(1)第二八回議会の召集と第二次西園寺内閣
明治44年12月23日、第二八回通常議会が召集された。その直前の20日の閣議で西園寺公望首相は明治天皇の近情について、
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「近頃侍医よりの内話によれば糖尿病に罹り居られ御静養を要する次第なれども、女官等より申上げたりとて一切御聞入もなく、却て陛下は、今日迄色々の事も為したることなれば死んでも差し支なしなどの仰もありて、女官等彼是申上ぐることも叱斥せられ、御取上げなし、而して諸事非常の御勉強なるは我々輔弼の任に在る者の最も心配する所なり」(原奎一朗編『原敬日記』第三巻 198頁) |
と語っている。明治天皇の健康は以後しだいに悪化し、結局この議会が、天皇にとっての最後の議会になるのであるが、しかしこのときにはまだそこまでの事態は予想もされず、天皇も27日の開院式に親臨している。したがって、この議会が召集されたとき、西園寺首相の関心はむしろ、閣内不統一による内閣の危機に向けられていた。
前議会を政友会との「情意投合」で乗り切った桂内閣は、この年の8月25日総辞職し、桂前首相の推挙によって、同月30日には政友会総裁西園寺公望を首相とする第二次西園寺内閣が成立した。この経過から桂は、第一次西園寺内閣の場合と同様に、この新内閣にも影響力を振るえると考えていたが、政権授受交渉の中心となった原敬は、西園寺や松田正久(原と並ぶ政友会の実力者)との間で、今回は閣僚の人選について桂らにいっさい相談せず、彼らに対抗できるような内閣をつくるという方針を固めていた。
組閣の結果をみると、政友会からは、内務大臣原敬、司法大臣松田正久という第一次内閣の再現に加えて、衆議院議長の長谷場純孝が文部大臣に登用され、さらに前内閣で新設されたふたつの準閣僚的ポストのうち、鉄道院総裁は原敬の兼任としたが、もうひとつの拓殖局総裁には、元田肇が起用されている。また外務大臣には駐米大使の内田康哉が選任されたが、これも「内田は官僚系の人物にあらず」(前掲『原敬日記』第三巻 135頁)、「陸奥伯時代共に秘書官たりし頃よりの懇親の間柄」(前掲『原敬日記』第三巻 175頁)であり、打ち明けて相談のできる友人だという原敬の推薦に基づ くものであった。このほか、農商務大臣の牧野伸顕と逓信大臣の林薫はいずれも、第一次内閣の閣僚(牧野は文部、林は外務)であり、したがって、以上の閣僚は、政友会員、または政友会に近い人物とみられた。また、政党の影響力の及ばない軍部については、陸軍大臣に次官の石本新六が昇任し、海軍大臣には斎藤実が留任したので、これも目新しい人事ではなかった。しかし大蔵大臣の山本達雄だけは、噂にものぼっていない「意外」な人物であった。
山本はこの時、日本勧業銀行総裁であったが、第一次桂内閣下の36年10月には日銀総裁の任期満了に伴い再任されずに退職し、42年11月に勧銀総裁となるまで、いわゆる浪人生活を送っている。桂は、山本の蔵相任命に不快の意をあらわしたというが、原は「山本は桂の為に日本銀行を逐はれ、先頃勧業銀行法の改正案にも山本を苦しめたる形跡あり、桂の喜ばざる事は始めより予知せられたる事にて、又然るが故に山本を挙げたる意味もある訳なり」(前掲『原敬日記』第三巻 161〜162頁)と述べて、その点こそこの人事のねらいだったとしていた。
たしかに山本の起用は、桂への対抗という点では成功であったが、しかしそれは政友会の立場を強めたというわけではなかった。山本は、政友会の政策や思惑にも強い抵抗を示した。
