『法学セミナー増刊・これからの天皇制』 

1985年5月

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近代化過程と天皇制


表紙

古屋 哲夫

1天皇制のとらえ方について―三ニテーゼの問題点
2権力構成における天皇の必要
3天皇の絶対性と国民
4天皇大権と天皇機関説



1天皇制のとらえ方について―三ニテーゼの問題点


 天皇制という用語は、われわれ近代史研究者にとって、必ずしも扱いやすいものではない。と言うのは、この用語は、ある場合には、国家秩序や権力機構そのものを指して使われているかと思うと、ある場合には、その特定の性格や側面を指して使われるといった具合に、その内容が確定されずに普及してきているからである。そして考えてみると、このあいまいさは、どうもこの用語が普及する過程で生まれたものではなくて、この用語が登場した最初からのものであるように思われてくる。

  そこでまず、この用語を最初に登場させた、いわゆる「三二テーゼ」(1932年4月コミンテルン)[第三インターナショナルの別称]作成、日本共産党採択)の問題に触れないわけにはゆかない。このテーゼは、日本の具体的情勢を評価する際にはかならず、天皇制の問題から出発しなければならないとし、来るべき革命の第一の任務を「天皇制の打倒」と規定することによって、天皇制問題を一挙に、現状分析と戦略戦術の焦点の地位に押しあげたのであった。以後、共産党とその周辺で、天皇制に関する理論づけとそれをめぐる論争づけとそれをめぐる論争とが蓄積されてゆくことになるのであるが、しかしこれらの仕事は結局のところ、テーゼ自体のもつ問題点を明らかにせずに終わっているように思われるのである。
そこで、三二テーゼを最新の翻訳である村田陽一氏編訳『コミンテルン資料集』の第五巻によって読み返してみると、天皇制に関する中心的規定は次のように書かれている。

  「日本の天皇制は、一方では主として地主という寄生的な封建的階級に立脚し、他方ではまた急速に富みつつある貪欲なブルジョアジーに立脚 して、これらの階級の上層部ときわめて緊密な永続的ブロックを結び、かなりの柔軟性をもって両階級の利益を代表しながら同時に自己の独自の、相対的に大きな役割と、えせ立憲的な形態でわずかにおおわれているだけのその絶対的性格とを保持している。」(同書365頁)

  この文章のわかりにくさは大変なものだと私は思う。たとえば「立脚」するとはどんな関係を指すのか、経費を負担させるとか人材を供給させるということも、「立脚」するの一例にはなりそうであるが、読む側がそうした具体的イメージに結び付けて理解することができなければ、こうした規定を情勢分析に利用することなどおぼつかないにちがいない。

ところで「立脚」がまず眼につくのは、立脚している側の天皇制が、地主やブルジョアジーのような「集団」なのか、絶対的性格を保持している「制度」なのか、わからないという点からもくることであろう。

  つまり、地主・ブルジョア階級の「上層部」と「永続的ブロック」を結んでいる、と言えば、それは人間の「集団」であることを予想させるが、この当時の議会や選挙を「えせ立憲的」であるとして、そのような形態でおおわれていると言われれば、「制度」であると考えるのが常識的な捉え方であろう。そのどちらなのかについて、テーゼは直接には何も答えていないのであり、実際に天皇制という用語がどう使われているか、という点から判断してゆくほかはない。

  そこで、テーゼにおける天皇制の用例をみると、(一)ブルジョア・地主的天皇制、(二)官僚的天皇制、軍事的・警察的天皇制または警察的天皇制、(三)天皇制官僚、(四)天皇主義、といった使い方をあげることができる。(一)はさきの規定の両階級に「立脚」する側面を、(四)は天皇信仰、あるいは、天皇への忠誠意識を指しており、(二)と(三)は、軍部を官僚のなかの最も侵略的・反動的部分としている他の箇所での用法からみれば、天皇制を、官僚機構を軸とした権力機構の総体を指すものとして使っていることを示すものと思われてくる。したがって先の両階級と「永続的ブロック」を結んでいるのは、正確には「天皇制官僚」とすべきだったのではなかろうか。このような用例からみれば、このテーゼは天皇制を、天皇を頂点と し、天皇主義によって運営される権力機構の総体として捉えていると言えよう。とすれば、次に天皇主義と権力機構との結びつき方が問題とされねばならないはずであるが、テーゼはこの問題を無視するという奇妙な態度をとっているのである。

