『近代日本のアジア認識』

1994年3月

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アジア主義とその周辺


 

古屋 哲夫


はじめに
1アジア主義の出発点―日露戦争以前―
2対外発展の条件と方向をめぐって
3第一次大戦と中国認識
4アジアモンロー主義と石井・ランシング協定

5インドへの関心
6文明論・人種論とアジア主義
おわりに



2対外発展の条件と方向をめぐって

 日露戦争の勝利は、日本人の感覚に大きな変化をもたらしたように見える。軍事的勝利への陶酔のなかで、朝鮮や中国に対する優越感はもはや論議するまでもない自明の事柄として、日本の民衆の感覚の中にまで浸透し、蓄積されていったように思われる。すでにこの戦争の後半期、1905年(明治38)1月から7月にかけて、雑誌『日本人』 に7回にわたって連載された(9)田中守平「東亜連邦論」からは、そうした雰囲気を感じ取ることができる。

  ここでの「東亜連邦」は、日・清・韓の「東亜三国を連邦制度となし、我が陛下を推して連邦の首長と仰ぎ奉る」 という具体的内容の乏しい単純な構想であり、従って、連邦の内容よりも発想の根拠のほうが問題となる。この論文は、帝国主義の発展という観点から世界の動向と日本の問題を探ることを主眼としたものであるが、そこから「東亜連邦論」が導かれてくるのは、2つの論拠によるものであった。

  まず第一には、一方で「清韓両国は将来永遠に独自の力を以て独立を保持する事は到底望み得」ないとして、朝鮮 ・中国の独立能力を否認するとともに、他方では、「日本帝国天職の第一は、東亜列国の土地人民を開発啓導し飽くまで人道の擁護者となり、平和の担保者となりて、東西両洋の文明を一丸」とすることにある(10)として、日本の指導的地位を独断的に提示する点である。こうした枠組みで、東アジアを捉えようとする企ては、それ以前から存在するものではあるが、日露開戦以来の軍事力を軸とした日本の朝鮮支配の進展を背景として強化され、以後民衆レベルまで浸透していったとみてよいであろう。

  そして第二には、この日本の指導性の問題を「東亜連盟」に導くものとして、西洋文明の圧迫といったこれまでの捉え方ではなく、移民排撃として現れてくるような「人種的対立」を取り上げている点である。つまり人ロの増大しつつある日本人の発展の場を、「異人種としての排撃」を受ける白人支配の国を避けて、同じ黄色人種の東亜に確保しようというわけであり、次のように述べられている(11)

 

 日本支那及び朝鮮の現状に就て之を視るも、将来現状の儘にて、各自独立を保持し得ること到底至難なるに、加へて白人諸国より異人種として排斥さるヽの事実あるに於ては、畢竟東洋諸国は東洋諸国のみを以て連盟し、黄人種自身の力を以て自安の策を講ず可し。白人諸国の同情に依頼し、若くは其力を籍りて以て晏きを計らんとするが如きは、決して策の得たるものにあらず。

 アメリカに於ける日本人移民排斥運動は、1900年頃から組織的なものになったといわれるが(12)、この論文の翌年1906年には、サンフランシスコで日本人学童隔離問題がおこり、以後いわゆる「排日土地法」問題など、長く日本人の感情に衝撃を与え続けることになる。そしてそうした状況のもとで、白人支配とその横暴を、「白閥(13)」「白禍(14)」とする捉え方も生まれた。しかし、日露戦争に勝利したからといって、すぐさまそうした人種的立場から欧米に対決しようと言う主張が叫ばれたわけではなかった。

  例えば、積極的帝国主義の立場を取り、白閥打破を唱えた徳富蘇峰にしても、「所謂る白閥打破とは、彼等と平等界に共同生活を楽しむの順序のみ」と述べて、その主張が白人を敵視するものでも、憎悪するものでもなく、白人と対等の地位を求めているに過ぎないとし、さらに次のように続けている(15)

 

 誤解する勿れ、吾人は他の有色人種を統率して、白人種と争ふにあらず。有体に言へば、我が大和民族は、我が運命を開拓するを是れ急なりとす。知らず、何の遑ありて、他の弱き連中の世話を焼かんや(中略)。吾人はロ惜しながら、亜細亜の代表者となりて、自皙人種と抗衡するの野心なし。


