『京都の歴史』8

1975年3月

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「戦争と京都」



古屋 哲夫

 

明治中期の京都政界
日露戦争と京都

日露戦争と京都
開戦前後の京都
重税と不景気
深草連隊の戦歴
伏見俘虜収容所
講和問題と京都
第十六師団の設置


日露戦争と京都



開戦前後の京都

 明治36年4月21日、小村外相は伊藤枢密院議長と共に京都に入り、無鄰菴で元老山県有朋と密議をこらした。問題は義和団事件以来満州を占領し、容易に撤兵しようとしないロシアにどう対応したらよいかということであった。当時の日本の支配層は、ロシアが 満州に居すわり、更に朝鮮にまで進出してくることをおそれていたのであり、政府はとりあえずロシアに朝鮮における日本の誕越した地位を認めさせるための交渉を始めた。しかし 民間ではロシアとの開戦を主張する強硬論が急速に強まって いた。  

 京都でも京都の政財界に大きな影響力をもっていた高木文平らが対露強硬論を唱えていた。明治37年になると元日の『京都日出新聞』は、「新年と時局」と題する社説を掲げ、 日露関係の解決が「遂に干戈に於てせられ、兵結んで容易に解けざるが如きことあるも、何れ大勢は本年の内に定まるなるべし」と述べて、ロシアとの戦争をもはや既定の事実として扱っていた。そして戦争が始まりもしないうちから「戦捷後の措両如何」を論じだす有様であった『日出』明治37・1・26、28。また高本文平は1月8日に「戦争の機会を外すな」と桂首相に打電するとともに、翌9日には大森府知事・内貴市長を訪れて軍資金献納申し入れ、出征軍人慰問会の設立や慰問資金募集などについて協議している。

  政府も明治36年末に は戦争の準備を始めた。37年1月5日には、艦隊や艦船・軍隊の移動を始め、 「軍機軍略に関する事項」を新聞・雑誌に掲載することを禁ずる陸海軍省令が出され、戦争への緊張感を高めた。政府が最終的に開戦の方針を決定したのは2月4日の御前会議においてであったが、翌5日には早速、軍事行動が開始され、国内でもこの日から軍隊の動員が始まった。京都府庁にも「昼夜ヲ分タス」召集令状がまいこんできた。府庁文書は当時の有様を「右動員令ノ府庁二到達スルハ多ク夜間ニシテ、当務者二在テハ安眠ノ間ヲ 得ス。休日ヲ排シ昼夜ヲ分タス、唯事務ノ敏活周到ヲ計ルノ外他事ヲ為ス能ハス」と述べている『京都府日露時局記事兵事事項』。

  2月8日から9日にかけて日本軍の仁川上陸および仁川・旅順のロシア艦隊攻撃によって戦争の火蓋が切られ、翌10日宣戦布告が行なわれた。2月11日の紀元節には、ロシア軍艦撃沈のニュースがもたらされ、京都では早くも戦勝祝賀の提燈行列が行なわれた。まず市役所前に集まった3500名の高等小学生が、次いで新聞記者たちの呼びかけに応じて円山公園に集まった2万名を超える市民や学生たちが、いずれも御所の建礼門に向かって提燈行列をくりひろげた。日清戦争の際の戦勝祝賀は、有志による宴会が開かれた程度であり、こうした街頭での祝賀行事が行なわれたのはこときが最初 であった。新聞は自らの企画を「曽て見ざる壮快なる事」と自賛している『大朝』明治37・2・13.



