『「満洲国」の研究』 第1部 「満洲国」の成立 第2章

1993年3月

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「満洲国」の創出


 

古屋 哲夫

はじめに
1満洲建国路線の形成
2建国過程の諸側面
3満洲国の基本構造
むすび
註釈

3満洲国の基本構造
@基盤としての軍事的制圧

A総務庁中心主義と内面指導
B民衆把握と治安維持


3満洲国の基本構造



@基盤としての軍事的制圧


 関東軍が国際連盟調査団到着以前の建国に向けて走り出した31年12月には、すでに建国につ いてのいくつかの大枠が出来つつあったことは前述した通りであるが、しかしそれがどのように満洲国の基本構造を生み出してゆくのかという問題を明らかにしてゆくためには、直接建国につながる諸過程の在り方を検討することから始めなくてはならない。まず注目しておかなくてはならないことは、この過程が政治工作より軍事行動が先行する形で始められたという点であろう。すなわちタイムリミットが設定されたと考える関東軍は、新国家の領域と予定した地域から、反抗勢力を駆逐することをこの段階での急務とし、犬養内閣が成立して情勢の変化が感じられるようになった12月13日には早くも、錦州攻撃の計画とそのための増兵要求を参謀本部に提出95)している。これに対して参謀本部も、これまでの抑制的態度を変えて、15日には軍事行動の「目的名分」を「匪賊討伐及其根拠地掃蕩等」とすることを求めただけでその要求を認めた96)。準備を整えた関東軍は、32年元旦から侵攻を開始したが、張学良軍は対決を避けて関外に撤退し、1月3日関東軍は戦闘を交えずに錦州を占領、長城線以北をその勢力下に加えることとなる。

  この間同時に、煕洽の吉林省政府に対抗して、11月5日ハルビン東北方の賓県に仮政府を立てていた丁超、李杜らの勢力に対する軍事攻撃も計画されていた。まず煕洽揮下の吉林軍が討伐をとなえて32年1月5日より北進を開始する。これに対してはハルビン特務機関などに懐柔工作による解決を主張する意見もあった97)が、関東軍参謀部が軍事的制圧の方針をとったのは、 タイムリミットを意識してのことであったと思われる。結局戦闘がハルビン市内に波及しそう になったところで関東軍が介入し、ソ連側鉄道の非協力で若干の遅れを見たものの、2月5日にはハルビンに入城している。退却した反吉林軍はその後も各地で抵抗を続けることになるが、この段階では、賓県政府の打倒で一応建国の基礎条件が整ったとみられた。

  しかもこの間、上海では1月18日の日本人僧侶襲撃事件から日中両軍の大規模な衝突に発展する上海事変が起こっているが、その発端は「上海で事を起して列国の注意をそらせて欲しい」 という板垣参謀等の依頼を受けた上海駐在武官補佐官・田中隆吉少佐の謀略98)であったという。それはまさに、建国工作が具体化される時点であった。

  こうした軍事的制圧や謀略のもとでの建国過程の基本的な特徴は、中国側の有力者を建国路線にまとめ上げる工作と、日本側の機構・政策立案活動とが、平行して進められたという点であった。まず最初に注目されたのは、31年末からの中国側の動きであり、「満洲日報」12月28日2面には、次のような記事がみられる。

 

 奉、吉、黒、熱四省並に蒙古政権連絡会議は、去る二十二日黒竜江張景恵代表季乾川飛行機にて来奉以来、吉林煕洽代表王氏、コロンバイル貴福代表謝氏、次いで東辺保安司令于し(くさかんむり+止)山氏の来奉により個別に開かれ俄かに具体化し来った。このため臧式毅、趙欣伯氏等は成るべく年内に新国家の体形を整へ、新陣容ならんとする南京政府に拮抗し得る内容を備ふべく、この二三日来目覚ましき活躍をつづけて居る。


  さらに明けて1月10日の同紙1面トップ記事は、「新満蒙独立国家建設の/準備着々と進む」 との大見出しのもとに次のように報じている。

 

 新国家成立の道程としては于冲漢氏の自治指導部が中心になり、新国家の抱擁する満、漢、蒙、鮮その他特殊の民族の公平なる公民権の比率に基き、県議会、省議会を経て国会を招集しここに新国家の憲法制定となる訳だが、時拙速を貴ぶ間柄、熟河又は呼倫貝爾以外の蒙古自治領を後回しとし取敢えず総てを現状に即し、三省一区相寄り一致中央政権を作り最初は委員組織にて漸次内閣が出来その首脳者も出現し来るといふ段取で中央政権の樹立から地方政権の統一へと及ぼして行くのであるといふ。


  ここで想定されているのは、先にみた橘樸の「満洲新国家建国大綱私案」の規定を思わせるものであるが、しかし関東軍側は、政治機構や基本政策については中国側の意見を求めようとはせず、したがってこれらの中国側の動向は関東軍にまったく無視されてしまうというのが、 この建国過程の基本的な特徴であったといわなくてはならない。
  関東軍側ではまず統治部主催の「満蒙に於ける法制及経済政策諮問会議」が1月15日から29日までの15日間にわたって開かれた。日本から20人をこえる学者や実務家を招いたこの会議は、建国についての問題を全面的に討議するかに思われたが、実際には、その日程表が「幣制、金融」「関税、税制」「産業」の3項目で埋められている99)ことからも明らかなように、財政経済問題の範囲を出ることはなかった。

