1 組閣の内幕
第2次桂内閣が成立満3年を迎える明治44年7月ごろになると、ジャーナリズムでもこの内閣は近々に退陣すると予想されるようになっており、当時の代表的総合雑誌『太陽』も7月号で「後継内閣に対する希望」と題して、政財界人7氏の談話を特集していた。そして実際にもこの特集の企画が進められていたころの6月8日には、政友会最高幹部の1人原敬が、同党総裁西園寺公望を訪問し、桂からの政権授受を前提として、次期内閣の閣僚選考について打ち合わせている。すでに、政友会との「情意投合」によって、第27議会をのり切った桂首 相は、同議会終了と同時に、条約改正を終えた8月ごろには政権を譲るとの意向を原と西園寺とに伝えていた (「第二次桂内閣」参照)。
この後も原は、しばしば桂首相を訪れて政権授受の円満を期すると同時に、桂に対して、憲政発展のためには議員や政党の地位を安定させる必要があることを力説し、その具体策として、金のかからぬ選挙のための小選挙区制の採用、文官任用令緩和による各省参事官などへの両院議員の登用、貴族院勅選議員への政党員の任用などを提議していた。このことは原が、政党、とくに政友会の地位を高めることが憲政を発展させることになると考え、そこに具体的目標をおいて、政治行動を展開するようになってきたことを意味しており、原はつぎの内閣組織をもできるだけこの方向にリードしようとしたのであった。
原は、44年6月6日桂首相と会談して8月末の政権授受を確認すると、翌々8日には西園寺を訪問、桂との会談について報告すると同時に、次期内閣組織のやり方について、「今後政界の情況並に我党内の事情を察するに、今回は閣内の一致して外間の圧迫に堪ゆる必要あるに因り、一時の都合を計りて異分子又は他の推挙せし者を採用するは甚だ不得策なり」(原奎一郎編「原敬日記」第3巻昭和40年134ページ)と強く進言し、西園寺を同意させている。つまりこの会談で、今回は第1次西園寺内閣のてつをふむことなく、桂や山県系勢力などの動向を出来るだけ気にかけず、彼等に相談を持ちかけることもせずに組閣を行なうという基本方針が決定されたのであった。
さらにこのとき、大蔵大臣には興業銀行総裁の添田寿一か勧業銀行の山本達雄、外務大臣に駐米大使の内田康哉、政友会からは原と松田正久に長谷場純孝を加え、さらに元田肇をも考慮する、という線を原が主張し、西園寺は牧野伸顕をも入れないわけにはゆくまいとのべている。このうち大蔵については西園寺が原に「君がやっては如何」とすすめたが、原は経済状態が悪いこの時期に引きうけても価値はないとし、地方政治を統轄する内務大臣の地位を望んだ。そして大蔵大臣は次官の若槻礼次郎がなかなか切れる男だから昇任させることも考えられるが、しかし彼は桂首相兼蔵相の下での次官だから、桂に頭が上がらないだろうし、また日本銀行総裁の高橋是清に対抗するだけの力もあるまいとし、桂と高橋とに対抗しうる人物として添田、山本をあげたのであった。内田についても原は「内田は官僚系の人物にあらず、且つ余等も陸奥伯已末の関係にて打明相談も出来得る訳なり」(「原敬日記」第3巻135ページ)とのべており、彼が桂・山県系人物を排し、これと対抗しうるカのある人材を吸収することを 組閣の1つの方針としようとしていたとみることができる。したがって、牧野伸顕については、桂・山県の長州閥に対抗する薩摩閥に属する点であえて異議は唱えてはいないが、同じ藩閥の一員という点では、あまり好意を持ってはいなかったようにみえる。
組閣に関する原のもう1つの方針は、政友会から出来るだけ多く閣僚を出そうという点にみられた。彼は政党に人材がないという当時の一般的な見方に反発して、「官僚に人物ある様に思ふも、其実は官歴ありて(大臣に しても)可笑くなしと云ふ迄にて大概知れたもの」とのべているが、この見方からいえば、政党員でも適当な地位につけておけば、次には入閣してもおかしくなくなるわけであり、「党内に入閣し得べき人物を1人にても多く作り置く」ことが、政党の地位を高める近道だと考えていたのであった。それ故、政友会員を1人でも多く大臣とすることはもちろん、そのほかにも、鉄道院総裁とか拓殖局総裁とか、あるいは特殊銀行総裁といった地位に、出来るだけ党員を送り込もうとしたのであった。そしてこうした原の方針が、実際にも、第2次西園寺内閣の組閣に強い影響を与えたのであった。
しかし、こうして組閣の実質的中心となった原も、軍部大臣については手のつけようがなく、この点では桂の影響力を受けいれざるをえなかった。桂からは実際に組閣が進められる段階になって、朝鮮総督を兼任していた寺内陸相は総督専任に、陸相は石本新六次官の昇任、海軍は斎藤海相の留任か前次官の加藤友三郎の起用という線が示されている。
明治44年8月25日第2次桂内閣が総辞職すると、すぐその翌日には、西園寺、原に松田正久(原とならぶ 政友会の最高幹部)を加えた3人の間で、さきの原の構想にそった形で閣僚選考はさらに具体化され、外務・内田康哉、内務・原敬、大蔵・山本達雄、司法・松田正久、文部・長谷場純孝、農商務・牧野伸顕のほか、はじめ元田肇の起用も考慮されていた逓信には、元外相の林董をあて、元田は拓殖局総裁とすること、また後藤新平の鉄道院総裁留任は桂が強く希望するところであるが弊害が多いから更迭すること、などが決定された。
西園寺に対して実際に組閣の大命が下されたのは、28日午前であったが、その午後にはさらに前記3人の協議がつづけられ、陸相に石本新六、鉄道院総裁は原の兼任とすることなどを決定、同時に内定者との交渉が行なわれた。海相問題だけが翌29日にもちこされたのは斎藤海相が旅行中だったためであるが、ここでは斎藤が、留任の条件として海軍拡張案を持ち出し、金額はともかく、拡張の方針だけは承認してほしいと要求したため、若干問題が生じた。西園寺は、財政上の調査をしなくては、そのような方針を確定することは出来ないとした が、斎藤も結局、拡張案の閣議提出を認めるということで折り合い、これで全閣僚の顔触れが決まったため、30日午後3時から閣僚親任式が行なわれ、第2次西園寺内閣は正式に成立している。なお内田駐米大使が帰国するまでの間、外務大臣は林逓相の兼任とされた。
