『「満洲国」の研究』 第1部 「満洲国」の成立 第2章

1993年3月

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「満洲国」の創出


 

古屋 哲夫

はじめに
1満洲建国路線の形成
2建国過程の諸側面
3満洲国の基本構造
むすび
註釈


註釈

1)

 「国運転回ノ根本国策タル満蒙問題解決案」昭和4年7月5日(角田順編『石原莞爾資料−国防論策篇−』原書房、1971年)40頁。

2)

 「満蒙問題私見」昭和6年5月、同前77頁。

3)

 同前42〜45頁。

4)

 同前52〜57頁。

5)

 「日記」、同前11〜13頁。

6)

 同前75頁。

7)

 参謀本部編『満洲事変作戦経過ノ概要』(巌南堂書店復刻、1972年)一の18頁。

8)

 外務省仮訳『リットン報告書全文』(朝日新聞社、1932年)172頁。

9)

 「満洲日報」31年9月27日付夕刊(26日発行)4面。なお以後の日付は、註96)まで主として31年なので、同年のものは年を省略した。

10)

 「満洲日報」9月20日1面。

11)

 「満洲日報」9月22日7面。

12)

 「満洲日報」9月24日2面。

13)

 『現代史資料7 満洲事変』(みすず書房、1964年)。

14)

 「張学良政権下の幣制改革−『現大洋票』の政治的含意−」(『東洋史研究』50巻4号、1992年)。

15)

 『満洲問題』(岩波書店、1934年)78〜79頁。

16)

 32年7月1日付、満洲中央銀行公告、「満洲国政府公報日訳」21号。

17)

 32年6月11日判定、満洲中央銀行組織法参照、「満洲国政府公報日訳」13号。

18)

 片倉衷「満洲事変機密政略日誌」(以下「片倉日誌」と略称)9月20日の条、前掲『現代史資料7』187頁。

19)

 前掲『満洲事変作戦経過ノ概要』一の30頁。

20)

 「片倉日誌」9月26日の条、前掲『現代史資料7』193頁。

21)

 「片倉日誌」9月22日の条参照、同前189頁。

22)

 「片倉日誌」9月25日の条、同前192頁。

23)

 「満洲日報」9月25日2面。

24)

 「東京朝日新聞」9月29日2面。

25)

 「片倉日誌」10月2日の条、前掲『現代史資料7』198〜9頁。

26)

 「片倉日誌」10月4日の条、同前200〜201頁。

27)

 「片倉日誌」9月26日の条、同前193頁。

28)

 「満洲日報」9月29日1面。

29)

 「満洲日報」9月30日1面、しかし「辞職を申出る者続出の有様」で、その補充の後改めて30日に就任式を行っており、そこでは孫其昌は財政庁長に転じている。同紙10月1日1面。

30)

 「片倉日誌」9月26日の条、前掲『現代史資料7』192頁。

31)

 「片倉日誌」9月28日の条には「小銃5000、被服10,000をとう(さんずい+兆)南にて交付することとす」(同前196頁)とあり、また10月9日の条には「煕洽献納の内20万元を羽山少佐に携行せしめ張(海鵬)に交付す」(同前206頁)とある。

32)

 「片倉日誌」10月4日の条、同前201頁。

33)

 「片倉日誌」10月25日の条、同前232〜233頁。

34)

 前掲『満洲事変作戦経過ノ概要』一の58〜60頁。

35)

 「片倉日誌」 32年1月1日の条、同前327頁。

36)

 関東軍参謀部『奉天省行財政ニ関スル詳報』昭和7年2月、6〜7頁、なおこの資料は、井村哲郎氏に提供して頂いた。

37)

 同前9〜10頁。

38)

 「片倉日誌」9月25日の条、前掲『現代史資料7』192頁。

39)

 満洲青年連盟史刊行委員会編「満洲青年連盟史』(原書房復刻、1968年)659〜662頁。

40)

 『消えた帝国満洲』(毎日新聞社、1967年)118頁。

41)

 前掲『奉天省行財政ニ関スル詳報』10頁。

42)

 同前10〜11頁、または山口重次著『満洲建国−満洲事変正史−』(行政通信社、1975年)156〜157頁。

43)

 「満洲日報」10月21日7面。

44)