重税と不景気

 しかし、当然のことながら、戦争は民衆生活にとって大きな負担となった。この戦争のための経費は約20億円にのぼったが、そのうち増税によるも のは2億円余りにすぎず、ほかは内外債、特に米英市場での外價募集に頼らねばならなかった。このように戦費全体のなかで増税の占める役割は低かったが、それでも民衆にとっては大きな負担であった。

 戦争が始まると政府は早速、非常特別税法を制定し、地租をはじめ各種の国税の税率をのき並み引上げ、更に小切手印紙税・通行税・織物消費税・石油消費税などを新設した。京都では織物関連業者が織物消費税反対の態度を決め、委員を東上させて陳情を行なったが、戦争という非常事態のもとでは効果を挙げることができなかった。非常特別税法は更に、国税の増徴を確実にするために、府県や市町村が国税付加税を課する際の税率をそれ以前の水準より低く抑えることとした。いねば地方行政費をできるだけ切りつめさせ、それだけ国税を余分に徴収できるようにしようというわけである。こ の措置によって地方財政は窮地においつめられたが、京都でも表5にみるような大幅な収入滅となり、学校や道路の建設などさまざまな事業をくりのべて収支のつじつまを合わせねばならなかった。

 

36年度

37年度

38年度

地租割

544,248円

366,573円

361,971円

営業税

55,160円

50,308円

43,740円

雑種税

149,803円

147,614円

143,808円

営業税付加税

14,749円

14,271円

14,962円

戸数別

229,308円

186,807円

136,548円

993,268円

767,573円

701,029円


 民間でも軍需と関係のない産業は戦争が始まるとたちまち不景気となった。京都商業会議所が開戦の翌月、明治37年3月末現在で行なった調査によると、前年同期に比べて菓製造業で3割弱、醤油が1割強と生産が落ち、京人形に至 っては3分1の生産高に急落している。このような不景気に ともなって、これまで一軒の宗を借りていた者が間借りに移 ったり、家賃の高い家から安い家に引っ越したりする現象がみられるようになり、前年36年10月1日現在に3980戸だった市内の空家が、6484戸を数えるに至っている『日出』明治37・4・19。

 戦争によって生活が苦しくなるにつれて、早く勝利のニュースを聞いて御祝い騒ぎで気分を晴らしたいという願望も強まっていったようにみえる。遼東半島に上陸した第二軍は、 5月25日南山、30日に大連を占領したが、この戦闘祥報が伝えられる6月になると、早くも旅順占領祝賀行事がさ まざまなかたちで準備されはじめた。府・市立の学校生徒を集めた連合祝捷会、国旗を掲げた比叡山登山、平安神宮から深草連隊に至る自転車国旗行列などが企画され、更に実際に 第一回旅順総攻撃が行なわれた8月になると、応天門前の二条通に「帝国万歳」の4文字のイルミネーションが立てられている。

 当時は軍首脳部でさえも旅順の防府についての情報を得られず、旅順攻撃を軽く考えていたのであるから、新聞記者たちが1回の総攻撃で占領できると信じ込んだのも無理からぬ事であったかもしれない。「旅順司令官ステッセル自殺」「旅順の陥落は24、5両日のうちなるべし」「我軍旅順市内に 入る」といったあやしげなニュースが「芝罘電報」として紙面をにぎわしていた『日出』明治37・8・9、24,25。しかし実際には5万を超える兵力をつぎ込んだ明治37年8月第一回総攻撃は15800人という大損害を受けて失敗し、旅順陥落の日と して伝えられた8月24日には第三軍司令部は攻撃中止の命令を下していた。確実だったのは、6月中旬から次々と伝えられる戦死者の氏名の方であった。



