『日中戦争史研究』

1984年12月

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日中戦争にいたる対中国政策の展開とその構造



古屋 哲夫


表紙

3「満蒙治安維持」路線の軍事的展開
1張作霖援前問題の行方
2陸軍の満蒙政策と幣原外交
3関東軍の登場
4張作霖爆殺への道


3「満蒙治安維持」路線の軍事的展開



1 張作霖援前問題の行方

 第一次大戦の終結を機に転換を余儀なくされた日本の対中国政策は、列国との協調を主軸としながら、しかしその裏面では満蒙分離主義を成立させるという、重層化した、矛盾を内包した構造を持つことになり、その矛盾の処理を めぐって動揺し、分裂することになるのであるが、そのような動揺や分裂は、まず張作霖に対する政策をめぐって表面化してくることになった。

  すなわち、国際協調と満蒙分離とを両立させるためには、満蒙分離を国際協調をそこなわない範囲にとどめておく ことが必要であり、そのためには満蒙支配の実権を持つ張作霖の行動を、列国との協調を妨げない枠内に押しとめておかねばならなかった。張作霖が、中国中央の政治動向に介入することなく、すでにかち得ている満蒙支配の独立性を安定させて、日本のための治安を維持する存在でありつづけてほしいというのが、このような対中国政策を生み出 した原内閣の期待したところであったであろう。しかし、すでにみたように、彼の満蒙での独立的な支配力は、段祺瑞政権を支えるという中央政治での役割によってつくり出されたものであり、従ってその強弱は、中央政治での発言力の増減に比例するものであった。それ故、張は常に中央への進出、中央での勢力の強化を企てており、1920年7月、安徴派(段祺瑞・段芝貴・徐樹錚ら)と直隷派(曹(金+昆)・呉佩孚ら)との内戦=安直戦争 (43)が起ると、徐樹鈴と対立していた張作霖は直隷派に加担しその勝利に貢献して、中央政界での発言力を一層強めていったのであった。

  この戦争は日本が育成した最大の親日派である段祺瑞の没落に、同じく日本が援助した張作霖が加担するという結果となり、安徴派の手中にあった辺防軍(日本の援助でつくられた参戦軍を改称したもの)もあっけなく消滅したが、原内閣は内政不干渉の態度をとりつづけた。しかしこのような形で張作霖が中央政治に介入しつづけることは、日本と列国との協調を阻害する結果となると考えた原内閣は、翌年に入り、張が武器援助を求め始めたのを機会に、張抑制 の方針を打出したのであった。

  すでに述べたように原内閣は19年2月、中国に対する武器輸出を停止しているが、ついで4月26日、北京における列国外交団会議で、各国政府は中国の統一政府成立まで自国民の中国に対する武器弾薬の輸出を禁止する旨の決議が成立すると、この決議を忠実に履行することを国際協調政策の一つの柱とするに至った。そして21年5月17日の閣議では、この外交団決議を守ることを前提としながら、さらに進んで、「張作霖カ東三省ノ内政及軍備ヲ整理充実シ牢固ナル勢カヲ此ノ地方ニ確立スルニ対シ帝国ハ直接間接之ヲ援助スヘシト雖、中央政界ニ野心ヲ遂クルカ為帝国ノ助カヲ求ムルニ対シテハ之ヲ助クルノ態度ヲ執ラサルコト適切ナル対策ナリ」との方針(44)を決定した。つまり張作霖が満蒙の支配者としての地位を固めることを期待してこれに対しては援助するが、中央政局への進出は極力抑圧しようというのがこの方針の意図するところであったであろう。

  しかし同時にまた「直接間接之ヲ援助スヘシ」と云いながら、具体的な援助方針を提示していないという点も、この方針の特徴であった。すなわち援助に関しては「兵器供給ハ支那ニ対スル兵器供給差止ニ関スル列国ノ協定存続スル限り到底帝国政府ニ於テ張ノ要望ヲ応諾シ得ヘキ限リニアラス、寧ロ兵器製造所ヲ設立セシメ自給ノ途ヲ講セシム ルヲ可トス」、「財政援助ハ帝国政府ニ於テ臨機好意的考慮ヲ加フルニ吝ナラスト雖可成経済借款殊ニ合弁投資ノ形式ヲ執ルコト列強ノ嫉視ヲ避クル為肝要ナリ」と述べられているのみであり、それは要するに、列国との関係を考慮すると直接の正面切った援助は出来ないということにほかならないであろう。従って、「援助スヘシ」といいながら、その具体策を欠く点に対する不満がおこるのも当然であった。

  このような日本政府の方針が決定されてから後も、張作霖は今度は直隷派の武力的中心となっている呉佩孚に対抗 するための武器援助を、在満の日本軍人・外交官などを通じて執拗に要求し、日本側現地官憲はこれに応ずるため、さきの関議決定から、何らかの具体的援助の方針を引き出そうとするに至った。例えば8月22日・23日の両日にわたって張作霖は奉天特務機関長貴志弥次郎少将・赤塚正助奉天総領事と会談しているが、席上「貴志、赤塚ハ交々閣議ニ於ケル張氏身上ノ議決ヲ説明シ且兵器弾薬ノ如キハ今新ニ兵器廠ヲ起スカ或ハ現兵器廠ヲ拡張シ製作名義ノミノ設備ヲナセ八日本ヨリ原料ノ名義ニテ既製品ニ近キモノヲ何等カノ方法ニテ送附スヘシ」と述べたという(45)。こ れはさきの決定中の「兵器製造所ヲ設立セシメ」の部分を、日本の援助によって設立させると読み込み、しかもそれを表面の名目として裏面では武器援助を行おうというものであった。赤塚はさらに10月5日にも、「奉天兵器廠ヲ拡張セシメ」ると同時に武器を「材料供給ノ名義ヲ以テ分解シテ運搬シ当地ニ到着後之ヲ組立ツルコト」という方策を提議しているが(46)、しかし外務省側から云えば、それは閣議決定を曲解するものにほかならなかった。

  赤塚の意見に対して外務省亜細亜局は、さきの閣議決定は兵器製造所設立について日本が援助するという意思を示 したものではないとし、また材料名義による武器の分解輸送などは「武器其物ノ輸送ニ何等異ル所ナク」さきの」列国間協定ニ違反スルモノ」であることは明らかだと断じた。そして「張作霖ノ意図ハ他党派トノ勢力均衡ヲ計り進ンテハ中央ニ覇ヲ称ヘントスルニアリテ、単ニ満蒙地方ノ治安ヲ保持セントスルニアラス、故ニ此ノ際張ノ希望ニ応スルカ如キハ要スルニ往時ノ援段政策ヲ再ヒスルモノ」として赤塚の意見をしりぞけたのであった。そしてそれは、眼前に迫ってきたワシントン会議への顧慮を応合むものであり、亜細亜局はまた、張作霖への「武器供給ノ事実ヲ掩蔽 スルノ殆ト不可能ナルハ言フ迄モナク」「華府会議ヲ眼前ニ控へ、単ニ支那人ノミナラズ欧米人中ニモ日本ノ非行ニ張目瞻視ヲ怠ラザル際斯ル危険ナル方途ニ出ヅルハ断シテ得策ニアラズ(47)」とも述べている。  

  つまり、国際協調が、ワシントン会議において9か国条約(22年2月6日調印)を成立させるような方向に強化さ れるに従って、満蒙治安維持のために張作霖を援助するという構想を具体化することは次第に困難ならざるを得なかったということになる。それはまた、元来張作霖援助を、満蒙支配の強化のためのものと、中央進出のためのものとに区分すること自体が無理であり、従って前者については援助し、後者は援助しないといった区別が現実には成立しえないことを示すものでもあった。そして結局、武器援助の拒絶という方法だけでは、張作霖の中央での行動を規制するきめ手とはなり得ず、張は、22年4月には、直隷派の呉佩孚との間に、いわゆる第一次奉直戦争をひきおこすこととなった。

