『近代日本のアジア認識』

1994年3月

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アジア主義とその周辺


 

古屋 哲夫


はじめに
1アジア主義の出発点―日露戦争以前―
2対外発展の条件と方向をめぐって
3第一次大戦と中国認識
4アジアモンロー主義と石井・ランシング協定

5インドへの関心
6文明論・人種論とアジア主義
おわりに



6文明論・人種論とアジア主義

 第一次大戦が終わると、欧米から認められることを期待したアジア・モンロー主義は姿を消してゆくことになり、大戦下では一部の少数の人々が唱えていたに過ぎなかった人種論的あるいは文明論的アジア主義の方が生き残ることになった。もっともそれは、最初から戦後の状況への対応を目的として論を立てていたから、そうなるのも自然であったかもしれない。この種のアジア主義の出発点は、大まかにいえば、戦後に大挙してアジアに復帰・殺到してくるであろう欧米勢力に対して、アジアの力を結集し対抗しようという発想に立つものであった。すでに大戦中からそう した準備をすべきだとする杉田定一は、「我外交と東亜連盟(71)」で次のように言う。

 

 日本の今取るべき所は、まづ日支の親善を図り、この力を以て、こゝに所謂亜細亜連盟なるものを策するにあるのである。若し夫れ日支戮力以て印度の独立を援けんか、東西三億の回教徒は、必ずや起って此の運動を援くるであらう。幸なるかな日本は、仏教国として既に精神的連鎖を有して居る。故に此連鎖を利用して、印度、波斯、土耳古、アフガニスタン、ベルヂスタンの回教徒と相結ぶを得ば、天下の勢力何者か克く此同盟を圧するを得ん。さなきだに伊土戦争以来、著しく排欧的気分を鼓吹された東西の回教徒は、必ずや雙手を挙げて此同盟に加はるであらう。


 この論は、仏教と回教の連鎖とは何かを問う以前に、「日支の親善」の取り上げ方からして安易である。これに対 して、大谷光瑞の「帝国の危機(72)」は、「日支親善」こそが「至難」でありその実現のためには、「亜細亜主義」が必要だというのであった。彼は戦後の外患を、第一には海軍大軍拡を企てているアメリカの圧力に、第二には騒乱の止まない中国情勢のなかにみるのであり、それに対して「亜細亜主義は外患を治する妙用なり」とし、「大亜細亜主義の基礎の上に立ち、支那の完全なる独立をなさし」め、それによる「日支親善」でアメリカに対抗するというのが、彼が描いた構想であった。

  その「亜細亜主義」については、「亜細亜人の平和と福祉を増進せしめ、他国の来て亜細亜を侵凌暴虐をなさんとするを禦ぐなり」としか述べられていないが、アジアの他の地域に問題を広げず、従来の親善を「虚偽の親善」として、より多く日本人の反省を求めるという姿勢を持つものであった。

  この大谷の論を意識し、アジア主義を「欧米勢力を亜細亜に拒絶して、亜細亜人の亜細亜を建立せんとする」ものとして再規定しようとしたのが、若宮卯之助の「大亜細亜主義とは何ぞや(73)」であった。彼はまず「大アジア主義の建立を促さんとする間接の原因は、西洋文明の甚だ恃むに足らざる事、言ひ換へれば、其の一面に於て貪欲を性と為し、掠奪を主義と為して居る西洋文明の現実暴露である」とする。

 

 西洋文明の精神は掠奪である、自然界の掠奪を移して直に之を人間界に用ふるは西洋文明の手段である。西洋文明は国民的暴利主義に依って他国を掠奪するが如く、集中的資本主義に依って労働階級を掠奪するを其の特色と為すものである。此に西洋文明の破綻がある。(中略)我が大亜細亜主義は此の弱点多き西洋文明に対抗して特殊の存立を保つもので無くてはならず、若くは之を凌駕して其の上に出づるもので無くてはならぬ。


 こうした西洋文明への批判は、戦争そのものを防止出来なかったばかりでなく、新兵器による大量破壊を続けているという現実への批判を基底とするものであり、この点については、「彼等は現に此の驚異すべき発明と絶大なる組織と、他の多くの貴重なる物とを挙げて、悉く之を欧州自殺の大馬鹿骨頂の大戦争の犠牲に捧げて居るのである」と述べられている。

  さらに彼は、「大亜細亜主義の建立を促さんとする直接の原因は、言うまでも無く、西洋勢力の亜細亜に対する不法なる包囲攻撃である」というが、その「攻撃」とは、「西洋人は苟も其の西洋的勢力の及ぶ限りに於て、飽くまで亜細亜人を排斥し尽くして必ず其の未来を奪はんとする」というような人種差別を指すものであった。そして大谷が アメリカとの対抗に力点を置いたのに対して、イギリスを主たる対象とし、「我が大亜細亜主義実現の予備条件は実に印度の管轄換である」として、イギリスから印度を切り離すことにアジア主義の未来を見ようとしていた。