  これに対して、統治機構の問題は専ら関東軍参謀部の掌握するところであった。諮問会議が開かれている最中の1月22日、参謀部の面々は参謀長室に集まり、「満蒙自由国」の呼び方で論議しているが、そこで次のような方針100)が固まってきている点が重要であろう。

  その基本はまず、「参議府の権限に依り国家の最高意思を抑制し、諸官庁は技術的のものを 除き日本人も内部へ飛び込んで仕事をなす」という点から読み取ることが出来る。ここで「国家の最高意思」とは、溥儀を予定している元首をさしているが、この元首の行動を日本人をも含む少数の「参議府」によって抑制し、実質的に無力な存在にしようというわけであった。またすでにみてきたような国防と鉄道は日本側で掌握するという関東軍の最初からの方針はここでも貫かれているが、それを「依頼の形」で獲得しようというのも元首に関連する問題であろう。関東軍は、日本に対して無力なだけでなく、「依頼の形」で権益を供与してくれる元首を 望んでいたとみることができよう。

  「参議府」の問題はまた、「立法院は形式的とし実際は独裁中央集権制とす」という議会制度の否定とも関連していた。建国後の状況を見ると、建国と同時に制定された政府組織法では、立法院は国務院・法院とならぶ組織として規定されながら、実際には成立せず、代わりに参議府に諮詢することで法令を成立させるという措置がとられているが、そのことは、早くもこの段階で想定されていたことといえよう。そこではもはや、さきの報道が伝えているような県議会→省議会→国会→憲法制定という建国過程の構成には、一顧だに与えられなくなっていることは明らかであろう。

  次にさきの引用の後半「日本人も内部へ飛び込んで仕事をなす」という部分については「一 般官吏は満洲国家官吏として働くことを主義とす」と注釈されているが、それはさらに、統治機構の中枢部を日本人で掌握するという構想に発展している。すなわちここでは「国務院の権限を大にし秘書庁に人事予算(主計局)を掌握し之と実業庁には日本人を入るること」という方針が出されているが、それも建国後には、国務院と各省に総務庁、各部に総務司をおき、これらの「総務」という名の部局を縦横に連携させて、国政全体を実質的に支配しようとする「総務庁中心主義」として実現されてゆくこととなる。

  32年2月に入ると、関東軍参謀部の動きは、建国工作がいよいよ詰めの段階に入ったことを 示した。2月2日にはまず統治部を特務部に改編することが決定101)された。これは一面では軍中央部が統治部の編成に異論を示した102)ことによるが、他面では独立国家の建設と統治部の名称が矛盾すると考えられた103)からでもあった。

  ついで日本軍がハルビンを占領した2月5日、第一回の建国幕僚会議が開かれ、「先づ三省聯合を以て独立宣言を発布し次で政務委員会を組織せしめ新国家の建設を準備し次で国家の成立を声明す。国旗、国号、元首制は民意の形式を執る」との方針が決定104)された。以後11日 まで連日で7回、その後は15、16、25日と計10回の幕僚会議が開催されているが、この間に中国側有力者を勢揃いさせる工作も進められている。その有様を山口重次の回想105)でみておくことにしよう。

 

 関東軍は2月5日から『新国家建設に関する幕僚会議』を開いて、新国家の政策、政府 の構成、官制、財政、鉄道政策などを決めていった。しかし一番大事な、『満洲要人連の参加』の問題は討議しなかった。これはもっぱら板垣大佐の工作にまかされていたのであ る。

  板垣大佐の意を受けて、臧武毅半天省長が動き出した。彼は、吉林の煕洽、ハルビンの張景恵に働きかけた。ハルビンからは、馬占山が2月12日ハルビンに出てきた旨が報ぜられ、板垣大佐はただちにハルビンに飛んだ。こうして、奉天における巨頭会議の段取りとなり、14日夜、古林の煕洽がまず奉天に到着、翌15日、張景恵も着いた。


 そして16日には、奉天大和ホテルに馬占山を迎えて上記の四巨頭会談が開かれ、17日には彼等によって東北行政委員会が構成された。委員長に張景恵が推された代わりに、彼が占めていた黒竜江省長の地位は馬占山に譲られた。ついで18日には行政委員会の名で、「東北省区は完全に独立せり」との宣言が発表されたが、この日程はすでに14日に関東軍側から臧武毅106)に申し入れられていたものであり、またここに出席していない熱河省の湯玉麟や呼倫貝爾王・凌陞、哲里木盟・斉王の名が行政委員のなかに加えられているのも、関東軍側の意向107)を受けたものであった。なお凌陞は前出記事中の貴福であり、斉王の本名は斉黙特色木丕勒である。

  さきにみた第一回建国幕僚会議の「国旗、国号、元首制は民意の形式を執る」との方針は、これらの問題については中国側の意見を求めることを意味しており、独立宣言の発表に続いて、この委員会メンバーに蒙古側や溥儀側近をも加えた会議が続行されることとなった。ここには 関東軍側が用意した政府組織法案なども提出されたが、溥儀側近の鄭孝胥らが参加したこともあって、論争の的となったのは、元首の性格をめぐる問題であった。その内容を当時の新聞108)は次のように伝えている。

