『日本議会史録』3

1991年2月

印刷用ページはこちら



「翼賛体制と対米英開戦」<第76〜80回帝国議会>


写真

古屋哲夫

1新体制と第二次近衛内閣の成立
2第七六議会と翼賛会論争
3対米英戦争への道
4緒戦の勝利と翼賛選挙

3対米英戦争への道
(1)日ソ中立条約と日米諒解案

(2)翼賛会改組と議会勢力
(3)第三次近衛内閣と和戦の岐路
(4)9月6日の御前会議決定をめぐって
(5)東条内閣、開戦を決意―第七七回議会前後―


3対米英戦争への道



(1)日ソ中立条約と日米諒解案

  第七六回議会が自然休会に入ると、松岡外相は3月12日、東京駅から、ソ連および独伊訪問の旅に出発した。 彼はこのとき、ソ連との関係を改善してソ連を日独伊三国同盟の側にとり込み、実質的に四国協商をつくり上げ ることを夢みていた。この四国協商体制ができれば、アメリカに対する立場は強化され、南進対策の実行も容易 になるというわけであり、2月3日の政府大本営連絡懇談会で軍側もこの構想を承認していた。この会議で松岡 は、この旅行への出発の時期を、タイ・仏印紛争の調停の見込みがついてから、と述べているが、日本側はこの国境紛争の斡旋と引換えに、日本勢力の進出を企てていた。調停は、3月11日になってようやくタイに有利な形で実現することになり、その翌日に松岡は出発することになるのであるが、彼はこのとき、南進への足固め→ 四国協商の形成→対米交渉の開始という外交政策展開の順序を考えていたに違いない。

  すでにこのころ、ドイツが英本土侵攻をあきらめたのに対して、アメリカのイギリス支援は本格的になってお り、3月11日にはローズベルト大統領は、孤立主義、参戦回避、大統領権限の強化反対などのさまざまな立場からの反対を押さえて武器貸与法を成立させていた。この法律によって大統領は、その防衛がアメリカの防衛にとって緊要であると認めたいかなる国に対しても、防衛資材を売却・譲渡・交換・貸与することができるという大きな権限をもつことになった。ローズベルトはヒトラー主義の打倒をアメリカの安全に対する唯一の保証と確信し「民主主義の兵器廠」たることを宣言したのであった。それは対独参戦ヘ一歩踏み出したことを意味した。

  こうした事態に対して松岡は、四国協商体制の成立を急務と考えたが、しかし他面では、ローズベルトとも親 しくアメリカに多くの知人をもつ元外相野村吉三郎海軍大将を駐米大使に起用(2月11日ワシントン着任)し、 また3月23日シベリア鉄道を経由してモスクワに到着すると、アメリカの駐ソ大使スタインハートと会談するなど、彼なりに対米交渉のための手を打っていた。しかしこのときすでに、松岡の構想の前提である独ソの友好関係は崩れていた。独ソ関係は東欧や北欧をめぐって悪化しつつあり、3月27日から29日にわたって松岡と会談したドイツ側首脳は、もはや四国協商案には興味を示さず、むしろ日本がイギリスとの戦争に参加し、シン ガポールを攻撃するよう求めていた。さらにまた大島浩駐独大使も、松岡に対して、独ソ関係の悪化について警告したといわれる。しかし松岡は自らの構想に固執していた。

  ドイツ、イタリア訪問の後、再び4月7日にモスクワにあらわれた松岡は4月13日になってようやく日ソ中立条約の調印にこぎつけることができた。同条約は、日ソ両国の一方が、第三国の軍事行動の対象となった場合 には、他の一方はその紛争の全期間にわたって中立を守る、という点をおもな内容とするものであり、四国協商の構想とはほど遠いものであったが、松岡はこれで次の対米交渉にとりかかれると考えていたことであろう。し かし4月22日に日本に帰着してみると、彼のあずかり知らない形での日本交渉が進展しており、彼は大いに憤慨することになるのであった。

  前年11月、アメリカからウォルシュ神父とドラウト神父が教会関係の仕事で来日したが、彼らは同時に、反共と反英的孤立主義の立場から日米関係の改善をも意図しており、近衛の友人で産業組合中央金庫理事の井川忠雄を通じて、近衛首相や陸軍省軍務局長武藤章少将、同軍事課長の岩畔豪雄大佐との接触に成功した。昭和16 年1月に帰国した両神父は、郵政長官ウォーカーの仲介を得て、ローズベルト大統領、ハル国務長官と懇談、さ らに2月には井川、3月には岩畔が渡米して、日米協定案の作成に参加した。そして4月9日には「日米諒解案」 が成立しているが、その内容はアメリカ側が求めていた日本の三国同盟離脱の項を削除し、アメリカの満州国承認を加えるなど、岩畔の修正によって、著しく日本に有利なものに変えられていた。

  たとえば、「欧州戦争ニ対スル両国政府ノ態度」の項目には、日本政府は三国同盟の目的は防御的で欧州戦争への新たな国の参戦を防止することにあることを明らかにし、アメリカ政府は、同戦争への態度を自国の福祉と安全についての考慮だけから決定することを声明すると記され、両者は矛盾しないものとして並列されている。また日中戦争に関しては、日中間の協定による日本軍の中国撤退、領土の非併合、非賠償、蒋政権と汪政権との合流、満州国の承認などの条件で、アメリカ大統領が和平の斡旋に乗り出すこと、さらに東南アジアに関しては、日本が武力に訴えない代わりに、アメリカは日本がこの地方から石油・ゴム・錫・ニッケルなどの戦略物資を獲得するのを支持し協力することなどを規定し、ホノルルでのローズベルト・近衛会談をも予定するものであった。