原は最初、山本の後任総裁に政友会代議士の野田卯太郎を押し込もうとしたが、山本は、政党員を特殊銀行総裁にすることに反対だという原則的立場をとり、結局、副総裁志村源太郎の昇任を実現させた。原は「政党員は如此場所に入るべからず」(前掲『原敬日記』第三巻 175頁)とするような山本の主張と、それに妥協的な西園寺の態度に憤慨しているが、同様な対立は、予算編成をめぐっても展開されていた。
すなわち、原は山本蔵相との間で、鉄道の建設・改良のために、継続的に年額4000万円を大蔵省が調達するとの了解ができていると考えていたところ、第二八回議会召集の前日、12月22日になって大蔵省側から4000万円は翌45年度だけのことで、後年にわたる継続費には同意できないとの通告を受けた。彼は、それでは話が違う、継続費のことは首相も同意していたはずではないかと、辞職をほのめかせながら西園寺にねじこみ、 結局西園寺から蔵相に交渉することとなった。
翌日召集された議会では、午前10時からの衆議院の議長選挙で、文相に就任した長谷場前議長の後任として、大岡育造が選出されているが、その日の午後3時には、原は、蔵相との交渉の結果を聞くために首相を訪問した。しかし西園寺が「今日に至りては如何とも致方なしと云ひ」(前掲『原敬日記』第三巻 200頁)、蔵相のいい分を支持する態度を示すと、憤慨した原は、翌朝西園寺に辞表を送り天皇へ執奏することを求めた。驚いた松田法相の調停により、予定計画を縮小すれば新線建設を提議できるような妥協が図られ、翌日辞表は撤回されたが、議会召集時のこのような動揺は、この内閣のおかれた困難な状況を示すものであった。
なお、この妥協によって、この議会に五路線(新潟県・新発田〜村上、香川県・多度津〜愛媛県・川之江、千葉県・木更津〜北条、福井県・敦賀〜新舞鶴、島根県・浜田〜山口県・山ロおよび益田〜萩)を建設するための鉄道敷設法改正案が政府から提出され、成立している。
(2)緊縮財政と予算編成
第二次西園寺内閣が成立したとき、西園寺は桂から、行き詰まった財政と、軍部から起こってきた軍備拡張要求の後始末を押しつけられたとの見方もなされており、政友会のなかには、桂内閣末期から「内閣受取りに反対する」動きさえあると報ぜられていた(『東京朝日新聞』明治44年8月3日「時局縦観横察」)。
たしかに前年から貿易は入超に転じてその額は増加の一路をたどっており、また、日露戦争以来の政府・民間 の外債は20億円、その利子だけで年間1億円が必要であり、そうした支払により正貨準備が底を尽きかけていた。事態を憂慮した松方正義、井上馨らの元老たちも、西園寺内閣が成立すると早速、財政立直しを強く申し入れてきた。そして、こうした元老の動きを背景として、山本蔵相は緊縮財政の方針を打ち出してくることとなる。すなわち、行政整理などによって財源を捻出するまでは、新規の要求は認められないというのであった。
しかしこの方針に対しては、海軍が最初から強く抵抗してきた。海軍では、列強の海軍拡張競争におくれをとらないためには、「ドレッドノート」型最新鋭艦の建造が必要であるとし、すでに明治43年5月23日の閣議に、 総額3億6000万円に及ぶ軍拡計画を提案している。このとき桂内閣は、財源難を理由としてこの計画の実行を見合わせ、すでに決定されていた計画の繰上げ実施を認めるにとどまった。そこで斎藤海相は、留任にあたって、金額はともかく、拡張の方針だけは承認してくれるよう西園寺に求めたが、山本も原もこれに反対であり、斎藤もともかく軍拡案を閣議に提出することで妥協せざるをえなかった。
もし海軍の要求を認めれば、陸軍からも軍拡要求が出てくることは必至であった。陸軍では、10月には陸軍大臣と参謀総長とが連名で、「朝鮮二二箇師団ヲ常設セントス」との上奏を行い(宮内省編『明治天皇紀』第一二巻 683〜684頁)、軍拡案提出への態勢を整えていた。
