金森 徳次郎
  国務大臣(8・12任命) 膳 桂之助
     
政府委員(6・20発令) 内閣書記官長 林  譲治
  内閣副書記官長 周東 英雄
  法制局長官 入江 俊郎
  法制局次長 佐藤 達夫
  法制局事務官 井手 成三
  宮内  乾
  今枝 常男
  内閣事務官 橋井  真
  久山 秀雄
  戦災復興院総裁 阿部 美樹志
  戦災復興院次長 重田 忠保
  内閣事務官 財津 吉文
  大橋 武夫
  塩原  有
  逓信院次長 新谷 寅三郎
  逓信事務官 鈴木 恭一
  小池 行政
  篠原  登
  岡井 弥三郎
  林  一郎
  復員事務官 上月 良夫
  前田  稔
  遠藤 武勝
  荒尾 興功
  山本 丑之助
  山本 善雄
  外務政務次官 益谷 秀次
  外務参与官 シオ月  学  
  外務事務官 岡崎 勝男
  萩原  徹
  奥村 勝蔵
  山中 徳二
  終戦連絡中央事務局次長 白洲 次郎
  外務事務官 井口 貞夫
  木村 四郎七
  内務政務次官 大野 伴睦
  内務参与官 桂  作蔵
  内務事務官 郡  祐一
  谷川  昇
  岩沢 忠恭 
  池田 清志
  大蔵政務次官 上塚  司
  大蔵参与官 柴田 兵一郎
  大蔵事務官 福田 赳夫
  野田 卯一
  池田 勇人
  櫛田 光男
  江沢 省三
  加藤 八郎
  長沼 弘毅
  渡辺  武
  専売局長官 杉山 昌作
  司法政務次官 古島 義英
  司法参与官 中村 又一
  司法事務官 佐藤 藤佐
  奥野 健一
  加嶋 五郎
  石田 富平
  文部政務次官 長野 長広
  文部参与官 花村 四郎
  文部事務官 日高 第四郎
  佐藤 得二
  清水 勤二
  柴沼  直
  有光 次郎
  伊藤 日出登
  厚生政務次官 服部 岩吉
  厚生参与官 佐藤 久雄
  厚生事務官 勝又  稔
  葛西 嘉資
  吉武 恵市
  吉田 忠一
  上山  顕
  木村 忠二郎
  医療局長官 塩田 広重
  引揚援護院長官 斎藤 惣一
  引揚援護院次長 伊藤 謹二
  厚生技官 阿部 敏雄
  農林政務次官 大石 倫治
  農林参与官 鈴木 強平
  農林事務官 石川 準吉
  山添 利作
  農林技官 中尾  勇
  農林事務官 三堀 参郎
  佐野 憲次
  坂田 英一
  蓮池 公咲
  笹山 茂
  食糧管理局長官 片柳 真吉
  農林事務官 遠藤 三郎
  商工政務次官 小林  リ
  商工参与官 小柴 歌治
  商工事務官 吉田 悌二郎
  鈴木 重郎
  松田 太郎
  池田 欽三郎
  古池 信三
  三木 秋義
  石炭庁長官 安川 第五郎
  石炭庁次長 岡松 成太郎
  商工事務官 岡村  武
  長谷川 輝彦
  運輸政務次官 松田 正一
  運輸参与官 辻  寛一
  運輸事務官 秋山  龍
  佐藤 栄作
  郷野 基秀
  加賀山 之雄
  伊能 繁次郎
  有田 喜一
  長井 実行
  大久保 武雄
  満尾 君亮
  運輸技官 小西 桂太郎
  岡田 信次
  西村 英一
  多賀 祐重
  大瀬  進
  後藤 憲一
     
政府委員追加(会期中発令) 内閣事務官 中田 政美
  内務政務次官 世耕 弘一
  大蔵事務官 河野 一之
  阪田 泰二
  窪谷 直光
  正示 啓次郎
  農林次官 楠見 義男
  農林事務官 安孫子 藤吉
  内務事務官 青木 秀夫
  大蔵事務官 愛知 揆一
  内務事務官 鈴木 俊一
  逓信政務次官 中川 重春
  逓信参与官 山村 新治郎
  逓信事務官 小池 行政
  渡辺 音二郎
  篠原  登
  岡井 弥三郎
  林  一郎
  逓信技官 綱島  毅
  文部事務官 辻田  力
  外務事務官 大野 勝己
  大蔵事務官 今井 一男
  特許標準局長官 久保 敬二郎
  大蔵事務官 石原 周夫
  復員事務官 森田 俊介
  農林事務官 難波 理平
  厚生事務官 富樫 総一
  加藤 清一
  司法事務官 岡田 善一
  内務事務官 田中 楢一
  大蔵事務官 前尾 繁三郎
  内閣事務官 三橋 則雄
  農林事務官 平川  守
  長谷川 清
  内務事務官 高村 坂彦
  萩田  保
  大蔵事務官 河野 通一
  酒井 俊彦
  運輸次官 平山  孝
  逓信事務官 大野 勝三
  小笠原 光寿
  物価庁次長 工藤 昭四郎
  貿易庁長官 塚田 公太
  大蔵事務官 森永 貞一郎
  商工事務官 玉置 敬三
  小出 栄一 
  松尾 金蔵
  大蔵事務官 東条 猛猪
  大蔵事務官 三井 武夫
  外務事務官 朝海 浩一郎
  下田 武三
  内閣事務官 椙杜 正太郎
  島本  融
  大蔵事務官 伊原  隆
  内閣事務官 伊藤  佐
  石炭庁長官 菅 礼之助
  北海道庁長官 増田 甲子七
  内閣事務官 平田 敬一郎
  橋本 龍伍
  大蔵事務官 渡辺 喜久造
  商工事務官 和田 太郎
     
〔貴族院〕    
     
議長   徳川 家正(公爵・火曜会)
副議長   徳川 宗敬(伯爵・研究会)
     
全院委員長   中御門 経恭(侯爵・火曜会)
     
常任委員長 資格審査委員長 秋元 春朝(子爵・研究会)
予算委員長   林 博太郎(伯爵・研究会)
懲罰委員長   高木 喜寛(男爵・公正会)
請願委員長   高木 正得(子爵・研究会)
決算委員長   周布 兼道(男爵・公正会)
     
