(1)明治から大正へ―大喪費予算と第二九回議会
明治45年7月20日、渡辺宮内大臣は、14日以来病床にあった天皇の容体が悪化したことを内閣に通告、内閣は早速、「御容体書」を官報号外として発行し、このことを国民に知らせた。以後、大臣たちは日々参内して即天皇の容体をうかがったが、29日の原内相の日記には、次のように記されている。
|
「午後十時四十分天皇陛下崩御あらせらる、余等一同西溜に於て此事を西園寺より聞き直に両陛下天機奉伺を なして内閣に帰り居たるに、西園寺も来り、色々協議したり、実に維新後始めて遭遇したる事とて種々に協議を要する事多かりしなり。
崩御は三十日零時四十三分として発表する事に宮中に於て御決定ありたり、践祚の御式等挙行の時間なき為めならんかと拝察せり。」(前掲『原敬日記』第三巻 241頁) |
また、公式記録である『明治天皇紀』は次のように記述していた。
|
「三十日 御病終に癒えさせられず、午前零時四十三分心臓麻痺に因り崩御したまふ、宝算実に六十一歳なり、乃ち宮内大臣・内閣総理大臣連署して之れを告示す、(午前)一時内大臣剣璽及び御璽・国璽を奉じて正殿に至る、是に於て剣璽渡御の儀行はれ、新帝詔書を発して元を大正と改めた芦ふ」(前掲『明治天皇紀』第一二巻 818〜819頁) |
この7月30日の閣議では、早くも臨時議会召集の問題が討議されているが、この問題への関心は、急速に広まっていった。直接の問題となる大喪費については、予備費から支出すればよく、議会を召集するまでもない、 との意見もあったが、こうした費用を事後承諾の項目とするのは妥当でないという反対論も強く、また議会各派からは、この際国民の代表たる議会を召集して、敬弔の意をあらわすべきだという声があがってきた。内閣も、 8月1日の閣議で臨時議会召集を決定しているが、その模様を、原敬は次のように伝えている。
|
「午後二時より閣議を開き一昨日未決の儘なりし臨時議会召集の件を議し、上原、内田は不賛成なりしも遂に同意したるに因り召集の事に決定せり。御大喪の費用は予備金より出す事を得べく又国民其費額に異論もなかるべしと雖も、国家皇室に取りて最大重要の事故に遭遇したれば国民と其に其憂を倶にするこそ適当と思ふが故なり、聞く所によれば西園寺も最初は其説なりしが、山県等如此場合に議会の干与を好まざりしと見え、不同意を表したるものゝ由なり。」(前掲『原敬日記』第三巻 242頁) |
8月6日、大喪を9月13日から15日にわたって行う旨の告示が出されたが、同じ日、会期3日問の臨時議会を8月21日に召集する旨の詔書も公布された。この第29回議会は、総選挙後最初の議会であったが、憲法四五条に基づく特別議会としてではなく、四三条に基づ く臨時議会として召集されたものであった。召集日には、衆議院では議長選挙が行われ、議長には政友会の大岡育造(再任)、副議長には国民党の関直彦が選出された。貴族院では、議長徳川家達、副議長黒田長成の任期が続いている。
23日の開院式には、新天皇は親臨せず、西園寺首相が勅語を代読、原敬は「是れも元老等より何か進言せしやも知れず」(前掲『原敬日記』第三巻 248頁)と記しているが、その間の事情は明らかでない。翌24日両院本会議は、154万5千余円の追加予算(大喪費)案を討論なしに可決、成立させると、25日は日曜日につき休会とし、これで会期を終了している。
(2)二箇師団増設問題で西園寺内閣倒れる
