『日本議会史録』3

1991年2月

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「翼賛体制と対米英開戦」<第76〜80回帝国議会>


表紙

古屋哲夫

1新体制と第二次近衛内閣の成立
2第七六議会と翼賛会論争
3対米英戦争への道
4緒戦の勝利と翼賛選挙


1新体制と第二次近衛内閣の成立
(1)ドイツの勝利と解党運動

(2)軍部、南進政策に動く
(3)「新党」から「新体制」ヘ
(4)第二次近衛内閣と三国同盟
(5)大政翼賛会の成立

昭和15(1940)年

7月22日

 第二次近衛内閣成立

 

12月26日

 第七六回通常議会開会(16年3月26日閉会)

昭和16(1941)年

7月18日

 第三次近衛内閣成立

 

10月18日

 東条内閣成立

 

11月16日

 第七七回臨時議会開会(同年11月21日閉会)

 

12月16日

 第七八回臨時議会開会(同年12月18日閉会)

 

12月26日

 第七九回通常議会開会(17年3月26日閉会)

昭和17(1942)年

4月30日

 第二一回衆議院議員総選挙

 

5月27日

 第八〇回臨時議会開会(同年5月29日閉会)


1新体制運動と第二次近衛内閣の成立



(1)ドイツの勝利と解党運動

 昭和15年11月29日、貴族院本会議場において、議会開設50年記念式典が行われた。50年前のこの日、 第一回議会が開会されたのであるが、この年に入ってからの、とくに、前議会以後の内外情勢の激変のなかでは、 50年に及ぶ議会政治の蓄積も、一挙に吹き飛ばされてしまいそうな有様となっていた。

  この年6月から8月にかけて、諸政党は次々と解党し、10月12日には、それらを吸収した大政翼賛会が成立し、両院議員の大部分は同会の議全局に組織されてしまっていた。かつて政党内閣時代の出現に力を貸した元老西園寺公望が、50年式典の5日前、11月24日に92年の生涯を終えたことは、こうした情況の変化を象徴するかのようであった。そしてこうした変化のきっかけとなったのはヨーロッパ西部戦線におけるドイツ軍の電撃的勝利であった。

  前年9月、ドイツとポーランド侵攻に対して、イギリス、フランスがドイツに宣戦布告するという形で第二次大戦が開始されていたが、イギリス、フランスは積極的にドイツを攻撃しようとはせず、ドイツもまた妥協の可能性を探ろうとする姿勢を示し、その結果「奇妙な戦争」と呼ばれたような、事実上の休戦状態が続いていた。そしてこの半年にわたる西部戦線の静けさを破ったのは、4月9日のドイツ軍のデンマーク、ノールウェー侵攻であった。

  この作戦によって北からの脅威を封じたヒトラーは、5月10日からオランダ、ベルギー、フランスヘの全面攻撃を開始、ドイツ軍はわずか5日間でオランダを征服、5月17日にはベルギーの首都ブリュッセル、6月14日にはフランスの首都パリを占領。6月22日、フランスは降伏して休戦協定に調印、この間、6月10日にはイタリアもドイツの同盟国として参戦したのであった。そして日本では、こうしたドイツの勢いと握手するために、親英米派、現状維特派を打破し、強力な政治体制をつくろうとする動きが表面化することとなった。

  すでにドイツの北欧作戦が展開された直後の4月30日、政友会久原派の臨時大会において、総裁久原房之助は「欧州の戦局は漸く酣となり……正に世界大乱の形勢」にあるとし、「若し国家の為必要とあらば相率いて党を解き、新に一大強力政党を樹立する事も亦敢て辞すべきではない」(『東京朝日新聞』昭和15年5月1日)と演説した。この演説は、既成政党からの最初の公式な解党宣言として注目を集め、久原はさらに5月4日町田民政党総裁と会談するなど積極的な活動を開始した。もっとも諸党派の間には、久原に主導権をとられることへの警戒があったが、5月10日のドイツ軍の全面攻勢によって、ヨーロッパ情勢が激変すると、次の政界再編成の中心として期待されていた 近衛文麿の周辺も動き始め、国内政局もまた大きく動き出すことになるのであった。