この閣僚の顔触れが原敬から正式に桂前首相に知らされたのは、30日の親任式の直前になってからであり、 この新内閣の組閣に全く意見を求められなかったことは、桂の強く不満とするところであった。この日、桂は山県有朋にあてて、新内閣の成立を報じているが、山本蔵相については「これは意外千万なり」とし、「前陳の顔揃にて、内閣組閣丈けは出来侯得共、如何の事に可成候哉、殊に大蔵の如きは、覚束なきものと心配に御座侯」(徳富猪一郎「公爵桂太郎伝」坤巻大正6年554ページ)とのべて、その不満をぶちまけていた。しかし、これに対して原は「山本は桂の為めに日本銀行を逐はれ、先頃勧業銀行法の改正案にも山本を苦しめたる形跡あり、桂の喜ばざる所なる事は始めより予知せられたる事にて又然るが故に山本を挙げたる意味もある訳なり」(「原敬日記」第3巻161・162ページ)とのべているのであ り、この点からいえば、第2次西園寺内閣の成立は、「情意投合」の関係に終止符を打つものだったともいえよう。
2 明治四五年度予算をめぐって
しかし、原敬がこうした政治的思惑をもって実現した山本蔵相も、原の意のままに動く存在ではなく、また政策面では最初から意見の対立が表面化した。まず原は、山本を蔵相にしたあとの日本勧業銀行総裁に、これまで桂との連絡役などに使ってきた政友会代議士野田卯太郎を押し込もうとし、西園寺首相より山本蔵相に提議してもらうことにした。
ところがこれに対して山本は、政党員を特殊銀行総裁の地位につけることに反対だという原則的立場をとり、副総裁志村源太郎の昇任を強く主張してきた。しかしこの点は原にとっても原則的問題であり、「山本が政党員は如此場所に入るべからずと主張せし事が通る様になりては将来の為め妙ならず」(「原敬日記」第3巻175ページ)として、「山本が政党首領を総理に戴ける内閣に入りて依然政党嫌をなすの不条理」を説き、あるいはまた「政党員をして向上心を起さしむるは国家の利益」(「原敬日記」第3巻165ページ)なることを主張して山本の説得を試みたが、山本の意見を変えさせることは出来なかった。この問題は原の抵抗によって長びいたが、結局西園寺首相も山本に同調し、12月27日に至って山本の主張どおり、志村副総裁の総裁昇任が実現している。
要するに原は山本を十分に政友会に同調させることが出来なかったわけであるが、そのことは、第2次西園寺内閣が、山県・桂系勢力に対しては一定の独自性を確立することに成功したものの、その内部を政友会の立場で統一するまでには至らなかったことを意味しており、原と山本の対立は、明治45年度予算案をめぐって一層深刻な形で展開されることとなった。
当時、明治40−41年の不況は一応緩和され、43年には企業の新設・拡張計画も再び上向いて、いわゆる 「中間景気」が現われてきたが、その反面、貿易は入超に転じ、入超額は、43年5600万円、44年6600万円と急増していった。そしてこの額は、日露戦争以来の政府・民間の外債合計約20億円の利子として年に1億円をこえる外国への支払いに加算されるわけであり、政府の所有正貨を急速に減少させ兌換制度の基礎を危うくするものであった。
このような経済状態に対処するため、山本蔵相は緊縮財政主義をとり、新規事業は一切認めないとの方針で、 45年度予算の編成にあたった。この緊縮主義は、正貨の欠乏を憂慮する元老井上馨の支持するところでもあり、井上は10月4日、日銀総裁高橋是清とともに西園寺首相、山本蔵相、原内相と会談してこの点の申入れを 行ない、さらに11月20日には渋沢栄一とともに首相官邸を訪れ、財政整理に開する意見書を提出するに至っている。
これに対して原は、この意見書は「其論陳腐なるのみならず、山本が大蔵省より提議したると殆ど同様の申出」(「原敬日記」第3巻187ページ)にすぎないと評しているが、原は政友会の立場から、こうした消極一点張りの方針に反対していたのであった。当時、政友会の方針は「積極主義」として特徴づけられていたが、その内容は、この年1月19日の政友会定期大会の宣言でみると、「産業の発達、税制の整理、鉄道の普及、港湾の改良、治水の完成、教育制度の釐革、司法制度の改善」(小林雄吾編「立憲政友会史」第3巻大正14年332ページ)などの項目で示されているが、そのなかでも「鉄道の普及」と「港湾の改良」を最重視するものであった。例えば、同大会につぐ第27議会では、政友会から松田正久外7名提案の形で「港湾改良に関する建議案」が出されているが、そこには「港湾の修築改良は鉄道の敷設と相俟て産業及貿易発展の為に最急務とする所なり」(「立憲政友会史」第3巻380ページ)とする政友会の立場が強調されていた。 そしてこの港湾も鉄道も、この内閣では、内務大臣兼鉄道院総裁としての原の管轄下に置かれていたのであった。
原はまず10月3日、山本蔵相の消極方針に対して「生産的事業は大にカを尽さ」(「原敬日記」第3巻173ページ)ねばならないと釘をさしているが、さらに、この内閣の組閣の中心となった西園寺、松田とのトリオで予算編成をもリードしようとした。そして11月20日には三者会談の結果を自ら筆をとってつぎのような覚書とし、これを西園寺が閣議に提案することとした。
「四十五年度に於て行政上の大改革をなし、其結果より得たる余裕を以て財政上の欠陥を補填し、又減税、生産事業及国防の資に供すべしとなし、其他大蔵大臣より列挙して申出たる大博覧会、議院建築、国勢調査は延期 し、電話第三期拡張及び港湾改修補助費は預金局の預金を流用して之に充つること、又鉄道資金は公債を募集すること」(「原敬日記」第3巻187ページ)。
要するに、来年度に大行政整理を行なって財政上の余裕をつくり出すまでは新規の事業は行なわないという原則を立てながらも、電話、港湾、鉄道については例外として、特別の資金繰りを考慮するというわけであった。