 

 廿二日午後一時から……開かれた東北行政委員会に招聘されて列席した前清朝の内大臣鄭孝胥氏をめぐって、委員会の討論は激烈を極めた。鄭孝胥氏は過去に於て著名な復辟論者であり、清朝瓦解後は廃帝溥儀氏の師傅だった人、勿論強硬に君主制を主張し、これと或種の利害関係にある委員達も強く君主制を主張し果ては君主制に関する私案までも提示した。これに対し共和政体を主張する委員達は、過去における君主政治の実績は結局旧軍閥と緊密な因縁にあり、旧軍閥を離れては実際政治のあり得なかった事実、殊に『天の命畢りて四時成る』といふ支那古来の思想より見ると、傅儀氏は既に時代を離れて存在する人物であるから再び之を擁立するといふのは天命に背き人理にもとると主張し、新国家建設に至る道程よりその建設に努めた各要人が……今日の機運を醸成した事実を力説したため、鄭孝胥一派の君主制派はこの理論闘争に惨敗して再起し能はざるに立ち至ったもので、……この結果三千万民衆の所期の待望の如く連省自治共和制をとるべしとの説が再び有力となったのである。


  このような建国をめぐる中国側の論争が表面化したのはこの時だけであり、この記事は共和制論者の溥儀観を伝えて興味深いものであるが、関東軍側が溥儀利用の方針を固めている以上、 鄭孝胥一派も再起不能に陥るどころではなく満洲国の中枢に位置し、鄭孝胥は初代国務総理に就任することになるのであった。その他の問題についても、2月24日には関東軍側が「国首執政、国号 満洲国、国旗 新五色旗、年号 大同」と決定109)し、中国側の論議に終止符を 打っている。翌25日それらのことは、行政委員会の決定として発表されたが、それを伝える紙 面110)には、建国と同時に公布される予定の政府組織法・人権保障法の条文も掲載されていた。そして人事についての調整が行われた後、3月1日の満洲国建国宣言に至っている。

  その前日の2月29日午前、国際連盟のリットン調査団がアメリカを経由して海路横浜に到着、またその翌日の3月2日に上海での戦闘が一段落すると、3日午後には上海派遺軍司令官白川義則大将が停戦声明を発しているが、それが数時間後の国際連盟総会の開会を意識したものであることは明らかであった。満洲建国はタイムリミットに辛うじて間に合ったといえよう。

  この過程の特徴は、31年12月段階で機会をつかんだ関東軍が、軍事行動に続いて一気に建国を強行したという点にみられた。在満民間有志を動員した自治指導部の活動も、この建国過程に独自の要求を持ち込むことは出来なかったし、またそこに参加した中国側有力者たちも、関東軍と渡り合うような局面を作り出す力は持たなかった。

  そしてこの建国過程を主導した関東軍の力は、溥儀の関東軍司令官宛ての書簡111)の形で、 満洲国の基礎に埋め込まれることになった。3月6日旅順を出発した溥儀を湯崗子でむかえた 板垣参謀が溥儀に署名させたのが、3月10日の日付を持つこの書簡であり、その内容はまず、満洲国の国防および治安維持、国防上必要とする鉄道・港湾・水路・航空路等の管理・新設を日本に委託し、日本軍が必要と認める各種の施設を援助することを約束したものであった。それはこれまでに見てきたように、予てからの関東軍の要求であった満洲国の領域における関東軍の軍事行動と移動の自由を、新しい元首に認めさせたものであり、関東軍が満洲国の軍事面において独占的地位を獲得したことを意味した。そのうえさらに、この溥儀書簡は、次のような条項をも含んでいた。

 

 貴国人ニシテ達識名望アル者ヲ弊国参議ニ任シ、其ノ他中央及地方各官署ニ貴国人ヲ任用スヘク、其ノ選任ハ貴軍司令官ノ推薦ニ依り其ノ解職ハ同軍司令官ノ同意ヲ要件トス。


 つまり関東軍は、軍事のみでなく、人事を通じて満洲国の国政全般に介入する道を確保したのであった。そしてこの書簡の日付の前日、3月9日に新しい首都と定められた長春で溥儀の執政就任式が挙行され、新政府の組織と人事が発表された。書簡は執政である溥儀の署名のもとに発効することとなる。まさに関東軍参謀部の演出による建国であった。



A総務庁中心主義と内面指導

 「満洲国建国宣言」は、張学良軍閥を私利のみを図る暴政とし、国民政府を党あるを知るのみの専横として否定し、王道主義を唱えたものといえるが、しかしそのなかで、最も実質的意味を待ったのは、次のような部分112)であったと思われる。

 

 凡そ新国家の領土内に居住するものはみな種族の岐視尊卑の分別なし、原有の漢族、満族、蒙族及び日本、朝鮮の各族の外、即ちその他の国人と雖も長久に居住を願ふ者は又平等の待遇を享くることを得。


  これは先に指摘した「自由国」構想を受け入れたものであり、「居住」の条件だけで国民と認めるということを意味した。これによって日本人は日本国籍を待ったままで満洲国国民となり、満洲国官吏になれることが確認されたわけであり、溥儀書簡が認めた関東軍司令官の人事介人権も、このような条件の上で現実に機能することになるのであった。