  5月末には早くも「民政党を除く大小各会派は概ね解消の方向に傾きつつあり」(『東京朝日新聞』昭和15年5月31日 社説)と報ぜられていたが、この解党論の急速な拡大は、近衛側から、新党樹立の前提としてまず解党を要求する意向が明らかにされてきたこととも関連していた。すでに5月26日には、近衛は木戸幸一、有馬頼寧と会合し、もし近衛に組閣の大命が下った場合には、「新党樹立の決意を表明し各政党に対し解党を要求すること」(『木戸幸一日記』下巻 787頁)などを協議し、そうした動きはすでに一般の新聞紙上にも報ぜられるに至っていた。すでに政治の主導権を回復する見通しを失っていた政党人たちは、近衛擁立の方向になだれ込もうとし、解党の波にのみ込まれてゆくことになるのであった。軍部のなかにも、米内内閣に代わって、近衛が登場することを期待する空気が強まっていた。



(2)軍部、南進政策に動く

 当時すでに軍中央部は、重慶進攻のような直接的な軍事力によって蒋介石政権を屈伏させることは困難とみ、他の方法による「支那事変の解決」に焦り始めていた。日本側の「事変解決策」はこれまで親日(=傀儡)政権を樹立・発展させれば、蒋政権は自然に没落するという想定のもとに、「東亜新秩序声明」から汪兆銘引出し工作 として実施されてきた。その結果、前議会終了直後の3月30日、南京で汪兆銘政権が樹立されたが、重慶側はこれに激しく反発し、傀儡政権が「事変解決」に役立たないことは明らかになっていた。

  したがって、まだ汪政権が正式に樹立されないうちから、重慶側との直接の和平工作が試みられるようになり、 この時期には、国民政府の実力者宋子文の弟宋子良と名乗る人物との交渉が続けられていた。陸軍も「桐工作」と名づけてこの交渉に大きな期待を寄せていたが、結局9月にはこの工作が打ち切られたばかりでなく、のちには、この宋子良は偽者であり、日本側が国民政府側の謀略に振り回されていたことも判明するという有様であった。

  こうした対重慶工作の行詰りの間に、日本側ではさらに、重慶政権が容易に屈伏しないのは、英米仏ソなどか ら援助物資が送られてくるからだ、とする見方が広がり、「援蒋ルート遮断」が軍事的にも重視されるようになっていた。前年(昭和14年)11月に企図された南寧作戦も、仏印(フランス領印度支那=ベトナム)からの「援蒋ルート遮断」を目的とするものであったが、ヨーロッパにおけるドイツの勝利とともに、この問題はいっそう 強く意識されるようになった。そしてさらにオランダの降伏は、仏印の南の蘭印(オランダ領印度=インドネシア)への関心をも高めることとなり、「援蒋ルート」の問題は、急速に南進政策へと接合されていった。 親米英的とみなされた米内内閣も、こうした政策を志向する点では同様であった。そして外交ルートを通じた圧力によって、6月17日にはカトルー仏印総督に援蒋物資輸送停止を決定させ、同29日には、陸・海・外三省が参加した40名よりなる監視団の派遣を実現したが、さらに7月12日にはイギリスからも3か月間ビルマ・ルートを閉鎖するとの回答を引き出すことができた。

  すでに蘭印に対しては、5月から6月初句にかけての交渉で、石油、錫、ゴムなどの対日輸出制限を行わない、重要物資の対日輸出数量を確保する、などの約束を取りつけており、さらに6月て12日には、タイ国との友好条約を成立させて、南進の拠点を確保しようとする姿勢を明らかにした。

  こうした米内内閣の政策にアメリカ政府は強く反発し、6月4日には工作機械の対日禁輸を実施、7月16日にはビルマ・ルート閉鎖に反対する国務長官声明を発表、7月26日には、石油、屑鉄を輸出許可品目に指定するなどの措置がとられている。それはこの内閣の親英米性の限界を示すものといえたが、軍部のなかには、より根本的な政策転換を求める空気が強まっていた。