しかし西園寺首相は山本蔵相を説得できずに逆に蔵相に同調し、11月24日の閣議では、原に港湾修築補助費の削除を求めてきた。ここでは原内相も閣議で孤立することは不利とみて、海軍拡張案と相打ちにする策に出ている。当時海軍は、世界の建艦競争に対抗するためには新たな建艦計画が必要だと唱えており、斎藤海相はすでに44年度予算編成にあたって新たな拡張案を提出していた。しかしこれが第2次桂内閣で認められなかったため、この内閣への留任にあたっても、この計画を再提出することを西園寺首相に予告していたものであった。
45年度予算において提出された海軍拡張案は、7か年継続費として総額3億5190万円を要求するものであったが、この海軍の動きに呼応するかのように陸軍からも軍拡の要求が出されていた。すなわち、陸軍もまた44年度予算編成以来、2個師団増設を要求しており、元老山県有朋は前内閣末期の7月31日、天皇と桂首相をはじめとする各閣僚に軍備拡張意見書を送ってこの動きをバック・アップしていた。しかしこうした軍の要求を受けいれては、健全財政主義による予算編成は不可能であった。
結局、海軍については拡張計画中最も焦眉の急と認められる戦艦3隻の建造(総額9000万円)を46年度から実行することとし、また陸軍の2個師団増設については、行政整理の結果をみて来年度で決定することとし、 45年度予算案では軍拡要求を認めないですませた。そしてその代わりに、電話の第3期拡張や港湾修築補助費も削ることで、一般会計予算案の骨子が決定された。このとき原内相はまだ、特別会計で運用されている鉄道予算についての望みをつないでいたが、この面でも山本蔵相の緊縮主義を破ることができなかった。このため原は 西園寺首相の態度を不満として辞表を提出するという一幕も演じているが、結局小規模の拡張をおり込むことで妥協せざるをえなくなっている。
原はこの予算を「別段消極も緊縮も之なく依然遣繰算段にて編成」(「原敬日記」第3巻194ページ)にすぎないと評しているが、普通歳入と前年度剰余金の枠内に歳出をおさえ込んだ点にこの予算編成の特徴がみられた。第28議会(明治44 年12月27日開会、明治45年3月25日閉会)では無修正で成立しているが、衆議院予算委員会で、予算に比較的余裕のある陸海軍当局は鋭意行政の整理、経費の節減を断行すべきだ、とする附帯決議が付されたことは、当 時の不況下で軍拡政策への批判が強まりつつあることを反映するものであった。
3 小選挙区制法案
予算案編成をめぐって山本蔵相とわたりあっていた原内相は、この間これと並行して衆議院議員選拳法の改正を準備しており、12月5日の閣議は、大選挙区制から小選挙区制への転換を中心とする改正案を第28議会に提出することを決定している。原はすでに前内閣末期の政権授受交渉に際しても、小選挙区制の必要を桂に強調 しているが、彼がこの時点でこの問題を強く押し出してきたのは、2つの観点からするものであった。
原は閣議決定10日後の12月16日に元老山県有朋を訪れ、小選挙区案への了解を求めているが、その際大選拳区制の弊害について、大選挙区のもとでは、@金銭による腐敗と、A過激なる言論による煽動が現われること、とくにその煽動から社会主義などの危険思想の広まることを指摘している。ここでは山県の社会主義嫌いを考慮して、とくに後の点が強調されているが、原にとっては、選挙の腐敗から買収されやすい議員が生まれ、それによって政党の運営が著しく困難になるという点も強く憂慮されていたのであった。そして前内閣時代における日糖疑獄事件と大逆事件の発覚が、原のこうした発想をうながす直接の契機と考えられるものであった。原は 第28議会において、この点をつぎのようにのべている。
「大選挙区の下に於ては、選挙人と被選挙人とは殆ど相関せざるやうなところがある。選挙の際のみ金銭若くは其他の方法に依って当選を計っても、選挙が済めばまるで選挙人と被選人との関係が、全く消滅してしまふやうな傾の処もある」、「追々選挙人が殖える、其殖える者は上流の者ではありませぬ。寧ろ下流の選挙人が殖えたのでありますから、其人気に投ずるやうなことを云ったり、或は或る事を教唆いたしますれば、それに依って投票を集めることが出来る。……露骨に申せば、社会主義でもあるかの如き、極端なことを申して当選を図ると云ふ者も、段々出て来さうにあるのであります。故に中間の穏健なる思想を持つ相当なる人格を具へて居る者は、益々困難をする。一方には過激なる言論を以て、下からは攻められ、他の一面には金を振撒いて投票を取られ、其間に穏健なる者が一番困ると云ふ傾きが見えます」(前田蓮山「原敬伝」下巻昭和25年157〜160ページ)。
つまり彼は、穏健な思想を持ち、相当の人格をそなえ、それぞれの地域で地位名望を有する者で議会を固めることが、政治を安定させる基礎であり、またそのことによって社会主義勢力の拡大を防ぐことができる。したがってまた、選挙人資格の緩和による選挙権拡張は当面の課題ではないと主張したのであった。
しかし党派的観点からみれば、この法案はすでに大選挙区制のもとで絶対多数を獲得している政友会をますます強力にすることは明らかであり、衆議院は政友会の力で通過したが、貴族院では、小選挙区制の部分を除いた修正案(改正案はほかに議員定数の増員、取締り規定の整備などを含んでいた)を可決しており、結局選拳法改正案は不成立に終わったのであった。
貴族院の大勢は、社会主義勢力の広がりよりも、政友会の強大化の方を現実の脅威とみていたといえる。第1次西園寺内閣以来の原敬の工作によって出来あがった華族談話会や伯爵同志会は44年7月の華族議員改選で壊滅的打撃をうけ、また政友会色を強めた木曜会は分裂するなど政友会の勢力はまだ貴族院に定着出来ずにいた。 この議会では小選挙区法案の審議をきっかけとして、純政友会系の団体・交友倶楽部(多額納税議員と勅選議員が中心)が旗あげしているが、その勢力はまだ19名にすぎなかった。しかし原敬は、貴族院へ政友会勢力を浸透させることに強く執着しており、第28議会閉会直後の4月2日には、杉田定一、江原素六、寺尾長輝の3名が貴族院勅選議員に任命されているが、このうち、杉田、江原は衆議院議員として活躍した政友会員であり、政党幹部としての経歴以外にはほとんど官歴なく、原の強い推薦によるものであった。原は「政党員にて貴族院に入りたるは之を以て始めとす」(「原敬日記」第3巻225ページ)と記している。