  しかし実際には、単に日本人が満洲国官吏になれるというだけでなく、政府機構そのものが、日本人によって統制され易く造られていた。まず行政機関である国務院は国務総理及び各部総長(のち国務総理大臣及び各大臣と改称)で構成される(政府組織法29条)が、国政全般について執政を補佐するのは国務総理1人であり、各部総長は「国務総理ノ指揮監督ヲ受ケ其ノ主管事務ヲ掌理」(国務院各部官制1条)するという一段低い地位に置かれていたことに注意しなくてはならない。この点は帝制がしかれて、「大臣」の名称が使われるようになっても、「国務各大臣ハ天皇ヲ輔弼シ其ノ真ニ任ス」と規定する大日本帝国憲法(55条)の場合と異なり、「満洲国においては国務総理大臣のみが輔弼することになっていて、他の各部大臣は国務大臣ではなく、行政大臣であって、国務総理大臣のみが国務大臣である113)」という制度がとられていた。

  さらにそのうえ、国務総理の権限は各部総長の指揮監督にとどまらず、各部に共通する国政の中枢となるような分野にまで及んでいた。国務院官制8条は「国務総理ハ部内ノ機密人事主計及需用ニ関スル事項ヲ直宰シ総務庁ヲ置キ之ヲ処理セシム」と規定しているが、その内容が広範なものであることは、総務庁が秘書処・人事処・主計処・需用処の4処からなっていることからもうかがうことができる。部局の数だけで機構の大きさは測れないとはいえ、民政部の6司、交通部の4司の他は、外交・財政・実業・司法各部が3司、軍政部が2司で構成されていることから見ても、総務庁が最有力の官庁の一つであることは明らかであった。

  総務庁の基本的な権限は、国政の責任が国務総理に集中されていることに対応して、国務院に提出される書類を集約・点検するという点にみられた。国務院文書取扱暫行章程114)によれば、起案文書は主管官署庁の決裁を受けた後、総務庁秘書処に送られ、それを受けた秘書処長は仕分けして庁内各処に配布し、各処長から総務長官に提出する、総務長官は必要に応じて法制局の審議を求めたうえで、国務総理に提出することとなっている。つまり総務庁は国務院会議にかけられる議案をチェックできるというわけであった。

  しかも総務庁の権限は、そうした手続き的な面だけでなく、実質的な管掌事項をみても、重要であった。特に人事処は官吏の任免から賞罰・給与にいたる官吏制度の全体を管理し、主計処は一般会計・特別会計の予算の編成から国債に関する事項まで掌握する、つまり人事と予算とに関する権限が総務庁に握られているというわけである。これでゆくと、国税・関税の徴収や貨幣・金融に関する事項を司る財政部と離れて、総務庁が予算を編成するというわけであり、 行政運営の技術的観点からいえば合理的とはいえない。にもかかわらず、このような体制がとられたのは、全体を牛耳る拠点をつくり、そこに日本人を据えるためであったとみるべきであろう。したがって、国務総理一人が国政全体の責任を持つという制度も、むしろこのような性格の総務庁を中心に置くために必要とされ、作り出されたと考えることができる。

  さらにこの国務総理=総務庁の関係は、より下位の機構にも拡大されており、各部には総務司、各省公署には総務庁が置かれたが、機密・人事・会計に関する事項はいずれもこれらの部局に握られることになった。そしてこれらの総務関係部局の長には常に日本人が任命され、相互の連絡を密にしながら国務院の総務庁・総務長官(すぐに総務庁長と改称)を頂点とするピラ ミッド型の組織をつくりあげ、満洲国国政の実権を掌握したのであった。関東軍は溥儀に認めさせた人事介人権によって、これらのポストを日本人の独占下におき、人選そのものにも関与してゆくこととなる。

  そうした関東軍の人事介入の具体例として、総務庁の場合をあげておこう。総務庁の初代長官には紛糾115)の末、統治部長であった駒井徳三が起用されたが、その後も駒井への不満がくすぶり、結局関東軍が乗り出してくることとなった。この間の状況を、当時財政部総務司長として着任したばかりの星野直樹は次のように回想116)している。

 

 満洲国に対し、日本人官吏推薦の職責を有している関東軍としては、この情勢(駒井排斥運動)をみて、このままではいけない、方向転換の必要があると認めた。そしてその変革の第一目標を、総務庁においたのである。関東軍でこの仕事を引き受けたのが首席参謀板垣大佐で、その下にあって実際に事を運んだのは、当時大尉であった片倉参謀であった。
 
  片倉君は総務庁人事の根本刷新案をたて、まず、駒井長官反対運動の中心と目せられる十数名の若手官吏に対しては、関東軍の満洲国への推薦を取り消し、したがって満洲国官吏の職を解くことを言い渡した。つぎに新たに総務庁に次長の制を設け、当時財政部総務司長であった阪谷君をこれにあてた。また重要地位である主計、人事の両処長の地位にあった人は格下げして、この地位には新たに日本の官界から適任者を求めることとした。


