(1)第一七回総選挙、民政党圧勝す
総選挙の期日は詔書により2月20日と指定され、2月13日の締切りまでに、842名が立候補の届出をすませた。この選挙は男子普通選挙の第2回目にあたるが、立候補数は前回の969名よ127名も少ない。党派別にみると、民政党が348名から357名へ、無産政党が各派合わせて85名から93名へと増加しているのに対して、政友合が348名から305名へと43名も減少、無所属候補者に至っては、140名から69名へほぼ半減しているのが注目された。
この立候補数からも、政友会の劣勢がうかがわれるが、選挙結果はさらに予想を超えて、与党の民政党の圧勝であった。民政党は273名(定員466名)を当選させ、政友合の174名にほぽ100名の大差をつけて過半数を制した(なお、本章末のかこみ記事「坊さんと政党」参照)。両党以外は小政党であり、武藤山治の率いる国民同志会は前回総選挙より2名多い6名、革新党は前回同様の3名にとどまった。
金解禁下の不景気のもとでのこの結果は、田中政友会内閣がいかに不人気であったかを物語っているが、無所属議員の低迷を合わせて考えてみると、全体に政党化か進み、選挙民の意識も、二大政党制を受け入れる方向に動いていたととみることもできよう。
この選挙で、元蔵相片岡直温(民政党)、前農相山本悌二郎(政友金)、元衆議院議長元田肇(政友会)らが落選したが、のちに話題となる議員としては、大養健(政友会)、中島知久平(政友会)・風見章(民政党)、大野伴睦(政友会)、松岡洋右(政友合)らが初当選を果たしている。
無産政党は総得票数では、前回より約5万4000票増加したが、「七花八裂」と評された相互対立にわざわいされ、当選者は前回の8名から5名に減少するという敗北であった。連続当選は、西尾末広・浅原健三の両名にとどまったのに対して、新たに片山哲(社民党)、松谷与二郎(大衆党)、大山郁夫(労農党)らが議席を獲得している。
(2)ロンドン海軍軍縮条約の調印
総選挙後の特別議会は、4月21日召集、会期は4月23日から5月13日まで21日間とされ、3月1日に召集詔書が公布された。このころから、株式・商品市場の暴落が始まるなど、世界恐慌の波及が明白となりつつあったが、政治的には、海軍軍縮問題のほうが急速に重大化することになった。
第五七回議会が解散された1月21日、ロンドンでは、イギリス・アメリカ・フランス・イタリア・日本の5カ国代表が集まり、海軍軍縮会議の開会式が聞かれていた。この5か国は、大正11(1922)年2月6日、 ワシントン会議において、主力艦についての軍縮条約に調印した国々であり、その際合意に達しなかった補助艦艇の制限に関する条約を実現することが、この会議の主たる目的であったが、主力艦についても、10年の建造休止期間が切れ、代替建造が可能となる昭和6(1931)年を目前としているという事情もあった。
日本政府は、元首相若槻礼次郎を首席とし、海相財部彪、駐英大使松平恒雄、駐ベルギー大使永井松三を加えた全権団を派遣し、海軍側の主張に基づいた次の方針を「三大原則」として会議に臨んだ。
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(一) |
補助艦艇を総括して対米七割を確保する。 |
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(二) |
とくに、大型巡洋艦の対米七割を要求する。 |
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(三) |
潜水艦は現有量(七万八〇〇〇トン)を保持する。 |
このとき、海軍の統帥機関である軍令部長には、かつてワシントン会議に首席随員として参加し対米七割の強硬論を唱えた加藤寛治大将が就任しており、次長の未次信正中将とともに「三大原則」の貫徹を強く主張していた。これに対して、浜口首相は、金本位制の維持のためにもぜひとも軍縮の実現を図らねばならないと決意しており、元老西園寺公望も浜口を全面的に支持していた。
会議は日本とアメリカ、イギリスとフランスの間の意見の対立で行き詰まり、日本の総選挙のころには休会となっていたが、2月26日の首席全権会議で、日英米の海洋組と英仏伊のヨーロッパ組に分かれて交渉することとなり、その結果3月12日に至って、日米間に決のような妥協案が成立した。
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(一) |