しかし、原も山本の緊縮方針を全面的に支持したわけではなかった。当時すでに政友会は「到る処に鉄道を普及し、若くは港湾を修築せんといふか如き約束」をばらまき、こうした地方的事業の予約をもって、「党勢拡大に利用」していると批判(『東京朝日新聞』明治44年12月5日 社説)されていたが、原らの首脳部はいぜんとしてこのやり方に固執し、山本蔵相にもこうした政友全の利害を考慮するように要求していた。そして11月20日には、西園寺・松田・原の間で、45年度予算緊縮の方向は認めるが、電話の拡張・港湾の改修には預全部資金を流用し、鉄道資金は公債による、また45年度で行政整理を行って財源を捻出し、それによって46年度からは新規事業を実施する、といった趣旨の覚え書がつくられた(前掲『原敬日記』第三巻 187頁)。
ところが、11月24日の予算閣議では、西園寺はその覚書にもかかわらず山本側について、原に対して電話・港湾関係費の削減を求めてきた。原もこの方針に従わざるをえなかったが、同時に、海軍拡張案も46年度から実行することとして45年度予算には計上しないこととされた。結局この閣議では、一般会計では新規事業は行わないことが決定されたが、行政費は節約しても、国力発展に必要な費用や生産的事業への投資は惜しむべきで ないと主張する原は、最後に、特別会計である鉄道費に関しては積極主義を貫きたいと考えたが、それさえも西園寺首相の支持が得られず、先に述べたような、辞表提出の一幕を演じたものであった。
第二八回議会に提出された45年度予算案は、こうしたやり方で新規事業を抑え、一般会計・5億6289万余円とほぼ前年なみの規模(390万余円増)で編成されていたが、それでも、税収の減少を埋め合わせるため に、1500万円の前年度剰余金を歳入に繰り入れてようやくつじつまを合わせるという有様となっていた。また一般会計で5000万円を減債基金にあてているのに、特別会計では6500万円を公債その他の借入金に頼っているのは矛盾だ、と批判されるような側面ももっていた。ともかく、この予算案は、新たな財源を捻出しな ければ新たな事業は何もできないという財政状態を物語るものであり、しかし、といって当時は、増税の金地のないような不況のさなかであった。したがって、46年度からの海軍拡張を認めたという点からいっても、内閣 は、行政整理によって財源を創出しなければならない立場に追い詰められていた。そこで議会召集を目前にした 12月9日、内閣は、臨時制度整理局官制を公布して、西園寺首相を総裁とし各省の次官や関係局長を委員とす る整理局を発足させ、この課題に取り組む姿勢を示していた。
予算案に新規事業が合まれなかったため、議会での論議も、財政方針を軸として展開されることとなった。た とえば、45年2月13日の衆議院本会議で国民党の武富時敏は、国民は山本蔵相の緊縮財政に期待していたが、 この予算案をみると一般会計では前年度予算をそのまま踏襲しただけで、多少増加したものはあっても、緊縮の方針を見出だすことはできないとし、さらに特別会計ではむしろ「頗ル膨脹ヲ来シテ居ル」のであり、この予算を執行すれば借金をますます増加させなければならないと断じた。そして「四十五年度予算二対シテー般会計ノ 歳出二於テ六千万円ヲ減ジ、而シテ其款項ノ金額ハ政府ト協議シテ之ヲ定ムベシ」との動議を提出した。それは政府の臨時制度整理局に対して、次官や局長などの役人を集めて細かいところから調査していくというやり方では数千万円規模の節減などできないことは、「歴代ノ内閣が企テタ行政整理ノ歴史二明白二証拠立テヽアル」ものではないか、と批判し、「先ヅ大方針ヲ定メテ此大方針ノ実行ニ関スル手段方法ヲ調査サセル」、つまり6000万円を削減させるという大方針を定めてから、それで支弁できるように行政の組織や命令を改正するという作業を整理局にやらせるという方法をとらなければならない、と主張するものであった。中央倶楽部も5000万円削減案を出して、野党の立場を明らかにした。これに対して、政友会の小川平吉は、このやり方は議会の予算審議権の放棄だと批判している。