深草連隊の戦歴

 日露戦争では日活戦争の際とちがって、京都出身の兵隊たちも激しい戦闘を経験しなければならなかった。最初に出征したのは、仁川に上陸し鴨緑江を越えて満州に向かう第一軍(近衛・第二・第十二師団)であったが、続いて遼東半島に上陸する第二軍が明治37年3月 に編制され、深草の第三十八連隊の所属する第四師団は、第 一・第三師団とともにこの第二軍に加えられた。第二軍は遼東半島塩大澳付近に上陸し、いったん南下して同半島のロシア車を旅順におし込めた上で、北に向きを変えて満州に進撃するという作戦を命ぜられていた。そしてその最初の戦闘が半島最狭部にまたがる南山の攻撃であったが、そこで早くもこの戦争が日本側の予想を超えた激戦となることを思い知らされた。第四師団は南山攻撃の右翼を担い、攻撃は5月25日朝から始められたが、ロシア軍の抵抗は激しく、夕刻になってようやく敵陣の一角を突破するという有様であった。 ロシア車は日本側に充分の打撃を与えたとみて後退したため、 戦闘は一日で終わったが、死傷4300名という損害は日本軍の予想外の大きさであり、この報告を受けた大本営は、一桁違うのではないかと首をかしげたといわれる。深草連隊は、この後も第二軍の隷下にあって、遼陽から奉天に及ぶ攻撃の一翼を担ってゆくことになる。

 ところで、日露戦争で戦ったのは現役兵ばかりではなかっ た。第二軍が遼東に向けて海を渡っている4月27日には、現役兵出征後に動員された後備兵から成る後備第三十八連隊 が編制され、軍旗が授与されている。そして6月17日になると、第四師団の後備部隊である後備第ハ・第九連隊とともに後備第四師団に編制され、旅順攻撃のための第三軍に編入されることになった。そして第一回旅順総攻撃では、第九師団長の指揮下にはいって、東鶏冠山砲台の攻撃に向けられていた。

郡区名

陸 軍

海 軍

合 計

戦死

病死

合計

戦死

病死

合計

上京区

100

92

192

1

0

1

193

下京区

119

108

227

6

0

6

233

愛宕郡

24

23

47

1

0

1

48

葛野郡

36

21

57

1

0

1

58

乙訓郡

37

22

59

1

0

1

60

紀伊郡

47

36

83

1

0

1

84

宇治郡

10

11

21

0

0

0

21

久世郡

18

26

44

0

0

0

44

綴喜郡

31

28

59

0

0

0

59

相楽郡

24

23

47

2

0

2

49

合 計

446

390

836

13

0

13

849

 


 旅順は容易に落ちそうになかった。旅順占領のために準備 された祝賀行事は、明治37年8月28日から9月4日まで戦われた遼陽会戦の勝利の祝賀に切り替えて行なわれたが、同年の10月8日から17日にかけての満州での沙河の会戦に続いて行なわれた第二回旅順総攻撃(同年10月30日〜31日)も再び失敗に終わった。旅順攻略のめどがついたのは、11月28日から12月5日に至る攻撃で二〇三高地を占領したときからであった。京都の後備歩兵第三十八連隊もこの攻撃に参加 しており、竹内正策旅団長は、一大隊中、将校は3名を残して倒れ、下士官以下約半数を失うに至るという激戦の模様を大森知事に伝えてきた『日出』明治37・12・22。旅順のロシア軍も遂に明治38年1月1日に降伏を申し入れ、京都でも1月4日から8日にかけて、さまざまな祝勝の行事が行なわれた。まだ満州では奉天前面で両軍が対峙し、バルチック艦隊が極東に向けて回航中であったが、一般民衆は旅順占領で戦争の山もみえたと感じていた。



伏見俘虜収容所

収容所名

開所年月日

閉所年月日

収容中の最多人員

将 校

下士官以下

本国寺

明治38年3月24日

明治39年1月22日

55人

54人

東福寺

明治38年3月24日

明治38年12月26日

1,518人

妙法院

明治38年7月4日

明治39年1月22日

18人

18人

智積院

明治38年7月4日

明治39年1月22日

43人

42人

歩兵第20連隊

明治37年9月24日

明治38年6月26日

1,000人

福知山町

明治38年6月27日

明治39年1月6日

396人

注)「京都府日露時局記事・兵事事項」

   