ところで、開院式の行われた8月23日の東京朝日新聞は、「上原陸相は行政整理による陸軍の節減額を主とし之を以て二箇師団増設案を作成し、昨日参考として西園寺首相の手許まで提出したる由」と報じ、さらに翌日の紙面には、その内容は「制度整理により約三百万円を節減すると同時に、朝鮮師団の増設に伴ふ経常費四百七十万円臨時費二千万円を来議会に要求」するものだとの記事を掲げた。大喪費予算のための臨時議会の最中に早くも、来年度予算に向けた師団増設要求を提出してきたことは、上原陸相の強硬な態度とともに、この問題が内閣 にとって困難な事態を引き起こすことを暗示するものでもあった。
上原勇作中将が陸軍大臣に就任したのは、第28回議会終了直後の4月5日であり、4月2日に石本陸相が病死した後を継いだものであった。原内相は、上原が薩摩出身であることから、長州中心の陸軍のなかで「異分子」 として活躍することを期待し、桂前首相の推す木越安綱中将(長州出身)を排して上原を推薦したと述べているが(前掲『原敬日記』第三巻 225頁)、もともと、組閣にあたって寺内前陸相(朝鮮総督に就任)が「後任に就ては石本を勧め石本の後には上原然るべし」(前掲『原敬日記』第三巻 159頁)と西園寺首相に推薦していた人物であり、山県・寺内の系統に属していることは明らかであった。そして陸相に就任した上原は、山県の作成した「帝国国防方針」が掲げている二五箇師団実現のために、増師に邁進する姿勢を示していた。
しかし内閣としては、1年延期とした海軍拡張や前議会で約束した所得税減税など、すでに予定されている政策の実現を図ることで手一杯であり、閣僚のなかには師団増設のようなまだ決定していない問題に手をつけるわけにいかないという意向が強かったが、ともかくも行政整理によって、できるだけ多くの財源を捻り出すことが先決であるとされた。10月下旬には各省の整理案が内閣に集められ、さらに節減の可能性が検討されているが、 陸軍省だけは、内閣が認めないのなら、自省で節減した財源で師団増設に着手するという態度をとり、整理案を 内閣に提出しようとしなかった。山本蔵相と上原陸相との交渉も進展せず、内閣側は、桂園時代をつくり上げた桂前首相との関係に期待したが、内大臣に就任して新天皇の側近となり宮中に入った桂は、政治的には動きにくくなっていた。
桂は首相辞職後、次の政治活動の準備としてロシアを経てヨーロッパ諸国を歴訪する計画を立て、後藤新平、 若槻礼次郎を伴って7月6日東京を出発、大連から満鉄・シベリア鉄道によって21日ペテルスブルクに到着、ロシア政府首脳との会談を行っていたが、明治天皇危篤の報によって、急濾帰国の途につき、8月11日朝、東京に帰っている。そして翌々13日には、元老山県有朋の推挙により、内大臣兼侍従長に任命されたのであった。 桂は以後政治に関与しないとの態度をとったが、西園寺首相や原内相は、増師問題についての意見を求めて、桂との接触を続けていた。
桂は、8月18日原と会見した際に、師団増設は山県の主張であり、したがって「山県に対し此如意外の提議にては困難なりとの趣旨を以て直接談判する方得策なり、山県と談判したる後なれば自分が口を出すの機会も在らん」(前掲『原敬日記』第三巻 246頁)と述べたという。そしてこの指示に従って、8月30日には、西園寺首相が山県を訪問しているが、「陸軍が経費を節減して相当の財源を得たる上にても尚ほ増師不可なりとありては上原陸相の立場に困却すべし」(前掲『原敬日記』第三巻 250頁)というのが山県の意見であった。これは陸軍の行政整理を内閣から切り難して、増師のためのものに限定しようとするものであり、上原陸相の態度が、こうした山県の意見を背景としていることは明らかであった。
9月に入ると陸軍と内閣との対立は、一般にも報ぜられるようになっていたが、その際、陸軍の態度が立憲主義に反するものとしてとらえられ始めたことは、注目すべきことであった。たとえば、10月2日の東京朝日新聞社説は、次のように論じている。
|