この議会での衆議院の勢力は、国民党87名、中央倶楽部50名に対して、政友会は207名を維持しており、 この絶対多数の威力によって、予算案は原案どおリ両院を通過しているが、これまでみてきたように、問題を先送りするものであり、46年度予算の編成が紛糾することは必至とみられた。
(3)辛亥革命をめぐって
この議会では、予算に関連する議案として、清国事件費支弁二関スル法律案が提出された。この法案は明治44(1911)年10月に勃発した清国のいわゆる辛亥革命に対応するための費用(とりあえず剰余金より支出していた)については、特別会計の資金を借入または繰替使用することができるとするものであり、両院で原案どおリ可決された。しかしこれに関連して辛亥革命に対する政策についての野党側の追及が行われ、辛亥革命を めぐる論議が交わされたことは、この議会のひとつの特徴となっていた。
清朝に反対する革命派は、10月10日の武昌蜂起以後急速に勢力を広げ、この議会休会中の45(1912)年1月1日には南京で孫文を臨時大総統として「中華民国」の成立を宣言した。そしてこの議会の審議が本格化する1月下旬には、清朝政府の実権を握った袁世凱との間で、宣統帝を退位させ清朝の支配を終わらせるという条件で、南北妥協の交渉が煮詰められているところであった。そしてこの時期に、「第十二師団出動」のニュースが伝えられたことは、議会での論議を引き出すきっかけにもなっていた。
1月25日の東京朝日新聞が、「清国動乱に関する帝国政府の態度漸く定まり、政府は此際東洋の平和と帝国の利益を確保せん為め断固たる手段を取るに決し、先づ満州に於ける我居留民の保護として出兵すべく、愈々23日小倉第十二師団に動員令下りたり」と報ずると、その日の衆議院予算委員会では早速、加治寿衛吉(中央倶楽部)がこの問題を取り上げている。これに対して、石本陸相は「事実無根」として否定するとともに「併ナガラ支那ノ状勢ハ……時々刻々変転シテ参リマスルカラ、今後或ハ多少ノ兵カヲ更ニ出サナケレバナラヌト云フ時期モ或ハアリマスルカモ知レマセヌ」と答えているが、翌日の委員会では、今度は犬養毅(国民党)がこの答弁を取り上げ、情勢が時々刻々変転するようにみえるのは、大勢をとらえて方針を定めるということがなく、政府に「一定不変ノ方針ガナイ」からだと批判する。そしてさらに、政府は中国側に対して「一種ノ主義ヲ以テ」臨 み、それをまた、「四五日ノ間二又一変」させるというような態度をとったのではないか、と追及した。
次の27日の委員会では、大石正巳(国民党)が「日本政府ガ一旦ハ支那ノ君主制ト云フコトニ固着シテ、一方ノ肩持ヲシタト云フ結果ハドウ云フ結果ヲ成シテ居ル、即チ其肩持ヲシテヤッタ袁世凱ナル者モ決シテ之ヲ以テ日本ノ恩恵ナリトハ感ジテ居ラヌ、又其勢カヲ利用シテ、革命軍ヲ圧迫スルガ如キ行動ガ現ハレタ結果ハ、革命軍カラモ日本国家ト云フモノハ非常ニ忌嫌ハレルト云フ有様ニナッテ居ル」と論じているが、犬養のいう「一種ノ主義」とは、大石が「君主制ト云フコトニ固著」したという点、つまり、日本政府が辛亥革命に対して、立憲君主制を押しつけようとしたという問題を指摘したものであった。
