『近代日本のアジア認識』

1994年3月

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アジア主義とその周辺


 

古屋 哲夫


はじめに
1アジア主義の出発点―日露戦争以前―
2対外発展の条件と方向をめぐって
3第一次大戦と中国認識
4アジアモンロー主義と石井・ランシング協定

5インドへの関心
6文明論・人種論とアジア主義
おわりに



5インドへの関心

 第一次大戦の時期になって、「アジア」という言葉が多用されるようになると共に、その視野も、明治期には朝鮮・中国を主たる対象としていたのに対して、インドからさらに西方へと広げられていった。そしてその契機はまず、大戦下において3つの側面から、インドヘの関心が強まったことであった。

  第一は日英同盟という側面であり、1905年に改定された同盟条約には、「東亜及印度ノ地誠ニ於ケル全局ノ平和ヲ確保スルコト」「東亜及印度ノ地誠ニ於ケル両締盟国ノ領土権ヲ保持シ竝該地域ニ於ケル両締盟国ノ特殊利益ヲ 防護スルコト(54)」という目的が掲げられ、情勢によっては、日本がインドに出兵しなくてはならないという事態が考え られていた。例えば1914年11月初旬、日本軍が青島を占領した頃、戦争がイギリスとトルコとの間にも拡大すると、東京朝日新聞は11月11日「印度国境と日本」と題する社説を掲げて次のように述べている。

 

 若し英国が多数の印度兵を欧州に送致したる後に於て、万一回教徒が外より印度に侵入するが如きことある場合には、英国は何時にても我援助を希望するを得べきなり。既に膠州湾に於ける独逸の勢力を駆逐せんが為めに日英同盟条約の規定に忠実なりし我国は、印度に対しても決して其の条約上の義務を回避する者にあらず。


 しかし実際にはこのような事態が起こることはなかったため、日本人のインドヘの関心を高めたのは、こうした日英同盟による義務という問題よりもむしろ、戦争下のインドにおける反英運動の発展であり、この問題を第二の側面としてあげることが出来る。

  インドにおける反英運動の出発点は、1905年から8年にかけてインド国民会議派が指導したベンガル分割反対運動であるが、日本ではこうした運動の発生を促したのは、日露戦争に於ける日本の勝利だとする見方が一般的であった。1912年2月の『太陽』臨時増刊「革命及革命的運動」(18巻3号)は、佐藤辰郎「印度に於ける排英運動」を掲載しているが、そこでも「日露戦争の結果は印度人の独立心を刺激すること非常のものあり、印度に排英独立の思想勃興したりと云ふは、実に日露戦争以後に属す、(中略)例へば1905年にはベンガルに印度国民大会を開き、年少気鋭の印度青年は熾に印度の独立を演説せり」と述べられている。

  さらにその一年後の横山又次郎「不平満々たる印度3億の民衆」(『太陽』19巻3号、13年3月)は、イギリスのインド統治の様々な側面とそれに対するインド人の不満を記した後に、人種的観点からいえば、インド問題は「亜細亜人種と欧羅巴人種の大格闘」にほかならないとして次のように続ける。

 

 して観ると、天下別け目の戦に於ては、吾々は支那人や、印度人を友としなければならぬ、すると支那人の秩序的進歩は非常に望ましいことである。又印度人の発展伸張も、歓迎したい事である。斯かる次第であるから、若し印度問題が、久しからずして爆発したなら、其の時こそ我々は困難な羽目に陥るのである。即ち同盟国をも援けたければ、印度人にも同情したいといふ事になる。良し同情しないまでも、情に於て、印度人圧迫の兵が果して、我が邦から出され得るものであらうか、是は大なる疑問である。


 この文章が書かれた時にはまだ可能性の問題に過ぎなかったこうした事態が、その数か月後に始められた第一次大戦の下では、現実のものになることになった。まず1915年2月には、シンガポール英軍基地のインド人兵士が反乱を起こすと、現地の日本人がその鎮圧に参加する事件(55)が起こっている。2月18日の東京朝日新聞は「在留日本人約100名は義勇兵として鎮圧に参加したり、邦人には1名の被害者無きも万一を慮り、老幼婦女子は港内深く避難せしめつゝあり」と報じた。その詳細については、後に末廣一雄が紹介した「西暹屋ブケット市 阪部一郎」の手紙(大正5年2月2日付)が次のように述べている(56)

 

 当夜総督邸より藤井領事へ度々懇請あり、領事は其意を諒とし在留民有志者と計り、義勇軍組織を承諾す、此交渉翌日夜に亙る。義勇軍は某予備大尉之を指揮し、百八十余名と註せらる、而して日当三弗を給付せらる。一面我碇泊軍艦より陸戦隊○○○上陸、兵舎背面丘陵より先登に突入し、義勇軍之に続く、依て平定す。印度兵は日本軍に大部分投降し、義勇軍に負傷なし。