「西園寺内閣は陸軍拡張の問題に依て、内閣の不統一を招致し、既に危機に瀕せりとの報あり。上原陸相は二師団拡張の意見を固執して譲らず、山本蔵相は財政に余裕なきを以て之に反対し、互譲の余地頗る少きが如しと云ふ。吾人が之に対する希望を開陳せんに、若し西園寺首相にして上原陸相を制する能はずとせば、須らく彼の首を刎ねて、以て財政行政の整理を断行すべし。是れ内閣が曩に帝国議会に公約したる所を実行する所以にして、また国民の与論に副ふ所以なリ。而して首相にして之を断行するの勇気なくんば、此際須らく冠を挂けて、民間に下り、次ぎに来たる可き武断内閣に対して、一決戦を試む可し。四園寺首相が立憲的政治家として執る可き針路は、此二途を措いて外に存せざるなり。」 |
この主張は、「元老が無責任の地に在って、政治に干渉するは、我憲法に汚点を印せんとする不当の行動」とし、西園寺首相が山県や桂「に協議するのは「非立憲的」と断じているように、内閣が元老や軍部の干渉を排除し、議会に対する責任をとって政治を行うのが、憲法の期待する「立憲主義」だとする一定の憲法理解を前提にしたものであった。そして陸軍の無理押しをきっかけとして、こうした「立憲主義」の立場からする政治批判が、いっせいに吹き出してくるのであった。
内閣は、11月8日の閣議で、第三〇回議会を12月24日に召集することを決定、翌日召集詔書が公布されているが、このころになっても、陸軍も内閣も態度を変えず、陸軍側で田中義一軍務局長が、井上馨、松方正義らの元老や、渋沢栄一らの実業家の間に増師の必要を訴えて奔走すると、政友会側からは田中を「馘首」すべしとの声が高まっていた(『東京朝日新聞』大正元年11月12日)。しかし陸軍側には、山県が西園寺首相に「海軍案は行はれて陸軍案行はれずとありては陸軍に於て不快を感ずべし」(前掲『原敬日記』第三巻 261頁)と述べているように、海軍拡張に先んじられることを「不快」とする感情も強まり、この問題で後退することはできなくなっていた。そしてこの点に閣しては、問題は「国防」ではなく、長州陸軍閥の薩州海軍閥に対する「閥防」だとする論調もあらわれていた(『東京朝日新聞』大正元年11月26日 社説)。
しかし内閣としては、議会召集を前にしてこの問題の解決を急がねばならなかった。上原陸相は、首相が増師案に賛成してくれなければ、閣議に提出しないとの態度をとっており、ようやく11月22日の閣議にかけられたが、上原はごくおおまかな説明をしたにすぎなかった。これに対して26日、西園寺・松田・原の政友会出身三閣僚が会合し、上原が増師の1年延期で妥協しなければ、陸相の後任が得られなくて内閣が倒れることになっても、増師案を承認しないという方針でいくことを決定した。ついで28日の臨時閣議では、まず行政整理案を検討してから増師案を討議することとされたが、上原もすでに辞職を考えており、関係「書類を持参せず其説明をなすこと能はざりき」(前掲『原敬日記』第三巻 268頁)という有様であった。そして30日に、増師は必ず来年度から実施したいとの回答がもたらされると、西園寺首相は上原以外の閣僚を招集し「明日首相より上原に勧告して辞表を出さしめ、其上にて後任者を選択して上奏の手続きをなすべし……但し後任者なきときは閣員一同辞職する事」(前掲『原敬日記』第三巻 269頁)と申し合わせた。
12月1日、首相から増師案が閣議で不承認となった旨を申し渡された上原陸相は、翌2日自ら参内して辞表を捧呈するとともに、その理由を上奏して辞職したが、このやり方は、陸軍への批判を強く刺激することとなった。すなわち、首相の了解なしに、首相を経ずに行われたこの上奏は、「軍機軍令」に関して軍部大臣に認められていた単独上奏権=帷幄上奏権の行使とみなさざるをえず、とすればそれは、増師問題を内閣の関与しえない統帥権の範囲内に取り込もうとする陰謀にほかならなくなるのであった。