会派別所属議員氏名    
     
開院式当日各会派所属議員数 研究会 125名
  公正会 58名
  火曜会 32名
  交友倶楽部 24名
  無所属倶楽部 24名
  同成会 23名
  同和会 20名
  各派に属さない議員 28名
  334名
  なお、この議会で皇族議員が姿を消しているのは、5月23日の皇族の
特権廃止の指令にもとづくものである。また貴族院においても多くの議
員が公職追放で姿を消し、代わって憲法審議のため、佐々木惣一、中
田薫、牧野英一、野村淳治、南原繁、宮沢俊義、我妻栄などの法律学
者や、山本勇造(有三)、武者小路実篤、賀川豊彦らの文化人が勅選議
員として補充されている。
研究会 林 博太郎
  徳川 宗敬
  副島 道正
  大木 喜福
  黒田  清
  柳沢 保承
  二荒 芳徳
  後藤 一蔵
  橋本 実斐
  久松 定武
  前田 利男
  東久世 通忠
  南部 利英
  奥平 昌恭
  入江 為常
  稲垣 長賢
  今城 定政
  西大路 吉光
  西尾 忠方
  錦小路 頼孝
  北条 (隹+凹)八
  保科 正昭
  本多 忠晃
  伊集院 兼高
  戸沢 正己
  富小路 隆直
  大河内 輝耕
  加藤 泰通
  冷泉 為勇
  梅園 篤彦
  植村 家治
  柳沢 光治
  松平 親義
  松平 乗統
  綾小路 護
  秋田 重季
  秋月 種英
  秋元 春朝
  安藤 信昭
  実吉 純郎
  清岡 長言
  京極 高修
  京極 高鋭
  北小路 三郎
  由利 正通
  水野 勝邦
  三島 通陽
  仙石 久英
  織田 信恒
  高橋 是賢
  高木 正得
  大久保 教尚
  藤井 兼誼
  斎藤  斉
  稲葉 正凱
  海渓 通虎
  土屋 尹直
  土井 利章
  岩下 家一
  黒田 長敬
  森  俊成
  細川 興治
  内藤 政光
  交野 政邁
  永井 直邦
  松平 銑之助
  田中  薫
  六角 英通
  青木 重夫
  榊原 政春
  市来 乙彦
  今井 五介
  西野  元
  長  世吉
  大橋 八郎
  太田 政弘
  田口 弼一
  山川 端夫
  松村 真一郎
  松本  学
  藤沼 庄平
  勝田 主計
  白根 竹介
  平塚 広義
  勅子 李 喜鎔
  片岡 直方
  種田 虎雄
  副島 千八
  村上 義一
  野田 俊作
  松井 春生
  松尾 国松
  三土 忠造
  板谷 順助
  松嶋 鹿夫
  膳 桂之助
  徳田 ミ平
  安田 伊左衛門
  寺田 甚吉
  三重 伊藤 伝七
  鹿児島 岩元 達一
  北海道 板谷 宮吉
  新潟 飯塚 知信
  長崎 橋本 辰二郎
  東京 小野 耕一
  徳島 奥村 嘉蔵
  岐阜 渡辺 甚吉
  島根 田部 長右衛門
  兵庫 滝川 儀作
  松岡 潤吉
  大阪 中山 太一
  石川 中島 徳太郎
  栃木 上野 松次郎
  鹿児島 上野 喜佐衛門
  高知 野村 茂久馬
  滋賀 野田 六左衛門
  熊本 山隈  康
  古荘 健次郎
  山口 秋田 三一
  千葉 斎藤 万寿雄
  愛媛 佐々木 長治
  青森 佐々木 嘉太郎
  茨城 結城 安次
  千葉 菅沢 重雄
  静岡 長島 銀蔵
     
公正会 岩村 一木
  伊藤 一郎
  伊藤 文吉
  稲田 昌植
  今園 国貞
  伊江 朝助
  飯田 精太郎
  西  酉乙
  坊城 俊賢
  小畑 大太郎
  奥田 剛郎
  渡辺 修二
  加藤 成之
  高崎 弓彦
  高木 喜寛
  鶴殿 家勝
  中御門 経民
  村田 保定
  久保田 敬一
  倉富  釣
  山根 健男
  八代 五郎造
  松岡 均平
  松田 正之
  松平 外与麿
  益田 太郎 
  近藤 滋弥
  明石 元長
  北大路 信明
  北島 貴孝
  肝付 兼英
  宮原  旭
  水谷川 忠麿
  三須 精一
  島津 忠彦
  毛利 元良
  周布 兼道
  杉渓 由言
  古市 六三
  本多 政樹
  佐竹 義履
  小原 謙太郎
  多久 龍三郎
  白根 松介
  岡  俊二
  斯波 正夫
  田中 龍夫
  林  忠一
  中村 貫之
  松平 斉光
  前島 勘一郎
  内海 勝二
  徳川  誠
  長  基連
  内田 敏雄
  園田 武彦
  園  伊能
  紀  俊忠
     
火曜会 岩倉 具栄
  伊藤 博精
  二条 弼基
  徳川 家正
  徳川 慶光
  桂 広太郎
  鷹司 信輔
  九条 道秀
  島津 忠承
  三条 実春
  池田 宣政
  細川 護立
  東郷  彪
  徳川 頼貞
  大炊御門 経輝
  大隈 信常
  大久保 利謙
  伊達 宗彰
  築波 藤麿
  鍋島 直泰
  中山 輔親
  中御門 経恭
  黒田 長礼
  松平 康昌
  前田 利建
  小村 捷治
  浅野 長武
  西郷 吉之助
  嵯峨 実勝
  佐竹 義栄
  四条 隆徳
  広幡 忠隆
     
交友倶楽部 久我 通顕
  勅男 山本 達雄
  犬塚 勝太郎
  川村 竹治
  中村 純九郎
  古島 一雄
  馬場 恒吾
  飯沼 一省
  小山 完吾
  古垣 鉄郎
  板倉 卓造
  福岡 出光 佐三
  和歌山 吉村 友之進
  宮崎 竹下 豊次
  埼玉 永瀬 寅吉
  岡山 山上 岩二
  大分 麻生 益良
  広島 水野 甚次郎
  群馬 渋沢 金蔵
  愛知 下出 民義
  福島 諸橋 久太郎
  京都 奥 主一郎
  香川 合田 健吉
  福岡 岩見 蘭始
     
無所属倶楽部 李家 軫鎬
  黒田 英雄
  松本 烝治
  小山 松吉
  大木  操
  佐々木 惣一
  南原  繁
  中田  薫
  牧野 英一
  野村 淳治
  中村 藤兵衛
  乾  政彦
  塩田 広重
  山本 勇造
  田中 耕太郎
  宮沢 俊義
  我妻  栄
  霜山 精一
  荒川 文六
  田中 館愛橘
  長岡 半太郎
  山田 三良
  姉崎 正治
  新潟 長谷川 赳夫
     
同成会 入江 貫一
  河合 弥八
  青木 周三
  下城 康麿
  安倍 能成 
  原口 初太郎
  羽田  亨
  原  泰一
  河合 良成
  前田 多門
  白沢 保美
  金森 徳次郎
  愛知 磯貝  浩
  山梨 河西 豊太郎
  長野 片倉 兼太郎
  福井 熊谷 三太郎
  長野 小坂 順造
  富山 佐藤 助九郎
  岡山 坂野 鉄次郎
  静岡 三橋 四郎次
  秋田 塩田 団平
  茨城 渡辺 覚造
  沖縄 当間 重民
     
同和会 勅男 若槻 礼次郎
  勅男 弊原 喜重郎
  岩田 宙造
  稲畑 勝太郎
  田所 美治
  中川  望
  村上 恭一
  出渕 勝次
  沢田 牛麿
  永井 松三
  高橋 竜太郎
  田島 正雄
  坂田 幹太
  作間 耕逸
  木内 四郎
  岸本 彦衛
  井川 忠雄
  広島 松本 勝太郎
  大阪 佐々木 八十八
  山形 三浦 新七
     
会派に属さない議員 勅伯 野田 (金+章)憲
  朴 忠重陽
  韓 相龍
  伊東 致昊
  金田  明
  緑野 竹二郎
  林 献堂
  許  丙
  小林 次郎
  吉田  茂
  瀬古 保次
  長谷川 万次郎
  賀川 豊彦
  三宅 正太郎
  武者小路 実篤
  山崎 延吉
  小汀 利得
  中根 貞彦
  入江 俊郎
  中島 徳松
  栃木 嘉郎
  大村 清一
  高柳 賢三
  大谷 正男
  山地 土佐太郎
  大野 良蔵
  竹中 藤右衛門
  栗栖 赳夫