日本の補助艦艇の対米比率を総括六割九分七厘とする。 |
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(二) |
大型巡洋艦は、アメリカ=一八隻・一八万トン、日本=一二隻・一〇万八四〇〇トン(現有量)とする。ただし、アメリカはその第一六隻、第一七隻、第一八隻をそれぞれ一九三三年、三四年、三五年以後に起工し、三六年、三七年、三八年以前には完成させないこととする(それぞれの年に完成したとすると、対米比率は、三五年七割二分、三六年六割七分、三七年六割三分、三八年六割となる)。 |
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(三) |
潜水艦は、五万二七〇〇トンの同数とする。 |
また、この条約の有効期限を1936年末までとし、主力艦の建造休止もそれまで延長する、35年には再び会議を開き以後の事態につき協議する、という規定も設けられることになったのであり、妥協案でゆけば、その次回の会議までは、対米7割以上の勢力を保有するはずであった。したがって全権団は、これ以上の譲歩を得ることは困難とみて、3月14日、政府の承認を求める電報を発した。
浜口内閣側も、この妥協案で条約を成立させねばならないとし、海軍次官山梨勝之進中将、海軍省軍務局長堀悌吉少将らが、軍事参議官岡田啓介大将の協力を得て、加藤軍令部長らの説得にあたった。その結果、3月26日には、彼らの間で、海軍の方針が入れられない場合でも、政府の方針の範囲内において最善を尽すという「今後の方針」を決定した。つまり海軍側は現存艦艇の能力の向上、航空兵力の拡充、特種水上艦艇の整備などの補充計画と引換えに妥協案を認める方向に動いていた。4月1日、閣議決定前に浜口首相から回訓案を示された加藤軍令部長は、用兵作戦上からは困りますと述べただけであり、回訓案そのものに反対であるとはいわず、消極的同意とみられる態度を示していた。
条約は、第五八回議会開会式の前日、4月22日に調印された。
(3)第五八回特別議会の召集と統帥権問題
第五八回議会は総選挙後の特別議会として、3月1日公布の召集詔書により、4月21日召集、会期は4月23日から5月13日までの21日間と定められた。貴族院の議長徳川家達・副議長蜂須賀正韶は任期中であったが、衆議院では、選挙の結果に基づいて、いずれも民政党から、議長に藤沢幾之輔、副議長に小山松寿が任命された、両名ともこの当時の慣例により、在任中は民政党を脱して無所属となった。なお、絶対多数を獲得した民 政党は、この議会の常任委員長を独占している。
総選挙直後には、この特別議会での論議は、金解禁をめぐる財政経済問題、失業問題、社会政策などを中心に して展開されるものとみられていたが、その後、ロンドン条約に対する軍令部の不満が明らかになるに従って、 野党・政友会は、この問題を前面に立てて内閣と軍部の対立を煽ろうと企てるに至った。当時は、議会は憲法上、条約の審査権をもたないとされており(枢密院に諮詢すればよい)、したがって議会における政府攻撃も、条約の内容よりも、条約締結の手続、すなわち内閣が軍令部の完全な承認なしにこの条約に調印したのは「統帥権干犯」であるという点に向けられたのであった。
ここでは、大日本帝国憲法の「第十一条 天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス」、「第十二条 天皇ハ陸海軍ノ編制及常備兵額ヲ定ム」、「第五十五条 国務各大臣ハ天皇ヲ輔弼シ其ノ責二任ス」という三か条の規定が問題であった。五五条は、天皇は「国務」については大臣の「補佐・進言(=輔弼)」なしには行動しないという原則を示したもので あるが、一一条の統帥権はこの「国務」の範囲外であるとされ、これが「統帥権の独立」と呼ばれていた。しかしこ一二条の「編制権」については、憲法学者の間でも、それを内閣が決定権をもつ純粋の「国務」とみる説と、そこには「統帥権」の作用が及ぶとみる説とに分かれていた。後者の説に立てば、軍令部の異論を無視した条約の調印は、統帥権の作用を排除したということになるのであり、論議をこうした憲法解釈にまで拡大すれば、海軍のみでなく陸軍をも巻き込んで内閣と対立させ、内閣を倒すことができるというのが、政友会の読みであった。
浜口首相をはじめ内閣側は、前者の憲法解釈に立っていたと思われるが、しかし軍部との全面的な対立に至ることを恐れて、議会では次のような三原則を答弁の基本とすることとした。
「 |
一、 |
