(1)第二次若槻内閣の成立
前議会での無理な登院がたたったのか、浜口首相は、議会終了1週間後には再び容態が悪化し、4月4日には再入院し、翌日手術したが成功せず、9日に3度目の手術を余儀なくされている。もはや首相がその任に耐ええないことは明らかであり、10日の閣議では、総辞職の方針が決定された。そして同時に、民政党側は、早急に後継総裁を決定し、次の内閣をも引き受けようとして動き始めた。総裁の選び方については、党員議員による公選が叫ばれたり、あるいは、安達内相擁立の運動が起こされたりしたが、結局、すでに首相の経験のある若槻礼次郎が総裁に推された。
当時の元老西園寺公望は、テロによって政権が移動することに反対であり、かつて原敬首相が暗殺されたとき、 高橋是清を後継者として、政友合内閣を存続させたように、今回も後継総裁が首相として不適任でなければ、天皇に対して民政党総裁を次の首相に推薦するであろうとみられていた。そして西園寺はその期待どおりに若槻を推薦し、4月14日、第二次若槻内閣が成立することとなった。したがって、この内閣は、浜口内閣の延長であり、すでに辞意を表明していた宇垣陸軍大臣のほかには、俵商工大臣、松田拓務大臣の2大臣が更迭されただけで、他の閣僚は留任している。陸軍大臣には、参謀次長・朝鮮軍司令官を歴任して軍事参議官の職にあった南次郎大将、商工大臣と拓務大臣には、それぞれ衆議院から、桜内幸雄と原脩次郎が選任された。また内閣書記官長には、法制局長官だった川崎卓吉が横滑りし、法制局長官には、衆議院から武内作平が抜擢されている。なお若槻首相は、貴族院勅選議員であり同和合に属しているが、4月11日には、ロンドン条約締結の功により、男爵を授けられている。
(2)軍部との対立
第二次若槻内閣はまず、前内閣以来の財政難に直面しなければならなかった。すでに3月の年度来には、不景気による税収不足のため、4800万円にのぽる歳入欠陥が明らかになっており、それは当面は、震災善後公債法に基づく公債発行によって補填することになったが、新年度においても、歳入の激減が予想され、それに対応するためには大幅な歳出の節減が必要とされた。そしてそのため、新内閣は、発足早々から財政・行政・税制にわたる大規模な整理の必要を掲げて調査に乗り出した。
これは当時、「三制整理」とか「三大整理」などと呼ばれ、与党からも省庁の廃合をはじめとするさまざまな案が出されたが、結局当面の対策としては、前内閣で成功しなかった官吏減俸案が、再び持ち出されることになっ た。しかし5月16日の四相会議(若槻首相・江木鉄相・安達内相・井上蔵相)で、月給50円以上の者につき2分より1割に至る減俸案が決定されたと伝えられると、司法官をはじめ、鉄道省・逓信省などの現業部門で激 しい反対運動が展開された。とくに鉄道省では、全職員が辞表を提出するという事態にまで発展し、政府も結局、 減俸の範囲を月給100円以上に縮小するなどの妥協を余儀なくされた。この結果、当初2400万円と見積もられた減俸額は、988万円にすぎなくなった。それに対して、この年度の歳入不足額は、所得税・酒税の各2000万円減をはじめ、8000万円に達するであろうとみられ(『東京朝日新聞』昭和6年6月7日)、新しい財源として、陸軍軍縮が注目されるようになった。
すでに十大政綱のひとつに「軍備縮小の完成」を掲げた浜ロ内閣は、ロンドン条約による海軍軍縮と並んで、陸軍軍縮をも実現しようとし、宇垣陸相は内閣成立直後に、軍制調査会を設置している。しかし調査会の審議は容易に進展せず、軍縮の期待に応えるよりも、節減した費用で装備の充実を図ろうとする方向をたどっていた。5月1日から3日にかけて開かれた陸軍三長官会議(陸相・参謀総長・教育総監)で、小磯国昭軍務局長が調査結果を報告し、三長官が討議しているが、陸軍側の態度は、「軍縮を断行し経費を節減することは到底困難」とし「もし政府側にして強ひて経費の節減を要求するときは陸軍側は職を賭しても争ふ意気込み」であると報ぜられた(『東京朝日新聞』昭和6年5月2日)。