  つまり三二テーゼは、天皇主義がいかにして権力機構を天皇制たらしめたのか、という問題を問うことなしに、権力機構即天皇制として、切り離し得ないものとして提示してしまっているのである。そしてこのことは実践的にも大きな混乱をもたらすものであった。すなわち、天皇主義打倒となれば、民衆レベルにおける天皇主義までも問題にしなければならないのであるが、権力機構即天皇制の打倒であれば、いままでと同じ権力機構への闘争が、そのまま天皇制への闘争となり、その際「天皇制打倒」と叫べばよいということにならざるをえない。もちろんそう叫ぶことが、天皇主義への打撃になりうるわけであるが、しかしこの方式でゆくと、あらゆる闘争に際して「天皇制打倒」と叫ばねばならなくなるのであった。

  たとえば、テーゼは「共産党の中心的扇動スローガンは『帝国主義戦争および警察的天皇制に反対しての、米と土地と自由のため、労働者・農民の政府のための人民革命』のスローガンでなければならない」(同前三六八頁)というが、警察機構一般への闘争とくらべて、警察的天皇制への闘争がどう具体的に違わなければならないのか明らかでないし、実際の共産党の運動においても明らかにされなかったと思われるのである。

  たしかにわれわれは、戦後において、一方では戦時中と同様な企画院官僚的発送による統制経済政策が生きのびていながら、一方では天皇主義が急速に後退し、天皇の権威と権力が権力機構からはぎとられてゆくのをみてきただけ、三二テーゼの作成者たちよりも、この問題について有利な立場にいることは間違いない。すなわち、戦後の経験は、天皇・天皇主義・天皇をめぐる諸制度と権力機構とは区別しうるし、また区別することによって両者の関係を明らかにしなければ、「これからの天皇制」など考えられないこと、したがって近代史における天皇制も、この観点から再検討されねばならないことを、われわれに示唆しているのではなかろうか。

  以下、本稿では、天皇制を、天皇をめぐる諸制度として、限定的に捉えておいたうえで、これらの問題の若干を考えてみたいと思うのである。



2権力構成における天皇の必要

 近代日本の天皇制というと、国民に天皇に対する特殊な形での絶対服従を強要したという点で、特徴づけられることが多い。さきの三二テーゼの 「絶対的性格」という規定もこの点に着目したものであろうし、それが近代天皇制の一つ帰結であったことも疑いない。たとえば、蘆溝橋事件直前の1937年(昭和12)5月に文部省が刊行した『国体の本義』が、「忠は、天皇を中心とし奉り、天皇に絶対随順する道である。絶対随順は、我を捨て去り、ひたすら天皇に奉仕することである。この忠の道を行ずることが我等国民の唯一の生きる道であり、あらゆる力の根源である」(34−5頁)とし、「我が君臣の関係」は、個人主義的考え方では絶対に理解しえない「没我帰一の関係」であるとしているのは、このような帰結を示すものであった。

  しかし、明治維新において、幕藩体制に代わる新たな権力構成の中核に天皇が登場してくるのは、国民をこのような特殊な服従関係に導いてくることを目的としたものではなく、新たな権力が、天皇を必要とする形で構成されたためであった。もちろんそこでは、政治的権力を失っているとはいえ、伝統的祭祀や知識や技芸などの保存者としての公卿集団を従えた天皇の存在が、民衆にまで広く知られているということが前提となっているわけではあるが、しかしはじめからその関係を利用して民衆を動かそうとする目的で、天皇がかつぎ出されてきたのではなかった。