 「行政機関邦人顧問及諮議服務要領、付録第二・顧問及諮議ノ定員及人名」による、前掲『奉天省行財政ニ関スル詳報』13頁または『満洲建国−満洲事変正史−』158頁にあるが、ここでは人名が補正されていると思われる後者による。

45)

 「行政機関邦人顧問及諮議服務要領、付録第一」前掲『奉天省行財政ニ関スル詳報』11〜12頁または『満洲建国−満洲事変正史−』 157〜158頁。

46)

 前掲奉天省行財政ニ関スル詳報』 23〜28頁。

47)

 同前17頁。

48)、49)

 註45)に同じ。

50)

 「自治指導部創設の回顧」(宮内勇編『満洲建国側面史』新経済杜、1942年)63〜64頁。

51)

 前掲『奉天省行財政ニ関スル詳報』18〜21頁、主要部分は『満洲建国−満洲事変正史−』168〜169頁にも引用。

52)

 「満洲評論」1巻15号、12月5日発行。

53)

 前掲『満洲青年連盟史』384頁。

54)

 「満洲日報」11月27日4面、なお鉄嶺では10月9日に、橘僕とも近い野田蘭蔵が独自の自治運動を起こして関東軍に抑圧されており、注目されていた県であったと思われる。「片倉日誌」10月9、10、13日の条、前掲『現代史資料7』206、208、211頁、平野健一郎「満洲事変前における在満日本人の動向」(日本国際政治学会編『満洲事変』有斐閣、1970年)71〜71頁など参照。

55)

 前掲『消えた帝国満洲』132頁。

56)

 「満洲日報」12月30日2面。

57)

 前掲『消えた帝国満洲』128頁。

58)

 前掲「満洲評論」1巻15号。

59)

 「片倉日誌」10月9日の条、前掲『現代史資料7』206〜207頁、なおここでは「樸」が「璞」と誤記されている。

60)

 「片倉日誌」10月21日の条、同前227〜229頁。

61)

 前掲『満洲青年連盟史』658〜659頁。

62)

 「片倉日誌」11月7日の条、前掲『現代史資料7』 248頁。

63)

 「片倉日誌」11月7日の条、同前248〜256頁。

64)

 「新国家設計批判」、「満洲評論」1巻14号、11月28日発行。

65)

 末尾に(6、12、10、於奉天)とある。「満洲評論」2巻1号、32年1月2日発行。

66)

 前掲『満洲青年連盟史』456頁。

67)

 この小冊子は『三題』として、満蒙問題の重要性・権益を離れた在満邦人・満蒙に於ける現住諸民族の協和という3つのテーマを掲げる。同前459〜466頁、引用部分は464、466頁。

68)

 この時期の満洲青年連盟の人々の文章では、「協和」と「共和」が混用されており、「共和」に「協和」と違った意味を与えているようには思われない。

69)

 前掲『現代史資料7』285頁。

70)

 同前286頁。

71)

 同前287頁。

72)

 参謀第三課の設置については、「九月十九日軍ノ奉天ニ向ヒ前道中列車内ニ於テ軍参謀部内ニ第三課(統治)設置ノ内命アリ、竹下中佐ヲ主任」として課員が定められたという。さらに「宣伝」を担当する第四課が設置され、9月25日には「軍参謀部業務分担表」が作成されている。前掲『奉天省行財政ニ関スル詳報』135〜36頁。

73)

 同前142〜143頁。

74)

 「統治部々務細則」同前144〜148頁。

75)

 前掲『消えた帝国満洲』154頁。

76)

 「関東軍統治部暫行服務指針」、「片倉日誌」11月7日の条、前掲『現代史資料7』248頁、または前掲『奉天省行財政ニ関スル詳報』143〜144頁。

77)

 註74)に同じ。

78)

 山口重次は「統治部の形はできたが、部長、次長はじめ課員の多くは新しく集めた人で経験不足、それに対して監督下の各機関の最高顧問たちは、いずれも事変当初からその仕事を手がけてきた人である上に、社会的地位も駒井部長より高い人物ばかりで、とてもそれを監督・指導などできるものでない」(前掲『消えた帝国満洲』154頁)と述べているが、この規定によれば、省政府の顧問などを直接に監督・指導したのは駒井部長ではなく、根本中佐であったように思われる。

79)

 緒方貞子著『満洲事変と政策の形成過程』(原書房、1966年)198頁、なお臼井勝美著『満洲事変』(中央公論社、1974年)134頁参照。

80)