 なお、この議会の会期中、次のような所属の異動が行われた。
 
いずれも会派に属さなかった勅選議員から→研究会へ、栃木嘉郎、山地土佐太郎、大野良蔵、高柳賢三、→同成会へ、大谷正男、山崎延吉、瀬古保次、小汀利得、→同和会へ、竹中藤右衛門、中島徳松、栗栖赳夫、→交友倶楽部へ、長谷川万次郎、公正会→会派に属さない議員へ、園田武彦(男)

  また、この議会の会期中に辞職、資格消滅、死去等により議場より姿を消したもの、勅任、補欠選挙当選などにより新任されたものは次の通りであった。なお、資格消滅には追放令該当と指定されたものと、貴族院令の改正(7月4日公布)で朝鮮・台湾から選出の勅選議員に関する規定が削除されたことによるものとがある。

  辞職 西野元(勅・研究)、大橋八郎(勅・研究)、松本烝治(勅・無倶)、前田多門(勅・同成)、中根貞彦(勅・純無)、入江貫一(勅・同成)、原口初太郎(勅・ 同成)、田口弼一(勅・研究)、山川端夫(勅・研究)、由利正通(子・研究)、野村淳治(勅・無倶)、藤沼庄平(勅・研究)、松井春生(勅・研究)、三宅正太郎(勅・純無)、武者小路実篤(勅・純無)、小坂順造(多・長 野・同成)、岩田宙造(勅・同和)

  資格消滅 朴忠重陽(勅・純無)、韓相龍(勅・純無)、伊東致昊(勅・純無)、金田明(勅、純無)、野田鐘憲(勅・純無)、李埼鎔(勅・研究)、緑野竹二郎(勅・純無)、林獻堂(勅・純無)、許丙(勅・純無)、勝田主計(勅・研究)、当間重民(勅・同成)

  死去 今井五介(勅・研究)、冷泉為勇(子・研究)、小畑大太郎(男・公正)

  新任 江口文雄(多・佐賀・研究)、桑木厳翼(勅・同成)、林春雄(勅・同和)、木下謙次郎(勅・交友)、名取和作(勅・交友)、野村嘉六(勅・同成)、呉文炳(勅・交友)、岩淵辰雄(勅・交友)、有馬忠三郎(勅・同和)、正田貞一郎(勅・研究)、大野木秀次郎(多・京都・交友)、田島道治(勅・同成)、浅井清(勅・交友)、畠山一清(勅・研究)、中山寿彦(勅・同成)、慶松勝左衛門(勅・交友)、赤木正雄(勅・同成)、諸橋襄(勅・同和)、寺尾博(勅・同成)、井上篤太郎(勅・交友)、石川一郎(勅・研究)、原田譲二(勅・交友)、重宗雄三(勅・父友)、名古屋三吉(多・埼玉・交友)、吉田久(勅・交友)、鹿島精一(勅・同和)、川上嘉市(勅・同成)、河端作兵衛(勅・交友)、町村敬貴(勅・同成)、藍沢弥八(勅・研究)、戸口米次郎(多・奈良・交友)、渡辺三郎(勅・交友)、太田半六(勅・研究)、渡部信(勅・同和)、佐藤惣之助(多・宮城・同成)、橋本万右衛門(多 ・福島・同和)、高木八尺(勅・純無)、萱野長知(勅・交友)、瀬川弥右衛門(多・岩手・同和)、鏑木忠正(多・東京・研究)、松尾嘉右ヱ門(多・神奈川・同成)、杉山茂(多・押奈川・交友)、深田武雄(多・鳥取・研究)、伊藤豊次(多・北海道・同和)、丹羽彪吉(勅・交友)、金子武麿(伯・研究)、宗武志(伯・研究)、壬生基修(伯・研究)、清閑寺良貞(伯・研究)、滝脇宏光(子・研究)、七条光明(子・研究)、日野西資忠(子・研究)、植松雅俊(子・研究)、牧野忠永(子・研究)、井上勝英(子・研究)、三宅直胖(子・研究)、京極高光(子・研究)、松本本松(男・公正)、平山洋三郎(男・公正)、沖貞男(男・公正)、尚琳(男・公正)、坂本大造(男・公正)、中村徹雄(男・公正)、松本鼎一(男・公正)、朽木網博(子・研究)、伊東祐淳(子・研究)、三浦矢一(子・研究)、鳥居忠博(子・研究)、山名義鶴(男・公正)

  この結果、この議会閉会時の会派別所属議員数は次のように変化している。

  研究会 142名
  公正会 64名
  火曜会 32名
  交友倶楽部 43名
  同成会 33名
  同和会 29名
  無所属倶楽部 22名
  各派に属さない議員 7名
  372名
     
〔衆議院〕    
     
議長   樋貝 詮三(自由・山梨)
    8・23より山崎  猛(自由・茨城)
副議長   木村 小左衛門(進歩・島根)
 

 なお、議長選挙では、三木武吉(自由・香川)が最高得票を得た
が、追放令該当と指定されることが予想されるようになったため、
就任を辞退、第2位の樋貝が任命された。しかし樋貝は、憲法案
審議における不手際を追及され、不信任案は否決された(8月22日)
が、結局辞任し、改めて議長選挙を行なって山崎が任命されている。

     
全院委員長   大久保 留次郎(自由・東京)
     
常任委員長 予算委員長 矢野 圧太郎(自由・香川)
決算委員長   菅又  薫(進歩・栃木)
請願委員長   小笠原 八十美(自由・青森)
懲罰委員長   本田 英作(自由・長崎)
建議委員長   日比野 民平(進歩・岐阜)
     
党派別所属議員氏名    
     
 召集日各会派所属議員数 日本自由党 142名
  日本進歩党 97名
  日本社会党 95名
  日本民主党準備会 38名
  協同民主倶楽部 33名
  新光倶楽部 29名
  無所属倶楽部 25名
  日本共産党 5名
  欠員 2名
  466名
     