  それは表面では、アジアでの優越した地位を確立したと考え、インドにも関心を広げていた第一次大戦下の気分を現してはいたが、その底部は、人種的差別とくにアメリカにおける日本人移民排撃運動の拡大に対する不満や苛立ちが日本社会に充満していることに基礎をおくものであった。

  日本政府もパリ講和会議において、人種差別撤廃の趣旨を国際連盟規約のなかに取り入れることを提議して、こう した国内の不満に応えようとしていた。しかしこの提案は結局否決されてしまったばかりでなく、アメリカは連盟に加盟せず、連盟によってアメリカを拘束しようとする構想そのものが成り立たないこととなった。

  講和会議を振り返って長島隆二は、「此の間に於て列国は各々其の立場々々に依って自ら守る策を立て、或いは将来相争ふの地歩を固むるに努めたけれども、日本は反対に世界の大勢から落伍し、東洋に於ては今日迄固め来った特殊の地位を失ひ、孤影犖然として東洋の一角に孤立するに至った(74)」と述べているが、その「孤立」の上に、アメリカの日本人移民排斥運動がさらに大きくのしかかってくることになるのであった。

  第一次大戦直前の1913年に、カリフォルニア州で「アメリカの市民となることを得ない外国人」(当時帰化は白人とアフリカ人およびその子孫にしか認められておらず、日本人もこのなかに含まれる)の土地所有と3年以上の土地賃貸を 認めないとの法律が制定されたのが「排日土地法」の最初であったが、大戦後にはこうした動きが各地に広がった。19年にカリフォルニアでより強化された「排日土地法」が制定されると、翌年にはワシントン州、さらに21年から22年にかけては西北部11州で同様な法律が制定され、やがて連邦政府をも動かすこととなる。そして1924年には、それ以前から禁止していた日本人以外のアジア人に加えて、日本人の移民をも全面的に禁止する新移民法が連邦議会を通過成立した。

  このことは、日本社会に大きな衝撃を与え、さまざまな反対運動が展開された。そしてその中で、大戦後忘れられた感のあったアジア主義が、再登場してくるのであり、それを先導したのは、雑誌『日本及日本人』であった。

  同誌24(大正13)年5五月1日号は、社説ともいうべき「東西南北」欄に、「米国の暴戻に対する全亜細亜民族的興奮」という大見出しを立て、次の5月15日号は、同欄を「眠れる大亜細亜の覚醒と白色侵掠の拒否」と題するとともに、「対米公憤号」として、21本の関連論文を並べた。以後も「亜細亜主義」「亜細亜連盟」「東亜」など題名にアジアを含む論文を、6月1日号6本、6月15日号2本、9月1日号1本と掲載した後、10月5日の秋季増刊号には「大亜細亜主義」の特集として実に長短合わせて50本の論文を集めている。

  この他にも、大石正巳「アジア民族の総同盟を策せよ」(『太陽』24年6月)、アール・ビー・ボース「東洋人連盟の目標」(『改造』24年6月)などがあるが、同時に『改造』24年6月号には「東洋人連盟批判」、『中央公論』24年8月号には「米国の排日立法によって惹起された我国民の排外的気分の批判」という小特集が企画されている。

  ところでここでの「亜細亜主義」「亜細亜連盟」の前提となっているのは、アメリカが「先ず、印度人、支那人の帰化権と移住とを禁止し、遂には、日本民族の帰化権と移住とを絶対に不可能ならしめんとしている」ことは、「全亜細亜人種全体に関する重大な問題」だという認識である。そしてそれに基づいて、「支那、印度を味方として強力なる有色人連盟を組織し、吾々有色人種の共同の敵たる白人種に対抗しなければならぬ」という主張を打ち出してく ることとなる(前掲大石論文)。

  ではそうした連盟によって何をするのかといえば、この論文では、世界的な与論を形成して国際連盟に提訴するこ とが考えられている。アメリカは連盟に加盟していないけれど、連盟の審判に異議を唱えることは出来ないだろうというのである。しかしこのやり方が有効であるかどうかは疑問であり、一般的にいって、アメリカの移民政策を変えさせる決め手は見出だしがたい。そこで「亜細亜連盟」論は、移民問題を離れて、白人に対する人種的結合の方向へ転じて行くこととなる。そのうち最も過激なものは次のように言う(75)

 