上原辞職後、西園寺首相は元老山県有朋と協議したが、陸相の後任は得られず、結局こ12月5日第二次西園寺内閣は総辞職した。
(3)第三次桂内閣の成立と憲政擁護運動の展開
大正元年12月6日、山県、井上、大山の三元老により元老会議が開かれたが、ここから始められる次期首相の選定は異常な難航を繰り返すことになった。元老会議は最初にとりあえず西園寺公望に留任を求めたが、拒絶されると次に、鎌倉に療養中の元老松方正義を候補者とした。松方は一時首相就任に意欲を示したが、結局熟慮3日にして辞退し、ついで山県系官僚で元内相の平田東助か第三の候補者、薩摩出身で海軍最大の実力者山本権兵衛が第四の候補者とされたが、次々と辞退されるという有様となった。そしてこの間に、問題を起こしたのは陸軍の長州閥であるから、彼らが責任をとるべきだという空気がしだいに強まっていった。
当時、長州出身で陸軍の実力者としては、山県、桂、寺内の3人があげられたが、山県はすでに第一線に登場する気配なく、寺内は増師問題の黒幕として攻撃されており、結局元老たちは、12月17日の第一〇回元老会議で、桂を首相候補に推挙したのであった。桂はそれに基づく組閣の大命を受けて、第三次内閣を組織するのであるが、これはある程度予想された事態であった。たとえば、12月2日、上原の辞表提出をうけて侍従長として、首相官邸を訪れた桂に対して、西園寺が内閣総辞職に触れ「後任には寺内は不可なり、君がやるべし」と水を向けると、「桂も寺内は不可なりと同意せしも桂自身のことに付ては強て之を拒まず多分引受くるの意思ならん」とみうけられたという(前掲『原敬日記』第三巻 270頁)。また新聞にも、すでに西園寺内閣総辞職の時点で、陸海軍の双方を押さえて均衡をとる必要という観点から、「後継内閣を組織するものは桂内大臣兼侍従長なるべしと推せらる」 (『東京朝日新聞』大正元年12月3日)との予測が報ぜられていた。
桂にとっての難点は、新天皇を常侍輔弼する責務を負って官中入りしたはずなのに、わずか4か月にして政界にまいもどってくるのは、宮中府中の別を乱すものだという非難が巻き起こってくることであったが、この点を考慮して、組閣の大命と同時に桂に対して「卿ヲシテ輔国ノ重任ニ就カシメンコトヲ惟フ」との勅語が下されていた。それは、天皇自身が桂に対して、宮中を出て国務にあたることを求めるという形式を整えたものであった。
第三次桂内閣の組閣は、これまでの桂内閣で登用・養成してきた人材を中心として、内務大臣に大浦兼武、大蔵大臣に若槻礼次郎、逓信大臣に後藤新平、農商務大臣に仲小路廉、文部大臣に柴田家門を配し、そのほか外務大臣に駐英大使の加藤高明(帰国まで首相兼任)、司法大臣に検事総長の松室致、陸軍大臣には日清戦争の際桂第三師団長のもとの参課長であった木越安綱を起用し、海軍大臣には斎藤実の留任を求めるという構想で進められた。しかし桂の増師問題収拾策が、陸海軍の軍拡案をともに1年延期するというものであったため、海軍側からは一歩先んじていたはずの海軍の要求を陸軍の線まで引き下げるものという反発が起こり、斎藤は留任を拒否するに至った。柱はここで第11回目の元老会議を要請し、その結果、今度は斎藤に対して勅語が下されることになり、ようやく12月21日、斎藤の留任によって第三次柱内閣の成立にこぎつけたのであった。
