『近代日本のアジア認識』

1994年3月

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アジア主義とその周辺


 

古屋 哲夫


はじめに
1アジア主義の出発点―日露戦争以前―
2対外発展の条件と方向をめぐって
3第一次大戦と中国認識
4アジアモンロー主義と石井・ランシング協定

5インドへの関心
6文明論・人種論とアジア主義
おわりに



4アジアモンロー主義と石井・ランシング協定

 第一次大戦に日本が参戦した以上、戦争のためアジアをかえりみる余裕のない欧米列強は、アジアの安定のための日本の役割を高く評価するに違いないという思いは、当時の日本人の間に広く浸違していったと思われる。そしてそこから、アジア・モンロー主義の主張が改めて唱えられることにもなった。例えば前述の二十一箇条要求の交渉が始められる以前の段階で、15(大正4)年2月号の『中央公論』杜論「欧州戦局と我日本」のなかには、次のような一 節がみられる。

 

 我日本は何の為めに青島征討の拳に出でしや、日英同盟の情誼に因れりと云へば一言にして蔽ふに似たれども、別語之を解説せば極東に於ける一種のモンロウ主義を実施せんが為めなりと云ふを至当とせん、(中略)我日本は不言にして一種のモンロウ主義を樹立せんとするものに非ずや、(中略)亜細亜以外より如何なる国にても其軍国主義を極東に樹立すべき方略を執ることに極力反対せんとすること是なり。


 しかしこの時期にはまだ、モンロー主義的な発想への批判の方が強かったかもしれない。同じ『中央公論』で田川大吉郎は、「北米のモンロー主義を藉り来って(中略)東洋の事は、東洋人だけにて、之を処理する責任もあり、権利もある筈」だとするような主張は、「北米対南米の歴史的関係と現勢を、日本対支那の歴史的関係と現勢と同一視する」「無理な見方」であるとして反対する(38)。また『太陽』では、浅田江村が反論を展開して言う(39)

 

 吾人は到底モンロー主義といふ如き偏狭なる小天地に没頭する者ではない、亜細亜は必ずしも亜細亜人の亜細亜ではない、従来に於ても現在に於ても然るが如く将来に於ても然るべきである。今に至て漫然モンロー主義を唱ふるも実は空想に過ぎない。(中略)東亜の最大幸福は必ずしも亜細亜人の建設を条件としない。苟くも此大目的を違するに足らば何人と協戮するも毫も妨げない、英、米、露、佛、其他列国にして吾人と志を同うする者は皆吾人の協戮者である。


 さらに『外交時報』をみると、蜷川新は「亜細亜のモンロー主義なる主張は、痴人の夢に髣髴し(中略)頼まれもせぬ亜細亜人の為めに、亜細亜は亜細亜人の亜細亜也と高唱し、従来の友邦たる欧州列強を敵に廻はして争ふが如きは不利にして不理なり(40)」とし、立作太郎は、亜細亜モンロー主義とか東亜モンロー主義などを唱えて「欧米の勢力東亜に入るべからずとの高札を掲ぐるには、時期あまりに遅く、実情あまりに非なるのである(41)」と警告していた。つまり中国さえも十分に掌握し得ないという状況の下で、アジア・モンロー主義などを持ち出して、欧米と対立するのは愚かで非現実的なことだというのが、この段階での一般的な受け止め方であったと思われる。

  従って北一輝か、1916年の4月から5月にかけて執筆した『支那革命外史』の後半部において、革命された中国と結んで英・露と対決するという構想を「亜細亜モンロー主義」に取り入れようとしている(42)のは、当時としては特異な主張であったといえよう。

  しかし、にもかかわらず、この戦争という機会にアジアで優越した地位を得たいという欲求は広く存在していたのであり、先には「亜細亜の代表者となりて、白皙人種と抗衡するの野心なし」(本書56頁参照)と述べていた徳富蘇峰が、16年10月刊行の『大正の青年と帝国の前途』に於いて、「亜細亜モンロー主義」を唱え始めるのも、こうした欲求の表出として理解することができる。彼は「亜細亜モンロー主義を以て、我が帝国の使命と為す」として次のように述べている(43)

 