こうした陸軍の動向が明らかになってきても、与党の民政党では、軍縮への要求は強まっており、同党行政整理委員会は、三箇師団の削減・歩兵旅団を廃止し一師団の歩兵を三連隊制とする・陸・海軍省を合併し国防省とする、などの案を決定している(『東京朝日新聞』昭和6年6月23日)。しかしこのとき、陸軍部内では、軍縮どころではなく、満蒙侵略の方向に動き出していた。4月に参謀本部が作成した「情勢判断」には(1)張学良に代わる親日政権の樹立、(2)満蒙独立国家の建設、(3)満蒙の占領・領土化という3案が示されており、翌5月には関乗車参謀石原莞爾中佐は「満蒙問題私見」において「謀略ニヨリ機会ヲ作製シ軍部主動トナリ国家ヲ強引スル」(角田順編『石原莞爾資料 国防論策編』78頁)という満州事変への構想を示していた。
さらに7月2日、長春北方で、朝鮮人入植者が現地農民とが衝突するという万宝山事件が起こったが、これに対して、朝鮮では中国人に対する報復暴動が広がり、また南京では、国民政府がこの事件について正式に抗議、満蒙をはじめ中国各地で、排日運動が起こるというように事態が拡大してゆくと、政友会・右翼勢力などがいっせいに幣原外交批判・対満蒙強硬論を展開し、こうした動きは、先にみたような軍部の動向を力づけることになったと思われる。新聞も、「最近陸軍は現内閣の施設を快しとせず、事毎に反抗的態度に出てゐる」(『東京朝日新聞』昭和6年8月3日)と報じているが、8月4日の軍司令官・師団長会議において南陸相は、満蒙方面の情勢が重大化していることを指摘するとともに、「妄りに軍備の縮小を鼓吹し、国家国軍に不利なる言論宣伝を敢えてする」「謬論を是正」 (御手洗辰雄編『南次郎』218頁)しなければならないと訓示した。そして8月17日、偵察のため興安嶺に潜行していた中村震太郎大尉らが、中国軍に逮捕・殺害されたことが公表されると、満蒙についての世論はいっそう軍部に同調してい った。こうした情勢をとらえた関東軍は、いよいよ「謀略」による満州侵略に踏み切ってゆくことになる。
(3)満州事変と犬養内閣の成立
9月18日午後10時すぎ、関東軍は奉天駅北方の柳条湖で自らの手で満鉄線を爆破し、これを中国軍の仕業と称して、たちまちのうちに奉天(洛陽)をはじめ、直接の関係のない営口・鳳凰城・安東など南満州の主要都市を占領し、満州事変の口火を切った。
政府は当初、関東軍の出兵は追認したものの、不拡大方針をとって早期撤兵を実現し、国際的孤立を避けつつ、中国との交渉に入ろうとする方針を堅持していた。これに対して、陸軍中央部には、要求貫徹までは出兵態勢を維持すべきだとする意向が強かったが、関東軍側は、露骨な領土化は無理とみたが、個別的な要求や利権の確保ではなく、より広範な植民地化をめざし、傀儡的な独立運動の発展を意図した。そして東京では、これを支援するためのクーデター計画が進行していた。
元老西園寺公望の秘書で情報収集係の原田熊雄は、10月「11日には陸軍の動きや、森(恪、政友会幹部)の言ふ、例の非常に大きなクーデターが来る、といふような話をあちこちできいた」(前掲『西園寺公と政局』第2巻 91頁)と述べているが、すでに政界上層部には、三月事件についての情報も流布し始めており(原田は8月2日にその情報を得た)、この新たなクーデターの噂に大きな衝撃を受けたに違いない。橋本欣五郎中佐らが中心となり、民間右翼も参加したこのクーデター計画は事前に発覚し、17日には橋本ら十数名が検束されて未遂に終わったが(「一〇月事件」と呼ばれる)、しかしその衝撃は、政治の流れを変えるには十分であった。
すでに柳条湖事件直前の9月10日には、閣内の行政整理推進の中心となっていた江木鉄相が病気で辞任し(後任は原拓相、拓相は首相の兼任)、また事件直後の9月21日に、イギリスが金本位制を離脱したことは、日本の政界にも、政策転換の空気を生じさせることとなっていた。こうした背景のもとで、内相として一〇月事件に関する情報を最も入手しやすい立場にいた安達は、より軍部に接近した立場での政界再編成を企て、10月10日 に与党幹部と協議したうえで、翌日、若槻首相を訪れ、外務、陸軍が不一致の如く伝へられることは不利益であるから、首相は今後更に両者の調和に努め、強硬な態度を示されたい」、また満州事変を中心とする政局不安に対しては「政府としては不安一掃のため、最善の方策を講ずる必要がある」と申し入れた(『東京朝日新聞』昭和6年10月12日)。安達はさらに10月下旬には、若槻に対し、次の議会を一党で乗り切ることは困難であるとし、「この際英国流に犬養(政友会総裁)を首班にして、協力内閣でこの難局を乗り切ったらどうか」と提議し、若槻もこれに賛成したという(前掲原田『西園寺公と政局』第2巻 139頁)。
