『日本通史』第19巻

1995年3月

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(満州国)の日本人


表紙

古屋 哲夫


 「満州国」というものを、日本の側から見ていると、それは2つの現象の間に挟まれているようにみえる。その一方には、仰々しく唱えられた「五族協和」や「王道楽土」といった「満州国」建設のスローガンがあり、他方には、敗戦後の日本人開拓民の悲惨な逃亡の物語があった。しかしその中間を埋めているはずの「満州国」における日本人の具体的生活、とくに現地の中国人との接触の姿は、容易に見えてこないのである。

  満州における日本人の活動は、「満州国」以前にはほぼ関東州と満鉄付属地に限られていたのであるが、「満州国」を作り出すことによって、一挙に満州全域に拡大したのであった。つまりそれは、それまで日本人の足跡のなかった地域にまで踏み込んでゆくということであり、そのためには現地の人々への新たな働きかけが必要となったはずである。例えば、建国の理念を掲げて地方に飛び込んでいったとされる自治指導部のメンバーや県参事官たちは、どのような行動をしたのであろうか。

  彼らに与えられた指示や方針はある程度わかるとしても、現地に着いた彼らが、どんな人物と接触し、どんな行動を要求したのか、その際、関東軍とはどんな連絡を保っていたのか、などといった問題はほとんど明らかにすることができない。

  関東軍を別にすれば、満鉄付属地以外の「満州国」の広い地域に展開した最大の日本人集団は、農業移民団・開拓団(1939(昭和14)年に移民団を開拓団と改称)であるが、彼らも決して日本人だけの自給自足的社会をつくり得たわけではなかった。もっとも、そうした実情は当時からあまり語られることはなかったと思われる。

  例えば開拓地を見て歩いたうえで1940(昭和15)年4月に『満州紀行』を刊行した島木健作は、数多く出されている開拓関係の出版物について、そこで「開拓地の実情」として書かれているのは「机上の設計図」にすぎず、それが「いかに具体的に進行しつつあるかという、事実に即した説明もしくは描写というものはみることができない」とか、「国策開拓民は五族協和の中核たる使命を持っている」はずなのに「農業開拓民と他民族との関係」について「深い考慮が払われている書物は何一つない」(276─279頁)と批判している。

 この本が繰り返し強調しているのは、現実の開拓が現地の日本人の入植によって土地を失った中国人の労働力に依拠しているという事実であり、それを「五族協和」の観点からどう処理するかという問題でった。彼は言う。

 

私があるいた開拓団で、農耕に満人の力を使っていないところは一つもなかった。〔中略〕彼らは一口に苦力と呼び慣らされているけれども、これはむろん正しい呼称ではない。雇われるものの第1は、今まで開拓地内にあった原住民であって、日本開拓民が入って来たために、早晩この土地を去らねばならぬ運命にあるものである。彼等あるがために、彼等がそのような運命にあることのために、日本の開拓民は、当面必要な労働力に事欠かぬという状態にある。(26頁)

 そして「どこの団のどの家を訪ねて見ても、苦力賃というものが、一家経済の癌となっていることを、我々はすぐに知ることができる」(50頁)というのである。もちろんこのような雇用労働力、さらには小作人の存在自体については、すでにある程度は明らかになっているし、開拓地関係の統計の中に「労賃」の項を見いだすこともできる。しかし島木はそれをこえる具体的イメージを次のように提示していた。

 

雇い方の形式もいろいろである。一戸一人の定雇(年工)を持ち、除草、収穫等、仕事の忙しい時に応じて、日工又は月工を雇うものがある。ある鉄道自警村を見に行ったときに、家を入ってすぐのところに、彼等の寝部屋があって、それが30戸の農家1つ残らずであったが、集団開拓民に於いては、このように自分の家におくということはないけれども、実質において変わりはない。開拓地内には、原住民が立ち去ったあとの空家があるので、そこに彼等は住んでいる。どこの村に行っても、あれは「苦力小屋だ」といわれるものがあって、団に付属しているかのような感がある。一戸一人ではなく、1部落としてあるいは4戸なり5戸なりが共同して、何人かの定雇を雇っているというのもある。(26─27頁)

 こうなってくると、開拓村は日本で宣伝され、一般にイメージされていたような日本人の家族労働力による自作経営ではなく、中国人労働者を不可欠のものとして組み込んだものと考えなくてはならない。同じ問題を、1941年(康徳8)年12月に満州国立開拓研究所が出した『開拓村に於ける雇傭労働事情調査』は三江省について次のように述べている。 

 