  これに対して、原首相が暗殺されたため原内閣をそのまま引きついでいた高橋内閣は、前内閣以来の「絶対不干渉」の立場をとりつづけたが、奉天の日本官憲からは、さきの原内閣の場合とは逆の立場から、張作霖援助論が提起 されることとなった。すなわち中国中央に対する国際協調と、満蒙治安維持とを両立させるために、満蒙の実権を有する張作霖を中央政局から切り離そうというのが原内閣の発想であったが、これに対して現地からは、現に張作霖は中央政局に勢力をもっており、この勢力が弱まることは満蒙の治安を危くするとの立場から、張援助の要請が寄せられくることとなった。例えば、22年1月20日の関東軍参謀長から参謀次長宛意見(48)をみると、張が呉との戦を避ける場合を想定したうえで「其ノ何レノ策ニ出ヅルニシテモ之レ明ニ奉天派ノ直隷派ニ対スル屈辱ニシテ同時ニ張使 (使は東三省巡閲使)ノ中央勢力失脚ノ端ヲ開キ延イテ八三省ノ崩潰ヲ招来スルコトナキヲ保シ難シ」とする。つまり、張が中央での勢力を失えば、東三省の支配も危くなるというわけであり、実際に奉直戦争が起れば、この観点は更に強調されてくることになった。

  そしてこの意見は、このような形で張を媒介として、潤蒙問題と中国中央政治の動向とが分ちがたく結びついているとしたら、むしろ満蒙問題の観点から中国中央政治に積極的に介入すべきだとの主張に至るのであり、そこでは直隷派、とくに呉佩孚は米英の傀儡だという情報がその正当化に利用されるのであった。さきの関東軍参謀長の意見書 は次のようにつづいている。

 

之ニ反シ英米ハ直隷派ト提携シテ日本ノ在支那勢カノ駆逐ニ努メ帝国ノ支那ニ対スル権威ヲ失墜シ我対支殊ニ満蒙政策ハ根底ヨリ覆サレ復挽回スベカラザルニ至ルノ虞アリ、故ニ此際帝国ハ少クモ張使ヲシテ現在ノ勢カヲ維持セシムルヲ方針トシ之ガ支持ニ努メ一方適当ノ手段ヲ以テ直隷派ヲ制圧スルノ態度ニ出ツルヲ可トス。


  このような、直隷派を親米英派=排日派とみ、これに対抗するために張を援助すべしとする意見は、北京公使館附武官東乙彦少将(49)からも、赤塚正助奉天総領事(50)からも寄せられているが、それは、原内閣以来の、国際協調の枠内で満蒙問題を処理しようとする対中国政策の発想を逆転させて、満蒙問題を国際協調よりも優位に置こうとするものにほかならなかった。これに対して内田外相は、2月16日の訓令(51)で、「英国ガ呉ヲ援助スルノ故ヲ以テ日本が張ノ後援 ヲナサントスルハ支那ノ紛乱ヲ益々助長セントスルモノニシテ極メテ危険ナル政策」であるとし、「関係列国ハ支那ニ対シ一致協カシテ支那ノ康寧福祉ヲ増スノ方針ヲ以テ進ムベキハ華府会議ノ結果ニ付テ見ルモ明ニシテ、我ニ於テモ飽ク迄公正ノ態度ヲ示シ列国ト協調シテ支那ニ対スル我立場ヲ強固ナラシムルニ努メザルヘカラズ、徒ラニ積極主義ノ名ノ下ニ小策ヲ弄シ以テ大局ノ利益ヲ毀損スルガ如キハ同意シ難キ処ナリ」と述べて、依然として国際協調の立場を強調しつづけていた。

  しかし、実際に奉直戦争が開始され、しかも奉天軍が敗走する事態になると、現地の日本官憲からは、国際協調とともに、対中国政策のもう一つの目標であった筈の満蒙の治安を、具体的にどう守るのかという問題が改めて提起さ れてくることとなった。例えば5月1日赤塚総領事は内田外相にあてて、ハルピンからの赤軍・馬賊についての報告に触れながら、「奉天軍一旦敗北ノ報到ランカ前記赤軍、馬賊ノ外張作霖反対ノ地位ニ在ル者各地ニ蜂起シ我在満邦人ノ生命財産ヲ危殆ニ陥ラシムヘキ惧アルヲ以テ此ノ際急ニ邦人ノ生命財産保護ノ為メ支那側ト協カシテ若クハ単独ニ相当準備ヲ整フル必要アリト思考スルヲ以テ、我警察力不足ノ場合ニ備フル為メ然ルヘク軍隊当局ト折衝アリタシ(52)」と要請している。そしてそれは、張作霖支援をめぐる軍事的発想が、張敗北の場面から、日本軍の出動による治安維持という想定を安易に引き出してくるような性格を持っていたことを物語るものであった。  

  この時には、敗北した張作霖が関外に退いて東三省独立を宣言したのに対して、呉佩孚もそれ以上進撃せず、6月 には停戦協定が成立しているし、また内田外相も「今日我軍隊出勤ノ準備ヲナスガ如キハ徒ニ支那並二外国側ノ誤解ヲ招キ或ハ其ノ宣伝ノ為メ悪用セラレ」るのみであるとして「我軍事当局トノ折衝ヲ開始セザル方針(53)」をとったため、 問題はこれ以上発展することなくして終った。しかし満蒙治安維持の観点から出発した張作霖援助の問題が、この第 一次奉直戦争、とりわけこの戦争での張の敗戦を媒介として、治安維持のためには日本の軍事力をも使用するという構想に発展してきたことは重要であった。そしてそれは次の段階では、満蒙を日本の軍事力によって戦闘禁止地帯として特殊化するという方向に発展してゆくのであった。



2 陸軍の満蒙政策と幣原外交

 第一次奉直戦争の時期に、出先官憲から寄せられてきた満蒙重視論の流れは、外務省を中心とした国際協調主義に対抗するような性格をもつものであったが、次の段階では、陸軍中央部からも、出先に呼応するような対満蒙政策唱えられるようになってきた。それは直接には、旅大回収運動、中ソ国交回復など、第一次奉直戦後の中国の新しい動きに対応するものであったと云える。

  1923年3月10日、北京政府は中国国会の決議にもとづいて、いわゆる二十一か条条約の廃棄を通告してきたが、若し同条約が無効となれば、この年で遼東半島租借期限は満期となり、日本の関東州と名づけた同租借地は中国に返還されなくてはならなくなる筈であった。そしてこの要求が日本政府によって拒否されるや、旅順大連回収を叫ぶ排日運動が中国全土に波及してゆくこととなった。またこの時には、ソ連代表として北京を訪れたヨッフェが、東京市長後藤新平に招かれて来日しており、革命後の国際関係の安定をめざす外交工作の一環として、中国・日本との国交 調整をめざすソ連の動きも活溌になっていた。そして1924年になると、2月にはイギリス・イタリアがあいついでソ連を承認、3月には中ソ交渉の実質的妥結が伝えられ、5月31日には北京で、中ソ国交回復協定・中国東省鉄道(日本では「東支鉄道」と呼んだ)暫行管理協定が正式に調印されているが、この中ソ協定は日本の権益にも直投影響を与える可能性を持つものであった(東三省独立を宣言していた張作霖政権は、9月20日ほぼ同じ内容の協定を別個にソ連と締結している)。  

