1966年8月

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日露戦争


表紙

古屋 哲夫

はしがき
1ロシアの極東進出と日本
2戦争に踏み込む
3満州が主戦場に
4決戦を求めて
5ポーツマス講和条約
6日露協約―結びにかえて―




6日露協約―結びにかえて―



ロシアとの提携の条件

 
日清戦争以来10年にわたる対立を、日露戦争によって清算した両国は、こんどはすぐさま手を結び合う仲になった。ポーツマス条約による撤兵期間18ヵ月が終るのは、1907年(明治40年)4月であるが、早くもその3ヵ月役には、第一次日露協約が調印された。

  日露戦争の結果、両国が満州の利権を二分したことが、この提携の基本的な条件になっていた。 ロシアは日本に南満州の利権を譲ったとはいえ、北満州を横断する東清鉄道とハルビン―長春間の鉄道を所有している。いわば、戦争の結果、日露両国は満州における既得権者として対等の地位に立ったのであった。したがって、この既得の利権への攻撃にそなえねばならないという点で 両国は共通の利害関係に立つことになったのである。そしてさらに、ヨーロッパにおける新興ドイツの膨脹が極東にかわって、帝国主流対立の焦点となってきたという国際情勢の変化が、この日露の提携を促進してゆくのである。

  満州の既得利権への攻撃は、2つの方向から感じられていた。1つは中国の民族主義、もう1つは列強、とくにアメリカの資本であった。

  もちろん、戦後の日本では、戦争でロシアの軍事力に、中途半端な打撃しか与えることができなかったからロシアが報復に立ちあがることへの警戒の念が強かったのは当然であろう。講和の翌年1906年(明治39年)11月、山県有朋の上奏した意見書をもとにして、翌1907年 2月に決定された「帝国国防方針」は、「将来ト雖モ我国防上主要ナル敵国ハ露西亜(ロシア)ト想定ス」と規定した。そしてロシアを仮想敵国とした軍備拡張の目標として、戦時五十個師団を得るために、 平時二十五個師団を確保するという線が出されていた。

  戦争中の四個師団増設によって、日本陸軍は十三個師団から十七個師団になっていたが、この方針実現のため、まず四個師団をふやして二十一個師団とすることが決められ、その第一期としてさっそく二個師団が増設された。この後の増設は、財政難のため難航し、税負担の軽減を求める実業家からの反掌も強まり、ついに、いわゆる「大正政変」という事態を招くのであるが、ともかく、このロシアを仮想敵国とする軍備拡張の問題が、大きな政治的争点として生き続けてゆくのである。

  しかしこのことは、ロシアとの対立が現実のものとして続いたということではない。むしろ、 最大の軍備を維持するために、極東において最大の軍事力をもつロシアを目標にしておくという、 いわば軍事力拡大の口実に転化してゆくのである。



既得権益を手放すな

 
この「国防方針」の立案者である山県自身も、ロシアヘの警戒心をもち続けながらも、急速にロシアとの提携に傾いてゆくのである。「国防方針」自体も、将来の主要な敵国をロシアとしながら、同時に「将来我国利国権ノ伸張ハ清国ニ向テ企図 セラルルヲ有利トス」と述べていた。つまり、ロシアの既得権と衝突しない方向に将来の利権拡張をはかるとすれば、清国の抵抗をロシアと共同で排除することが有利になってくるわけである。

  清国の抵抗は、すでに述べたポーツマス条約をみとめさせるための北京会談で明らかであったが、このような日本の利権に対する抵抗はその後もことあるごとに繰り返されているのであり、 将来ますます激しくなるだろうことは容易に予想された。

  したがって、いずれも期限つきのものであった日本の利権が、近い将来にこの期限延長をめぐ って清国側からの強い反撃に出会うことは必然とみられた。日本が満州の利権を手放すことなく、むしろ拡大しようとすれば、真の敵対関係は中国とのあいだに起こってくるはずであった。この敵対関係からみれば、ロシアは同盟国となる可能性をもつものであった。日本の利権のうちもっとも期限の短いものは、遼東租借権であり、ロシアが掻得した25年のうち、7年が経過しており、日本の手にわたってから18年で期限が切れることになっていた。のち、第一次大戦中、日本が武力を背景にして中国につきつけた、いわゆる21ヵ条要求のうち、これらの期限延長が日本側の最低条件をなすものにほかならなかった。「帝国国防方針」がまだ正式決定にもならない1907年(明治40年)1月25日、山県は西園寺首相にあてて、対清政策にかんする意見書を送り、さらに1909年(明治42年)5月1日、かわって首相の地位についた桂太郎にも同様の意見書を示し、中国との敵対関係についてつ ぎのように述べている。(由井正臣「史料紹介・山県有朋意見書」『史観』71冊)