  関東軍の力を背景とすれば、一参謀によってこれだけの規模の人事が実現されたというところに、溥儀に認めさせた人事介人権の威力をみることができる。そしてより重要なことは、この総務庁の改革と同時に、国政をまとめるという総務長官の仕事は、関東軍参謀を含む総務関係部局の長の非公式の会合で実質的に処理されるという慣行が出来上ったとみられることであった。つまりこれによって関東軍は、人事によってのみでなく、政策決定に対する、「内面指導」と呼ばれた直接的な発言権をも確保することになったと思われる。この問題は資料が乏しいので、また星野の回想117)を聞くことにしよう。

 

 国務院会議の議案は、だれが出すか。それは、各部から提出した案にもとづいて総務長官がとりまとめて、会議に提出することになっていた。その説明にはもとより各部長があたっていた。また、総務長官は、国務院会議の議案とりまとめの準備のために、各部の次長、あるいは総務司長(すなわち日本人の代表)からなる予備会議を招集し、これまた毎週水曜日に定例的に開かれた。(中略)

  この会議の構成は、総務長官を中心として、各部の日本人次長、総務司長および総務庁の次長および法制局長よりなっていた。なおこの会議には、軍政部の最高顧問をしている日本軍人と、関東軍の参謀の一人が出席することも例となっていた。(中略)

  元来、この会議は、各部の事務打合せを行なうために開かれたものであったが、その後、法律、教令等についても、国務院会議に先立ち、この会議にはかって各方面の意見を聞き、ここで練って出来あがったものを、国務院会議に出すという習慣が、漸次できあがってきた。またこの会議に、関東軍参謀が出席し、関東軍の意見をここで伝え、これによりいわゆる関東軍の内面指導が行われるしきたりとなっていた。このことがまた、この会議の力を増した。けだし、満洲国の真の実力者である関東軍の意思がここで表示され、これを参照として協議が進められるので、ここで決定したことはそれだけ、容易には動かしがたいものであるという印象を与えたことはいうまでもない。

  したがって法律上の根拠もなく、名称も決まっていない会議であったが、事実上、その開催日にもとづいて水曜会議と呼ばれ、満洲国政治行政運営の大きな中心をなすにいたったことも、また否むことのできない事実であった。


  水曜会でどのような論議がおこなわれ、関東軍が何を要求したのかという具体的な問題を明らかにする資料はまだ見出だされていないが、ここが関東軍の内面指導の日常的な拠点となったであろうことは推測に難くない。日本軍部の要求は、関東軍を媒介としてここにもたらされたであろうし、また急速に増加した日本省庁出身の満洲国官吏たちを通じて、日本本国の要求も、政策決定のなかに浸透していったであろう。

  関東軍幹部の顔ぶれは、年々の人事異動によって変化しているが、人事介入権、内面指導権 についての要求は、その後も関東軍に一貫したものとなっていたし、軍中央部も原則的にその要求を支持していた。その例として、33年3月24日付の陸軍省の「満洲国指導方針要綱案118)」 をみると、この点について次のように述べている。

 

 満洲国ニ対スル指導ハ現制ニ於テハ関東軍司令官ノ内面的統一指導ノ下ニ日系官吏ヲ通シテ実質的ニ之ヲ行ハシムルモノトス。

日系官吏ハ満洲国指導ノ枢軸タルヘキヲ以テ之カ簡抜推挙ヲ適正ナラシムルハ勿論特ニ之等日系官吏ノ統制ヲ便ニシ且之カ活動ノ中心ヲ得シムル為総務庁中心ノ現制ヲ維持セシムルモノトス。


  これに対して関東軍司令部は、次のような意見119)を提出している。まず前半部分について は、この体制は満洲国が君主制になっても変わらないのだから、「現制ニ於テハ」の字句を削除し、さらに「日系官吏ノ選任ハ関東軍司令官ヲシテ之ニ当ラシムルモノトス」との一節を加える、また後半については、「総務庁中心ノ現制維持ハ趣旨ニ於テ同意」であるが、「特ニ中央ノ方針トシテ掲グルノ必要ヲ認メサルヲ以テ之ヲ削除ス」としていた。

  つまり関東軍の人事介入権、内面指導権を支持する陸軍省に対して、関東軍側は官吏選任権をも明確にし、また総務庁の問題への中央の介入を排除するなど、満洲国における地位のいっそうの強化を要求しているといつてよいであろう。

  こうした制度の在り方や、軍部の態度などによって、総務庁中心主義と内面指導の結合は、 建国以後の行政の展開の中で、いよいよ強固に満洲国の中枢を掌握することになったとみることが出来る。



B民衆把握と治安維持

 満洲国が成立したといっても、建国宣言や溥儀の執政就任の時点で、その領土と称する地域のうち、実際に満洲国の支配下にあるといえるものが、半ばに達していたかどうかは疑問である。山口重次が、「北満の討伐戦争は、奉天作戦から建国までの五ヵ月間の戦争よりも、使用兵力も、戦場も、くらべものにならないほど大きな戦争になったのであった」と回顧120)しているように、満洲国の成立は、広範な地域での抵抗によって迎えられたのであった。したがって成立以後の満洲国の課題は、こうした抵抗を排除して、如何にして民衆をこちら側に囲い込むかという点にあったのであり、その囲い込み方は以後の満洲国の在り方を規制することにもなるのであった。