  しかしまた、新たな権力構成にとっての必要といっても、自ら独自の政治権威をつくり出し得なった討幕派が、幕府に代わりそれを超えうる権威としての天皇を必要としたという、いわば討幕のための必要としたのは幕府の方であり、討幕派が利用しうる政治的権威を天皇に与えたのも幕府の方であったという点に注目しておかなくてはならない。

  周知のように、幕末の政治過程において、天皇が政治に登場するきっかけとなったのは、ペリー来航に際して、幕府が諸大名にその対策を諮問すると同時に、朝廷にペリーとの交渉について報告したことであった。この二つの措置はいずれも前例のないものであったが、幕府側からすれば、自滅の危険の感ぜられるアメリカとの対決を断念しながら、しかもそのことによる国内の決定的分裂を回避する道をさぐろうとするものであったにちがいない。つまりこれまでの幕藩体制の支柱の一つであった鎖国政策の修正を、できるだけ政治的摩擦を少なく実現してゆくためには、幕府の独裁の方も修正しなれけばならないというわけであった。そしてこの企てはやがて、そこから生ずる攘夷−開国の対立を、天皇の権威を高めることで切り抜けようとする方向に動いてゆくことになるのであった。

  しかし、幕府にとって、このやり方に有効なほどに天皇の権威を高めるための方式は、幕府自身が天皇の決定に従う−少なくともそれに逆らわないことを実際に示す以外になかったであろう。それは天皇を反幕勢力にも利用することを可能にするという危険性を持つものであったが、幕府はすでに、これ以外の方式をとるだけの力を持ち合わせてはいなかった。そして幕府はこの方式に従って、最後には将軍自ら恭順の態度を示すという形で滅んでゆくのであるが、それによって、国内の軍事的衝突を最小限に抑えながら、鎖国から開国への転換を果たすということには成功したのであった。

  つまり、幕末の外圧に対応する過程において、幕府は国内の決定的分裂を回避するために天皇を政治の世界に引き込み、天皇の決定に従うことによって、近代天皇制の原型をつくりあげたのであった。将軍でさえ恭順を誓った天皇に対して、大名以下が反抗することはもはや困難になっていた。そして討幕派は、明治天皇を掌握することでこの仕組みを動かし、明治維新を実現したのであったが、そのことは、以後の新しい権力を天皇を軸として編成しなければならなくなることを意味するものであった。そしてこの新しい権力編成には、次のような問題を解決してゆかねばならなかった。

  第一にはこの権力は、外圧に対抗できるような強力な権力でなければならず、したがって幕府のみでなく藩をも解体して統一国家をつくり出さねばならなかったが、そのためには最終決定者としての天皇の地位を絶対なものに高めるとともに、中央権力機構をそれに直属する形でつくりあげることが必要であった。古代の太政官制度の復活や天皇神格化の試みは、こうした課題にこたえようとするものであった。

  第二には、天皇の決定を絶対的なものとする代りには、その発動の機会と形式、さらにはその内容的方向をも限定しておくことが、政治体制の安定的発展のためには必須の要件となるはずであった。そしてこの要請にこたえる仕組みは、早くも徳川慶喜に対する親征の詔とそれにつづく五か条の誓文のなかに示されていた。

  すなわち、明治天皇の最初の詔書とされる「親征の詔」(慶応4年2月28日『法規分類大全・政体門(1)』による)は、冒頭で天皇が「文武一途公議ヲ親裁」する旨宣言するとともに、末尾では列藩に対し「国家ノ為二努力セヨ」と命じている点で注目される。ここでの「公議」は、誓文の「萬機公論」に、「国家」は、五か条を「国是」とする誓文の表現につながるものであるが、これをさきの観点から言えば、「公議ヲ親戚ス」とは、絶対性をもつ天皇の決定は、下からの公議を裁決するという仕方でしか行なわないという制度化の方向を示すものであった。つまり、原案が公議として提示されていないのに、天皇の側から勝手な内容を押しつけることはない、というわけであり、しかもその公議は、天皇のためではなく「国家のため」になされなければならないというのであった。