 亜細亜モンロー主義とは、亜細亜の事は、亜細亜人によりて、之を処理するの主義也。亜細亜人と云うも、日本国民以外には、差寄り此の任務に膺るへき資格なしとせは、亜細亜モンロー主義は即ち日本人によりて、亜細亜を処理するの主義也。誤解する勿れ、吾人は亜細亜より白人を駆逐するか如き、偏狭なる意見を有するものにあらす。但た白人の厄介にならぬ迄の事也、自問の欧風を跋扈を蕩掃する迄の事也。


 ここでも蘇峰は、北一輝のような闘争主義を極力否定し、日本人の使命は「東西融和の仲介者」となることであり、言い換えれば、「東洋人の急先鋒となりて白人を退治するにあらすして、白人に向て、東洋を理解せしめ(44)」ることだと強調する。つまりここでの基本的な姿勢は、欧米に対して、日本の主導する亜細亜モンロー主義に理解を示すことを求める点にあったとみてよいであろう。『大正の青年と帝国の前途』は毎日増刷が続くようなベストセラーになったが、欧米からの反応が明らかになるまでは、アジア・モンロー主義の同調者はすぐには現れてはこなかった。

  こうした状況に大きな変化をもたらしたのは、1917年8月に渡米した石井菊次郎特派大使(子爵)が、米国務長官ランシングとの間に、中国に関する交換公文(通称、石井ランシング協定)を成立させるという出来事であった。

  この年1月末、ドイツが2月1日より無制限潜水艦戦に入ることを宣言すると、アメリカは2月3日ドイツとの国交を断絶し、4月6日宣戦を布告して、遂に第一次大戦に参戦することになった。こうした事態の変化に対して、戦時協力体制を強化するためにアメリカの希望に応じて日本から特使を派遣したものであった。石井特使との交渉に於いて、アメリカ側はまず中国に於ける勢力範囲の撤廃を提議したが日本側が応ぜず、ついで門戸開放の問題が取り上げられたのに対して、石井は日本の特殊利益を認めることを求め、ランシングとの間で、交換公文の作成が進められることになった。この段階で石井特使はニューヨークを訪れ、10月29日夜の市長主催の歓迎晩餐会で演説したが、 その内容は大きな反響を呼ぶこととなった。10月8日付『東京朝日新聞』は、

 

 紐育の全新聞は此演説の全文を掲げ、其の多数は雑報欄に於て石井子の演説を以て、支那独立の保護者たる役目を行ふために日本が極東にモンロー主義の公式宣言を為したるものと認め居れり。


 と報じた。そして翌日の紙面には「石井特使の演説(積極的モンロー主義)」と題する社説を掲げ、その「支那に関 して宣言せる所は純然たるモンロー主義に相達なし」としたうえで、次のように述べている。

 

 石井特使の演説中には、支那の発達、平和、善政より騒乱に至るまで皆隣国としてその影響を披るの故を以て、是等は我国に取りて自衛問題なりと為し、更に言を極めて支那が永久に、外間の干渉を受くることなきの保証をさへ声明せり。此の如きは所謂米国のモンロー主義に、一歩を進めたるものにして、積極的モンロー主義とも称するを得ん。


 さらに、若しこのように、隣国の状態が我国の自衛問題だとすれば、「多くの場合に於て、我国は支那の内政にも 政変にも、干与せざるべからざるの必要に逢遭」し、内政干渉も必要になると捉え、こうした演説が「米英の言論界」に「歓迎」されたのは、ひとつの事件だと感じられたのであった。

  石井・ランシング間の交換公文は、字句の調整を経て11月2日に調印され7日に公表されたが、その中心部分は次のようなものであった(45)

 

 合衆国及日本国両政府ハ領土相近接スル国家ノ間ニハ特殊ノ関係ヲ生スルコトヲ承認ス。従テ合衆国政府ハ日本国カ支那ニ於テ特殊ノ利益ヲ有スルコトヲ承認ス。日本ノ所領ニ接壌セル地方ニ於テ殊ニ然リトス。

