『日本内閣史録』4

1981年8月

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第一二代

第一次西園寺内閣

(自 明治39年1月7日 至 明治41年7月14日)


 

―元老勢力の枠のなかで―


古屋哲夫


1 原敬の政権工作
2 組閣と元老勢力
3 戦後経営の方向
4 鉄道国有と加藤外相の辞職
5 満州開放問題と満鉄の創立
6 「帝国国防方針」と軍備拡張
7 明治四〇年度予算案と憲政本党の「旗幟変更」
8 原内相、山県系勢カヘ挑戦
9 社会主義取締りをめぐって

10 郡制廃止問題
11 第三次日韓協約
12 日仏協約と日露協約
13 明治四一年度予算案と蔵相・逓相の辞職
14 不信任案の否決と総選挙の勝利
15 倒閣の策謀と内閣総辞職
満鉄と満鉄付属地
主要参考文献・史料

内閣総理大臣 西園寺公望 文部大臣 西園寺公望(臨時兼任)
外務大臣 加藤 高明   牧野 伸顯(明39・3・27)
  西園寺公望(臨時兼任)(明39・3・3) 農商務大臣 松岡 康毅
  林   董(明39・5・19) 逓信大臣 山縣伊三郎
内務大臣 原   敬   原   敬(兼任)(明41・1・14)
大蔵大臣 阪谷 芳郎   堀田 正養(明41・3・25)
  松田 正久(明41・1・14)(兼任、明41・3・25まで) 内閣書記官長 石渡 敏一
陸軍大臣 寺内 正毅   南   弘(明41・1・4)
海軍大臣 齋藤 實 法制局長官 一木喜コ郎
司法大臣 松田 正久   岡野敬次郎(明39・1・13)
  千家 尊福(明41・3・25)    


1  原敬の政権工作

 第一次西園寺内閣が成立したのは、日露戦争終結の翌年、明治39年1月7日、議会が年末年始の休会中のことであったが、この桂から西園寺への政権の授受は、1年も前から、桂首相と政友会こ原敬との間で計画されていたものであった。

明治37年12月、当時まだ日露戦争のさなか、旅順をほぼ攻略し来春に満州平原での決戦が予定されていたころであるが、このころから第二〇議会の開会を前にして、桂内閣は政友会への接近の姿勢を示しはじめていた。そして12月8日には、桂首相と原敬との政権問題をめぐる最初の会談が行なわれている。桂はこの会談で、日露戦争を自分の責任で完遂する決意をのべて政友会の支持を求めたが、これに対して原敬は、政府側は政友会にどのような誠意を示すかと切り返し、桂から、戦後に総理の職を引く際には、政友会総裁の西園寺公望を後継者に推薦する決心であるとの言質を得たのであった。そして原敬も、桂がそういう決意なら、これまでの憲政本党との提携を破っ七も桂内閣を支持しようと約したのであった(原奎一郎編「原敬日記」第二巻昭和40年118ページ)。

桂とすれば、このときすでに戦争収拾の過程が困難なものとなることを予想し、その過程で強力な支持者を必要とすると考えていたであろうし、一方、原敬の方も、このひと月前の11月7日には、元老の1人井上馨から、戦費調達が行き詰り「なるべく早く平和克復を希望する」(「原敬日記」第二巻113ページ)との政府の内情を聞かされており、 桂内閣との提携が戦争終結過程を支援することを意味することは充分に理解していたことと思われる。したがって、奉天会戦(明38・3・10奉天占領)後、政府が講和実現の方向を模索しはじめるとともに、桂・原の政権授受をめぐる交渉も具体化していった。

  38年4月16日に行なわれた2回目の桂・原会談ではこれ以上の戦争の継続は何の利益もないが、しかし戦局収拾のための講和条件には、戦勝気分の強い国民の間からは反対の声があがるだろう、という点で両者め意見は一致した。そこで原が、その際桂側との特殊な関係が確立していなくては、政友会は国民の声に雷同しなくてはならなくなる、と切り込むと、桂は、講和条約を成立させたあと、戦後経営案について何かの反対条項をきめておき、その反対によって辞職し、西園寺を後継首相に奏薦するということではどうか、という案を出している。 これに対して原は、戦後経営案の前に講和条件に反対しなくてはならなくなるようでは面白くないと答えているが、ともかくも両者の交渉はこの時期から、政権授受の具体的な時期の問題に移っていたのであった。そして伊藤博文、山県有朋らの元老を納得させるやり方についても、両者の間で打ち合わせるまでになっている(「原敬日記」第二巻131・132ページ)。

  3回目の桂・原会談は、すでにポーツマス講和会議が開かれているさなかの8月14日に行なわれたが、ここで原は、政友会は「如何なる条約成立するも率先して賛成すべし」(「原敬日記」第二巻143ページ)と約し、さらに8月22日の会談では、12月の通常議会の前に桂が退陣するという申合わせができたのであった。原はこれに従って日比谷焼打事件以後、政友会内部をも動揺させた講和反対の動きを抑え切り、桂首相は、ロシアの在満利権引継ぎに関する日清協約調印の見通しがついた12月19日、西園寺政友会総裁と会談、21日閣僚の辞表をとりまとめて奉呈したが、天皇は小村外相の清国よりの帰朝を待ってこれを受理し、年があけた39年1月6日、元老への諮問もなく、組閣の大命を西園寺公望にくだしたのであった。すでに桂の手で元老への了解工作が行なわれていたのであり、西園寺の側も年末より組閣の準備を進めていた。第一次西園寺内閣は、大命降下の翌日、1月7日には親任式にこぎつけている。



2 組閣と元老勢力

この内閣は「拙速流に組成したる混合内閣」(「東京朝日新聞」39年1月8日)と評されたが、たしかに閣僚の顔触れをみても「混合」的色彩の強いものであった。首相の西園寺は政友会を創立した伊藤博文との関係から二代目総裁の地位にあるとはいえ、政党活動には熱心でなく、政党政治家というより開明的貴族として印象づけられている人物であった。そして総裁が首相の地位についたにもかかわらず、政友会からの入閣者は、内務大臣原敬、司法大臣松田正久の両名にすぎなかった。そのほかでは元老伊藤博文に近い外務大臣加藤高明が準政友系とみられただけだった。

  加藤はのちに桂と接近し同志会に入り、その後身の憲政会総裁として政友会と対立することとなるが、彼が最初に閣僚の地位を得だのは、まだ政友会総裁であった伊藤博文の第四次内閣においてであり、その後は東京日日新聞を買収して、桂内閣の戦時外交批判の論陣を張っていた。したがってこのときにはまだ加藤は、桂系の人びとから反感をもたれている存在であった。

  このほかの閣僚をみると、大蔵大臣に大蔵次官の阪谷芳郎、農商務大臣に行政裁判所長官の松岡康毅、逓信大臣に内務次官の山県伊三郎、海軍大臣に海軍次官の斎藤実、文部大臣にイタリア駐在公使の牧野伸顕が起用され、陸軍大臣は寺内正毅が留任している(なお、文部大臣は当初西園寺が兼任し、牧野の帰朝を待って3月27日に任命)。これらの新閣僚は、次官からの昇任が多いことにもみられるように、いずれもこれまでに大臣経験のない新人物であり、その意味では新鮮であったが、他面からみると元老や官僚勢力との関係を顧慮した人事であり、この内閣の性格を示すものともみられた。原敬はこれらの閣僚の選考事情について、つぎのように記している。

  「新閣僚中松岡康毅は貴族院の都合宜しからんとて桂の内話より起り、山県伊三郎は最初平田東助に交渉し同人辞するにより余の注意にて山県に決定せり、要するに山県元帥との関係なり、斎藤実は山本海相の推挙なり、 牧野伸顕は薩人1名入るゝ必要に起る。阪谷は不十分なるも一時可ならんと井上伯等の内話に基きたるなり」( 「原敬日記」第二巻164ページ)。

  文中「山県元帥との関係」とは、逓相山県伊三郎が、元老山県有朋の養子であることを指しているが、このほか寺内陸相が山県の直系であることを考えると、山県系はこの内閣にも大きな力を持っていたことがうかがえる。なお、山県逓相は内務次官時代の部下である仲小路廉を内務省警保局長から逓信次官にひきぬいている。次官では、のちに首相となる若槻礼次郎と加藤友三郎が、このときそろって大蔵次官、海軍次官に登用されているのが注目される。

  当時、元老と呼ばれて政治の裏面に大きな力をふるっていたのは、伊藤博文、山県有朋、井上馨、松方正義らであったが、この内閣と最も親しい関係にある伊藤は、韓国統監府の設立(38年12月21日統監府官制公布)にともない、初代統監として内閣成立の翌月、39年2月には韓国に渡っている。このほか、山県は陸軍及び官僚のなかに絶大な勢力を有し、井上、松方は財界に大きな影響力を有したが、とくに井上は、あとにみるように、予算問題等について内閣の政策に決定的な形で介入している。

さらに、4年余にわたって内閣を維持し(第二次大戦前の最長記録)日露戦争期の政治を指導してきたという実績によって、前首相の桂太郎の勢力が強まってきており、とくに元老らの間をとりもって、この西園寺内閣を成立させたことによって準元老的な地位を得たとみられるようになっていた。桂自身もこの内閣の後見人をもって任じており、のちにみるように重要な政策決定にあたっては、元老とともに桂も閣議などにも出席している。したがってまた、桂の影響下にある大同倶楽部(38年12月23日、帝国党、甲辰倶楽部などが合同して成立)も、この内閣の与党の立場に立っていた。

  内閣成立時の衆議院の勢力分野をみると、政友会144名、憲政本党98名、大同倶楽部75名、政交倶楽部36名、無所属26名(「東京朝日新聞」39年1月18日による)であり、政友会は単独では過半数に足りず、議会運営には他党派の協力を必要としていたのであった。結局、内閣との関係を大まかに言うと、政友、大同が与党、憲本、政交が野党ということになった。



3 戦後経営の方向

 西園寺内閣はまた、政策面でも、当面は議会開会中のことでもあり、桂内閣の政策をそのまま引きつぐという形で出発しなければならなかった。この内閣が直面した問題は言うまでもなく、日露戦争の後始末ということであったが、それは大きく言えば二つの問題を軸とするものであった。まず第一は、新たに手にした満州、樺太、朝鮮などにおける植民地経営という問題であり、軍事政策や外交政策もこの観点から見直してゆくことが必要であった。しかしまた、こうした方向に積極政策を展開しようとすると、ただちに財政難という第二の問題にぶつかるというのが、この内閣の置かれていた状況であった。

  しかし、桂内閣からこの内閣に引きつがれた政策は、何はともあれ、まず植民地経営の根幹として、軍備の拡張を優先させようとするものであった。そして三九年度予算では、とりあえず、日露戦争中に臨時に増設された 四個師団を常設化することとしていた。これによって日本の陸軍は一三個師団から一七個師団となるはずであっ た。

  三九年度予算を前年度にくらべてみると、総予算額4億9289万円で前年度より8192万円の増加となっているが、さらにそのうえに、臨時軍事費に4億5045万円にのぼる追加が要求されている点が注目される。戦争が終わってから巨額の臨時軍事費が要求されるのは一見奇妙なことであるが、これは別に「臨時事件費支弁ニ関スル法律案」を提案して、この費目を軍備拡張にも利用できるようにしたためであった。同法案は「臨時事件ニ因リテ生シタル陸海軍所属ノ復旧其ノ他ノ事業ニ要スル経費及満韓軍備ニ関スル臨時費支弁ノ為政府ハ特別会計ニ属スル資金ヲ繰替使用シ及公債ヲ募集スルコトヲ得」と規定し、結局軍拡を公債で実現する道を開いたのであった。臨時軍事費特別会計はこの年度で打ち切られたが、それはたんに戦争だけでなく、戦後経営を方向づけるためにも利用されたのであった。