  この「日米諒解案」について、ハル国務長官は野村大使に対し、日本政府が、領土保全、内政不干渉、機会均等、太平洋の現状維持の四原則を受け入れたうえでこの案を承認し提案するならば、交渉の基礎となしうるであろうと述べたが、野村は四原則の問題に触れずに、ハルがこの案による交渉に賛成したとして日本政府に打電した。このため日本側では、この案をアメリカ政府の提案とみる傾向が強かったが、ハルは、同意できる点も承認 しがたい点もある試案と考えていたにすぎなかった。「日米諒解案」が東京に到着したのは4月18日であったが、近衛首相も軍部も日中戦争解決の手がかりとして この案で日米交渉を始めることに乗り気となった。しかし帰国した松岡外相は、自分を除外したルートによるという点だけでなく、基本的には三国同盟を基礎におこうとしていないという点で不満であった。

  松岡は5月12日になって「諒承案」に対する修正案を野村大使に送ったが、それはわざわざ三国同盟による軍事援助義務の発動について確認する項目を加え、また日中和平についての条件を全部削除して、代わりに近衛対華声明・南京政府との日華基本条約・日満華共同宣言などをもち出し、さらに東南アジアに対する「武カニ訴フルコトナク」という規定を削除するというものであり、アメリカ側を強く失望させるものであった。しかしハルはなお、日米交渉を続けておくことを利益と考え、6月21日、松岡の修正をさらに修正したアメリカ案とともに、「政府ノ有カナル地位ニ在ル日本ノ指導者中ニハ国家社会主義ノ独逸(ナチス)及其ノ征服政策ノ支持ヲ要望スル進路ニ対シ抜キ差シナラサル誓約ヲ与へ居ルモノアルコト」(外務省編『日米交渉資料』第一部 87頁)を非難する口上書を野村大使に手渡した。

  この「日本ノ指導者」が松岡をさすことは明らかであり、憤慨した松岡はこの口上書を「政府改組、態度変更ヲ根本的ニ要求スルカ如キ殆ト其ノ例ナキ」「不都合ナル文書」(前掲『日米交渉資料』第一部 100頁)として、アメリカ側に突き返すことを命じているが、もはや松岡が外相である限り日米交渉が進展しないことは明らかであった。松岡と「日米諒承案」に期待する近衛との関係は急速に悪化していった。  この時期には、近衛内閣はすでに、統一的な体外政策を立てがたい状態に陥っていたといってよい。したがって平時ならば、内閣は議会勢力によって強くゆさぶられていたことであろう。しかしこの時期には、議会勢力の関心は、大政翼賛会の改組と自らの組織の再編に向けられたままであった。



(2)翼賛会改組と議会勢力


 第七六回議会が法案審議を終えて休会になると、政府も翼賛会改組問題に本格的に取り組むこととなった。この問題については、衆議院側からは、大政翼賛会の名称の変更、中央協力会議の廃止などのほか、部局制に代えて委員会制とし、これまで翼賛会の中心となっていた事務局を委員会の決定を執行するだけのものに格下げするなど、翼賛会を議会勢力を脅かさないような存在にしようとする修正意見が出されていたが、これに対して軍部は、翼賛会の骨抜きに反対し大政翼賛運動の強化を提唱するなど、それに反発する動きを示していた。

  こうしたなかで、政府の改革案は、翼賛会が議会で批判されたような政府から離れた独自の政治力をもちえなくするように、政府との「表裏一体性」を強化することに力点をおくものとなった。すなわちそれは、一方では批判の対象となった企画局、政策局、議会局などを廃止し、他方では、総理大臣を総裁とするこれまでの体制に加えて総裁を補佐する副総裁をおき、閣僚でない場合には無任所大臣に任命して内閣との関係を強化するという形も構想されていた。

  自然休会後にあらためて第七六回議会閉院式が行われた3月26日には、入閣したばかりの柳川平助法相が副総裁兼任に内定したことが報ぜられたが、それは新体制運動以来の推進力となってきた有馬頼寧事務総長以下の事務局幹部の総入替えと、「経済新体制」に関連した閣僚の更迭を前提とするものであった。有馬の後任には、内閣調査局調査官の経験もあり平沼内閣では蔵相を務めた石渡荘太郎が起用された。

  大政翼賛会の改組は4月2日に発表されたが、新しい機構は副総裁のもとに、事務総長が率いる本部事務局(総務局、組織局、東亜局、中央訓練所)と地方支部とを軸とする全国組織、10の専門委員会からなる調査委員会というふたつの系統の組織をもつこととなった。このうち総務局長には内務省社会局長の熊谷憲一、組織局長には前内総務次官の挟間茂が就任し、翼賛会と内務官僚の関係が緊密となったことを示した。

  翼賛会改組に対応して、4月2日にまず、住友本社総理事の小倉正恒が、経済対策の総合的展開を支援するためとして、無任所大臣に任命された。小倉は翼賛会側の住友銀行からの融資依頼に対して「翼賛会は赤だ。銀行家のあいだでは、融通してやらぬということにきめているのだと、けんもほろろにうけつけなかった」(風見章『近衛内閣』233頁)と伝えられているが、そのような小倉の登用はこの時期の近衛内閣の方向を示すものであった。