 日露戦後の現実においても、第二回日英同盟、桂・タフト協定(日米)、日仏協約、日露協約などにより、白人列強の了解を取り付けながら、韓国併合を実現しているのであり、さきの「東亜連盟論」のように、そのうえさらに中国を取り込むことなど、戦勝の陶酔から覚めてみれば、はかない幻と消えていた。そして日露戦後には、これまでの目標であった朝鮮支配を実現したという満足感が広がると同時に、次の発展目標をどこに求めるのかという問題が関心を呼ぶこととなった。

  その点でまず問題を提起したのは、「北守南進論」であり、その主張は列強との協調の観点から、北方の満洲方面におけるこれ以上の権益拡大を望まず、発展の場を南清・南洋など南方に求めるべきだとするものであった。

  例えばその「北守」について、戦争終結の翌年、雑誌『中央公論』の1906年6月号の杜論「戦後の対露満韓政策」は、戦後も満洲では日露の勢力が南北に対抗しているとして、次のように述べている。

 

 然れども求めて我が独力を以て露国と拮抗するは明智に非ず、寧ろ之を列国に開放し、列国の利害関係を親密ならしむるに如かず、然るときは露国若し南下して満洲を侵略せんとせば、啻だに日本のみならず、列国とも抗争せざるに至れば也、斯の如きは露国の寧ろ避くべき所なれば也。且つ列国の智識と資本とを注入せば、満洲の開発極めて便宜を得て、我が日本及び列国の利益たるに止まらず、又実に満洲土人の幸ひにして清国の福也、否世界人類の利益なるべし。


 こうした列国と協調した開放開発構想は、軍事力を中核とした抑圧的植民地体制に対する批判を内包するものであり、北方の朝鮮・満洲に対する政治的軍事的支配の強化を押し止め、発展方向を南方に転換させようという形に展開 していったと見られる。同じ『中央公論』の韓国併合の直前、1910年5月号の杜論「北守南進論」を見よう。

 

 対韓の要は漸進にあり、漸次仁義の心を推して以て之を統治すべし、急進して自ら煩累を招くが如き、吾人の断じて取らざる所也、我全力を傾注すべきは、寧ろ南方にあらずや、北方は略々現状維持、少くも漸次主義にして足る(中略)。

  我れ満洲に利権を立つるに鋭意し、進んで止まる所莫くんば、竟に露国と衝突せざるを得ざるべし(中略)、之を宿敵として、結んで釋けざる怨みを構ふるが如きは、決して我国百年の大計にあらず、宜しく之と相同盟して、以て北方の平和を策し、全力を南方に注ぐべし、時に露国と相角するがため、平素百万の大兵を養ふが如きは、幾んど思はざるの甚だしき也(中略)。

  我南進の目的は全く利源の開発に在り、移民の奨励にあり、(中略)南進は主として海洋に伸びる所以なり(中略)、北方は暫く現状維持にて可也、寧ろ海国として立てる帝国の本分としては、大に海洋に伸ぶるを自然とすべき也。


 この杜論とほぼ同じ時期に出版された竹越与三郎の『南国記』も、「南人の北進は不自然」「島国にして大陸に力を用ゆるの不利」「我将来は南に在り」として、南進論を掲げて好評を得たが、また同時に、オランダのジャワ統治と比較して、次のように対朝鮮政策を批判していた(16)

 

 今日朝鮮問題に関して朝野相争ふと雖も、其実は性急短慮、日本人を以て一切の政治を行はんとする一点に於ては、朝野同主義にして一人の異論なしと云ふも不可ならず。然れども二三千年の歴史ある国民豈に一朝にして同化し得べきものならんや。之を同化せんとするものあらば、其転覆や期して待つべし。余はかゝる夢想に近き空論を戦はす前に先ず朝鮮が真に平和に治められんことを望まざるを得ず。之を治むるの道如何と問はゞまた宜しく和蘭人が瓜哇に成功したるが如く、両班以下の土官上司の力を外にせず、与ふるに巨利を以てして其欲を遂げしめ、授くるに名誉を以てして、其虚栄心を満たし、彼等をして喜んで我用を為さしむべきのみ。