  すなわち、この協定で、ソ連は革命前に帝政ロシアの締結した一切の条約・協定等の廃棄を宣言したが、東省鉄道 は、中国政府による買収条件が決定するまで、純商業的企業として中ソ両国政府が同数を任命する理事会で運営し、営業に直接関係する事項以外はすべて中国側官憲によって処理することとされた。これによって政治的に最も大きな意味をもったのは、日本の関東軍に対応するロシア側の鉄道守備兵駐屯権が抛棄されたことであろう。この鉄道守備兵は元来日本の提議により、ポーツマス条約追加約款のなかに、日露両国とも1キロメートルにつき15名以内と規定されたものであったが、清国側はこれに強く反対し、結局、満州に関する日清条約(1905年12月22日調印)では、清国側が速かな撤退を切望している旨を記録するとともに、「若シ露国ニ於テ共ノ鉄道守備兵ノ撤退ヲ承諾スルカ或ハ清露両国間ニ別ニ適当ノ方法ヲ協定シタル時八日本国政府モ同様ニ照弁スヘキコトヲ承諾(54)」(附属協定第2条) したのであった。このときこれらの交渉の責任者であった小村寿太郎は、ロシアが鉄道守備兵を撤退させることはあ りえないと考えていたのであったが(55)、中ソ協定によってその予想外の事態が現実になったわけであり、これにより中国側は日本に関東軍撤退を要求する条約上の権利を得たことになった。要するに旅大回収運動から中ソ国交回復に至る事態は、日本の在満権益の基礎を揺がすような意味を持つものであり、対中国政策の再検討を迫るものと云えた。 そしてこの課題にこたえるべく北京で中ソ協定の交渉が進められていた24年2月、清浦内閣のもとで「対支政策綱領」の作成が始められることとなったが、この作業の過程で、陸軍中央部は外務省の国際協調主義に反対するような動きを明確にし、封中国政策への発言力を強めようとし始めたのであった。

  この新たな対中国政策作成の作業は、外務省亜細亜局長、大蔵省理財局長、陸・海軍省各軍務局長による四局長会議(2月28日第1回)が中心になって開始されたが、初めから、外務・陸軍両省の意見の対立が明らかとなった。すなわち最初に出淵勝次外務省亜細亜局長から提出された「対支政策綱領」案が(56)、「一、華府会議ニ於テ協定セル諸条約及決議ヲ尊重スルコト」「二、不干渉主義ヲ恪守シ一党一派ヲ支持セサルコト」とつづく項目からもうかがわれるように、国際協調・内政不干渉の枠内での積極的施策を主張していたのに対して、畑英太郎陸軍省軍務局長の「対支政策」案(57)は、出淵案の発想を根底から否定する次のようなものであった。  

  そこではまず「対支政策ノ主眼」は「支那ヲ扶掖シテ名実共ニ独立国トシテ存立セシメ以テ列強勢カノ侵漸ヲ防遏スルト共ニ、之ト緊密ニ提携シテ我民族生存ノ確保ト其ノ発展トヲ期スルニ在リ」とする。つまり中国をたすけて、列強の勢力が拡大してくるのを防ぎ、日本民族を発展させようというわけであり、列強との関係は協調より対抗の面で捉えられることとなるのであった。それは云いかえれば、中国を日本の指導下において列強と対抗しようとする発想を示すものであり、従って「徒ラニ国際協調主義ニ陥ルコトナク、専ラ自主的態度ヲ以テ之ニ臨ミ支那民衆ヲシテ帝国ヲ盟主ト仰キ之ヲ信頼スルノ必要ヲ自覚セシムルヲ要ス」という方針が打ち出されることになった。そして具体的には、「内政不干渉主義ニ膠着セス」「当面ノ処置トシテハ統一問題ニ触ルルコトナク各地ノ有力者ヲ支持」することなどのほか、とくに東三省に関しては「該地統治ノ実権者(現時ニ於テハ張作霖)ニ対シテハ特ニ之ヲ支持シテ同地方ノ治安維持ニ努メ以テ我経済的領土タルノ実ヲ挙ケシムルコト」と述べられていた。さらこのほかに「軍部ノ要求」として、鉄・石炭をはじめとする資源の開発とともに新たな鉄道の敷設の必要が強調されているが、鉄道につ いては「軍事上ノ便宜ヲ得ルノミナラス経済上ニ於テモ東支線ニ対抗シ北満ニ於テ優越ナル地位ヲ獲得」することが目的とされ、はじめて北満進出の観点が出されている点が注目される。

  こうした陸軍の「対支政策」からは、総力戦準備の見地からする資源問題への関心の高まりとともに、東省鉄道ヘの経営参加を機として予想される中国による北満開発への対抗の意図を読みとることができる。そしてそれは「経済的領土」化という目標を生み出すことにもなったのであるが、こうした立揚からみれば、対中国政策の中で「満蒙」 の問題を区別しようとしない外務省出淵実は著しく不備なものと感ぜられた筈であり、陸軍側が出
淵案に付した付箋 の一つには次のように書かれていた。

 

東三省ハ我民族ノ生存、国防関係等ニ特殊関係ヲ有スルニ鑑ミ之ニ対スル政策及施設ハ自ラ他ト異り積極的ナルヲ要ス。就中一、東三省ノ現勢ヲ動揺セシメサル為張作霖ノ支持、二、経済交通殖民上ノ発展、三、不逞鮮人ノ取締等ニ関シ特ニ1項ヲ設クルノ要アリ(58)


  このような外務・陸軍両省間の意見の相異を調整する作業はかなり難航したようであるが、結局、5月30日になって外務、大蔵、陸・海軍の四大臣が署名した「対支政策綱領(59)」では、資源の確保のために最善の努力をなすこと、 北満に向って新たな進路を開拓すること、張作霖に対しては引続き好意的援助を与え其の地位を擁護すること、など陸軍側の主張が大幅にとり入れられていたが、とくに、「満蒙治安維持問題」について次のような一項が設けられた ことは重要であった。

 

満蒙ニ於ケル秩序ノ維持ハ帝国ニ於テ該地域ニ対スル重大ナル利害関係殊ニ朝鮮ノ統治上特ニ重要視スル所ナルヲ以テ之カ為常ニ最善ノ注意ヲ払ヒ且自街上必要ト認ムル場合ニハ機宜ノ措置ニ出ツルコト


 ここで、これまでの「治安」に代って「秩序」の語が用いられているのは、「経済的領土」化の意識と関連していることと考えられるが、それをさらに日本の在満権益よりも「朝鮮ノ統治」に結びつけているのは、中国情勢から切り離しても、「満蒙秩序維持」に介入できる立場をうち立てることをねらったものと云えよう。つまり「朝鮮統治」をもち出すことによって、「満蒙の秩序」は「自衛上」の問題と位置づけられ、やがてそこから「機宜ノ措置」とし ての軍事力の行使が引き出されてくるのであった。そして陸軍に主導されて、このような政策が国策のレベルに登場 したことは、現地からの積極政策の要求を一層高める結果となるのであった。

  ところで、この「対支政策綱領」が決定されたときには、総選挙での大敗によって清浦内閣の総辞職は避けがたいものとなっており、6月11日には第一次加藤高明内閣が、いわゆる護憲三派内閣として成立し、幣原外相がはじめて登場するのであるが、幣原外交はこのような、陸軍が外務省とはちがった路線を形成しつつあるという状況のもとで出発することとなるのであった。そして幣原は就任早々、第二次奉直戦争という事態に直面することとなった。  

  第一次奉直戦争に敗れてのちの張作霖は、兵工廠の拡張など、軍事力の再建に力を注いできたが、1924年9月に入ると浙康江での内戦から奉直再戦は選けがたい情勢となり、再び「満蒙の治安」が問題化することになっ た。そしてここで現地からは、第一次奉直戦争の場合とは異って、最初から日本政府の積極的行動を要請する声が強く現れてきたのであった。それは直接には呉佩孚が、武力による満州平定の方針を示し、張作霖敗北の局面が予想さ れたことによるが、その背景としては、「対支政策綱領」にみられるような、「満蒙秩序維持」を「自衛」の問題だとする意識が、急速に拡がっていたことをあげなくてはなるまい。つまり問題が「自衛」にかかわるとすれば、それに対応するより強い行動が求められることになるのであり、現地からは、張作霖を援助するかどうかというこれまでの発想をこえて、戦闘行為を満州から排除すること自体が重要であり、そのためには、実力を行使せよとする意見があらわれてくるのであった。