第二次西園寺内閣の総辞職からここまで、2週間を超える政治的空白が生じたことになるが、この間に、増師問題をめぐる陸軍の横暴に対する批判は、桂内閣の出現そのものを、「非立憲的」と非難し、「憲政擁護」をスローガンとする政治運動に発展しつつあった。すでに11月下旬に、東京商業会議所が増師反対に動き始めると、全国各地の商業会議所がこれに呼応し、増師反対実業団なども組織された。さらにこ12月に入ると、政友会の院外団や地方支部も次々と増師反対声明を発表、また国民党は党としては動かなかったが、12月8日の同党千葉支部大会では、犬養毅が政友会以上の敵は「憲法政治の遂行を妨害する」「閥族」であると演説しており(『東京朝日新聞』大正元年12月9日)、犬養一派は、政友会と提携して桂内閣と対決する方向に動き始めていた。そしてこうした動きは、新聞記者などによって媒介されながら、大衆的な「憲政擁護運動」の流れを生み出していった。
12月16日に明治座で開かれた政友会大演説会は、開会前に満員締切りとなる盛況であり、ついで19日の歌舞伎座での第一回憲政擁護大会では、政友会から尾崎行雄、国民党から犬養毅、新聞記者代表として本多精一が演説しているが、会場の模様は、「会する者総て3千余名、政治家、実業家、新聞記者、学生、車夫、露店商人、各種の階級が其心に記する所は顔色に現れ拍手に響き、開会に先立って剣気既に堂に満てり」(『東京朝日新聞』大正元年12月20日)と報ぜられていた。こうした大衆的熱気は、第三〇回議会に向かって高まっており、運動の第一線に立つことのな かった原敬も、17日の日記には「目下政友会に対する全国の人気旺盛なり、他日衰ふる事もあらん、去りながら今ウカと妥協等によりて人気を落さば正反対の結果を見るべし、是れ大に注意すべきことなり」(前掲『原敬日記』第三巻 273頁)と記しており、次の議会では桂内閣打倒に進まざるをえないことを覚悟していた。
(4)第三〇回議会、停会で始まる
第三〇回議会が召集されたのは、大正元年12月24日であり、第三次桂内閣はまだその3日前に成立したばかりであった。内閣側は、予算編成には7週間が必要であるとして、この日、両院議長に対し慣例となっている 2年1月20日までの年末年始の休会を2月5日まで延期することを求め、議公側に拒否されているが、これは休会明けの議会を停会とする伏線となっていた。結局議会は慣例どおり12月27日に開院式、翌日に全院委員長・常任委員の選出を行っただけで休会に入り、1月21日再開されることとなったが、護憲派は27日の開院式後に、院外団や新聞記者を含めた憲政擁護連合会を開き、「1、本会は、閥族打破憲政擁護の国論を発揮せんが為め、各地方に交渉し、政党政派の異同を問はず連合大会の開催を促す事、2、本会は、衆議院解散の場合に於て、各地連合会に加盟したる代議士の再選を期する事」(木堂先生伝記刊行会編『犬養木堂伝』中巻 22〜23頁)と決議して、議会休会中に運動の組織化を図ろうとしていた。
年が明けると、千葉、長崎、滋賀、茨城、群馬、大阪、宮城、静岡、山梨、山形、広島、鹿児島、埼玉などの各地から、憲政擁護県民大会などと銘うった集会のニュースが伝えられ、東京でも、演説会、懇親会、院外団大会、記者大会などさまざまな形で、運動の拡大が図られていたが、議会再開前日の1月20日、桂首相が自ら政党を組織すると発表したことは、護憲運動との対立を抜き差しならないものとすることとなった。
政友会では、再開冒頭の議場に、所属代議士全員の連名によって「内閣ノ措置並政綱ニ関スル質問主意書」を提出し、趣旨弁明演説に元田肇を立てることを予定していたが、2月4日まで15日間の停会を命ずる詔書が交付され、結局この日の本会議は開かれずに終わった。内閣側は、予算書の印刷が間に合わないための処置だと弁明したが、この間に新党組織による護憲派の切崩しをねらうものであることはあきらかであった。この日午前中すでに国民党では、大石正巳、片岡直温、箕浦勝人、武富時敏、島田三郎ら5名の領袖が、新党参加のため脱党届を提出しており、翌日さらに10名が続いている。