 これは来廣が先に、この事件について「彼の新嘉坡の義勇兵なるものは、一体何等の名分に依って土人と戦ったのであるか、元来他国の居留民が一国の内乱に関与すると云ふことは不法の甚しいことではなからうか、(中略)英人は日本人をして印度人の歓心を失なはしめる百般の工夫を講じて居る、新嘉坡の在留日本人は何故に印度人の歓心を失ふやうな仕事をしなければならなかったのか」と述べた文章(57)に同感して投ぜられた手紙であった。そしてこの手紙は続けて、義勇兵事件が現地人の感情に影響を与えた為かどうかは分からないとしながらも、その後に、日本人の汽船乗り組み機関士1名が惨殺され、日本人水兵が殴打される事件が2度に亙って起こっていることを伝えている。

  つまりこの事件は、日本人に対して反英運動に如何に対処するのかという問題を突き付けることになったわけであり、来廣は英人と印度人の争いに日本人は中立の立場を守るべきだと主張した。しかしこうした日本以外の場所での出来事と違って、インドの独立運動家が来日して援助を求めるという場合には、厳密には中立という立場は有り得なくなる。そして義勇兵事件に続いて、この1915年には実際にそうした問題も生じていた。すでに偶然の機会から、 グプタ、タゴール(ビハリ・ボースの変名)の二人の運動家と知り合っていた大川周明は次のように回顧(58)する。

 

 此年の11月に、名高い印度国民運動の指導者ララ・ラージパト・ライが渡米の途中日本に立寄った。グプタ君が私のところに来て、ライ氏歓迎会を開いて日本の有力者を招待し、目印親善を図りたいから、その準備に手伝ってくれとのことであった。私は欣んで出来るだけの加勢をした。歓迎会の日取は11月27日夕、場所は上野精養軒と決まり、各方面に招待状を出した。この歓迎会は異常なる成功であった。出席は二百名を超えた。(中略)併し此の歓喜は実に束の間であった。翌朝グプタ、タゴール両君は、日本政府から五日以内に日本を退去せよといふ命令を受けたのである。この命令が英国大使館の強要によって発せられたものであることは、更めて言ふまでもない。五日以内といへば12月2日までであるが、其の間に日本からアメリカに向ふ船は一隻もなく、皆な西航するものだけであった。そして若し両人が西航船に乗るとすれば、上海か香港で英国官憲の手に捕へられることは必定である。両人に対する日本国民の同情が俄然湧立った。


 12月1日付の東京朝日新聞もこのことを報じ、関係者が米国行き船舶のある12月15日まで退去延期を申請し、 頭山満、寺尾亨、押川方義らが支援していると伝えている。結局この申請は認められず、2人は支後者に守られて頭山邸を経て姿をくらませているが、この事件は、日本人にインド独立運動を身近かに感じさせるきっかけとなったと思われる。とくに大川周明は、その翌年に「大正5年10」の序文をつけた『印度に於ける国民的運動の現状及び其の由来』を自家版として印刷配布しているが、そこで彼は、中国の向こうにインドをみることによって「アジア」を 実感し、そこにその後の彼の国家主義運動の基礎を求めたと言える。

  その序文に於いて大川は、大正の日本が「堕落、沈滞、腐敗に陥」っているのは、「実に明治の理想に代って大正の新日本を支配する理想の尚未だ確立せられざる」ためであるとし、そうした状況を打破して「国民の魂を熱火の如 く燃立たらしむる雄渾なる理想」は「皇国をして亜細亜の指導者たらしめんとする理想の外にない」「而して亜細亜の指導、その連合は、実に皇国をして大義を四海に布くの実力を獲得せしむる唯一の道である」と断じた。そして「僅かに支那の研究に努むるに止ま」っている日本人に「印度乃至自余の亜細亜諸国の根本的研究」に力を注ぐ事を 求めた(59)のであった。

  彼自らはそこから実践的運動を目指したことは、同年末(12月24日付)の母宛の手紙で、これから事務所を設けて「全亜細亜主義(亜細亜に於ける欧州人の横暴を挫き、日本が盟主となりて全亜細亜を結合且指導すると云ふ主義)の宣伝及び実現に努むる(60)」という計画を述べていることからも知られる。

  こうしたイギリスの支配に抵抗する独立運動への関心に加えて、インドヘの関心の第三の側面としては、西洋文明に対抗するという観点から、それとは異質なものとしてのインド文明を通じて、東洋文明を考えようとする傾向が強まってきたことをあげることが出来る。そうした観点は、すでに1902年英文で刊行された岡倉天心の『東洋の理想』にみられるところであるが、この大戦下に、1913年にノーベル賞を受賞したインドの詩人タゴールが来日したことも大きな影響力を持つ出来事であった。