  例えば、奉直両軍が山海関附近で戦闘を開始するのは9月18日であるが、すでにそれ以前の9月4日、奉天総領事船津辰一郎は幣原外相にあてて、若し張作霖が敗戦し直隷軍が僚河以東に侵入してくるような場合には、「当方面ニ於ケル秩序ヲ紊乱シ我経済上ノ発展ニ対シ何等カノ妨害ヲ来スカ如キ行為ハ到底黙視シ得ヘカラストノ口実ノ下ニ 直隷派ノ侵入ヲ阻止スルニ適当ナリト思考セラルル措置ヲ執ルヘキハ勿論、場合ニ依リテハ帝国ノ利益ヲ保護スルノ必要上ヨリ自ラ実カヲ充用スルコト亦己ムヲ得サルニ非サルカ(50)」との意見を具申している。また児玉秀雄関東長官は、9月26日幣原外相にあてて、南満州を「交戦地域」とするような事態を防止するため、直隷軍輸送のための満鉄利用を拒絶すべきであるとの意見を述べるとともに、「東三省カ兵馬ノ巷トナラントスル虞アルニ至ラハ帝国政府ハ南満州ノ治安維持ノ為機ヲ逸セス最有効ナル自衛的行動ヲ取ラルルコトニ根本方針ヲ確定セラレンコトヲ望ム(61)」と打電してきていた。

  これに対して幣原外相は「此際万一我官憲ニ於テ支那政界ノ一派ニ偏シ何等恩讐ノ関係ヲ作ルトキ八日支国交ノ将来ハ極メテ危険ナル地位ニ置カレ延テ帝国ノ威信ヲ世界ニ失スルニ至ルコトアルヘシ(62)」との立場から、一貫して不干渉主義を強調しつづけた。しかし国内では、満蒙権益擁護のために何らかの積極的行動を政府に要求する動きが、各種政治団体から与党内部にも拡大してきており(63)、幣原外相も結局10月11日には、芳沢公使・船津総領事に対し、同文の覚書を奉直双方に手渡すべきことを指示するに至った(10月13日手交、14日公表)。すなわち、この覚書は、日本政府の「厳正不干渉ノ態度」を繰り返したのち満蒙について次のように述べたものであった。

 

満蒙地方ニ於テハ帝国臣民ノ居住スルモノ実ニ数十万二上り日本ノ投資及企業極メテ莫大ナルモノアリ。殊ニ帝国自身ノ康寧懸リテ同地方ノ治安秩序ニ存スル所亦頗ル多シ。帝国政府ハ毫モ支那ノ内争ニ干渉セムトスルカ如キ趣旨ニ基カスシテ茲ニ両軍ニ対シ以上ノ明瞭ナル事実ニ付厳粛ナル注意ヲ喚起シ且斯ノ如ク緊切ナル日本ノ権利利益八十分尊重保全セラルヘキコトヲ最重要視スルノ意ヲ表明ス(64)


  このとき、幣原がこの覚書をどう考えていたかを示す資料は今の所見当らないし、満蒙の「治安秩序」が乱され 「日本ノ権利利益」が「十分尊重保全」されなかった時、どのような対策を用意していたのかも明らかではない。当時の状況からみて、この覚書が幣原にとって、諸政治勢力の圧力に妥協した不本意なものであったとも考えられるが、 しかしそれが一たん公表された以上、「帝国自身ノ康寧懸リテ同地方ノ治安秩序ニ存スル所」という「満蒙治安維持」 についての、従来に例をみなかった強い表現が、以後の幣原外交を拘束することになるのは当然であった。

  そのうえ陸軍はこのとき、外交ルートとは別に、穏密のうちに張作霖による馮玉祥買収を仲介し、馮のクーデター によって、直隷軍の満州進攻を崩壊させるという裏面工作(65)を成功させつつあった。幣原の覚書が現地にとどいた10月12日、天津の吉岡顕作支那駐屯軍司令官は、武藤信義参謀次長にあてて、馮玉祥の動きを報ずると共に「張作霖ヨリ日本金百万円本日当地ニ到着セリ、馮玉祥ニハ予告シアルヲ以テ取り急キ交付スル旨電報スル筈(66)」と打電していた。 この馮のクーデターは10月23日になって実現したがこれによって直隷軍は敗退、11月10日からの張作霖・馮玉祥・段祺瑞による三巨頭会談(天津)で、段が臨時執政に推され、張はその下で奉天軍を南下させ、直隷・山東で安徽・江蘇の各省をその勢力下におくことになった。  

  それはまさに、陸軍による裏面工作の成功を物語るものであったが、このような成功は、すでに「対支政策綱領」 作成の過程で、自らの満蒙政策を構想しつつあった陸軍のなかに、「満蒙治安維持」問題は、外務省にまかせずに、自らの力で解決しようとする発想を生み出すことになったとみられる。そしてその発想は、現地における軍事力としての関東軍への期待を高めることになり、関東軍の行動を支援する勢力をつくり出してゆくことになった。それは反面から云えば、「帝国自身ノ康寧」が「満蒙ノ治安秩序」にかかっていることを認めてしまった幣原外交のなかには、 このような方向を解体する力の発展を期待するは困難であったということにもなろうか。



3 関東軍の登場

 満蒙問題をめぐる陸軍の動きが積極化してくる過程でとくに重要なのは、「満蒙治安維持」ということのなかに、中国国民革命の波及を阻止しようとする観点が組み込まれ、そのための軍事力としての関東軍の地位がますます押し あげられてくるという点であった。これまでみてきたように、「満蒙治安維持」の命題は、一方では在満朝鮮人の独立運動やその背後にあるロシア過激派・赤化勢力などへの対抗として意識されると同時に、他方では、軍閥内戦の波及を阻止することで実質的に張作霖援助政策として機能するという二つの側面をもっていたわけであるが、軍閥抗争のなかから国共合作による国民革命の方向が発展してくるに従って、二つの側面は、国民革命の波及を阻止することが満蒙の赤化を防止することになるという形で結びつけられることになった。そしてこのような、満蒙治安維持政策 に反国民革命の方向を与える機会として利用されたのが、1925年11月の郭松齢事件であった。

  1924年1月「連ソ容共」の方針を決定して以来、革命軍の建設を軸にして勢力を拡大してきた中国国民党は、25年に入ると、在華紡ストライキから五・三〇事件に至る反帝運動の盛り上りを背景として、不平等条約破棄を唱え、7月1日には国民政府を広東で成立させていたが、このような情勢のもとで、北方軍閥相互の対立も再発しつつ あった。すなわちこの年10月に浙江督軍孫伝芳が、反奉戦争の火ぶたを切り、呉佩孚、馮玉祥もこれに呼応する動きをみせると、華中に進出していた奉天軍は撤退北上を余儀なくされ、新たな内戦の動きが高まってきた。この対立は11月15日、奉天軍の保定以北への撤退などを条件として一応妥協が成立したが、その一週間後の11月22日 には、今度はらん州に駐屯していた奉天軍第三方面軍副司令郭松齢が突如、張作霖の下野を要求して反乱を起し、満州に進撃するという事態が生じたのであった。

  郭軍は、奉天軍中の最精鋭といわれた部隊であり、張作霖敗北の場合が予想されたのであるが、このような事態に対して、日本側出先官憲は「領事館・満鉄・関東軍とほとんど一致して、郭の満州支配は赤化の脅威と国民党の進出をもたらすと認定し、その結果満州における日本の特殊地位が動揺することを警戒、むしろ張作霖の勢力を維持して現状を継続させることが得策だという判断にたつ」に至っていた(67)。とくに陸軍は関東軍のみでなく、軍中央部まで含めて張作霖を支援する最も強力な存在となっていた。例えば、12月3日陸軍次官は関東軍参謀長にあてて、目下兵力の少ない奉天平が急いで決戦に出ようとしているのは理解に苦しむところだとし、「此際張作霖ノ諸顧問等ハ大局ニ着眼シ冷静以テ善所シ張作霖ヲシテ隠忍自重シ永ク東三省ノ保境安民ノ為メ其実力ヲ保存セシムル如ク指導スルヲ可ナリト考フ(68)」と打電している。ここで顧問とは張作霖の軍事顧問となっている日本軍現役軍人を指しているが、すでに、第二次奉直戦争で張支援のための裏面工作の経験をもつ陸軍中央部は、ここでも顧問らを通ずる裏面工作を期待していたとみることができる。