桂は政党組織に乗り出すにあたって、新党には「中央倶楽部は勿論、国民党よりは改革派の全部と合同派より 某々等数名、政友会よりは某々等80余名来投の約あり、一挙にして絶対多数を得べきは明白なり」と語ったと伝えられている(林田亀太郎『日本政党史』下巻 203頁)が、実際には、中央倶楽部と国民党の半数を獲得したが政友会からは数名を得られたにすぎなかった。政友会では、1月24日の第二回憲政擁護大会には最高幹部の一人松田正久が出席し、また桂派と通じたとみられる日向輝武、早川鉄冶らを除名するなどして態勢を整え、停会明けの2月5日の議場 には、最大限の勢力を示した。原敬は「我党員は伊藤要蔵病気にて欠席(転地中)せし外は214名悉く出席、長谷場、菅原の如き病人も着席せり、壮快なりき」と記している(前掲『原敬日記』第三巻 285頁)。
(5)詔勅論争
大正2年2月5日には午前中の貴族院本会議に続いて、午後からは衆議院本会議が開かれ、桂首相の施政方針演説と若槻蔵相の財政演説が行われたが、その中心は予算問題におかれていた。すなわち、内閣成立以来、予算編成の余裕がなかったため前年度予算をそのまま提出したが、その執行の過程で「年額5000万円乃至6000万円ノ節約ヲ目的トシテ、経費ノ節減及事業ノ繰延ヲ行ヒマシテ、之ニ基イテ諸般ノ計画ヲ立テゝ以テ、大正3年度ノ 予算ヲ編成致シテ、次期ノ帝国議会ノ協賛ヲ求メルコトヲ期シテ居ル」(若槻演説)ことを強調したものであった。
しかし野党側は、予算以前の問題として、桂内閣の成立過程、とくに詔勅の問題に焦点を合わせていた。この日の衆議院本会議の冒頭では、先の1月21の本会議に提出されたままになっていた「内閣ノ措置並政綱ニ関スル質問主意書」に対して、政府からの書面による答弁が出されているが、桂が組閣の大命とともに受けた詔勅および斎藤海軍大臣に留任を求めた詔勅はだれが奏請したのか、という質問に対しては、「答弁ノ限ニ在ラス」と 回答を拒否していた。
そこであらためて「質問主意書」についての趣旨弁明に立った元田肇は、従来の質問については、政府の書面答弁をふまえて詔勅問題にしぼり、また新たな問題として、桂の新党結成を取り上げた。まず詔勅については、「憲法五十五条ニ於テモ法律詔勅等ニ付テハ国務大臣が副署ヲシテ其責ニ任ズル」と規定されており、また「国務大臣ノ副署セザル事柄ニ付テノ詔書勅書」については、「皇室令ノ第四号ニ内大臣ニ於テ常侍輔弼ノ責ヲ有シ、而シテ其事ニ与ルコト」になっている、「故ニ内大臣ニアラザレバ国務大臣、総理大臣が必ズ副署シ、詔書勅書ノ出タモノニ付テハ其大臣が真ニ任ジナケレバナラヌ」のであり、問題の詔勅の奏請者について答えるのが当然ではないかと詰め寄った。また新党問題については、立憲的政党をつくろうとする桂が、先日のごとく開会もされないうちから議会を停会にするのは理解できないし、政党をつくるのならまず野に下ってからにするのが立憲主義ではないかとただした。
これに対して桂は、新党については、自分のやり方で差支えないと答えるにとどまったが、問題の詔勅については、「畏レナガラ、陛下ノ御直キニ仰聞カサレマシタモノデゴザイマス、元田君ハ副署奏請ト云フ御質問デアッタヤウデゴザリマスルガ、是ハ元田君ノ如キ賢明ナル御方ニハ此区別ニ付キマシテハ、能ク御分リニナッテ居ルデアラウカト考ヘルノデゴザイマス、勅語デゴザイマス」と答弁している。その内容は明確ではないが、詔勅と勅語とを区別し、勅語では「副署奏請」の問題は起こらないとするものと理解され、とすれば、勅語の責任は、天皇にあることになるはずであった。なお、憲法五五条の条文は、「国務各大臣ハ天皇ヲ輔弼シ其ノ真ニ任ス、几テ法律勅令其ノ他国務ニ関ル詔勅ハ国務大臣ノ副署ヲ要ス」というものであった。
