『茨城県史料・近代政治社会編』5

1994年3月

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明治後期の選挙法論議


古屋 哲夫


  明治の政治史を考える場合には、そのほぼ中間点にあたる明治22年2月の大日本帝国憲法の発布をもって、前後に別けてみるのが便利である。とくに選挙制度の問題は、憲法によって始めて貴族院と衆議院からなる帝国議会が開設されたのに加えて、その前年(21年4月)制定の市制・町村制、翌年(23年5月)制定の府県制・郡制により、地方議会の制度が全面的に改正されたため、前期と後期では全く異なった様相を呈していることを理解しておかなくてはならない。と同時にこの制度は極めて不安定であり、すぐさま改正議論にさらされることになった点にも目を向けておく必要があろう。

  憲法発布前後に成立する選挙制度の特色としてはまず、制限選挙の枠内で、中央の帝国議会と地方議会とに、異なった発想の上に立つ制度が設定されたということをあげなくてはならない。その基底には憲法と地方制度の制定が、伊藤博文と山県有朋という異なったリーダーによって別々に実現されたという問題があり、山県は、伊藤が「国会ノ開設ヲ先ニシ、地方自治ノ制度ヲ後ニシテ、綱ヨリ目ニ及ホ」すべしとする論者だったのに対して、「予ハ極力憲法発布以前ニ於テ、先ズ自治制ヲ制定施行スヘキコトヲ主張シ、遂ニ其ノ目的ヲ達シ得タリ」(国家学会編『明治憲政経済史論』398〜9頁)と回顧している。

  しかし実際には、憲法発布以前に実現できたのは、市制・町村制の公布だけであり、その施行は町村合併などの準備の必要から1年後の22年4月以降とされたのであった。従って、憲法が発布された2月には、市町村では新しい制度による市町村会議員選挙の準備に追われている最中であった。もっともこの遅れによって、市町村会議員選挙が、憲法発布の効果であるような、予期しない印象を広めることができたかもしれない。

  次の府県制・郡制になるとさらに遅れて、翌年7月の第1回衆議院議員総選挙の2か月前に公布され、ようやく11月の第1議会開会に先行することができた。しかしこの新しい制度を全国に実施する準備が十分でなく、その実施が容易でなかったことからみても、その公布が議会で検討されることを嫌って性急になされたものであることは明らかであった。そしてこの府県制・郡制の実施の遅れは、選挙制度の内容に深く関係していた。

  ここでは選挙制度全般に触れる余裕はないので、選挙権の問題を取り上げるに止めるが、議会の種類ごとに選挙権の内容が異なるので、まず全体を概観しておこう。

 

1、

貴族院…

一般国民の代表は、多額納税議員のみ。各府県ごとに直接国税の納税額の多いものから15名をとり、そのなかから1名を互選する。

 

2、

衆議院…

直接国税15円以上を納める満25歳以上の男子に選挙権、同じ条件で満30歳以上の男子に被選挙権を与える。

 

3、

府県会…

郡会・郡参事会および市会・市参事会メンバーを有権者とし、府県内の市町村公民のうち、直接国税10円以上を納める者に被選挙権を与える。

 

4、

郡 会…

町村会議員を有権者とし、町村会の選挙権を有する者に被選挙権を与える。その他に地価1万円以上の土地を所有する大地主に、定員外で定員の3分の1の数の議員を互選する権利を認める。

 

5、

市 会…

地租を納めるか、若しくは直接国税2円以上を納める者(公民)に選挙・被選挙権を、公民以外でも直接市税を公民の第3位者以上に納める者には選挙権を与える。選挙に当たっては、選挙人をその納める直接市税の多い順に総額の3分の1ずつのグループに分けて1級2級3級とし、各級ごとに定員の3分の1ずつを選挙する(3級選挙制)。

 