 吾人は亜細亜人の名において、亜細亜大陸より白色人の撒退せんことを要求す。(中略)無限の富源を有する米大陸を以って白人占有の享楽地とし、すべての有色人をしてこの地より去らしめんとする一方において、白色人種は自由に奔放に有色人種の郷土を荒らし、富源の分配に後れざらんことを競争す。天下豈斯くの如き横暴あらんや。斯くの如き不合理あらんや。


 しかしこうした白人追い出し論は少数であり、他方では「亜細亜はたゞ奪はれたる権利を奪ひ還へして自立」すればよく「決して白人に対して鎖国を行はんとするものではない(76)」、「アメリカに於ける排日問題は正義人道の上から見て世界の痛恨事ではあるが、これをもって直ちに黄色人権対白色人種の抗争の一端と見るが如きは、問題の核心に触れない浅薄な見解だ(77)」、「亜細亜連盟の動機は決して亜米利加の排日や欧羅巴の侵略主義に対する復讐であってはならぬ(78)」などといった人種論的観点に批判的な意見も有力であった。

  結局のところ、ここでの「亜細亜主義・亜細亜連盟論」の多くは、アジア諸民族の結合によるアジアの強化という 問題を主張の中心に据えることになる。そしてその強化の方法を巡ってさまざまな論議が展開された。その一つは政治・社会的観点を基礎とするものであり、次のような例をあげることができる(79)

 

 亜細亜の独立、亜細亜の振興は印度を度外しては行はれぬ。印度の革命が行はるゝならば、支那の独立と改革も容易に行はれる。亜細亜に於て日本と支那と印度と相提携して進めば、世界に影響する所の働を為す事も出来る。将来はドウしてもこの三国が中心となって亜細亜の連盟を策し、東洋の文化を以て西洋に対さねばならぬ。そしてそれには世界に向って人類平等、差別待遇撤廃を要求し、国際間の正義を主張する関係上、ドウしてもこの亜細亜連盟の基調は之を階級打破に置かねばならぬ。


 それは、「東洋の各国は先ず自国に於て社会的正義を徹底せしめ、各人の生存の権利を遂行させなくてはならぬ」「日本人は全亜細亜同盟を策する前に、深く深く反省して先ずその精神生活の根本的改造を行はなくてはならぬ(80)」といつた主張と結び付き、さらには国家改造と対外発展を不可分のものとする新しい国家主義の流れに加わるものであったかもしれない。しかしアジアという観点からすれば、階級打破・社会正義・生存の権利といった内向きの課題によって、アジア諸民族を結び付けることは困難だということになろう。

 そこでアジア主義論の多くは、西洋=物質文明対東洋=精神文明という図式を出発点としながら(必ずしもそれに賛成というわけではないが)、西洋文明の害悪を強調し、それに代わる東洋文明の価値とその再建を訴えるという構造を持つことになる。そして東洋文明の再建という課題が、アジア諸民族結合の核になるというわけであった。しかし西洋文明に対しては「暴力」「戦争」などの点からさまざまな批判がなされるのであるが、では東洋文明はどのように再建されるのかという点になると、答えは甚だ曖味になってくる。例えば、儒教の「王道」を取り出してきて、「此天人地の大精神を一貫して立つ王者王道とは何を意味するかと云へば、矢張り全東洋を貫き覆ふ偉大なる仏心の体験発露と云ふべきである」などという理解困難な言説も登場する。さらにこの論(81)は、ガンディも王道論者にしたうえで、「印度人は支那の王道主義政治の換骨をなし、支那人は印度人の個人や国家や民族をも超越せし、あの大仏道に真実に帰順すべし」と続くのであるが、この不可解さは、東洋を一つにまとめた文明を考えることの難しさを物語るものであろう。しかしそのような東洋文明を考える以前の問題として、日本とアジア諸民族との結合の可能性はあるのかという疑問が出されていた。さきの『日本及日本人』の「大亜細亜主義」特集号も、反対論者の意見をも掲載しており、志賀重昂、信夫淳平らが反対論を述べているが、さらに「次第不同」とあるから順序に意味がないとしても、巻頭に「大亜細亜主義なるものは本質的にいっても又便宜的にいっても成り立たないと私は思ふ」という殷汝耕の「大亜細亜主義とは何ぞや」を載せているのが面白い。

  そしてそこで殷は、「大亜細亜主義を高唱する人々と雖もいざ之が実行といふに考へ及ぶ時、其実日支提携に落ち着いて夫れ以上一歩も道む事が出来ぬ」と痛い所を突いている。つまり日本の「大亜細亜主義者」は安南にしろ印度にしろ中国以外には提携の手掛かり持っていないではないか、それなら「大亜細亜主義」などというこけおどしの看板は降ろした方がよいというわけである。しかもその唯一の提携相手の中国に対しても、「驕慢度し難き態度」でアジアの盟主などと称しており、我々中国人は「日本人のロから指導統率と開く」だけで「異様の不快感」を抱かざるを得ず「此の調子で行っては到底(アジア)連盟は出来る見込はない」と殷は批判する。