  しかしこの内閣も、公債発行が無制限に続けうると考えていたわけではなかった。日露戦争の戦費の過半は内外で募集された公債でまかなわれており、この戦争の結果発行した公債は12億8000万円に達したが、ロシアから戦費賠償金がとれなかったため、その負担はまるまる戦後の財政にかかってくることとなっていた。しかもこの上に三九年度予算で発行を予定された臨時軍事費のための4億3000万円をはじめとする公債を加えれば、17億円をこえるはずであり、これに対する利子分だけでも年に1億円に近づくとみられた。もはや事態を 放置しておくわけにゆかないことは明らかであった。

  政府はまずこれに対して、国債整理基金を設けるという対策を立てた。これは「減債基金」と通称されたように、国債を減らすことを目的として特別会計を立て、これに毎年一般会計から一定額を繰り入れることを政府に義務づけようとするものであった。繰入額は日露戦争の軍事国債の償環と利払いにあてるものとし、年額1億1000万円を下ることをえないと規定された。この国債整理基金特別会計法案に対しては、これで実際に減債で きるのは年に2000万円程度にすぎないとし、軍拡の繰延べや行政整理などに力を入れるべきだとする批判も現われたが、政府は、この基金は国債の信用を維持する上にも欠くべからざるものとして、原案通り成立させたのであった。

  しかし軍拡で予算をふくらませたうえに、減債基金を別枠で確保しなければならないとなると、もはや戦時財政の規模を戦前なみに縮少することなど不可能であり、したがって戦争のための増税をもとにもどすことも不可能となった。そこで政府は、日露戦争の経費をうるための臨時の税法として第二〇議会で成立していた非常特別税法を改正し、同法の「平和克復ニ至リタルトキハ其翌年末日マテニ本法ヲ廃止ス」との規定を削除して永久税としようとしたのであった。このやり方に対しては、貴衆両院とも相当に議論が沸とうしたが、政府は、これによってさきの減債基金や戦争によって増加した恩給年金の増領分に見合う税収を確保する必要があるとして、議会を押し切ったのであった。

  三九年度予算をみると、軍備拡張のほかに鉄道の建設改良、電話の架設、製鉄所の拡張などが計画されており、これまでのべてきた施策と合わせて考えると、この内閣が公債の負担に悩まされながらも、積極的な戦後経営を進めようとする姿勢をとっていることがうかがわれるが、そこには民間に急激に企業熱がもりあがってきたという社会的雰囲気の反映をみることもできるかもしれない。

民間経済界は、賠償金がとれなかったことから、戦後一時は沈滞したが、講和成立後の38年10月に北海道炭鉱鉄道株式会社の英貨社債100万ポソド、つづいて同年11月に関西鉄道株式会社の英貨社債100万ポソ ド、さらに翌39年8月には日本興業銀行の取扱いによる東京市の英貨公債150万ポンドが、それぞれロソドン市場での発行に成功するといったことも刺激となって、一転して戦勝景気が高まり、企業の拡張・新設がブー ムの様相を呈しはじめていた。「日露講和条約が調印された38年9月から40年2月に至る1カ年半の間に、新たに払い込まれた会社の資本金額は5億円を出で、同期間に計画された資本の総額は25億円を超えた」 (明石照男・鈴木憲久「日本金融史」第一巻昭和32年237ページ)といわれる。

  政府が財政の困難にもかかわらず、この時期に積極政策の一環として、鉄道国有に踏み切ったのも、こうした民間の好況感か一つの条件としていたといえるかもしれない。



4 鉄道国有と加藤外相の辞職

 鉄道国有は早くから論じられていた問題であり、すでに明治24年、第一次松方内閣は第二議会に私設鉄道買収法案を提出したが、このときは否決されてしまっている。しかし官僚、とくに軍部のなかには、鉄道は元来国家自ら経営し、統一的運用をなすべきものであり、私営鉄道を認めたのは国家財政に余裕がないための一時の便法にすぎないとの考え方が強かった。そして幹線をみても、東海道線は官営、山陽戦は私営という官私混淆の形で鉄道建設が進むにつれて、この主張は一層強まっていった。これに対して、民間経済界からも、不況となると国有化の要求が高まりをみせ、日清戦争以後には政界の大きな問題となっていた。

  例えば、31年5月には東京商業会議所、同12月に京都商業会議所が鉄道国有を建議すると、翌32年2月には衆議院で「鉄道国有ニ関スル建議案」が可決される。そして政府はこれをうけて鉄道国有調査会を設け、同調査会は1年後の33年2月には、鉄道国有法及私設鉄道買収法を答申するにいたっている。なお、ついでにふれておくと、第三議会で鉄道敷設法が制定(明治25年6月21日公布)されて、政府敷設の予定路線はこの法律によって具体的に明示されることとなり、また工事着手の順序やその際の募債額などは、鉄道会議の諮問を経て決定されることとなった。また、33年の私設鉄道法では、営業免許に期限をつけるなど、民業買収への布石がうたれていた。

  鉄道国有問題も、日露関係の緊張とその戦争への発展という事態のなかで、一時後景にしりぞいていたが、38年になる大浦兼武逓相は国有化のために具体的準備をはじめ、桂内閣末期の38年11月30日には首相・蔵相・陸相と協議して国有化の大体を決定し、12月5日には、閣議の内定を得るにいたっていた。これをうけついでこの内閣の山県逓相も39年217月17日、17社、2813マイルを4億993万円の公債をもって買収する、との案を閣議に提出した。なお、この時期に鉄道国有化が具体化されるについては、元老井上馨が、国有化に積極的となったことが、一つの大きな要因になっていたとみられる。

  しかし、といって、鉄道国有が官民一致の世論になっているというわけではなかった。例えば、『東京朝日新聞』は「非鉄道国有」、「非鉄道買収」の題名のもとに7回(1月7日、2月10日、2月18日、2月19日、3月3日、3月4日、3月5日)にわたる社説をかかげて国有反対を叫んでいたが、閣議でも加藤外相が強硬な反対論を展開していた。原敬は2月17日の日記に「兎に角加藤は法律の力にて強制的に買収する原則に反対し又公債過多の弊を醸すべしと主張して反対し、進退を賭するの決意も首相に漏せりと云ふ」(「原敬日記」第二巻168ページ)と記しているが、同時に「三菱一派の反対もありと聞けば原因は他にもあらん」とも付記していた。加藤の反対論の主眼は私有財産権の擁護という点にあり、私権を尊重しなければ外資導入もおぼつかない点が強調されていたが、彼が青年時代を三菱本社ですごし、岩崎弥太郎の長女と結婚したことなどから、三菱との関係も噂されたのであった。

  私有財産権の擁護という論点はさきの東京朝日新聞の社説も同様であったが、ここで強調されているのは、経営数年にしてようやく利益のあがる見込みが立ってきた鉄道を、政府が一定の価格で強制的に買い上げるということになれば、その結果民間の企業心を萎縮させることは必然だという点であった。しかし閣議は加藤の主張を容れず、国有化案を決したため、3月3日加藤は断乎として辞職してしまった。在任わずかに56日にすぎなかった。後任はしばらくの間西園寺首相が兼任し、5月19日になって、駐英大使林董が任命された。

  ところで閣議はこの間、たんに加藤の反対をしりぞけただけでなく、より積極的に買収鉄道を15も増加させて32鉄道を買収するという形で鉄道国有化案を決定し、衆議院に提出した。買収鉄道は下記のごとく予定されていた。

〔当初案〕

北海道炭鉱鉄道、北海道鉄道、日本鉄道、岩越鉄道、北越鉄道、甲武鉄道、総武鉄道、房総鉄道、七尾鉄道、関西鉄道、参宮鉄道、京都鉄道、西成鉄道、阪鶴鉄道、山陽鉄道、徳島鉄道、九州鉄道

〔追加分〕

川越鉄道、成田鉄道、東武鉄道、上武鉄道、豆相鉄道、水戸鉄道、中越鉄道、豊川鉄道、尾西鉄道、近江鉄道、南海鉄道、高野鉄道、河内鉄道、中国鉄道、博多湾鉄道


  鉄道国有法案はまず「一般運送ノ用ニ供スル鉄道ハ総テ国ノ所有トス、但シ一地方ノ交通ヲ目的トスル鉄道ハ此ノ限リニアラス」と規定し、対象となる鉄道を「明治三五年後半期乃至三八年前半期ノ六営業年度間ニ於ケル建設費ニ対スル益金ノ平均割合ヲ買収ノ日ニ於ケル建設費ニ乗シクル額ヲ二十倍シタル金額」で買収するというものであった。この法案に対しては、貴衆両院とも活発な論議が行なわれ、衆議院では大同倶楽部内部からも反対論がおこったが、寺内陸相は軍事的観点から強く支持し結局原案通り可決された。しかし貴族院では、論議は一層紛糾し、さきの閣議段階で追加された15鉄道は、一地方の交通だけを目的とするものだから国有の対象としない、買収の期間を原案では明治39年から44年としたのを48年までに延長する、などの修正を加えて、会期最終日である3月27日になってようやく可決した。衆議院にこの修正案が回送されてきたのは、会期終了の数時間前であった。

  西園寺首相は、貴族院修正案をそのまま承認することを求め、議場では怒号と乱闘が展開されるなかで、鉄道国有法はようやく成立したのであった。貴族院の修正によって買収期間が延長されたが、内閣側は早期買収を有利とし、39年10―12月の間に6鉄道会社の買収期日を、翌40年7月―10月の間に残り11鉄道会社の買収期日を公示して、買収にのり出している。買収総額は4億7932万円におよんだ。なおこのとき朝鮮の京釜鉄道買収法案も同時に成立し、朝鮮支配の基礎がためも進められていた。



5 満州開放問題と満鉄の創立

ところで、加藤外相の辞職の原因について、加藤の伝記は、たんに鉄道国有反対だけではなく、満州開放問題をめぐる陸軍との対立をも一因に加えているが(伊藤正徳「加藤高明」上 昭和4年584・585ページ)、この点について原敬は、2月18日の日記に伊藤博文の談として「満州開放問題に関し、陸軍は明年4月迄外国に開らくを不可なりとし、外務は外国との関係上之に反対したるにより、井上、児玉、大山、山県等加藤と共に大磯」(「原敬日記」第二巻168ページ)に来て伊藤と相談したとして、陸軍と外務との対立を伝えている。この対立が加藤の辞職にどの程度影響しているかは明らかではないが、彼の辞職の直後から米英からの正式の抗議がもたらされ、この問題は次第に重大化する様相を示していたのは事実であった。

  満州開放問題とは、日本軍が満州の占領地に軍政をしいて行政の全権を握り、外国人を閉め出しているという事態を、何時になったら解消するのかという問題であった。すでに加藤外相当時から、英米の貿易業者・企業家が満州入りを企てて日本官憲に阻止される、あるいは日本の商人と差別的待遇をうけているといった具体的な事例について、外交ルートを通じて取調べ依頼がつぎつぎともたらされており、そしてそれは日本政府が戦時中に行なった門戸開放、機会均等の原則を守るとの約束に違反しているのではないかという抗議の意味をこめたものであった。これに対して、日本の軍部はロシアとの講和条約による撤兵期限(18か月、40年4月まで)ぎりぎりまで軍政をしいて日本人の勢力を出来るだけ多く植えつけておこうとする態度をとっていた。そして実際にもこの軍政のもとで、安東、営口、奉天など多くの地点において、広大な土地が日本人の手にとり込まれたのであった。