 
 この部分は日本によるモンロー主義の承認とも理解された。立作太郎が、「領土相近接する国家の間には特殊の関係を生じ、従って特殊の利益が存する」というのは「米国の国是を以て称せらるゝモンロー主義の根抵」であり、新協定は「米国が米大陸に於て自己に関して在来認め来った主義を、亜細亜大陸に於て我国に関して認むるに至った(46)」 としているのはその一例といえよう。

  しかしこの米国が認めた、日本の中国に於ける「特殊ノ利益」とは何かということになると、はなはだ曖昧であっ た。その内容について、協定は何も規定しなかったばかりでなく、前記の部分に続けて、日米両国は中国の独立・領土保全・門戸開放・機会均等の主義を支持するとともに、いずれの国がそれに反する「特殊ノ権利又ハ特典」を獲得することにも反対する旨を明記しているのである。

  若し協定が完全な内容を持つとすれば、吉野作造のいうように、その文面の解釈からいって、機会均等主義に反しない「特殊利益」とは、「断じて経済的のものにあらず、寧ろ政治的のものたるべき事丈けは疑を容れない(47)」ということにもなろう。しかし実際には、米田実が指摘した(48)ように、その点について日米間には、具体的了解は成立していなかった。   

 

 要するに特殊的利益関係なる語と門戸開放、機会均等なる語とは相衝突し矛盾するものである。独立若しくは領土保全なる語とも相衝突し矛盾す可き分子を含有して居るのである。従って之を両立せしむる為めには、相互に制限せしめねばならぬ、少くとも何処にか相犯す無き境界線が出来なくてはならぬ。(中略)今回の協定にはこの境界線の了解があるかと言うに遺憾乍ら出来て居ないのである。(中略)換言すれば、共同宣言は、相犯す無き事のみを声明して、相犯す無き境界線其者につきては、何等の了解をも成立せしめて居ないのである。


 この協定が、米田のいうように「欠点だらけの空箱のやうなもの」であることは、やがてランシングが1919年 8月11日、米上院外交委員会において、ここにいう「支那に於ける日本の特殊利益」なるものは、「其の性質政治的のものにあらず」「政治的意義を含まざるもの」と答弁した(49)ことなどによって明らかになってゆくが、しかし当初 はやはり、アメリカによるアジア・モンロー主義の承認として受け取られることが多かったといえよう。

  例えば、河田嗣郎は1918年2月の『太陽』(24巻2号)に寄せた「経済的モンロー主義」と題する論稿を次のように書き出している。

 

 東洋モンロー主義と云ふ詞は近時我国に於ける対外的国是、政策を標象するものとなって来た。其の意味は言ふ迄もなく東洋に於ける我国の優越なる勢力を列国をして承認せしめ、又我国の特殊利益を尊重せしめ、東洋に関する問題に関しては常に我国を主位に置き、原則として我国の力に依りて之を解決し、つまり東洋をして東洋人の東洋たらしめ、我国を以て其の指導者と為し又保護者たらしむると云ふの謂に外ならぬ。(中略)列国も或る程度及び或る範囲に於ては、此の原則を承認するに敢て異議なきの態度を示す迄になって来た。


  この論稿の主眼は、元来モンロー主義は「防禦的性質のもの」であり、「侵略的態度を以て東洋の主人たらんと企つるが如き事」はモンロー主義に反するとしながらも、「経済的国家主義」をその中心に据えようとしていることである。すなわち「今次の大戦以来諸国は経済上に於ける国家主義の優越を認めて、露骨に之を行はん」としているとし、日本が「列国の経済帝国主義の中に交りて、能く国家主義的基礎を作り、経済的発展を為し得る道はたゞ之れ東洋を範囲とする経済的モンロー主義を布く以外に存せざることゝなる」というのである。具体的には、東洋を欧米の経済力から独立した、日本の指導下にある「一大自給領域」たらしめ、「東洋に於ける生産及び市場は之を東洋人に より支配」するというのであった。

  そしてそのためには、自給領域の建設がそれを構成する国々にも「大いなる利益」のあるようにし、同時に「此等の諸国及び其の人民に対する我が国家及び国民の従来の態度を大に改善せねばならぬ」としてアジア諸国への配慮も 示されているが、しかしその中核には、総力戦体制を作り出した列国の経済帝国主義に対抗するための、日本の経済的国家主義の発展という観点がはめ込まれているという構造になっていた。そしてその観点は、大戦末期のシベリア出兵論に接続する可能性を持つものでもあった。