旅順陥落で市内が沸立っていた明治38年1月初句に、今度は京都に俘虜収容所を置くために当局が調査を始めているというニュースが伝えられていた。すでに前年の暮れには福知山の第二十連隊内に設以された収容所のようすや、名古屋や静岡に向かって京都駅を通過していく俘虞たちの有様が報道され、駅頭で俘虜を慰問することち認められていた。しかし実際に俘虜が市内にはいってくることになるとやはり物珍しく、3月22日から24日の3日にわたって行なわれた俘虜収容には大勢の見物人がつめかけ、巡査が整理に苦労しなければならなかった。

 収容所には東福寺と本国寺が充てられ、東福寺には下士官以下の兵隊、本国寺には将校とその従卒が収容され、伏見俘虞収容所と呼ばれた(本国寺は支所)。最初の収容人員は東福寺が下士官以下1504名、本国寺が将校20名、 従卒15名であったが、その後5月27日から28日まで戦われた日本海海戦で投降した艦艇の将兵が加えられ、新たに妙法院・智積院にも将校のための収容所が屋かれた。

 収容所では、ロシア貨幣 と日本貨幣との引換えが行 なわれ、所内に設けられた 売店での買物が認められた。 巻煙草「山桜」が最もよく売れたという。しかし将校と兵隊では所持金額に格段の差があり、煙草も買えない兵隊が多かった。また同じ将校でも、 陸軍に比べ海軍の方がはるかに金持ちであり、外出区域が自由化されるにつれて、彼らのぜいたくな消費が人目をひくようになった。外出は、最初は100人程度をまとめて引率し限ら れた地域内の神社・仏閣を見物させるというかたちで行なわ れていたが、講和会議の両国全権が任命された7月になると、 制限は大幅にゆるめられ、特に将校はほとんど自由に外出で きるようになった。当時の新聞は、将校、特に海軍将校のはでな生活ぶりを次のように伝えている『大朝』明治38・7・30。

   

 海軍出身の俘虜将校80余名は何れも金銭を費消する事甚だしく、(中略)出でては四条橋畔のビヤホールに到り高価の洋酒を傾け数皿の美肴を食し転じては祇園新地の貸座敷に登り娼妓を聘して枕席に侍せしめ、娼妓及び仲居邨にも多少の金を与へ、収容所との往復には必ず乗車する抔、其の為す所を見るに多くは放蕩息子の如く必意外出時間に制限あるを以て昼夜流連を為す如き事はなきも彼等は十分の快楽を尽し居れり、(中略)左れば商人のうちには此の俘虜の懐中を目的に俘虜の嗜好に適するの設備を以て急外の金儲けを為し居るものあり、俘虜なればこそ1枚3銭の絵はがきも10銭に買ふなり、1皿12銭位の洋食も20銭に食するなり、1本3円の洋酒も6円にて飲用するなりと各商人は競うて俘虜を店頭に迎へるの有様、是等商人の常とは云へ又浅ましき心ならずや

 俘虜といえば、ロシア軍に捕らえられた日本軍俘虜もいたが、この時期にはまだ太平洋戦争期のような、俘虜となることを罪悪視する風潮は弱かったようである。諧和会議の準備が進められた明治38年7月には、軍は「俘虜帰還者取扱方」を定めて、帰還者を審同会議に付することにしたが、同時に、アメリカを通じて総額1万円以上にのぼる俘虜慰労賜金を送っている。日本の新聞にも主な日本人俘虜の氏名や、アメリカ領事の伝えるメドヴィエヂ村収容所(1767名収容)のようすなどが掲載されている。そして39年になって日本人俘虜が帰還してくると、『京都日出新聞』は「噫同胞俘虜」 と題する社説を掲げ、審問の寛大なることを望むとともに「吾曹は帰還俘虜に向つては誰れ彼れの区別なく赤心以て歓迎を表せんと欲するものなり、何ぞ一般将卒の無事凱旋と択ぶ可けんや」と力説していた『日出』明治39・2・16。