  その翌々日、4月4日になると「翼賛会=赤」論のもととなった「経済新体制要綱」作成の責任者星野国務大臣兼企画院総裁と、その批判者小林商工大臣の双方が更迭され、興亜院政務部長の鈴木貞一陸軍中将が国務大臣兼企画院総裁に、海軍次官豊田貞次郎海軍大将が商工大臣に任命された。陸海軍の現役将官が経済閣僚の地位を占めることははじめての事態であったが、要するにこの内閣改造は、小倉無任所相によって財界の意向を取り入れながら、豊田・鈴木両相によって、経済の軍事化を進めようとする姿勢を示したものといえよう。

  ところで、この翼賛会改組と内閣改造を通じて、翼賛会の議会に対する影響力が弱められたことは確かであっ た。かつての大多数の議員を組織した議会局は廃止され、代わって登場した調査委員会のなかに、衆議院議員86名、貴族院議員30名が委員として含まれたものの、もはや翼賛会の側から議会を規制することは不可能であ った。言い換えればそれは、政治結社=政党が復活できる条件が生まれたということでもあった。

  前年に政治結社東方会を思想結社に改組して翼賛会常任総務に就任した中野正剛は、こうした翼賛会の状況に失望し、3月7日には常任総務を辞任すると同時に、政治結社東方会の復活を届け出たが、政府も当面はこれを 受理して、監視するにとどめるほかはなかった。このとき中野は、「翼賛会は行政といふものに大きく附いてゐる、われわれは行政に先行すべき政治を行ふために野陣を布くのだ。……例へばわれわれが南方をやるべしと叫ぶ、 翼賛会はそのためには節米せよ、無駄を排せよといふ、先行といふのはその意味だ。……そのためには檻のふたを取って外へでなければならぬ」(『朝日新聞』昭和16年3月8日)と語っている。この中野の言い方を借りれば、議会勢力は翼賛会の檻から自由になったということになるが、政党復活の動きは容易にはっきりした形にはならなかった。

  たとえば、改組前の翼賛会で局長・部長・副部長などの地位にあった太田正孝、船田中、村松久義、赤松克麿、河野密らが中心となり、5月29日、28名を集めて時局研究会を結成しているが、その活動は政治的主張を表面に出さない懇親なものにとどまっていた。全体としてみても、議員集団は近衛内閣や翼賛会に対する態度などによって、いくつかに分かれる動きをみせているが、表面では政治的立場にかかわらない「調査」や「研究」が活動の中心におかれていた。まず5月23日、貴族院議員全員で貴族院調査会を組織し、省別を基準とした部会を設けて、議事準備のための調査研究を行うという方針が決定されると、6月6日衆議院でも同様な組織として衆議院調査会が結成された。この両院の調査会は戦後まで存続しているが、こうした調査・研究が活動の目的とされるという状況は、議会勢力の側からは独自の政策が打ち出せなくなっていることを示すものであった。



(3)第三次近衛内閣と和戦の岐路


 日米交渉が行き詰まっていた6月22日、今度はドイツ軍が独ソ不可侵条約を破ってソ連に侵攻を開始するという事態がもち上がった。以後の数週問、ドイツ軍は文字どおりの破竹の進撃を続けた。この独ソ開戦は、第二次犬戦のひとつの画期をなすものであったが、日本の側からみれば、三国同盟以来の松岡外交を根底から突き崩すものであった。近衛首相は、日本とドイツの交通が遮断された以上三国同盟は現実的な効用を失ったと考えた し、鈴木貞一企画院総裁や伊藤述史情報局総裁らは、近衛に三国同盟破棄を進言したという(深井英五『枢密院重要議事覚書』203頁)。

  この事態に対して松岡外相は、ドイツに呼応してソ連を攻撃すべきだとの態度に転じ、軍部の要求する当面の南進政策に反対するに至った。しかし軍部は独ソ戦を南進への好機とみて、松岡の主張を抑えて、7月2日の御前会議で南部仏印進駐を含む「情勢ノ推移ニ伴フ帝国国策要綱」を決定にもち込んだ。この「要綱」で注目すべ き点は、「南方進出」という目的達成のためには「対英米戦ヲ辞セズ」との態度を明確にしたことであった。ソ連に対してもひそかに武力的準備を整え、「独ソ戦争ノ推移帝国ノ為有利ニ進展セハ武カヲ行使」するという方針が出されたが、その場合でも「対英米戦争ノ基本態勢ノ保持ニ大ナル支障ナカラシム」ることを条件としており、「対英米戦争」の準備を基本におくことが強調されていた。この決定に基づき、関東軍特種演習(関持演)の名目で85万人の人員と膨大な武器・資材が朝鮮・満州方面に動員されたが、結局対ソ武力行使は発動されることなく終わっている。

  ところで「対英米戦モ辞セズ」とは、何があっても南部仏印進駐は強行するという意思表示にほかならず、政府も軍部も実際には、アメリカとの戦争は回避したいと強く望んでいた。近衛首相も独ソ開戦という事態のもとでは、三国同盟の意義を低めても、日米交渉を進めるべきだとの考えを強めていたが、そのためにはまず、松岡外相を退陣させなければならないことはだれの眼にも明らかになっていた。