  5月から6月にかけて、海軍では蘭印の軍事占領、陸軍では仏印への武力進駐などの問題が取り上げられるよ うになったが、フランス降伏以後になると、「陸軍省部の大勢は、独軍の英本土上陸作戦は間もなく行なわれ、成功するであろう、そしてその結果大英帝国は崩壊のほかないであろうとの判断に傾いていた」(防衛庁戦史『大本営陸軍部(2)』49頁)といわれる。そしてその先には、ヨーロッパとアフリカがドイツの勢力圏に入るという可能性も考えられたのであり、その場合には日本は、アジアからイギリスの勢力を駆逐するという形で、ドイツに呼応しなくてはならないというのであった。

  陸軍では6月下旬から省部の関係課長および主任者の間で、新たな戦争政策の作成が進められており、7月3日には大本営陸軍部の案として「世界情勢ノ推移ニ伴フ時局処理要綱」が決定されたが、その最大の特徴は、「好機ヲ捕捉シ対南方問題ノ解決二努ム」(前掲『大本営陸軍部(2)』49頁)として南進政策を正面から打ち出し、さらに、対象をイギリスに局限しながらも「対南方武力行使」を想定している点であった。これはアメリカを参戦させずにイギリスとだけ戦争することが可能だとする楽観的英米可分論に立つものであったが、対米関係の検討の結果というよりも、 ドイツの対英本土攻撃に呼応したいという主観的願望を示すものにほかならなかった。

  この案を示された海軍側は、英米不可分を情勢判断の基調としており、陸軍側の対米関係の把握は甘いと考えたが、しかし海軍も英米可分の好機がくるとの仮定に立てば、対英一戦に反対ではなかった。結局この「時局処理要綱」案は字句の修正のうえで、陸海軍一致の決定とされるのであり、それは近衛を支えるとともに、近衛を 拘束するものともなるのであった。



(3)「新党」から「新体制」ヘ

 6月になって、フランスの敗北が決定的になってきたとき、日本の国内では、近衛がいつ枢密院議長を辞任して、新党運動に全面的に乗り出してくるのか、という点に大きな関心が寄せられるようになっていた。この間、元老に代わる首相候補者のまとめ役となっていた内大臣の湯浅倉平が辞任し、6月1日に近衛の親友ともぃえる木戸幸一が後任に任命されたことも、近衛にとって有利な条件とみられた。

  近衛はすでにこの日、この時期からブレーンに加えた東大教授矢部貞治に対して、近いうちに「新党運動に打って出る決意を明かに」していたが(『矢部貞治日記』銀杏の巻 315頁)、6月17日に至り、木戸新内大臣を訪れ、枢密院議長辞任の決意を伝えた。正式の発令は6月24日、原嘉道副議長の議長任命と同時に行われたが、近衛は辞表に「政治体制強化のため」と明記し、また「新体制の確立の為に微力をさゝげ度い」との声明を発表した。それは、これまでの「新党」に代えて「新体制」という新しいスローガンを打ち出した点で注目された。同声明はこの点について「最近頓に活発になった所謂新党運動もこの新体制確立と云ふ意味ならば誠に結構である、然し単なる既成政党の離合集散や眼前の政権のみを目標とする如き策動であるならば、自分はこれと事を共にすることは出来ぬ」 (『東京朝日新聞』昭和15年6月25日夕刊)と述べてぃた。

  それは直接には、右翼からの批判を避けようとしたものであったであろう。すでに大日本生産党は6月5日の声明で、「新党の目標は現状維持、時局便乗、政権獲得にあり、断じて真正戦時体制を確立する所以ではない」 (大日本生産党10年史編纂委員会編『大日本生産党10年史』493頁)と述べ、また明倫会は6月6日、近衛新党は「必然政党の専制的傾向を助長し、遂には我国体に反する幕府政治の再現するなきを保証し得ざるべし」(明倫会史編纂所編『明倫会史』177頁)と声明していた。

  しかし反面では、新党は従来の政党とは異なったものとしてしか成立しえないであろうことも、当時から予測されたところであった。たとえば、「新党の性格と意味」と題する6月24日の東京朝日新聞社説は「かくて新党とは、政党政治復活の母体などではなく、議会機能を行政部に対立した三権分立的な形式から、一方国民組織との間に緊密な有機的連絡を保ちつつ、他方行政部との間にも協力融合の関係にまで進化せしむるための、整理作業の第一段階なりと認識すべきものであらう」と述べているが、それは、新党の機能を、行政部=政府と国民組織との協力融合関係をつくり出すための媒介作用に見出そうとしたものにほかならなかった。