日本自由党 東京 竹内 茂代
  中島 守利
  鈴木 仙八
  島村 一郎
  大久保 留次郎
  花村 四郎
  栗山 長次郎
  京都 芦田  均
  冨田 ふさ
  中野 武雄
  大阪 有田 二郎
  松永 仏骨
  佐藤 義詮
  本多 花子
  神奈川 河野 一郎
  小此木 歌治
  山本 正一
  岩本 信行
  三浦 寅之助
  磯崎 貞序
  兵庫 川西  清
  森崎 了三
  細田 忠治郎
  田中 源三郎
  小島 徹三
  長崎 本多 市郎
  西村 久之
  小柳 冨太郎
  本多 英作
  栗原 大島太郎
  新潟 北  ヤ吉
  小沢 国治
  亘  四郎
  塚田 十一郎
  板倉 治作
  埼玉 荒舩 清十郎
  平岡 良蔵
  高橋 泰雄
  山本 勝市
  三ツ林 幸三
  井田 友平
  古島 義英
  加藤 睦之介
  群馬 小峯 柳多
  千葉 山村 新治郎
  横田 清蔵
  片岡 伊三郎
  水田 三喜男
  斉藤 行蔵
  木島 義夫
  茨城 河原田 巌
  杉田 馨子
  葉梨 新五郎
  山崎  猛
  栃木 山口 好一
  杉田 一郎
  奈良 北浦 圭太郎
  三重 石原 円吉
  愛知 辻  寛一
  深津 玉一郎
  江崎 真澄
  青木 孝義
  静岡 森田 豊寿
  鈴木 平一郎
  大塚 甚之助
  廿日出 厖
  神田  博
  加藤 一雄
  佐藤 乕次郎
  小池 政恩
  山梨 樋貝 詮三
  滋賀 森 幸太郎
  服部 岩吉
  花月 純誠
  岐阜 水口 周平
  稲葉 道意
  大野 伴睦
  田中 実司
  木村 公平
  長野 植原 悦二郎
  田中 重弥
  宮城 大石 倫治
  庄司 一郎
  内海 安吉
  福島 円谷 光衛
  中野 寅吉
  大内 一郎
  加藤 宗平
  岩手 松川 昌蔵
  八重樫 利康
  小沢 佐重喜
  菊池 長右エ門
  青森 小笠原 八十美
  夏堀 源三郎
  山形 松浦 東介
  小野  孝
  牧野 寛索
  秋田 大井 直之助
  福井 今井 はつ
  石川 益谷 秀次
  竹田 儀一
  殿田 孝次
  富山 綿貫 佐民
  鳥取 稲田 直道
  島根 飯国 壮三郎
  岡山 星島 二郎
  滝沢 脩作
  井上 卓一
  広島 武田 キヨ
  渡辺 忠雄
  原  侑
  山口 坂本  実
  木村 義雄
  厚東 常吉
  田辺  譲
  和歌山 山口 喜久一郎
  世耕 弘一
  小野 真次
  香川 松浦  薫
  三木 武吉
  矢野 庄太郎
  愛媛 高橋 英吉
  薬師神 岩太郎
  高知 林  譲治
  寺尾  豊
  福岡 山田 善三
  石井 光次郎
  大分 塩月  学
  村上  勇
  佐賀 江藤 夏雄
  田中 善内
  熊本 坂田 道太
  上塚  司
  渕田 長一郎
  小見山 七十五郎
  鹿児島 上林山 栄吉
  北海道 苫米地 英俊
  平塚 常次郎
  小川原 政信
  坂東 幸太郎
  伊藤 郷一
  武田 信之助
  東京 林  連
  京都 小川 半次
  大阪 細川 八十八
  一松 定吉
  寺田 栄吉
  田中 万逸
  兵庫 佃  良一
  原 健三郎
  斎藤 隆夫
  八木 佐太治
  小池 新太郎
  堀川 恭平
  小笹 耕作
  長崎 北村 徳太郎
  新潟 村島 喜代
  白井 秀吉
  舟崎 由之
  荊木 一久
  吉沢 仁太郎
  埼玉 関根 久蔵
  宮前  進
  群馬 最上 英子
  飯島 祐之
  鈴木 強平
  山田 悟六
  滝沢 浜吉
  千葉 成島  勇
  青木 泰助
  茨城 武藤 常助
  加藤 高蔵
  鈴木 明良
  宮原 庄助
  小野瀬 忠兵衛
  栃木 江部 順治
  山口 光一郎
  大島 定吉
  菅又  薫
  奈良 仲川 房次郎
  三重 長井  源
  九鬼 紋十郎
  川崎 秀二
  松田 正一
  愛知 白木 一平
  神戸  真
  早稲田 柳右エ門
  小林  リ
  岡本 実太郎
  山梨 天野  久
  岐阜 平野 増吉
  日比野 民平
  長野 降旗 徳弥
  宮沢 才吉
  宮城 本間 俊一
  福島 荒木 武行
  太田 秋之助
  山下 春江
  村井 八郎
  鈴木 周次郎
  星  一
  岩手 菅原 エン
  柴田 兵一郎
  青森 山崎 岩男
  津島 文治
  苫米地 義三
  山形 大久保 伝蔵
  秋田 中川 重春
  福井 薩摩 雄次
  富山 橘 直治
  佐藤 久雄
  鳥取 佐伯 忠義
  島根 木村 小左衛門
  原 夫次郎
  岡山 犬養  健
  逢沢  寛
  広島 田中  貢
  和歌山 斎藤 てい
  愛媛 桂  作蔵
  馬越  晃
  関谷 勝利
  稲本 早苗
  高知 長野 長広
  福岡 森山 ヨネ
  古賀 喜太郎
  長尾 達生
  松岡  運
  岡部 得三
  大分 八坂 善一郎
  金光 義邦
  佐賀 中村 又一
  保利  茂
  熊本 吉田  安
  林田 正治
  鹿児島 井上 知治
  原  捨思
  北海道 椎熊 三郎
  地崎 宇三郎
  本名  武
  東京 山口 静江
  浅沼 稲次郎
  原 彪之助
  加藤 シズエ
  中村 高一
  河野  密
  鈴木 茂三郎
  松岡 駒吉
  荒畑 勝三
  山花 秀雄
  京都 水谷 長三郎
  竹内 克巳
  辻井 民之助
  大阪 西尾 末広
  大矢 省三
  井上 良次
  叶  凸
  西村 栄一
  神奈川 片山  哲
  松尾 トシ
  土井 直作
  金井 芳次
  兵庫 永江 一夫
  松沢 兼人
  米窪 満亮
  山下 栄二
  長崎 今村  等
  新潟 玉井 潤次
  井伊 誠一
  稲村 順三
  清沢 俊英
  埼玉 松永 義雄
  川島 金次
  群馬 町田 三郎
  武藤 運十郎
  千葉 吉川 兼光
  茨城 細田 綱吉
  栃木 金子 益太郎
  高瀬  伝
  三重 沢田 ひさ
  愛知 加藤 勘十
  山崎 常吉
  赤松  勇
  静岡 山崎 道子
  長谷川  保
  渋谷 昇次
  山梨 平野 力三
  松沢  一
  滋賀 矢尾 喜三郎
  堤  隆
  岐阜 加藤 鐐造
  長野 棚橋 小虎
  野溝  勝
  林  虎雄
  宮城 菊地 養之輔
  福島 鈴木 義男
  榊原 千代
  岩手 石川 金次郎
  及川  規
  青森 大沢 喜代一
  山形 海野 三朗
  秋田 島田 晋作
  田中 健吉
  細野 三千雄
  福井 奥村 又十郎
  石川 米山  久
  島根 中崎  敏
  松本 淳造
  岡山 黒田 寿男
  中原 健次
  広島 森戸 辰男
  前田 栄之助
  高津 正道
  山口 田村 定一
  香川 田万 広文
  平野 市太郎
  愛媛 林田 哲雄
  安平 鹿一
  高知 氏原 一郎
  佐竹 晴記
  福岡 稲富 稜人
  田中 松月
  杉本 勝次
  上田 清次郎
  田原 春次
  伊藤 卯四郎
  森本 義夫
  松本 七郎
  熊本 宮村 又八
  鹿児島 冨吉 栄二
  北海道 新妻 イト
  岡田 春夫
  正木  清
  永井 勝次郎
  森 三樹二
     
日本民主党準備会 京都 田中 伊三次
  木村 チヨ
  大阪 原 藤右門
  小西 寅松
  喜多 楢治郎
  神奈川 吉田 セイ
  兵庫 中川 たま
  新潟 野村 ミス
  千葉 寺嶋 隆太郎
  竹内 歌子
  茨城 中山 栄一
  奈良 東井 三代次
  滝清 麻吉
  三重 伊藤 幸太郎
  田中 久雄
  愛知 酒井 俊雄
  大谷 瑩潤
  静岡 坪井 亀蔵
  増井 慶太郎
  山梨 笠井 重治
  宮城 丹野  実
  安倍 俊吾
  青森 笹森 順造
  山形 米山 文子
  図司 安正
  秋田 鈴木 弥五郎
  福井 坪川 信三
  石川 五坪 茂雄
  鳥取 赤沢 正道
  田中 たつ
  広島 松本 滝蔵
  徳島 三木 武夫
  秋田 大助
  柏原 義則
  岡田 勢一
  愛媛 布  利秋
  福岡 石崎 千松
  北海道 有馬 英二
     