ところで、さきの小選挙区法案が激しい反発をうけたのは、1つには、この議会で実質的に議員任期が終わ り、総選挙が既定の事実として予定されていたからでもあった。すでに前年(44年)9月下旬から10月上旬 にかけて行なわれた府県会議員選挙では、当選者合計1589名中、政友会761名、准政友会87名、国民党323名、准国民党37名、中央派50名、准中央派1名、雑派104名、中立226名(「立憲政友会史」第3巻445〜447ページ)となっており、この当選者の約半数に達する政友会の力が、小選挙区割によれば、人為的により拡大されることは明ら かであった。しかし、大選挙区制のもとでも政友会の勢力ははなはだ強力であり、45年5月15日に実施され た第11回総選挙では、政友会211名、国民党95名、中央倶楽部31名、無所属44名と過半数をこえた。 これは、総選挙において、1党の当選者が200名をこえた最初の例であり、政友会はますますその勢いを加え たといってもよかった。
4 辛亥革命への対応
ところで、成立以来財政問題で悩まされてきたこの内閣は、他方では、辛亥革命の勃発という中国大陸の政治的大変動によってもまた、動揺を余儀なくされていた。
中国での清朝に対する革命運動は、すでに長い蓄積をもっていたが、それは清朝が諸列強の圧力に屈伏するごとに、それに反対して高揚するという民族主義的性格をもつものとなっており、辛亥革命もまた、外国資本の鉄道独占に道をひらくような、清朝政府の鉄道国有令に反対する広汎な民族主義的運動を背景とするものであっ た。革命は44年(1911年)10月10日、武昌で武装蜂起として開始されたが、この武昌蜂起が成功するや、革命の波はたちまちのうちに中国南部を席巻し、11月末までに、湖南、広東、四川、江蘇、浙江など11の省が清朝政府からの独立を宣言するに至っている。
駐米大使から外相に任命された内田康哉がこの革命の報を聞いたのは、帰国途上の阿波丸船上でのことであっ たが、10月14日東京に到着した内田は、ただちにこの事件への対策に忙殺されることとなった。すでに内田帰国の前日、10月13日の閣議で石本陸相は「清国に事あるに際し我国は現状に安んずべきや、又は何れの地かを占領すべきや、若し占領するとせば何地を占領すべきや等を定め置きたきもの」(「原敬日記」第3巻174ページ)とする意見書を閣員間に回覧しているが、このことは陸軍部内には、この革命の動きを、日本の利益のために積極的に利用すべきだとする意見が強く存在することをうかがわせるものであった。そして内田外相の対中国政策は、この陸軍 の動きに同調する形で出発することになるのであった。
内田外相は帰国翌々日の10月16日、まず「西園寺首相を官邸に訪問、また石本陸相と会談し、夕刻山県公を目白の私邸に訪い、夜再び登庁し」(内田康哉伝記編集委員会編「内田康哉」昭和44年154ページ)、伊集院彦古吉駐清公使への初の訓令を発した。それは清国陸軍部の要請にこたえて、革命軍討伐のための銃砲弾薬を日本商人を通じて供給することを通告したものであり、日本政府がまず清国側に立って革命に対処する姿勢を明らかにしたものであった。同訓令はまた、この武器援助が、革命勢力からのボイコットなどの「大危険ヲ冒シ」て行なわれるものであることを強調し、清国政府が日本を「不法ノ侵略者ナルカ如ク思考」(外務省編「日本外交年表竝主要文書」上巻昭和30年353ページ)するような態度を改め、満州における日本の地位を尊重するよう申入れることを命じてもいた。そしてこの方針のもとに、10月23日付で、泰平組合(三井、大倉、高田の合資)と清国陸軍部との間に、野山砲、機関銃、小銃とその弾薬など総額273万3640円の売買契約が成立している。
しかしこの時、内閣も陸軍も、清朝支援一辺倒で固まっていたというわけではなかった。同じ陸軍でも、陸軍省と違って参謀本部側には、革命軍の方にも武器を供与して連絡を確保しておこうという動きがあり、内閣でも 西園寺首相や内田外相はこれに反対したが、原内相は「今日の情勢は叛徒も官軍も如何なる情況となるや全く不明なれば、外交上の理論一辺にては到底我国の不利を免がれざるべし」としてむしろこれを支持していた。原は「政府としては不可なれども商人が個人的に之(武器輸出)をなすは叛徒の悪感を避くるの好方便と考へ」(「原敬日記」第3巻177ページ)、参謀本部が商人を媒介として革命軍に武器を送るのを黙認するよう警視総監に内命を下している。
要するに原は、清朝の前途にあまり期待をかけず、したがって革命派との敵対関係を避けるべきだというわけであるが、内田外相やその背後の元老たちも、たんに清朝政府を支援するだけで事足りると考えていたのではな かった。内田は桂前首相とも協議したうえで、10月24日の閣議に対中国政策案を提出して承認を求め、翌日は上奏して裁可をも得ているが、この方針は、満州権益の強化よりも「支那本部」への進出を当面の目標とすること、つまり「満州問題ノ根本的解決ハ一ニ我ニ最モ有利ナル時期ノ到来ヲ持ツコトトシ、今後特ニ力ヲ支那本部ニ扶植スルニ努メ、併セテ他国ヲシテ該地方ニ於ケル我優勢ナル地位ヲ承認セシムルノ方法ヲ取ルコト」(「日本外交年表竝主要文書」上巻356ページ)という点に重点をおくものであった。ここで「支那本部」とは主として華中・華南を指しているこ とは明らかであり、要するにこの方針は清朝の立場にそいながら「支那本部」に進出し、それを列強にも認めさ せようというわけであるが、そのための具体的方策としては、日本が主導権をとりながら列強の力を事態解決の方向に導びいてゆくことに主眼がおかれていたのであった。そしてそこでの軸となっているのは、満州の権益 はロシアとの握手によって確保し、「支那本部」への進出にはイギリスとの同盟を利用しようという構想であっ た。