  この間、近衛のもとには、さまざまな新体制案が寄せられているが、近衛は容易に新体制構想を具体化しえず、 7月6日には軽井沢の別邸に引きこもってしまった。しかし7月7日の別邸での記者会見で「新政治体制の中心は内閣である、新政治体制を推し進めて行く推進力は国民組織による政治力で、この政治力は既定概念の政党ではなく、政府にも軍にも凡ゆる組織に入って行けるものである」 (『東京朝日新聞』昭和15年7月8日)と述べているところからみると、陸軍の実力者武藤章軍務局長らの一国一党制への期待とは逆に、近衛が政党という形式からも離れようとしていたことは明らかであった。

  近衛のいう「新体制」や「国民組織による政治力」の内容が明らかでないにしても、前述したようにすでに「世界情勢ノ推移ニ伴フ時局処理要綱」を決定していた陸軍にとって、この方向に国策を導くためには、漠然としたものではあれ、広汎に盛り上がってきた近衛人気による政策転換が必要であった。7月16日、畑悛六陸相は「世界情勢に対処して国内政治体制を一新する必要あり」との理由をもって辞表を提出、陸軍三長官会議は後任者を 推薦しえずとして、米内内閣を総辞職に追い込んでいった。

 翌7月17日、若槻・岡田・広田・林・近衛・平沼の元首相6名と原枢密院議長が宮中に参集、木戸内大臣のもとに重臣会議を開き、さしたる議論もなく、30分で近衛を次期首相に推薦することを了承して散会している。 この結果、同日夜、組閣の大命を下された近衛は「新体制」を提唱したものの、その具体化の手がかりをつかまないうちに、首相の座に押し上げられることとなった。



(4)第二次近衛内閣と三国同盟

 近衛はまず、陸・海・外三相候補者の間で、内閣の基本姿勢についての了解を取りつけてから組閣を進めることとし、7月19日には、荻窪の荻外荘に、陸海軍から推薦された東条英機中将(航空総監)、吉田善吾中将(海相・留任)と自ら外相に選んだ松岡洋右の3人を招いて会談している。会談後近衛は「対外方針とでもいふものについて完全に意見の一致をみた」(『東京朝日新聞』昭和15年7月20日)と語っており、ここで日独伊三国同盟の方向が確認されたものと思われる。

  翌20日からその他の閣僚の人選が進められ、22日夜の親任式で第二次近衛内閣が成立しているが、この組閣の特徴としては、衆議院からの人閣者を風見章法相ひとりとしたこと、この内閣で満州組とでもいうべき松岡洋右外相、(元満鉄総裁)、東条英機陸相(元関東軍参謀長)、星野直樹企画院総裁(前満州国総務長官)、岸信介商工次官(元満州国実業部次長)らが顔をそろえている点であった。もっとも風見の場合は無所属であり、第一次近衛内閣で内閣書記官長に抜擢されて以来、近衛と近く、ここでの入閣も、衆議院との関係というよりも、「新体制」の閣内での推進者の役割を期待されたものであった。

  議会との関係については、組閣当初は鉄相を逓相の、厚相を内相の、拓相を外相の兼任とし新体制ができ上が ったところで、衆議院から補充することが予定されていた。なお星野は企画院の役割の増大に伴い、無任所大臣 として閣議に参加することとされた。

  このほか、安井英二内相(第一次内聞の文相)、富田健治書記官長(長野県知事)も新体制運動のための登用とみられた。また蔵相には、はじめから近衛の意中の人であった河田烈、商相と逓相には、財界から小林一三(阪急・東電)と村田省蔵(大阪商船)を、農相には農林官僚出身の大物石黒忠篤をあてた。また文相には、一高校長で「純日本主義的」とみられていた橋田邦彦を起用している。なお閣僚のうち就任時に貴族院の議席を有したのは、近衛首相(公爵・火曜会)、安井内相(勅選・無所属倶楽部)、河田蔵相(勅選・公正会)、村田逓相(勅選・同和会)の4名であった。