6、

町村会…

選挙・被選挙権は市会と同様であるが、選挙に当たっては直接町村税によって2級に分けて行なう(2級選挙制)。

 こうしてみると、とくに地方議会において極めて複雑な制度が作られていることが明らかである。その特色の第1は、下級議会に選出された議員が上級議会の議員を選挙するという「複選制」であり、第2には、納税額によって等級に分ける「等級選挙制」、第3には、新しく郡会を新設し、大地主に特権を与えたことである。その他第4には、選挙・被選挙権を有する者を原則的に「住民中公務ニ参与スルノ権アリ又義務アル者」(「市制町村制理由」)という概念で捉え、「公民」という名称を与えたことであり、さらに第5には公民の資格ではじめて地租と直接国税を区別したことをあげなくてはならない。この時期の直接国税とは、地租と所得税をさすものであり、直接国税15円といえば、両税の合計が15円であることを意味した。従って公民権の場合のように地租と区分された直接国税とは所得税にほかならなくなる。ところがこの時期の所得税(市制町村制制定の前年、明治20年3月に創設)は、300円以上の所得に対して課税されることになっており(千円までの税率は100分の1)最低課税額3円であったから、「2円以上」という規定は実際には意味を成さず、将来の免税点引き下げや新税の創設を想定したものとみられるが、ともかくここで、地租と所得税で異なった扱いがなされたことは、以後の選挙法論議に一つの論拠を与えるものであった。

  国会開設後、政党側がこうした選挙制度の改革を要求したことはいうまでもなく、第一議会以来様々な改正案が議員立法として提出されたが、ようやく日清戦争末期の第8議会(会期明治27・12〜28・3)で始めて衆議院を通過した。結局貴族院で不成立に終わるが、衆議院では本格的審議が行なわれており、この当時の選挙法をめぐる基本的な論点は出尽くしている。

  まず衆議院議員選挙法改正原案(議員提出)は、選挙権の納税額を直接国税15円から5円に引き下げ、被選挙権の納税資格を削除するという権利の拡大に力点を置く案であったが、委員会ではむしろ地租を中心とし農業者を偏重する現行法に対して、商工業者の権利を拡大することを重視し、「地租10円以上又ハ所得税ヲ納ムルモノ」と修正した。つまり所得税を納める者は300円以上の所得を生み出す資本を待っているわけであり、地租10円以上の資産と均衡し得るというわけであった。これに対して本会議では、戦争による日本の膨張に伴って所得税が増税され免税点が引き下げられて行けば、俸給生活者にも権利が拡大されて行くことになり、それとの均衡を考えれば、農業者のために「地租5円以上」にまで選挙権を拡大して置くべきだとの意見が出されている。そしてこうした論点は、その後第14議会(会期明治32・11〜33・2)で政府提出案が成立するまで持ち越されていった。

  第8議会では、議員提出の府県制・郡制改正案も衆議院で可決されているが(貴族院で不成立)、その背景にはこの制度が公布後5年もたつのに、この時点で施行されていたのは、10県にすぎないという事情も関わっていた。その原因は郡制施行のためにまず必要となる郡の分合が難航したためであり、新しい郡が成立しなければ、「複選制」のために府県制も施行できないということになっていた。政府は第1、第2議会に3府29県にわたる郡分合法案を提出したがいずれも審議未了に終わると、以後しばらくは方針を練り直すとの態度に転じ、ようやく第9議会(会期明治28・12〜29・3)に至って、府県ごとに単行の郡廃置法案を提出、成立させるという有様であった。茨城県もこの中に含まれており、明治29年7月に郡制が、同10月に府県制が施行されている。

  このような状況の中で、第8議会に議員より提出された改正案は、複選制および郡の大地主選挙制を廃止するというものであり、ここでは成立しなかったものの、第13議会(会期明治31・12〜32・3)では政府案として、この問題が実現されている。この時の首相は山県有朋であり、彼は自らの指導で造り上げた複選制と大地主選挙制をさして実施もしないうちに、自ら葬る役割を果たすことになった。ここでは、市制町村制がつくりだした「公民」を府県制をもふくめた地方制度全体の直接的な基礎にするべきだという議論が大勢を制したわけであるが、その反面で等級選挙制の問題がほとんど取り上げられていないことも特徴的なことであった。

  山県の作った地方選挙制度のうちでは、等級選挙制が最も長命であり、町村制では大正10年に原則として廃止(市は2級に改正)されるが、市制では大正15年に地方にも普通選挙制が採用されるまで続いている。しかし等級選挙制が何故他の制度よりも長命であり、どのような社会的影響を果たしたのかという問題になると、史料の不足もあって、まだ十分解明されているとはいえない。
(京都大学教授)