  それは英米との関係を重視する外交の立場からは放置しえない問題であり、それ故にさきの大磯伊藤邸での首脳会議が開かれたのであったが、加藤をついだ西園寺兼任外相もとりあえず何らかの具体的な措置をとることを必要とし、寺内陸相と交渉の結果、安東県・大東溝を39年の5月1日、楽天を6月1日、大連を9月1日より 開放することが決定された。しかしこの間、3月26日アメリカ代理公使は国務長官のつぎのような強硬な抗議文をもたらしてきた。

  「合衆国政府カ其清国ニ在ル代表者ヨリ承知スル所ニ拠レハ、軍隊撤回中満州ニ於ケル日本官憲ノ行動ハ総テノ主要ナル都市ニ於テ日本商業ノ利益ヲ扶植シ、且総テノ利用シ得ヘキ地方ニ於テ日本臣民ノ為メニ財産権ヲ収得セムトスルニ在リテ之カ為メ該領土ノ撤兵ヲ了スル頃ニハ、他ノ外国ノ通商ニ充ツヘキ余地ハ稀有若クハ絶無タルニ至ルヘシ。 世界列国ノ正常ナル通商及企業ニ対スル『門戸開放』ニ同意スト云ヘル日本国従来ノ熱誠ナル宣言ニ鑑ミ斯ノ如キ行動ハ合衆国政府ノ甚タ痛惜スル所ナリ」(外務省編「日本外交文書」第39巻第一冊昭和34年211ページ)。

  また同じころ、駐日英大使マクドナルドは、ソウルの伊藤韓国統監のもとに私信を寄せ、目下英米の貿易社会では、日本の軍官憲の満州における閉鎖主義はロシアの場合よりもひどいと公言されているとのべ、このようなやり方は「日本ニ同情ヲ寄セ軍費ヲ供給シタル国々ヲ全ク阻隔スル日本ノ自殺的政略ト評スルノ外ナシ」(「日本外交文書」第39巻第一冊238ページ)と強調していた。

こうした日本軍政への強い抗議は、英米両国との提携を戦後対外政策の基本と考える伊藤に強い危機感を与えたであろうし、また韓国統監の立場からみると、日本への国際的非難はまだ全く日本に服していない韓国の人心を一層反日的な方向に向かわせるおそれのあるものであった。そこで伊藤は、39年5月に上京するや、5月22日首相官邸に元老、軍首脳部、主要閣僚などを召集して、満州問題協議会を開催、自ら極東政策の基本方向とともに満州における軍政を早期に撤廃するための具体的方策を提議した。内閣からは西園寺首相、阪谷蔵相、寺内陸相、伊藤海相が出席している。この会議でどのような論議が行なわれ、伊藤の考え方がどの程度に了解されたかは明らかではないが、ともかく「関東総督ノ機関ヲ平時組織ニ改ムルコト、軍政署ヲ順次ニ廃スルコト、但シ領事ノ在ル処ハ直ニ之ヲ廃スルコト」(「日本外交文書」第39巻第一冊240ページ)という具体的な決議が行なわれたのであった。

  こうして、満州開放=軍政解消の見通しがついてくると、つぎには、戦争によってロシアから獲得した利権の具体化、とくにその最大なものとしての南満州鉄道をどう運営してゆくかという問題が、満州問題の中心に押しあげられてくることとなった。すでに内閣は、一月中句より参謀次長を委員長とし、外務次官珍田捨已、大蔵次官若槻礼次郎、逓信次官仲小路廉らを委員として非公式に満州経営委員会を発足させているが、当時鉄道問題が逓信省の管轄であったことを考えれば、この委員会が鉄道問題の解決を主要な課題の一つとしていたことがうかがわれる。

  内閣はこの委員会の作業を基礎として、さきの満州問題協議会開催から二週間ほどたった6月7日、「南満州鉄道株大会社設立ニ関スル勅令」を公布した。そして7月13日には設立委員を任命、9月10日から10月5日の期間で株式を募集し、11月26日には創立総会にこぎつけるという具合に、一気に南満州鉄道株式会社を つくりあげていった。この会社は「満鉄」と略称され、以後日本最大の国策会社となるのであるが、しかしこの日本政府のやり方は、条約上からみると種々の問題をふくんでいた。

  すなわち、講和条約でみると、日本がロシアから獲得したのはロシアが清国に対して持っていた利権であり、 この露清間の原条約によれば諸国利も鉄道経営につき発言権を有していた。さきの「南満州鉄道株式会社設立ニ 関スル勅令」が、株式所有者を日清両国の政府および国民にかぎると規定したのは、この点を考慮した結果であると思われる。しかし清両側には株式の公募開始が通告されただけであり、清国側か応募する手続もきめられてはいなかった。これに対して清国側は日本側の一方的な設立行為に抗議してきたが、日本政府はこれを完全に黙殺してしまった。

  日本側が最初から、満鉄への清国側の関与を認める気のなかったことは、すでに8月1日、外務、大蔵、逓信三大臣が連名で設立委員にあてた命令書で明らかになっていた。命令書によれば、日本政府は満鉄に対し株式配当や社債元利の保証などの手厚い保護を与えるかわりに、満鉄は重要業務に関して政府の認可を求め、政府が指定する場合には鉄道・土地などを提供する義務を負うという特殊な関係が規定されていた。

  さらに命令書は満鉄に、鉄道付属地における土木、衛生、教育などの施策を行ない、その費用を住民からとりたてる権利を与えていた。それは満鉄付属地から清国の行政権を閉め出し、満鉄をたんなる鉄道会社だけではなく、付属地行政機関として機能させようとするものにほかならなかった。そのうえ付属地の規定もあいまいなものであった。日本側は戦争中に日本人の手にとりこんだ土地をも付属地として扱ったのであり、付属地といっても鉄道の敷地は一部にすぎず、駅を中心とした市街地がその主要な部分を占める、というのが実態であった。

  9月10日に開始された第一回の満鉄株大募集に対しては、9万9000株(1000株は重役持分)に対して1億664万3418株の申込みがあり、当時の企業熱、投機熱を象徴する出来事となっていた。初代満鉄総裁には11月13日、台湾総務長官の後藤新平が任命されている。

  なお、遼東租借地は関東州と称され、8月1日、租借地の統治と租借地および鉄道の守備という二つの任務をもち、民政部と陸軍部からなる関東都督府が設置されたが、実質的には占領地軍政をうけついだ軍事的色彩の強い機構であり、都督は陸軍大・中将に限られ、初代都督には、満州軍紀司令部が設置した関東総督府の総督・大島義昌陸軍大将がそのまま横すべりで就任している。



6 「帝国国防方針」と軍備拡張

 こうした関東都督府の構成にうかがえるように陸軍は軍政解消後もなお、満州を国際的軍事的な対抗関係の観点から捉え、その観点から国政全体をもリードしてゆこうとしていた。39年10月、寺内陸相は、平時二五個師団、戦時五〇個師団を目標とし、まずその第一期として常設二〇個師団を実現するとの軍備充実計画を内奏しているが、同じ月、元老・山県有朋元帥も「帝国国防方針案」を上奏していた。

  山県の意見書は、陸海軍共同作戦の基礎となる国防方針制定の急務を訴えるとともに、国防方針についての私見をのべたものであったが、彼はそこで「国防ノ本領」は「初メヨリ攻勢作戦ヲ為スニ在り守勢作戦ヲ為スハ情況止ムヲ得サル場合ニ限ルモノトス」(大山梓編「山縣有朋」41年297ページ)とし、仮想敵国を第一にロシア、第二に清国とする案を提起していた。このうちロシアについては、日露戦争の報復職を想定したものであるが、清国については、諸 国民の間に利権回復の声が高まり、その結果関東州租借権の期限切れの際の衝突を憂慮したものである点が注目された。関東州租借権はロシアが獲得した時に25年という短い期限のものであり、日本の手にわたったときには18年しか残っていなかった。そしてこの期限延長はのちの21箇条要求の中心をなすものであった。

山県の意見書と寺内の内奏とは12月14日元帥府に諮詢され、その結果、12月20日天皇は参謀総長奥保鞏、海軍軍令部長東郷平八郎に対して国防方針の作成を命じた。ついで翌40年2月1日、奥・東郷両名は討議の結果を、国防方針、国防に関する兵力、用兵綱領の三種に分かって上奏しているが、その要点は、「帝国の国防は攻勢を以て本領とす」「将来の敵を想定すべきものは、露西亜国を第一とし、米・独・仏の諸国之れに次ぐ」 として、陸軍は平時25個師団、戦時50個師団を、海軍は2万トン級戦艦八隻・1万8000トン級装甲巡洋艦8隻を基軸兵力と規定した点にあった(宮内省編「明治天皇紀」第11巻昭和50年674・675・676ページ)。このうち清国についての評価は山県と異なっているが、こうした大規模な軍備計画が軍部のみで決定されたということは大きな問題であった。軍部以外では、西園寺首相に下付されただけであったが、西園寺は40年3月、これらの計画に賛意を表すると同時に、財政の情況からいってその遂行は「国力ト相俟テ緩急ヲ参酌セシメラレンコトヲ」(「明治天皇紀」第11巻707ページ)と覆奏している。

  こうした「帝国国防方針」の作成が秘密裡に進められている間にも、陸海軍当局は、40年度予算のなかに軍拡計画を盛り込もうと画策していた。このような軍部の動きが予算編成を困難にすることは明らかであり、さきの寺内、山県の上奏が行なわれたのと同じころ、39年10月17日、桂前首相は久しぶりに訪問した原敬に対してつぎのように語っている。「予算に関して、結局有り丈けの財源にて支辨する事に各員決心せしむるの外なきに因り、直に閣議に於て議論しては往掛りも生ずる虞あるに因り先以て元老等を集め重立たる閣員集りて之を 決するの外なかるべし」(「原敬日記」第2巻202ページ)。つまり、元老主導型の予算編成をする外はないというわけであった。

予算問題をめぐる大蔵当局と陸海軍との対立は11月に入ると予想通り深刻となり、「海陸軍より提出せし拡張案に関し前途財政の困難に陥る虞あるに因り蔵相不同意を唱へ、内閣の破裂にも至らんとする形勢なきにあらず」(「原敬日記」第2巻207ページ)といった状態にまでおちこんだのであったが、元老井上馨らのあっせんにより、ようやく妥協が成立、39年12月4日の閣議で40年度予算を決定することができた。

この閣議で寺内陸相が、当初3個師団を増して20個師団とする予定であったのを19個師団とするにとどめ、残りの1個師団は財政の都合をみて他日を期することにした、と説明したのに対して、原内相は、その1個師団増設はたんに陸軍省の希望または計画ということなのか、あるいは今日の閣議で内定して置こうというのかと念を押し、「寺内はいや決して今日内定し置くと云ふ次第にあらず、単に陸軍限りの考にて其希望なし置くまでなりと明言」(「原敬日記」第2巻211ページ)したという。しかし寺内の言明にもかかわらず、この案が「帝国国防方針」の一環であり、そこから更につぎつぎ軍拡要求が生み出されてくるという、政界の裏面での新たな事態の進行には、原敬もまだ気づいてはいなかった。