しかしこの安達の協力内閣論は、若槻内閣の外交・財政政策の転換を図り、軍部と妥協しながら、政権の一角を保持しようとするものであり、幣原外相や井上蔵相が反対するのは当然であった。民政党出身の他の閣僚も、「殊更反対党に譲るべき政治的理由がない」(『東京朝日新聞』昭和6年11月20日)として反対に回り、若槻首相も翻意して安達に再考を求めたが、安達は逆に、民政党顧問富田幸次郎を動かして、政友会幹事長久原房之助との間に、協力内閣についての覚書きを成立させた。そして富田が、12月10日若槻首相にその実現を迫ったところから、政局は一挙に急転することとなった。すなわち、富田との会見後、若槻はさっそく、与党出身閣僚を招集して対策を協議したが、協力内閣論を唱える安達と、現状維持を主張する他閣僚との対立は解けず、翌11日、若槻は、安達の辞任を求めたが拒否され、同日夕刻、閣内不統一を理由として、内閣総辞職を決行したのであった。
この過程をみると、協力内閣運動が若槻内閣を倒したともいえるが、安達が民政党内の少数派であったのと同様に、これに呼応した久原も党内の合意を得ていたわけではなく、政友会主流も単独内閣を主張しており、協力内閣論が、次の局面をリードする力はなかった。元老西園寺公望も、天皇に対して、次期首相として政友会総戴犬養毅を推薦し、12月13日犬養内閣が成立することとなる。そして同じ日、安達、富田をはじめ、中野正剛・風見章・杉浦武雄ら協力内閣運動に参加した10名が民政党を脱党している。
犬養内閣は、陸・海・外三相以外の閣僚には政友会員をあてたこと、蔵相に長老の高橋是清を引き出したこと、 陸相に青年将校の人気を集め、いわゆる革新派の中心人物と目されている荒木貞夫を受け入れたこと、などが大きな特徴であった。荒木は翌年2月にかけて、参謀次長に真崎甚三郎、陸軍次官に小磯國昭という人事を実現させ、「満州建国」を支持する軍中央部の体制を整えた。海相には、横須賀鎮守府司令長官大角岑生を、外相には、田中内閣時代の中国駐在公使で駐仏大使の芳沢謙吉をあてることとしたが、帰朝までは、首相の兼任とした。
政友会では、衆議院からは、総理大臣犬養毅、内務大臣中橋徳五郎、文部大臣鳩山一郎、農林大臣山本悌二郎(前回落選)、商工大臣前田米蔵、逓信大臣三土忠造、鉄道大臣床次竹二郎、拓務大臣秦豊助、内閣書記官長森恪、法制局長官島田俊雄が、貴族院からは、鈴木喜三郎(勅選・研究会)が司法大臣に任命されているが、第六〇回議会で辞職して、次の衆議院選挙に立候補している。また元総裁・首相の高橋是清はこのときは引退しており、 議席をもっていない。
(4)第六〇回議会の解散と第一八回総選挙
犬養内閣はまず、親任式直後の初閣議で、金輸出再禁止の措置をとり、金本位制を離脱することから施策を始めたが、本格的な政策転換のためには、解散・総選挙によって、少数与党の状態を脱することが必要であった。
第六〇回議会は、昭和6年12月23日に召集され、26日の聞院式ののち、27日に貴衆両院とも「陸海軍将圭ニ対スル感謝決議」を可決しただけで、翌年1月20日まで年末年始の休会に入った。休会明けの21日午前10時から聞かれた貴族院本会議では、首・外・蔵三相の施政方針演説が行われたが、これに対してまず柳沢保恵(伯爵・研究会)の緊急質問が賛成多数で認められた。柳沢は、1月8日午前、一朝鮮人が桜田門外で、天皇の車をねらって爆弾を投じた事件(被害は宮内大臣の車を損傷したにとどまる)を取り上げ、犬養首相が閣僚の辞表をまとめて提出しながら、天皇から「時局重大なるが故に留任せよ」として辞表を下げ渡されると、そのまま留任してしまったのは、かつて大正12年12月の虎の門事件における同様の事態に際して、強硬に辞職を 主張して第二次山本内閣を総辞職させた犬養逓相の態度からみれば「不可解」であると追及した。しかし犬養は「修練ニ於ケル心境ノ変化デ、修練ヲ積ンデ行ク間ニハ心境ノ変化ハ是ハ自然デアリマス」とかわしていた。ついで前蔵相井上準之助(勅選・同成会)も緊急質問を認められ(起立では判定できず記名投票の結果、賛成179対反対142となる)、金輸出再禁止をめぐって、高橋蔵相と論争を展開している。午後の衆議院本会議では、施政方針演説が終わったところで解散詔書が伝達された。