協同民主党 兵庫 木下  栄
  栃木 船田 享二
  奈良 駒井 藤平
  愛知 越原 はる
  静岡 竹山 祐太郎
  滋賀 今井  耕
  長野 米倉 龍也
  福島 林  平馬
  富山 麻生 正蔵
  稲田 健治
  広島 平川 篤雄
  大宮 伍三郎
  大原 博夫
  大分 平野 八郎
  原尻  束
  宮崎 鹿島  透
  伊東 岩男
  大橋 喜美
  川野 芳満
  森 由己雄
  鹿児島 山本 実彦
  二階堂 進
  井上 徳命
  宇田 国栄
  石原  登
  原  国
  北海道 北 勝太郎
  東  隆
  北  政清
  香川 兼吉
  飯田 義茂
  太田 鉄太郎
  松本 六太郎
     
新光倶楽部 東京 石田 一松
  松谷 天光光
  神奈川 鈴木 憲一
  長崎 久保 猛夫
  群馬 野本 品吉
  千葉 藤田  栄
  茨城 大津 桂一
  岐阜 伊藤 恭一
  武藤 嘉一
  長野 安藤 はつ
  池上 隆祐
  小坂 善太郎
  井出 一太郎
  小川 一平
  宮城 井上 東治郎
  秋田 丸山 修一郎
  富山 中田 栄太郎
  島根 井上  赳
  岡山 西山 冨佐太
  山口 久芳 庄二郎
  仲子  隆
  疋田 敏男
  細迫 兼光
  和歌山 早川  崇
  池村 平太郎
  香川 豊沢 豊雄
  大分 松原 一彦
  佐賀 大島 多蔵
  宮崎 甲斐 政治
     
無所属倶楽部 京都 大石 ヨシエ
  大阪 三木 キヨ子
  埼玉 磯田 正則
  千葉 森  暁
  茨城 菊池  豊
  栃木 戸叶 里子
  三重 尾崎 行雄
  愛知 中野 四郎
  穂積 七郎
  河野 金昇
  宮城 竹谷 源太郎
  安部 俊吉
  山形 石黒 武重
  山木 武夫
  秋田 和崎 ハル
  石川 江川 為信
  岡山 近藤 鶴代
  若林 義孝
  広島 伊藤 実雄
  徳島 紅露 みつ
  福岡 中島 茂喜
  熊本 藤本 虎喜
  橋本 二郎
  山下 ツ子
  鹿児島 的場 金右衛門
     
日本共産党 東京 野坂 参三
  徳田 球一
  大阪 志賀 義雄
  長野 高倉  輝
  北海道 柄沢 とし子

 この議会の召集以後、追放令に関連して、薩摩雄次(進歩・福井)、三木武吉(自由・香川)、河野一郎(自由、神奈川)、田中貢(進歩・広島)、渡辺忠雄(自由・広島)、稲富稜人(社会・福岡)、甲斐政治(新光・宮崎)、河野密(社会・東京)が辞職、須永好(社会・群馬)が 死去、代わって青水漬左ヱ門(進歩・福井)、林興一郎(協同・広島)、藤井正男(協同・広島)、福田繁芳(無所属・香川)、古賀太郎(無倶・福岡)、中西伊之肋(共産・神奈川)、川越博(協同・宮崎)、出花秀雄(社会・東京)、生方丈吉(進歩・群馬)が繰り上げ当選となり、また再選挙では、常森芳夫(社会・福井、6月1日施行)、広川弘禅(自由・東京2区、6月24日施行)が当選した。

  この議会での党派の変動をみると、まづ5月25日協同民主倶楽部は協同民主党と改称、また7月19日には無所属倶楽部の一部、新光倶楽部及び日本民主党準備会の一部は合同して左記議員40名をもって新政会を結成した。

安藤 はつ 井出 一太郎 井上  赳 伊藤 恭一
伊藤 幸太郎 池上 隆祐 池村 平太郎 石田 一松
小川 一平 大島 多蔵 大津 柱一 久保 猛夫
久芳 庄二郎 小坂 善太郎 鈴木 憲一 豊沢 豊雄
中田 栄太郎 仲子  隆 野本 品吉 早川  崇
疋田 敏男 松原 一彦 丸山 修一郎 笹森 順造
岡田 勢一 石崎 千松 増井 慶太郎 鈴木 弥五郎
秋田 大助 赤沢 正道 五坪 茂雄 田中 たつ
米山 文子 吉田 セイ 野村 ミス 大谷 瑩潤
山下 ツ子 木村 チヨ 磯田 正則 穂積 七郎

なお7月19日日本民主党準備会の残部は解散した(23日届出)。ついで9月26日には、新光倶楽部の主力を軸にして左記議員33名が集って院内に国民党を結成した(院外同25日結成)。

安藤 はつ 井出 一太郎 井上  赳 伊藤 恭一
伊藤 幸太郎 池上 隆祐 石崎 千松 磯田 正則
石田 一松 小川 一平 大島 多蔵 大津 桂一
岡田 勢一 久保 猛夫 久芳 庄二郎 笹森 順造
鈴木 憲一 鈴木 弥五郎 田中 たつ 豊沢 豊雄
中田 栄太郎 仲子  隆 野村 ミス 野本 品吉
早川  崇 疋田 敏男 穂積 七郎 増井 慶太郎
松原 一彦 丸山 修一郎 山下 ツ子 吉田 セイ
米山 文子      

このほかにも渦渡的な会派も生まれ、またそれらの問の議員の所属の異動も多いが、こゝでは省略し、閉会時の党派別所属議員数だけを掲げる。所属異動については衆議院・参議院編「議会制度七十年史・政党会派篇」、676〜680頁を参照されたい。

日本自由党 148名
日本進歩党 110名
日本社会党 96名
共同民主党 45名
国 民 党 33名
無所属倶楽部 23名
日本共産党 6名
無 所 属 5名
466名




日本国憲法の成立

 この議会の焦点は何といっても新憲法案の審議であった。すでに述べたように、幣原内閣はマッカーサー司令部にリードされながら、3月6日の「憲法改正草案要綱」の発表にこぎつけたのであったが、さらにひきつづき要綱の法文化をすすめ、総選挙1週間後の4月17日、「日本国憲法」と題する憲法案を公表した。 この間政府内部では憲法蜜議の手続きについて、特別の憲法議会の召集、国民投票の実施などといった案も考慮されたが、結局早期成立を期するため、従来の改正手続きによることとなり、発表と同時に枢密院に諮詢された。この憲法案はこれまでの片かな文語体という法令の表現形式を破って、平がな口語体で書かれており、法令口語化の画期をなすものとなった。  
  憲法案は概して好評であったが、総司令部民政局は、「要綱」では天皇の国事行為に対する内閣の「輔弼賛同」としていたのを、「捕佐と同意」に修正したことに反対してきた。民政局の言い分は、補佐とは下位の者が上位の者を助ける意昧であり、同意とは同等者間の関係を指している、従って「補佐と同意」では、政治的には内閣が上位であり、天皇が下位に立つという点が明らかにならない、というのであった。結局この点は「助言と承認」に再修正されることとなった。

  枢密院は6月8日の本会議で憲法案を可決したが、この問、日本の憲法問題は極東委員会でも大きな関心をもって討議されており、4月10日にはマッカーサー司令部に対し、憲法問題につき協議するため幹部職員をワシントンに派遣することを求める決議も行われた。しかしマッカーサーはこの要求を拒否し、極東委員会と対立状態となり、委員会側は結局7月2日「日本の新患法についての基本原則」を全会一致で採択し、マッカーサーに指令として送付した。これは前述のSWNCC―228号文書と殆んど同じ内容のものであるが、主権在民の明確化、国務大臣の文民規定など憲法案の修正に若干の影響を与えた。