したがって、10月下旬以後すでに清朝の力では革命を鎮圧しえないとみた伊集院公使が、華中・華南を2個 の独立国とし、華北に清朝を残すという中国3分案を唱え、軍艦や陸軍の派遣を要請してきたのに対しても、内田外相は11月2日の訓令において、中国情勢への積極的介入にはイギリスとの十分な打合せと、どんな重大な結果が生じても日英共同で之にあたる決心が必要であるとして当面静観の方針を示したのであった。
この間清朝側は、武昌蜂起の直後から、河南に引退していた袁世凱の出馬を求めていたが、袁は、総理大臣に就任し軍事の全権を掌握するという条件で、11月になってようやく動き出し、11月16日に内閣を組織した。これに対して内田外相は、清朝側の最後の切り札とみられる袁が登場した機会を捉えて、積極外交に転ずる構えをみせた。そして伊集院公使から袁は立憲君主制による事態の収拾を望んでおりアメリカ公使もこれに賛成であるとの報を受けると、日本が主導権をとり、清朝を立憲君主制に改造する方向でイギリスをはじめとする列 国の協力をとりつけようとした。しかし11月28日、内田がこの方針についての閣議の了解をとり、山座円次郎駐英代理大使に共同調停についてのイギリス政府の意向を探るよう訓令したときには、すでに中国現地では、袁世凱とジョルダン英公使との間では休戦についての話合いが始められていたのであった。しかも袁は、このことをカモフラージュするかのように、12月2日伊集院公使に対し、日本一国だけによる居中調停を希望する旨を申し入れ、伊集院もこの線で動き出そうとしたが、その申入れは旬日を出ずに取り消されてしまった。
この同じ12月2日には、漢口で英総領事立会いのもとに、革命軍黎元洪、清朝側馮国璋が3日間の休戦条約 に調印、さらに9日には、15日間の休戦延長が協定されており、しかもこの9日には、北京から講和全権として唐紹儀ら1行33名が特別列車で漢口に向けて出発しているが、これらの動きについては、伊集院は何も知ら されず、日本は完全に出し抜かれたのであった。
「伊集院公使の接触範囲が北京周辺に限られ、ともすれば大局を見誤りがちなのにようやく気づいた内田は、外務省から特に松井(慶四郎)参事官を清国に派遣し、内田・伊集院間の意思の疎通をはかることにした。松井の役目は伊集院を後援し清朝を支持すべく交渉することであった。同時に内田は外務省の法律顧問であったデニスンを上海に送り、革命軍の指導者だちと交渉させることになった。デニスンの 役目は『日本の革命軍支持を約し、南清共和国を北京に承認させ、実際にはその成立した共和国を日本が支配してその境界内にある鉄道・鉱山利権を独占しようとするものであった』という。しかしデニスンの申入れは革命軍に全く拒否されて失敗に終ったのであった」(「内田康哉」166・167ページ)。
こうした情勢のなかでなお、内田外相は立憲君主制による中国革命の収拾という路線を維持しようとしていた。そしてそれは隣国のことであっても君主制が崩壊することを嫌う元老たち、とくに山県有朋の主張に強く影響されたものと思われたが、しかし上海で12月18日から開始された講和会議は、共和制採用の方向に動きつつあり、ジョルダン英公使も、国民議会を召集して政体問題を解決する方策をとることを袁世凱に勧告するまで になっていた。それはイギリスが実質的に共和制支持に踏み切ったことを意味しており、日本側でもこうなった以上、立憲君主制に固執しても仕方がないという意見が強まっていた。12月22日の閣議の有様を原敬はつぎのように記している。
「二十二日 閣議、内田外相より清国事件を報告し、英国は君主立憲の勧告を捨て共和政治となるも清人の自由に任かすべき内意を申越したり。依て一応君主立憲の前説を英国政府に申込ましめ、夫れが行はれざるときは日本に於て英国に同意すべしと云ふに付、余は君主立憲は最良の政体なりとするも、時局を解決するには最良の方法にあらず、何となれば君主立憲は革命党の同意せざる所にて、上海に於ける談判は不調に終るの外なければなり、故に一応英国に申込む事に強て異議なきも、此主義は之を放棄するを得策とすと述べ、石本陸相始め閣僚異議なく之に決せり」(「原敬日記」第3巻198・199ページ)。
事態は日本側の思惑を置きざりにして進行していった。12月28日清朝は政体問題を臨時国会の議決に付する旨の上論を発し、また30日の上海における講和会議では、国民議会について清朝側唐紹儀と革命側伍廷芳の間で4条件の合意が成立、共和制への発展が軌道に棄るかにみえたが、しかし袁世凱はこの条件を拒否して唐をやめさせ、以後の交渉は袁自身と伍との間で電報をもって行なうことを提議した。一方革命側では、11月30日から3日間漢口で聞かれた各省代表者会議で「中華民国臨時政府組織大綱」を決議、12月末南京に集まった 17省代表は、外遊から帰国した孫文を臨時大総統に推し、翌明治45年(1912年)1月1日には「中華民国」 の成立を宣言、同月11日には外務大臣汪寵恵の名をもって、中華民国の承認を要求する電報を直接各国に発している。いわば南北の講和交渉は全く破綻したかにみえた。
このとき元老山県有朋は「満漢協商(南北講和交渉を指す)ハ破裂ノ外他ニ救済之道ナキ窮勢ニ陥リタルモノト論断」し、満州権益擁護のため「満州ニ出兵ヲ要スル適当ノ時機」(大山梓編「山縣有朋意見書」昭和41年337ページ)であるとの覚書を作成、石本陸相に1、2個師団の兵力をロシアとの了解のもとで出兵させるよう要請している。しかし袁世凱は、 自分に政権をよこすならば共和制に賛成する、という形で巧妙にこの行詰りを切り抜けていき、日本は山県の求める出兵の機会をつくることはできなかった。1月末に清朝側の47将軍が共和要請の電報を打つと、2月12 日には清国皇帝は退位を声明してここに300年に及ぶ清朝は滅亡、翌日孫文は臨時大総統を辞任、南京に設けられていた参事院は2月15日袁を新大総統に選出、こうした形で革命は一応の終止符を打たれたのであった。
袁世凱に依拠し、立憲君主制路線を遂行しようとして全く裏切られた形の伊集院公使は、内田外相に本国召還を要請し、また第28議会では野党側から対中国外交の無能ぶりが攻撃されているが、辛亥革命に際しての内田外交が、イギリスと袁世凱に出し抜かれて、完全な空振りに終わったことは明らかであった。
5 第三回日露協約の成立