  近衛首相は内閣成立の翌日の7月23日午後7時半から「大命を拝して」と題したラジオ放送を行い、そのなかで、「思ふに従来政党の弊害は2つある、その1つは立党の趣旨に於て、自由主義をとり民主主義をと り或は社会主義をとって其根本の世界観、人生観が既に国体と相容れないものがあるといふ点であって、これは今日急速に転回し抜本的に改正しなければならないところである。その2つは党派結成の主要なる目的を政権の争奪に置くことであって、かくの如きは立法府に於ける大政翼賛の道では断じて無いのである」(『東京朝日新聞』昭和15年7月24日)と述べて、これまでの政党のあり方を否認する態度を明らかにした。ついで内閣は、連日閣議を開いて基本政策を討議し、26日には、「基本国策要綱」を決定している。

  その全文は、8月1日に、新内閣の向かうところを明らかにするためとして公表されたが(『東京朝日新聞』昭和15年8月2日夕刻)、 世界はいまや「数個の国家群の生成発展を基調とする新なる政治経済文化の創成を見んとする」「歴史的一大転機 に際会」しているとし、この「世界史的発展の必然的動向を把握して」庶政百般に根本的刷新を加え国防国家体制を完成することが緊急の課題だと規定した。この「数個の国家群」というのは、世界はそれぞれドイツ・イタ リア・ソ連・日本・アメリカを指導者とするブロックに統合されてゆくであろうとの見方を意味するものであり、 したがって、日独伊三国同盟にソ連を同調させれば、アメリカの干渉を排除して、ヨーロッパあらアジアに至る「新秩序」をつくることができるというのが、松岡外相の思想であった。

  「基本国策要綱」決定の翌日、7月27日には宮中で大本営政府連絡会議が開かれ、前述の南進政策を打ち出した「世界情勢ノ推移ニ伴フ時局処理要綱」が正式に決定された。そしてこの方向の具体化として、9月23日、 日本軍の北部仏印進駐が行われ、続いて9月27日には、日独伊三国同盟が調印された。これらの政策、とくに三国同盟の締結はアメリカの対日政策を決定的に硬化させることになったが、松岡外相は第76回議会の施策方針演説(昭和16年1月21日)で、その主観的意図を次のように述べていた。

 

 「今後若シ米国ガ不幸ニシテ欧州戦事ニ捲キ込マレ、我ガ国モ亦遂ニ参戦ノ余儀ナキニ立到ルガ如キコトアラバ、名実共ニ真ニ戦慄スベキ第ニノ世界大戦トナリ、容易ニ収拾スベカラザル事態ニ立到ルデアリマセウ、殊ニ将来勢ヒノ激スル所、今日迄用ヒラレタ以上ノ強烈ナル新鋭武器ヲ以テ戦フコトニモナレバ、誰カ現代文明ノ没落戦タラザルヲ保証出来ルデアリマセウカ、故ニ我々ハ大東亜共栄圏樹立ノ努カヲ進ムルト共ニ、其ノ遂行途上ニ於テ、世界ノ混乱ノ拡大ヲ防止セムガ為、一ツニハ三国条約ヲ結ンダノデアリマス」

 
  しかし、三国同盟は松岡の期待した効果を示すことができず、事態は彼の恐れた方向に転回してゆくことになるのであった。



(5)大政翼賛会の成立

 近衛が首相の座についても、「新体制」の内容は容易に明確にならなかったが、それにもかかわらず各党は次々と解党し、新体制参加の態度を明らかにした。すでに近衛内閣成立までに、赤松克麿らの日本革新党(7月1日)、 社会大衆党(7月6日)、政友会久原派(7月16日)が解党し、近衛内閣が成立すると、まずこれに呼応して民政党から永井柳太郎ら40名が脱党(7月25日)、ついで国民同盟(7月26日)、政友会中島派(7月30日)が解党し、民政党も8月15日には解党している。

  この間近衛側では、新体制を政党ではなく国民組織であるとする以上、同志的結合で突き進むことはできず、各界の参加を求めた準備金をつくることから始めねばならないとする方向が固まってきた。そして近衛首相は、8月23日の閣議でこの方針につき了解を求めているが、準備委員の顔ぶれは、次のような総花的色彩の濃いものとなっていた。