講和問題と京都

 3月1日から10日に及ぶ奉天会戦は、両軍主力が激突した日露抗争殼大の陸戦であり、京都の第三十八連隊も攻撃の一端を担っていたが、この戦闘で もロシア軍主力を殲滅することはできなかった。そしてこのあたりで、日本の軍事力も限界に達していた。開戦以来日本軍の損害も多大であり、特に将校が不足しつつあった。またこれ以上北進することは補給の点でも不可能であった。奉天会戦直後参謀本部はハルピン攻撃を断念したが、長岡参謀次長はその理由を次のように述べている『機密日露戦史』谷寿夫。

   

 満州軍は鉄嶺付近を超えて前進すべからず。之れ兵站事務の困難と兵力の分散を防がん為にして、敵に苦痛を与ふるよりも我の受くる困難多大なればなり

 したがって日本海海戦で大勝利を収めると、政府は内密にアメリカに対し講和の仲介に乗出してくれるよう働きかけを始めた。アメリカの政府はこれを受けて、6月9日正式に日露両国に講和を勧告する通牒を送った。

 すでに4月に京都を訪れた谷干城は、まだロシアの領土に一歩も足を踏み入れないうちから幾十倍の償金をとれるなどと考えるのは「如何にも馬鹿気たる談なり」と、ようやく盛んになってきた講和条権をめぐる論議を批判していたが『日出』明治38・4・12、民間の講和論はまさに谷がおそれた方向に発展していった。6月に入ると『京都日出新聞』は「媾和論議」を連載して諸家の意見を掲載したが、その大多数は、賞金2、30億円、沿海州・樺太の割譲を要求していた。そしてその前提となっているのは、日本はまだどこまでもロシア軍を攻撃できるという根拠のない考えであった。日本の軍事力が行詰っていることはごく限られた最高指導者以外には知らされていなかった。

  8月10日から始められた講和会議に関する報道も希望的観測にすぎないものが多かった。たとえば8月14目の『京都日出新聞』はわざわざ大きな活字を使って「露国は日本にして土地割諭の要求を撒去せば、償金を我要求よりも多く支払ふ事を辞せざるものゝ如し」と報じたが、償金支払を拒絶することはロシア側が交渉の決裂をかけても貫いた大原則であった。また8月30日には「29日の会見に於て談判愈落着」「確聞する所に依れば、一、樺太全部の割譲、一、捕虜費用2億3000万円支払、右の二条件にて講和は成立したりといふ」という号外を出した。なるほど29日の会談で実質的合意が成立したことは事実であったが、それは無賠償、樺太南半部のみの割譲という内容のものであった。

 新聞に書かれたことだけからいえば、政府が何故暗償もとらずに講和を結んだのかわけがわからなかった。戦争のため に生活苦をたえしのんできた民衆は、自分たちの苫労がむくわれなかったという気分になり、「屈辱講和反対」の声に和した。当時の新聞は「戦時増税の苦を忍びて納入しつゝありしも我が戦勝の効果を得んが為なり。然るに今回の如き醜陋なる結末を見んとは実に案外なり。此の後は種々の工面を為して戦時税を出すの男気なしと説くもの多し」『大朝』明治38・9・6と民衆の気分を伝えている。そして9月5日に東京日比谷公園で開 かれる予定の講和問題国民大会に呼応して、翌6日に京都市民大会を開く計画が立てられた。

 東京の国民大会が警視庁から禁止され、遂に交番や御用新聞社に対する焼打ちに発展したとのニュースが伝えられるなかで、9月6日午後4時、京都市民大会は堀田厭人を座長と して開会され、当局者の辞職と講和条約破棄を求める決議を採択した。会場の岡崎公園には1万2千の民衆がつめかけたと伝えられる(第四章第一節参照)。しかし、一連の講和反対運動も講和をくつがえすことはできず、11月になると後備第三十八連隊を最初として、京都出身部隊も続々と帰還してく るのであり、市民たちは歓迎の準備におわれるようになった。