さらにこの問題については、「政府ハ猥ニ他国ノ政体ニ干渉シテ失態ヲ演シタル事実ナキヤ」(「対清政策ニ問スル質問主意書」2月1日、中央倶楽部・竹内正志提出)、「我カ北京駝在ノ伊集院公使ハ清帝退位迄君主立憲主義ヲ固執セリト聞ク、事実如何」(「靖国動乱ニ関スル質問主意書」2月27日、中央倶楽部・柴四朗提出)、「若絶対ニ政体不干渉ナリトセハ、伊集院公使力立憲君主説ヲ以テ袁世凱ニ強ヰタル八本国政府ノ節度ニ違ヒシモノトシテ、速ニ之ヲ交迭シ以テ内外ノ疑惑ヲ避ケサルヘカラス、然ルニ今ニ於テ猶此ノ事ナキハ如何」(「対支那外交問題ニ関スル質問主意書」3月9日、国民党・佐々木安五郎提出)などの質問が提出されている。これに対して政府は、「帝国政府ニ於テハ清国ノ政体ニ千渉シタルコトナシ」(3月20日、竹内への答弁書)、「伊集院公使ハ何等支那ノ政体ニ干渉シタルコトナキヲ以テ……政府ノ節度ニ違ヒタル措置アリタルコトヲ認メス、従テ之カ為同公使ヲ交迭スルノ意志ヲ有セス」(3月25日、佐々木への答弁書)などと述べて、野党の質問を否定し続けた。しかし、野党側の疑惑は、根拠のないものではなかった。
まず第一の「第十二師団出動」のニュースは誤報だとしても、元老山県有朋はそのほぼ10日前の1月14日の情報に基づいて、袁世凱と革命派の交渉が決裂して中国情勢は混乱が続くとみ、「満州ニ出兵ヲ要スル適当ノ時期」であるとして、石本陸相にロシアとの了解のもとに1、2箇師団を出兵させるよう求める覚書を作成している(大山梓編『山形有朋意見書』337頁)。しかし中国情勢は、山県の判断とは逆に南北妥協が成立し、2月12日清国皇帝は退位し同15日袁世凱が大総統に就任するという形で革命が収拾されたため、こうした出兵は実現されなかったが、陸軍部内に中国への軍事干渉を企てる勢力が存在していることは事実であった。そしてこうした辛亥革命への対応は、 陸軍の軍備拡張への欲求を強く刺激することにもなったと思われるのである。
さらに次の「立憲君主制」による干渉の問題は、まさに野党側の指摘するとおりであった。内田外相−伊集院公使の外交当局は、清朝の立憲君主制への改造によって事態を収拾しようとし、袁世凱やイギリスに働きかけたが、両者はむしろ、革命脈との妥協=共和制の実現という方向へ日本を出し抜いていくこととなった。もっとも、閣内にも、立憲君主制への固執に反対する意見もあり、すでにこの議会が召集されたときには、この政策は実質的に放棄されており、議会でのこの政策の否認も政治的問題を生じないと考えられたことであろう。議会召集の前日、12月22日の閣議の模様を『原敬日記』(第三巻 198〜199頁)は次のように記している。
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「二十二日 閣議、内田外相より清国事件を報告し、英国は君主立憲の勧告を捨て共和政治となるも清人の自由に任すべき内意を申越したり、依て一応君主立憲の前説を英国政府に申込ましめ、夫れが行はれざるときは日本に於て英国に同意すべしと云ふに付、余は君主立憲は最良の政体なりとするも、時局を解決するには最良の方法にあらず、……故に一応英国に申込むことに強いて異議なきも、此主義は之を放棄するを得策とすと述べ、石本陸相始め閣僚異議なく之に決せり」 |
要するに、議会の論議よりも現実の事態のほうが先行してしまっているのであり、結局辛亥革命は、日本側の対中国政策の発想を再検討する機会とはならずに終わったのであった。
(4)小選挙区制、成立せず
第一次西園寺内閣が、財政難のため行政整理を先行させることを理由として、積極的政策を先送りしたことはすでに述べたが、そのことは、所得税法改正案の処理などに典型的にあらわれていた。日露戦争時の非常特別税が戦後も継続されたことから、税制整理・減税問題は政府・政党間の、したがって議会での重要問題となっており、前の第二次桂内閣も第二六回議会に、約1000万円の減税を含む税制整理法案を提出している。このときは、地租の減税が予定されていなかったことに政党側が反発し、結局、地租を8厘減とすることで妥協が成立したが、政府側はその代わりに、最大の減額(440万円)を用意した所得税法改正案を撤回してしまっていた。そこでこの問題が次の課題とされるようになり、この議会でも国民党が、所得税法改正案を提出しており、与党の政友会は「所得税法改正ニ関スル建議案」で対抗したが、山本蔵相の「行政整理によって次年度では必ず改正する」との答弁に基づき、改正案を否決、建議案を撤回して、問題を先送りしたのであった。そして、この議会では、財源問題の伴わない選拳法改正案が、最重要法案となることになった。