  1918年11月のロシア革命によって成立したソヴィエト政府は、翌月からドイツ・オーストリアとの単独講和交渉に入り、19年3月にブレスト・リトウスク講和条約が調印された。この間日本では、シベリア出兵論が様々な形で主張されるようになったが、その発想の一つは、アジア・モンロー主義のなかにシベリアを取り込もうとするものであった。

 例えば、千賀鶴太郎の「日本西伯利亜出兵論」(『太陽』24巻4号、18年4月)は、「日本が将来一強国として世界 に重きを成さんと欲せば、一朝事有るに際しては敢然起ちて欧米の一強国と戦を交ふるも辞せないだけの地歩を占めなければ成らぬ」とし、そのためには、中国とシベリアの物資を確保しなければならないというのである。  

 

 此の見地からして、日本は如何なる大難を排しても露西亜或は分裂して独立した西伯利亜政府と親善にし、進みて攻守同盟の方針を取る必要がある。それから又支那とは攻守同盟は勿論であるが更に進んで日本と連邦制度にする位までに行かねば成らぬ。さういう風にして、極東は一の大きな団体と成って欧米諸国に対抗し得る地位が確立すれば、茲に始めて日本が一強国として欧米に重きを成すことが出来るのである。


  ここで極東を「大きな団体」にするというのは、さきの河田の「一大自給領域」を政治的にも強化するということに他ならないであろう。

  しかしこうした欧米との経済的対抗を基礎に置くアジア主義が、一般的になったというわけではなかった。むしろ大戦終結後には、世界平和への流れが強まるという見方も広く支持されており、アジア主義を世界平和の問題のなかに位置付けようとする試みも現れてきた。まず、沢柳政太郎の「亜細亜主義と日本の使命」(『太陽』24巻8号、18 年6月)をみると、大戦後には「人道主義」にもとずく世界平和を実現しなければならないとし、「人道主義の実現の為めには、今日従属的地位に立って居る民族を、是を服従させて居る民族の威圧の下から開放」し、「世界の有らゆる民族をして同一の地位に立たしむることが必要である」とする。ここで沢柳は「アジア民族」なる概念を持ち出して、「民族主義は是れをアジアに適用すればアジア主義となり」「我々アジア人が人道主義を融合するには、アジア主義を通じてなすことが最も順当のこと」であり、「アジア主義は一の民族主義として、国家主義と人道主義との中間に其の存在を保つべきもの」だというのである。

 ここでは従属民族を如何にして開放するのか明らかでなく、また「アジア民族」という概念でアジア内部の対立が捨象されているが、この論文の力点は、世界の問題の前に、アジアの問題をアジア人で解決して置かなければならないという段階的把握と、「アジア主義は欧米人が公正なる精神と手段とを以て、アジアに活動せんとするのを防止するものではない」という排他的・対決的態度の否定とを両立させようとする点に置かれていたといえよう。

  そしてこの世界平和を支えるアジア主義という立場を、より鮮明に打ち出しだのが、浮田和民の「新亜細亜主義 (東洋モンロー主義の新解釈)」(『太陽』24巻9号、18年7月)であった。ここで浮田はまず、前述した徳富蘇峰の「亜椙亜モンロー主義は即ち日本人によりて、亜細亜を処理するの主義也」(本書73頁)という主張を批判し、人種的観点を排除すべきだとする。つまり「亜細亜に定住する几ての民族を人種の異同に拘らず亜細亜人なりと解釈」し、それを基礎として「新亜細亜主義」を打ち立てようというわけであった。

  言い換えれば、「新亜細亜主義の第一原則は現状維持」であり、欧米諸国による新たなる植民地化には反対するが、「欧米人の勢力を亜細亜以外に駆逐し日本人が之に代りて亜紀亜を処理す可しといふのではない」ということになる。それは欧米との対抗を目指さないアジア主義であり、その目的は世界的平和機構を支えるものとしての地域的平和機構の創出を志向していた。浮田は「直ちに世界的平和大同盟の現出を望むは無理なる註文」であるとし、「世界的平和同盟の成立する前に先ず欧羅巴、亜米利加及び亜細亜の三大陸に部分的平和同盟が成立しなければならぬ」とするのであった。