  まず衆議院議員からは、前田米蔵(政友会中島派)、岡田忠彦(政友会久原派)、金光康夫(政友会中立派)、永井柳太郎(民政党脱党派)、小川郷太郎(民政党総裁派)、秋田清(無所属)、麻生久(社大党)、中野正剛(東方会)などの旧党派を代表するような人選がなされている。これに対して貴族院議員の場合には、院外の立場が考慮され、有馬頼寧(産業組合中央会会頭)、大河内正敏(理研コンツェルン主宰者)、堀切善次郎(国民精神総動員本部理事長)、八田嘉明(日本商工会議所会頭)のほか、新官僚の中心人物で元内相の後藤文夫、元国本社幹部の太田耕造、天皇機関説排撃で活躍した井田磐楠などが選ばれている。

  このほか、言論界から古野伊之助、高石真五郎、正力松太郎、緒方竹虎、外交界から白鳥敏夫、学界から東大総長の平賀譲、経済界から工業倶楽部理事長の井坂孝、全国町村長会長として岡崎勉があげられているが、さら に右翼団体から葛生能久、末次信正、橋本欣五郎らが加えられている点がひとつの特徴といえよう。さらに準備会の実質的推進機関として常任幹事をおき、内閣書記官長富田健治、法制局長官村瀬直養、陸軍省軍務局長武藤章、海軍省軍務局長阿部勝雄、企画院次長小畑忠良、昭和研究会の組織者後藤隆之助を選び、内務次官挟間茂、 同盟通信社松本重治を追加している。

  準備会は幹事会のまとめた試案を中心として討議が進められたが、中核体の性格や、他の政治団体や議会との関係などの問題については意見の相異があらわれていた。一方は、運動における同志的結合の側面を重視しよう とし、他方は、運動を国民全休のものとするという点を強調するものであった。これらの点について幹事会側は、中核体は[万民翼賛」を目的とするもので、治安警察法にいう政事結社ではない、新体制は既存の政治団体の団体加入を認めず、その団体員個人の参加も望まない(結局団体の解放が加入の前提となる)、議会の憲法上の権能には増減はない、などの見解を示した。

  結局運動全体は「大政翼賛運動」、中核体は「大政翼賛会」と呼ばれることとなり、その綱領・規約の草案もつ くられたが、その採択は近衛に一任された。この時期には、ナチスをまねた「指導者原理」が、自由主義を超える政治様式として喧伝されており、ここでもそれに基づく「衆議統裁」なる運営方式がとられていた。しかし近衛は、この方式が想定しているような強力な指導者ではなかった。

  大政翼賛会は、内閣総理大臣を総裁としてその下に中央本部をおき、そのなかを四局(総務局・組織局・企画局・議会局)に分けるとともに、中央協力会議を付置するという形で組織されることになり、事務総長に予定された有馬頼寧を中心として幹部の人選が進められたが、先の準備委員会の委員や常任幹事らのほとんどは、総務や局長などとして大政翼賛会の中枢に位置することとなった。貴衆両院議員で構成される議会局の局長には前田米蔵(常任総務兼任)があてられたが、準備委員中の他の旧政党人では、小川郷太郎が鉄相、秋田清か拓相、金光庸夫が厚相として9月28日に入閣し、永井柳太郎、中野正剛、岡田忠彦は総務として翼賃金に残ることとな っている。さらに政府は10月3日には内閣参議10名(町田忠治、中島知久平、久原房之助、安達謙蔵、安保清種、林銑十郎、池田成彬、勝田主計、郷誠之助、大谷光瑞)を任命したが、最初の4名は旧政党の党首であり、旧政党勢力との連携を意図したものであった。

 大政翼賛会の発会式は、10月12日午前9時23分から首相官邸で挙行されたが、総裁となった近衛首相は、「本運動の綱領は、『大政翼賛の臣道実践』といふことに尽きる」とし、「これ以外には綱領も宣告も無しと言ひ得るのであります」「かく考え来って本日は綱領宣言を発表致さざる事に私は決心いたしました」(『朝日新聞』昭和15年10月13日夕刊、なお、9月1日より東京・大阪両朝日新聞を朝日新聞に改称・統一)と述べて出席者を驚かせた。それは準備過程で問題となった翼賛会の性格について、 明確に規定することを回避するものであり、近衛の性格の弱さとともに、当時の用語でいえば「翼賛会精勤(精神運動)化」の方向を示すものでもあった。

2第七六議会と翼賛会論争