内閣は議会召集を目前にした明治44年12月11日、衆議院議員選挙法改正調査会官制を公布し、内務大臣を会長とし、貴衆両院議員各10名、内務次官以下の官庁側10名の計30名よりなる調査会を発足させた。原内相はここに現行の大選挙区制を小選挙区制に改正する案を提出しているが、これは政友会でまとめられていた案というわけではなかった。たとえば、のちには衆議院本会議で政府案に賛成し小選挙区割支持の演説をしている政友会の松田源治議員も、調査会委員に任命された当初は、「従来の大選挙区を小選挙区とする事は明かに選拳法の退歩なれば……中選挙区に改正せらるるに至るべく思はる」(『東京朝日新聞』明治44年12月14日)などと述べているような有様であった。原内相とすれば、選挙区割りの論議で党内を紛糾させることを避け、権力を握った機会に選拳法をより有利に改正し、議会後に予定されている総選挙(明治45年5月で衆議院議員の任期満了)で、政友会の勢力をより強固なものにすることを企図したものであったに違いない。
この時点で行われていた選拳法は、第一四回議会で改正され、33年3月に公布されたものであり、それまでの小選挙区・記名投票から、大選挙区・無記名投票を原則とするものに変わっていた。この大選挙区制は、府県を一選挙区としたが、同時に商工業者を優遇する意味から、人口3万人以上の市を独立の選挙区とし、このほうはほとんど定員1人であったから、実際には、郡部=大選挙区、市部=小選挙区という2本だての観を呈していた。その後、市選挙区の追加などが行われているが、二八回議会現在でみると、郡部は45選挙区(北海道、沖縄は別だて)で4人からこ12人の定員となっており、五人区(12)、六人区(9)、七人区(5)で過半数を占めている。市部では、東京市・11人、大阪市・6人、京都市・3人、名古屋市・神戸市・横浜市・2人のほかは、44市が一人区であった。また、郡部とは別に、対馬、佐渡、隠岐、大島が、定員1人の独立選挙区となっている。そしてこの選拳法により、4回の総選挙が行われていたが、今回の改正は、市を独立選挙区とする原則 はそのままにして、全休を一人区中心に(若干の二人区、三人区をおく)再編しようとするものであった。
選拳法改正案は、45年2月27日の衆議院本会議に上程され、委員会審議を経て3月5日の本会議で可決、 3月9日の貴族院本会議にかけられているが、原内相は両院の本会議で、その提案理由を次のように説明していた(衆議院での論戦を経て、説明がていねいで明確になっているので、ここでは両方を検討するが引用は貴族院での演説による)。
まず、かつて第一四回議会で大選挙区割への改正が行われたのは、次の三つの理由によるものであったとする。 すなわち第一には、小選挙区では「一県下ヲ通ジテ名望アル者モ当選ヲ期シ難イコトガアル」のであり、そうした人材を確保するためには大選挙区が必要であるとされたこと、第二には、「一府県ヲ通ジテハ多数ヲ得テ居ル党派デモ、選挙区デ小分セラレテ居ルガ故ニ、其小分セラレタ選挙区ニ於テ多数ノ投票ヲ得ルコトガ出来ヌ場合が 多イ」、つまり多数を得ている政党が必ず多数の議員を出せるようにするには、大選挙区でなければならないと考えられたこと、第三には、「暴行、脅迫、賄賂」などは、大選挙区になればやむだろうと主張されたこと、などが改正の理由であった。しかし、その後の実績をみると、これらの点は、いずれも予期に反した結果になっていると原はいう。