  新憲法案は6月20日衆議院に提出され、25日の本会議に上程、以後28日まで4日間にわたり本会議において質疑応答が行われたうえで、72人の大型委員会が設置され、審査を付記された。委員会の党派別構成は、自由党22名、進歩党15名、社会党15名、 協同民主党7名、新光倶楽部5名、無所属倶楽部5名、日本民主党準備会2名、共産党1名であり、自由党の芦田均が委員長となった。

  本会議・委員会を通じて大きく論議されたのは、国体・主権・天皇をめぐる問題、戦争放棄、基本的人権などの問題であったが、全体を通じて表現の翻訳調や、政府の発表した英訳との不一致などが指摘された。政府側の答弁では、この憲法によっても国体は変わらな いという点を強調したこと、戦争放棄について自衛権の放棄を含むかのような強い解釈をとったことなどが目立った特徴であった。第1の国体問題では、政府側は天皇信仰が国民の間に広汎に残存している状態のもとで「国体が変った」というのは、社会的影響が大きすぎると判断し、「国体」の語から政治的性格を抜きとったうえで、国体は変わらないと強弁しようとしたのであった。すなわち、「政府は主権の所在については、もしも『主権』の語をもって国家意思の源泉と解するならば主権は国民にあり、その国民には天皇も含まれる、と答え、また、国体の問題については、従来、天皇が統治権の総攬者であることをもってわが国体と考えられていたが、これはむしろ政体の問題と見るべ きである。真の意味の国体とは、国家の根本特色であり、それが失われれば国の同一性がなくなるようなものをさすと考える。かくして、真の意味における日本の国体は天皇をあこがれの中心として国民が結合し、もって国を構成していることにあり、今回の改正によって、この意味の国体にはなんらの変更も生じない、という趣旨で答弁した」(「憲法制定の経過」、484頁)のであった。

  また戦争放棄については、野坂参三(共産)が不正な侵略戦争と正しい防衛戦争とを区別し、戦争一般の放棄ではなしに、侵略戦争の放棄と規定すべきではないか、とただしたのに対して、吉田首相は、「戦争放棄ニ関スル憲法草案ノ条項ニ於キマシテ、国家正当防衛権ニ依ル戦争ハ正当ナリトセラル、ヤウデアルガ、私ハ斯クノ如キコトヲ認ムルコトガ有害デアルト思フノデアリマス(拍手)、近年ノ戦争ハ多クハ国家防衛権ノ名ニ於テ行ハレタルコトハ顕著ナル事実デアリマス、故ニ正当防衛権ヲ認ムルコトガ偶々戦争ヲ誘発スル所以デアルト思フノデアリマス」(「速記録八号」)と答弁 していた。

  衆議院特別委員会は7月1日から審議にはいり、7月23日質疑を終了、以後小委員会を設けて修正案作成をすゝめ、8月21日修正案を可決。8月24日の本会議に上程している。この間、総司令部側からも種々の修正要求がもち込まれており、それらも日本側の自主的修正という形式で処理されていった。主な修正点は次のようなものであった。  

  (1) 主権在民を明確にするため、前文の「国民の総意が至高なものであることを宣言し」を「主権が国民に存することを宣言し」と改め、また第1条の「日本国民の至高の総意」を「主権の存する日本国民の総意」 と改めた。この点は総司令部からの強い要求にもとずくものであったが、それは前述の極東委員会決定の「基本原則」の要請を満すことを意図したものとみられた。

  (2) 天皇に関する規定中、「政治」を「国政」に、天皇の「権能」や「国務」に関する行為などの表現を「国事に関する行為」と修正した。この点も総司令部側の意向にもとずくものであった。

  (3) 戦争の「放棄」を「放棄」とし、戦力不保持の規定の前に「前項の目的を達するため」という一句を加えた。これは芦田委員長の提案によるものであり、戦力不保持に条件をつけて、自衛権は放棄していないという解釈を可能にすることをねらったものであった。

  (4) 国民の権利・義務に関しては、国民の要件(10条)、公務員の不法行為に対する賠償(17条)、納税の義務(30条)、刑事補償(40条)の4箇条を新設し、勤労の権利に加えて、勤労の義務の規定を入れるなど、だいたい各派の一致による修正であった。

  (5) 総理大臣の指名をたんに「国会の議決で」とだけ規定していたのに対して、さらに「国会議員の中から」という限定を加えた。また国務大臣の任命に「国会の承認」を必要とするとしていた規定を削除し、代わりに国務大臣の過半数は国会議員でなければならないこととした。

  (6) 原案では「世襲財産以外の皇室の財産は、すべて国に属する、皇室財産から生ずる収益は、すべて国庫の収入」とすると規定されていたが、世襲財産を認めながら、その収益まで国庫に帰属させるのは皇室に対してあまりに酷だとする批判が強く、小委員会は、すべて収益の国庫への帰属の部分を削除しようとした。 しかしこれに対しては総司令部側が反対し、この部分を削除するのならば世襲財産を分離せず「すべて皇室財産は、国に属する」とすべきだと主張、結局この案に従った修正案を決定した。ところが樋貝衆議院議長らはこの修正は皇室に対しはなはだ忍びがたいとして、吉田首相に再修正を申し入れるという一幕もあった。 これに対して委員会側は、委員会審議権の侵害であると強く反発し、前述したような、議長不信任案の提出、議長の辞任という事態にまで発展したのであった。

  (7) 原案では華族の地位は、現に華族である者の生存中に限ってこれを認める、との経過規定が設けられていたが、この限定は各派の一致した意見によって削除された。

  これらの修正を含めて憲法案は8月24日の本会議で可決されたが、党派として本案に反対の態度をとったのは共産党のみであり、同党を代表した野坂参三は、「天皇ヲ規定スル第一章ハ、古キ天皇制ヲ新シイ形ニ於テ残サントスルモノデアリマス、是ハ明カニ反民主的規定デアル」とし、また「当憲法第二章ハ、我ガ国ノ自衛権ヲ放棄シテ民族ノ独立ヲ危クスル危険ガアル」、「財産権を擁護シテ、勤労人民ノ権利ヲ徹底的ニ保障シナイ憲法デアル」(「速記録第三五号」)などの点をあげてこの憲法に反対したのであった。票決は記名投票で行われ、賛成421票、反対8票であったが、反対票を投じたのは、共産党の6議員に穂積七郎、細迫兼光を加えた8名であった。

  憲法案は衆議院通過後ただちに貴族院に送付され、8月26日から30日にわたる本会議での質疑ののち、45名よりなる特別委員会に付託(委員長安倍能成)、10月3日委員会の審議を終えて修正案を議決、10月5、6日の本会議に上程した。貴族院での修正は、(一)前文の字句を修正したこと、(二)「公務員の選挙については、成年者による普通選挙を保障する」との規定を加えたこと(第15条)、(三)法律案の議決について両院協議会の規定を追加したこと(第59条)、(四)「内閣総理大臣その他の国務大臣は文民でなければならない」との規定を追加したこと(第66条)の4点であったが、このうち(一)、(三)は貴族院の発意にもとずくもの、(二)、(四)は総司令部側の要求にもとずくものであった。総司令部側からは、9月24日になってホイットニー民政局長が吉田首相を訪れてこの修正を申し入れており、(二)の点は問題なく日本側もうけいれたが、(四)については、衆議院段階でも出された要求であり、この際には総司令部側が引き下ったという経緯もあって交渉は難航した。