 アジアを南北に分けて、日本の発展方向の得失を論ずるというこうした発想が支配的となったならば、アジア主義などの主張が生まれる余地はなかったであろう。しかし南方への発展は、国民の関心を満蒙から転換させるだけの実績を作り出すことが出来なかったし、また日露戦争の戦果としての在満権益を手放してもよいという主張にも到達することが出来なかった。

  北守南進論への批判は、まず一般的に、アジアを南北に分けるという発想そのものを否定するという形をとったが、 その力点は「北守」という部分への攻撃に置かれていた。例えば戸水寛人は、『中央公論』1910年11月号に 「北守南進論を駁す」なる論稿を寄せて、「我日本帝国は北進南進東進西進を実行せねばならぬと思ふ。国は伸び得べき時に於て伸び得る所に向て伸びるより外に伸びるの道がない。(中略)北進の便利なる時は北進し、南進の便利なる時は南進するがよい」と主張する。しかしこの論稿が力説しているのは、日本にとっての朝鮮・満洲の重要性に他ならなかった。彼は、「北守南進論者が朝鮮合併を祝して居る」のは「滑稽」だとした上で次のように述べている。

 

 日本人は国防上どうしても朝鮮を手に入れねばならぬ。而して日本人が朝鮮を持て居る以上は満洲に於ても多少の勢力を扶植する必要がある。何故なれば古来朝鮮は満洲の方面から侵略せられた。満洲に勢力なくして朝鮮人を安心せしむることは不可能である。斯くの如き事情に基いて日露戦争は開かれ、而して日本は遂に其目的を達したのである。

  處が、日本は満洲に於て鉄道を所有して居る。そして其土地は即ち支那の領土であるとすれば日本と支那との衝突は到底免れざる所である。今日に於ては日本も平和を望み、支那も亦平和を望んで居るが、かくの如き状態は決して長く続くものでない。日本が強くなれば南満洲を併はすに極って居る。支那が強くなれば鉄道を取り上ぐるに極って居る。(中略)現今支那人は利権回収熱に犯されて居る。此回収熱は必ず久しく継続するであらう。


 つまり、北守南進論の言うような、北方における「現状維持」や「漸進主義」は成り立たないというわけであるが、 ここでは列強との対立よりも、中国の利権回収運動との衝突を必然とみている点に注目しておきたい。日露戦争後の在満権益に関する交渉の難航は、中国側の抵抗を強く印象づけると同時に、満鉄にしろ関東州にしろ、いずれも期限付きの利権であることを意識させた。そして中国情勢が不安定となるに従って、北守南進論への攻撃もエスカレートすることになるのであった。

  辛亥革命によって清朝が倒れ、中華民国が成立した翌1913(大正2)年、徳富蘇峰は「北守論の結果は、満蒙放棄論に止まらずして、延いて朝鮮放棄論たらんことを虞る(17)」と述べているが、この対立を、同じ時期の東京朝日新聞社説(大正2・1・16「非帝国主義」)は、満蒙経略主義対北捨南進主義と捉え直しており、そのいずれをも「増加する人口の放出地を求め」て「帝国主義を夢るもの」としたうえで、次のように評している。

 

 吾人を以て之を見るに、北捨南進論は未だ軽々しく之を賛成する能はざるなり。今日に於て満洲に於ける日本の既得権を放棄せんとするに対して、陸海軍人の間に、両度の大戦役に灑ぎたる碧血を如何せんと叫ぶ者あるは、誠に傾聴すべき声と謂はざる可らず。さりとて大陸の発展に関して、内国力の如何をも察せず、外欧州列国の意嚮をも顧みず、一虎猛進主義を執るが如きは、吾人の賛成する能はざる処なり。吾人は飽くまでも日本帝国が日英同盟と日露協商を尊重して、極めて慎重なる態度を執るべき必要あるを信ずる者なり。


 ここでは、帝国主義的膨脹を原理的に排除しているのではなく、日本の国力と列強の動向への配慮を求めているに過ぎないのであり、従ってこうした条件が変われば、この論者が膨脹主義賛成に転ずることは十分予想し得るところであった。そしてそうした転換を媒介するものとして、この時期に日本の使命を東西文明の調和・融合に求めようとする動きが拡大してきていることに注目しておく必要があろう。もちろん、前述の「東亜連邦論」のなかに「東西両洋の文明を一丸」とするという一節がみられるように、そうした主張は言葉の上ではすでに珍しいものではなくなっているが、しかしこの時期には、大衆的人気をもつ大隈重信が、その内容を深めて「文明運動」と呼ばれたような活動を展開し、大きな影響力をもったのであった。

