福井県史資料編・近現代三』

1988年3月

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兵事と行政


表紙

古屋 哲夫


1.徴兵慰労金
2.召集義務
3.総力戦意識と在郷軍人組織の強化

4.満州事変と防空演習
5.戦争の拡大と防諜問題
6.国民義勇戦闘隊

 

 徴兵制度が実施されていた敗戦前の日本社会では、「兵事」が社会のすみずみまで浸透し、人々の生活や行動を規制していた筈であるが、いま、あらためてその具体的な姿を再現してみようとすると、いたるところで、資料の欠如という問題にぶつかってしまう。

 そこには、歴史の経過とともに資料が散逸していくという一般的な問題もあるには違いないが、それ以上に、敗戦直後の時期に意識的に資料が廃棄されたという事情が大きく作用していると思われる。特に行政文書の場合には、政府の指令によって組織的に焼却されたというから尚更である。従って、近代史の専門研究者でも、兵事関係の行政資料にお目にかかる機会は非常に少なくなっている。

  ところが、福井県では、県史編さんのために蒐集された旧町村の役場文書のなかに、焼却をまぬかれた相当量の兵事関係資料が含まれているとの情報を得た。一体、そこにどんなものが残されているのかという関心を持っていたが、この度、県史編さん課のご好意を得て、写真による複製本を中心とする同課の蒐集文書を見せていただくことができた。そこでお礼の意味をもこめて、気の付いた問題に触れておくことにした。



1.徴兵慰労金

 残された文書の大半は大正期以後、とくに昭和期のものが多いが、明治期のものも若干は含まれている。そしてその中では、前回配本の『福井県史・資料編11近現代二』に収録されている「丹生郡徴兵服役者待遇規約」(明治19年作成)などが、もっとも古い部類にぞくしている。
 この「規約」の中心は、郡内から広く資金を集めて、徴兵が満期になって帰郷した者へ、服役中の成績に応じて、1円以上20円以下の慰労金を渡そうという点にあるが、こうした動きは、この時期には全国的に広がっていた。福井県の場合にも、県の兵事課の指導のもとで、徴兵慰労事業が制度化されているのであり、その動きは、昭治19年8月6日の『官報』に、福井県報告として次のように報じられている。

 

福井県ニ於テハ各郡主任郡書記ヲ召集シ、去月十五日ヨリ県会議事堂ニ兵事諮問会ヲ開キ、兵事課長之力会長トナリ、徴兵事務取扱上等ニ係ル百四十数項及服役者待遇ニ関スル規約ヲ議了シ、同二十四日閉会セリ

 

 つまり、県兵事課長の指導のもとに、「規約」のひながたがつくられているのであり、これによって、当時は、県内全域にこのような「規約」が普及していったと思われる。そしてその実績としては、例えば、明治20年の満期帰郷者に対して、全県下で543円の徴兵慰労金が102人に贈与されたと報告されている。(内訳は、10円16人、9円5人、8円15人、7円22人、5円5人、1円39人。『官報』明治21年2月25日号)
 この慰労金制度が何時までつづいたかは明らかにしえていないが、旧平泉寺村役場文書のなかの「大正四年八月九日受」という書き込みのある「福井県尚武会規約」では、徴兵満期帰郷者への慰労は、現金ではなく、「銀盃・木盃・謝状」などにかわっている。




2.召集義務


 こうした徴兵慰労金制度の消滅は、徴兵制の定着を示しているが、それを基礎にして次々と展開された戦争に於ては、予備役、後備役の召集事務が地方役場の大きな仕事とされたのであった。本巻には「宮川村日中戦争動員記録」が収録されているが、ここでは、平泉寺村の日露戦争の際の記録を見てみよう。

明治三十七年七月十一曰、暴雨、月曜日

 

第九師団第六動員充員召集令状ノ交付ヲ午前九時二十分受ケタリ。

 