 「片倉日誌」32年1月4日の条、前掲『現代史資料7』 338頁。

81)

 「片倉日誌」12月23日の条、同前321頁。

82)

 片倉衷著『回想の満洲国』(経済往来社、1978年)121頁。

83)

 「片倉日誌」12月8日の条、前掲『現代史資料7』290頁。

84)

 「片倉日誌」12月11日の条、同前297頁。

85)

 「満洲日報」12月11日1面。

86)

 袁金鎧は地方維持委員会の独立宣言発表に抵抗したものとみられ、「片倉日誌」11月6日の条には次のような記述がみられる。「此夜金井顧問等地方維持会の首脳及板垣、竹下参謀は袁を軍司令部に召喚し先づ金井顧問布告文を発すべきを説得し遂に同意せしめ7日午前10時発表に決せり、〈袁金鎧軍司令部に召致せらるるや身命の危険を感じ戦々兢々たり。容易に地方維持会に依る独立宣言を書する能はず、軍に於ても已むなくば之を軟禁すべく所要の手配を整へたり〉」前掲『現代史資料7』 247頁。

87)

 「片倉日誌」12月11日の条には「臧式毅は予て軟禁中なりしが先般来板垣参謀並駒井顧問之を試験し、13日午後釈放し省政府主席として寛恕、就任せしむるに決せり、即ち趙欣伯等をして推戴の形を執らしむ」(同前316頁)とあるが、関東軍側が臧の力量を高く評価していたことは、同12月22日の条の「奉天省政府の形態整ひ、識見に於て東北随一の臧を迎へたるは日支両方面に極めて好都合にして局面一転するに好影響あるべし」(同前319頁)との記述からもうかがうことができる。

88)

 「満洲日報」10月16日2面、なお同記事は、開業にあたっての関東軍司令官の指令をも掲載している。

89)

 前掲『奉天省行財政ニ関スル詳報』 38、 45頁。

90)

 関東軍参謀部「事変直後より統治部設立迄の参謀郎第三課の業務概要」「片倉日誌」12月8日の条所収、前掲『現代史資料7』306頁。

91)

 自治指導部監察部「地方自治進捗状況監査第三報」(昭和7年3月15日)による。元以下の数字がある場合には切り捨てた。ここには31県からの報告が収められているが、報告の内容も形式も不統一であり、すべての報告に収税状況が含まれているわけではない。ここでは比較のできるものだけをとった。なおこの資料も井村哲郎氏に提供して頂いた。

92)

 同前71頁。

93)

 前掲「事変直後より統治部設立迄の参謀部第三課の業務概要」、前掲『現代史資料7』309頁。

94)

 大同元年度予算は「満洲国政府公報日訳」57号、2年度予算は同153号による。

95)

 「片倉日誌」12月13日の条、前掲『現代史資料7』 300〜301頁。

96)

 「片倉日誌」12月13日の条の[参考]2、同前302頁、なお軍中央部の態度の変化については「中央部錦州攻略の決意極めて明瞭となれり」(12月17日の条、同前317頁)、「陸軍中央部は政府の更代、首脳の更迭に伴ひ其態度全く変化するに至れり」(12月28日の条、同前325〜3226頁)などの記述がみられる。

97)

 「片倉日誌」32年1月16日の条、同前351〜652頁参照。なお以後の日付は大体32年になるので、同年のものは年を省略した。

98)

 田中隆吉「上海事変はこうして起された」(「別冊知性・秘められた昭和史」河出書房、1956年)。

99)

 「片倉日誌」1月14日の条、前掲『現代史資料7』346〜347頁。

100)

 「片倉日誌」1月22日の条、同前356頁。

101)

 「片倉日誌」2月4日の条、同前377頁。

102)

 統治部、特務部に対する軍中央部の意向については、「片倉日誌」31年12月23日の条、同前319頁、1月8日の条、同前337頁など参照。

103)

 駒井徳三著『大満洲国建設録』(中央公論社、1933年)103〜104頁参照。

104)

 「片倉日誌」2月5日の条、前掲『現代史資料7』378頁。

105)

 前掲『消えた帝国満洲』221〜222頁。

106)

 「片倉日誌」2月14日の条、前掲「現代史資料7』382頁。

107)

 「片倉日誌」2月14〜15日の条、前掲『現代史資料7』382〜383頁。

108)

 「満洲日報」2月23日2面。

109)