総選挙の投票日は、前回総選挙と同し2月20日とされたが、この解散から投票までの間は、上海における日中両軍の軍事衝突が起こり、日本側は、中国軍の強力な抵抗の前に、本格的な陸軍部隊の投入を余儀なくされてゆく過程であった。上海事変と呼ばれたこの衝突は、無頼の中国人を買収して、日本人僧侶を襲撃させた日本側の謀略から始まったものであり、国際都市・上海に眼を向けさせ、ハルビンなどの北満への侵攻作戦や満州国建国工作への国際的関心をそらそうとしたものであった。
ともあれ、選挙期間中の新聞は連日、北満や上海での戦闘、「満州国」の母体としての東北行政委員会(委員長・ 張景恵)の結成、などの記事に大きな紙面を割いており、こうしたマスコミの動きは、これまで対外強硬論を唱えてきた政友会に有利に働いたと思われる。さらに民政党にとっては、同党選挙委員長として活躍していた前蔵相井上準之助が選挙運動のさなかに、右翼青年に暗殺された(血盟団事件)ことは、大きな痛手であった。
選挙の結果は、予想を上回る政友会の圧勝であり、定員466名のうち303名を獲得、貴族院議員を辞職して立候補した鈴木喜三郎も、神奈川二区から初当選を果たしている。民政党は、144名にとどまり、無産政党は5名を維持したが、前議会で活躍した大山郁夫は立候補せず、次議会召集の前日、3月17日アメリカに向け出発し、以後、第二次大戦後まで日本に帰らなかった。また大正12年以来、実業同志会・国民同志会を率いて活躍してきた武藤山治が立候補を断念し、1月24日の国民同志会役貝会で同会の解消が決定されたことは、中間的小政党を維持することの困難さを示すものであった。
(5)第六一回議会、臨時会として召集
総選挙後の特別議会は、通常議会の召集手続によるため、早くても投票日の2か月後でなければ開くことができず、憲法も5か月以内に召集すればよいと規定していた(45条)。犬養内閣も、当初は、選挙スローガンとした産業五カ年計画を盛り込んだ実行予算を編成してから、特別議会を召集するつもりでいたが、満州事変費・上海事変費が問題化したため、早期に議会を召集することが必要となってきた。
すなわち、これまで事変費の支出は、枢密院の審査を経て緊急勅令による財政処分(議会の事後承認が必要)として行われてきたが、総選挙が終わったにもかかわらずこの方式を続けようとする内閣側の態度に枢密院が反発し、選挙が終わった以上、3月中にも臨時議会を問くべきだと強く主張した。内閣も結局枢密院の意向に従うこととし、召某日3月18日、会期5日の臨時会として、第六一回議会を召集することとなった。
したがって、この議会は、満州事変に対するこれまでの支出と、公債に頼るという調達方式を追認することを おもな目的としており、政府から提出され成立した法律案も、「満州事変ニ問スル経費支弁ノ為公債発行ニ関スル法律案」1件だけであった。この間、3月1日には満州国建国宣言が出され、9日には薄儀の執政就任式が行われており、また役割を終えた上海事変は停戦交渉に入っていた(5月5日停戦協定成立)。つまり、すでに満州事変から満州国へという方向は既成事実となっており、議会でも、この方向への批判はまったくみられず、したがって、事変費に関する議案は、討論なしに即決可決されている。財政に関しては、公債依存によるインフレヘの危惧が問題とされていたが、その反面、外交に関しては、中国や国際連盟に対する強硬政策、満州国の早期承認など、軍事費の増大を結果するような論議が中心となっていた。