年工には自分の家から通勤する場合と住込の場合がある。前者は稀な例で多くは住込である。住込の場合雇主と同一住屋内に起居することはなく別棟の所謂苦力小屋を建てゝ住わすのである。多くはニ間房子位で普通は5─8坪程度の粗末なものである。〔中略〕一戸の開拓民の住屋に此等年工や小作人等の満人が2、3人も付随して村落を構成している姿は古い開拓団には良く見られる姿である。(27頁)
年工、月工、日工の雇傭労働を延日数に換算して一戸平均を算出してみると平均242日の雇傭となる。開拓地農家経営主の1ヶ年労働日数は200日と言われるが之に比較すると毎日1人強の雇傭労働者が使われていることゝなる。一般に言われる如く開拓農家の子供を持つ若い妻は従来殆ど農業労働に従事することが出来ないとすれば労働に従事し得るものは普通経営主一人であって、雇傭労働がそれ以上にあると言うことは経営の全労働の半又はそれ以上が雇傭労働に依存していることを意味する。(31頁)

 こうした事態が起こるのは、「経営面積が家族労働力による可耕面積に比し過大」(35頁)なためだとこの調査は指摘しているが、ここで労賃が上昇してくると雇傭労働に依存するよりも「小作に出し小作料を収得する方が安全であり且有利」だとする傾向が強まるというのである。そしてそれは開拓団が共同経営から個人経営に移行する過程と重なっていたと思われる。第1次移民の弥栄村と第2次の千振村の状況について、弥栄では「自作地の多かったのは昭和11、12年の共同経営時代で其の頃は殆んど全部が自作地であったものが現在では割当地の半以上が貸付小作地」であり、「千振でも自営面積は近年縮小されている。20陌の割当に対して平均6陌余りの自作に過ぎない」と述べられている。(49頁)

  この共同経営から個人経営へ1日も早く移行するということは、移民団の強い希望であったようであり、両移民団を視察した小寺廉吉は、「此処ニ共同ノ経営ヲ解ク、爾今独立ノ経営ニ移ルコトヲ宣ス」との「独立宣言」が用意され、その実施が待たれていたことを伝えている。(『先駆移民団』1940年刊、190─194頁)

  弥栄村では、1936(昭和11)年10月15日に独立宣言式を行い、翌年2月までを残務整理期間として、共同の経営を解いて独立の経営に移行することを宣言した。そしてその際の「独立宣言実施要領」の冒頭には、「満州ニ於ケル日本農業移民ノ使命ハ満州ニ移住シテ独立シタ家庭生活ヲ樹テ、皇室御統治ノ下ニ日本帝国ヲ延長スルニ在ル」と記されていた。この個人経営への移行と小作地の増加を重ねあわせてみると、開拓地の地主経営化の方向が見えてくるのではないだろうか。

  1939(昭和14)年に移民団を開拓団と改称し、移民を拓士と呼ぶ案が決定されているが、荒地を開くというイメージをもつ「開拓」の語の強調は、どのような現実と照応していたのであろうか。1941(昭和16)年に入植した開拓団幹部は、次のように回想している。(読売新聞社編『昭和史の天皇6』1969年刊、10頁)

 

この開拓は、荒野の木を切り、根を堀り、石を起こして、1から10までやったんじゃなくて、満人が拓いて出来あがったところを、畑も家もそっくり買いとったと言ったら聞こえはいいようですが、実際は満人を追い立てて取上げ、日本人がはいり込んだみたいなものです。家も立派なものでしたし、土地なんかも、この熊本の鹿本郡ぐらいの広さばかりの土地ば、まるでもう100戸たらずの日本人が専有してしもうた。

 この回想は、「満州での仕事は何もかもうまく」いったが、「この開拓地を満人から買ったときのこと」が「ずっと気にかかっていた」と述べているが、具体的な農業経営における中国人との関係には触れずに、すぐ敗戦時の困難な状況に移ってしまっている。

  開拓地における中国人人口はあまり明らかにされていないが、弥栄村については1938年4月の概況として、日本人が301戸、1097人であるのに対して、「村内には中国人と朝鮮人が1447戸、6805人が住んでいた」(桑島節郎『満州武装移民』232─233頁)という数字が残されている。この村政を掌握した日本人の前述したような「日本帝国ヲ延長スル」という使命感は、こうした圧倒的多数の中国人・朝鮮人に対する関係をどのように規制したのであろうか。少なくともそこには「五族協和」の理念の存在を感ずることはできない。

  「満州国」におけるいかなる理念も使命感も、それが現地の日本人の日常生活の中に、何らかの具体的行動を指示していなければその存在を主張することはできないであろう。「五族協和」や「王道主義」は、どのような行動を求め、どのような行動を排除するものだったのであろうか。いずれにせよ、「満州国」研究の基礎は、「満州国」における日本人の生活を具体的に明らかにすることに置かれなくてはならないであろう。

(ふるやてつお 京都大学名誉教授)