  したがって「公議親裁」とは、公議が単一の結論に達しておれば、天皇はそれを裁可するだけであり、公議が自らのなかで対立を克服しえない場合にはじめて、天皇自身が決定を下すという局面があらわれてくるという仕組にならねばならなかった。またその際の天皇の決定とは、天皇自身がその内容をつくり出すのではなくて、対立項のいずれかを選択するだけのものとなるはずであった。そしてこの決定には自己の主張を認められなかった側も絶対的に服従するというのが、権力編成における天皇制を成立させるかぎであった。そしてこのような天皇制の姿は、極限状況としての第二次大戦の敗北−ポツダム宣言受諾の局面で最も典型的に表われていた。

  すなわち近代天皇制はまず、日常的には「公議」を背後から支える権威としての、非常の際にはその分裂を克服する絶対的存在としての天皇を、権力の中心に位置づける体制として成立してきたのであった。



3天皇の絶対性と国民

 しかしこの体制は、これだけでは根本的な矛盾を含むものであった。すなわち、「公議」は一方で統一的官僚制の推進する富国強兵・殖産興業政策として、他方では「公儀興論」から「立憲政体」にいたる国民統合政策として展開されてゆくのであり、日常的に発動されることのない天皇の絶対性は、それだけでは、こうした近代化の背後で次第に忘れられてゆく危険にさらされているといってよい。美濃部達吉に天皇機関説の形成はこの点にかかわる問題であった。しかもさきにみた権力編成のあり方から言えば、権力内部にこの危険性を解消する仕組みをつくり出すことは不可能であった。そこで生み出されたのが、天皇の絶対性の保障を国民の側に求めようとする方策であった。

  つまり、天皇の絶対性の観念をたえず国民に植え付けようとする政策は、権力内部にも天皇への帰属意識を常に再生産することを意味したし、またこの政策が成功すれば、天皇の絶対性を認めない権力者は、国民の側からも指弾されることになるはずであった。そしてそれは、国民の権力への忠誠を、天皇に対する忠節として確保するという、権力にとってまことに好都合な仕組みをも可能にするものであった。

  「天皇への忠節」は、まず新たな軍隊編成の中心におかれた。天皇は維新の最初からまず軍事指揮官としてあらわれている。陸軍省編『明治天皇御伝記史料・明治軍事史』は、「王政復古大号令換発」という最初の項目につづけて、「(慶応3年)12月27日、天皇建春門に臨御し、薩州、長州、芸州、土州四藩兵を覧る、是を軍隊親閲の嚆矢とす」と記述しているが、以後、軍隊の閲兵、軍旗の授与、演習の統監などは、天皇の重要な職務となるのであった。

  この軍事面における天皇の絶対性は、明治15年1月の「軍人勅諭」において、天皇自ら「朕は汝等軍人の大元帥なるぞ」と宣言し、「下級のものは上官の命を承ること実に朕が命を承る義なりと心得よ」命ずる形で制度化されるのであるが、ここでは天皇と国家との関係についても、一定の方向が示唆されている点に注目しておかなくてはならない。

  軍人勅諭は、忠節・礼儀・武勇・信義・質素の五つを軍人精神の基本とし、そのなかでも忠節を最重要のものとしたのであるが、この忠節の項には「報国=国に報ゆるの心」というもう一つの問題が出されていた。ここでは「報国」はわが国に生をうけた者なら誰でも自然に持つ心として、いわば郷土愛の延長して捉えられているのであり、忠節との関係が明確に記されているわけではないが、要するに報国を実現するためには軍隊が必要であり、その軍隊は「世世天皇の統率し給ふ所」ときまっている、したがって国に報ゆるためには、天皇に忠節を尽さねばならない、というのがこの勅諭の論理の筋道にほかならなかった。

  つまりそこでは、一方で、「報国」を「国家」とは何かという問題を回避して、郷土愛の「自然」に解消させてしまったように、他方では、天皇の統帥権、さらにはその基礎となる絶対性をも、自然法則のごとく動かし難く決まっているものとして、「自然」のなかに溶かし込もうと企てられているのであった。そしてこの自然法則的な絶対的の把握は、すでに提起されていた「万世一系」の問題に通ずるものでもあった。