この議会では、絶対多数を背景として、政友会から議長に秋田清、副議長に植原悦二郎が選出されたが、彼らはこれまでの慣行を無視して、党籍を離脱しなかった。この慣行は、大正14年の第五〇回議会の決議以来守られてきていたが、秋田議長は、かつての決議は希望決議にすぎず、議長が厳正公平に職務を尽くすか否かは党派への所属とは関係がないとつっぱねた。これに対して、民政党側は「現任議長及副議長ハ院議ヲ尊重スヘシ」とする決議案を提出したが、3月24日の本会議で否決されている。
この議会のもうひとつの特徴は、テロヘの警戒感がしだいに強く浸透してきたことであった。前述した井上準之助暗殺事件は、当初、単独の犯行とみられていたが、ついで3月5日、三井合名理事長団琢磨が暗殺され、その犯人の取調べの過程で、ようやくこれらの背後に、井上日召を指導者とする組織のあることが明らかとなり、それは血盟団と呼ばれるようになった。この議会の開会中は、ちょうど組織の全容が明らかにされつつあるさなかであり、彼らが元老西園寺公望をはじめとする要人の襲撃を計画していたことも報ぜられていた。
民政党側は最初、桜田門事件と血盟団事件を合わせて、治安維持の責任者である中橋内相の責任を追及する構えを示したが、中橋が病気のため登院不能となり、3月16日辞職したため、攻撃目標を失う形となった(後任には、鈴木喜三郎法相の横滑りが予定されたが、久原幹事長の反対のため、この議会では犬養首相が兼任している)。そのため、この問題は、緊急質問として取り上げられ、3月23日の本会議には民政党議員による「帝都治安ニ関スル緊急質問」が、翌24日には無産党議員による「議会否認思想ニ依ル直接行動ノ傾向ニ対スル緊急質問」が提出された。前者(趣旨弁明・武富済)は内務省の責任に、後者(同・亀井貫一郎)は経済的背景に重点をおいて論じているが、両者とも「ファッショ」の問題を取り上げている点が注目された。すなわち、武富は「此『ファッショ』派ハ政党ノ打破、財閥ノ倒壊ヲ手段トシテ、憲法ヲ否認シ、議会政治ヲ破壊セントスル、世ニモ恐ルベキ危険ノ考デアリマス」と述べているのに対して、亀井は「無産国家日本」という観点にたち「『ファッシ ョ』思想ノ根源ニ横ハル経済理論ハ、資源ヲ少クトモ国有ニ移シ、之ヲ出未ルダケ低生産費ニ持ッテ来テ、サウシテ資本家ノ利潤ヲ取ッテ、民衆ノ購買カヲ高メル統制経済ノ実現ニアリト云フナラバ、此経済思想ハ、現下ニ少クトモ重要ナル必然性ヲ持ッテ居ルモノト謂ハナケレバナラヌ」との見方を示しており、これは軍部「革新」派と提携しようとする無産政党内部のひとつの傾向を代表するものであった。
なお、この議会の閉院式が行われた3月25日、内務大臣に司法大臣の鈴木喜三郎が、司法大臣には、貴族院 から川村竹治(勅選・公正会)が任命されている。
(6)五・一五事件と政党内閣時代の終焉
第六一回議会は、当面の問題を処理するだけのものであり、そこで成立した昭和7年度追加予算にも、4月5月分の満州事件費しか含まれておらず、したがって、5月に再び臨時議会を召集することは既定の方針であった。 政府は4月19日の閣議で、第六二回議会を5月23日召集、会期2週間の臨時議会とする方針を決め、4月28日には召集詔書も交付されていた。しかしそのとき、血盟団と結んでいた海軍青年将校たちが、第2のテロを 計画していることは、まだまったく気づかれていなかった。
5月15日、古賀清志中尉らは、海軍青年将校・陸軍士官候補生・愛郷塾の農村青年・血盟団残党などからなる参加者を4班に分け、首相官邸・内大臣邸・政友会本部・警視庁・三菱銀行・変電所などを襲撃し、戒厳令の施行に導いて、国家改造の端緒をつくるという計画のもとに決起した。彼らの計画からみれば、首相暗殺以外には襲撃目標にさしたる被害を与えることができなかったが、しかし犬養首相殺害の政治的影響は深刻であった。
政友会は、事件後いちはやく鈴木喜三郎を後任総裁として、政権担当の姿勢を示したが、軍部の政党内閣反対の意向は強く、元老西園寺公望は、重臣たちの意見を聴取したうえで、海軍の長老斎藤実を次期首相に推挙した。以後、敗戦後まで政党出身者が総理大臣に就任することはできなくなり、護憲三派内閣以来の政党内閣時代は、 五・五事件の一撃によって、終止符を打たれたのであった。
坊さんと政党へ
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