7 明治四〇年度予算案と憲政本党の「旗幟変更」


第22議会(39年12月28日から40年3月27日まで)に提案された明治40年度予算案について内閣は、つとめて歳出の膨張を抑制し、生産事業の財源にあてるもの以外は、公債も募集せず、また新たな増税も行なわないという方針によって編成したと説明した。歳入歳出ともに6億1139万円で、本予算と臨時軍事費を加えると10億円に近づいていた前年度予算からみれば、緊縮と整理の方向を示しているとも評された。しかしその内容をみると臨時軍事費特別会計の剰余金1億円、前年度繰入金3000万円、計1億3000万円という今年度限りの歳入を加えてようやく均衡が保たれているという有様であり、次年度以降の見込について議論が集中したのも当然であった。

  また、若干の譲歩がなされたとはいえ、陸海軍省予算はなお歳出総額の約3分の1を占めており、更に軍拡計画は継続費を著しく膨張させて、将来の財政を強く拘束するものとなっていた。継続費による計画総額は、既定総順1億1552万円、増額ならびに新規計画分5億3633万円、新旧合計すると6億5186万円と急膨張 したが、そのうち陸海軍に属するものが4億2200万円に及んだ。またこのうち40年度の継続費年度割額を みても1億1366万円のうち陸海軍分が7469万円を占めている。なお、陸海軍継続費の内容をみると、陸軍は2個師団増設を中心とするのに対して、海軍の場合には、40年度から補充艦艇製造費、艦艇補足費、整備費などの名目による新たな継続費を発足させており、それはさきにみた「帝国国防方針」にみえる「88艦隊」 実現への第一歩を踏み出したものであった。

  治40年度予算案は、このように、多くの問題をはらんでいたが、議会での討議では、政友会、大同倶楽部に加えて憲政本党まで賛成にまわったためその通過は極めて容易であった。憲政本党の場合には、桂前内閣のもとで提携関係にあった政友会が、その提携を打ち切り大同倶楽部と手を握る形で西園寺内閣の与党を形成したため、一時孤立の形勢となっていたが、大同倶楽部と内閣の関係が必ずしも円満でなくなるに従って、憲政本党の なかにはこの際大同倶楽部と結んで政友会に対抗し、元老・官僚勢力にくい込んで一気に政権に迫ろうとする動きが現われてきた。彼等は党体制改革の要求をかかげたため改革派と呼ばれ、依然として藩閥打破を政治行動の基軸にしようとする非改革派と対立したが、改革派は、この第23議会の実質審議開始を目前にした40年1月 20日の党大会で、党の主導権を揺ることに成功した。

  改革派はまず、元老の存在に批判的な党首大隈重信の追い出しをはかって辞職させ、つぎに幹部独裁の排除を 名目として総務委員を廃止し、15五名の常務委員を以って党の執行機関としたが、これは犬養毅ら非改革派の勢力を弱めることを目的としたものであった。そして同時に、これまでの「民力休養」に力点をおいた政策から、 「軍備の充実」を要求する積極政策へと政策転換をはかったのであった。このような動きは、当時憲政本党の 「旗幟変更」と呼ばれ、40年度予算案の成立を容易ならしめることとなったが、しかしそれは西園寺内閣の与党となることを意味したわけではなく、「混合内閣」と呼ばれたこの内閣のうちの官僚的部分を支援し、政党的部分を攻撃して両者を分裂させることをねらったものであった。



8 原内相、山県系勢カヘ挑戦

この内閣が、桂前首相を後見人とし元老勢力の傘の下に発足し、多数の官僚出身閣僚と少数の政友会出身閣僚とによって構成されたことはすでにのべた通りであるが、この少数派閣僚のなかの原内相の動きが、次第に注目されるようになっていた。

  ところで、原が大臣の椅子についた内務行政機構は、明治16年から22年にかけて内務卿・内務大臣の地位にあった山県有朋の指導の下につくりあげられたものであり、以後も山県系の情実人事を以て固められ、陸軍とともに山県閥の二大支柱の一をなすものであった。したがってこの方面に知己の少ない原の苦労が予想されたが、しかし原は就任すると早速、内務畑の数少ない旧友、地方局長吉原三郎を内務次官に起用するとともに、警視総監に安楽兼道、警保局長に古賀廉造、地方局長に床次竹二郎をあて、自派で首脳部を固めた(39年1月17日任命)。そして、機構や人事の不合理・不能率・腐敗などをつきながら、漸次山県系勢力を排除し、政友会の勢力を浸透させようとはかったのであった。しかもその間、出来るだけ山県自身とも接触し、山県との妥協をはかりながら事を進めるというのが原のやり方であった。原は早速警視庁改革から手をつけていった。

  この内閣が成立した当時、講和反対運動への弾圧に対する反発から、警視庁廃止論が野党から叫ばれ、第22議会では警視庁廃止建議案(特別の機構としての警視庁を廃止し、その事務を東京府に移せとするもの)が論議をよんでいたが、原はこの建議案には反対したものの、この機会を利用して警視庁改革を決意した。その中心は、官制上ではこれまで政治問題を扱う「高等警察事務」に閣しては、警視総監は内閣総理大臣および内務大臣の指揮を受ける、つまり総理大臣も警視総監を指揮することができることになっていたのを改め、この規定を削除して、警視総監は内務大臣に直属することとした点であった。つまり総理大臣がその腹心を警視総監として政治的弾圧を行なうおそれをとりのぞいたのであり、同時に人事の大異動をも断行したのであった。

改正警視庁官制が公布された39年4月18日、原は「官制に於ては内閣の関係を除きたる外に実体に於て著るしき変更なきも、人員は大更迭をなしたり、警視庁創設已来今回の如き大改革は之なかりしなり、要するに同庁は是迄割拠の勢をなし、殊に大浦兼武の如き警視総監として勢力を扶植し、内海忠勝内相(第一次桂内閣)たり し間は最も甚しかりしに因り今回の改革を以て之を一洗したり」(「原敬日記」第2巻176ページ)とこの改革の意図を記している。 それは、山県―大浦―内海とつながる官僚勢力への挑戦にほかならなかった。

さらに原内相は、警視庁改革につづいて39年7月28日には、知事6名、事務官30余名を休職にするという大人事異動を断行した。これについて原は「今回の更迭は老朽を罷めて新進者を採用」(「原敬日記」第2巻188ページ)したものだとしているが、その「老朽」者は、山県系勢力の故に歴代内閣が手を下しえなかったものであった。この人事外勤と同時に、原は、事務官を減じその分で内務省限りの増俸を行ない、つづいて勅令、省令、訓令を改廃すること40余件に及ぶなど行政改革への積極的姿勢を示した。そしてこうした原内相のやり方に、山県系勢力が強く反発したことは明らかであった。原は、11月8日になって山県有朋を訪れ、「今夏地方官更迭の事情方針、 党務拡張には一切関せざる事、北海道新計画に関し政友会並に余(原)に於て関係なき実情を内話」しているが、それは「近来大浦、清浦等を始め一部前内閣派にて山県系に属する者は頻りに余を山県に讒訴し、地方官を利用して党勢拡張を計るとか、北海道計画を利用して党の利益を図るとか云ふが如き種々雑多の説」」(「原敬日記」第2巻206ページ)をのべたてており、それについて山県に弁明しておくことが必要だと考えたからであった。しかし、山県系勢力はこうした問題だけでなく、社会主義取締りを緩和したことについても、原を強く批判していた。



9 社会主義取締りをめぐって

西園寺内閣が成立したとき、社会主義者たちは、西園寺首相がかつて中江兆民らと東洋自由新聞を創立した経歴をもっていることなどから考えて、この内閣が社会主義運動に対して寛容な態度をとるかもしれないと期待した。そこでまず、39年1月14日に西川光二郎、樋口伝が「普通選挙の期成を図るを目的とす」という綱領のもとに日本平民党の結党届を提出したところ、支障なく受理された。そこでこれが通る位なら、もう一歩進めて社会主義をはっきりかかげた政党をつくってみようということになり、1月28日に堺利彦、深尾韶の2人が、「吾人は国法の範囲内に於て社会主義を主張す」との綱領をかかげた日本社会党の結党届を提出したところ、これも無事に受理された。そこで2月24日、両党を合同して日本社会党結党大会を開き、日本ではじめての社会主義政党が合法的に発足することになった。このことは、当時政治結社を禁止こ解散させる権限は治安警察法によって内務大臣に与えられていたのであるから、原敬が、社会主義政党の結社を認めた最初の内務大臣となったことを意味していた。しかし原がこの点をどれ程意識していたかは明らかではなく、日記には何も記されていない。

日本社会党は結党直後から、東京での電車賃値上げ反対運動に積極的に取り組んでゆくが、『原敬日記』に最初に登場する社会党に関する記事は、この問題との関連でつぎのように記されている。「東京市内電車値上げ出願に関し、社会党と称する一類先頃日比谷公園に集合して反対を決議せしが、本日又々会合を催したり、警察の手にて解散し尚ほ不穏の者11名拘引したり、検事は兇徒嘯集として令状を発したり、警察の手配宜しきを得て無事なりし、但単に解散する丈けの意思なりしも検事は直に令状を発して起訴の手続をなしたるなり」(「原敬日記」第2巻171ページ)。

こうした結党直後からの社会党の活発な活動は、同党の結党を認めたことに対する原内相への非難を生み出すことになり、原は7月6日の閣議で改めてこの問題についての態度の確認を求めている。 「此の閣議に於て社会党に対する方針を相談し、徒らに結社を解散するが如きをなさず、実際の行為を見て之を処置する事に決定したり、前内閣の固陋家は、現内閣は社会党を寛宥するが如き事を言触らして中傷の具となさんとするに因り、殊に此決定をなしたるなり」(「原敬日記」第2巻185ページ)と原は記していた。

  しかし社会主義者の運動は、在米日本人の運動をも加えて、保守派の神経を逆なでするような方向に展開されつつあった。すでに社会党対策が協議された閣議の一週間ほど前の6月28日、アメリカより帰国(6月23日) したばかりの幸徳秋水は、東京神田の錦輝館で「世界革命運動の潮流」について演説し、普通選挙=議会政策というこれまでの運動方法を否定し、直接行動=総同盟罷工(ゼネラル・ストライキ)を運動の中心とすべきことを提唱して、同志たちの間に強い衝撃を与えていた。日露戦争下の反戦運動に疲れた幸徳は、38年11月14日病気療養の希望もこめて、サンフランシスコに旅立ったのであったが、ここでの半年に及ぶ生活のなかで、次第にアナーキズムの方向に引きこまれていった。そして帰国直前の6月1日には、サンフランシスコで岩佐作太郎らの在住日本人とともに社会革命党を結成しているが、このサンフランシスコの小政党の活動と、東京に帰った幸徳の影響とは、40年に入ると、相呼応するかのように日本の官憲を悩ます方向に発展したのであった。

まず年があけたばかりの1月4日、原内相は「米国カリホルニヤ州に於て在留日本人等、革命と題する雑誌を発行し、大統領君主並我皇室に対しても不敬の語あり、米国人一般の感情を害し騒々しき由」(「原敬日記」第2巻219ページ)との報告におどろかされた。彼は即日、同誌の内地での発売頒布の禁止・差押えを命じ、1月7日の閣議に報告しているが、この雑誌はさきに幸徳・岩佐らが結成した社会革命党が、前年末の12月20日に発行したものであっ た。同誌は、革命のための「唯一の手段は爆裂弾にあり」とし、「吾人ノ政策ハナルベク速力ニ資本家階級ヲ代 表セル『ミカド』、王、大統領ヲテン覆スルニ在リ、而テ其手段ニ至リハ吾人ハ躊躇スル所ナキナリ」(原文は英文、「明治文化全集社会編改版」昭和30年600ページ)とのべている。そしてそれが大統領の暗殺を主張するものとして、移民排撃をめぐる排日運動に利用されたのであった。