  のちに明治22年制定の大日本帝国憲法第1条に「大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」としてあらわれるこの用語は、早くも明治5年5月、岩倉使節団への委任状の冒頭に「天ノ命ニ則リ万世一系ノ帝祚ヲ踐ミタル日本国天皇此詔書ヲ見ル人人ニ宣示ス」という形で登場している。以後、翌年に「天ノ命二則り」が「天佑ヲ保有シ」修正されただけで、この形式は外交官・領事館への委任状のなかに繰り返されてゆくが、それは「万世一系」を、天皇の絶対性の「自明」の根拠とみなすことを要求するものであった。

  そしてこのような「万世一系」と言われただけで、天皇の絶対性を自明のものとして服従するような国民の態度が、権力中枢の危機的状況を回避しうるような天皇の絶対性を保証することになるのであった。したがって、そのような国民の態度を広汎につくり出し再生産することが、天皇制のための基本的な作業とされたのであった。

  それは明治末期の北一輝が「万世一系そのことは国民の(皇室)奉載とは些の係りなし」(『国体論及び純正社会主義』)と述べたような、万世一系と国民の服従の根拠、忠君と愛国の関係などを改めて問い直すような試みを弾圧する一方、祝祭日をはじめとする諸行事などあらゆる機会をとらえて、理くつ抜きの天皇神格化の試みをくり返すこととなった。教育勅語の場合をみても、その内容をなす得目よりも、事あるごとにくり返される勅語奉読式の方が、天皇の神格化に大きな役割を果たしたことであろう。そしてこのような試みが成功を収めたことも確かであった。


4天皇大権と天皇機関説

 では、これまで述べてきたように一方で、その神格的絶対性について広汎な国民の服従を組織しえたにもかかわらず、権力内部では、その絶対性の発動を局限されているという天皇のあり方は、どのような形で統一的に制度化されるのであろうか。大日本帝国憲法制定にあたってもその点は大きな問題であったと思われるが結局憲法が採用したのは「天皇大権」という方式であつた。

  天皇大権とは、この憲法の第6条より第16条にわたる「天皇ハ何々ス」という規定を指している。その内容は、法律の裁可・公布・執行(6条)、帝国議会の召集・開会・閉会・停会・衆議院の解散(7条)、緊急勅令の発布(8条)、執行命令・警察命令の発布(9条)、行政各部官制の制定・文武官の任免と棒給の決定(10条)、陸海軍の統帥(11条)、陸海軍の編成及常備兵額の決定(12条)、宣戦・講和及条約の締結(13条)、戒厳の宣告(14条)、爵位・勲章及其他の栄典の授与(15条)、大赦・特徴・減刑及復権の決定(16条)という広い範囲にわたっているが、このうち最も重要なものは、第10条から13条にわたる規定であろう。

 これらの規定が、天皇「大権」と呼ばれているのは、天皇がこれらの行為をどのようにして行なうかについての規定がなく、この文言上からは、天皇の独裁権と解しうる形になっているからであった。例えば、第5条の「天皇ハ帝国議会ノ協賛ヲ以て立法権ヲ行フ」とくらべてみると、第11条は「天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス」というだけの規定であり、「帝国議会ノ協賛ヲ以テ」というような具体的手続きについての規定を何も含まないのが特色であった。しかし現実には、統師権における参謀本部や軍司令部のように、天皇のこれからの行為を補佐する機関がつくられているわけであり、この何も規定されていない部分をどう理解するかが、憲法解釈上の大きな問題となるところであった。