  すなわち、清国の「利権回収、主権維持の議論は上下を通して頗る熾盛」であり、この形勢から推測すれば、「今後十有余年にして租借期限の満了するに至らば、清国は恐らく我れに向って 関東州租借地の返還を要求すべしと雖ども……我れは決して斯かる要求に応ずる能はざるや勿論にして、我れは1月も油断することなく満州に於ける経営を進行し利権伸張の為めに地歩を固むるの計画を怠る可からざるなり、事情右の如くなれば我邦と清国とは満州に於て遂に調和すべからざる利害の衝突を惹起し、或は干戈に訴へて其の解決を求めざる可からざるに至るやも亦未だ知る可からざるものあり」というのである。

  したがって、「一面露国と互に意見を交換し、両国商議協定の上、清国に談合して之れを遂行するは今日の形勢に於て最も緊要なる事件に非ざるなからんや」「彼我共に独り清国の歓心を得 るに汲々として、隠約の間に相競争し相排擠するよりは寧ろ共に胸襟を披きて満州の経営進行を 画策するに如かざるなり」(明治40年1月意見書)として、ロシアと手を握って清国にあたる必要を説いているのである。

  山県が、じっさいに日露協約ができたあとの第2の意見書でこの立場をより明確に主張しているのは当然であるが、同時に、満州支配が朝鮮支配にとっても必要であり、遼東半島を返還するようなことがあれば、「我が保護国たる韓国の民心に影響すること極めて恐る可きもの」がある と述べているのは注目に値する。

  この朝鮮支配の点から日露協約の必要を主張したのは、初代の韓国統監の地位についていた伊藤博文であった。彼は日露協約のための交渉が行なわれているあいだ中、韓国問題を協約の中心問題と考えるよう、繰り返し外相に要請している。3月3日の元老会議で決定された日本側の原案で、ロシアは日本と韓国のあいだに存在する「政事上共通ノ関係」の「将来ノ発展」を妨害しない、と規定した部分についても、伊藤は「公文ヲ交換シテ、『将来ノ発展』ナル語ハ『アネキゼーショソ』(annexation=併合)迄モ包含スル旨ヲ明カニスルヲ最モ得策ナリトス」との意見を 述べていた(明治40年4月13日、林外相宛『外交文書』40の1)。日本の支配に対してますます 広まってくる朝鮮民衆の抵抗の気運を抑えつけるためには、近い将来に「併合」してしまう以外 にないとする意見は日本の支配層に一般的になりつつあった。

  つまり、満州、朝鮮の植民地経営を進めようとすれば、もっとも近く接触しているロシアと手を握っておくことが必要になってきたのである。



三国協商

 
このことは、ドイツと対立関係にあるヨーロツパ列強にとっても利益であった。やがて第一次世界大戦の導火線となってゆくバルカン問題に力をそそぐためには、その他の地方、とくにアジアでの現状維持が望ましいことになってゆく。戦後の植民経営の資金を外債に頼らねばならない日本としても、この動きに協調することが必要であった。満鉄も、その後1908年(明治41年)朝鮮経営のため設立された東洋拓殖株式会社(東拓)の場合も、その活動資金の大きな部分を外債に求めているのである。

  このうち満鉄第一回外債の募集工作が、1907年の初めから英仏両国市場に対して行なわれているが、フランス政府はロシア政府の要望により、フランス市場での募集をチェックする態度を示した。フラソスのいい分は、ロシアは日本の軍備拡張に疑いの念をもち、日本が再度の戦争をしかけてくることをおそれているのであり、日本が将来ロシアに対して侵略的行動に出ないと 宣言すれば、ロシアの態度も変わるであろうし、フランス政府も日本外債の成立に努力しようというのであった。そしてさらに、日露協約の成立をたすけるために、日仏協約の締結を積極的に日本に働きかけたのであった。

  ロシアとすれば、同じころ、イギリスとのあいだに植民地問題にかんする協定を進めており、 英・仏と結んでドイツに対抗する方向に歩んでいた。そしてこの方向を完成するには、日本から 再度の攻撃を受けないという保証をとりつけ、同時に蒙古地方への進出について日本からの了解を得ることが必要だと考えられた。これはもちろん、イギリスの望むところでもあった。

  こうした動きのなかで、1907年(明治40年)6月10日、まず日仏協約が調印され、続いて、 7月30日に日露協約、8月31日には英露協定が成立した。これに、すでに締結されている露仏同盟、日英同盟、英仏協定を加えてみると、これで日本、ロシア、フラソス、イギリスのあ いだにそれぞれ相互の結びつきが完成したことになった。