  この「総理大臣及び国務大臣はシビリアンでなければならない」との要求は極東委員会からのものであり、総司令部側もこの修正に乗り気ではなかった。従って衆議院段階では、シビリアン条項は第9条で戦争放棄・戦力不保持を規定していることからいって不合理であるとの日本政府の説明を諒承したのであった。しか し総司令部側は、貴族院段階になって改めて、この修正は英ソ両国が極東委員会に提案したものであり、これを拒否すれば故意に「シビリアン」を避けているとの誤解をうけるおそれがあると申し入れてきたのであった。貴族院側も結局この要求をうけいれることとなり、シビリアンにあたる日本語として「文民」という新しいことばをつくり出していった。

  貴族院本会議で、新患法案反対の立場を明らかにしたのは、佐々木惣一(勅・無倶)と沢田牛麿(勅・同和)の両議員であり、佐々木は、議院内閣制を確立したからといって天皇の統治権総攬者としての地位を廃止する必要はないとし、この憲法案によりわが国の政治的基本性格が変更されることに反対した。また沢田はこの憲法案は国民の慣習感情などに合わないし、憲法改正は、完全な独立国になってからなさるべきだと主張した。貴族院での憲法案の議決は10月6日の本会議で行われたが、起立多数の方法によったため、反対者の氏名は明らかでない。

  貴族院修正案はただちに衆議院に送付され、翌10月7日の本会議で討論なしで直ちに採決、可決成立した。同案は議会での修正を確認するため再び枢密院に諮詢され、10月29日可決されて法的手続を完了、11月3日公布された。施行は憲法そのもので(第100条)公布の6ヵ月後と規定されており、これによって47(昭和22)年5月3日の施行も決定されたことになった。

  この間、日本の憲法問題に大きな関心を払ってきた極東委員会は10月17日になって、「日本の新憲法の再検討に関する規定」と題する政策決定を行った。その要点は「新憲法が効力を発生した後において、日本国民がその運用の経験にかんがみてそれを再考究する機会を持ちうるために、そして、極東委員会が憲法はポツダム宣言およびその他の管理文書の条項を充足することに満足することができるために、委員会は、憲法が施行せられてから1年より早くなく2年より遅くない期間内に、新憲法に関する事情が国会によって再検討せられなければならないということを、政策事項として決定する。極東委員会の権限の継続をなんどきにても害することなく、極東委員会もまた同一期間内に憲法を再検討するであろう。極東委員会は、日本憲法が日本国民の自由意思の表現であるか否かを決定するにあたって、憲法に関する日本の意向を確認するためにレフェレンダムまたはその他適当な手続きを要求することができる」 (「憲法制定の経過」、590頁)というものであり、極東委員会では、新憲法案の議会通過によって「日本国民の自由に表明した意思」が表明されたといえるかどうかという疑問が持たれていることを示していた。しかしマッカーサーはこのような措置をとることに乗り気でなく、また憲法の再検討を日本に強要するような行動をとるべきでないと考えていた。そして日本政府も、この点に関して何ら積極的な行動をとらないままで終わった。しかし新憲法は極東委員会が危惧したよりもはるかにスムースに、日本国民にうけいれられていったといってよいのではあるまいか。



その他の重要法案

 この議会では、政府提出法案55件、衆議院提出1件、計56件の法律案が成立しているが、そのなかで憲法につぐ重要法案としては、いわゆる第2次農地改革法として一括される自作農創設維持特別措置法案・農地調整法改正案をあげることができる。すでに第89回議会で第1次農地改革法案が審議されているさなかの45年12月9日、総司令部は4項目にわたる農地制度改革計画を46年3月15日までに提出することを命じたが(「第八九回議会解説」参照)。それは日本側が自主的に作成した農地改革案に強い不満が持たれていることを意味していた。3月15日の期限に日本政府から第1次改革案を骨子とした回答がもたらされるや、総司令部は農林当局との間に第2次改革に関する協議を開始し、またマッカーサーはこの問題を対日理事会に付託して、農地改革に関する国際的論議をうけながした。この間、3月に予定されていた市町村農地委員の選挙は無期延期され、第1次農地改革法は主要な部分が実施されないままに、第2次改革法の登場に よって消滅することになるのであった。

  対日理事会では、5月29日の第5回理事会でソ連代表デレヴイヤンコ中将が第1次改革法を批判してソ連試案を提出、ついで6月12日の第6回理事会では 英連邦代表マクマホン・ボールがイギリス案を発表するなど、活発な論議が展開された。総司令部は結局このイギリス案を骨子として、6月下旬、第2次農地改革に関する「勧告」を行い、ここから第2次改革が具体化することとなった。総司令部側がこの案を「指令」とせずに「勧告」としたのは、こうした重要な社会的改革は日本の自主性という形式をとることが望ましいとしたからであったが、実際には日本側はこの「勧告」に若干の修正と調整を加えただけでそのまま法案化したのであった。

  第2次改革法案は第1次改革法とくらべると次のような特徴をもっていた。まず形式面でみると、前回の場合には農地調整法の改正だけで問題を処理しようとしたのに対して、今回は自作農創設には「自作農創設特別措置法」という特別の単行法を用意し、農地調整法には農地委員会の民主化、農地移動の統制強化などの改正を加えるというやり方がとられた。このことは、この時期にはすでに農地改革に原則的には反対しえないような社会的な雰囲気が生まれており、前回の場合のように反対論者の気勢の緩和をはかる必要がなくなったことを意味するものであった。

  法案の内容では(一)地主の保有面積を第1次案の全国平均5町歩から、内地平均1町歩、北海道4町歩と思い切って縮少した、(二)第1次案では小作人の農地の取得は地主との間の当事者間協議を原則とし、それが整わない場合に、農地委員会の裁定による強制譲渡の方法をとりうることとしたのに対して、今度は、国家が所有権移転を仲介する、つまり一定面積以上の小作地は国が機械的に買収して小作人に売り渡すこととしたのであり、この点は農地改革を徹底させるためのキー ・ポイントをなしていた。例えば旧案では、小作人が地主の圧力に屈して農地の買取を申し出ない場合には、折角の強制力も使いようがなくなるという欠点をもっていた。買収代金は一部現金で他は年利3分6厘30年以内の年賦支払の農地証券で支払われることとなった。(三)前項と関連して、市町村農地委員会が買収すべ き農地を決定するという新しい制度が立てられたことも第2次案の大きな特徴であった。つまり買収は、市町村農地委員会が作成し、都道府県農地委員会が承認した農地買収計画に従って、都道府県知事が買収令書を交付し、それによって政府が農地の所有権を取得する、という手続きで行われるわけであった。その他(四) 農地買収計画の作成権を握る市町村農地委員会の構成を、第1次案の地主・自作・小作各5から、地主3、 自作2、小作5と改めた、(五)第1次案よりも農地の移動統制・耕作権保護の規定を強化し、最高小作料の規定を新設したことなどが、第2次農地改革法案の特徴をなすものであった。この法案をめぐっては活発な討論がなされたが、結局両院を無修正で通過、10月21日公布され、これによって農地改革が現実に着手されることとなった。