、本日ハ暴雨ニテ十日ノ日附召集令状ナルモ、九頭竜川出水ノ為メ渡船場断絶シ通行スル事能ハス。郡長ヨリ十日ノ午後勝山町ヨリ親展書来リ、本日動員発令トノ通知ニ接シ、全吏員ハ準備ヲ整へ待チニ待チタル処、漸ク船ノ通行十一日ニ至リ始メテ動員令ニ接ス。(略)

 

、役場使丁ヲシテ、使丁請負人へ警報券(使丁三名差出方)ヲ送達シ、尚急速支度ヲナシ即時参集スヘキ旨ヲ口達セリ。(略)

 

、使丁三名トモ九時二十五分参集セリ、因テ体格ノ適否ヲ検シ平易ナル語ヲ以テ其心得ヲ説キ聞カセタリ。

 

第一使丁、九時三十分発、十時三十分帰還。(略)

 

第二使丁、九時三十五分発、十時三十分帰還。(略)

 

第三使丁、九時四十分発、十時二十分帰還。

 これを見ると、役場はあらかじめ近くの有力者と、何時でも召集令状の配達人(使丁)を差出すとの契約を結んでおり、それによって3名の使丁が5分で役場に出頭していることがわかる。この制度が、使丁を急使と改称して後までつづいていることは、同じ旧平泉寺村役場文書のなかに、昭和15年の「急使請書」が残されていることでも知られるが、この間、第一次大戦後になると、こうした召集事務の平時からの整備が重視されるようになったことが「大正七年度召集及徴発事務検閲成績書」(旧平泉寺村役場文書)などからもうかがうことができる。



3.総力戦意識と在郷軍人組織の強化

  それは、第一次大戦が総力戦の様相を呈したことから、平時から総動員に役立つような準備を蓄積しておかなければならないという意識が、軍部などの間から次第に広まってきたことと関連していた。第一次大戦末期の第四十議会(大正6年12月より7年3月まで開会。なお、第一次大戦の休戦条約は大正7年11月11日調印)で早くも軍需工業動員法・軍用自動車補助法などが成立しているのは、このような総力戦意識の広がりを示すものであった。そして、それは同時に在郷軍人組織の強化をうながすことにもなった。

  旧平泉寺村役場文書のなかに、大正7年9月16日付で、大野郡役所第一課長から各町村にあてて、「在郷軍人中自動車運転ヲナシ得ル者」の調査・報告を命じた指令が残っているのも、そうした時代の動きを感じさせるものであった。
在郷軍人会については、帝国在郷軍人会鯖江支部の機関誌『精勇』(昭和6年のほかは不揃い)をみせていただいたが、その号数を逆算すると、大正9年9月創刊ということになる。この時期から、月刊、週刊誌大、12頁という機関誌を継続的に刊行し続けられるようになったということは、第一次大戦後の在郷軍人組織の強化という一般的な動向に符合するものであった。

  なお、『精勇』昭和2年1月号の「役員一覧」をみると、福井県出身の最初の首相である岡田啓介の義弟で、のちに二・二六事件で岡田首相の身代りとなって暗殺される陸軍大佐松尾伝蔵が、この時はまだ鯖江支部選出評議員・福井市聯合分会長として活躍していたことがわかる。




4.満州事変と防空演習

 在郷軍人会の活動が満州事変(昭和6年9月勃発)前後から一挙に活発化してくることは、本巻の「軍事」の章からもうかがうことができるが、『精勇』でも昭和6年春頃から、「満蒙」への関心を高めようとする記事が、次のように目立ってくる。

3月号〜5月号……

「満州の話」(鯖江憲兵分隊長、竹下少尉)