  このうち、ヨーロツパでドイツ、オーストリア、イタリアの三国同盟に対立するかたちとなっ たイギリス、フラソス、ロシアの結びつきが三国協商の名で呼ばれるようになったが、日露協約 はこの三国協商成立の土台ともたっていたわけである。



第一回日露協約

  日露協約を推進するために結ばれた日仏協約は、両国の利害が直接にどこかの地方で対立していたわけではないので、アジア大陸における相互の地位ならびに領土権を保持するため、両国が主権、保護権、または占有権を有する清国の諸地方の秩序 と平和を確保することを約した簡単なものであった。

  これに対して、日露協約の場合には、両国の勢力範囲を確定してゆくことが主眼となった。できあがった協約は、公表される協定と秘密協定とからなり、この協約の中心目的が秘密協定であったことはいうまでもない。公開協定は(一)日露両国が相互に、その領土およびこれまで清国と結んだ条約、日露聞の条約を尊重する、(二)清国の独立と領土保全、列国商工業の機会均等をうたっただけのものだった。しかし清国の独立をまともに考えているのでないことは、秘密協定ですぐ 明らかになってくる。

  秘密協定はまず、満州に両国の利益分界線をつくることをきめた。利益分界線は露韓国境から、長春、ハルビソの中間を通り満州を横断するように定められ、鉄道、電信の権利をそれぞれ分界線をこえて獲得する活動をしないことを約束するものであった。この案を出した日本側が、列国および清国の反発を考慮して、問題を政治的意味をもつ鉄道と電信にかぎったと述べていることからもわかるように、植民地化の境界線と了解されていたことは明白であろう。

  この満州分割についで、秘密協定は、ロシアは韓国に対する目本の支配の発展を承認すること、日本は、外蒙古におけるロシアの特殊利益を承認することを規定した。



第三次日韓協約から併合へ

  韓国「併合」をみとめさせようという伊藤博文の意見は、ロシア側がそのかわりに蒙古でのいっそう大きな利益を求めたので実現されなかったが、伊藤 は、この協約が調印される直前に、韓国皇帝がハーグの万国平和会議に密使を送って韓国の独立を訴えたという事件を利用して、併合ぎりぎりのところまで韓国支配を進めていた。

  この事件が発覚すると、伊藤は韓国皇帝にこういう反目的行為をするなら、日本から宣戦布告されてもしかたがないとおどし、他方、日本政府に対しては、この機会にさらにいっそう支配力を強める策を立てることを求めた。政府は韓国皇帝を譲位させ、第三次日韓協約を押しつける方針を決めた。

  日露協約調印の6日前、7月24日、伊藤韓国統監と李完用首相とのあいだに調印された第三次日韓協約は、韓国政府は法令の制定、重要な行政上の処分、高等官吏の任免にあたっては統監の事前の承認を必要とすること、統監の推薦する日本人を韓国官吏に任命することなどを規定していた。統監は韓国における事実上の主権者の地位についたといってもよかった。

  同時に結ばれた秘密覚え書で、大審院以下の裁判所、監獄を新設し、大審院長を日本人とする ほか日本人我判官、典獄の任命、王宮守衛の一大隊以外の韓国軍隊を解散、中央から地方官庁まで各部次官以下の重要官職に日本人を任命することなどを決めた。

  この事実上の併合への反対が朝鮮全土をおおったことはいうまでもなく、京城での軍隊解散式への反乱をきっかけとして、全土に武装反乱が拡大してゆく。しかし、列強からの同意をとりつ けている日本は、以後3年にわたる武力「討伐」でほとんど反乱を鎮定し終ると、1910年 (明治43年)8月22日、正式の併合を強行したのであった。孤立無援の朝鮮民衆の闘いは、 これを阻止することができなかった。



満州をめぐる日米対立

 
しかし、列強は満州では日本の自由をみとめようとはしなかった。とくにアメリカとイギリスは、満州をロシアから開放するために、日露戦争を支持し、日本の朝鮮支配をみとめたのだからなおさらであった。これに対して日本の方は、中国分割という形勢のなかでやっと手に入れた南満州を日本資本主流の発展のために独占したいと考えるようになっていた。といっても、その経営を外資にたよらねばならないから、正面きって南満州の独占を主張するわけにもゆかない悩みがあった。

  この矛盾はすでにポーツマス条約調印直後に、アメリカの鉄道王ハリマソとのごたごたにあらわれていた。世界一周鉄道の夢をもつハリマソは、日本が獲得する満鉄に眼をつけ、その経営に参加しようとした。これに対して日本の方でも、財界に近い元老井上馨らを中心に、満鉄経営の資金がないところからハリマソの申し出に応じようとする動きが強まった。1905年(明治38年)10月12日、ハリマソは桂首相とのあいだに、満鉄を日米均等の権利をもつシソジケー トで経営するという予備協定を成立させた。しかしポーツマス会議から帰国した小村外相は、外債成立の可能性を信じてこれに反対、予備協定は破棄されるという一幕が演じられたのであった。