第十六師団の設置

 日露戦争が始まったときの日本の兵力は、近衛および第一−第十二の計十三個師団であったが、戦争末期の明治38年4月には第十三・十四師団、 6月には第十五・十六師団が新設され、戦争が終わったときには十七個師団にのぼっていた。これらの新設師団は既設師団から将校以下の兵員を抽出して編制され、そのまま戦地に動員されたのであり、平時にも常置するためには、駐屯地や管轄区域を決めなくてはならなかった。たとえば第十六師団 は主として近畿以西の六個師団から兵員を抽出して熊本で編制されて満州に向かい遼陽・海上付近の守備につき、40年3月に帰還、浜寺など大阪府下に仮屯営している。そして新しい管轄区域が決まると他区域出身兵をかえし、以後3年程の間に新管轄区からの徴兵で定員を充足するというのが師団新設のだいたいの順序となっている。

 明治40年に入ると、陸軍当局は戦時中新設の四個師団と戦後増設の二個師団、あわせて六個師団の駐屯地を検討しはじめた。地方によっては誘致運動の行なわれていたところもあったようであるが京都ではそうした動きは全くなく、新師団が来ることは全く予期されていなかった。『京都日出新聞』も新師団の位置は、久留米・岡山・浜松・宇都宮・越後高田・撹に「決定したるやに確聞す」との記事を掲げており『日出』明治40・3・13、実際に第十六師団の京都設置が決定した2月19日には号外を出した程であった。師団は歩兵四個連隊を基幹とし、特科部隊を加えて編制されるが、第十六師団の場合には司令部を京都に置き、第九(大津)・第十八(敦賀)・第三十八(深草)・第五十三(奈良) の歩兵連隊に騎兵第二十連隊・砲兵第二十二連隊・エ兵第十六大隊・輜重兵第十六大隊を加えるというかたちに再編されたわけである(正式には、明治40年9月18日の陸軍管区表・常備団隊配置表改正による)。

 予期していなかったこととはいえ、京都師団設置が決定されたとなると、その具体的な場所をどこにするかは、利害関係がからんだ大きな問題となった。3、40万坪を必要とする候補地としては、(一)第三十八連隊のある紀伊郡深草村付近 (二)愛宕郡上賀茂・大宮村付近 (三)葛野郡花園 村付近の三ヵ所が挙げられ、いずれの地域からも有力者の誘致運動が起こったが、京都市内、特に上京の有力者が(二)の線を強く推進しようとしたため、(一)と(二)の二つの誘致運動が激しく競い合うかたちとなった。4月の初めには、堀田康人を委員長とする上京・愛宕派と、伊東熊夫を委員長とする伏見・深草派の二つの期成同盟会が生まれた。そしてそれぞれ関係地主から売渡しの内諾をとる運動を始めた。

 このような運動が行なわれるは、師団設置にともなうさ まざまな需要が、その地域の繁栄をもたらすことを期待してのことであった。たとえば西陣機業家から出された請願書は、 維新以来京都が「東京・大阪等の発展隆昌を羨仰するのみ」 であることを嘆き、もし「新設師団基地を市の南方若しくは市外遥かの南方に定められ侯ときは、従て市の中心と繁盛は順次南方に移り、下流の大阪は更に一層の隆昌を加へ、京都北方の人民は弥々姑息是れ守らざるべからざる悲境に陥る」 と訴えているが『日出』明治40・4・5、これは京都北部誘政派の心情を代表するものであったであろう。北部誘致派は更に市会に働 きかけ、4月8日および10日の議員協議会で、誘致の方法として市の北方ならば30万円、南方ならば15万円程度の寄付を行なうとの合意にこぎつけた。

 しかし一方すでに第三十八連隊をかかえている伏見・深草方面では、軍隊駐屯があまり利益にならないと考える者もあり、期成同盟会に売渡しの内諾を示さない地主が出たり、小作人が土地買収の場合の保証金を要求して郡役所に押しかけるなど、誘致一本にまとまっているわけではなかった。