  この点では、志賀重昂の意見も同様であり、この特集に寄せた「見込無き亜細亜連盟《日本が亜細亜連盟を首倡すれば日本の自殺》」で、次のように述べている。

 

 亜細亜州に於て……日本が提携し得べき国は、支那を措いて他には之を見出すことが出来ぬ……併し乍ら此の唯一の支那との提携に就いても、従来日本が支那に対して取っていた、さうして現在に於ても盛んに取りつゝある失礼千万な態度……を深く猛省して、徹底的に自らその非を悔いるにあらざれば到底不可能に属する。


 この時期の中国では、排日運動が一層の展開を見せており、批判者の言うごとく、「亜細亜連盟」の条件など全く見出すことが出来なかった。中国ではこの前年、1923年にはいわゆる二十一箇条条約がなければ、遼東半島租借権が満期になることから、「旅順・大連回収運動」が展開され、24年になると、1月には広州で開かれた中国国民党第一回全国代表大会で国共合作が成立、5月には中ソ国交回復協定が調印されたのに対して、25年に入ると日本資本家の中国人労働者弾圧に抗議する五・三〇運動が勃発するというように、中ソ関係が改善されるなかで、日中関係は悪化するという状況が進行していた。

  アメリカの「排日移民法」を契機に盛り上がったアジア主義論は、人種論的観点から文明論的観点へと展開されたが、その壮大な構想を実現する現実的条件は存在せず、急速に消滅する運命にあったといえる。しかしこうした状況のもとで24年11月に来日した孫文が、「大アジア主義」に関する講演を行ったことは、日本人からは中国にもア ジア主義に同調する可能性があることを示すものとして受け取られたであろう。

  孫文の主張は、『改造』25年1月号に掲載された「大亜細亜主義の意義」によれば、西洋の文化を「武力的文化」=「覇道」、東洋の文化を仁義道徳によって人を感化する「王道」と対比し、王道に基ずくアジア民族の団結を求めるものであった。そして日本に対して次のような問題を投げ掛けて結んでいる。

 

 日本民族は既に欧米覇道の文化に到達したのであるが、亜細亜王道の本質をも有している。今日以後に於て、日本が世界文化の前途に対して西方覇道の猟犬となるか、或ひは東方王道の干城となるかは、諸君日本人が慎重に考慮してその一を選ぶべきである。


 しかし当時の日本人の多数は「武力」を民族発展の基礎としており、このような選択に関心を抱いた形跡はない。 むしろ中国人をも引き付け得る点で「王道」に注目し、さらにそれに類するものとして「大同」をもとりあげたのではなかったであろうか。さきの殷汝耕論文は、「仁を本として個人と個人、団体と団体との闘争を絶たしめ、現在の世界を挙げて永久平和の殿堂、人類愛の道場たらしめ」る「世界大同主義」を唱えていた。

  中国との関係の再建を前提としなければならなくなったアジア主義者にとって、「王道」「大同」を基礎として中国人の同調を得られるアジア文明論を構築することは、魅力的な課題であったに違いない。しかもそれは物質文化という面からだけでなく、政治文化の面からも欧米を否定することを可能にすると考えられた。

  時流に敏感な評論家・室伏高信が、アジア主義の陣営に投じたのも、この様な観点からであったと思われる。彼は26年5月号の『改造』に掲載された「亜細亜主義の勝利」においては、これまでの西洋文明=物質文明という見方を排して、「西洋文明は一つの政治的、経済的、並に精神的文明であ」り、そのそれぞれの面で行詰まっていることを論じた。そしてとくに「近代欧羅巴の政治は民主政治に始まって独裁政治に終りつゝある」として「政治的民主主義の失敗」を強調している。さらにここではまだ抽象的にしか語られていない「亜細亜主義」の内容については、同年12月から分冊の形で著書『亜細亜主義』の刊行(82)始めるのであるが、第1冊「欧羅巴的から亜細亜的へ」、第2冊「王道の思想」、第3冊「大同の理想」という題名からその内容をうかがうことが出来よう。

  アジア主義はここで、モンロー主義的アジア主義、人種論的アジア主義、文明論的アジア主義に、王道的アジア主義を加えたことになるが、それはまたアジア主義の帰結点を示すものでもあった。「王道」がまさに満洲国のイデオ ロギーとなったことに象徴されるように、アジア主義は「親日派」をつくり出すことを目標としながら、やがて戦争に向かって動き出した現実政治に追随して行くことになるのであり、そこではもはや新たな展開の可能性は失われた といってよいであろう。

おわりに