この桂の答弁を不満とした政友金側は、ただちに内閣不信任案を提出したが、その内容は元田が取り上げた2点を中心とする次のようなものであった。
|
「内閣総理大臣公爵桂太郎ハ大命ヲ拝スルニ当り屡々聖勅ヲ煩シ宮中府中ノ別ヲ紊リ、官権ヲ私シテ党与ヲ募リ又帝国議会ノ開会ニ際シ濫リニ停会ヲ行ヒ又大正二年一月二十一日本院ニ提出シタル質問ニ対シ至誠其真ヲ重スルノ意ヲ昭ニセス、是レ皆立憲ノ本義ニ背キ累ヲ大政ノ進路ニ及ボスモノニシテ上皇室ノ尊厳ヲ保チ下国民ノ福祉ヲ進ムル所以ニ非ス、本院ハ此ノ如キ内閣ヲ信認スルヲ得ス」 |
この不信任案の趣旨弁明に立った尾崎行雄の演説は、「玉座ヲ以テ胸壁トナシ」という部分で有名となったものであったが、内容からいえば次のような詔勅論の方が重要であり、それはまた後に第六七回議会で問題となる天皇機関説に通ずるものであった。
|
「唯今枝公爵ノ答弁ニ依リマスレバ、自分ノ拝シ奉ッタノハ勅語ニシテ、詔勅デハナイガ如キ意味ヲ述ベラレマシタガ、勅語モ亦詔勅ノ一デアル(「ヒヤく」)、而シテ我帝国憲法ハ総テノ詔勅−国務ニ関スルトコロノ 詔勅ハ必ズヤ国務大臣ノ副署ヲ要セザルベカラザルコトヲ特筆大書シテアッテ、勅語ト云ハウトモ、勅諭ト云ハウトモ、何ト云ハウトモ、其間ニ於テ区別ハナイノデアリマス(「ノウく」「誤解々々」ト呼ブ者アリ)、若シ然ラズト云フナラバ、国務ニ関スルトコロノ勅語ニ若シ過チアッタナラバ、其責任ハ何人が之ヲ負ウノデアルカ(「ヒヤく」拍手起ル)、畏多クモ天皇陛下直接ノ御責任ニ当タラセラレナケレバナラヌコトニナルデハナイカ、故ニ之ヲ立憲ノ大義ニ照シ(「勅語ニ過チガアルトハ何ダ」ト呼ブ者アリ)、立憲ノ大義ヲ辨ヘザル者ハ黙シテ居ルベシ、勅語デアラウトモ、何デアラウトモ、凡ソ人間ノ為ストコロノモノニ過チノナイト云フコトハ言ヘナイノデアル(拍手起ル)、是ニ於テ憲法ハ託送チノナキコトヲ保証スルガタメニ(「勅語ニ過チトハ何ノコトダ、取消セく」ト呼ブ者アリ、議場騒然)、憲法ヲ調ベテ見ヨ(「不敬ダく」ト呼ブ者アリ)、……総テ天皇ハ神聖ニシテ侵スベカラズト云フ大義ハ国務大臣が其責ニ任ズルカラ出テ米ルノデアリマス(拍手起ル)、然ルニ枝公爵ハ内府ニ人ルニ当ッテモ大詔已ムヲ得ザルト弁明シ、又内府ヲ出デヽ内閣総理大臣ノ職ヲ拝スルニ当ッテモ、聖意已ムヲ得ヌト弁明スル、如何ニモ斯ノ如クナレバ桂総理大臣ハ責任ガ無キガ如ク思ヘルケレドモ、却テ天皇陛下ニ責任ノ帰スルヲ奈何セン(拍手起ル)、……彼等ハ常ニロヲ開ケバ直チニ恵愛ヲ唱へ、恰モ忠君愛国ハ自分ノ一手専売ノ如ク唱ヘテオリマスガ、其為ストコロヲ見レバ、常ニ玉座ノ蔭ニ隠レテ、政敵ヲ狙撃スルガ如キ挙動ヲ執ッテ居ルノデアル(拍手起ル)、彼等ハ玉座ヲ以テ胸壁トナシ、詔勅ヲ以テ弾丸ニ代ヘテ政敵ヲ倒サントスルモノデハナイカ」 |
尾崎はさらに、桂が総理大臣の地位に立ってから政党を組織しようとしている点をとらえて、「先ヅ政党ヲ組織シ、与論民意ノアルトコロヲ己ノ与党ニ集メテ、然ル後内閣ニ入ル」のが立憲主義ではないかと批判した。
桂首相はこれに対して、問題の勅語は「憲法第五十五条ニ依り副署ヲ要スルモノニアラザルコトヲ云フノデアリマス、又必シモ奏請ヲ待ツモノデナイト云フコトヲ言フノデアリマス、大命ヲ奉ズル者が其責ニ任ズルハ勿論ノコトデアルト云フコトヲ言フノデアリマス」という短い答弁をしただけであった。そして桂の答弁が終わった ところで、不信任案の処理をそのままにして、再び5日から9日まで5日間の停会を命ずる詔書が下されたのであった。
(6)大正政変―桂内閣総辞職