軍令部の意見は最も尊重して斟酌した。 |
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一、 |
議会に対する国防上の責任は政府においてこれを負う。 |
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一、 |
回訓当時における内部手続上の質問、並に憲法上の論議に対しては答える必要がない」(原田熊雄述『西園寺公と政局』 一巻 56頁) |
4月25日、衆議院における最初の質問者として本会議の壇上に登った犬養政友会総裁は、ロンドン条約の兵力量では国防はできないと軍令部長が声明している、これでは国民は安心できない、と詰め寄ったが、浜口首相は先の方針に従って具体的根拠を示すことなく、「国防ノ責任ハ飽迄モ政府が負ヒマス……条約案テ記載ヲ至シテアリマスル帝国ノ保有勢カニ依ッテ、帝国ノ国防ハ極メテ安固デアルト云フコトヲ責任ヲ以テ申シマス」と述べるにとどめた。さらに同日午後の本会議で、鳩山一郎(政友会)が同じ問題を憲法に言及しながら取り上げると、鳩山の質問は政府が軍全部の意見を無視したという「仮定ノ事実」に立つものであるとし、「然ルニ政府ハ単リ海軍軍令部ノミデハアリマセヌ、軍部ノ専門的ノ意見ハ十分二之ヲ斟酌シテアル、 随ッテ意見ヲ無視シタト云フ事実ハアリマセヌ、其事実が無イ以上ハ、其間違ッタル事実ノ上二基ク憲法論ハ答弁スル必要ハアリマセヌ」とつっぱねている。
これに対して、4月27日の本会議では、内田信也(政友会)が、専門家とはどういう専門家か、「其意見ハ統帥権二対スル意見デアルカ、編制権二対スル意見ヲ斟酌サレタノカ、若クハ……軍令部ノ職務以外ノ意見ヲ御斟酌ニナッタノカ」と迫ったが、ここでも浜口首相は、「軍部ノ専門的意見ハ十分二之ヲ斟酌至シマシタ、而シ テ其斟酌ノ範囲並二程度二付テハ固ヨリ答弁ノ限デハナイ」と立ち入った答弁を拒否している。
こうした政府の態度は、貴族院や予算委員会などこの議会を通じて一貫しており、その答弁回避は「非立憲的」と評されたが、しかし世論の批判は政府に対してよりも、軍部勢力の強大化に手を貸すような政友会の態度に対 してより厳しかったように思われる。たとえば、東京朝日新聞は「政友会の諸君は、事軍事国防に関する以上は、統帥大権を輔弼すべき軍令部なり軍事参議院なりに、優位を認め決定権を与へんとする」ものであり、それは「軍事を国家最上最大の国務として、他の国務はすべてこの目的のために奉仕せしめんとする軍事国家」(昭和5年4月26日 社説)の思想にほかならないと論じ、さらに問題の所在を次のように指摘していた。
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「ロンドン条約締結に関して軍令部が不同意のために条約が成立しなかったならば、それは明かに軍令部に条約締結の運命が左右されることである。……(軍令部長は)国防を理由として、外は条約締結に、内は予算編成に関する拒否の最高権を要求するものに外ならぬのである。それ故に問題は責任内閣が統帥権を干犯したのではなくて、却って軍令部が条約大権を干犯し、予算編成の政府の権能と、予算協賛の議会の権限を干犯せんとするものである」(『東京朝日新聞』昭和5年5月25日 社説) |
5月3日の衆議院本会議に登場した片山哲(社民党)も、政友会の「軍閥ニ媚ビルガ如キ態度」を非難するとともに、ロンドン条約の問題は「明力ニ憲法第十二条ニ依ル政府輔弼ノ責任ニ帰スヘキ問題デアル」とし、「今日既ニ各新聞ノ論調ヲ見マシテモ、或ハ新聞ニ掲ゲテ居ル所ノ学者ノ意見ヲ見テモ、新ラシキ解釈ヲ下スノ絶好ノ機会デアル、此絶好ノ機会ニ浜口首相ハ何故其態度ヲ因循姑息ニシ、曖昧朦朧ニシテイルノデアルカ」と叱咤したが、結局浜口の答弁を聞くことはできなかった。
5月6日より論議の舞台は貴族院に移り、志水小一郎(勅選・研究会)、池田長康、井上清純、坂本俊篤(男爵・ 公正会)、花井卓蔵、鵜沢総明、石渡敏一(勅選・交友倶楽部)らが質問に立ったが、政府の態度は相変わらずであった。
(4)陸軍大臣事務管理問題
当時の議会が条約審査権をもたなかったこともあって、ロンドン条約をめぐる論議は行詰りとなったが、野党側は今度は、陸軍を引き出すことによって、統帥権問題の拡大を図ろうとした。それは軍縮会議に全権として出席している財部海相の代理として、文官の浜ロ首相が海軍大臣事務管理を兼任しているというやり方を、陸軍側ではどう考えるのか、という点を追及して、内閣と陸軍とを対立させようとするものであった。宇垣陸相が入院 のために議会を欠席していたことも、この問題を取り上げるのに好都合であった。