  北満の抗日運動では、一時関東軍に屈して建国に参加し軍政部総長兼黒竜江省長に就任した馬占山が、「一ケ月もたたない4月2日、密かにチチハルを脱出して、7日黒河に帰り、黒竜江省仮政府を樹てて『反満抗日』を通電して、旧黒竜江省軍の編成を命121)」じたことが、抗日武装反攻のきっかけとなった。以後武装反攻は全満洲に拡大して行くのであり、その範囲は、 北満鉄道周辺からその北部一帯をはじめ、間島地方、朝鮮との国境に近い東辺道、さらには満鉄本線と安泰線および海岸線で囲まれたいわゆる三角地帯にまで及んでいた。そしてまた熱河方面への反攻の姿勢を示す張学良軍にも対抗しなければならなかった。

  関東軍は帰順した中国軍を再編した満洲国軍をともないながら、4月の反吉林軍討伐から翌 33年2月の熱河作戦に至る一連の軍事行動でこれらの反攻を制圧、以後しばらくは治安維持のために分散配置の体制をとらざるをえないこととなった。そして関東軍が分散して駐留している間に、民衆を掌握する体制を作らなくてはならなかった。この時期には、それは二つの方向 で試みられていた。

  そのひとつは、すでにみた自治指導部のやりかたであり、農務会・商務会といった既存の組織の幹部たちになんらかの利益を与えることで、その組織をまるごと取り込むことを基本と考えていた。それは、既存の有力者の支配力に秩序の基礎を求めようとするものであり、彼等はそれを地方自治と捉えていた。

  自治指導部は建国とともに解散され(3月15日解散式)、そのうち笠木良明を指導者とする雄峯会系は資政局に入り、青年連盟系は協和党の結成に向かうというように分裂しているが、こうした形での地方自治を実現しようとする方向では一致していたように思われる。資政局は各部の施政の発展を資(たす)けるところというわけであり、その意味では奇妙な存在であった が、官制をみると総務処、弘報処からなり、弘報処の管掌事項122)が「一、建国並施政精神ノ 宣伝ニ関スル事項、二、民力涵養及民心善導ニ関スル事項、三、自治思想ノ普及ニ関スル事項」 とされているところからみれば、精神運動の指導部と予定されていたと思われる。しかし実際の活動は県参事官の組織に向けられていたようである123)。資政局は前述の駒井総務長官排斥運動などにもからんで、設立4か月足らずの7月5日に廃止124)されてしまったが、その同じ日に「県官制」とともに公布された「自治県制125)」は、資政局の置き土産ではなかったかと思われる。その特徴は、名望家(「相当ノ知識経験ヲ有シ徳望高キコト」)のなかから県長が選任する自治委員(人口により7〜15名)を置き、県の予算決算、県粂例の制定改廃、県税の賦課、 県債の募集などには自治委員会の議決が必要とした点であった。それは、不完全とはいえ名望 家自治の考え方を示すものと見てよいであろう。

  しかし教令55号として、正式に公布されたにもかかわらず、結局実施されることなく、約1年後の翌34年(大同2)8月12日には、その実質的改正ともいえる県公署執務暫行規則・県公署科局職掌暫行規程・県会計暫行規則・県予算編製ノ原則・予算書等諸様式・各県公署暫行組織劃一概要・奉吉黒熱四省暫行県等次規定・各県組織及定員表の8件が、民政部訓令として各省に達せられている126)

 同訓令には前文を付して、「県官制及自治県制ハ大同元年7月ニ公布セラレタルモ爾来各省 ヨリ種々ノ意見アリ、本部ニテモ其ノ情勢ヲ考察スルニ改正ノ必要アルヲ認メタリ」とし、現在改正案を作成して各省各県の意見を求めているが、「其ノ審議修正ニハ相当時日ヲ要シ短時間ニシテ能ク決定スル所ニ非ラズ」とその事情を説明する。そして当面過渡的に「漸進的ニ統 一ヲ謀ル」ため、これらの規則等を制定したが、その目的は「組織ノ劃一ヲ期ス」点にあることを強調していた。

  ここで注目しておきたいのは、これらの規則等では、「自治県制」が規定した筈の「自治委員」は全く姿を消し、新しく「県務会議」が登場している点である。県務会議については、県公署執務暫行規則が「県長ハ毎週一回各科局長会議ヲ召集シ参事官モ亦出席スベシ」「参事官及各 科局長ハ県内行政二付新興改革スル必要ヲ認メタルトキハ随時会議ニ提出スルモノトス」と規定しているが、それは、県における日本人官吏の中心としての参事官の活動の場を制度化するとともに、県長を無視するような横暴な行動127)を抑制することをもねらったものとみてよいであろう。

  つまりそこでは、県政の基盤を限られた範囲でも「自治」に求めようとする方向は切り捨てられ、参事官を軸として上からの行政が画一的に浸達して行くような体制をつくることが目的 とされているのであった。当時すでに、「建国以来県政の実際的方針については、(一)自治指導部系の地方自治体の根幹をこの県政に置き、ここに社会共同体的色彩を有する組合的半自治的集団を興さんとするものと、(二)中央政府の法治的精神と課税その他の目的からする官治の主張の二が対立128)」していることが指摘されているが、その対立は(二)が(一)を圧倒する形で解決されたといえる。そしてそのような状況のなかでは、自治指導部の流れをくむ協和党の企ても失敗に終わることは明らかであった。