この日すでに桂首相は、衆議院の解散理由書を用意しており、翌々7日の閣議では、政友会が不信任案に固執すれば衆議院を解散する方針が決定されたと伝えられた(『東京朝日新聞』大正2年2月8日)。しかし首相はなお妥協の道を求め、かつて西国寺内閣の閣僚だったこともある加藤高明外相を介して政友会側と折衝、8日午後に西園寺総裁との会談を実現させた。そこで桂は、「目下議会に現はれたる内閣不信任案によれば自分が内閣に立ちたる事を不可とするものにて政策の為めにあらざるが如し、是れ甚だ不本意の事なり、何とか緩和の途なきや」として不信任案の撤 回を求めたのに対して、西園寺は「夫れは困難なるべし、去りながら折角の話なり、又議会の問題に付、原、松田に相談の上にて返事すべし」と答えたという(前掲『原敬日記』第三巻 286頁)。
しかし政友会もここまできて妥協するわけにはいかなかった。西園寺は翌9日朝加藤を通じて、桂の申出を拒否する旨回答したが、この報を受けると早連桂首相は参内、その結果、午後には西園寺が参内を求められ、「諒闇中、政局紛糾ノ状アルハ、朕ノ軫念ニ堪ヘザル所」との勅語を下されることになった。西園寺はこの勅語が具体的には、「目下議場にある不信任案を如何にかせよ」という意味であることを、内大臣府出仕伏見宮貞愛親王に確認してもらっている。
西園寺はこの勅語に従う態度を示したものの、政友会内部はむしろ逆に、「桂が聖旨を仰ぎて議会を押へ又西園寺を毒殺するものとして、憲政上忍ぶべからざる事として党員大に憤激」(前掲『原敬日記』第三巻 287頁)する有様となった。次 の10日には、停会明けの衆議院本会議が午後1時から予定されていたが、その朝、山本権兵衛が桂に辞職を勧告した後で、政友会本部に西園寺を訪れ、桂に辞職の意志あることを告げた。このことにも力づけられて、政友会の大勢は、とりあえずこの日の議会を休会にしようとする原敬ら幹部の思惑を振り切って一挙に不信任案を可決しようとする方向に動いていった。本会議直前の政友会代議士会では、西園寺は自分は勅語に従わねばならないと述べたが、党員には慎重な考慮を求めるにとどまっていた。代議士会は全会一致で既定方針どおり行動することを決議して、議場に乗り込んでいった。
すでに憲政擁護運動は大衆をとらえており、2月5日にも「潮の如き群衆、議院を包囲す」(『東京朝日新聞』大正2年2月6日)という状況がみられたが、この日はそれを上回る大群衆が押し寄せており、政府が3000の警官と三箇小隊の騎馬憲兵を配備して対抗したことからも、その緊張感をうかがうことができる。この状況をみた大岡衆議院議長は、総理大臣室に桂首相を訪ね、政府がここで解散すれば、激昂した民衆は血をみなければおさまらず、それが端緒になって、内乱が起こるかもしれないとして、強く総辞職を進言した。黙然としてこれを聞いていた桂は、しばらくして「よろしい」といって席を立ち、閣僚に辞職の決意を告げて辞表を書くよう指示したという。同席していた若槻蔵相は、「実に突然であった」と回顧している(若槻礼二郎『古風案回顧録』198頁)。この日の議会は結局開会されず、とりあえず、12日まで3日間の停会とされたが、この議会になって3度目の停会に憤慨した群衆は、夜に至るまで、 政府系新聞社や交番を襲撃して荒れ狂っていた。
翌2月11日、桂内閣は総辞職した。成立以来わずか53日目のことであり、この内閣のもとで聞かれた議会 は、実質的には2月5日の2時間ばかりにすぎなかった。当時内閣の交替は「政変」と呼ばれたが、この政変はその後「大正政変」といわれるようになった。それはひとつには、第二次西園寺公望内閣の総辞職から含めて「大正初次の大政変」(小林雄吾『立憲政友会史』第三巻の表現)とするとらえ方を基礎としているが、その上に、護憲運動の大群衆に囲まれたこの政変を、明治にはみられなかった新しい型の政変とみる感覚が重ねられていたことであろう。
3山本内閣とシーメンス事件へ |