  しかし、ここで特徴的なことは、このような裏面工作にとどまらず、関東軍が「赤化の脅威」という現地日本人の危機感を背景として、「軍」として働き始めたことであった。すなわちさきの次官電報より前の12月1日、関東軍では戦乱拡大の場合の対策を協議し、「奉天付近急ヲ告クルニ到レハ旅順部隊ヲ除ク駐箚師団ノ大部ヲ奉天付近ニ集結シ其ノ警備ハ附属地ニ砲弾ヲ到達セシメサルヲ限度トシ附属地外側ノ要点ヲ占領シ要スレハ一部ヲ域内ニ配置ス(総領事ノ請求アリシトキ)」との方針を決定していた(69)。これは具体的には奉天軍敗戦の場合、関東軍を満鉄附属地外に出動させ、追撃してくる郭軍を附属地への着弾距離の線で阻止するといった措置をとることを意味するものであり、一方で張作霖支援の効果を果たすと同時に、他方では、関東軍が軍として、何の権限も持たない中国領土(附属地外)に侵入するという重大な問題を惹起するものであった。しかもこの構想は、用兵の実権を握る参謀本部によって直ちに容認されたとみられる。

  すなわち、参謀本部第二部長松井石根少将は12月3日、外務省に木村鋭市亜細亜局長をたずね、「今日予メ、満州殊ニ満鉄附属地カ混乱ニ陥ルハ日本政府ノ断シテ容認シ得サル所ナル旨ヲ声明シ置キ、寧遠ニ於ケル奉天軍ノ敗報接到ト共ニ直チニ出兵スル手筈ト致度、尚附属地保護ノ為メニハ附属地以外に進出スルニ非サレハ戦術上之カ目的ヲ達シ後サル処」と申入れている(70)。つまり予め治安維持に関する政府声明を出しておいて出兵する、というわけであるが、松井はその手続さえとればあとは軍事上の問題を考えていたようであり、「附属地外ノ出兵ニ関シテハ上奏ノ上 統帥権ノ発動ヲ俟ツノ要アルヘク」と述べるにとどまっている。しかし外務省側からみればこの申出は「余リニ唐突」であり、木村局長は早速畑英太郎陸軍省軍務局長に間合せたが、畑は、奉天側が「薄弱ナル兵カヲ提ケテ決戦ヲ行ハントスルハ解シ難キ次第」なので、出先に問い合せ中であると答えるにとどまっている。

  このことは、同じ陸軍でも陸軍省と参謀本部とは異った動き方をしていることを示すものであり、関東軍・参謀本部は、奉天軍の敗戦を計算に入れたうえで、改めてまき返しをはかることを画策していたようにみえる。そして事態はまさにそうした方向に動いていった。すなわち、決戦回避という陸軍省の指導は奏効せず、12月5日奉天軍は連山附近(山海関東方約二百哩)で郭松齢軍をむかえうったが、大敗を喫して敗走する事態となり、関東軍は主力を奉天に集中するなど出動の準備を急ぐこととなった。  

  ここで政府もこのような事態に対する態度を明らかにしなければならなくなるが、幣原外相は事件発生以来ここまで一貫して不拡大方針をとり、12月5日にも吉田茂奉天総領事にあてて「絶対不干渉主義ニ何等変更ナク」「政府ハ差当り満州増兵ノ必要ヲ認メス」として対満出兵の風説を否定する訓令(71)を送ったところであった。しかし幣原もたんに「不干渉」そのことを自己目的としていたわけではなかった。彼はすでに12月4日の閣議の際に宇垣陸相より、 この時機に決戦が行われれば奉天測に不利であり、張作採は没落してしまうかもしれないとの情報を得ていた(72)。宇垣 はここで、張作霖を積極的に支援することは危険であり、満州の支配者が交代することも致方ないとし、ただ「或ハ附属地ノ地勢如何ニヨリ又敗軍乱雑ノ模様ニ依り軍隊ヲ鉄道沿線一千米以内ニ出勤セシメ防備ノ措置ヲ講スル」場合があるかもしれないとの意見を述べている。なおこの「一千米」は「附属地外一千米」を指すものと考えられる。  

  これに対して幣原は、「張作霖ニ対スル積極的援助ノ不可ナルコト」に関しては宇垣陸相の発言に賛成するととも に、日本の態度を声明する問題に関しては、「昨年ノ場合ノ如ク両軍ニ対シテ通告スル必要ナカルヘシト思考ス」と述べている点が注目される。「昨年ノ場合」とは前節でみた第二次奉直戦争における治安・秩序の尊重を求めた両軍への通告を指しているが、当時の外務省においてこの形式が必ずしも望ましいものではないと考えられていたことは、この3日前の12月1日、畑軍務局長と会談した木村亜細亜局長の「先年奉直戦争ノ際ニナシタル通告ノ如ク余リニ張作霖援助ヲ露骨ニ推測シ得ルカ如キモノハ絶対ニ道ケサルヘカラス(73)」との発言からもうかがうことができる。では、幣原は、どのような方策に出ようというのであろうか、その点について具体的には何も述べられていないが、彼の基本的感度は次のようなものであった。

 

本年ノ時局ハ昨年奉直戦争ノ際トハ其趣ヲ異ニス。即大勢上馮玉祥及国民党カ当分中央政局ヲ左右スルコト疑ヲ容レス。此大勢ニ応シテ在支帝国代表者ハ此一派トノ連絡ヲ計り彼等ヲシテ正当ナル道筋ヲ辿ル様指導シ軌道ヲ逸セシメサルコトニ努力シ居ル次第ナルヲ以テ此際満州ノ一部ノ情勢ノミヲ見、北京長江方面ノ形勢ヲ顧ミスシテ帝国ノ態度ヲ決スルカ如キハ甚不得策ニシテ且危険ナル方法ナリト思考ス(74)


 つまり幣原は「馮玉祥及国民党カ中央政局ヲ左右スル」という情勢の方を、「満州ノ一部ノ情勢」よりも重視していたのであり、従って張作霖に代る郭松齢の満州支配も、中央政局の動向に呼応するものとして容認されることになる筈であった。そしてこの翌々日には、奉天軍敗戦のニュースとともに、現地の吉田総領事からは、「両軍ノ兵ヲ遼河ノ外ニ置キ地方治安維持及地方政権ノ平和的授受ノ為両軍ニ調停ヲ斡旋」すべきだとの意見(75)がもたらされてきた。ここで吉田はさらに、調停条件は「結局奉軍ノ降服、張作霖ノ下野」となるであろうと予想し、そのような調停のためには相当の兵力が必要であり「至急出兵ノ処置」をとるべきだ、と主張している。児玉関東長官もまた「吉田総領事ヲシテ両軍ノ間ニ立チ居中調停ヲナサシムルハ刻下ノ場合執ルベキ最善ノ措置ナリト信ズ」と打電してきた(76)。そして幣原はここで、さきの宇垣の談話にあった「鉄道沿線一千米以内」への関東軍の出動と、吉田総領事による張作霖から郭松齢への「政権ノ平和的授受」の斡旋を同時に実施するという方向に踏み切ったと考えられるのである。

 この問題に関して、中央でどのような論議が交されたかは明らかでないが、12月7日には、両軍に対し治安維持を求める警告を発することが決定され、陸相より関東軍司令官へ、外相より奉天総領事への訓令が発せられている (8日公法)。この警告(77)(のちに第二次警告が出されたため、第一次警告と呼ばれるようになる)は、白川義則関東軍司令官の発する警告という形式をとり、従って治安維持を「軍ノ職責上」の問題とした、これまでに例をみないものであった。 すなわちそれは、「鉄道附属地帯即チ我軍守備地区内ハ勿論共ノ附近ニ於ケル戦闘並ニ騒乱」は「軍ノ職責上黙視シ得サル所」とし、「如上ノ危険切迫スル場合ニ於テ本司令官ハ当然必要ノ措置ヲ執ラサルヲ得ス」とするものであっ た。