  当時の大隈は、1907年憲政本党総理を辞任して、早稲田大学統長の座に就いているが、翌年には自ら会長とな って大日本文明協会を設立、10年には自著『国民読本』を刊行、11年には雑誌『大日本』を創刊するなど、講演に出版に精力的な活動を開始した。そして彼の狙いは、次のような使命感を国民の間に普及させようとする点にあった(18)

 

 我国は既に東洋の文明を代表して、西洋の文明を東洋に紹介するの地位に立てり。能く東西の文明を調和し、更に世界の文明を化醇し、人類の平和を来し、人道の完美を図るは、誠にわが国民の理想なり、我日本帝国の天職なり。


 ここには、「東へ東へと来た文明と西へ西へと往つた文明とは、初めて我国に於て落合」って「世界の文明」になる(19)という理解が前提とされているが、その実質からいえば野村浩一の指摘するように、「世界の文明」になったのは「西洋文明」に他ならず、日本は「東洋文明の代表者ではな」く、「東洋における西洋文明の代表者であるにすぎない(20)」ということになろう。

  しかしここでの問題は、ここから「如何なる人種も相互ひに模倣し得べきものであり、如何なる文明も相互ひに調和し能ふものである」、「自家の文明を以て、これを世界の文明に調和せしむるの術を過たざるものは興り、その然らさるものは滅亡する」として、アジアにおいて世界文明との調和の先駆者となった日本は、他民族に対する指導の責任を負い、それを使命としなければならぬという結論を導き出している点である。例えば、中国が哀頽したのは「世界の文明を無視し、これと調和する事を、怠ったが為である」としたうえで、次のように日本の文明に対する責任を引き出している(21)

 

 日本の如きも、支那の文明を助成し、其国力の増進を計れば、其結果は唯り支那を利するに止まらず、又日本自らをも利する事となるのだ。即ち支那にして其国力を増進せば、東亜に於る動乱の危険を予防する事が出来るのみか、又必ず我商品に対する購買力をも増加し延ては彼我の貿易も発達するのだ。だから之を世界の為よりいふも又我国の為よりいふも、東西に関する旧来の偏狭な思想を打破り、両者の文明を調和して世界の統一を促がすは洵に新日本の天職にして、亦責任である。


 こうしたアジアに対する日本の使命や責任を提起する議論は、同時に、その使命や責任を遂行するのに必要だという理由で、アジアにおける優越した地位や力に対する要求を正当化する方向を辿ることになる。例えば、中国で辛亥革命が成功したのち、1913年11月、雑誌『太陽』は「南進乎北進乎」と題する臨時増刊号を刊行しているが、 ここで北進論者は「日本の勢力(中略)が満洲の地に扶殖さるゝと云ふことは、支那大陸の保全と東洋平和の維持とに大関係がある(中略)畢竟北進の真意義は、言辞は既に言ひ古りたれど、東亜をして東亜人の東亜たらしむると云ふ所に存するのではないか(22)」と述べて、北進についての使命感を吐露している。

  しかし同じ号で、「日本民族が今更アジヤの大陸に民族的大膨脹を為さうとするのは歴史の進路に逆行するやうなものである」「要するに今後日本民族の移住す可き新天地は南米である」として、南進論にくみしている浮田和民 (当時、大日本文明協会編集長)も、「支那が弱国で動もすれば強国の為めに分割されんとする間は、日本がアジヤの大陸に於て優秀なる勢力を保つ必要がある。是れは自国正当の防衛策であって又た極東の平和を維持する所以である」と述べて満蒙権益を擁護している。そして彼が更に、「極東の盟主として支那を保全しアジヤ大陸の平和及び進歩を促すことが今後日本の使命である(23)」という時、その限りでは北進論者と区別し難いといつてよいであろう。

  浮田がここで南進論にくみしているのは、「万一満蒙侵略の方針に出づるならば日米問題の解決は到底不可能である」とみて、対米関係を軸とした列強の動向を顧慮しているからであり、従って第一次大戦の勃発によって、列強との関係が変化すれば、アジアとの関係の捉え方も変化してくる筈であった。

3第一次大戦と中国認識