第一の点では、小選挙区の時代には落選していたものが、大選挙区になったから当選できるようになったという動きはみられないし、また第一級の「大人物」は選挙区の大小にかかわらずに当選している、しかし大選挙区制が期待した名望家は、「選挙区ノ大ナルガ為ニ、……競争ヲ致サナケレバ当選ヲ期シ難イ」状態であり、予期に反した激しい競争に苦しめられる結果になったというのである。そして第二の点でも、多数の支持を得ているはずの党派でも同じ党派の候補者同士が競争することとなり「多数ノ候補者が出マシタガ為ニ其地方が分裂シテ少数ニ陥ル」という事態もみられ、必ずしも理想どおりにはいっていないとみている。また第三の問題では、暴行、脅迫が滅少しているのは確かであるが、それは記名投票をやめて無記名にした結果であり、選挙区の変更によるものではない、そのうえ、賄賂は、大選挙区になって減少しないばかりでなく、かえって蔓延しているようにみえる、として「選挙界ノ腐敗」という問題を提起したのであった。
では、なぜ選挙が腐敗するかといえば、大選挙区制では必然的に競争が激化し選挙費用が増加するからだというのであり、原は、この「競争の激化」という点に、大選挙区制の弊害の根源を見出だしているようにみえる。 そして、小選挙区制では候補者は、その選挙区での「名望位地ヲ必要」とし其人格が認められていなければならないが、大選挙区制のもとでは「此人格徳望トデモ申スヤウナルコトハ余リ用ヲ為サ」なくなり、投票を集める ためのその他の手段の役割が増大するのであり、「競争」は大選挙区制の場合には、異なった様相を呈するというのである。つまり、大選挙区制では、名望・人格などによって当選を図ることは困難となり、「金銭ニ依ッテ当選 ヲ図ル」「下等社会ノ気ニ人ルベキ卑近ナル言論ヲ以テ当選ヲ図ル」という傾向が強まり、弊害が増大するというのが、原の主張であった。彼は現行制度でも、小選挙区のほうに無競争の選挙区が多く出ていることを強調しているのであり、「穏健ナル政見ヲ以テ相当ノ人格ヲ具へ夕」いわゆる名望家が、安定して、少ない競争で当選できる点で、小選挙区割を高く評価していたとみることができる。
このほかに原は、選挙権拡張については、日露戦争期の増税の結果、選挙人の数は非常に増加しており、現在ではこれ以上に選挙権を拡張する必要はないとしていた。たしかに犬選挙区割になった明治35年の第七回総選挙で98万人だった有権者は、41年の第一〇回総選挙では150万人台に達しているが、しかし第一回普選(昭和3年)の1200万人台からみれば、まだ問題にならない少数であった。また大選挙区でなければ、少数意見の代表者を出すことができないという意見に対しては、現行法のもとでの小選挙区でも少数党から当選者が出ており、「大選挙区ノ下デナクテモ少数党ハ代表者ヲ出スコトニ困難ヲ感ジナイ」はずだとつっぱねていたが、それは、政友会の奥繁三郎が指摘している、小会派の中央倶楽部でも所属31名のうち7名も小選挙区から当選させている、というような事実を指すものであった。しかしこの問題についての原の答弁は、いかにもそっけないものであり、この点を補充するものとして、同じ政友会の松田源治の次のような主張を取り上げることができる(3月5日、衆議院本会議)。
彼はまず、大選挙区は、少数代表を出すのにも多数を比例的に出すのにも不完全であるとし、その点で完全を求めるならば、比例代表割によらなければならないとする、しかしこの制度では「小党分裂」が結果されるのに対して、「立憲政治ニ最モ必要ナルモノ八二大政党ノ対抗」であり、そのためには小選挙区割がいちばん適しているというのであった。それは多数党を安定させようとする原敬の意図にも通ずるものであった。