  近衛首相は自ら選んだ松岡外交を否定するために、7月16日内閣総辞職の道を選んだ。天皇は内大臣木戸幸一に後継首相の選定を命じ、木戸は翌17日午後、重臣(枢密院議長および首相経験者)会議を招集したが、近衛以外の候補者は見出しえなかった。「近衛さんでなければ駄目ですよ」との米内光政元首相の発言(『木戸幸一日記』下巻 892頁)が、この会議の空気を示しているように思われる。以後は同日夕刻、組閣の大命は近衛に下され、翌18日 夜9時には親任式が行われるというスピードで第三次近衛内閣は成立していった。

  前内閣の閣僚のうち、陸軍・東条、海軍・及川、文部・橋田、農林・井野、逓信・村田、企画院・鈴木の6名 が留任、無任所大臣であった小倉正恒が蔵相に、代わって平沼騏一郎が副総理格で、柳川平助は翼賛会副総裁としてそれぞれ内務・司法から無任所大臣に移った。このほか、内務には国本社時代から平沼を支えてきた田辺治通、商工には海軍次官の経験があり、退役後は北樺太石油会社社長として苦労していた海軍中将左近司政三、厚生には陸軍軍医中将で厚生省創立にかかわり、他面精神家とも評された小泉親彦、司法には7月25日になって(それまでは首相兼任)、検事総長岩村通世が任命されている。この組閣のひとつの特徴は、政党出身閣僚が姿を消したことであるが、「金光、小川、秋田ら政党出身大臣の留任には、軍部が反対していた」(矢部貞治『近衛文麿』下巻 320頁)といわれる。

  しかしこの組閣のなかで、近衛首相がもっとも重視したのは、松岡に代わる外務大臣であり、結局豊田商工大臣を横すベリさせているが、この起用について近衛は「豊田氏は嘗て海軍次官まで勤めて海軍の事情に精通するのみならず、最近は商工大臣として物資問題を取扱った関係上、此際日米の衝突は極力回避せねばならぬといふ主張の支持者である」(近衛文麿「平和への努力」『昭和戦争文学全集』別巻 49頁)ことを強調し、この外相の交代によって日米交渉が打開されることに大きな期待をかけたのであった。しかし、南部仏印進駐は、この期待と矛盾する政策であった。

  すでに7月12日、松岡外相は、ドイツの従属下にあるフランス・ヴィシー政府に対して、南部仏印への日本軍の進駐、空軍・海軍基地の使用などの要求を提出し、日本時間7月20日中に回答を取りつけるよう加藤外松大使に訓令を発し、14日から交渉が始められていた。ついで豊田新外相はこの方針を受け継ぎ、就任の翌19日には、回答期限を23日とする最後通牒を発した。ヴィシー政府は屈伏して21日この要求を受け入れ、日本軍は28日から上陸を開始している。

  この南部仏印進駐に対してアメリカ政府はきわめて厳しい対応を示した。在米野村大使は7月23日「当方面ノ対日空気急変ノ原因ハ南進ニ在リ、而シテ南進ハ軈テ新嘉坡、蘭印二進ム第一歩ナリト認ムルニ在リ」とし、 その結果アメリカの対日政策は「国交断絶一歩手前迄進ムノ惧大ナリ」(前掲『日米交渉資料』第一部 124頁)と打電してきているが、続いて会談したウェルズ国務次官からは、日米交渉の基礎は失われたとするハル長官の通告を突きつけられている(前掲『日米交渉資料』第2部 164頁)。

  さらにアメリカ政府は、ヴィシー政府の屈伏が明白になると、7月25日在米日本資産の凍結を発令、翌日から日本国民のいっさいの金融、貿易業務を許可制のもとにおいた。イギリス、カナダ、蘭印当局もこれに同調して28日、日本資産を凍結し、蘭印はさらに日本との石油協定をも停止した。ついでアメリカ政府は8月1日、 石油の対日全面禁輸を実施するに至り、以後日本の軍部、とくに海軍には石油の備蓄かおるうちでなければ戦争はできないとの意識が強まることになるが、陸軍も8月9日には、対ソ武力行使を行わないことを決定、対南方作戦の準備に転じている。

 アメリカ側もすでに日本との戦争を不可避とみていたが、軍事的準備のためにもその時機をできるだけ引き伸ばしたいと考えており、7月24日野村大使と会談したローズベルト大統領は、日本の仏印からの撤兵を条件とする仏印中立化案を提示していた。アメリカの経済断交に苦慮した日本側は、とりあえずこの中立化案への回答によって日米交渉の行詰りを打破したいと考え、日本側対案を8月6日野村大使よりハル長官に提示した。しかしその内容は、日本が仏印以外の南西太平洋地域に進駐しないこと、「支那事変解決」後に仏印から撤兵すること を約束する代わりに、アメリカは、南西太平洋における軍事的措置を停止し、日本がとくに蘭印において原料物資を入手できるように協力し、蒋介石との和平を斡旋し、撤兵後も仏印における日本の特殊地位を承認することを約束するというものであった。ハルはこれでは問題にならないとし、8日には、仏印進駐の取消しを求める大統領の提議への回答を見出し難いとして正式に拒否した。事態は戦争の一歩手前まで切迫してきていた。