  自治指導部が解散されると、青年連盟系の人々は直ちに石原参謀らの支持を得て協和党結成の準備に入り、4月5日には「満鉄附属地にある主な満洲青年連盟の支部長にあてて、満洲建国の現況、建国の精神、協和党設立の趣旨を内容とする、演説会の斡旋を依頼する照会状を出 し」、4月15日の国務院会議には、石原自身が出席して「協和党に関する件」の説明にあたつたという129)

  石原は、「一国一党の原則をとらなければ、基礎の薄弱な満洲国では、多党乱立して民族闘争に陥る恐れがある」と主張し、それにもとづいて、「建国精神ノ作興.ト施政ノ暢達」を目的とし「種族身分ヲ問ハズ」党員となることができ「党費ハ国家之ヲ補給ス」るという「満洲協 和党法130)」がこの日の会議を通過したとみられる。同日発表された執政教書131)には、次のように記されていた。

 

 若夫れ種族互いに岐視し、或は主義を争い盟党を結び小異を立て民意帰一する処無くんば、百弊頻りに興り民衆の慶福亦望み難し、茲に鑑み法を設け満洲共(ママ)和党を設立せしめ我建国精神の振興施政の暢達に当らしむ。


  協和党はその五大綱領132)の一に「封建軍閥政治に反対し自治政治の確立を期す」と述べているが、その内容は、関東軍に従軍した彼等の「宣撫工作」の目標が「『民族協和』を以て共産党と思想戦を闘い、農商民をその自治組織のまま、協和党に加盟せしめて、新国家の国民組織を結成する133)」という点に置かれていたことからもうかがうことができる。

  しかしこの協和党の問題には、「軍司令部では石原中佐以外は全く無関心134)」であり、実権を握る日本人官吏の間からは反対が強まり、協和党側も、「名称を『満洲国協和会』とすること、執政を名誉総裁とし、国務総理以下、官吏は協和会の会員となること、ということで妥協135)」 せざるをえなくなっていった。7月25日に満洲国協和会の発会式が行われたが、それはもはや、 既成の有力者層の利益を保護しそこに秩序の基礎を求めようとする発想を捨てて、中央から地方にいたる政府機構の外側に密着する教化運動組織となっていたといえよう。

  こうした資政局や協和党問題の経緯は、関東軍や満洲国政府の民衆掌握政策の主流が、有力者自治に期待するものではなかったことを示しているといってよいであろう。そこではむしろ、 基本的には個人や戸を直接に掌握し、それを画一的に組織しようとする方向がとられたと考えられるのである。

  それを端的に示しているのは、建国当初からみられる「指紋」への関心であろう。「満洲日報」 は4月14日号2面に、満洲国人権保障局奉天指紋部が指紋法施行準備として3万円を計上し、 婦人職員100名の募集を始めている旨の記事を掲げているが、さらに15、17日には、「満洲国指紋法/制定の理由/近く奉天省に実施」との解説記事を連載しており、この時期には実現しなかったものの、政府部内にこうした動きのあることを伝えている。

  この解脱記事はまず、指紋法は「民間としては大正13年満鉄会社で之を採用し、撫順炭鉱苦力に実施して非常の好成績を挙げている」とし、満洲国の場合には指紋を基礎とした「身分登記法」の制定を予定して、その狙いを次のように述べている。すなわち、満洲国は「種族姓氏複雑し、戸籍法の施行容易ならざる」状況にあるが、身分登記法は戸籍法の欠点を除去し「種族の如何、姓氏の如何を超越し完全に独立して個人身分を確証することを得るものであって ……叛逆者、犯罪者その他不良者の身分を登録することにより、互保連座法(後述の保甲制度を さす…筆者)の活用を促すことになる」というのである。

  ここでいわれた人権保障局も身分登記法も結局は実現しなかった136)が、満洲国政府は指紋制度に強い関心を持ち続けており、翌々1934年(大同3)2月7日付の民政部・司法部・興安総署共同訓令により、全国を6区に分けてそれぞれに指紋局を置き、民政部警務司がそれを統括するという体制がつくりあげられている137)。そしてこうした指紋管理体制の確立強化は、さきの解脱記事が示唆しているように、抵抗勢力に対する軍事的制圧状況を秩序化するための保甲制度の形成に連動していたといえよう。

  満洲国に対する広範な抵抗が、関東軍に分散配置を余儀無くさせたことはすでに述べたが、 対ソ戦準備を本来の任務と考える関東軍にとって、そのような事態は出来るだけ早く解消すべ きものであり、したがって、軍隊の常駐なしに治安維持が可能な体制をつくりだすことが急務とされた。