  これは満州をめぐる日米対立の序幕であり、これが尾をひいて、満鉄の外債も1907年から1908年にかけて3回にわたり、もっぱらイギリス市揚に求められるというありさまになっていた(フラソス市場ではフランス政府の支援にもかかわらず条件が合わず成立しなかった)。

  ハリマソ事件に続いて、こんどは満州における日本軍政への不満が英米からわき起こってきた。1906年(明治39年)3月、英米両国からあいついで、日本は満州で門戸開放を実行していないではないかとの正式な抗議がもたらされている。日本車は撤兵期限ぎりぎりまで軍政を行な って日本の力を植えつけようとしていた。その意図は、1905年7月5日の遼東兵站監井口省吾のつぎの訓示に明らかであろう。 「本月一日ヨリ満州ノ占領地域内ニ於テ帝国臣民ノ実業ニ従事セソトスルモノノ居住営業ヲ許セシハーハ戦後満州ニ於ケル収利ノ基礎ヲ固メ将来ニ於ケル我文明扶殖ノ為メニ地歩ヲ作りーハ清国労働者間ニ散布セル軍票ヲ回収シ以テ国家経済ノ幾分ヲ稗補セソトスルニ在リ」(『外交文書』別冊・日霧戦争のV)

  こんなありさまで米英における日本の人気を落とすのはまずいとした伊藤博文は、1906年 5月22日、元老、閣僚、軍部首脳などを集めて首相官邸に満州問題協議会を問き、軍政の早期廃止の方針をみとめさせたが、じっさいには、軍政のねらいは成功しており、戦前満州貿易を 握っていた英米商人の力は急速におとろえ、満州は日本の市場と化してゆくのである。



満鉄中立化問題と第二回日露協約

 こうした情勢に対して、アメリカは、鉄道への投資を中心とするドル外交で反撃に転じ始める。1909年(明治42年)清国とのあいだに、米英資本により錦州−愛琿間の鉄道を敷設する予備協定を成立させると、12月18日アメリカ政府は、このことを報ずると同時に、清国の領土保全と機会均等主義を実現するため、満州のすべての鉄道を清国の所有とし、関係列国の共同経営にする案をもち出してきた。これは、鉄道を中心にして満州の植民地化をはかっている日本とロシアをおびやかすものであった。日露両国は協議のう えでこの提案を拒否し、不成立に追い込んでゆくのであるが、このことは、満州における日露の提携が、満州を両国の独占下におくことをめざしている点を、より明確にすることが必要だと考えさせるにいたった。1910年(明治43年)7月4日、前回の協約を補充するものとして第二回日露協約が調印されたが、その第一条で、両国が満州における鉄道について「友好的協力」を行ない、「一切ノ 競争ヲ為サザルコト」を規定したのは、あきらかにアメリカの満州鉄道中立化案への対抗を示していた。さらに秘密協定では、前回協約の利益分界線を両国の特殊利益の境界とすることに改めた。そして相手の地域内では「何等政治上ノ活動ヲ為サザルコト」を約束していた。それは、日本側の方針でいえば「両国ノ関スル限リニ於テ満州ノ市態ヲ決定スルコト」(明治43年3月閣議決定『外交文書』43の1)、つまり、日本とロシアだけの話合いで満州の植民地化を進め、他 の国の介入を許さないというわけであった。

  満州開放を約束して、日露戦争に対する米英の支持を得た日本は、いまや、その敵であったロシアと結んで、かつての支持者と対立するところまで急速な転身を示した。この協約の翌月には、韓国を併合してここでも他国の介入を許さない体制を完成させたことは前にもふれたとおりであ る。



日露戦争の帰結

アメリカの満州鉄道中立案を拒否し、第二回日露協約で満州独占化の方向を定め、韓国併合を実現するという1910年の日本のあり方は、日露戦争の帰結を示すものにほかならなかった。

  もっとも本質的なことは、ここで日本が大陸に植民地を獲得し、民族運動を抑圧する体制を確立した点にあった。そしてそのうえに、この植民地支配の維持と拡大のやり方をめぐって、列強との対立や妥協が展開してゆくことになるのである。いわば、植民地支配の問題をはなれては、これ以後の日本の歴史はありえなくなったわけである。

  もちろん、ここですべてが決まってしまったというのではない。しかし、その後の大正デモク ラシー運動も、社会主義運動もこの植民地問題を動かすだけの力をもらえず、この問題がその後の日本を規定してゆくという事態を変えることができなかった。

  日露戦争という曲り角をすぎた日本は、第二次大戦への坂を降り始めてゆくのであった。