  タゴールは1916年5月29日神戸港より上陸、各地で歓迎を受け、大阪天王寺公会堂、東京帝国大学、慶応大学などで講演し、9月2日に横浜港からアメリカに向けて出帆しているが、新聞はその動向や講演原稿などを大きく取り上げていた。タゴールの講演は、東京朝日新聞社説(61)が「彼の講演は要するに東西の文明を比較し、西洋の力の文明を駁撃して、東洋の霊の文明を祝福し、而して日本は近世文明に対して、最も深き人道の生気を鼓吹成就する一大使命を有すと言ふに在り」と要約しているように、近代文明の批判を主とするものであった。従って日本の現状についても、「私のやうな他国人が貴国に上陸して先ず感ぜざるを得ないことは、日本に近代主義と云ふ堂宇が建って居ることであります、而して此堂宇の前に人生といふものが人身御供として供えられて居ることであります(62)」として、近代主義に支配 されている点を批判していた。

  一般的には彼の主張は、西洋文明と東洋文明を対比して、その特徴を物質文明と精神文明として把握したものと理解された。もちろんそれに対しては、「物質と文明とは反対である。物質に文明はない。文明は人間にあり、人間の精神内にある故に或る意味に於て物質文明といふものはあり得べきでない。几ての文明は精神的である(63)」とか、「私共が現に経営しつつある文明は物質的」であり「是非とも之れを精神的にせねばならぬ」が、それは「決して、あなたが考へられて居るやうに西洋の文明に対抗するやうに、東洋の其れを高調することでもなく、又、近世の文明を凌駕するやうに古代の文明を復活させることでもないのです(64)」といった批判が寄せられている。にもかかわらずそれが、西洋=日物質文明、東洋=精神文明という俗説を広める役割を担ったことは否定し難たいであろう。

  しかし他方では、タゴールの「詩を以て印度人の民族的精神を喚び醒さう(65)」とする側面が注目された。そしてその方向を現実的により徹底させたものとして、ガンディの運動が捉えられることとなった。後に大川周明はいう(66)

 

 ガンディの政治運動は、其の掲ぐる理想に於て、其の根ざすところの思想に於て、並に之を遂行する戦術に於て、西欧の政治運動とは甚しく相異なれる面目を有し、之が為に人をして宗教運動なるかに誤解せしむるほど、徹底して印度的である。而も此の運動は、徹頭徹尾印度的なるが故に、初めて空前の政治的成功を収むることを得た。


さらに大川は、トルコに於ても同様の事例を見出だす(67)

 

 青年土耳古党の初めて奮起せる時、彼等の則る所は西欧民主主義に外ならなかった。然るに世界戦中に於て、彼等が唱道せる土耳古国民主義は、土耳古精神の奥深く流るゝツラン魂より湧き来れるもの。故に其の求むる所は、決して西欧の主義乃至制度を輸入せんとするに非ず、純乎として純なる土耳古文化を、自らの力によって創造し長養せんとするに在る。


そして大川は、こうした民族的なものの再建と組織化とが、西欧文明の支配に対抗し、アジアが「二重の独立、精神的独立と政治的独立」を獲得する道であるとし、これを「亜細亜の復興」と呼んだ。それはまた、ヨーロッパのなかから生まれる「革命」と相呼応するものと考えられた。彼は「露西亜革命の成就者ボルシェヴイキは、啻に露国内の戦士としてのみに非ず、同時に欧羅巴革命の戦士として起った」「革命露西亜は、近世欧羅巴の民主政治を一蹴し去った(68)」とみるのであり、ロシア革命は西欧文明を打倒する点で、復興亜細亜と相通じていると捉えたのであった。「今や世界最大の革命家は、まがう可くもなくレーニン及びガンデイでる(69)」とする彼は、世界史の課題を次のように主張していた(70)

 

 革命欧羅巴と復興亜細亜とは、新しき世界史を経緯する根本要素である。舊き欧羅巴は、革命せられねばならぬ。雌伏せる亜細亜は、復興せられねばならぬ。


 しかし彼はその後、「革命欧羅巴」と「復興亜細亜」とをつなぐ道筋を追及することも、「革命欧羅巴」への関心を発展させることもなく、従って、アジア主義の枠を超えることは出来なかったとみてよいであろう。ともあれ、第一次大戦下で広がったインドヘの関心は、アジア主義的雰囲気を盛り上げる役割を果たすものでもあった。

6文明論・人種論とアジア主義