(4)9月6日の御前会議決定をめぐって

 この間近衛首相は、この危機的状況を打開するために、自らローズベルト大統領と直接会談することを決意し、8月4日陸海両相に合意を求めたうえ、8月7日豊田外相より野村大使にアメリカ側の意向を打診するよう訓令が発せられた。これに対して8月17日、ローズベルトは日曜日にもかかわらず野村大使を招き、ハルも同席のうえ、ふたつの文書を手交した。第一の文書は、大統領の中立化提議にもかかわらず、日本が仏印占領を続けていることを指摘するとともに、日本がこれ以上軍事的支配拡大のための措置をとる場合には、アメリカ政府は必要と認めるいっさいの手段を講ずるというものであり、外交の慣例からいえば「戦争の警告」ともいうべきものであった。これに対して第二の文書は、日本政府が膨張主義的活動を停止し、アメリカ政府が唱えてきた基本的原則に適合するような平和的プログラムの立案を希望し、実行するならば、7月の南部仏印進駐で中断された日米交渉を再開する用意があること、日米首脳会談にも原則的に同意することなどを表明しており、第一の文書の厳しさを緩和する内容となっていた。

  日本側の回答は、8月26日の大本営政府連絡会議(前内閣まで首相官邸で聞かれていた大本営政府連絡懇談会が廃止され、この内閣のもとでは、宮中で大本営政府連絡会議が開かれることになった)で、近衛首相のロー ズベルトあてメッセージとともに決定され、28日にアメリカ側に通告された。それはいくつかの問題に触れながらも、日本政府がアメリカ政府の原則に適合するような平和的プログラムの立案に同意するものであったが、日本側としては、むしろ近衛首相のメッセージのほうに力点をおいていたと思われる。そこには「先ツ両首脳者直接会見シテ必スシモ従来ノ事務的商議ニ拘泥スルコトナク大所高所ヨリ日米両国間ニ存在スル太平洋全般ニ亘ル重要問題ヲ討議シ…細目ノ如キハ首脳者会談後必要ニ応シ事務当局ニ交渉セシメテ可ナリ」(前掲『日米交渉資料』第一部 198頁)と述べられているように、日本側は、ともかくも近衛・ローズベルト会談を開くことで、行詰りを打開しようとしたのであった。

  しかしアメリカ側は、日本側が大統領を追い込んで一般的な声明を発表させ、それを自己の都合のよいように解釈運用することを恐れていた。したがってローズベルトが9月3日に野村大使に手渡した近衛メッセージヘの返書では「基本的且枢要ナル諸問題ニ付速カナル予備的討議」(前掲『日米交渉資料』第一部 236頁)の必要を強調するに至り、またそれに付されたアメリカ政府の口上書は、4月16日にハル長官が提示した四原則(領土保全、内政不干渉、機会均等、太平洋の現状維持)を再度引用して注意を喚起するものであった。原則問題に同意する姿勢を示して、ともかくも首脳会談にもち込もうという日本側の作戦は完全に拒否された形となった。

  こうして、南部仏印進駐以来の日米交渉の行詰りが打開できないでいる間に、軍部のなかからは、対米交渉に見込みのないことがはっきりした時点では、対米戦争に移行せざるをえないとの考え方が台頭してきていた。そして、本格的な戦争準備のためにはまず開戦を決意することが必要であるとされ、それと関連して外交交渉のタイム・リミットをどう設定するのか、といった問題が、8月中ごろから陸海軍部局長会議などで論議され、「帝国国策遂行要領」という形にまとめられていった。

  そして9月6日の御前会議にかけられた同要領はまず、「帝国ハ自存自衛ヲ全ウスル為、対米(英蘭)戦争ヲ辞セサル決意ノ下ニ慨ネ10月下旬ヲ目途トシ戦争準備を完整ス」とし、そのためには、外交交渉が「十月上旬ニ至ルモ尚我要求ヲ貫徹シ得ル目途ナキ場合ニ於テハ直ニ対米(英蘭)開戦ヲ決意ス」というタイム・リミットを設定したものとなっていた。

  近衛首相はじめ日本政府側はこの期限である10月上旬までに、日米首脳会議を実現したいと考えていたが、しかしこの間にアメリカ側の態度はしだいに硬化してきていた。とくに日本側がアメリカに日中間の橋渡しを期待しながら、和平交渉や和平条件には容喙させまいとする態度には反発を強めており、9月11日発の野村大使の電報は、アメリカ側が日本軍の中国からの撤兵や防共駐兵問題を強く取り上げるようになってきていることを 報じている。

  これに対して日本側は、9月13日の連絡会議では日中和平基礎条件(防共駐兵を含む)、9月20日には総合整理案を決定しているが、これまでに比べて新味はなく、豊田外相はむしろ、首脳会談の実現についての働きかけに力を入れた。アメリカ側はこうした日本側の動きを見送っていたが、10月2日になってようやく、ハル長官は野村大使にアメリカ政府の覚書を手渡した。それは9月6日に受け取った日本案への回答という形式をとり、あらためて四原則を掲げて、日本側はこの原則に賛成するといいながら、実際にはその適用を制限しあるいは例外を設けようとしていると批判した。そして、「不確定期間支那特定ノ地域ニ軍隊ヲ駐屯セシメントスル」日本政府の要求に異議を唱え、中国・仏印からの日本軍撤退を明確に宣言することを求めるものであった。