山県有朋がさきの覚書で示した満州出兵政策は不発に終わったが、しかしそのなかで触れられているロシアと 「南北満州ニ於テ共働一致之政策」をとるという点では内田外交は一定の成果を生み出していた。すでに前述し た10月24日決定の「対清政策」に於ても、満州に関しては露国と歩調を一にして我利益を擁護する、とのべ られているが、イギリスとの同盟を利用した「支那本部」進出が失敗に終わると、内田は外交の鋒先をこの満州支配をめぐる日露関係の強化という方向にむけ直してきたのであった。
内田外相はまず、45年1月10日本野一郎駐露大使に対し、第1次日露協約附属の秘密協定で規定されている満州の南北分界線(「第1次回園寺内閣」参照)を西に延長すること、および内蒙古に新たに両国勢力の分界線を 設けること、を内容とする新協約をロシアに提議することについての意見を求めた。これに対して本野は同13 日、ロシア側は満州・蒙古の領土的分割をねらっており、これに対する確固たる対策を立ててからでなければ、 内蒙古の勢力区画の問題は持ち出さない方がよい、と回答してきた。しかしこの間の11日、ロシア政府が外蒙古独立に関する公式声明を発表したため、この声明に対する抗議的質問を手掛りとして、ロシアとの交渉を進めるという新しい方策がとりあげられることになったのであった。
このロシアの声明は、辛亥革命を機として展開された外蒙古の独立運動を支援し(明治44年12月1日独立宣言)、清国に外蒙古の自治を要求するといった内容のものであったが、日本側が問題としたのは、そこで内外の別を無視して「蒙古」という用語が一貫して使われている点であった。すでに第1次日露協約締結交渉の際に、ロシアの蒙古に対する要求を「外蒙古」に限定することに苦労した日本側としては、これをこのまま見逃しては、第1次協約の苦心が水の泡となり、ロシアがその特殊関係を蒙古全域にわたるものと主張してくる原因となることがおそれられたのであった。したがってこの際、ロシアに対し、前記声明の「蒙古」が「外蒙古」を意味することを確認するとともに、両国の間で手つかずの形で残されている「内蒙古」についても、明確な協約を交しておくことが、将来の紛争の種を除去することになると考えられたのであった。
45年1月16日の閣議でこの方針が決定されると、早速翌17日から本野大使はロシア政府との交渉を開始したが、ロシア側はさきの声明中の「蒙古」はもちろん「外蒙古」であるとし、その旨を文書によって確認するとともに、分界線延長に関しても原則として同意してきた。したがって問題は早くも、どういう分界線を引くかという点が残されるだけとなった。そこで内田外相はすぐさま1月22日にはつぎのような2つの勢力範囲分界線と、それを秘密とすることという3か条からなる協約案を本野大使に送っている。
分界線の第1は、第1次協約で托羅河と東経122度線との交差点まで決められていた分界線をさらに西に延長し、ほぼ内外蒙古と黒龍江省との境界線が接する地点まで及ぶものとする。また分界線の第2は、張家口より犀倫に至る街道で内蒙古を東西に分割するというものであり、東日本、西はロシアの勢力範囲として認めあおうというわけであった。
この日本案に対し、ロシアは第1の分界線は承認したが、第2の分界線については、張家ロ―庫倫間の街道が通過する方面はロシアにとって重要な部分であり、これを分界線とすることは、これまでロシアが享有してきた地位を放棄するに等しいとして強く反対した。そして5月1日になって、内蒙古は北京の経度(東経116度27分)を以て2分し、ロシアはこれより東方の内蒙古における日本の特殊利益を承認し、日本はこれより西方の内蒙古およびその以遠の西部中国領土におけるロシアの特殊利益を承認する、という新しい提案を行なってきた。この提案は日本の全く予期しないものであり、日本側は、ロシアがこの「西部中国」に関する要求に固執するならば、交渉中止もやむをえないとする強硬な態度を決めた。
結局ロシア側もこの主張を撤回し、日本側も第2の分界線についてはロシア案を認めることで交渉は成立し、 第3次日露協約は7月8日になって、モスクワで、サゾノフ外相と木野大使との間で調印された。このことは、日本が対中国政策に関しては、イギリスよりもロシアとの関係か一層強力にしたことを意味していた。言いかえれば、日本の外交は、辛亥革命への対応のなかで、一層勢力範囲分割主義の方向へと傾いていったのであった。
6 明治から大正へ
辛亥革命が一段落し、第3次日露協約が秘密のうちに締結されると、政治の焦点は行政整理の問題に移っていった。すでにのべたように、明治45年度予算の編成過程でこの年度に大行政改革を行なう方針が決められてお り、44年12月9日には、西園寺首相を総裁、原内相を会長とする臨時制度整理局が設置されている。そして総選挙が終わった6月ごろから、それぞれの省で本格的な作業が進められていった。ところが7月になると明治天皇の死という思いがけない事態によって、作業は中断されることとなった。
7月20日、宮内省から天皇の病気が重体となった旨の連絡をうけた内閣では、早速官報号外によって、天皇の病状を国民に知らせる措置をとっているが、天皇の病状は回復することなく、ついに7月29日息をひきとら れてしまった。この日の『原敬日記』にはつぎのように記されている。「午後10時40分天皇陛下崩御あらせらる。……崩御は30日零時43分として発表する事に宮中に於て御決定ありたり、践祚の御式等挙行の時間なき為めならんかと拝察せり」(「原敬日記」第3巻241ページ)。践祚の式は30日午前時より元老・元帥・閣僚らが参列して行なわれ、元号は大正と改められた。
また、8月13日には、前首相桂太郎が内大臣兼侍従長に任命され、新天皇を補佐することとなった。桂は7 月6日より後藤新平、若槻礼次郎をひきつれて、ヨーロッパ諸国歴訪の旅に出発、まずロシアに入って首相・外相らと会談しているが、天皇危篤の報により7月28日帰国の途につき、8月11日に東京に到着したばかりのところであった。出発前の7月1日に桂と会談した原敬は、「此等の談話中彼が再び内閣に立つの意思ある事を 看破する事を得たり」(「原敬日記」第3巻237ページ)と記しているが、内大臣への任命は、こうした政治的野心を持つ桂を山県らが宮中に閉じこめたものとも評された。しかし原は「山県一派の陰謀にて枢府並に宮中を一切彼等の手に収めんとの企に出たること明かなり」(「原敬日記」第3巻245ページ)と考えている。