 「片倉日誌」2月24日の条、前掲『現代史資料7』392頁。

110)

 「満洲日報」2月26日2面。

111)

 外務省編『日本外交年表並主要文書』下巻(日本国際連合協会、1955年)217頁、なお中国文は「片倉日誌」3月6日の条、前掲『現代史資料7』408〜409頁にある。

112)

 「満洲国建国宣言」「満洲国政府公報日訳」1号。

113)

 高橋貞三著『満洲国基本法』(有斐閣、1943年)126〜127頁。

114)

 5月3日制定、「満洲国政府公報日訳」5号。

115)

 「片倉日誌」3月6日の条、前掲『現代史資料7』407頁参照、なお「片倉日誌」には、駒井に対する関東軍内の不満や批判が記されている、同前302、332、340、351、381頁参照。

116)

 星野直樹著『見果てぬ夢−満州国外史−』(ダイヤモンド社、1963年)31頁。

117)

 同前45〜46頁。

118)

 「陸海軍其他政府機関文書」(米議会図書館作成マイクロフィルム)T754。

119)

 「満洲国指導方針要綱案ニ対スル意見 八、四、三 関東軍司令部」同前T755。

120)

 前掲『満洲建国−満洲事変正史−』285頁。

121)

 山口重次著『満洲建国の歴史−満洲国協和会史−』(栄光出版社、1973年)64頁。

122)

 「資政局官制」による、「満洲国政府公報日訳」1号。

123)

 前掲『満洲建国の歴史−満洲国協和会史−』 170頁。

124)

 資政局廃止の経緯については、同前171〜172頁参照。

125)

 「満洲国政府公報日訳」21号。

126)

 「満洲国政府公報日訳」213号。

127)

 32年10月31日の民政部の奉天省に対する訓令を見ると、参事官らが「権限ヲ誤解シ報告事項ニ関シ何等県長ト協議セス、単独ニテ本総長ニ報告スルモノアリ又直接総務司地方司警務司ニ報告スルモノアリ」といった混乱状態にあることを指摘し、「参事官ニテ先ズ報告スベキ事項ニ付テ草案ヲ定メ県長ノ同意ヲ求メテ決定」するという手続きをとるよう各県に指示することを命じている。「満洲国政府公報日訳」63号。

128)

 『満洲国現勢 康徳二年版』(満洲国通信社、1935年)140頁。

129)

 前掲『満洲建国の歴史−満洲国協和会史−』44、61〜62頁。

130)

 同前29頁。

131)

 「満洲日報」4月16日1面。

132)

 「協和党組織五大綱領」「満洲評論」2巻15号、4月16日。

133)

 前掲『満洲建国の歴史−満洲国協和会史−』118頁。

134)

 同前176頁。

135)

 同前173頁。

136)

 人権保障局も身分登記法も正式に成立した痕跡はみあたらないが、「満洲日報」は12月23日の解説記事「大同元年を顧みる・4」でも「満洲国政府は……匪賊掃討の積極的施設の第一歩として『連座法』を実施することに決し、国務院人権保障局では、身分登記法を公布し、清郷互保連座法を思考すべく4月末先ず奉天省にこれを実施した」と述べており、これが何を指しているのか、まだ明らかにし得ていない。

137)

 共同訓令は、「満洲国政府公報日訳」336号、なお、指紋制度については、キムチョンミ(金静美)著『中国東北部における抗日朝鮮・中国民衆史序説』(現代企画室、1992年)365〜367頁参照。

138)

 満洲開拓史刊行会編集発行『満洲開拓史』(1966年)51〜53頁参照。

139)

 満鉄経済調査会編『立案調査書類第二編一巻七号 満洲農業移民方策−満洲拓殖会社設立方策−』86頁。

140)

 安全農村については、前掲「中国東北部における抗日朝鮮・中国民衆史序説』第三編参照。

141)

 「中央治安維持会第一回委員会関係書類」前掲「陸海軍其他政府機関文書」T753。

142)

 中央治安維持会編「治安維持ニ関スル諸規定集」昭和12年7月1日改正 同前T762。

143)

 「満洲国政府公報日訳」312号。

144)

 「満洲国政府公報日訳」327号。

145)

 「満洲国政府公報日訳」333号。

146)

 『満洲国現勢 康徳三年版』(満洲国通信社、1936年)58頁。

147)

 「満洲国政府公報日訳」243号。

148)

 註119)に同じ。