  もはやいままでのやり方ではアメリカの態度を変えさせることができないことは明らかであり、日本側としては先の御前会議で決定した「10月上旬」の期限に従って「開戦」を決意するか否かの岐路に立たされることになった。陸軍側は外交交渉の「目途ナシ」として開戦決意を迫ったが、近衛首相、豊田外相らは駐兵問題で譲歩すれば妥協成立の「目途アリ」として外交交渉を継続することを主張した。海軍のなかにも、それに同調する動きがあらわれていた。

  10月12日、近衛首相はこの問題の討議のために、日曜日にもかかわらず、東条陸相、及川海相、豊田外相、 鈴木企両院総裁を荻窪の私邸荻外荘に召集した。ここでは近衛、豊田が妥結の余地ありとし、及川が首相一任を 唱えたのに対して、東条は「駐兵問題に陸軍トシテハー歩モ譲レナイ、所要期間八二年三年デハ問題ニナラヌ、 第一撤兵ヲ主体トスルコトガ問題違ヒデアル、退却ヲ基礎トスルコトハ出来ヌ、陸軍ハガタガタニナル支那事変ノ終末ヲ駐兵に求メル必要ガアルノダ」(参謀本部編『杉山メモ』上巻 347頁)とつっぱねたという。翌々14日の閣議でも東条は「日米交渉の最早継続すべからざる所以を興奮的態度で力説した」が、同日夜になると、近衛に対して、海軍が戦争を欲しないようであり、そうなると9月6日の御前会議は根本的にくつがえってしまう、「比際は全部辞職して今までのことを御破算にして、もう一度案を練り直すということ以外にない」(前掲近衛「平和への努力」65、67頁)との意見を伝えてき た。

  近衛としても、東条との対立が解けない以上、日米交渉を続けるためには、東条のいうように、総辞職して御前会議決定を白紙に返すことが必要であると考えたことであろう。10月16日第三次近衛内閣は総辞職し、「開戦決意」はとりあえず先送りされることとなった。



(5)東条内閣、開戦を決意―第七七回議会前後―

 近衛内閣の次に東条内閣が成立したのは、内大臣木戸幸一の推薦によるものであった。木戸もここで対米開戦を避けるためには、最少限度、9月6日の御前会議の決定を白紙に返さねばならないと考えたが、東条陸相との話合いで、東条もまた「白紙還元」論を主張していることを確認した。そしてそれを実行するためには「軍部殊に陸軍を充分統率すると共に」「今日の事態に到達せる迄の経緯につき真に反省せる人」(『木戸幸一日記』下巻 930頁)でなければならず、そのような人物は東条以外にいないというのが彼の結論であった。

  10月17日夕刻、東条は天皇から組閣を命ぜられたが、その直後木戸内大臣からは、国策の決定にあたって は「九月六日の御前会議にとらはるゝ処なく、内外の情勢を更に広く深く検討」(『木戸幸一日記』下巻 917頁)するようにとの、天皇の意思が伝えられた。翌18日の親任式で東条内閣が成立するが、東条は同日付で陸軍中将から大将に昇任され、自ら陸相と内相を兼ねた。外相には松岡外相時代に駐ソ大使を更迭されていた東郷茂徳をあて、蔵相には第一次近衛内閣の蔵相で北支那閣発会社総裁になっていた賀屋興宣、海相に嶋田繁太郎(海軍大将・横須賀鎮守府司令長官)、商相に岸信介(元商工次官)、逓相兼鉄相に寺島健(海軍中将・浦賀船渠社長)を起用、岩村(司 法)、橋田(文部)、井野(農林)、小泉(厚生)、鈴木(企画院)の各相は留任させた。総理となった東条は、自動的に大政翼賛会総裁にも就任し、副総裁に北京新民会副会長の安藤紀三郎(陸軍中将)を指名し、無任所大臣となることを求めたが、大臣となることは固辞した。

  国策再検討を新内閣の課題とした東条首相は、11項目にわたる問題を立てて関係閣僚の検討を求め、10月 23日新内閣としては最初の大本営側との連絡会議に臨んだ。しかしメンバーの変わらない大本営側(参謀総長杉山元、軍令部総長永野修身)は、和戦についての早期の決定を要求しながら、既定方針による作戦準備をも進めており、その経費のための新たな措置も必要となっていた。11月になると「臨時軍事費は10月末にはすでに予備費もなくなっていたので、政府は緊急の経費にあてるため、11月1日および5日の2回にわたり、勅裁を経て1億9300万円の予算超過支出を行な」(大蔵省百年史編集室編『大蔵省百年史』下巻 120頁)わねばならないというところまで追い込 まれていた。東条内閣は10月24日の定例閣議で、11月15日に第七七回臨時議会を召集(会期5日間)する方針を決定した。その目的は臨時軍事費増額にあったが、日米交渉が危機的状況にあることを何も知らされていない一般国民に対しては、新内閣が国策遂行に開する決意を披瀝して国民の理解と協力を求め、同時に浮動購買力を吸収するような増税案を成立させるための議会だと報道された(『朝日新聞』昭和15年10月25日夕刊)。

  これまで日米交渉についての報道は、情報局から、8月28日に野村大使が米大統領に近衛首相のメッセージ を手渡した旨の簡単な発表がなされた(『朝日新聞』昭和15年8月30日夕刊)だけで、その後の交渉については「その内容は一般の窺知を許されずに今日に至っている」(『朝日新聞』昭和15年10月27日解説「豊田外交を顧る」)という有様であった。