明治天皇の大喪は9月13日、東京青山葬場殿で挙行されることになり、内閣はそのための経費を追加予算の形で支出することとし、第29臨時議会(8月23日―25日)を召集して承認を求めることとしたが、この議会での開院式の勅語案に元老側からクレームがつくという一幕が演じられている。当初内閣側で用意したのは、「朕新ニ大統ヲ継キ祖宗ノ威霊ト臣民ノ忠良トニ倚リ先帝ノ遺業ヲ失墜セサラソ事ヲ期ス」というものであったが、8月20日の閣議で決定された案は「朕新ニ大紋ヲ継キ祖宗ノ宏謨ニ遵ヒ先帝ノ遺緒ヲ紹述セソ事ヲ期ス」 と修正したものであった。山県らの元老たちが嫌ったのはおそらく「臣民ノ忠良トニ倚リ」の部分であり、そこには、天皇が「臣民ノ忠良」に支えられているというイメージを拒否する感覚が現われていた。
しかしこの時、この内閣と山県らとの関係は、こうした政治感覚の問題のみならず、2個師団増設問題をめぐっても、決定的に悪化しつつあったのである。
7 二個師団増設問題と内閣総辞職
元号が大正と改まったばかりの8月9日、臨時議会召集をめぐって内閣側と貴衆両院各派代表の打合せが首相官邸で行なわれたが、この会合のあと、西園寺首相は原内相に対して陸軍から2個師団増設案を提示されたことを告げている。このことは、前述したような45年度予算案編成の経過からも当然予想されたところではあったが、この間石本訴六にかわって陸相となった上原勇作は、この問題に関し、石本より強硬な態度を示そうとしていた。
石本はこの年4月2日、病気のため現職のまま死去したのであったが、後任の上原について、原は「上原は薩人にて是迄の如き長州人のみ陸相となり其弊害尠なからざるを認むるに因り上原を挙ぐる事に決せり」とし、 「異分子の如き上原を挙げなば或は陸軍の改革もなさんか」(「原敬日記」第3巻225ページ)との期待を持っていた。しかし上原は実は山県が西園寺に推薦した人物であり、3月31日山県に招かれて陸相就任を求められると、「濫リニ陸軍ノ縮少ヲ叫号シ、群繩ノ如クニ今ニモ陸軍ニ喰テカカラソ」とする政客連の「矢面ニ立テ一敗地ニ塗シテ、取返シノ 付カヌ事ニ立到り候テハ、実以テ国家ノ重大事件」(山本四郎「大正政変の基礎的研究」昭和45年57ページ)と考えて、元陸相で朝鮮総督の寺内正毅の意見を求めるという有様であった。つまり上原は最初から師団増設に積極的に取り組もうとしていたといえる。
ところで、2個師団増設は基本的には明治40年決定の帝国国防方針(「第1次西園寺内閣」参照)に示された25師団への拡張計画(この当時点では19個師団)の一部をなすものであったが、このときの要求は、ロシアに対抗して朝鮮に2個師団を設置したいというものであり、陸軍側は現在の交代派遣の朝鮮守備隊では、その交代に多大の費用を要し、また平時の教育練成に不利であるだけでなく動員の業務を渋滞させ、戦時の用兵に欠陥を生み出すことになる、と主張していた。そしてその費用は、陸軍部内の行政整理によって捻出した270万円をあてるというわけであった。
これに対して内閣側は、各省とも財政全体の改善のために予算の8パーセソトから15パーセントに及ぶ整理を断行しているのに、陸軍の整理額は8000万円という大予算のわずか3パーセント程度であり、しかもそれを増師にまわすというのでは財政の改善に寄与せず内閣の方針に反すると強く反発し、増師案の撤回を求めることとした。そして増師は元来山県の主張だから、山県に直接交渉するのがよかろうとの桂の意見もあって、西園寺首相から山県と交渉することになった。8月29日山県を訪問した西園寺は、今年増師案を提出されることは 「迷惑至極」と切り出したが、山県はこれに対して「陸軍は大正4年に至るまで毫も国庫を累はさずして、増師を実行せんと言ふに非ずや、思ふに是れ苦心惨憺の余に成りたる計画にして」(伊藤隆編「大正初期山縣有朋談話筆記」昭和56年28ページ)と陸軍への同情を求め、また陸軍には増師のほかに装備の充実などの要求もあるのだから、政治上増師がまずければ充実問題をとりあげてもらってもよい、しかし「増師か充実か、兎に角上原陸軍大臣の立ち場に困難ならざる様、纏りをつけられ度きもの」との希望をのべている。
西園寺は翌々31日に山本蔵相をさし向け、山県に財政状態を説明させているが、山県も松方正義や井上馨など他の元老を動かして、内閣に圧力をかけようとしていたようである。すなわち、山県は「平田(東助)、小松原(英太郎)等を以て松方の諒解を得、松方をして牧野文相に説き更に牧野をして西園寺に説かしめんとした」(徳富猪一郎「公爵山縣有朋伝」下巻昭和8年807・808ページ)というし、また井上馨は、増師について田中義一軍務局長の説明を聞くことを求め、11月6日には、田中と西園寺首相、山本蔵相、原内相の会合が聞かれている。この間、10月15日には、松方、井上、大山の3元老(山県は欠席)が閣議に出席し松方が財政意見をのべているが、これも元老側が行政整理の状況に探りを入れることをねらったものとみられた。
しかしこうした動きも結局両者の妥協点をつくり出すことは出来ず、既定方針で進むことを決意した西園寺は、11月10日山県を訪問し、行政整理で陸軍を別にして1600万円を絞り出すことができたと報告するとともに、増師案切るつもりであることを告げた。これに対して山県は、もし国防のために1000万円支出する余裕があるとすれば、海軍の充実が急を要するという事情を加味しても陸軍がそのうち300万円位要求するのは当然ではないか、それなのに現在の陸軍は国庫に新たな負担をかけずに増師を実現しようというのであり、これさえみとめないというのでは陸軍側からみれば偏頗の処置という外はないと西園寺を難じた。すでにのべたよ うに、明治45年度予算案編成過程で翌年度からの海軍拡張計画の実施が決定されており、行政整理を基調とする大正2年度予算でも約1000万円の海軍拡張費が計上されることになっていた。山県はこの点をとらえて、 陸軍の増師要求を相乗りさせようとしたのであったが、西園寺はこれをうけいれず、会談は物別れに終わった。