8月号……

「満蒙の真相」(陸軍砲兵大佐、遠藤寿儼)
「満蒙を正視せよ!」

10月号……

「満蒙か対支貿易か」(参謀本部、S大佐)
「帝国々防と満蒙に就て」、「帝国の危機、放置できぬ満蒙問題」

11月号……

「満州事変の概要」、「満蒙の重要性」、「かくして満州事変は起った」、「満州事変と国際聯盟の通俗的解説」

12月号……

「一大決心を以て解決せよ」(陸軍中将、高山公道)、「満州事変突発直後に於ける該地分会の活動」、「童謡・『守れよ満州』西条八十作詩」、「満蒙に於ける日本人の発展」

 また、この頃から各地で防空演習が行なわれるようになるが、福井県の場合には、満州事変一周年記念として行なわれたのが最初のようである。「記念行事」の全体計画は、本巻所収の資料をみていただくこととして、ここでは、旧粟田部町役場の「昭和七年・事務報告」のなかから、在郷軍人会同町分会の活動をとりだしてみよう。

  この「事務報告」には「各種団体ノ部」が附されており、その冒頭が在郷軍人会分会の項である。そして、その活動が日録として記されており、次のような防空演習の報告をみることができる。

九月十八日

満州事変一周年記念トシテ、粟田部町防空演習ヲ挙行ス。午後八時ヨリ八時半ニ至ル間、飛行機夜襲ヲ仮想シ燈火管制警備演習ヲ行ヒタリ。当日消防組・青年団・青年訓練所・町民一同ノ参加ヲ得、警察署ヲ統監部、役所ヲ防空司令部、町長ヲ総司令、助役ヲ副司令、警備班長・分会長・消防消毒班長・消防組避難所管理班長・青年団各々各部所ニ付活動ナシタリ。後国旗掲揚式挙行。時アタカモ隣村岡本村ニ於テ信洋社ノ製紙争議アリ、且国家非常時ノ折柄有意義裡ニ終了、大イニ国家国防観念ヲ強メタリ。

  最後の部分の製紙争議との具体的関係は明らかでないが、「非常時」の担い手としての意識を高めた在郷軍人会が、さまざまな社会問題に介入する姿勢を示してきたことをうかがわせるものであった。



5.戦争の拡大と防諜問題

 満州事変以後の軍国意識の高揚は中国に対する軽侮感の広がりと結びつき、盧溝橋事件をきっかけとして、政府や軍部は安易に戦争を拡大し、国民は容易にそれを受けいれるという結果をもたらした。
 
華北での全面攻撃開始の2ヶ月後、昭和12年9月下旬には、華北と上海の二つの戦線に合計13個師団が投入され、戦争は早くも日露戦争の規模に達していた。そしてそれでも上海戦線を突破することが出来ず、翌月には新たに第10軍を編成して杭州湾に上陸させるという方針が決定されたが、その結果、「内地に残る常設師団は近衛及び第七の二コ師団だけ」(防衛庁戦史室著『支那事変陸軍作戦1』390頁)という有様となった。こうなるとこの状況を秘密にするために、「防諜」という問題がやかましく言われるようになってくる。

  昭和11年10月から発行されはじめていた政府のPR誌『週報』の第56号(昭和12年11月10日発行)に、内務省は「時局と防諜」なる一文を寄せ、「応召兵より発する挨拶状」や「応召兵見送りの旗幟」に「所属部隊号を記載」するのは、軍機を漏洩することになると警告していたが、動員が拡大するにつれて、防諜の範囲も広げられていった。

  昭和16年6月22日、ドイツ軍がソ連に侵攻を開始すると、日本軍部は対ソ攻撃の機会をうかがい、7月には「関特演」(関東軍特種演習)の名目のもとに、満州に新たに50万の兵力を集中する大動員を実施した。そしてその過程で「防諜強化」の措置がとられ、福井県では7月19日、県警察部長から各市町村長にあてて、次のような通牒が発せられていた。

 

従来街頭ニ於テ所謂「千人針」ノ依頼行為、又応召ニ際シ長髪ヲ丸刈ニスル等行ハレ来レルガ、斯種行為ハ防諜上支障アルニ付、今後前者ハ学校当局ト連絡、之ヲ国民学校上級生、高等女学校並ニ女子青年学校生徒等ニ依頼シ、街頭ニ於ケル依頼行為ハ一切之ヲ差控フル様、又後者ニ付テハ長髪ノ儘応召スル様部民ヲ指導相成度