  在米日本人の運動に対しては、日本政府も直接に弾圧を加える方法はなく、ただ監視を厳重にするにとどまったが、この事件につづいて、日本でも足尾銅山暴動事件がおこったことは、原内相をも社会主義弾圧強化の方向に動かすことになった。当時、日露戦後の物価騰貴のなかで、労働争議も頻発しつつあり、39年には、石川島造船所、東京砲兵工廠、矢島組製糸、北海道炭鉱汽船などで争議がおこっているが、翌40年2月の足尾銅山争議が会社側施設を打ちこわし、ダイナマイトを投げ込むなど、とくに激しい暴動に発展したのは、鉱山特有の労働条件の悪さに加えて、各人の労働条件の決定をめぐる会社側役員の横暴、賄賂の横行など、坑夫の間に積年の不満が蓄積されていたからであった。そしてそのうえに指導者が早期に検挙されたことへの反発が暴勧化の引き金となったものであった。

足尾の労働者を指導したのは中央の社会主義者と連絡を持ち労働至誠会足尾支部を結成していた南助松、永岡鶴蔵らであったが、彼等の方針は労使協調的であり、労働者の暴勧化を抑えようとしていたといわれる。しかし原内相は「社会主義者南助松なる者の教唆」(「原敬日記」第2巻225ページ)を重視し、寺内陸相に協議して高崎の連隊より3個中隊の出兵を求めて断固たる弾圧を行なったのであった。

  足尾事件は社会主義者の指導したものではなかったが、3日間にわたって足尾に無政府状態をつくり出したことは、当時さきの幸徳の提議をうけ、2月に予定されていた日本社会党第2回大会にむけて、議会政策か直接行動かの論議をくり返していた社会主義者の間に大きな影響を与えた。幸徳はこの大会において、足尾鉱毒を訴えた田中正造の議会20年の叫びよりも、足尾労働者3日間のだたかいの方がより効果的であり、一般の権力階級を戦慄せしめたではないか、と演説している。

  日本社会党第2回大会は足尾事件が鎮圧された10日後の2月17日に開かれ、まず執行部である評議員会から、第1回大会で決定された党則第1条「本党は国法の範囲内に於て社会主義を主張す」から「国法の範囲内」を削り「本党は社会主義の実行を目的とす」と改め、また議会政策の柱である普通選挙を党員の「随意運動」とする決議を行なうという原案が提出された。これは一方で非合法運動を許容すると同時に、議会政策も否定しないという折衷案であったが、これに対しては、田添鉄二からは「我党は議会政策を以て有力なる運動方法の一なりと認む」との修正案が、また幸徳秋水からは「議会政策の無能を認め」との一句を挿入せよとの全く対立する修正案が提出された。そして投票の結果は、評議員案28票、幸徳案22票、田添案2票で原案がかろうじて可決されたが、この票数は当時の社会主義者の気分がいかに直接行動論の方向に傾いていたかを示すものといえた。

  この形勢をみた原内相は、まず2月20日、幸徳の演説や社会党大会の決議などを報じた『平民新聞』2月19日号を発売禁止処分に付し、ついで翌々22日、日本社会党は「安寧秩序」に害ありと、結社禁止を命じたのであった。そして、当面の社会主義対策は一段落とみた原内相は、つぎに郡制廃止問題に力を集中してゆくことになるのであった。



10 郡制廃止問題

社会党を結社禁止とした40年2月22日、『原敬日記』にはつぎのように記されている。

  「衆議院に於ける郡制其他の特別委員会は今日までの慣例に反して進歩党の肥塚龍を委員長に挙げたり、是れ大同倶楽部の臼井哲夫等進歩党と結托したるに因るものにして、進歩党も久しく政権に渇したれば、大同と提携せり、将来何か有利の事あらんと信じたるに起りたるもの如し、但し今日まで政友会と提携したる大同倶楽部が突然進歩党と提携して反対の態度を取りたるは、山県系の大浦等が貴族院に於ける郡制(廃止案)に対する賛成者著しく増加し容易に通過せんとするの形勢となりたるに因り、俄かに衆議院に手を入れて此の処置に出でしめたるは掩ふべからざる事実なり、彼等の陋劣甚だ厭ふべし、政友会員一同大に憤慨せり」(「原敬日記」第2巻227ページ)。

  すでにみてきたような、原と山県系勢力との対立は、この議会に原が提出した郡制廃止案をめぐって、一つの頂点に達しつつあった。山県系勢力を背景とする大同倶楽部と「旗幟変更」した憲政本党(同党は当時なお、その前身である進歩党の名で呼ばれることが多かった)とは、この法案に反対する点で握手し、原も防戦に必死となっていた。

  ところで、郡制は明治23年5月、府県制とともに公布された法律であり、これによって郡は弱いながらも自治体としての性格を与えられたものであった。その特長は、郡長官選制と、郡会における大地主特権制(定員の3分の1を地価1万円以上の土地所有者が互選)、複選制(大地主議員以外の議員は、郡内の町村会で選挙する)を3本の柱とする点にあり、発足当初から強い批判の存在した制度であった。この制度の制定をリードしたのは山県有朋であり、彼の意図は、大地主を支柱とした郡制によって、地方農村と中央政治とを遮断し、農村の官僚支配を確立しようとするものであった。しかしその後の経過で、大地主が必ずしも農村を掌握する名望家でないことが明らかとなり、また町村会―郡会―府県会と重層する複選制はかえって、基底での町村会選挙を激化させるといった事態が現われてきたため、第2次山県内閣は、この点の改正に踏み切っていた。すなわち、明治32年3月公布の府県制・郡制改正案によって、復選制と大地主特権制が廃止され、府県会も郡会も一般選挙民の直接選挙制 に改められたが、郡制そのものは、依然として農村支配の重要な拠点として維持されていた。

しかし、町村に対する国からの委任事務の増加にともない、それに堪えうるための町村強化策が進められるに従い、郡は次第に影のうすい存在となっていった。「郡自体について見るならば実際、郡制の施行状況は甚だ香しからざるものがあり、郡独自の事業は殆んど存在しなかった。当初から実施効果を欠いていた郡制は、商品経済発展に伴う経済領域の拡大、交通、通信網の発達による社会圏の拡大と、行政の機能分化に伴い、郡機能は府県、町村又は他の分化した行政機関へと吸収され、郡は『無用の長物化』した。郡制廃止は、この時勢の進展に即応しえない制度の廃止要求を基本に持っていた」(大島美津子「地方制度(法体制確立期)」『講座日本近代法発達史8』昭和34年60ページ)。

つまり郡制廃止は地方制度合理化の要求と言えたが、原はこの世論の支持を期待しうる合理化要求を正面に押 し出すとともに、これによって、山県系勢力に痛撃を与えることをもくろんだのであった。彼はすでに内閣成立 直後の第22議会に早くも郡制廃止案を提出したが、このときは衆議院は全会一致で通過したものの、貴族院では審議未了の形で握り潰されてしまった。原はこの原因は「要するに郡制に関して山県元帥反対なるに因り其鼻息を窺ふものは多く賛成し得ざるに因る」(「原敬日記」第2巻174ページ)とみているが、衆議院での全会一致の通過も、どうせ貴族院は通らないという気乗薄の気分を反映したものであった。

  しかし原は、つぎの議会を期して積極的に貴族院に働きかけるとともに、次第に深まってくる山県系勢力との対立の結果、もはや大同倶楽部は頼みがたいとしてこれを切り崩し、政友会勢力の拡大につとめた。そしてこのことによっても大同倶楽部との関係は決定的に悪化している。第23議会の衆議院での勢力分野をみると、政友会は149名から171名に増加しているが、そのなかには大同倶楽部を脱党して入会したもの13名を数えて おり、大同倶楽部は76名から63名に減少している。そのほか憲政本党94名、政交倶楽部をほとんどそのまま引きついだ一人一党的な猶興会が36名となっており、政友会単独ではなお過半数を制することはできず、郡制廃止案をめぐる攻防も予断を許さないものとなっていた。しかし原は「郡制問題は将来山県系をして全く無勢力たらしむべき大問題」と考え「郡制を廃止して山県系を一挙に倒し、其惰力によりて今年の府県会議員総選挙を終り、明年の衆議院総選挙に臨み、政党の全勢力を伸張」(「原敬日記」第2巻222ページ)することをめざして、積極的な工作を展開していった。

  ところで、原の郡制廃止案は、自治体としての郡は廃止するが、郡をたんなる行政区画にしようというのではなく、郡長・郡役所は存続させるという点を特長とするものであった。この場合には、自治体としての郡の廃止とは、郡会の廃止を意味するものとなった。したがってこの案に対する反対も2つの面からの反対が可能であっ た。1つは郡制の廃止が郡長・郡役所の廃止をも必然にする。そしてその結果一層町村合併を促進し、町村の共同体的、家族的自治を崩壊させる、という観点からの反対であり、大同倶楽部の反対は主としてこの観点からのものであった。これに対してもう1つの反対論は憲政本党が展開したものであり、郡長・郡役所を廃止しない不徹底な郡制の廃止には反対するというものであった。そして原内相の案でゆくと、郡長の活動は郡会による制約をまぬがれることになり、時の政府はこの郡会に監視されない郡長を使って選挙干渉を行なうおそれが大きくなる、という点が強調されたのであった。原が議会の答弁のなかで、郡会廃止によって節減される費用によって郡長の給与を増額すると言明したことも、このようなおそれを強める要因となっていた。

結局、衆議院での討議は、尾崎行雄ら猶興会の多数が、原案を郡長・郡役所廃止への第一歩として賛成にまわ ったため、188票対164票の24票差で可決された。そして貴族院でも委員会段階では9票対4票(委員15名、1名欠席)で可決されたが、本会議では最大の会派である研究会が反対の方針を決めたため、108票対194票で否決されてしまった。原の挑戦はこの段階ではまだ全面的に勝利することはできなかったが、しかし彼は官僚勢力の牙城であった貴族院に勢力をのばす足がかりを得たことを大きな収穫と考えていた。この日の日記には「山県系の運動は真に非常なるものにて此結果を来せしが、夫れにしても彼等の力は驚くべきものにあらず、全く縁故なかりし貴族院が斯くまで動き且つ政友会の如き大政党の感情を害するは憲政の為めに不可なりとの議論を生じたる位なれば、山県の貴族院に於ける勢力も驚くべき程のものにはあらざるが如し」(「原敬日記」第2巻233ページ)と記している。しかし以後、原の貴族院工作が進展すればするだけ、山県系勢力との対立は深刻となるのであった。



11 第三次日韓協約

内政面では、郡制廃止案にみられるような対立が深まってきたとは言え、対外政策に関しては、この内閣は一貫して元老たちの強い指導力のもとにおかれていた。重要な対外政策の決定にあたっては、元老が閣議に出席するか、あるいは関係主要閣僚と元老たちとの協議会を開くなどといった形式がとられ、元老たちはその決定に参加していった。