  しかし日米交渉は、国民に公表される前に急速に破局に向かって進みつつあった。政府大本営連絡会議は10月24日から(26日の日曜を除いて)連日、再検討項目についての討議を続けたが、用意された項目自体、欧州戦局の見通し、開戦時期、開戦した場合の作戦・物資需給・輸送力・金融力、国際情勢への影響などを検討し、そのうえで対米要求を考えるという仕組みになっており、いわば戦争がやれれば、対米交渉を重視しないという方向をもつものとなっていた。

  項目別の討議が終わる10月30日の連絡会議で日米交渉案が議題となると、東郷外相は中国との和平後の駐兵期間を明らかにすることでアメリカとの妥協のみちを探ろうとする案を提出した。すでに前年、南京の汪兆銘政権との日華基本条約(昭和15年11月30日調印)付属議定書で、別に定める防共・治安維持などのための駐兵を除いては、戦争終結後2年以内に日本軍を撤退させることを規定していたのを受けて、駐兵地域を「北支及蒙疆ノー定地域及海南島」に限定し、この地域からは5年以内、その他の地域からは2年以内に撤兵すること をアメリカに約束しようというのが東郷外相の考えであった。これまでの日本案では、駐兵に期限があることを アメリカ側に明示したことはなく、これは明らかに対米譲歩であるというわけであった。

  しかし連絡会議では、5年どころではなく駐兵に期限をつけること自体に強く反対されるという有様となった。「参謀本部側では駐兵を期限附とする時は支那事変の成果を喪失せしむると共に、軍隊の士気を沮喪せしむる」 として強硬に反対、東条首相も鈴木企画院総裁も暗にこの意見を支持し、また嶋田海相、賀屋蔵相らは駐兵は日本人企業の維持に必要であると主張、東郷は「孤立無援の状態に陥った」という(東郷茂徳著『時代の一面』206頁)。結局東条首相が「永久ニ近イ言ヒ表ハシ方」(前掲『杉山メモ』上巻 362頁)を提議し、アメリカから質問された場合には、「二五年ヲ目途トスル」と答えてもよいということでこの案がまとめられることとなった。しかし連絡会議出席者の多くは、この25年を10年にしても、アメリカ側は受諾しないだろうとみており、東郷も翌々日には別案を提出することとなり、以後この案は「甲案」と呼ばれることとなった。

  11月1日の連絡会議の討議の結果は簡単にいえば、臥新嘗胆して戦わなければ「三年以後ニ於テハ和戦ノ機ヲ米国ニ委シ戦ハスシテ屈スルノ外ナシ」という状態に陥るが、開戦しても「三年以降米国ノ優勢ナル主力海軍 ト決戦セサルヘカラサル危険ヲ蔵ス」(前掲『杉山メモ』上巻385〜386頁)、つまりいずれも3年後には危険な状況に直面するが、 前者には打つ手がないのに対して、後者の場合には、南方を占領しその物資を取得して対応策を講ずることができるとの観点から、結果後者の案が採択されることとなった。そして9月6日の決定に代わる新たな「帝国国策遂行要領」は、(一)武力発動(開戦)の時期をこ12月初頭と定め、(二)外交交渉はこ12月1日午前0時までとし、それまでに交渉が成立するば武力発動を中止する、という点を骨子とするものとなった。

  この段階になって東郷外相は、甲案が成立しない場合には戦争を防止するためにとりあえず日米関係を南部仏印進駐と日本資産凍結以前の状態に戻すという趣旨から、次のような案で交渉を続けることを提議した。すなわち、アメリカが蘭印から日本が物資を獲得することに協力し、通商関係を資産凍結前の状態に復帰させ、石油の供給を約束すれば、日本は南部仏印の日本軍を北部仏印に移駐させるというのがその要点であったが、参謀本部側はこの案に絶対反対を唱えた。しかしここで東郷に辞職されては、また審議のやり直しとなる可能性もあり、それがもとで内閣が倒れるようなことにでもなれば、あとにどんな内閣ができるかわからないという心配から、軍部側も「米国政府八日支両国ノ和平ニ関スル努力に支障ヲ与フルが如キ行動ニ出デザルベシ」との条項を加えることで乙案を承認した。アメリカの蒋介石援助の停止を要求するこの条項をつけておけば、乙案が成立する可能性はなくなるというのが軍部の読みであった。これらの諸案を決定して連絡会議が散会したときには、すでに11月2日午前1時半に達していた。この甲乙両案を附した新「帝国国策遂行要領」は、11月5日の御前会議で正式に決定された。東郷外相は早速野村大使に交渉開始を指示するとともに、新たに来栖三郎大使をも送り込んで日本側の陣容の強化をも図った。しかし11月7日から始まる甲案による交渉がはかばかしい反応を得られないままに、政府は第七七回議会の召集を迎えることとなった。

 11月17日、貴衆両院で施政方針を行った東条首相は、対米交渉を念頭におきながら「帝国ハ実ニ悠久二千六百年ノ歴史ノ上に於キマシテ、曽ツテ見ザリシ国家隆替ノ岐路ニ立ッテ居ルノデアリマス」という強い危機感も表明した。紀元2600年祝典が開れたのはほぼ1年前、昭和15年11月10日のことであった。これに対して東郷外相は日米交渉が継続中であることに触れ、その内容は明らかにしなかったものの「本件交渉ノ妥結モ決シテ不可能デハナイト考ヘル次第デアリマス」と述べて、この交渉に一縷の望みを託していることを示していた。