  それは浮田が、すでにこの年(1918年)1月8日に発表されたいわゆるウイルソンの一四か条で提起されている国際連盟が実際に組織されるとは予想していなかったことを示している。彼は世界的機構としてはとりあえず「ハーグ平和会議をして有効ならしむる」ことを考え、「モンロー主義を国際法の一原則と認め」て、各大陸が自治的に問題を処理するという在り方を想定していた。すなわち、「亜細亜に限りたる問題は今後日本が主唱して汎亜細亜会議を問催し、亜米利加も亜細亜も各々自己内部の問題に関しては自主独立を確守し而して各大陸に跨がる共通問題を決する場合にはハーグ会議に提出」するというわけであった。

  こうした考え方は、ドイツの敗北によって戦争が終結し(18年11月11日休戦条約調印)、事態が講和会議の開催に向かって動き始め、そこで国際連盟の問題が取り上げられることが確実になった段階でも、なお一部の人々には抱かれていた。例えば、副島義一は「支那問題を対象とする恒久平和の要件」(『太陽』25巻1号、19年1月)におい て、「永久平和の確立にも種々の階級がある」「世界の平和を計るには先ず其の局部的の平和或いは局部中の各国内部の平和を計らなければならない」とし、「国際連盟を以て世界の平和を確立する階段として日支連盟を追って東亜の平和を確立する事が必要である」と主張する。

  それは国際連盟のなかに、東亜モンロー主義を組み込もうとするものであり、「連合国間の同盟又は特殊協商は国際連盟に反する」との前年9月の米大統領ウイルソンの演説に対して、「亜米利加自身はモンロー主義を保持する事を妨げざるに東亜に於ける日支連盟は何故平和に害があるか」と反発している。さら同様のものとして、田中萃一郎 の「この際実行し得可き国際連盟案としては或いは世界を三分して互いに、モンロー主義を実行するの外は無いかも知らぬ」といった意見(50)をあげることもできる。

  これらの言説は、第一次大戦下でアジア・モンロー主義が欧米にも受け入れられたと考え、それを戦後にも引き継いで行きたいという期待が広く存在していたことを示すものであった。しかし現実にパリ講和条約の一部として成立 した国際連盟規約は、原則としてはこうした地域主義を否定すると同時に、例外として「本規約ハ……モンロー主義 ノ如キー定ノ地誠ニ関スル了解ニシテ平和ノ確保ヲ目的トスルモノノ効力ニ何等ノ影響ナキモノトス(51)」との規定(第二十一条)を設けていた。

  これに対しては、日本側からは「亜米利加に対してモンロー主義を許す以上は、東洋に対してもモンロー主義と同一のものを許さねば成らぬと主張する事の出来なかった」のは「日本委員の失敗」である(52)とか、「国際連盟は……人種平等の問題を排斥して非常な不完全なものとなったばかりでなく、亜米利加のモンロー主義を加味するに至って殆んど其の本質を失って了った(53)」といった強い反発の声があげられている。

  しかしアメリカは、この規定にも拘らず、連盟規約をふくむが故にパリ講和条約を批准せず、国際連盟への参加を 拒否した。従ってアメリカのモンロー主義に対抗して、連盟にアジア・モンロー主義を要求しようという主張の根拠は失われたが、さらにアメリカは1921〜2年のワシントン会議を主導して、中国に関する九か国条約を成立させることで、アジア・モンロー主義を否認する立場を明らかにしたのであった。23年4月の石井・ランシング協定廃棄は、その必然の結果であったといえよう。

  こうした情勢に加えて、中国では、パリ講和会議の山東問題処理に反対する五四運動以来、排日の嵐が吹き荒れており、ここでも存立の基礎を失ったアジア・モンロー主義は、第一次大戦の終結と共に論壇の表面からは姿を消して行った。しかしそれは、日本人の思考のなかに沈澱し、状
況が変化すれば再び呼び出されてくることになるのであった。
5インドへの関心