  新憲法・農地改革という戦後社会を方向づける法案と同時に、当面の経済的混乱の収拾をめざす法案が並んでいることもこの議会の特徴であった。まず経済政策の基礎となる予算は、総選挙がおくれたため昭和21年度予算は成立せず、旧憲法下の前年度予算施行の原則が適用されることになったが、前年度の昭和20年度予算はまだ戦争の遂行を前提とした予算であり、この全く前提の異なる予算を基礎にしては、実行予算を組み追加予算でカバーしてゆくというやり方も困難であるとされた。そこで特別の処置として、昭和21年度に限っては改定予算を編成し今期議会に提出することができるとする「改定予算に関する法律案」を作成し、この法案と同時に予算案を提出するという措置がとられたのであった。昭和21年度改定予算は一般会計の歳出560億円、普通歳入305億円、差引歳 入不足255億円という変態予算であり、歳入の不足は今後の追加予算まで考えると300億円に達すると見込まれた。そしてこの不足分の補てんは、同じくこの議会に提出された財産税法案の成立を予定し、その収入をあてることとされていた。歳出の主な費目をみると民生安定費63億2400万円、経済再建費100億4400万円、教育文化費12億6300万円、同胞引湯費77億7200万円、終戦処理費190億円、国債費50億4800万円などであり、占領軍経費である終戦処理費が費目中のトップで歳出総額の3割をこえていることが注目された。石橋蔵相は、蔵出の約半分は本年度限りのものと述べているが、そうした終戦に伴う特殊の経費が多いことも事実であった。

  この予算を支える柱とされた財産税は、前内閣時代から、戦時利得の徴収という観点から論議され、種々の案がつくられてきたが、この議会に提案された構想は、個人に対する財産税と法人に対する戦時補償特別税によって、戦時利得を吸収するというものであった。すでに金融緊急措置令に関連して述べておいたように、3月3日現在の財産調査が行われており、この調査をもとにして10万円を免税点とし10〜11万円25%にはじまり、1500万円以上90%という高率の累進税を徴収しようとするものであった。税収は435億円と見込まれた。  

  財産税とこみで論ぜられることの多い戦時補償特別税は、今議会に提出された戦時補償特別措置法案にもとづくものであり、これは戦時補償をそのまま(一定の場合にある程度の控除は認める)100%特別税として徴収し、戦時補償打ち切りの実をあげようとしたものであった。そしてまず戦時補償打ち切りに伴ふ損失の処理のためこの法案より先に、緊急事件として(政府が委員に付記せず、読会の順序を省略して可決することを 求めた案件)、会社経理応急措置法、金融機関経理応急措置法を成立させた。これは事業の継続に必要な資産 と、戦時補償打ち切りで支払不能となる債権とを新旧勘定に区別することにより、事業を継続しながら、損失の処理をはかる体制をつくろうというわけであった。

  戦時補償打ち切りに関連してはなおこのほかに、企業再建整備法案、金融機関再建整備法案、大蔵省預金部損失特別処理法案、特別和議法案などが提出され、成立している。

  経済政策の積極面では、復興金融金庫法案が成立し、全額政府出資の特殊金融機関として設立されることになったが、実際の開業は翌47年1月であり、この議会開会中に設立(8・12)された経済安定本部と組んで、傾斜生産方式を展開するのは47年にはいってからであった。この議会での政府にとってはむしろ急激に盛りあがってくる労働運動への対応の方が当面の課題であった。

  すでに吉田内閣が組閣中であった5月19日、いわ ゆる食糧メーデーが行われるや、マッカーサーはこれに対して翌20日、「暴民デモを許さず」と声明、また29日の対日理事会でアメリカ代表アチソンは「少数分子の煽動を排す」と演説するなど、この頃からマッカーサー司令部が反共・秩序維持の方向に動きはじめてきたことは明らかであった。吉田内閣は占領軍のこのような動きに乗りながら、労働運動と対決する姿勢を強めようとし、まず、生産管理戦術を否認する方針を決定、6月13日には「社会秩序保持に関する声明」を発表した。この声明は「最近の大衆運動はややもすれば本来の目的を離れ、多数の不法な圧力によって、社会秩序を脅かす惧れのあることは、極めて遺憾である」とし、「生産管理なるものは、正当な争議行為と認め難い」「経営者側および労働者側の代表者で構成する経営協議会等を各企業に設け争議を必要としないやうな措置を予め整へておくことが望ましい」(朝日、 6・14)といった見解を明かにしたものであった。そしてこのような方針は、この議会では、労働関係調整法案の成立に力を注ぐという形で具体化されていた。

  この法律は、労働関係の調整、争議の予防、解決などを目的とするとされ、労働委員会による幹旋、調停、仲裁の手続、公益事業における争議の制限(調停申請後30日を経過しなければ争議に入れない)、警察・消防 ・監獄職員及び現業以外の行政又は司法事務に従事する公務員の争議行為の禁止などを規定していた。この法案は、労働運動の側からストライキ弾圧法と非難されたが、吉田内閣の原案には、調整委員会による強制措置や行政官庁による調停制度、学校教職員の争議行為禁止などが含まれており、それらはGHQ経済科学 局労働課長のコーエンや、労働関係班長コンスタンチーノらの反対で削除されたといわれる。この労調法案に対しては、社共のみでなく協同民主党も反対にまわったが、自進両党の賛成で衆議院を通過、貴族院でも原案通り可決、成立した。

  労調法案の審議のなかでは、新憲法との関係も討議 されたが、この議会に提出された法案中、新憲法との関係が最も強く論議されたのは、東京都制・市制・町村制・府県制など地方制案の改正案をめぐってであった。まずこの改正の要点をみると、(一)地方議会の議員の選挙権及び被選挙権を拡充し、年令要件を引き下げるとともに女子にもこれを認めること、(二)地方公共団体の長を住民の直接選挙とし、府県知事等の身分そのものは従来通り官吏とする、その他住民に対し一定の職員の罷免、議会の解散、条例、規則の制定及び監査委員の監査についての請求権を認めること、(三)選挙管理委員会及び監査委員を設けること、(四)地方議会の権限を拡充し、その地位を強化すること、(五)地方自治体に対する監督規定を整理すること、(六)北海道会法及び北海道地方費法を廃止し、府県制を道府県制に改めてこれに合体すること、(七)東京都の区の自治権を確立すること、などであった。

  これに対して、最も大きな問題となったのは、知事の身分をめぐってであり、衆議院では、新憲法の地方自治の精神からいっても、公選知事の身分は官吏ではなく、公吏とすべきであるとの議論が強く主張され、政府との問の紛糾がつづいた。政府も結局この点は妥協し「日本国憲法の施行までの間官吏とする」との修正をみとめた。このほか委員会では、知事の原案執行権を否定するなど地方議会の権限を拡充する、選挙管理委員会及び監査委員の独立を強化する、東京都の区長を公選とするなど区の自主性を強化するなどの修正が加えられ、委員会修正通り、本会議でも可決され、貴族院もそのまま9月20日に通過している。

  この改正法が公布されたのは9月27日であるが、政府はそれ以前の8月・9月に任期が満了する地方議会議員の選挙をも、この改正法にもとずいて実施することとした。そこで諸般の準備に要する期間をも考慮して、これらの議員の任期を10月31日まで延期することとし、道府県会議員等の任期延長に関する法律案を緊急事件として提案、両院を1日づつで通過させて8月26日に公布した。

  第90回議会は、10月11日、114日間という未曽有の長期にわたった会期を終えて閉会したが、この議会で新憲法が成立、半年後の施行が確定した以上、それまでに必要な制度改革を問に合わせねばならず、この議会の会期末の10月7日の臨時閣議では早くも、 11月下旬には次の臨時議会を会期約1ヵ月として開会し、憲法施行上必要な法律のうちとくに速かに判定したい皇室典範、皇室経済法、参議院議員選挙法、国会法、内閣法などを提出すること、などの方針が決定されていた。

(古屋哲夫)