  これは、第二次奉直戦争の際の通告が日本政府から外交ルートを通じて発せられているのにくらべると、関東軍を 正面に押し出したものといえるが、しかし他面から云えば、外交ルートを通ずる政府の活動を和平工作にふり向ける ために、関東軍の任務を当面の治安維持(それも「鉄道沿線一千米」という狭い範囲の)に限定することをねらったものとみることができる。そしてこの点は、陸軍・外務両者の間では諒解されており、この警告を伝える外相から総領事 あての訓令が(78)、同時に「帝国政府ハ両者ノ間ニ立チ斡旋ノ労ヲ辞セストノ趣旨双方ニ申入レ度」と調停工作ノ開始を指示しているのに対応して、陸相から関東軍司令官への訓令(79)には「軍ハ単ニ警告文ヲ交付スルニ止マリ和平調停ノ斡旋ニハ干与セサルコト」と註記されていた。それは、関東軍による警告と、外交ルートによる和平調停とを切り離して実施することについて、陸軍、外務両者間の諒解が成立していることを物語るものと云えた。  

 しかし、現場の関東軍は、この警告を、和平調停を切り崩す方向に利用していった。すなわち、すでにみたようにこの和平調停は張作霖の下野を前提としていたが、関東軍は12月8日にこの警告を張作霖に交付するとともに、おそらくは、それにつづく第二次警告を内示することによって、一時は半狂乱の状態におちいった張作霖を急速に立ち直らせたとみられる。そして12月8日夜には、「張作霖ノ意志全ク主戦論ニ変ジ下野ノ意ナキニ到レル」と判断した吉田総領事は、幣原に対して調停工作は「執行ノ時機ニ非ズ」と打電(80)していた。このように幣原の構想した和平調停が、何の手がかりもつかみ得ないで消滅してしまったことは、警告発出者としての関東軍の姿をクローズ・アップすることになったが、関東軍はさらに、この機会にすでに予定していた附属地外への出兵を実施しようとするに至った。

 すなわち、関東軍は第一次警告をうけとると、そこに云う附拓地周辺の治安維持という目的のためには、広大な戦闘禁止区域を設定することが必要であるとし、それを第二次警告として押しつけるという次のような方策を打出してきたのであった。張作霖を立ち直らせたのは、第一次警告とともこのような方向が内示されたためではなかったであろうか。

 

軍ハ事実問題ニ則シテ戦闘ノ余波ヲ我附属地ニ波及セシメサルノ最少限度ニ於テ戦闘行動禁止区域ヲ約一日行程トスルノ至当ナルヲ思ヒ、之ヲ西比利ノ事例ニ徴シ我鉄道附倶地ノ周囲三十吉米以内ヲ禁戦区域ト為サントセリ(81)


  この方策は、営口での郭軍との最初の接触にあたってすぐさま実行に移された。12月13日、営口の遼河対岸に郭松齢軍が到達すると、関東軍司令部は現地守備隊長に対し、郭軍側に営口への上陸を禁止する旨伝達するよう指示したが、更につづけてまだ中央の諒解を得ていないこの30キロ問題を提示したのであった。当日、この伝達に立会 った棚谷領事代理の報告(82)によれば、日本領事館において、守備隊長安河内中佐から、上陸禁止を伝達された郭軍外交員は、「如何ナル理由ニ基クモノナルヤ予メ承知致シ度キ趣申出デタルモ、守備隊長ハ右ハ単ニ司令官ノ命令ヲ伝達シ回答ヲ得レハ足ル旨ヲ説明シ居タル処、間モナク司令官更ニ守備隊長ニ対シ長距離電話ヲ以テ郭軍ハ営ロヲ去ル三0吉米ノ地点以内ニ侵入スルコトヲ禁止スル旨ヲ伝達シ」てきたという。なお郭軍外交員退出後、棚谷は中国側道尹より張作霖からの電報を示されたが、それには「奉天ハ吉林軍ノ来援ニ依り兵力充実シツツアルヲ以テ此際外交的援助ヲ受ケ郭軍ノ営口上陸ヲ阻止スベキ旨記載」してあり、「我軍ト張作霖ノ間ニ於テハ或ハ郭軍ノ上陸阻止方ニ関シ既ニ相当ノ諒解アルヤニ認メラル」と報じている。  

  この30キロ問題について、関東軍司令官は中央に対して、さきの(第一次)警告の趣旨にもとづき、両軍に「南満州鉄道ノ両側及端末ヨリ各三十吉米以内ノ地域」において戦闘行動を行わないように要求する「第二次警告ヲ与ヘ且所要ノ地点ニ監視部隊ヲ出シテ之ヲ監視セントス」と打電(83)しているが、この文面からは、関東軍側がこの措置を司令官の職責にもとづく当然のものと考えていたことをうかがうことができる。 さらに30キロにわたる広大な禁戦地域の設定におどろいた中央が、陸軍次官名で、第二次警告の交付をさしとめる旨指令すると、折返し次のように抗議(84) してきた。
 

 

第二次警告ノ内容ハ第一次警告ノ趣旨ヲ体シ先日来研究ヲ重ネタルモノニシテ之ヲ公布スル時機ハ只今ヲ以テ適当ト信スルガ故ニ、昨日関東長官ニモ委細説明シ同意ヲ得タルモノナリ……而シテ長官ハ既ニ各領事及警察署長ニ之ヲ内牒シタル旨只今話アリ、然ルニ其公布ノ見合セヲ命セラルルニ於テ八部外ニ対シ威信ニモ関係アルノミナラス小官カ必要ノ措置ヲ執ル上ニ於テ甚タ惑ヒナキ能ハス……内容中三十吉米トセシハ敗退セシ無秩序ノ軍隊カ其儘鉄道沿線ニ雪崩レ込マサル為整理ノ余地ヲ存シタルモノニシテ偶々浦塩派遣軍カ結ヒシ日露軍事協約ニモ三十吉米以内ニ露ノ武装軍隊入レサルコトトアル要件ニ一致ス、


  すなわち、関東軍側は、第二次警告は第一次警告に云う「軍の職責」を果すために必要な措置だと主張しているわけであり、政府や軍中央部も結局は、戦闘禁止地域を30キロから20華里(約12キロ)に縮小しただけで、第二次警告を発するという関東軍の主張自体はこれを追認したのであった。第二次警告(85)は、15日付で再び関東軍司令官の名において、この地域内における「両軍ノ直接戦闘動作ハ勿論、我附属地ノ治安ヲ紊ス恐レアル軍事行動ハ之ヲ禁止ス」という直截な形で発せられている(営口では、電話取扱者の誤りだったとして30キロを取消した(86))。そしてこの15日の閣議では、欠員補充の名目で内地より約2,500名の兵員(とりあえず朝鮮軍より約1,000名)を関東軍に増派することを決定、幣原外相も結局これに同調したのであった。  

  このような関東軍による営口入市禁止や戦闘禁止地域の設定、さらに同時に行われた関東軍への増兵は、明らかに郭松齢軍の前進を妨害・威圧し、奉天軍に立て直しの時を与えたものであり、12月21日─23日の遼河決戦郭軍の惨敗に終り、郭自身も25日には捕らえられ銃殺されてしまっている。このような事態に対して中国側世論は強く反発しているが、芳沢公使は「ソノ理由ハ要スルニ『附属地外二十支里』及『禁止』ノ二点ニ在ル事勿論」とし「支那一般ノ感情」は「附属地近接地区ヲ以テ恰モ自己ノ領土ニ於ケルガ如ク支那側ニ対シ行動ヲ禁止シ若ハ命令スルガ如キハ到底之ヲ是認シ難シ」とするものであると報じている(87)。要するに、第二次警告は芳沢公使から「余リニ行過ギタルノ感アリ」と批判された(88)ように、30キロを20華里に縮小しても、それが内政干渉にほかならないことは弁明の余地のないものであった。