  日本人移民の問題にしても、李杜、丁超等の抗日勢力の残存する吉林省東北部に、在郷軍人で組織した武装屯懇軍を送り込んで、駐屯中の日本軍に代わる治安維持の拠点を造ろうとする東宮鉄男満洲国軍政部顧問らの発想138)に基づいて実現されたものであった。そして早くも32年10月には第一次移民団が入植し、33年7月には第二次移民団が続いている。現地の日本軍の側も後を託す移民団のための土地買収に熱心であったことは、第十師団の移動に当たって、34年3月29日付で「古林省東北地方に於て日本人移民用地として第十師団実施中の土地買収事務 に対し満洲国は一層積極的援助を与え、同師団の交代帰還に伴ひ速に之を満洲国を主体とする機関に継承す139)」との決定がなされていることからも知られる。こうした拠点造りは、朝鮮人移民による「安全農村140)」の建設としても展開されたが、しかしより重要な問題は、中国人一般民衆を治安維持機能をもつ体制の中にいかにして組織化してゆくかという点にあった。

  関東軍の分散配置が本格化するのは、熱河作戦終了後(33年5月31日、塘沽停戦協定成立)であり、長城線より撤退させた軍隊を全満各県に駐留させるのであるが、これと同時に軍隊が行政機関を動かすための組織として、中央・省・地区・県の各レベルに治安維持会が置かれた。 中央治安維持会は関東軍司令官の区処のもとに、同軍参謀長を委員長として日満警備関係諸機関の代表を集め、指導方針の策定・各行政機関の協力・経費・統制事項を審議立案することを任務としており、下部の治安維持会もそれぞれのレベルの日本軍指揮官のもとで中央に準ずる活動が予定されていた。

  しかし関東軍の治安維持の見地からいえば、こうした形で行政機関を動かすだけでは不十分であり、それを支える民衆組織が求められたのであった。33年6月13日の中央治安維持会第一 回委員会で決定された「治安維持ニ関スル一般指導方針141)」は、「匪賊ノ剿滅ハ討伐ヲ以テ主眼トナシ、之ニ依り勢力減殺セル小匪ハ各村落ノ合理化セラレタル自衛団ノ自衛力ニ依り跳梁ノ余地ナカラシメ以テ其ノ自滅ヲ策ス」と述べているが、この「合理化セラレタル自衛団」がやがて「保甲制度」として実現されていることは、34年10月11日に改正された「方針142)」のこの部分が、「保甲制度ノ普及ニ依リ」と改められていることからも明らかであろう。

  保甲制度は33年12月22日制定の暫行保甲法によって公式の制度とされたものであるが、34年1月8日その施行を前にして、黒竜江省長孫其昌は訓令143)を発し、友軍(日本軍)が3月末で分散より集中に転ずる予定であることを告げるとともに、この制度のねらいが「友軍撤退以後に於ても独力にて治安を確保」することにあることを明らかにしていた。

  暫行保甲法はまず、およそ10戸をもって牌とし、10牌をもって甲とし、警察署の管轄区域内の甲をもって保とする、牌長は家長の、甲長は牌長の、保長は甲長の互選とし、警察署長又は 地方行政官署長の認可をへて就任するという原則を定める、そしてこのうえに連座制を適用し、 自衛団の組織を担わせようというのであった。

  連座制は、牌の住民中に、内乱罪・外患罪・公共危険罪・暫行懲治叛徒法に規定する罪などを犯したものが出た場合には、警察署長はその牌の各家長に対し2円以下の連座金を課すことが出来るというものであり、連帯責任制により相互監視の強化をはかろうとするものであった。また自衛団については、保長・甲長に自衛団を組織する権限を与えたが、さらにそのうえに、警察署長には、必要と認めるときは保長・甲長に対して自衛団を組織することを命ずる権限を 与えていた。

  つまり保甲制度は直接には警察の補助機構として性格付けられるものであったが、満洲国政府には、これをもって新しい地方制度の骨格にしようとする意図が現れていた。34年2月3日の首都警察庁布告144)は保甲制度実施概要の前文に「保甲制度ハ安居楽業ノ基/自衛団ハ村ヲ 護ルノ圍壁」との標語を掲げていたし、同日の民政部訓令145)は「暫行保甲法ノ実績ノ挙ルト否トハ吾ガ満洲国ノ興廃ニ関スル所至テ大ナリ」として、「各人協力一致ノ観念ニ乏シク自治自衛ノ思想薄キ」欠点の克服を呼び掛けていた。

  もちろん、この機械的画一的な制度のなかに、全民衆を囲い込むことは困難であったに違いない。暫行保甲法施行の第一年目の実績は明らかでないが、翌「康徳2年度より3ケ年計画を 以て全国に保甲制の本格的組織の改善拡充新設を行ふべく、2年度に於ては先ず50県下に亘 りその第一次事業が完成された146)」というのであり、大同元年末の県数が151(奉天省58、吉林省40、黒竜江省37、熱河省16)であった147)ことを考えると、保甲制度の普及が容易でなかったことが推測されよう。

  しかし、有力者自治を基底とする「自治県制」が否定されて以来、この保甲制度ではじめて統一的な民衆把握政策が打ち出されたのであり、以後の変化もこの保甲制度を基準として論じ得るようになったといえる。そしてその意味では、この時点を以て、満洲国創出過程の一応の完結とみてもよいのではなかろうか。

  つまり満洲国は、軍事的制圧という基盤のうえに、関東軍の内面指導を内包する総務庁中心主義を縦軸とし、保甲制度を基準とする民衆把握政策を横軸とするという構造を以て創出されたのであり、以後の満洲国の問題は、この構造がどうなってゆくのか、という点から捉えねばならなくなるように思われるのである。

むすび