これに対して野党側は、候補者の人物、競争の激しさ、選挙費用と選挙区制の関係、などさまざまな観点から 論争を挑んだが、衆議院では結局、政友会の多数により、小選挙区案が可決された。しかし貴族院では、この法案を政友会の党利のためのものとする反感が強く、現行法の実施はまだ4回にすぎず、その運用に習熟しつつあるところであり、いまだ改正の時期に達していない、として否決され、両院協議会による妥協も成立せず、小選挙区法案は廃案となったのであった。
第二次西園寺内閣は、この最初の議会では、格別の成果をあげることはできずに終わったといってよい。
(5)第一一回総選挙、政友会の勝利続く
議会後に予定されていた任期満了に伴う衆議院議員総選挙は、前回と同じ5月15日に行われることとなった が、小選挙区論議で取り上げられた「選挙界ノ腐敗」はますます進行していたようであり、東京朝日新聞は次のように論じていた。
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「総選挙の期日は日一日と迫り、余す所僅かに二旬を出でず。然るに全国中候補者の定まりたる選挙区は、未だ幾何もなく、各野心家間に暗闘中のもの今尚多きに居るが如し。従って候補者が自ら名乗り出でゝ其政見を発表するなどの催しは今度は余り多く聞かざるなり。前回の総選挙に際しては、各政党より重立ちたる遊説員を全国に派して、各所に演説会等を開きたる様記憶すれど、之も今年は著しく減少したるの観あり。是等の事実は、今や選挙の実権が、益々確実に選挙運動屋の手に緊握せられたるを示すと共に、此運動屋を動かすの力だに備ふれば、主義や人物の如何を問はず、何時にても当選を庶幾し得べき勢の益々昂上せるを示すものなり。而して是等運動屋が覘ふ所は、候補者の主義にもあらず、其人物にもあらず、一に其人より絞り得べき金銭的利益に外ならざるを以て、運動屋の手の伸びる丈け夫丈け選挙費用は愈々増嵩するに至る。」(4月27日 社説) |
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「前回の選挙に平均五千円の運動費を準備して事足りたる候補者も、今回は七八千円乃至一万円を使消せざれば、満足なる競争を続くる能はざるの状況にありて、総選挙期日切迫して競争愈々猛烈となりたる昨今、各所候補者の訴ふる所は何れも運動費不足の声ならざるはなし。今度の経験を以て今後を維せば、次回の選挙には或は平均一万五千円乃至二万円を要するに至るべきや疑ふべからず。」(5月7日社説) |
しかし選挙結果は、政安全が、現有勢力(207議席)を維持するという予想どおりに、211議席を獲得して過半数を維持したが、国民党も前議会終了時の87議席から95議席に、無所属も34議席から44議席に増加しており、政局に変動を与えるような変化はみられなかった。結局、中央倶楽部だけが、50から31に議席を減らし、その分を各派が分け取りしたという結果に終わっていた。なお、この総選挙から、沖縄県にも選挙が施行されるようになり(2議席)、定数は381議席に増加している。政友全は、結党以来ここまで第一党の地位を確保し続けているが、その議席数をみると、結党時・152(定数300)、第七回総選挙・190(明治35、同376)、第八回総選挙・175(明治36、同前)、第九回総選挙・133(明治37、同379)、第一〇回総選挙・187(明治41、同前)となっており、今回の総選挙で、結党以来最大の議席を獲得したことになる。 しかしこの絶対多数をもってしても、長期安定政権を実現することはできなかった。
2護憲運動と大正政変へ |