  たとえば憲法学者上杉慎吉は「天皇の大権に属するものと定められたる事項は、必ず天皇が親裁専行せられなければならぬことを、憲法上の要件とするのであって、これを憲法上の他の官府の参与に行ひ、又は別に官府を設けて行はしむることを得ぬのである。例へば統帥の作用を、帝国議会の協賛に依り、又は特に征夷大将軍を置いて行はしむることを許さぬ」(『帝国憲法遂修講義』58頁)と論ずる。これに対して美濃部達吉は、天皇大権とは「国の元首としての天皇の独裁的権能」ということにほかならぬのであり、「天皇の独裁権と謂っても、国務大臣の輔弼を要することは言ふを待たぬところで、若し国務大臣の輔弼に依る天皇を『政府』と称するならば、天皇の大権とは即ち政府の独裁権であると謂ふことが出来る」(『逐條憲法精義』163頁)として、天皇大権から、国務に関する天皇独自の行動の可能性をとり去ろうとしたのであった。

  美濃部のこの解釈は、第55条の「国務各大臣ハ天皇ヲ輔弼シ其ノ責ニ任ス」との条文に対する特定の解釈を基礎とするものであった。すなわち、ここでは輔弼の範囲は明記されていないが、それは国務に関する大権のすべてに及びうるものであり、したがってこの条文は、天皇は国務大臣の進言に基づいて国務の大権を行使すべきことを規定していると理解する。そして「それが立憲政治の責任政治たる所以で、天皇は親ら責に任じたまふのではないから、国務大臣の進言に基かずして、単独に大権を行はせらるヽことは、憲法上不可能である」(同前512頁)と断ずるのであった。

  こうした両者の見解の相違が、最も端的にあらわれたのは統帥権の独立をめぐってであった。すなわち上杉は、統帥権は国務大臣の輔弼の範囲外にあり、一般国務から独立して運用されることが憲法の規定するところだとしたが、これに対して美濃部は、統帥権がそのように運用されているのは事実であるとしても、それは一つの慣行でしかない、したがって「将来之を改めて軍の統帥に付いても等しく内閣の責任に属せしめ、随って軍隊が内閣の監督を受くるものとせられても、敢て憲法の改正を必要とするものではなく官制の改正に依って之を実行し得ることは勿論である」(同前255頁)と出張したのであった。

  美濃部の学説は、天皇制における「公議」の部分を極限にまで拡大することによって、天皇の絶対性を国務の様式のなかに解消しようとするものであり、天皇の絶対性が平時にあっては容易に発動されないという事実を基礎とするものであった。しかしそれは、天皇への絶対的忠節を動員してゆこうとする側にとっては、はなはだ不都合な理論であった。

  天皇の絶対性を理くつ抜きで信じ込み、そこに命までも捧げるという国民の態度は、軍隊と学校とを主要な柱として育成され、すでにたび重なる戦争を通じて、権力内部での天皇の絶対性を保証するという役割をこえ、それ自体として操作されるまでに肥大化しつつあった。すなわち、天皇を民族的発展のシンボルとおき直すことによって、天皇の絶対性への服従は、容易に対外戦争に動員されうるものとなっていた。そして総力戦のためには、この服従心を信仰心にまで高めながら総動員することが企てられたのであった。
この立場から言えば、大元帥としての天皇を、国務大臣の輔弼によってしか行動することが「不可能」な、「元首としての天皇」の下位におこうとする美濃部の天皇機関説は、まさに「敵」にちがいなかった。そして右翼に先導され軍部を主力とした1935年の国体明徴運動は、一気に天皇機関説を押し流してしまうのであった。
国体明徴運動の勝利は、天皇制の機能のなかで、天皇の絶対性によって国民を動員するという側面が異常な発展を示したことを意味するものであった。しかしこの異常に肥大化したはずの天皇信仰も、その10年の後には、「聖断」と呼ばれた天皇の絶対性の発動によって、ほぼ平穏に収縮してしまったのであった。
この近代天皇制の政治的膨張の一過程は、われわれに何を物語っているのであろうか。われわれが「これからの天皇制」を考えるためには、ともかくもまず、幕府に引き出される前の天皇の政治的無力さと、アメリカ占領軍に押し戻されてあとの政治的無力さとが、どのように相違するのかを確認することから始めねばならないように思われるのである。

(ふるや・てつお 専攻/日本近代史)