内閣は予算案編成のため、いよいよこの問題に結着をつけようとし、11月22日の閣議で上原陸相の説明を 閣いているが、翌23日には野田卯太郎が「2箇師団は明後年より実施する事として出来得る限る丈け陸軍より金を出させ、且つ4年後にも国庫より一文も支出せぬ条件を附する」(「原敬日記」第3巻264ページ)、つまり増師の1年延期を骨子とする案を、桂太郎の妥協案として原敬に持ち込んできた。原は翌日西園寺・松田と協議してこの案をうけいれることとし、局面は一転するかにみえた。しかし25日に原が桂を訪れてみると、野田の話と相違して「桂の趣旨は大正2年度より実施すべし、但し其額は僅少にて可なり、而して完成の期限を2年乃至3年延ばして国庫に収むべき節減額を多からしむべし」(「原敬日記」第3巻266ページ)というものであり、原は来年度実施の線では話にならないとして会談を打ち切っている。
翌11月26日、西園寺・原・松田の3者会談は「上原陸相より大正3年度より実行する事となしても宜しとの申出あれば格別、否らざれば陸相後任を得ずして内閣遂に倒るるとも此際増師案を提出せざる方針を以て進行すべし」と決定した。原は「事げんに至りてはもはや他に施すべき途なし」 (「原敬日記」第3巻267ページ)と記した。そして11月30日、西園寺首相は上原陸相が態度を変えないことを確認した上で閣僚を召集、ここで明日首相から陸相に勧告して辞表を出させ、その上で後任者を選んで上奏の手続をとる、もし後任者がなければ閣員一同辞職するとの方針が確認された。
12月1日、西園寺は上原に増師案が否決されたことを正式に伝え、 上原は翌2日朝、首相を経ずに直接天皇に辞表を提出した。以後西園寺は桂・山県と接触しているが、両者とも後任を推薦する気配なく、内閣 は12月5日総辞職したのであった。
この内閣は結局、陸軍と正面から対立し敗北した形となったが、これをきっかけとして軍部批判、藩閥批判の世論が高揚してくるのであり、それはまた、政党の政治的地位を引きあげる1つの画期をつくり出すという大きな成果を生み出してゆくことになるのであった。
辛亥革命と大陸浪人
中国で辛亥革命がおこると、いろいろな思惑からこの革命に介入しようとする動きが、日本の各方面からおこってきた。全体として民間では革命派を支援する動きが大きかったようであり、多くの日本人が中国に渡っている。黒龍会の内田良平をはじめ、頭山満、犬養毅などが目立った存在であり、また若き日の北一輝なども内田良平の指令で、蜂起のひと月後には武昌にもぐり込んでいった。
こうした親革命派の動きが活発であったのは、内田良平が明治38年、孫文らの中国革命同盟会結成を助けたように、中国の革命運動のなかで留学生など在日中国人が大き な役割をもち、そこに日本のいわゆる大陸浪人たちが結びついていたことが1つの原因となっている。しかし同時に中国の革命派のなかには日本などの、いねば外からの援助に期待する空気が強かったという事情もあり、例えば孫文なども革命成功後の利権を約束することで革命資金を集めようという傾向が強かったといわれる。内田が革命派を支援したのも孫文が中国革命の目的は「滅満興漢」だから建国長唄以南でよく、満蒙日本にまかせるとの考えに立っていると信じたからであった。そして実際に革命をおこしてからは、革命派の武器や資金への要求は一層強まるわけであり、三井物産なども、これに乗じて何らかの利権を得ようと暗躍している。
これに対して、清朝を支援しようというのは、元老・軍部を背景とする内田外交の基本方針であり、革命支援の空気が強い一般世論からははなはだ不評であったが、内田外交が袁世凱に引きずられるとともに、軍部強硬派のなかには強い不満が生まれ、そこに川島浪速ら清朝派大陸浪人の策謀の余地が生ずるのであった。
川島らは参謀本部の暗黙の援助のもとに清朝の粛親王を 擁し蒙古の喀嗽沁(カラチン)王などの同調を得て挙兵し、一挙に満蒙王国をつくりあげて日本の保護のもとにおくことを計画、 明治45年(1912年)1月段階でその実行に踏み切り、2月初めには粛親王を旅順につれ出すことに成功している。この陰謀は、列強との協調を重視した中央からのチエックで失敗に終わっているが(大正5年に再び同様な陰謀が企てられたことから「第一次満蒙独立運動」と呼ばれる)、大陸浪人の動きが、こうした分裂した形で現われたことは、 辛亥革命の時期の異例な現象であったといえる。
孫文が袁世凱に反対した、いわゆる第2革命に敗北する と、大陸浪人の革命派援助熱はすっかり冷却し、内田は、 大正2年7月の山本権兵衛首相への意見書では、満蒙に独立王国をつくるという川島浪速と同様な意見をのべるよう になっており、以後この線が右翼の主流を形成することに なるのであった。 |
主要参考文献・史料
〇竹越与三郎「陶庵公」昭和5年 叢文闘
〇前田連山「原敬伝」下巻昭和25年 東京出版協同組合
〇原奎一郎編「原敬日記」第3巻昭和40年 福村出版
〇内田康哉伝記編纂委員会編「内田康哉」昭和44年 鹿島研究所出版会
〇小坂順三編「山本達雄」昭和26年山本達雄先生伝記編纂委員会
〇斉藤子爵記念会編「子爵斎藤實伝」第2巻昭和16年同記念会
〇上原勇作伝記編纂委員会編「元帥上原勇作伝」上巻昭和12年同伝記刊行会
〇徳富猪一郎「公爵山縣有朋伝」下巻昭和8年 山縣有朋公記念事業会
〇大山梓編「山縣有朋意見書」昭和41年 原書房
〇伊藤隆編「大正初期山山縣有朋談話筆記」昭和56年 山川出版
〇徳富猪一郎「公爵桂太郎伝」坤巻大正6年 故桂公爵記念事業会
〇小林雄吾編「立憲政友会史」第3巻大正14年 立憲政友会史出版局
〇升味準之助「日本政党史論」第3巻昭和42年 東京大学出版会
〇山本四郎「大正政変の基礎的研究」昭和45年 御茶の水書房
〇鹿島守之助「日本外交史9」昭和45年 鹿島研究所出版会
|