まず4月28日の貴族院本会議で、花井卓蔵が議事進行に関する発言を求め、欠席の陸軍大臣に対する質問にはだれが答えるのか、内閣官制九条(「各省大臣故障アルトキハ他ノ大臣臨時摂任シ又ハ命ヲ承ケ其事務ヲ管理スヘシ」)の規定があるにもかかわらず、総理大臣が陸軍大臣に代わって答弁するというのは理に合わないとして、 政府の考慮を促した。これに対して浜口首相は、次の5月2日の本会議で、陸相の経過は良好であり、病院で事務をみることも差支えないので、官制にいう「故障」の程度に達していないとして、「事務管理」をおかない方針を明らかにした。しかし野党側は、ワシントン会議の際には、陸軍が原首相の海軍大臣事務管理兼任に反対したという事情もあって、実際上の措置よりも、この問題に対する陸軍の原則的態度に注目しており、同じ5月2日の衆議院予算委員会で、山崎達之輔(政友会)は陸軍の場合の九条適用について書面による質問を提出した。
これに対して宇垣陸相は、陸軍大臣についても、九条の適用はありうると書面で回答したが、山崎の再質問に対しては、第二答弁書において「武官二非ザル他ノ国務大臣ヲモッテ陸軍大臣ノ臨時摂任又ハ臨時事務管理タラシムルコトハ陸軍大臣処理事項ノ特性オヨビ範囲ニ考へ現在ニオイテハ適当トセザル意見ナリ」と述べており、 浜口首相も同意見であると答えている。これによって陸軍が海軍以上に大臣武官制に固執し、したがって、統帥権問題をも広く解釈する態度をとっていることがうかがわれたが、しかしロンドン条約問題には介入しようとしなかった。宇垣陸相は、内田信也(政友会)の質問には次のように答えている。
「 |
一、 |
ロンドン条約上ノ兵力量ノ決定ハ政府ニアリトノ総理大臣ノ答弁ハ陸軍大臣トシテ異存ナシ |
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一、 |
兵力量ノ決定二関シ参謀本部ト如何ナル内部的交渉ヲナスヤハ答弁ノ限りニアラズ」 |
結局この問題の経緯にみられるように、政友会の政府と軍部を離反させようとする企ては失敗したが、浜口内閣の側も、ロンドン条約の成立には一歩を進めたが、統帥権問題を有利に解決することはできなかった。
宇垣陸相は会期末の5月11日になってはじめて貴族院本会議に出席したが、その後の経過は思わしくなく、 再入院が必要となり、政府は再び「事務管理」問題に直面することとなった。しかし政府は、ロンドン条約の枢密院諮詢を前にして、陸軍との対立を回避し、結局6月16日、陸軍次官阿部信行中将を無任所の国務大臣に任命し、陸軍大臣臨時代理にあたらせるという形で、陸軍大臣武官制を維持したのであった。阿部の臨時代理が解かれたのは、次の第五九回議会を目前にした12月9日のことであった。
(5)財政・経済論争
この議会の、統帥権問題と並ぶ争点は、財政・経済の問題であった。すでに述べたように、金解禁が折からの世界恐慌を呼び込む結果となったことは、政府側も認めざるをえず、井上蔵相も財政方針演説で「昨年十月以来 ノ米国証券市場ノ反動」から拡大した「各国ノ不況」は、「我が輸出貿易ニ多大ノ打撃ヲ与へ、延イテ我国ノ財界ヲ一層不況ニ陥シテイルノデアリマス」と述べている。これに対して野党側は、この不況の原因が金解禁=財政緊縮政策にあり、この政策を転換することなしには不況を脱しえないと主張した。
浜口内閣は前述したように、緊縮政策を掲げて昭和4年度予算を減額した実行予算を編成したが、昭和5年度予算は議会解散のため成立せず、予算不成立の場合には前年度予算を施行するとの憲法七一条の規定により、減額前の4年度予算が再び5年度分として公布され、そこでまた前年度と同様に緊縮実行予算が組まれることになった。それは17億8000万円余の公布予算から1億2000万円以上を減額するものであったが、この減額は政府の権限内の措置とされ、議会には4000万円余の追加予算が提出されたのみであった。
これを不満とした山岡万之助(勅選・研究会)は4月28日の貴族院本会議で、実行予算を編成できるのは関東大震災のような客観的状況の変化に対応する必要がある場合のみであって、金解禁のような政策の変更は、実行予算編成の正当な理由となしえないと論じた。これに対して浜口首相は、「私ハ飽クマデモ金解禁問題ノ解決ト云フコトハ実行予算作成ノ正当ノ理由ナリト云フコトヲ確信スルモノデアリマス」と反論するとともに、大正6 年9月の金輸出禁止以来、わが国は「不自然ナル経済的ニ外国ト孤立シタル」「不合理ナル温室生活ヲツヅケテ」おり、「此温室生活ヲ打破シテ、世界経済ト共通ノ地位ニ立」つことが緊急の課題になっていたとして、金解禁の意義を強調したのであった。