 

(旧平泉寺村役場文書)

 こうして準備されたソ連攻撃は実現せずに終ったが、結局その年の12月には米英との開戦に踏切ることとなり、動員は一層強化されていった。



6.国民義勇戦闘隊

 太平洋戦争は、周知のように、1年もしないうちに守勢に追い込まれ、4年目の昭和20年になると日本本土も米軍機の空襲にさらされるようになった。そして、そうした状況への対応策として、「本土決戦」が呼号されるに至るのである。

  例えば、朝日新聞は、硫黄島の戦闘が末期に近付いた3月8日の紙面に「本土決戦に成算あり」との大きな解説記事をかかげ、これまでの島嶼の戦闘では補給力の弱さのために戦勢も不利であったが、「本土に於てはあらゆる国力が直ちに戦力化され」、従って「本土決戦は我に無限の強みを与える」と主張していた。それが政府・軍部の意向を代弁したものであることは言うまでもないが、このような本土決戦論は、4月からの沖縄戦の敗勢が顕著になるに従って、次第に声高く叫ばれるようになった。

  そして、本土決戦準備の第一段階として、大政翼賛会や翼賛壮年団、婦人会、青少年団などを解散し、国民義勇隊に再編・一元化する措置がとられた。義勇隊は、原則として小学校(当時は国民学校)卒業後、65歳以下の男子及び45歳以下の女子を対象とするものであり、知事などの地方長官の指揮のもとに、生産と防衛の一元化をはかることが目的とされた。

  平泉寺村でも、7月7日に白山神社の境内で国民義勇隊結成奉告式が行なわれているが、その編成をみると村長を隊長とし、男・17歳より55歳=236名、56歳より65歳=71名、計307名、女・17歳より40歳=137名、41歳より45歳=22名、計159名(総計466名)を2中隊に分け、さらにそれを小隊に区分している。

  このような義勇隊の組織はさらに第二段階として、軍による召集の形で、国民義勇戦闘隊を編成することを予定しており、昭和20年6月の臨時議会は、そのための「義勇兵役法案」の成立をひとつの目的としていた。義勇兵役は15歳から60歳の男子及び17歳から40歳の女子を対象とし、それによって編成された戦闘隊は、各種の兵站的業務のほか、状況によっては、直接戦闘にも従事させるというものであった。

  昭和20年7月26日福井地区司令部作成の「国民義勇戦闘隊動員計画等ニ関スル規定」によると、動員は次の3段階が予定されている。

第一次

状況緩ニシテ当管区内兵站路トナリ一部ノ戦闘隊ノミ動員ヲ要スル場合 十七歳ヨリ四十五歳迄ノ男子

第二次

状況梢々急迫シ敵上陸ノ考慮大ニシテ更ニ戦闘隊ノ動員ヲ要スル場合 十五歳ヨリ十六歳ノ男子及四十六歳ヨリ五十歳迄ノ男子、十七歳ヨリ二十五歳迄ノ女子

第三次

状況急迫シ敵師管内ニ上陸シ更ニ召集ヲ要スル場合 五十一歳ヨリ六十歳迄ノ男子、二十六歳ヨリ四十歳迄ノ女子

  この「規定」にもとづく地域・職場の各戦闘隊の動員計画は、8月10日から25日の間に完成するように指定されていたが、まさにこの間に戦争は終結するのであり、「義勇召集」による義勇隊の編成は実施されることなく終ったのであった。

  この資料は、旧平泉寺村役場文書のなかの「義勇戦闘隊関係法規綴」にみられるものであるが、それは明治以来の「兵事」の行きついた先を示しているともいえよう。そして、もし実際にこの戦闘隊が編成され活動する局面が現れたとしたら、行政は解体状況に陥いるほかなかったであろうと思われるのである。