  例えば明治40年7月10日、首相官邸では、山県、松方、大山、井上の四元老と桂前首相、それに内閣側から西園寺首相、寺内陸相、斎藤海相、林外相、阪谷蔵相、原内相が出席して元老・閣僚会議が開かれているが、それは韓国統監伊藤博文の請訓にもとづき、ハーグ密使事件を対韓国政策にどう利用するかを討議するためのものであった。韓国はすでに、明治38年11月17日調印の第2次日韓協約によって外交権を日本に接収され、日本が派遣する韓国統監(初代伊藤博文)の監督下におかれる従属国(当時 は「保護国」とよばれた。)となっていたが、こうした状態に対して、韓国民の間には強い反感がわき立っていた。翌39年には、地方では反日武装蜂起も現われはじめているが、40年6月15日、オランダのハーグで第2 回万国平和会議が開かれると、韓国皇帝は3名の代表を送り、この会議で 韓国情勢が討議されることを期待した。これに対し小国代表は概して韓国に同情的だったといわれるが、大国側は韓国がすでに外交権を失っている との理由で会議への参加を認めず、韓国皇帝の工作は何の成果もあげることができなかった。

しかし、伊藤韓国統監はこの事件の報を得るや、早速韓国皇帝に会見し、密使事件は「日本ニ対シ公然敵意ヲ発表シ協約違反タルヲ免レス、故ニ日本ハ韓国ニ対シ宣戦、権利アルモノ」(「日本外交文書」第40巻第1冊昭和35年454ページ)として強くその責任を追及したのであった。そして、韓国政府内にも皇帝の譲位で日本の圧迫を避けようとする動きのあることを伝えるとともに、「此ノ際韓国ニ対シテ局面一変ノ行動ヲ執」り「税権兵権又ハ裁判権ヲ我ニ収ムルノ好機会」であるとし、「元老各大臣」に「熟議」(「日本外交文書」第40巻第1冊431・454ページ)を求めてきたのであった。

これに対して元老・閣僚会議では種々の議論が重ねられたが(議論の内容については「原敬日記」第2巻249ページ、「日本外交文書」第40巻第1冊456ページ参照)、結局「帝国政府ハ現下ノ機会ヲ逸セス韓国内政ニ関スル全権ヲ掌握セムコトヲ希望ス」との方針を決定し、そしてその趣旨説明のため林外相を渡韓させることとした。林外相がソウルに入った翌日、7月19日、韓国皇帝は皇太子への譲位を発表したが、日本側はそれに満足せず、7月24日には第3次日韓協約を調印させた。この協約は 第1条に「韓国政府ハ施政改善ニ関シ統監ノ指導ヲ受クルコト」との規定を置き、これまでの外交に加えて、内政の実権をも日本が掌握することをもめざしたものであるが、さらに、韓国政府の法令の制定・重要な行政上の処分・高等官吏の任免には、統監の承認・同意を必要とすること、統監の推せんする日本人を韓国官吏に任命す ることなどといった規定がもられていた。  

  この協約は韓国政府を日本の傀儡とすることを意味していたが、それを強行するためには韓国独自の軍事力を 解体しておくことが必要と考えられた。そこで伊藤統監らは、引きつづき韓国軍隊を解散させる工作を極秘裡にすすめ、日本軍隊による鎮圧体制をととのえ、武器弾薬を掌握したうえで、8月1日突如として皇帝の詔勅によって韓国軍隊に解散を命じたのであった。解散させられた軍隊のなかからは、多くの将兵が反日武装闘争=義兵運動に参加していったが、日本側はこれらを武力で鎮圧してゆくことで韓国併合への道を切り開いていったのであった。また協約にもとづく日本人官吏としては、日本から多くの警察官が送られたほか、次官クラスの要職を日本人が握るという方法がとられ、41年1月には、宮内次官に小宮三保松、内部次官に木内重四郎、農商工部次官に岡喜七郎、学部次官に俵孫一、度支部次官に荒井賢太郎、法部次官に倉富勇三郎、警部局長に松井茂、警視総監丸山重俊、総税務司署に永浜盛三らが任命されている。  

  いずれにせよ、この内閣のもとで、朝鮮に対する支配は合併一歩手前のところまで進められたのであった。



12 日仏協約と日露協約

元老を加えた対外政策決定の例は、韓国政策をめぐる元老・閣僚協議会の約1か月前、40年6月8日にもみられ、このときには、日仏協約に関する臨時閣議に、山県、井上、松方、大山、桂らが参加するという形がとら れている。  

  ところで、この日仏協約は、40年6月10日にパリで調印されているが、その後3か月ばかりの間につぎつ ぎと重要な国際取決めが実現していることが注目される。まず7月24日には前述した第3次日韓協約が、ついで7月30日には第1次日露協約が、さらにその1か月後の8月31日には英露協約が締結されているのであるが、それらが相互に深く関連している点が重要なのである。すなわち、日本側からみると、日仏協約も日露協約も、日韓協約の目標となっている韓国併合の実現やその先の満州経営を確立するための条件をなすものと考え られているのであるが、しかし世界政治の観点から言うと、それは英露から英独への対立の焦点の転換に対応するものであり、ドイツに対抗するための英露協約の締結を媒介し促進する役割を果たした点が注目されるのである。  

  つまり、日露戦争までの世界政治の焦点はロシアの中国大陸への進出にあり、露仏同盟を結んでいるフランス と、ヨーロッパ政治の観点からロシアの関心を東に向けようとするドイツとがこれを支持し、日本とイギリスとが日英同盟を結んでこれに反対する、といった図式で捉えることができる。ところが、日露戦争でロシアの中国進出が阻止されると、今度はドイツの中近東進出が新たな争点におしあげられ、この図式は、ドイツに対抗するために、イギリス・ロシアが握手するというように組みかえられることになるのであった。それはいわば、露仏同盟と日英同盟とを結びつけるということであり、そのためには、戦い終わったばかりの日露両国の関係を敵対から友好へと転換させることが重要な問題となるはずであった。そして40年のはじめからは、英仏露3国の側 から、日露関係転換への働きかけが行なわれるようになっていた。  

  すでにこのとき、英露間では、アフガニスタン・ペルシヤ・チベット方面での利害を調整する英露協約の交渉が進められていたが、この協約の効果を確実にするためには、イギリスの同盟国である日本とロシアとの関係改善が必要とされ、ロシア側からも日露協約への希望が示されるようになっていた。またフランスは、パリ市場での日本外債募集への支援を条件とし、さらに日仏協約を成立させてまで、日露協約をリードしようとする積極性を示したのであった。

  6月10日に調印された日仏協約は、「両締約国が主権・保護権又は占有権を有する領域に近邇せる清帝国の諸地方に於て……平和及安寧を確保するの目的に対し互に相支持することを約す」というものであったが、それは、朝鮮・関東州・台湾に近接する満州・福建と、仏領インドシナに近接する雲南・広西・広東とを、漠然とながら互いに勢力範囲と認め合うことを意味していた。  

  日仏協約が調印されたときには、日露協約の方も、具体的な条文をめぐるつめの段階にはいっていたが、こう した急速な交渉の進展は、日本側にも、対露関係の改善への強い希望が存在していることを示すものであった。 例えば40年1月25日、元老山県有朋は、西園寺首相に対清政策に関する意見書を送り、まず中国において利権回収・主権維持を叫ぶ民族主義運動が高まりつつあること、これに対して日本は関東州租借地・満鉄などの利権の期限延長を求めねばならない立場にあること、つまり両者の利害が矛盾することを強調した(ロシアからうけついだ利権のうち最も期限の短いのも遼東租借権で原条約で25年、このときすでに残り18年であった)。そして、満州に利権を有するという点では、日本とロシアとは共通の立場にあるのであり、したがって、「露国と互に意見を 交換し、両国商議協定の上、清国に談合して之れを遂行するは今日の形勢に於て最も緊要」(「山県有朋意見書」306ページ)である。つまり、満州経営に関しては日露両国は清国に対する共同戦線を張るべきだとしたのであった。また韓国統監の地位にあった元老伊藤博文は、日本の韓国併合をあらかじめロシアに承認させておくことが必要だと主張していた。  

  交渉は、40年2月20日にロシア側が協約案を提示、これに対して日本側は3月3日の元老会議で対策を決定するという形で具体化したが、以後は日本側から提起した勢力範囲の問題をめぐる応酬がくり返されることとなった。すなわち、ロシア案が相互の領土保全・清国に関する諸権利の行使に関する相互援助などを一般的に規定するにとどまったのに対して、日本側対案は、@両国は、清国の独立および領土保全ならびに同国における列国商工業の機会均等主義を承認する、A満州に分界線を設け、鉄道・電信の利権に関し南は日本、北はロシアの活動範囲とする、Bロシアは、日韓関係の「今後の発展」を妨害・干渉しない、という新たな条項を加えたものであった。@は欧米諸国に対するたてまえの尊重と、ロシアの蒙古侵略の牽制、Aは満州の実質的勢力範囲への分割、Bは「今後の発展」ということで韓国併合を認めさせることなどをねらったものであった。

  これに対してロシア側は、基本線で合意したが、日韓関係の「今後の発展」が併合をも含むとすれば、協約による利益は均衡がとれないとして、日本は蒙古をロシアの勢力範囲と認めよとの要求を持ち出してきた。この内蒙古までも勢力範囲にとり込もうとするロシアの要求に日本側は強く反発し、6月14日の元老会議では、ロシアが譲歩しなければ、韓国と蒙古に関する条項をともに削除して協約を成立させるとの方針が決定された。この決定を伝えられた伊藤韓国統監は、韓国条項の全面削除に強く反対する意見を送ってきたが、ロシア側も外蒙古だけで満足すると譲歩してきたため、ようやく7月30日ペテルスブルクでの調印にこぎつけたのであった。結局問題となった勢力範囲に関する条項は、本協約付属の秘密協定とされ、そこには、前記の満州における鉄道・電信に関する分界線、日韓関係の「今後の発展」に関する規定に加えて、日本は外蒙古におけるロシアの特殊利益を承認するとの新たな項目が付加されていた。

  日露協約についで、そのひと月後に英露協約が成立したことは、イギリス・ロシア・フランスの、当時「三国協商」と呼ばれた陣営が形成されたことを意味した。そしてこの三国協商と、ドイツ・オーストリア・イタリアの三国同盟との対立が第一次大戦にまでいたるのであり、また日露協約もその後改訂をくり返し、第一次大戦で帝政ロシアが崩壊するまで、日本の対中国政策の基軸をなすものとなるのであった。



13 明治四一年度予算案と蔵相・逓相の辞職

こうした対外政策についての活発な動きがみられた明治40年前半期に、内政面では内閣は次第に苦境に陥りつつあった。前年以来の企業熱、投機熱は40年1月にピークをむかえたが、これまで高騰をつづけてきた株価は1月20日を境にして反落に転じ、経済全体が不況のなかに落ちこんでいった。そして基礎の弱い中小銀行は破綻し、3月29日に第百三十八銀行が支払を停止しだのを皮切りに、支払を停止したり取付さわぎにあった銀行は4月に4行、5月に10行、6月に21行を数え、以後小康状態を示したものの翌41年3月には再び12行と増加、40年3月から41年7月までに取付合計139行、閉店合計47行に及んだ。しかもそのうえ、40年10月アメリカもまた恐慌に見舞われ、その結果生糸をはじめとする輸出貿易は深刻な打撃をうけ、日本の不況も一層促進されることとなった。