しかし、金解禁=緊縮政策を堅持したうえに、即効的な不況対策を打ち出すことは不可能であった。そこで冒頭に登場した犬養政友会総裁をはじめとして、野党側はいずれも、不況に対する政府の無策を暴露するために、深刻化する失業問題を取り上げていた。とくにはじめて議会に登場した大山郁夫(労農党)は100万人の失業者を救済するために、年間5億円が必要であるとし、そのための財源として、(1)月額45円以上の恩給の停止、 (2)陸海軍費の半減、(3)資本利子税の増徴、(4)いっさいの機密費の廃止、(5)資本家のための補助金・ 奨励金の廃止などを要求していた(4月27日、衆議院本会議)。しかしこれに対して政府の施策はまったく消極的であり、浜口首相の犬養総裁への答弁でみると、応急策として、国家ならびに地方の公共事業の調節と、そのための地方の起債の緩和、職業紹介機関の整備拡充などをあげたにすぎず、結局根本策は、国産品の愛用、輸出の奨励などにより国内産業の振興を図る以外にないというものであった。
(6)婦人公民権法案、衆議院だけ通過
ところで、経済政策についての浜口内閣の消極的態度は議会前から十分に予想されており、内閣への新たな期待は、その「十大政綱」のひとつに掲げられていた「社会政策の実行」に向けられていた。すでに浜口内閣の前身ともいうべき若槻内閣(第一次)によって、労働組合法案が提出されているが(不成立)、浜口内閣になると、 内閣成立直後の昭和4年7月19日に社会政策審議会を設置して、さらに積極的な姿勢を示した。
同審議会は同年11月25日、すみやかに小作法を制定・実施すべしとの答申を出したが、ついで12月7日の答申では、労働組合法について、若槻内閣案よりも進んだ内容を提示している。そしてこの間、審議会と並行して、内務省社会局では法案化か進められており、12月12日の新聞紙上には、30条からなる社会局作成の法案全文が掲載されるに至っている。したがって、これを基礎にした労働組合法案が社会政策の核として、この議会に提出されることが期待されたのであった。
たとえば、東京朝日新聞は「ここに、政府に果して社会政策実行に関する熱意ありや否やをためす手近いテストがある。それは十年以来の懸案たる労働組合法案をこの特別議会に提出するか否かである」(昭和5年2月28日 社説)と論じている。
しかし結局内閣からは、労働組合法案のみならず、「社会政策の実行」を意味する法案は何一つ提出されず、代わりに議員提出法案として民政・政友両党から競い会う形で出された、いわゆる婦人公民権法案が注目を浴びることとなった。この法案は、正式には市制・町村制・北海道会法の改正案であり、これらの法律中の「年齢二五年以上ノ男子」にして2年以上の居住者とされた公民権の規定から「男子」の部分を削除して、女子にも公民権を与えようとするものであった。
当時の法令では「公民」とは市町村の選挙に参与し、市町村の名誉職に就任できる地方自治の担い手を意味し、同時に府県会議員の選挙・被選挙権を有するものであった。この法案はすでに第五六回議会にも提出され未成立に終わっているが、今回はともかく衆議院の通過は確実とみられた。しかし政府側は、婦人公民権に原則的に賛成としながらも、無条件に男子と同一の範囲と要件のものとすることにはなお検討の余地があるとして消極的態度を示し、また貴族院には根強い反対があることが予想された。そして予想どおり、婦人公民権法案は衆議院を通過したものの、貴族院では実質的審議に入る前に、会期切れとなっている。なお、社会民衆党の片山哲は、婦人に公民権ばかりでなく国政への参政権をも与えよと叫び、同党の西尾末広の名で男女とも「年齢二十年以上ノ 者」に衆議院議員の選挙・披選挙権を与えるという改正案を提出したが、委員会さえ通過しなかった。
このほか、政治的権利に関しては、「僧侶其ノ他諸宗教師」「学校教員」などの政治結社加入を認めさせようとする治安警察法改正法案(2件、後藤亮一および安藤正純提出)が、また無産政党側からは、労働組合法案(片山哲提出)、失業手当法案(松谷与二郎提出)などが出され、議員提出法案は、25件にのぽったが、結局1件も 成立せずに終わっている。
3第五九回議会の混乱へ
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