 結局、幣原外相は、宇垣陸相の談話にあるような狭い範囲の治安維持の枠内に関東軍を押しとどめ、同時に和平調停にのり出すことで、外交の主導性を確保しようとしたとみられるが、関東軍は、第二次警告という独自の政策を用意することによって、一挙に幣原の構想をふきとばしてしまったのであった。そして関東軍司令官によって第二次警告が実施されたことは、満蒙問題における関東軍の地位と発言力とを極めて強大なものにすると同時に、郭松齢を排除したことによって、満蒙を国民革命から切りはなそうとする志向をも定着させることになるのであった。いいかえれば、幣原外交は、対満蒙政策の中核を「治安維持」に求め、さらにそれを「関東軍の職責」と認めることによって満蒙問題の主導権を軍にあけわたしていったのであった。そしてこのような関東軍の全体としての地位の向上なしには「満州事変」もありえなかったであろう。



4 張作霖爆殺への道

 国民革命を背景とした郭松齢の叛乱によって、張作霖が一時は没落寸前にまでおいつめられ、関東軍の画策で危うく救われたということは、日本側にとって、張作霖との関係を再検討するきっかけとなるものであった。すなわちこの事件によって日本側は張が日本の支援なしにはその権力を維持しえない存在であるとの印象を強めたのであり、国民革命の進展という新しい事態との関連で、日本にとっての張の存在の意味が各方面で改めて問われ始めたと思われるのである。

  例えば、原内閣以来の張支援政策は、張個人ではなしに、彼の支配のあり方のなかの中国中央からの分離・自立性という部分に期待するものであったし、国民革命に反対する関東軍は、郭松齢事件で張を助けることによって、国民革命からこの分離・自立性を守ろうとしたものと云えよう。それは逆に云えば、張個人の存在よりも、彼がつくり出してきた満蒙分離の実績の方が重要であり、張の存在がそれと矛盾するようになれば、張個人の方を切りすてるということになる筈であった。また、国民革命の発展を重視する幣原外交の立場からみると、南方革命派との武力対決の姿勢を一貫してとりつづけてきた張の没落は必至であり、従って張と密着した関係を続けることは避けるべきだとの結論になる筈であった。そしてこのような問題が一斉にふき出してくるのは、国民革命が、北伐という形をとって北上してくる過程においてであった。

 蒋介石を総司令とする国民革命軍が、軍閥打倒を叫んで、広東から北伐の途にのぼるのは、1926年7月であるが、北伐は予想以上の早さで進展し、9-10月には呉佩孚軍を破って漢口・武昌を占領、10-11月には孫伝芳軍に大打撃を与えて南昌を占領するに至った。このような情勢のもとで張作霖は「保境安民」への転換を求める日本の要求とは逆に、北伐への対抗を意図して南下し、12月1日には自ら総司令となり孫伝芳・張宗昌を副司令とする安国軍を組織した。しかし北伐軍はこの安国軍をも打破して翌27年3月には、上海・南京をも手中に収めるのであるが、この間革命軍が租界回収を要求し、あるいは南京占領の際に領事館襲撃事件などが起ると、対中国政策をめぐる苛立ちが日本国内に広がり、幣原外交に対する右翼勢力や野党の攻撃が強まることになった。27年4月の第一次若槻内閣から田中内閣への政変も、このような幣原外交への攻撃を一因とするものであり、代った田中義一首相は自ら外相を兼任して、対中国政策再検討への意欲を示したのであった。そして北伐軍が山東にせまると、田中内閣はまず、居留民現地保護の名目により5月28日第一次山東出兵(北伐中断により9月8日撤兵完了)に踏み切るとともに、6月27日より7月7日にわたる東方会議を召集して、対中国政策再検討の姿勢を明らかにしたのであった。そし機会に、この再検討をめぐって二つの異なる方向を指向する意見書が提出されたが、その両者ともに張作孤を見限る場合を想定している点に、この時期の新たな情勢への対応を見出すことができよう。  

  その第一は、これまで幣原外交を支えてきた木村亜細亜局長が、27年6月に作成した「支那時局対策に関する一考察(89)」であるが、その特徴は、満蒙に関して張作霖排除の観点を打出している点であり、張の敗北・没落の場合を想定・検討しながら、張の支配に代るものとして「東三省人ノ東三省主義」という問題を提起したものであった。それは張作霖に代る新しい実力者の起用による「政情ノ安定」をめざすものであるが、同時にそれは「共産不穏分子」を排除した穏健な国民政府と友好的な関係に立つものとも性格づけられていた。すなわち、国民党の宿望である国民会議召集の気運が高まった場合には、「日本トシテハ東三省側ヲ勧透シテ同会議ノ成立ニ尽カスベ」きだというのであ り、結局この意見は、国民革命を敵視する張作霖を排除し、国民政府と妥協しうるような東三省人による東三省政権を確立することを対満蒙政策の中核にすえようとするものであり、いいかえれば、これまで国際協調の枠のなかで進 められてきた満蒙分離の実態を、張作霖を排除することで、国民革命とも妥協させ、維持してゆこうとするものといえた。

  これに対して関東軍から出されてきた「対満蒙政策ニ関スル意見(90)」は、これとは逆に国民革命と対抗して、満蒙分離の度合を強めてゆこうとするものであり、張作霖がそれに役立たないなら、日本の適任とする者と入れかえることを辞さない、との方針を明らかにした点で、これまでの関東軍にみられないものであった。しかもそれは国民革命に対する反対よりも、さきの24年の「対支政策綱領」にみられたような資源要求の観点の方を正面に押し出しており、 この年陸軍からの要求により国家総動員準備機関として資源局が開設されるといった動きとも対応するものであった。 そこには「支那側ニ要求スヘキ事項」が次のように列挙されていた。

  一、

東三省(熱河特別区域ヲ含ム、以下同シ)ニ一長官ヲ置キ自治ヲ宣布セシム  

  二、

既設鉄道ノ経営並新線ノ敷設ニ関シ新協約ヲ締結ス

  三、

土地ノ開墾、鉱山ノ採掘、牧畜及諸工業ハ日支共存共栄ヲ趣旨トシテ之ヲ遂行ス

  四、

東三省ノ行政殊ニ財政整理ノ為必要ナル日本人顧問若干ヲ置ク、東三省ノ軍事改善ノ為中央部及各省ニ必要ナル顧問若干ヲ置ク


  これらの要求がさきの「対支政策綱領」の陸軍側草案にみえる「経済的領土化」をめざすものであることは云うまでもないが、さらに重大なことに、これらの要求を中国中央政府にではなく「張作霖二承認セシム」とし、もし張が「之ヲ躊躇スルニ於テハ帝国ノ認ムル適任者ヲ推挙シテ東三省長官トシ本要求ヲ遂行セシム」としている点であろう。 そしてさらに「我満蒙政策ノ実施ヲ拒ムモノハ断乎トシテ之ヲ排斥シ要スレハ武カヲ用ユルノ準備ヲ為ス」としているのであり、それは関東軍のなかに張作霖がつくりあげてきた満蒙分離状況を一層強化するために、武力を行使しても新たな傀儡をつくろうとする動きが生まれてきたことを示すものということができる。しかも、こうした満蒙掌握にあたって、国民革命との関係を全く考慮していないのであり、それは国民革命が満蒙に波及する前に、少なくとも満蒙自治政権を実現させねばならないとする期限付きの要求であることを意味するものでもあった。

 これらの意見がどのような形で東方会議で主張されたかは明らかでないが、同会議最終日に田中外相が指示した「対支政策綱領(91)」は、満蒙治安維持の必要を強調し、「対支政策」の「実行ノ方法ニ至ツテハ……支那本土ト満蒙トニ付自ラ趣ヲ異ニセサルヲ得ス」としたうえで満蒙を「内外人安住ノ地タラシムルコト」という新たな目標を打出している点で、関東軍と同様、満蒙分離の強化を志向するものと云えた。この「内外安住ノ地」については、田中はのちに「支那人日本人朝鮮人カ自由ニ活動シ得ルカ如ク」とか「独リ日本人朝鮮人ノミナラス各国人カ自由ニ住ヒ且ツ働キ得ル」などと説明している(92)が、それは中国の主権の問題を無視した、日本にとって好都合な秩序ということにほかならないものであった。田中はこのときにはまだ、張作霖を権益拡大のために利用することを考えていたが、この「内外人安住ノ地」は張作霖を排除する論理ともなりうるものであった。