  しかし議会のほうには、政府激励の名のもとに対外強硬論を競い会うような空気が充満していた。11月18日の衆議院本会議には、国策完遂に関する決議案が上程され、全会一致で可決されているが、趣旨弁明 に立った島田俊雄の演説は、

 

 「此ノ支那事変ノ完遂途上ニ横ハツテ居ル所ノ最大ノ障碍物ガ何デアルカ(「撃テ」と呼ブ者アリ拍手)、「アメリカ」ヲ主体トスル敵性国家群ノ横槍カラ来テ居ルノデアル(拍手)、……瀕死ノ状態ニアル蒋介石ノ政権ガ、今尚ホ一縷ノ命脈ヲ保ツテ居ル、其ノ頑張ツテ居ル原因ハ何処ニアルカ、蓋シ「アメリカ」ヲ中心トスル敵性国家群ノ陰険ニシテ執拗ナル後援ガアル(拍手)、ソレダケデアリマス」


   というように、その内容は反米に終始するものであった。

  この議会では、臨時軍事費38億円、一般会計5億1593万円などの追加予算案のほか、酒税等増徴法案(酒税、砂糖消費税、物品税、遊興飲食税などの間接型を平年度にして6億3000万円増徴)、産業設備営団法案(資本金4億円、政府半額出資、民間では困難な産業設備の建設・維持、遊休設備の買収活用など)、防空法改正法案(防空業務に「偽装、防火、防弾、応急復旧」などを加え、防空のための建築制限・除去などを認める)など七法案が政府から提出され、すべて原案どおり可決されており、前議会で翼賛会問題や経済新体制でみられたような政府批判の動きはまったく姿を消していた。したがって政府と議会の関係は平穏となったが、反面衆議院の議員相互の間では、新たな会派が形成され、その間の対立もあらわれるようになっていた。

  すでに翼賛会改組からこうした動きは始まっていたが、9月2日になると300名以上の衆議院議員を集めた 翼賛議員同盟(略称・翼同)が結成され、前田米蔵、永井柳太郎、大麻唯男、桜井兵五郎、岡田忠彦、田辺七六、 清瀬一郎の7名が総務に選出された。翼同は所属議員を一体として政府への協力体制を固めようとするものであったが、太田正孝、船田中らはこれを革新性のない旧政党の合同・復活として批判し、この議会では、11名で議員倶楽部を結成している。また10月8日に三国同盟の強化を主張して国策貫徹議員同盟を結成したグループ は、院内では26名の興亜議員同盟として活動することとした。このほか、前議会で翼賛会違憲論の先頭に立っ た川崎克や鳩山一郎一派が中心となり、35名を集めた同交会があり、尾崎行雄や、社会大衆党の片山哲、鈴木文治らも参加していた。そしてこれらの小会派が、334名の圧倒的多数を擁して議会運営を独占しようとする翼同に反発する局面もあらわれていた。

  翼同は、施政方針演説への質問をやめた前議会のやり方に代えて、一人の代表を立てて、政府を支持激励するような質問を行うこととし、質問者を小川郷太郎とした。これに対して同交会と興亜議員同盟も安藤正純、杉浦武雄を立て代表質問に加わろうとしたが、翼同は11月17日の本会議で小川の質問が終わると、施政方針演説への質問を終局とする旨の動議を提出し、307対77で同交会らの要求を封じ込めてしまった。しかしこうした対立も内閣の動向に影響を与えるものではなかった。

  この議会が聞かれている間に、日米交渉も大詰めを迎えた。11月15日来栖大使がアメリカに到着し、17、18日野村大使とともにローズベルト大統領、ハル国務長官と会談したが、甲案による交渉はまったく進展せず、20日には東郷外相は乙案による交渉に移るよう指示した。しかし乙案はアメリカ側からみれば、アメリカが日本資産凍結を解除し日本に石油も供給し、蒋介石政権への援助を中止しなければならないのに、日本は南部仏印から北部仏印に軍隊を移動させるだけにすぎず、この軍隊は1日2日でただちに南部仏印に復帰することができるのであり、これでは事実上アメリカの降伏に等しいと感じられた。

  11月26日、ハル国務長官は野村、来栖両大使に、新しいアメリカ案(「ハル・ノート」と呼ばれる)を手渡 した。それは、先の四原則に、通商における無差別待遇など経済関係の五原則を加えた相互宣言案と、10項目の両国政府のとるべき措置についての規定からなるものであったが、後者には、日本政府は中国・仏印からいっ さいの軍事力・警察力を撤収すること、両国政府は重慶の国民政府(蒋介石政権)以外のいかなる政府をも支持しないこと、などの条項が含まれており、それは4月の日米諒解案以来の日米交渉のなかで、もっとも厳しい内容となっていた。この案を受け取った東郷外相は「眼も暗むばかりの失望に撃たれた」(前掲東郷『時代の一面』238頁)という。

  11月29日の政府大本営連絡会議を経て、12月1日の御前会議では、11月5日決定の「帝国国策遂行要領」に基づく日米交渉が不成立に終わったことを確認し、「帝国ハ米英蘭ニ対シ開戦ス」(前掲『杉山メモ』上巻 545頁)との決定が行われた。翌12月2日、大本営は開戦日を12月8日と決定している。

4緒戦の勝利と翼賛選挙