  このような経済状態の悪化は、すでに軍備拡張などいわゆる戦後経営関係経費の増大によって極めて困難な状態におちいっていた国家財政を、一挙に破綻せしめることとなり、明治四一年度予算案の編成にあたっては、約1億円にのぼる歳入不足となることがあきらかになってきた。これに対し阪谷蔵相は、一時借入金、国庫剰余金、俘虜収容費償還金などを繰り入れてつじつまを合わせるとしても、明治四二年度には約5000万円の増税がど うしても必要となると主張した。そして11月6日の閣議では、四二年度の増税をあらかじめ上奏し裁可を得て 確定したうえで、四一年度予算を確定するという方式を提案したが、これには原内相らは強い反発を示した。

  原は「今年に於て増税の説をなすは対議会策に於て最も忌むべき事」(「原敬日記」第二巻267ページ)と主張しているが、そこには、翌41年3月の第二四議会終了とともに衆議院議員の任期が満了し、総選挙を行なわねばならない、という 事情が強く考慮されていたのであった。したがって原にとっては、増税問題はたんなる財政問題をこえて、重大な政治的争点と感ぜられるようになっていた。「山県系は現内閣をして増税せしめんと企て居るは疑なき事実」 とみる原は、11月12日には西園寺首相を訪問して「如何なる事あるも明年の総選挙を終るまでは政府を退かざる」(「原敬日記」第二巻268・269ページ)決心をうながし、増税案には強い抵抗を示した。

  しかし経済問題に強い発言力を有する元老井上馨は増税により財政の基礎を強固ならしめるべきだとの健全財政主義をとり、11月25日に行なわれた山県・松方・井上三元老と西園寺首相、阪谷蔵相との会談では、元老側は一致してつぎの議会に増税案を提出することを要求した。これに対し翌日の閣議では「増税を今期議会に提出する事は不可なり、事業繰延は之を努め、已むを得ざる部分のみ公債を募集すべし、日本銀行増資云々は明年借替の1億万円に対し好方法を按出せば之を廃するも可なり、否らざれば此方法による外なしと云ふに一決し、其趣旨を以て阪谷より元老等に説く事となせり」(「原敬日記」第二巻271ページ)という(文中の「日本銀行増資云々」とは日銀券増発のための措置を推している)。

  しかし元老側は、この阪谷蔵相の説得に応ぜず、原も井上と会談するなどしたが、結局元老側の健全財政主義をくずすことはできず、事業繰延べと増税とを組み合わせて、予算案を編成替えすることになった。したがってつぎは各省の繰延べ額と増税種目の決定をめぐる折衝に移ったが、内閣側は難関とみられる陸海軍予算の繰延べ額については、井上・桂らにあっせんを求めている。その結果、継続費計画に対して陸軍は2000万円ずつ3か年、海軍は6か年で5200万円という数字が出され、増税は酒税・砂糖消費税の引上げ、石油消費税の新設のほか、たばこの定価が値上げされる、という形で四一年度予算案の骨組みができあがった。そして12月16日の臨時閣議には、閣僚以外に松方・井上・桂(山県は病気のため不参)が出席し、予算決定案に閣僚とともに署名している。

  これで紛糾した予算問題も一応解決をみたが、ここで元老側が署名までしたことは、この段階で見落されていた点の修正をも困難にするという別の問題を生じさせることとなった。例えば、決定案署名直後に、大蔵省作製の治水費繰延べ案が、実は主管官庁である内務省がまだ承認を与えていないものだったという問題が生じたが、桂らは、さきの決定案を修正するのなら自分の署名を除いてくれと言い出す有様となった。このときは原内相の譲歩でおさまったが、つぎの鉄道予算問題は、閣僚の辞任にまで発展していった。

  鉄道予算は、さきの鉄道国有の実施とともに設けられた帝国鉄道特別会計によって運営されることとなっていたが、山県逓相は国有化を機に新たな鉄道拡張を計画、四一年度予算に、既定の経費1億3800万円に加えて、さらに1億3400万円を12年間の継続費として計上しようとした。この計画は閣議の承認を得、また諮問機関である鉄道会議の決議をも得ていたものであったが、しかしさきの元老の承認を経た予算案には含まれておらず、山県逓相が改めて確定予算への計上を求めたことから紛議がもちあがった。

  すなわち阪谷蔵相は、既定の経費すら繰りのべて財政の緊縮をはかっている際に、鉄道のために新たに巨額の経費を出すことはできないとし、また元老たちは、さきに署名までして決定した予算を変更することに強く反対 し、蔵相の責任を問うという有様となった。しかし逓相はその主張をかえず、この対立が解けないとみた西園寺首相は、41年1月13日、阪谷・山県両相とともに辞表を提出、翌14日他の閣僚もこれにならったため、内閣総辞職の形となった。これに対して天皇は、ちょうど帰国中だった伊藤博文の意見をもとめ、阪谷・山県の辞表のみ受理し、他の閣僚の留任を命じた。内閣は、松田法相に蔵相を、原内相に逓相を兼任させ、予算問題は元老の意見に従うということで当面の危機を脱した。しかしこのときすでに元老側は内閣を見はなしつつあり、その翌日1月15日桂太郎は山県有朋に対して「財政と云ひ外交と云ひ、内務と云ひ、一つとして内閣全体之統一とては見るもの無之、此儘押し移り候ときは国家丸は何れの港に到着可仕か、甚以掛念之至に御座侯」(徳富猪一郎「公爵桂太郎伝」 坤巻大正6年336ページ)と書き送っている。



14 不信任案の否決と総選挙の勝利

閣内不統一の危機をのりこえたとはいえ、この弱体化した内閣に対して、各党派は一せいに攻勢をかけてきた。攻撃目標は財政問題であり、憲政本党、大同倶楽部、猶興会はそれぞれに内閣不信任案を用意した。結局三派協議の結果、まず猶興会案を原案とし、それが敗れたときには、大同倶楽部案をもって争うこととし、主として増税計画を非難した猶興会案が1月23日の衆議院本会議に上程された。

  この三派提携の成立は、内閣の立場を極めて困難なものにし、21日の閣議では、若し不信任案成立の場合には、議会に対し停会か解散かの措置をとることとし、西園寺首相はあらかじめ天皇の裁可を得ていたが、当日の議場でも形勢不明とみた原内相は名刺の裏に「政府党は目下僅に十名の多数なるが如し、併し反対党は出席者増加するが如し、因て勝敗共に僅少の差となる、或は敗軍とならんも知れず、然るときは直に解散をなすの外なし」(「原敬日記」第二巻285ページ)と記し回覧して閣僚の同意を求め、解散詔書をも用意させた。しかし政府側はかろうじて優位を保ち9名の差で不信任案は否決された。野党側もそれ以上深追いはせず、大同倶楽部の決議案はとりさげられた。解散は避けられたとはいえ内閣が発足したときにはこの内閣の与党であった大同倶楽部が今や不信任案を提出するまでに変化したことは、山県・桂系勢力が倒閣の方向に動き出したことを意味するものであった。これに対して、内閣側では原内相が内閣維持のために積極的に動いていた。

2月25日、西園寺首相と会談した原は、山県系がこの内閣は議会終了とともに辞職するなどと言い触らしているようだが、そんなことなら不人気の増税案の成立に苦しむことはない、「増税を断行する已上は此政府の下に選挙を施行すること並に首相は断乎として現内閣の維持を計ることの決心を必要とする」と説き、また「選挙後にても辞意を漏すことは絶対に慎まれたし」(「原敬日記」第二巻286ページ)と強く申し入れている。

  当時、増税に対しては、商業会議所をはじめ各種実業団体の反対運動が全国的に展開され、実業家の最初の組織的な政治運動として注目されていた。すなわち、1月21日の全国商業会議所臨時連合会以後、連日のごとく各地で集会が開かれ、2月6日の全国実業団体連合大会では、増税に賛成する者は将来代議士に選挙しないという決議まで行なわれている。原内相はこのような運動を「不穏の挙動」とみ、治安警察法で弾圧することも考えたが、商業会議所を監督する松岡農商務相はこれを不問に付し、増税反対の声を高からしめていると非難してい る。

  2月22日に増税関係法案が、3月5日に予算案が通過すると第二四議会もやまをこえた観があり、内閣のつぎの課題は、専任蔵相・逓相を補充して内閣を強化し、議員任期満了に伴う総選挙にそなえることであったが、 これらの問題ではいずれも原内相が中心となっており、そこでは政友会の強化がもくろまれていた。

  蔵逓相後任問題では、原はまず、貴族院の男爵議員などからなる木曜会の首脳である千家尊福(男爵)を逓相 として入閣させ、貴族院に政友会と提携する勢力をつくりあげることを考えていた。ところが後任問題が具体化しつつあった2月21日、報知新聞記者の辰巳豊吉が原を訪れ、貴族院最大の会派である研究会が現内閣支持に動きつつあり、それを固めるのには幹部の堀田正養を入閣させるのがよく、本人にもその意思があるとの情報を もち込んだ。貴族院工作に熟を入れていた原にとって、これは願ってもない話であった。それに堀田はさきの郡制廃止案問題などで研究会に働きかけるさいのルートとしてこれまでも原が利用してきた人物であった。

3月4日、同12日と、堀田と会談した原は「衆議院に於ける多数党即ち政友会と貴族院に於ける研究会並に木曜会と提携して国政を運用せば憲政上稗益する所甚だ多かるべし」(「原敬日記」第二巻293ページ)と説き、山県系勢力の強い茶話会との関係を気にする堀田に対して、「到底茶話会とは絶望なり」(「原敬日記」第二巻295ページ)と断じている。つまり原は、山県あるいは桂系勢力と対抗する形で貴族院に親政友会勢力をつくりあげようとしていたのであった。

この人事工作は原が西園寺を動かし、西園寺が伊藤博文の了解をとるという形で進められ、最初の予定とは少し異なったが、3月25日になって、司法大臣に千家尊福、逓信大臣に堀田正養が任命され、松田正久が専任の大蔵大臣となった。原は日記に「此更迭により木曜会は純然たる政府党となり、研究会亦従来の態度を改めて現内閣に接近する筈なれば政友会の勢力範囲は多少貴族院に及ぶの端をも啓きたるなり」(「原敬日記」第二巻300ページ)と記している。

  こうして自らの構想による閣僚人事を実現した原敬は、5月15日に実施された総選挙でも政友会一党で過半数を制するという大勝利を獲得した。すでにこの内閣が成立して以来、政友会地方支部の再建・新設があいついでいるが、そうした地方組織の強化は、前年の40年9月に行なわれた地方選挙にも現われていた。すなわち定員合計1563名のうち、政友738名、准政友109名、憲本263名、准憲本29名、大同27名、雑派165名、中立232名となっており(小林雄吾編「立憲政友会史」第二巻大正13年410ページ)、地方議会でも過半を制していたことが知られる。 そしてこのような基礎のうえに立って戦われた総選挙では、政友会は190名を当選させ、憲政本党77名、大同倶楽部32名、猶興会第27名、無所属53名を大きく引き離したのであった。このなかで選挙前とくらべて最も減少しだのが大同倶楽部であり、彼らは益々原内相への反感をつよめたと思われる。