 このような動きのなかで、、4月26日になって深草付近への設置が決定したとのニュースが伝えられると、これまで 競い合って高まってきた誘致運動の後始末をめぐって新たな混乱が始まった。京都市側ではさきの市会議員協議会の決定の徐に沿って、15万円の寄付を行なうことになったが、そのための財源はなく、市当局は短期公債(期限3年)を募集して寄付に充てるという案を立てた。これに対して、現実に師団が設置されることになった紀伊郡では、同郡師団期成同盟会が5万円の寄付をする方針を決め、伏見町3万5千円、深草村1万円、竹田村3千円、東九条村8百円、その他1千200円という分担案をつくった『日出』明治40・5・8.。しかしこの双方とも寄付問題は紛糾を重ねることとなった。

 15万円寄付のための公成案は明治40年7月19日の市議会に提出され、直ちに議長指名の7名の小委員会に付託された。しかしこの時期になると、京都北部誘致のために寄付金問題を特出したはずの上京出身議員たちが今度は寄付反対を 唱えるに至っていた。小委員会は下京選出4議員(いずれも大成会)、上京選出3議員(いずれも至誠会)で構成されたが、下京の片山正中議員が委員長となったため、委員は3対3の同数となった。この小委員会で上京派は、市が寄付という無償行為を行なったり、そのために公債を募集したりすることは違法だとの法律論を持出し、更にこの種の寄付は不必要だと主張するに至った。のちの9月2日の市議会本会議で、小委員会メンバーの並河慶栄議員(上京)は、元来国家事業である師団設以は市の寄付を必要とせずに完成されるはずであり、また市長の説明のように寄付金が司令部を木造から煉瓦造にするというように「師団長以下幕僚将校ノ贅沢ニ資スルニ止マリ忠良ナル多数兵士ニ均霑スルヲ得ザルモノ」に使われるなら、なおさら不必要だと論じた『京都市議会事録』明治40。これに対して下京派は、「師団敷地買収又ハ同建築賢ニ充ル為」という原案の目的を、「師団建築費又ハ其他ノ費用」と修正して成立させ ることを主張した。公債案が提出されたときにはすでに土地買収は主要な部分を終わっており、たとえば中心部の深草村では6月下旬までに23万余坪のうち8万金坪を残して買収契約がまとまっている『大朝』明治40・6・20。一部の地主は翌41年に至ってもなお抵抗しているが、大勢はこの段階ですでに決まってしまっていた。

 小委員会が、8月28日になって、一委員欠席のまま、 否決3、修正2で原案否決の結論を出したため、15万円寄付問題をめぐる対立はいっそう激化した。『大阪朝日新聞』 京都付録の明治40年7月26日付が、「速かに処断して本問題を絶対に否決せよ」と否決派を支持する論説を掲げるかと思えば、8月31日には西村彦右衛門議員、9月1日堀田康人議長と否決派議員が相次いで暴漢におそわれるという事件も起こった。

  しかし、否決派の違法論も、無償行為についての規定が「市制」に規定されていないという点をめぐる解釈論で論争は結局水掛論に終わり、また寄付不要論も、当の主張者が初めは30万円寄付の話をまとめるために奔走していたというのでは説得力に欠けていた。結局、15万円寄付問題は、修正派の意見どおりに9月2日の市議会で可決された。

 一方、紀伊部の5万円寄付問題の方はもっとあやしげな結末となった。伏見の積極的誘致派が打出したこの案は、深草村に反対され、伏見内部でもそっぽを向かれ、将校用の宿舎をつくるという案に代わったが、結局のところ、伏見町で将校に貨すために家屋を新築した者に補助金を出すという規定 がつくられただけに終わった。

 さまざまな思惑が入りみだれて紛糾した第十六師団設置問題も、大きくみれば、不景気のなかで強行された軍備拡張が 更に民衆の負担を増大させ、やがて第一次憲政擁護運動を生み出してゆくという全国的政治過程の一環をなすものであっ た。工事が完成して、第十六師団が移駐してきたのは翌明治41年11月16日のことであった。