 この田中の指示がどう受け取られたかを示す資料はないが、関東軍は、北伐再開により奉天軍敗退の形勢が明らかになるとともに、この機会に張作霖を排除すべきだとの意見を打出してきたのであった。すなわち関東軍は、田中内閣が第二次山東出兵に踏み切り、政府声明が発表された1928年4月20日、参謀長名で、奉天軍敗走の場合、満蒙治安維持のためには軍の主力を「山海関又ハ錦州附近二進メ」、奉天軍・国民革命軍の何れの侵入をも許さず、武装解除しなければならないとする意見を中央に具申した(93)。これは関外全体を戦闘禁止地域として特殊化しようとするものであり、さきの郭松齢事件で中央から否認された満鉄線両側30キロの戦闘禁止の要求でさえも、満鉄という日本の権益を規準としていたのとくらべ、その基準をもとりはらったこの意見は、関東軍が満蒙の実質的主権者との意識をもつに至っていることを示すものであった。そしてさらにつづく5月2日発の意見書(94)ではその意識は満蒙独立政権論を展開するまでに発展していた。すなわち「南北対戦ノ現時局ハ我満蒙問題ノ根本的解決ヲ期スベキ絶好ノ機会」であるとするこの意見書は、「満蒙問題ヲ解決シ将来帝国ノ経営発展ヲ自由且円満ナラシムル為ニハ張作霖ヲ頭首トセル現東三省政権ヲ排シ帝国ノ要望ニ応スル新政権ヲ擁立シ該政府ヲシテ支那中央政府ニ対シ独立ヲ宜セシムルコト緊要ナリ」と主張するに至ったのである。

 それは1年前の意見書に内在していた方向を顕在化させたものとも云えるが、しかし国民革命の波及を目前にしたこの意見書においても、そのための実効性ある手段方法が準備されていたわけではなかった。すなわちこの意見書では、新政権擁立の「形式手順」として、「帝国力自発的ニ且表面ニ立チテ之ヲ行フヲ避ケ」裏面工作により「三省各界ノ要人就中省議会、総商会並新聞等ヲ懐柔」し、反張作霖熱を煽り新政権を熱望する輿論を喚起する、という方法を提示しているが、そのための具体的工作がなされたという形跡を見出すことはできない。即ち結局は、関東軍の出動による軍事的圧力に期待をかけていたといわざるをえないが、ちょうどそのとき起った済南事件は、関東軍をも一層軍事力行使の方向につき動かす要因となったと考えられるのである。

 関東軍が前述の意見書を発信した翌日の5月3日、済南では、出兵した第6師団と国民革命軍の衝突・戦闘事件が起っているが、ここで日本側は、兵力引離しをはかっている革命軍に対して報復を企図し5月9日から11日にわたる済南城攻撃を実施したのであった。すなわち5月3日の事件は同日深夜の交渉で停戦が実現され(95)、中国側はその軍隊を引き離して北上させる措置をとっているのであるから、事件はここで外交交渉に移されて然るべきものであったが、ここで参謀本部(96)は、「国軍ノ威信ヲ顕揚」するため「断乎タル処置」をとることを指示し、第6師団側も「支那問題解決ニ一歩ヲ進ムル為、南方ニ対シ断然タル膺懲ノ挙ニ出ツル好機ナリト信ス」とこたえている。そして参謀本部は一箇師団増派の方針を固め、5月5日には参謀総長から陸軍大臣に対し「最早軍ノ問題ニシテ政策ニ左右セラルヘキモノニアラス、動員一師団ハ断乎トシテ増派セサルヘカラサル旨ヲ通告」したという。

  ここで重要なのは、参謀本部が政策に左右されない「軍ノ問題」なる領域を設定したことであり、それに対応する形で、第6師団に対しては「現場ニ於テ軍事的見地ノ下ニ軍権ノ手ニ於テ解決スル様交渉アリ度」と指示したことであった。それはいいかえれば、「軍の問題―軍事的基地―現場交渉」という形を、統帥権運用の一様式にしようということにほかならず、従って5月8日には軍事参議官会議召集の手続がとられ、同会議では参謀総長が済南事件解決案を示し「国軍威信ノ為軍部トシテ独断実行セントセルモノナルコト」を説明し「各参議ハ之ヲ諒トシ」たという。

 済南事件についてのこれ以上の経過はここでは省略するが、このような軍の独断・現地交渉・軍事力行使という方式により、現地の第6師団が期限付要求をつきつけて済南城攻撃を実施したことは、満蒙独立政権の樹立をねらう関東軍にも、統帥権の発動により満鉄附属地外への出動命令さえ得れば、さまざまな工作の余地の生ずることを実例をもって示したものということができよう。  

  国民革命軍は済南事件にも拘らず北上をつづけ、張作霖軍の関外敗走が時間の問題となるや、田中内閣は5月16日の閣議において、戦乱が満州に波及する場合には張作霖及南京政府の双方に対し「帝国政府トシテハ満州治安維持ノ為適当ニシテ且有効ナル措置ヲ執」る旨を通告(97)するとともに、いずれのものたるを問わず、武装した軍隊の満州ヘの出入を阻止する方針を決定、これに呼応して、関東軍は主力を奉天に集中して錦州方面への出兵体制をととのえた。関東軍はこのとき、この出兵によって、敗走してくる張作霖軍を武装解除し、さきの満蒙独立政権樹立の機会をつかもうとしたと考えられる。しかし、張作霖をまだ利用価値ありと考える田中外相は、外交ルートによる説得によって張の軍隊を秩序立った形で満州に撤退させるとともに、国民革命軍の関外追撃をあきらめさせようとする方向に動いた。そしてこの関東軍の実力行使なしに満蒙治安維持をはかろうとする構想が実現する見通しとなるに従って、関東軍への出動命令は延期され、結局発令されずに終ることとなる。しかしこの間、出動体制のまま待機した関東軍のなかに蓄積された不満は、6月4日の高級参謀河本大作大佐による張作霖爆殺事件をひき起すことになった。

  この事件は満蒙独立政権をつくり出す手がかりを求めたものと考えられるが、しかし実際には、国民革命への最も頑強な反対者である張作霖を抹殺したことによって、河本らの思惑とは逆に、満蒙支配層と国民革命との妥協の条件をつくり出すことになった。

  すなわち、国民革命軍は6月初旬に北京・天津地区を占領すると、関外への武力進攻を停止して北伐完成を宣言(北京を北平と改称)、以後は張学良に対し国民政府への参加と服属とを呼びかける平和的な政治工作に転じた。そして張学良の側も、これに応ずる道を選び、それに反対する日本側の強力な説得も、易幟を数か月延期させえたにすぎなかった。1928年12月29日、東三省にはいっせいに青天白日旗がひるがえり、翌30日には国民政府は張学良を東北辺防軍司令官に任命して、国民政府のもとへの統一を示した。しかし統一の内実は、これまでの張軍閥の幹部たちをそのまま省政府主席に任命したものであり、さきの木村意見書に云う「東三省人ノ東三省主義」の実現とも云いうるものであった。

 張作霖爆殺は、直接には、関東軍の企図にとって何のプラスももたらさなかったが、それは、原内閣以来の張作霖を媒介とする満蒙分離主義の枠組みを破壊することで、満蒙植民地化の新たな条件をつくり出したことも事実であった。すなわち張作霖軍閥の自立性を利用しようとした満蒙分離主義は、最初から張作霖の勢力の源泉である中央への進出に反対し、張作霖を「保境安民」の枠のなかに押し込めようとする矛盾をもつものであったが、やがて満蒙治安維持に介入する立場を得た関東軍は、満蒙分離主義を植民地化の方向に強化するために、この矛盾を張作霖とともに爆破してしまったのであった。そして問題はこの爆破にも拘らず関東軍の側は、河本大作ら若干名が軽微な処分をうけただけに過ぎず、関東軍のなかに生れた「満蒙独立政権」構想と、それを支持する諸勢力は何の打撃も受けずに生き残ってしまったという点にあったといわねばなるまい。

4「満州国建国」と対中国政策の破綻