15 倒閣の策謀と内閣総辞職

政大会が絶対多数となった以上一度はこの大与党を背景として議会を乗り切らねばならないというのが原敬の考え方であったが、しかしこのころになると元老勢力のなかの反政府的な動きも次第に露骨になってきていた。そしてその際にまず問題となったのは財政問題であった。明治四一年度予算案の編成が難航したことはすでにのべたが、予算成立後も経済不況は回復せず、予算の実行にさえ困難となったので、元老井上馨は「松方と連名で西園寺首相始め閣員を内田山邸に呼集め、寧ろ弾劾に近い詰問を為した」(井上馨侯伝記編纂会編「世外井上公伝」第五巻昭和9年185ページ)という。これに対して原内相は「井上が財政云々をなすは例の消極論を桂等利用して早く政権に有つかんが為めなり」とし、井上の財政論の背後に桂の倒閣への動きを感じとっていた。しかしこれは「桂が山県、松方、井上を利用し て財政上の困難によりて内閣を譲り受けんとの野心を生じたるものなれども、少くとも此冬の議会を過ぎざれば内閣を譲り渡すべき理由なし」(「原敬日記」第二巻306・307ページ)というのが原の基本的態度であった。問題が財政のみであれば、まだ原のねばりが奏功する余地があったかもしれないが、さらにそのうえに社会主義取締り問題がもち出されるにいたって、ついに西園寺内閣も退陣を余儀なくされたのであった。

明治41年6月23日、徳大寺侍従長より社会主義者の取締りについて説明を求められていた原内相は、この日参内して徳大寺からこのことが、山県有朋の上奏に起因していることを知らされた。徳大寺の言によれば「山県が陛下に社会党取締の不完全なる事を上奏せしに因り、陛下に於せられても御心配あり、何とか特別に厳重なる取締もありたきものなりとの思召もありたり」とのことであり、原は「山県の陰険なる事今更驚くにも足らざれども、畢竟現内閣を動かさんと欲して成功せざるに煩悶し此手段に出たるならん」(「原敬日記」第二巻308ページ)と評している。

  このときの上奏の内容がどのようなものであったかは明らかでないが、山県のこの内閣への不満は在米日本人社会主義者の過激化とともに急速に増大してきていた。すでに明治39年12月、日本人グループが発刊した雑誌『革命』がサンフランシスコを騒がせたことは前述したが、このグループはさらに40年11月3日の天長節(明治天皇の誕生日)に「暗殺主義第一巻第一号、日本皇帝睦仁君ニ与フ」と題するパンフレットをつくり、サンフランシスコ日本領事館の壁にはりつけるという挙に出たのであった。彼等はその実行に何の準備も持たなかった とは言え、このパンフレットは「睦仁君足下、憐レナル睦仁君足下、足下ノ命ヤ旦タニ迫マレリ、爆裂弾ハ足下ノ周囲ニアリテ将ニ破裂セソトシツヽアリ」(「明治文化全集 社会編改版」577ページ)と天皇暗殺を宣言して人びとを驚かせたものであった。

  この事件に関連して山県有朋は、ちょうど渡米中であった東京帝国大学教授高橋作衛から、在米日本人社会主義者に関する詳細な報告を得ていたと推測されている。そして山県は、日本国内の社会主義者にこうした天皇打倒を叫ぶ動きが伝わってくることをおそれたのであった。日本社会党が結社禁止処分に付されたのち、社会主義運動内部における硬軟両派の対立はいよいよ激化していったが、直接行動派も、金曜講演会を組織するなどして活動をつづけており、前記[暗殺主義」パンフレットも相当数、日本国内に郵送されたといわれる。

  ところで原が徳大寺侍従長から山県上奏の件を聞かされた前日の6月22日には、社会主義者の間でいわゆる 「赤旗事件」が起こっている。これは6月18日仙台監獄を出獄した山口孤剣(『平民新聞』に「父母を蹴れ」を書いて起訴)の両派合同歓迎会で、大杉栄・荒畑寒村らが「無政府共産」「無政府」などの文字を白テープで縫いつけた赤旗をふりまわして軟派への示威を行ない、さらに戸外で警官隊と衝突、男9名、女4名が逮捕されるという事件であった。事件そのものは、硬派の軟派に対するいやがらせとして計画されたものにすぎなかったが、取調べは意外に厳しく、また彼らが出たあとの留置場の壁に

「一刀両断天王首 落日光寒巴黎城」 (一刀両断す天王の首 落日光寒しパリの城)

  という誰が書いたかわからない漢詩が書かれていて大騒ぎとなっている。この詩は直接にはフランス革命をうたったものであるが、それがさきの「暗殺主義」に結びつけてみられるようになるのは必然であった。「赤旗事件」は裁判においても、大杉栄の重禁錮2年半、罰金25円を筆頭とするこれまでに例のない重刑を課せられている。

ところでこの「赤旗事件」の5日後の6月27日、西園寺首相は大磯の自邸に原内相、松田蔵相の政友会出身両閣僚を招き、「近来多病にて今日まで強て留職せしも到底其任に堪へず」(「原敬日記」第二巻309ページ)と辞意を告げた。原らは、今辞職するのは時機が悪いし、誰も病気のためやめたと思う者はいない、この冬の議会を終わったのち、内閣が際限なく続くことは国家のためにならないとの趣旨を公然と発表して辞職するのがよいと説得したが、西園寺の辞意をひるがえさせることはできず、結局7月4日西園寺は閣僚の辞表をまとめ、内閣は総辞職したのであった。

しかし、何故西園寺首相がこの時期に突如として辞職してしまったのか、今日でも明らかてはない。原は西園寺から辞意を告げられた翌々29日、元老の一人井上馨と会い情勢を探っており、「井上の此談話によれば西園寺は四面より辞職を促がされた如く見ゆ」と記しているが、同時に「果して然らば余に内話あらば余は亦相当の処置も取り得たるに、彼何故か余に漏らさず、而して表面的に辞職の決意を告ぐるとは其意を解すべからず」(「原敬日記」第二巻309ページ)として、西園寺の真意をはかりかねてもいた。そしてこの点に関しては、その後も二つの見方が存在している。

  その第一は、次第に深刻となってくる財政問題を元老たちから追及された西園寺首相はすでに第二四議会終了直後には辞意を固めていたが、総選挙実施が既定の事実となっていたため、政界を混乱させることを避け、総選挙後の適当な時期に辞職したのだという説である。この説が相当の根拠を持つことは、すでにみてきたところからも明らかであるが、しかし、社会主義取締りに関する山県の上奏・「赤旗事件」・「天王の首」落書問題こ西園寺内閣総辞職という6月下旬から7月初めにかけての事件をならべてみると、西園寺内閣は山県に毒殺された、 というもう一つの見方を否定するわけにもゆかなくなる。まして「赤旗事件」は山県のスパイ政策によって計画的に拡大されたという説(飛鳥井雅道「幸徳秋水」昭和44年133・134ページ)を加えてみると、この見方の方が一層強く真実味をおびてくるよ うにも思われるのである。

  ともあれ、この内閣は、元老勢力を背景として成立し、その拘束をふりほどけないままに崩壊していったのであった。


満鉄と満鉄付属地

第一次回園寺内閣が実現した仕事のなかで最も華やかなものは、南満州鉄道株式会社(通称「満鉄」)の設立であったと言えるかもしれない。満鉄の第一回株式募集が開始されたのは明治39年9月10日、株数9万9000株(10万株のうち1000株は重役持株)であったが、締切りの10月5日までの一と月足らずの聞に、申込みは実に1億664万余株、1077倍をこえるという熱狂的な情況が現われ、当時の人びとをおどろかせたものであった。その結果、全株を一人で申し込んだ大倉喜八郎に対しても、わずかに91株が割りあてられるにすぎないこととなった。

  当時は、ちょうど一般の投機熱が極めて盛んであり、「成金」という言葉が使われるようになった時期ではあるが、それにしてもこの現象は異常であった。したがってそこでは、このブームを意識的に煽る政策が取られたともみられている(安藤彦太郎編「満鉄」昭和40年49ページ)。すなわち、満鉄はロシアと清国との条約を引きついでいるため、日清両国人を株主とする株式会社というたてまえがとられており、このたてまえの下で、日本政府が経営の実権を掌握しようとすれば、株式ブームを煽って満鉄の株主を分散させてしまえば、たとえ中国人が株主になったとしても、その発言力を 実質的に封ずることができるというわけである。

  このことは、他の面から言えば、満鉄がたんなる鉄道会社ではなかったということであり、そのことを最もよく示しているのは、満鉄付属地の存在であった。付属地とは露清間条約では、鉄道の建設・経営のために必要な土地であり、鉄道会社に排他的行政権が与えられた土地であった。 この原条約を引きついだ満鉄は、いわば領土を持ち行政権を持つ特殊な会社となるわけであるが、さらにそのうえ、付属地の規定があいまいなのを利用して、日露戦争中に日本軍が買収・没収した土地をも付属地のなかにとり込んでいるのであり、そのことが満鉄の性格を一層特殊なものにしていったと考えられる。そしてその結果、付属地とは字面から予想されるような、鉄道線路を中心とする極めて細長い土地なのではなく、むしろ市街地の方が面積の上でも大きくなっていった。例えば、奉天付属地の場合をみる、鉄道用地108万平方メートル、市街用地430万平メートルとなっている。

  そしてこうした問題を最も象徴的に示しているのは、安東の付属地であろう。ここは元来ロシアの鉄道利権とは全く関孫のないところであり、日本側は戦争中に軍用鉄道として敷設した安泰線(安東―奉天)を満鉄の一部として認めさせ、安東の広大な土地(335万平方メートル)を満鉄付属地としてとりこんでしまったのであった。

  熱狂的な満鉄株ブームと、どん欲な付属地のとり込みとが、どこでどうつながっているのかは、この時代の日本の全体的なあり方のなかで問い直されなくてはならないであろう。




主要参考文献・史料

〇白柳秀湖「西園寺公望伝」昭和4年 日本評論社
〇竹越与三郎「陶庵公」昭和五年 叢文閣
〇原奎一郎編「原敬日記」第2巻昭和40年 福村出版
〇前田蓮山「原敬伝」下巻昭和25年 東京出版協同組合
〇伊藤正徳「加藤高明」上巻昭和4年 加藤伯伝記編纂委員会
〇故阪谷子爵記念事業会編「阪谷芳郎伝」昭和26年 同記念事業会
〇徳富猪一郎「素空山県公伝」昭和4年 山県公爵伝記編纂会
〇徳富猪一郎「公爵桂太郎伝」坤巻大正6年 桂公爵記念事業会
〇井上馨侯伝記編纂会編「世上井上公伝」第5巻昭和9 内外書籍
〇大山梓編「山県有朋意見書」昭和41年 原書房
〇鶴見祐輔編「後藤新平」第2巻昭和12年 後藤新平伯伝記編纂会
〇宮内庁編「明治天皇紀」第11・12巻昭和50年 原書房
〇鹿島守之助「日本外交史8」昭和45年 鹿島研究所出版会
〇外務省編「日本外交文書」第39巻第1冊・第40巻第1冊昭和34・35年 日本国際連盟協会
〇小林雄吾編「立憲政友会史」第2巻大正13年 立憲政友会史出版会
〇升味準之輔「日本政党史論」第2・3巻昭和41・42年 東京大学出版会
〇山本四郎「日本政党史」下昭和55年 教育社
〇揖西光速・加藤俊彦・大島清・大内力「日本資本主義の発展V」昭和34年 東京大学出版会
〇明石照男・鈴木憲久「日本金融史」第1巻昭和32年 東洋経済新報社
〇鉄道大臣官房文書課編「日本鉄道史」中巻大正10年 鉄道省
〇安藤彦太郎編「満鉄」昭和40年 御茶の水書房
〇社会文庫編「在米社会主義者・無政府主義者沿革」昭和39年 柏書房
〇明治文化研究会編「明治文化全集 社会編改版」昭和30年 日本評論社
〇労働運動史料委員会編「日本労働運動史料」第2巻昭和38年 東京大学出版会